SILENT HILL ……5


 ふふん、と樫井は傷一つない、あの可愛い顔で笑った。
 その体には傷一つ、服には染み一つない。完全に、初めて会った時の、彼のままだ。
 俺は訳が分からなくなり、だらりと両手を垂らし、全身弛緩しきったまま、彼を見つめ続けた。
「何だよ、俺の顔に何か付いてんのか? そんなにじろじろ見るなよ」
 組んだ足のつま先が、だらしなく揺れているのを見ながら、俺はよろよろと鉄格子に歩み寄った。
「樫井……さん…。あの……三角頭のあいつに………」
 すると、樫井は得意げに鼻を鳴らした。
「ふん、大丈夫だって。俺は逃げ足は早いんだからな」
 逃げた? 俺は訳が分からなくなって、思わず頭を抱えてしまった。
 そんな馬鹿な。最初に背中に一太刀、更に、再び頭上から───。
 思い出すだけで、ぞっと総毛立つほど無惨に切りつけられていた彼の姿が、まだ瞼に焼き付いているというのに、あの後無傷で逃げおおせたと言うのか?
「しかし───エレベーターで……切られた傷は……」
「傷? 切られた? 何の事だ?」
 本当に知らないのか、それともそんな芝居をしているのかわからないぐらい、樫井は心底不思議そうに、きょとんと大きな目で俺を見た。
「何だよ、ぼーっとして。本当に俺が、そんな目に会ったって思ってんのか? 別の奴と間違えてんじゃねえの? あんた、俺とはぐれてから、何かあったのか?」
 ふうっと煙を細長く吐き出しながら、樫井は、まだ呆然と突っ立っている俺を伺うように見上げる。それは、あの病院の廊下で、入院患者扱いされた時と同じ目だった。
 確かに、彼は五体満足で、俺の前に居る。では、おかしいのは俺のほうなのだろうか。樫井のそんな態度を見ていると、辻褄の合わないことを言っているのが、自分のような気がしてきた。
 そうなんだろうか。俺は夢でも見ていたんだろうか。
 もしかしたら、そうかも知れない。
 いや、そうだ。そうに決まっている。
 あんな酷い事が、現実に目の前で起こる筈がないじゃないか……。
「す……すいません。ええ……そう……とんでもない夢を…見たんです……。怖い、怖い夢を……」
 ああ、良かった。あれは夢だったんだな。
 彼はここに居る。俺の前に立っている。こっちが現実なんだ。
 力無い俺の顔に、樫井は首を傾げ、困ったような笑みを浮かべた。
「子供みたいだなあ、山中は。ふふ、あんた、昔から、そそっかしかったからな」
「……え?」
 今、何て言った?
 きょとん、と目を見開いたままの俺に、樫井は楽しげに続けた。
「覚えてないのか? 3年前、ここのホテルで……あんた、忘れ物なんか、絶対にない、って言い張って、ふふ、泊まった部屋に忘れていったじゃないか。あんたが撮ったビデオテープを。今も───確か、312号室だっけ───残ってるんじゃねえの?」
 くすくすと、歳に似合わない幼い面立ちが、悪戯っぽく笑う。
 頭の中から、思考力が無くなって行くような気がする。ぐるぐると彼の言った言葉が頭の中を巡り、反射し、跳ね回る。
「何を……言ってるんです?」
 それは、紛れもなく、あの人と俺しか知らない事だ。
 何故。
 どうして。
「あなたは……」
 樫井の顔をもっと良く見ようとして、俺の額が、鉄格子にごつりと音を立てる。
「あなたは、樫井さん……………ですか?」
 鉄格子にへばりつく俺に、樫井は、しばらく昇って行く紫煙を、じいっと見つめ、少し考える素振りをした。
 そして視線を戻すと、何かを含んでいるような笑みを浮かべ、ゆっくりと言った。
「あんたが望むなら、そうだ」
 一際訳の分からない返答をされ、俺はますます混乱する。俺が望むなら? どういう意味だ?
「……あなたは……樫井さん───じゃないんですか?」
 すると、樫井は立ち上がり、こちらへと歩いてきた。鉄格子を挟み、俺達の距離が縮んでいく。
「もう、いいじゃないか……」
 そして、息が触れ合う程の距離で、彼の瞳を俺は間近に見た。聞き分けのない子供を前にしたような、哀れむような、慰めるような、その目を。
「俺は、俺だ。ほら───」
 その手が、そっと俺の頬を撫でた。暖かい。
「生きてるだろう? 本物だぜ」
「…………」
 もう、何が何だか分からない。
 この、目の前に立っている人は、誰なんだ?
 こんなに暖かくて、優しくて、俺の側に居るこの人は、何なのだ?
 しかし、俺はふうっと、緊張していた息を吐き出した。これ以上詮索しても、何の答えも出ず、余計謎が深まりそうな気がしたのだ。彼に聞いても、訳の分からない事を言うばかりだし、恐らく俺に理解出来る言葉を、与えてはくれないだろう。
 それに、何より、俺に触れてくるこの暖かかな手は、どんな言葉より強く深く、俺の心に染みいって来た。そうだ、どんな理屈をこねようと、彼はここに居る。生きて目の前に立っている。それだけで十分じゃないか……。
 ふいに、彼を抱き締めたい衝動に駆られ、俺は邪魔な鉄格子の存在を思い知った。そうだ、いつまでもこんな所に彼を閉じ込めて置いても仕方がない。
 俺は、ごまかすように顔を引きつらせながら、鉄格子に手を掛けた。どうやらここは独房のようだ。強く、鉄格子を引っ張ってみた。開かない。何度も揺さぶってみたが、結構頑丈なようだ。当たり前か。これは囚人を閉じ込めておく為のものだ。そう簡単に開く筈はない。
「ここの鍵、どこにあるんですか?」
 すると樫井は、さあ、と首を傾げた。
「じゃあ、探してきましょう。さっき看守の部屋を見つけたんです。鍵が保管されてるかも知れません」
 俺は、鉄格子を封鎖している鍵穴を見て、鍵番号を確認すると、その場を後にしようとした。
「ちょっ、山中!」
 すると、樫井は立ち上がり、鉄格子から俺の腕を掴んだ。
「どこへ行くんだ? 俺を置いて行くのか?」
 大きな目が、不安に揺れている。もう、何度この目に見つめられただろう。俺の良く知る、これと同じ目をした人からは、決してこんな風に見られたことなどないのだけれど。
 俺は、そっとその手に自分の手を重ねた。こうして、この人を宥めていると、俺は俺自身が癒されていくのを感じていた。あの人を最後まで守ることが出来なかった、不甲斐ない自分を、忘れられる為かも知れない。
「大丈夫ですよ。すぐ帰って来ます。ちょっと待ってて下さい」
「嫌だ! ひとりなんて絶対嫌だ! 山中、ここに居てくれ!」
 本当に艦長と正反対だなあ、と俺は、ストレートに感情を露わにする樫井を苦笑して見つめた。ころころと良く変わる表情も、新鮮だ。もっとも、あの人の場合は、感情が読めない為に振り回されてしまうのだが。
「すぐ戻って来ますから…」
 俺は、何度もそう言い募った。やがて、幾度目かの言葉に、やっと樫井は渋々と手を離した。
「必ず───必ず、迎えに来てくれるんだな?」
「約束します。必ずです」
 恨めしそうに、しばらくはじいっと上目遣いで俺を睨んでいたが、やがてそっぽを向いて、脇の寝台へ背中から寝転がった。
「早く、帰って来いよ!」
 少し拗ねているらしい。背中を向けてそう言われ、俺はますます苦笑を深め、『分かりました』と言って、その場を後にした。
 彼から離れることに、不安を全く感じない訳ではない。しかし、これだけ頑丈な独房の中まで、入って来れる者は居ないだろう。ふと、あの『処刑人』の姿が脳裏を掠めるが、さしものあいつでも、独房に守られている彼には手を出せないだろう。
 それから、殆ど走るに近いペースで、俺は元来た道をひた走った。彼が、俺を待っている。早く戻ってあげなければ。
 程なく、看守の部屋に辿り着いた。俺は弾んだ息も整えず、室内をひっくり返した。
「!」
 引き出しの奥から、じゃらりと鍵束が出て来た。すかさず鍵番号をチェックすると、目当ての番号の鍵が、あった。
 俺は、すぐに部屋を飛び出した。早く、彼を鉄格子から出してあげよう。そして、その体を抱き締めて、俺達はこんなに近くに居るんだと、安心させてやろう。
 こんなに充実した気分は、久し振りだ。羽でも生えたような気分で、彼の待つ独房へと、俺は駆けつけた。
 梯子を、階段を降り、俺はやっと息を落ち着けた。こんな、全身で息せき切って走ってきた姿を見られるのも、何となく気恥ずかしかったからだ。きっと、また鼻で『ふふん』と笑われるに違いない。
 数度深呼吸して、俺は柔らかい足取りで、扉を開けた。
「お待たせし───」
 次の瞬間、俺の周りを取り巻くすべてのものが、時間を止めたように思った。
 鉄格子は、既に開いていた。だが、俺の全身を息までも止めたのは、その事ではない。
 寝台には、彼が横たわっていた。最後に見た時と同じ向きで、敷布に寝ていた。
 今は、血だらけの敷布の上に。
「……」
 俺の手から、鍵束が滑り落ちた。固い金属音が独房の中で木霊するのを、どこか遠くで聞きながら、俺は、ゆっくりと歩み寄り、鉄格子をくぐった。
 近くに寄って、確認するまでもなかったかも知れない。シーツを濡らす夥しい血糊は、既に彼が死んでいることを、如実に物語っていた。しかし、俺は彼の側に立った。
 無惨、という言葉は、この光景の為にあるのではないだろうか。それ程、変わり果てた樫井は、余すところ無く全身を切り裂かれていた。骨まで見えている傷も多数ある。もう光を宿さない目が、薄く開いて、うつろに照明を反射していた。
 そして、俺はぼんやりと見た。彼の唇が、何かを叫ぼうとしていたかのように、開かれているのを。
 この唇の形は。

『やまなか』

 俺の膝が、一気に力を失い、その場に落ちた。
 殆ど無意識の内に、俺は血だらけのシーツにしがみついて、体を支えた。何かに縋らなければ、このまま深い地底の奥底へと、俺の体が沈み落ちていくような気がしたからだ。
「………あ」
 発作のように、俺の腹がびくりと波打ち、すぐにそれは叫びになった。
「あああああぁぁあああぁ!」
 絶叫が独房を駆け抜け、俺の膚までも震わせる。しかし。俺は叫んだ。叫び続けた。
 シーツの上に突っ伏した俺の頬を、生暖かい血が濡らす。いや、暖かいどころではない。これは───熱い。
 熱い、この雫は……。
 俺は、顎をぽたぽたと伝う透明なものに気付いた。涙だった。
 艦長を永遠に喪ったその時ですら、せき止めていた涙が、次から次へと溢れ出す。
「ああ───あああぁぁ……っ」
 もはや叫びなのか、嗚咽なのか、分からなかった。
 しかし俺は、喉を、肩を、いや全身を震わせ、身を捩らせた。
「艦長……」
 長い長い苦鳴の末に零れた、押し殺したような俺の呟きが、独房の壁に吸い込まれていった。



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