SILENT HILL ……4




 一歩、前へ進む度、ひやりと湿った闇が、全身にまとわりついてくる。
 往路もそう思ったが、もうどれぐらい曲がってきたか分からない。まるで漆黒の迷宮だ。この陰惨な闇の中、頼りになるのはライトの光と、握り締めているこの華奢な手だけだ。
 2人とも無言だった。真後ろの彼は、今にも押し潰されそうな不安に、苛まれているのだろう。握り返してくる手は、緊張と恐怖の為か、汗でいっぱいだった。
「樫井、さん? 大丈夫ですか?」
 俺は、余りの怖がりように、少しでも安心させようと、とうとう口を開いて彼を振り返った。
「……、ふん、カンチョウって呼べば良いだろ」
 しかし、口を利けば、何という事はないただの闇だった。ようやく慣れた蓮っ葉な口調が返ってきた事に、俺は笑った。
「貴方を艦長とは呼べませんよ。艦長はもっと、穏やかで知的で、決して弱音なんか吐かない立派な方でしたからね」
「何だよそれ! 俺は騒がしくて無知で、弱音吐きまくってる根性無しだって言いたいのか?」
「それだけ自覚があれば、無知の部分は取り消して良いかも知れません。安心して下さい」
「どういう意味だよ!」
 そんな他愛ない遣り取りが、底のない闇に響き渡る。不思議と、怖さは薄らいでいた。
 俺は、このまま2人で、俺を待つあの人の所に行くのも良いな、と思い始めていた。きっと艦長は、驚かれるに違いない。その時どんな顔をされるか、今から楽しみだ。
 ふいに平気な気分になって、先を行く足に力が入る。そうだ、悪夢のような非道い世界だけれど、この先には艦長が俺を待っていてくれるし、この人だってずっと側に居る。そう思うと、安心出来た。
「一体、この地下は何なんだろうなァ」
 自分達の歩いている長さに、呆れたように樫井は溜息を付いた。煙草を吸おうとしているのか、ごそごそと身体をまさぐる気配も伝わってくる。大分調子が戻ってきたらしい。
「さあ…それは───」
 言いかけた俺の言葉は、ぶうん、と大きく空気を切る音と、彼の悲鳴でかき消された。
「あああぁぁあっ!」
 がきいいん!
 弾かれたように振り返った俺は、その場に立ち竦んだ。
 足下に血溜まりを作りながら、樫井は、俺の手だけを支えにやっと立っているという状態だった。
 そして、その後ろに立つ男。大きな鉈を握り締め、三角形の重そうな兜越しに樫井を見つめる酷薄そうな眼は、紛れもない、あのアパートで出会った奇妙な破壊者だった。
 しまった、こいつは近付いてもラジオが鳴らないのだ。間近で鉄錆びた赤黒い兜と向き合い、その異様な姿を目の当たりにして、俺は息を飲んだ。
 しかし、呆然としている場合ではなかった。そいつが、再び大鉈を握り直し、振りかぶったのだ。
「樫井さん!」
 俺は悲鳴に近い絶叫を上げ、樫井の手を思い切り引っ張った。
 がきいいぃいん!
 果たして、樫井の居た辺りにけたたましい音を響かせて、大鉈が打ち下ろされた。
 彼の体を胸に抱くと、痛々しい傷が、鮮血を零しながら背中に走っていた。いきなり背中を切りつけられたのだろう。
「走れますか?」
 俺が聞くと、樫井は青い顔で、それでもこくんと頷いた。
 不気味な男は、再び鉈を握り直していた。しかし、見た目通り、あの武器は相当重いのだろう。こいつの体格は、ほぼ俺と同じぐらいのようだ。腕力にはそこそこ自信のある俺でも、あの大鉈は、そう自在に動かせるものではない。もしこいつが、俺と筋肉の付き具合も同じなら、一撃を繰り出すのに若干の猶予が必要だろう。
 今の内だ。俺は樫井を抱えるように走り出した。
 それから一体、どれだけ走ったのか分からない。追われている恐怖の為だろう。少なくとも時間的な感覚は完全に狂っていた。幾つの角を曲がったのかも分からない。それでも俺は、傷ついた樫井の体を庇いながら、突き当たりに辿り着いた。
 そこにあったのは、降りてきたエレベーターの扉だった。
 樫井を降ろし、叩き付けるように昇降ボタンを押すと、するすると扉は開いた。助かった! 丁度この階で止まっていたのだ!
 エレベーターの中に飛び込み、俺は樫井の手を引いた。
 しかし、俺の目がはっと見開かれる。
「樫井さん!」
 樫井のすぐ後ろに、あの男が立ち、大鉈を頭上に掲げていた所だった。
「山中!」
 樫井が白い手を俺に伸ばす。俺はその手を掴み、締まりかかる扉をもう片手で押さえつけた。
「山中! 助けて!」
 大きな目が恐怖に見開き、唇は戦慄いていた。必死に俺の名前を呼ぶ声は震え、俺は胸を掻きむしられるような焦燥感に、狂いそうになる。
「樫井さん! こちらへ───樫井さん!」
「いやだ、山中! 助けてくれ! 死にたくない!」
「樫井さん!!」
「山中ぁっ!!」
 無情なほど、呆気なく、黒ずんだ銀の大鉈が振り下ろされたのは、次の瞬間だった。

 彼の唇は、俺の名前の形で凍り付いていた。
 俺を求めて。
 力を失った白い手が、自らの鮮血をまき散らす扉の向こうへ、引きずり込まれていく。
 扉が完全に閉まっても、肉を、床石ごと叩き付ける無惨な音が、俺の耳を通り過ぎていく。
 浮遊感に似た感覚を伴って箱が昇っていくのと同時に、俺の体は、ずるずるとその場に崩れ落ちた。

 

 いつ扉が開いたのか分からなかった。もしかしたら、とうの昔に開け放たれていたのかも知れない。
 どこへ行く、ともボタンを押していなかったのに、エレベーターは1階で止まったようだった。
 俺は、何をしていたんだっけ。
 俺は、何をするんだっけ。
 ようやっと、のろのろと重い首を持ち上げると、くすんだ暗い受付ホールが広がっていた。俺はそれを見ると、殆ど無意識の内に立ち上がり、歩き始めていた。
 何故俺は、こんな所を彷徨ってるのだろう。何故こんな酷い目に遭っても尚、前へ前へと進んでいるのだろう。
 ……ああ。思い出した。
 海江田艦長。
 貴方に会う為でした。
 この町のどこかで、俺を待っている貴方を、迎えに来たんでしたね。
 ええ、大丈夫です。貴方に会うまで、俺はくじけたりしませんよ。ええ、ええ、ご心配なく。ちょっと疲れただけですよ。ご存じでしょう? 俺、かなりタフなんですから。そうですよ、何があっても───何が起こっても、俺は平気ですから。
 俺は狂人のように、そんな事を頭の中で反芻しながら、よろよろと病院を出て、『歴史博物館』へと歩き続けた。そうしなければ、目の前を幾度もちらつく、俺に差し出された白い手や、俺の名前を呼ぶ恐怖に歪んだあの顔を、どうしても意識してしまうのだ。
 殆ど自棄に似た調子で、俺は手当たり次第に襲ってくる化け物を迎え撃った。ショットガンの弾倉を何度充填したか分からない。それでも尚、熱で裂けそうな砲身を構えながらふらふら歩いている俺は、きっとたがの外れた殺人狂にでも見える事だろう。
 そうやって、相変わらず濃厚な霧をかき分けるように進んでいると、いつの間にか目的の場所に辿り着いていたようだ。白く霞んで、こぢんまりとした博物館の建物が、ふいに現れた。
 そこで、やっとショットガンを降ろし、俺はポケットを探り、病院の地下で手に入れた鍵を取り出した。
 ……がちゃり。かちん……。
 鍵は見事に嵌り、錠の開く鉄音が指に伝わってきた。
 ふうっ、と俺は獣じみた溜息を吐いて、再びショットガンを担ぎ直し、扉を思い切り蹴り飛ばした。
 ばあん!
 派手な音を立て、入口扉が建物の内側へと叩き付けられる。もう一度たりとも油断してたまるものか。俺を今動かしているのは、そんな追い詰められたような気持ちだった。
 そうとも、二度と気を緩めてたまるものか。
 いつどこから出てくるか分からない、あの不気味で残忍な破壊人を、倒さない限り。
 見ていろ。今度会ったら、僅かの躊躇もしてやるものか。必ずこっちから先手を切って、殺してやる。
 俺は銃を握り締め、そうっと気配を伺いながら中へ足を踏み入れた。
 中は呆れるほど静まりかえっている。俺も息を潜め、銃を油断なく構えながらライトで闇を照らして回った。
 その時。黄色い光の輪の中に、あの三角形の兜が浮かび上がった。
「!」
 俺はすぐに引き金に指をかけた。しかし、その姿は薄っぺらで、微塵も動かず、やけに現実感の薄いものである事に気付き、改めてライトの光を真っ直ぐ向けた。
「何だ……」
 思わず、ほっと安堵の溜息を付いた。それは壁に掲げられた、大きな一枚の絵だったのだ。
(……待てよ)
 俺は照らし出された奇妙な絵に、思わず見入った。
 それは恐ろしく奇異としか言いようのない絵画である。薄く煙る霧の中、幾つも宙に吊り下げられた死体を前に、あの三角頭の男が寸分違わぬ姿で仁王立ちしているという情景を、極めて写実的に描いたものだ。
「!」
 そうだ、これだ! どこかであの姿を見たことがあると思ったら、この絵だったのだ!
『ほら、見てご覧、山中君』
 ホテルへ行くボートが、しばらく帰ってこないと聞かされたあの日。俺達は傍らにあるこの資料館で時間を潰すことにしたのだった。寂れた観光地の、取り立てて興味を引くようなもののない沿革を、ぼんやり眺めていたら、ふいにあの人がひとつの絵の前で立ち止まり、俺を振り返った。
『ここは昔、処刑場だったんだって』
 呼ばれるまま、艦長の後ろへのこのこ出かけると、彼が指さしていたのが、この絵だったのだ。
『この兜の男が処刑人だそうだよ。静かな町だと思っていたけど、結構暗い歴史があったんだね』
 絵の下に注釈があった。
 それによると、昔、ここサイレントヒルでは、霧の濃い日に丘の上で、罪人を処刑する風習があったという。
 処刑人に被せている奇妙な兜は、彼を守るため、そしてその行為が正義の下で行われていることを主張する為のものだという。
 異様に迫力のある『処刑人』の絵と歴史に、俺は重い空気を呑み込んだような気分になった。する側もされる側も、御免被りたいシチュエーションだと思ったからだ。『処刑人』が被る、この奇妙な形をした重々しい鉄の兜は、注釈の理由以外があったに違いない。それは、きっと罪人の苦悶の表情を見ない為のものなのだろう。両者にこれ程の苦痛を強いる『処刑』。こうまでして償わなければならない罪とは、罰とは、一体どんなものなのか。
 俺は、数百年前、霧の丘で処刑が行われる光景を想像した。恐らく『サイレントヒル(静寂の丘)』という地名は、処罰される罪人達の悲鳴が消え果てた瞬間、重く立ちこめた静寂から由来されているのだろう。
 ふと、そんな3年前の気味の悪い回想を思い出して、俺は身震いした。馬鹿な、ではあの樫井を殺した『処刑人』は何者なのだ? あいつは数百年も前から生き続けているというのか?
 いいや、そんな事が現実にある筈がない。しかしこの現実離れした、化け物達の徘徊する悪夢に近い霧と闇の街を、今正に彷徨っている俺には、それすらも可能な事であるように思えた。遙かな昔より罪人達を狩り続ける『処刑人』が、俺を罰するために蘇ったのだろうか……。
 俺は慌てて、ぶんぶんと首を横に振った。何を怯えている。そうとも、この街のどこかで、あの人が俺を待っているんだ。早く辿り着かなければならないのに、そんな夢物語に惑わされてどうする。
 第一、俺が罰せられる理由がある筈がない。俺は何一つ、罪など犯してはいないじゃないか。『処刑人』に断罪される謂われなどない。
 俺はまたショットガンを構え、奥へと進んでいった。すると、壁にぽっかりと人一人が通れそうな穴が開いており、下へと続く階段が見えていた。
 覗き込むと、おそろしく深そうな闇へ、階段の果ては続いている。一瞬躊躇したが、俺は思いきって階段を降りていった。
 長い長い階段を下って行ると、この闇の世界にどんどん沈んで行くようで、心細さが身に迫った。
 こんな時、あの樫井が居てくれれば───。ふと、握り返した手の感触を思い出し、俺は益々肌身に迫る闇の寒さを感じた。
 出来るだけあれから思い出さないように心がけているのだけれど、やはり目の前で息絶えたあの姿を、容易に忘れることなど出来はしない。
 喪って、初めて気付いた。1人より、2人で居ることの心強さ、暖かさ、優しさを。俺はまた1人で、この闇に立ち向かわなければならないという孤独感を。
「艦長……」
 俺は、今の自分を、唯一支えているあの人を、そっと呼んだ。そうしなければ、今にもこの果てのない漆黒の闇に、押し潰されそうな気がしたので。
 艦長、1人は嫌です。早く貴方に会いたいんです。早く貴方に触れたいんです。
 深く、重い闇の中に降りて行きながら、俺は夢でも見ているように、あの人の姿を脳裏に描き続けた。

 

 闇は、本当に深かった。
 階段を終わると、突き当たりに来たと思われたが、すぐに、更に底へと続く大きな穴を見付けた。躊躇いながらも暗い穴の中へ身を躍らせると、着地した所に、また下へ続く階段が現れた。
 それからは、殆どそんな事の繰り返しだった。もうどれぐらい地下深くへ潜ってきたのかも分からない。何度も何度も現れる、闇深い深淵へ誘う入口を、俺は延々降りて、落ち続けた。
 もうこの状況が、進んでいるのか迷っているのか分からなくなった頃。闇の深さに、今度こそ正気で居る自信を失おうとした時、ようやっと真新しい部屋が現れた。
 来た道同様、くすみ、朽ち果ててはいるが、無骨で頑丈そうなコンクリートの内装が広がっている。
「………」
 ライトであちこち照らし出すと、机や椅子が床に転がっていた。その数は、明らかに相当数の人間がここで生活していた事を物語っていた。
 こんな地下で何故、と怪訝に思いつつも、俺は向かいの扉をくぐった。
 そこで、俺はまたあの病院に戻ってきたのか、と一瞬思った。同じ形の扉が、長い廊下に等間隔で並んでいたからだ。
(いや、違う……)
 すぐに俺は、それが錯覚である事に気付いた。こちらの方が、もっと作りが素っ気なかったからだ。病院は、朽ち果ててはいたが、嘗ては清潔そうな白亜の内装を連想させた、小綺麗な作りだった。こちらは鉄もコンクリートも剥き出しで、飾り気の欠片もない。
 一体、何のための施設なのか、と俺はいぶかりながら、取りあえず更に、傍らの扉を開けた。
 そこの机に、紙を挟んだクリップボードが放られていた。かなり薄汚れているが、なんとか判別できる。やっと銃を降ろし、ライトで照らし、無造作に眼を走らせると、『囚人ナンバー……』とか、『…号室独房』とかいった字が、疎らに見えた。
 俺は、何となく息を潜め、ゆっくりと辺りを見渡した。先刻通り過ぎた廊下の、向こうまで続く格子の扉。やっとここが何なのか理解できたのだ。
(ここは……刑務所か……)
 罪を犯した者が、償うための迷宮。断罪の迷路。
 しかし、何と訳の分からない所に刑務所など作ったのだろう。やはりリゾート地に刑務所があるなど、外聞が悪い為、こんな風に地下奥深くへと隠蔽されていたのだろうか。壁に貼られている刑務所内の地図を見ると、相当数の房がある。街同様、今や化け物以外は人の気配など微塵もありはしないが、この規模から見て、嘗ては数多くの囚人達が生活していたのだろう。
 そう言えば、先刻の資料館によれば、ここは昔処刑場だったという。リゾートなどという華やかな言葉が使われるより遙か昔から、この地は罪を償う所だったのだろう。
 どうやらこの部屋は、監視人達の部屋らしい。のろのろと視線をやった先に、物騒なものが置いてあるのを発見した。
 切れかけた薇(ぜんまい)人形のように歩いていくと、それは、やはり大振りな銃だった。
 ライフル銃だ。しかもこの大きさ、恐らく狩猟用のものだろう。看守用の部屋に、何故こんなものがあるのか。答えは明白だ。これで囚人達を脅していたのだろう。
 持ち上げると、中にはきちんと弾が全弾、装填されていた。
 持っていくべきかどうか、俺は一瞬躊躇した。何故なら、あの海江田艦長を狙撃した銃が、ライフル銃だったからだ。
 一応捜査関係者全員に箝口令もひかれ、秘匿とされた狙撃者の正体は、未だ不明だったが、噂高い週刊誌や新聞が、その時の詳細をこぞってすっぱ抜いたのを、俺は苦い思いで見たことがあった。それによると、狙撃者の使っていた銃は、幾つにも分解できるように改造された特異な銃だったそうだが、元はライフル銃だったらしい。
 これを持ち歩くことには若干の躊躇いがあるが、俺はとうとうそれを手にした。まだこれからどんな危険が待っているか分からない。このショットガンもあとどれぐらい保つのか分からなかったし、何より、あの『処刑人』だ。今度逢ったら、絶対に殺してやる。俺は、心にそう決めていたので、強力な武器は歓迎しなければならなかった。
 俺はライフル銃を背中に背負い、再び歩き出した。
 そういう訳で、俺は強力な銃を持ったお陰で、並々ならぬ気迫を漲らせ、再び刑務所内を歩き始めた。しかし、辺りを刑務所と意識して巡り始めると、途端に闇がより陰鬱な空気を帯びて、俺にのし掛かってくる。何人の罪人の悲鳴を、懺悔を、この鉄格子は呑み込んで来たのだろう。
 フロアを突き当たる度、また階下へ降りる階段や穴や梯子が見つかった。立ち止まるわけにはいかなかった。途中で化け物達を駆逐しながら、俺は更に地下へと降りていった。
 そして、どれぐらい深くまで来たのだろう。奇妙な仕掛けのある扉を開けると、ふいに視界に光が広がった。太陽の光などではない。人工的な、薄黄色い光が、辺りに満ちていた。
 電灯の明かりなど久し振りだったので、俺はしばらく、眼を何度もこすって、まばゆい光に慣れようと務めた。
 その時。
 ぎぃっ、と木の軋む音が、丁度正面辺りから聞こえてきた。
 はっと目を見開き、指の隙間から真っ直ぐと前を見る。
 鉄格子越しに、古ぼけた椅子に腰掛けこちらを見つめている目と、視線が重なった。
 彼は、口の端に引っかけていた煙草を指先で掬い上げると、ふうっと細長い紫煙を吹き出した。
 そして、ふふんと人を小馬鹿にしたような笑みと共に、言った。
「何だよ、山中。何、鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔してんだ?」
 指に幾つも填めているクロームの指輪が、黄色い照明を受けてきらりと俺の目を刺した。
「か……」
 俺の喉が、掠れてその名を呼んだ。
「樫井…さん……」
 そこに居たのは、ついたった今、俺の目の前で息絶えた筈の樫井だった。




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