SILENT HILL ……3



 「……こりゃ酷い」
 玄関を開けた途端に、むっと埃と湿気の匂いが押し寄せてきた。窓は殆ど内側から打ち付けられている。電気も完全に止まっているようで真っ暗だ。
 樫井は不安そうにそう呟くと、きょろきょろと辺りを見渡した。
 俺は持っていたライトをつけ、ラジオの音量を最大に上げると、さっさと歩き出した。
 ライトに照らされて、薄暗い闇の中にストレッチャーや、横倒しになった点滴台や、コードの伸びた機械が散乱している。気味が悪い。殆ど本能に近い嫌悪感で、俺は胸がむかつくのを感じた。
 ずらりと廊下に並ぶ、病室の扉が尚のこと薄気味悪い。格子の嵌った扉まである。これではまるで監獄だ。
 いや……。
 俺は、ライトで壁の掲示板から受付までをぐるりと照らしてみた。
 専門的な事は良く分からない。しかし、貼られたポスターは、圧倒的に『精神的』な病気───その諸症状、薬の服用法、周囲の注意点等───を記すものが多かった。
 しかも巡らせたライトの先、受付には、しっかりと白いプレートに矢印と共に、『精神科』の字が浮かび上がった。
(……何という事だ)
 ここは精神病院なのか……。
 道理で似ていると思った筈だ。罪人ではなく、狂人を閉じこめる牢獄だったのだ。
 元々、長居していて気分の良い所ではない。その上、ここが更にその中でも特異な病院であると知り、全身をずっしりと重い物で包まれているような気分になる。さっさとあの人を捜し出して、出て行きたい。俺は苛立ちにも似た気持ちでそう考えながら、前を進んでいった。
 その時。ふっと、俺の背中を何かが触って行った。
「!」
 俺は殆ど反射的に引き金に指を掛けて、銃を目線の高さに据えたまま振り返った。
「……!」
 詰めていた息を、そっと吐き出す。銃口の先に立っていたのは、腕をこちらに伸ばしたまま凍り付いている、樫井だった。
「……驚かさないで下さい」
 危ない。もう1秒樫井だと気付くのが遅かったら、撃っていただろう。俺は強張る肩から、ゆっくりと力を抜いた。
 樫井は、あの艦長そっくりの大きな目をより見開いて、立ち尽くしていた。銃口を向けられた緊張の為か、瞬きも忘れている。
 やがて、俺と同じようにゆっくりと力を抜くと、強張る吐息をついた。
「危ねえ危ねえ。こりゃ、そこいらを徘徊している化け物に殺られるより、あんたに殺される方が早いかも知れないな」
 その響きには、揶揄と言うには余りに皮肉っぽいものが混じっていた。俺はかちんと来て、つい棘の含んだ声で答えた。
「別に、付いてきて欲しいとお願いした覚えはありません。何でしたら外で待っていたら如何ですか?」
「そう尖るなよ。……何だよ、さっきからえらいピリピリしてんじゃん。ここに来るまではあんなに勇ましかったのに、随分ペースダウンしちまってさァ」
 いちいちうるさい男だ。人の感傷も知らないくせに、無神経な事を言わないで欲しい。
 そのくせ、自分の健気な性根にも涙が出てくる。こんな、何から何まで艦長とは違う男を、顔が同じと言うだけで、結局放り出す事も出来ず行動を共にしている自分が、哀れと言うか、いじらしいと言うか。
「あ、分かった。あんたもしかして病院嫌いなんだろ。ガキの頃、注射が怖くて仕方なかったクチだな?」
 後ろからは、件の『歩く冒涜』氏が、そんな俺の心中など欠片も気に病まず付いてくる。
「そんなんじゃありません。……良い思い出が無いだけです」
「だから注射が怖かったとか、そんなんだろ?」
「違います! ……あの人が、長く入院していたんです。もうずっと、意識もないままに眠り続けて……その上……結局、病院を出ることも出来ないまま……」
「あの人って、例の海江田とかいう上司か?」
「そうです」
「……おい、待てよ。何か今の口振りだと……死んだ、みたいな事言ったんじゃないのか?」
 今も信じたくはないが、俺は、呻くように答えた。
「そう……です。3年前に……」
「え? でもあんた、公園で『手紙が来た』って、この街で待ってるって言ってたじゃねえか」
「はい。ここで待っていると、確かにそう書いた手紙が届きました」
「………。大丈夫か、あんた?」
 怪訝そうな声に振り向くと、樫井が腕を組んで、俺を上目遣いに伺うように見つめていた。
 どうやら俺は、ここに入院していた患者達のように思われたらしい。
「わ、分かってますよ! 死んだ人から手紙が来る筈など無いって! でも、あれは確かに艦長の字で……俺達だけが知っている、ここが思い出の場所だって書いてあったんです!」
「そんなの何の保証にもならねえだろ。誰かに担がれたかも知れないんだぜ? それでも探し続けんのか?」
「勿論です。確かに、手の込んだ、誰かの悪戯という可能性も捨て切れません。……でも……もしもう一度逢えるなら……俺は、何があっても、あの人の側に辿り着きます」
 俺は、言いながら全身に力が満ちていくのを感じた。そうだ、あの人が俺を待っているというなら、どんな困難も乗り越えて辿り着いて見せる。
「はあ……酔狂な事で。そんなあやふやな理由で命賭けられるとは、海江田さんとやらを相当愛してるんだな」
 しかし、樫井は口調にも表情にも揶揄の色を濃く滲ませた。
「おっと───こりゃ、怖い。そう睨むなよ。あんたは海江田を愛している。そりゃ、事実だろ? ……真実かどうかは分からないけどな」
「真実です! 俺達の何も知らないくせに、知った風な口をきかないで下さい!」
 俺は思わず、樫井に向き直った。あの人と同じ顔で、なんという事を言うのか。俺が、あの人を愛する気持ちに、曇りひとつない事を一番知っているのは、あの人なのだ。
 語気を荒げた俺に、樫井は乱暴に煙草を引っ張り出すと、投げやりな仕草で火を付けた。
「悪ィ悪ィ。気に障ったんなら謝るって。ホラ、前に進まねえのか? 愛しの海江田さんがお待ちかねだぜ」
 言葉とは裏腹の、これっぽっちも悪びれていない大きな瞳に、俺は、怒りの余り顔色を失い、怒声を上げかけた。
 ところが、その時。

『あん…ら……!───人を……仕事……ないのか───…』

 俺は、はっと廊下の向こうを見た。
 それは本当に微かで、何かの風音だと言われれば、その通りだと返せるかも知れないほど、不確かな『声』だった。
 しかし俺には、一瞬耳を通り過ぎる程度だったが、艦長のものではない、しかし低い男の声に聞こえた。
 逡巡している余裕も理由もない。俺はすぐに駆け出し、廊下の奥へと飛び込んでいく。
 そして、突き当たりに辿り着いて、俺は立ち止まった。大きな扉が、目の前に立ちはだかっている。
 一応きょろきょろと辺りを見渡してみるが、声の主どころか、他の生き物の気配もない。
 やはり気のせいだったのか、と思い切ろうとしたが、僅かな手がかりであろうと捨てられるものではない。俺は縋るような気持ちで、突き当たりの扉を開け放った。
 ギイイイィィ……。
 軋む音が長く尾を引いた。俺は、銃を構えながら、そっと中を伺った。
 ところが、やはりと言うべきか、部屋の中には誰も居なかった。
 個室らしく、簡素なベッドがひとつ置き忘れられたように、壁際にあるだけだ。
「……」
 ふう、と溜息を付いて、俺は銃口を下げ、部屋の真ん中で突っ立った。あれは俺の空耳だったのだろうか。
「おい、何か居たのか?」
 すると、後ろから固い靴底が床を叩く音が近付いてくる。
 俺の様子から危険がないと判断したのだろう。ひょっこりと部屋に入って来て、辺りを見渡している。
「樫井さん、さっき人の声を聞きませんでした?」
「声?」
「ええ、低い男の……こう、呻くような───」
「? いいや、全然。風の音でも聞き間違えたんじゃねえの?」
 樫井は、心底興味のなさそうな様子で、ベッドに勢い良く腰を下ろした。
 薄汚れてはいるが、ベッドはまだ十分に使用に耐えるようだ。樫井を載せて、スプリングが軽く音を立てる。
「ああ、疲れた……」
 そう言って、樫井はベッドに身体を横たえた。
 そんなのんびりしている暇はない。僅かな時間も惜しい俺は、傍らに立ってその顔を覗き込んだ。
「まだこの病院内をすべて見回っていません。行きますよ」
「んー……それが……頭が痛くて───気分悪い……」
 ところが、樫井は眉間に皺を寄せ、左のこめかみを押さえながら、苦しそうに仰向いた。
 その姿に、俺は、ぞっと腹の底が震えるのを感じた。
 彼が痛そうに押さえている、あの箇所は、艦長が狙撃された所と寸分違わなかったからだ。
「頭……が、痛いんですか?」
 声が掠れそうになるのを堪え、俺は出来るだけ何気ない風を装って問う。
「ああ、何だかこの辺が…痛くて……」
 側頭部を押さえ、沈痛そうに目を閉じて、ベッドに伏せる彼の姿。
 それは紛れもなく、入院中のあの人に、余りに重なる光景だ。
 俺は思わず乾いた唇を噛んだ。
「だ、大丈夫ですか? どんな風に痛いんですか?」
 思わず俺が手を伸ばした、その時。
「!?」
 ぐい、とその手が引かれ、俺はベッドに倒れ伏した。
 かろうじて樫井の上に落ちる事は裂けられたが、両腕を突っ張った状態で、彼の顔を覗き込む。
 その顔には、既に辛そうな表情など無く、何やら含みのある笑みが浮かんでいた。
「あの───御気分は……」
 何だかさっぱり分からなくて、俺は取りあえずそう聞いてみた。しかし樫井は、ますます笑みを深くして、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「気分? ……これから良くなるんだろ?」
「はあ?」
 声も水底で聞くような、囁きに近い響きのあるものだ。俺はますます分からなくて、眉を寄せた。
「鈍いな、あんた。俺の顔は、愛しの上司様にそっくりなんだろ?」
「……」
「なら、身体はどうか、確かめたくねえか?」
 俺は、やっと今の状況が飲み込めて、強張った喉でごくりと息を飲んだ。
 つまり、ここで俺と寝よう……と言うのだろう。
 しばらく相手を推し量るような、値踏みするような、奇妙な視線が絡み合う。
「いや……あの……しかし………」
「ふん、今更カマトトぶるなよ。あんたら、そういう関係だったんだろ?」
 そして、白い両手が、するりと俺の腕を這い、首に絡み付いてきた。
 ぞくっ、と寒気にも似た痺れが俺の首の後ろを貫いた。
「遠慮すんなよ……あんたみたいな、真面目そうなのほど、あっちは情熱的なんだよなァ。たっぷり答えてやるぜ?」
 俺の首を捕らえている腕に、力が込められて、引き寄せられた。間近に迫る顔。あの幼い、しかし蠱惑的な顔。
 ああ、そうだ。何度もこうして、腕の中で見つめ合って、それから決まって二人は熱く───。
(まずい!)
「や、や、やっぱりいけません!」
 俺は飛び上がるように、後ろにひっくり返った。その拍子に、見事にベッドから床に転がり落ちる。
 したたかに腰と後頭部を打って、蹲り呻く俺に、密やかな忍び笑いが聞こえてきた。
 やがて、その笑いが、本物のけたたましい笑い声に変わる。
「はは、あはははは! おっもしれえの! 大傑作! あっははははは!」
 ぽかんと床に座り込んだまま、俺はしばらく樫井が声を上げて笑うのを見ていたが、やがて自分がおちょくられたという事に気付いた。
「………!」
 怒りに任せて勢い良く立ち上がると、俺は後ろも見ずに扉へと大股で歩いていく。
「あっははは、おい、待てって、悪かったって! 何だか随分緊張してるみたいだから、ちょっとほぐしてやろうと思っただけじゃねえか。そんな、怒んなよォ」
 俺はそれでも振り返る気にはなれなかった。そのまま荒っぽくノブを掴むと、大きく開け放つ。
「こら、山中! 待てっつってんだろ! 本当に頭は痛いんだから! 置いて行くなよ!」
 背中へと追いかけてくる声に、俺は低く押し殺した声で答えた。
「……大人しく待っていて下さい。後で迎えに来ますから」
「本当だな? 本当に迎えに来───」
 まだ何か喚いていたが、俺は構わず後ろ手に扉を閉めた。
 そのまま、勢いよくずかずかと暗い廊下を歩いていた俺は、樫井の残る部屋からしばらく離れた辺りで、やっと立ち止まった。
 握り込んだ手を開くと、じっとりと汗ばんでいた。これは、からかわれたという、怒りの為なんかじゃない。その直前に俺を支配していた、紛れもない邪な……。
(す、すいません、艦長っっ!)
 俺は思わず傍らの壁に、額を打ち付けた。何という事だ。顔が同じだと言うだけで、その気になりかかってしまうとは。
 3年にも渡る禁欲生活の長さもあったのだろうか。しかし、そんな事は言い訳にはならない。俺の大事な人は、海江田艦長、その人だけだ。そうだ、あの人だけが、俺のすべてなんだから。
 壁に額を押し当てながら、俺は何度も何度も艦長に心の中で謝った。
 すいません、俺はちゃんと拒みました。ええ、そうです、悪いのはあいつなんです。あいつがあんなに、貴方と同じ顔をしていなければ───。
(……それにしても)
 あの娼婦のような笑みが脳裏を過ぎり、俺は思わず壁に爪を立てた。何という男なんだ、あの樫井という奴は。
 ちょっとほぐしてやろう、などと言っていたが、大方本当の目的は、寝ることで俺に取り入って、身の安全を確保しようとでも算段したのではないだろうか。伺うような媚態、導くような誘いが、それらを物語っているような気がする。わざわざ艦長が狙撃された箇所を痛い、などと言い出したのも俺を誘い込むための芝居かも知れない。いや、きっとそうだ。何が『海江田なんて知らない』だ。俺が誰であり、何者であるか、承知の上なのだ。空とぼけているのは、俺に引っ付いていようと考えた末の芝居だろう。実に見え透いた、低俗なやり方だ。
 まったく悪趣味極まりない。本当に艦長と似ているのは顔だけだ。畜生、人を利用するだけ利用してやろうと考えるだなんて、プライドというものがないのか、あいつには。いっそ、このまま放っていってやろうか。
 そうとも、あの人は、人を頼ったりなんかしなかった。自分の責任は自分で取り、誰の手も借りようとはしない人だった。
(もっとも───)
 ……それが、時折寂しかったのだけれど……。
 あの世界に類を見ない過酷な航海の中、俺が願っていたのは、彼が自分に課した重い課題と運命を、僅かでも肩代わり出来れば、という事だった。それは、俺を始め『やまと』乗員の誰もが、そう望んでいたのだけれど。
 しかしあの人は、最期の最期まで誰をも省みず、ひとりで俺達の前から去っていったのだ。
 それが彼の潔さであり、また慈悲だったのだろう、とは思う。
 けれど、ほんの少しでも俺を頼って欲しかった。あの人に比べれば、これっぽっちも力も及ばない、無力で非力な俺だけれど、貴方と分かち合えるのなら、苦しみだって愛おしいのに。
 たった一言でも良かった。言って欲しかった。
 辛いのだと、苦しいのだと。
 そしたら、きっと……。
 俺は、額を支点に来た道を振り返った。暗がりの向こうに、樫井の休む病室がある。
 姿形は同じなのに、まったく中身の違う彼。
 感情の起伏が激しくストレートで、依存心が強くて、我が儘放題の彼。 そんな新鮮な姿が、時折眩しいくらいだ。
 そう、正直言って、あの顔で頼られ、依存されるのは、悪い気分ではないのだ……。
 ふう、と俺は重い溜息を吐き出した。
(……後で迎えに行くか……)
 俺はハンドガンを手に姿勢を正し、上の階へと足を踏み出した。

 


 何段階段を上ってきたか、分からない。それぐらい各階を行ったり来たりしているのだが、足跡どころか、人の影も形もありはしない。
 もっとも、化け物の姿はうじゃうじゃ湧いて出たのだが。しかも病院らしい、看護婦姿の者まで襲い掛かってきた。病棟内の衣装を拝借したのか、それとも元々そうだったのかは知らないが、白衣姿で鉄パイプを振り回す姿は、なかなか鬼気迫るものがあった。
 あらかた目障りなそれら化け物達を片付けると、俺は3階の廊下で立ち尽くし、肩を落とした。結局この病院内に、艦長は居ないのだろうか。
 そうかも知れない、と俺はふと思った。あの人にとっても、病院など嫌な場所だろう。好きこのんで、わざわざ駆け込んで長居したい所ではないじゃないか。もうさっさと出ていったに違いない。
 ではまったくの無駄足になったと言えば、そうではない。途中入り込んだロッカーで、強力そうな銃、ショットガンを入手したのだ。
 確かにこのハンドガンは使い勝手が良いけれど、口径が小さいので、今ひとつ攻撃力に難がある。その点ショットガンは強力だ。一発で殆どの化け物を倒す事が出来るだろう。俺は思わぬ収穫に、不謹慎だが顔を綻ばせた。これなら、あの得体の知れない『大鉈を持つ三角頭の男』とも渡り合えるだろう。
 しかし、精神病院にショットガンとは、えらく物騒なシロモノだ。何に使うかのか、と俺は考えようとして、その凄惨な想像に、一人眉根を寄せた。
(患者達を、これで威嚇していたというのだろうか……)
 今は見る影もないが、立派な病院に見えるここで、そんな熾烈な治療が行われていたというのか。むごい事だ。患者達は、狂いたくて狂っている訳ではないだろうに。
 俺はショットガンを握り締めながら、奇妙な同情心が沸いてきた事に、少し驚いた。今までこんな世界に思いを馳せる事など、一度もなかったというのに。
 このおかしな世界に、すっかり当てられてしまったのだろうか。俺も少しずつ狂いつつあるのだろうか。
 慌てて、俺はぶんぶんと首を振った。ここは何という所だ。これ以上長く居続けたら、俺は本当におかしくなってしまうかも知れない。早く艦長を見付け出して、ここから出て行かなければ。
 俺はショットガンを手に、歩き出した。そこで、廊下の奥まった所に、エレベーターらしき昇降口があるのを見た。
 どうせ動かないだろう。今まで昇ってきた各階ですべて試してきたが、ボタンを押しても何の反応も無かったのだ。そんな投げやりな気持ちで下へ行くボタンを押した所、驚いたことに軽い電子音の後、するすると扉が左右に開いたのだ。
「!」
 そっと狭い箱の中へ身を入れると、何の変哲もないただのエレベーターである。
 ぐるりと辺りを見渡した俺は、一瞬、おっと目を見開いた。
 何故なら、正面、各階停止ボタンの一番下に、『B』のボタンがあったからだ。
『B』とは地下の事だろう。病院の地下室と言えば、死体安置所などだろうか。余り好んで行きたくもないが、僅かな手がかりも捨てたくはない。俺は思いきって『B』のボタンを押した。
 がくんと、身体が浮き上がるような浮揚感の後、エレベーターはどんどん下降し、やがて地下へ辿り着いたらしい。扉がするすると左右に開かれる。
 新たに入手したショットガンを腰に据え、そっと外の様子を伺う。
 地下らしい、冷たい湿った空気が流れ込んでくる。一歩踏み出して、ライトに照らされた光景に俺は少し驚いた。目の前に脈略もなく突如、細長い廊下が延々と続いていたのだ。想像していたような死体安置所の類ではなかったようだが、唐突に現れた地下の迷宮に俺は面食らった。
 しかし化け物の気配はなさそうだ。俺は息を細長く吐くと、奥まで探索する事にした。
 幾つも角を曲がって、どんどん進んでいくと、ふいにぽっかりと倉庫らしい部屋に辿り付いた。段ボールや瓶が、床のあちこちに転がっている。
(?)
 その中に、きらり、と小さく光るものを見付け、俺は屈み込んだ。拾い上げると、小振りな鍵だった。プレートに『歴史資料館』と書いてある。
(資料館……?)
 あの畔(ほとり)の資料館の鍵なのか?
 誰がこんな所に、あんな所の鍵を落としていったのかは分からないが、結構な拾い物をした。早速ポケットに仕舞うと、どうやらここで地下は終わりらしいので、来た道を引き返そうと踵を返した、次の瞬間。
 ひた、ひた、ひた……。
 それは、こちらへ近付いてくる、足音だった。
 俺は思わずショットガンを握り直した。ラジオのノイズは聞こえない。では、何が近付いて来るのか。
(……あの、奇妙な兜の男か……)
 弾をリロード済みである事をちらりと確認すると、俺は引き金に指を宛った。そこの角から現れるであろう姿を想像する。アパートで出会った、あの冷酷無比な破壊者だ。
 あの大鉈で襲い掛かられてはひとたまりもない。強力な飛び道具を持っている強みを生かし、距離を置いて仕留めるべきだろう。俺はショットガンを目線の高さに持ち上げ、銃身を支えた。
 ひた、ひた、ひた……。
 一撃で撃ち抜くのが望ましいが、頑丈そうな兜を被っていた。なら心臓を狙うべきだろうか。何にせよ、急所をしっかり狙わなければ……。
 ひた、ひた、ひた……。
 もうすぐだ。姿が見える。
 よし、そのままこっちへ来い……。
 そして、角からそっと暗い人影が現れて───。
「!」
「や、山中?」
 俺は、詰めていた息を飲み込んだ。現れたのが、樫井だったからだ。
 危なかった。もうコンマ何秒か気付くのが遅かったら、今度こそ彼を撃ち抜いていただろう。腕はまだ引き金に引っ掛かり、強張っている。
「山中!」
 ところが、樫井は、まだ銃を下げかねている俺に向かって走り寄り、抱きついてきたのだ。
「あ、危な───」
「どこへ行ってたんだよ! 俺を置いて、何してたんだよ!」
 抱き締めてくる暖かく柔らかな体に、俺の身体が別の意味で強張ってくる。
 暖かい。柔らかい。
 この悪夢に近い、奇妙な世界の中、何と心強く、力強い感覚なんだろう。それは、俺が孤独ではないという証そのものだった。自分以外の命が、俺を頼って縋って来るその感触に、無性に身体の奥から力が沸いて来るのを感じた。
「か、樫井さんこそ、御気分は……」
 内心の動揺を気付かれないよう、俺はしどろもどろになりながらも、そう聞いた。
 すると、樫井は更に、ぎゅうっと俺を強く抱き締めた。
「お前を待ってたに決まってんだろ! ずっと、お前が帰ってくるのを、待ってたんだよ! それなのにお前はちっとも帰って来ないし……。何だよ、お前は本当に冷たい男なのか!? お前の上司と顔が同じってだけの、ただの男だと思ってんのかよ!? 俺の事なんか、どうでも良いのかよ!?」
 空いている方の手で、そっと彼の背中に触れると、小刻みに震えていた。
 これも彼の芝居のひとつなのだろうか。そう考える俺がどこか片隅に居るけれど、俺はそれでもその手で、彼の背中を掻き抱いた。
「危ないんですから……大人しく休んでいれば良かったでしょう?」
「いやだ! 頭が痛くて気分が悪くて……不安でたまらなくなって……仕方なく部屋を出たら、化け物はうようよ居るし……怖くて……心細くて……辛かった……!」
 俺の手から、ずるりとショットガンが落ちた。
 腕の中で震える体を、そっと両手で抱き締めると、温もりが一層肌に迫り、俺を包み込む。何と言うことだ。しなやかな背中のラインから、肩胛骨の浮き具合……そんな、抱き締めた感触まで、あの人と同じなのだ。
 良かった。彼を撃たなくて本当に良かった。この身体を、あの人の命を奪った物と同じ銃弾で、殺してしまう所だったのだ。
 そしてその暖かさと同時に、俺は、怯える余り震えながら彼が零す言葉を、心の内で噛み締めていた。
 それは、俺が何度もあの人に言って欲しかった言葉だったからだ。
 どれ程、怖いと、心細いと、辛いと、伝えて欲しかっただろう。
 俺は、彼に憧れる大勢の人間の中では、比較的近くに居ることを許された幸運な男だっただろう。それでも俺にとって、あの人はこの町を包む霧のようなものだった。触れることは出来ても、捕まえることは出来なかった。
 そんな俺の心を常に占めていた、『飢え』に近い感覚が、今この瞬間、少しずつ癒されて行くのを感じる。この人は艦長ではない、別人なんだと知っていても、あの人と同じ声、同じ顔、同じ身体で、俺に縋ってくるその姿は、無条件に俺を満たしてくれる。
「大丈夫ですよ……」
 柔らかい髪を撫でながら、俺は出来るだけ安心させるよう、静かな声で言った。
「俺が守って上げますから……貴方を守って上げますから……」
 そして、何度言いたかったか分からない言葉を、俺は噛み締めるように囁いた。
「……本当に? 俺の側に居てくれるのか?」
「ええ、勿論」
 そっと身体を放すと、俺は樫井の華奢な手を取って、緩く握った。
「これからはずっと、俺から離れないで下さい」
 大きな瞳が、揺れながら俺を見つめている。俺はその目に、微笑みかけた。  



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