SILENT HILL ……2


 しかし、霧が深い。昔来た時よりも濃密になっているような気がする。今や陰惨な空気漂うこの町に、なんと似つかわしい覆いが掛けられているのだろう。
 小道の終わり頃現れた階段を上ると、やっと本来なら車で走るはずだった太い車道に出た。しかし、町中へ出た筈なのだが、相変わらず人っ子一人居ない。不思議なのは、店はシャッターを下ろしているという風でも無い事だ。ショーウインドウには、商品を陳列している店もある。扉を開け放っているレストランもある。ただ、誰も居ないだけだ。
 あれから俺は、何度か先刻逢った『怪物』に遭遇した。不思議なのは、そいつが近付くとポケットのラジオがけたたましく鳴り出す事だった。どういう仕組みでそうなったのかは分からないが、霧で殆ど視界が遮られているこちらにはありがたい話だった。お陰でラジオが鳴り出すたび、俺は身構え、向こうが毒ガスを吹き付ける前に片付けることが出来た。
 また、外から町へと入る大通りが閉鎖されているだけに止まらず、町の通りもあちこち封鎖されていた。その為、すぐ向こうの通り、すぐ後ろの交差点へ行くだけでも一苦労である。これは無人を幸い、商店やアパートの中へ入り、迂回することが出来たのだが。
 しかも、ちょっと申し訳ない気もしたが、役に立ちそうな道具も拝借させて貰った。暗い所では強い味方になるライトや、ハンドガンである。ハンドガンは、口径が小さい分オートマチックで、使い勝手が良さそうである。いつ折れてしまうか分からない木材を武器にしていたので、これはありがたかった。持ち出す時、到底人の住んでいる気配はなかったが、一応、一人で部屋へ向かって礼をしておいた。
 そして、部屋を出ようとした、その時。
 ザザザー……ガ…ピ……。
 ガタン! ガン!
 突如ラジオのノイズ音の後、激しく何かがぶつかり合うような音が聞こえてきた。
 その音の余りの異様さに、俺は咄嗟に脇のクローゼットの中へと身を隠した。
 息を詰め、ハンドガンをいつでも撃てるように構えながら、隙間から外の様子を伺う。
(………)
 ずるり……ずるり……。
 ぎしり……ぎしり……。
 既にラジオの雑音は止んでいた。代わりに、足跡と、重い物を引きずる音が、こちらへと近付いて来た。やがて足音は、俺の居る部屋へと入ってきたようだ。いよいよその気配が濃厚に迫ってくる。
(……!)
 俺は、その奇妙な光景に一瞬息を飲んだ。
 隙間から垣間見える、僅かな視界に現れたのは、不思議な格好の男だった。いつの時代かと疑いたくなるような、身体に巻き付けた単衣の布から、逞しく引き締まった腕や足が覗いている。
 顔は見ることが出来ない。何故なら、赤黒い三角形の兜らしきものを付けていたからだ。鉄製らしい、恐ろしく重そうな兜である。
 その男が両手にしているものに、俺は更に驚いた。左手に引きずっているのが、この町を徘徊している、例の化け物だった。完全に息絶えているようで、ぴくりとも動かない血だらけのそいつの足を、ぞんざいに掴んでぶら下げている。
 そして、もう片方の手に持っているのが、えらく巨大で長大な『鉈』だった。ゆうに人間の身長分はありそうなぐらい大きい上に、厚みもある。扱うのに苦労しそうだが、一撃振り下ろしただけで、あらゆる防御を無にしてしまうだろう。
 そいつは、緩慢な動作で辺りを見渡していた。あの重そうな兜、鉈、荷物を全身に提げていては、自然動きが鈍くなるのだろう。のろのろと首を巡らせ、歩き回っている。
 ……多分、俺を捜しているのだろう。グリップを握り締める手に、汗が滲んでくる。
 ふと、ぐるりと巡らせたあいつの視線と俺の視線が、一瞬重なった。見つかったのか、と内心肝を冷やしたが、あいつと俺の身長が、ほぼ同じぐらいである為の、錯覚だったようだ。赤い兜は、すぐに違う方を向いた。
 唾を飲み込む事すら憚られるような、静寂を守ったそんな緊張の果てに、そいつは突如掴んでいた化け物の足を、大きく振り上げた。
 ぶうん!
 掴まれた足を支点に、見事に空中を1回転した化け物の死骸は、けたたましい音を立てて、壁際の家具に叩き付けられた。
 がしゃあん! がぁん!
 砕け散った戸棚が、派手に飛び上がる。しかし、騒動はそれだけでは終わらなかった。赤い三角兜の男は、続いて右手の巨大な鉈を、脇にあったテレビに振り下ろしたのだ。
 べきべきっ! ごしゃあっ!
 更に鉈の剣先を床に付ける間もなく、横に薙いで、部屋の真ん中にあった椅子をも弾き飛ばす。
 俺は、腋の辺りに冷たい汗が伝い落ちるのを感じていた。それは今まで遭ってきた化け物達とは比べるべくもない、本物の恐怖の為だった。
 何も、あいつの残酷、残虐さなどに怯えたのではない。では、何にこうまで恐怖を感じているのかと言うと、これ程の破壊行為を働いておきながら、あいつから僅かな感情も感じられないからだった。
 まるで単調な仕事でもこなすように冷酷に、無気力なのだ。
 決められたノルマでも果たすように冷淡に、無感動なのだ。
 やがて、ひとしきり、そうして辺りを壊して回ったそいつは、やっと振り回していた鉈を降ろし、来た時と同じようにゆっくりと去っていった。
 足音が完全に聞こえなくなってからも、尚俺は長い間クローゼットの中に隠れていた。そして、やっと硬直しきっていた全身から力を抜くと、恐る恐ると外へ出た。
 無惨に変わり果てた部屋の真ん中で、俺は強張っていた喉から、細い溜息を吐いた。
 何だったんだろう、あいつは。ああやって、恨みも、怒りも、憎しみもなく、この町で破壊と殺戮を繰り返しているのだろうか。
 その姿を思い出しただけで、ぞっと背筋が総毛立った。あの赤黒い兜は、もしかしたら鉄錆ではなく、返り血がこびりついた為の色かも知れない。
(いや……待てよ)
 俺は仔細に、そんな姿を思い出しながら、ふとおかしな感覚に襲われた。どうも、あの姿をどこかで見たことがあるような、気がするからだ。
 いつ。どこで。あんな前時代的な格好の男など、今まで逢った事がある筈はない。なら、何かの本やテレビ等で見た事があったのだろうか。
 後者の線が、どちらかと言えば濃厚だ。さて、何で見かけたのだろうか。
 俺は、はっとして我に返った。こんな所でぼんやりしている場合ではない。何より、またあいつがここに戻ってくるかも知れない。場所を移すべきだろう。
 気配を入念に伺いながら、俺はそっと部屋の外を覗き、足を踏み出す。あいつのもう一つの恐ろしいところは、このラジオが反応しなかった事だ。今までは必ず化け物の接近を伝えてくれたこのラジオが、先刻はまるで音を立てなかった。つまり、あいつが側に来ても分からないと言うことだ。
 あんな油断の出来ない、恐ろしい化け物までこの町には徘徊しているようだ。俺はふいに、この口径の小さいオートマチック銃が頼りなく思えてきた。もっと大振りの銃が欲しいものだ。こんな事では艦長に会うことすらままならない。行く道中で、出来るだけ物色してみよう。
 アパートの外を出ると、相変わらずの濃い霧だった。
 通りは車など一台も通らないし、信号機も止まっている。気味の悪い歩行者天国状態の中、俺は銃を構えながら歩いた。
 ところが、警戒して道を行く割りに、アパートで出会って以来、ぱったりとあの奇妙な兜の男は現れなくなったのだ。お馴染み(?)のラジオに反応する化け物とばかり出会うようになった。しばらくすると、俺の張りつめた神経も、無理なくすぐに緩んでいった。  
 そうこうしながら、俺は、それでもかすかに覚えのある道を、ひたすら歩いていった。確か、こっちの筈だ。
 果たして、瀟洒な煉瓦の門が現れた。あった。入り口の門に『ローズウオーターパーク』と掲げられている。
 ……あの薔薇園だ。
 そっとくすんだ煉瓦を撫でながら、俺は門をくぐった。ここが、手紙にあった思い出の場所なのでは、ないだろうか。一縷の望みと一抹の不安を胸に、園の中を進んでいく。
 ああ、そうだ。こうしてふたり歩いて、湖の見える柵で、肩を寄せ合ったんだっけ……。
 霧に濡れた、冷たい肩を。
 白く霞む視界に、俺は必死に目を凝らした。
 何が居るのか。何が待ってるのか。
 しかし行けども行けども、誰もいない、がらんとした園が広がっているばかりだった。薔薇もすべて枯れているらしい。こんもりとした緑の茂が、花壇に並んでいるだけだ。
 はやる気持ちが、徐々にしぼんでいくのを、俺は感じた。
 ……ここが、思い出の場所ではなかったのか?
 それとも、俺は本当に無駄なことをしているだけなのか?
 俺が諦めて、肩を落としそうになった、その時。
 ジャリッ……。
 人の気配が、霧の向うからした。
 微かな足音だった。確かに聞こえた。
 俺は駆け出した。そうだ、丁度あの辺りだ! あそこで、あの人の肩を抱いて、霧に霞む湖を見たんだ!
(艦長!)
 ぼんやりと、人の影が見えた。双眼鏡の横で、柵に肘を預け、ひとり湖を見ている寂しげな影が、白幕の向うに見える。
 ああ、やっぱり艦長だ。艦長は生きていたんだ! 生きて俺に手紙をくれたんだ!
 俺の足音に気づいたのか、影がこちらを振り返った。
「艦……」
 言いかけた俺は、その場に立ち竦んだ。
 振り向いたその顔。幾度も幾度も俺に笑顔を向けてくれた、大きく円らな瞳、ふっくらとした頬、小振りで柔らかそうな唇。紛れもない、それはあの艦長そのものだった。
 しかし、それ以外がすべて艦長ではなかった。ざっくりと下ろした前髪を無造作に散らし、口の端に引っ掛けた煙草を、行儀悪く揺すっている。指にも腕にも、じゃらじゃらとごついクロームの飾りが嵌っており、レザーの光沢も眩しい、いやにぴったりとした丈の短い上着のお陰で、鎖骨と臍(へそ)はあろう事か露わになっている。履いているジーンズは恐ろしくヒップハングのスリムなやつで、生々しいぐらい足のラインが際立って見えた。
 なんと言うか、艦長の顔だけ他人の首の上に持ってきたようだ。呆れるほど違和感のある装いである。
「か、艦長…?」
 入院されている間に、もしかして服の趣味でも変わったのかも知れない。俺は恐る恐る声を掛けた。
 すると、彼は煙草を噴き捨てると、無造作に靴底で握り潰し、気だるそうに言った。
「何? 俺、カンチョウなんて名前じゃないぜ。俺は『樫井(かしい)』ってんだ」
 ニヤッ、と小馬鹿にしたように笑いながら、『樫井』は髪を掻き上げた。声も同じだ。しかし、やはり口調が全く違う。
 あの人に双子の兄弟が居たと言う話は、聞いたことがないが。
「え、いや……あの……しかし、顔が……」
「顔? 俺があんたの知ってるヤツに似てるってのか?」
 すると、またもう一本取り出して、煙草に火をつけた。チェーンスモーカーのようだ。
 確かに、これは艦長ではない。艦長は煙草を吸われなかった。姿形はそのものかも知れないが、余りに中身が違いすぎる。
「す…すいません。余りに顔が似ていたので、人違いを……」
 ふーっと、艦長によく似た男、樫井はつまらなさそうに煙を吐き出しながら、俺に近寄ってきた。
「へえ、あんたこの町の奴?」
「いえ、俺はついさっきこの町に着いたばかりなんですけど……。俺の、上司を探してるんです」
 つい敬語が出てしまう。俺はどうも、無条件にこの顔に弱いらしい。
「何、わざわざ上司探す為に、こんな町にやって来たっての? 余程大事な上司なんだな」
 厚い靴底で、ぞんざいに足元の煉瓦を蹴りながら、樫井は俺の目を覗き込んだ。
 艦長と同じ顔で、そんな行儀の悪い真似しないで欲しいという思いが、俺の頭の中で擡げつつある。正直、見るのも辛いぐらいだ。
 俺は彼から身を翻し、距離を取りながら、言葉を濁した。
「まあ、大事な上司、です。それじゃこれで」
「おい、ちょっと待てよ!」
 突如俺は上着の端をつかまれて、つんのめった。
(……!)
 この感触。そういえばあの時も上着のこの辺りを、引かれたんだっけ。
 慌てて振り返ると、樫井は呆れたように頬を膨らませ、俺を睨んでいた。
「何だよ、こんな化け物ばかりゴロゴロしてる町の中に、俺1人置いて行く気かよ? ……それにあんた、強力そうな武器(エモノ)も持ってんじゃん」
 俺が持っているハンドガンを見初めたらしい。自前のものではないので、何となく後ろ手に隠しながら、俺は聞いた。
「……ど、どうしろと?」
「これからどこ行く気だ? ついてってやるってんだよ」
 ええ? と俺は思わず上体を引いた。そして、正面からよく見ると、彼の白く覗く臍の横に、何かあるのが見えた。
 艦長、あんな所に痣なんかあったっけ、と焦点を合わせると、なんとそれは蝶の入れ墨だった。
 俺は眩暈と必死に戦いながら、吐き出すように言った。
「け、結構です。一人で探しますので……」
 艦長と同じ顔で『こんな』有様では、もはや俺にとって冒涜に近い。
 しかし目の前の『歩く冒涜』氏は、ずんずんとこちらに近付き、顔を寄せた。
「へえ、あんた俺がここでくたばっても良いっての。冷たい男だなあ。どんな良い上司サマか知らないけど、こんな冷血漢の部下持って、俺ァそいつに同情するね」
 そう言って、ふうっと俺の顔に煙を吐き出した。顔だけではない。口の減らないところも似ているかも知れない。
 俺は苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう、という自覚はあったが、それでもこれ以上彼の申し出を断る気もない事も、自覚していた。
 そう、結局俺はこの顔にお願いをされて、無下に出来るような人間ではないのだ。
「……良いでしょう。ただし足手まといにならないようにして下さいよ」
「やったあ! そう来なくっちゃな!」
 ぱきん、と指を鳴らし、樫井は俺の後ろを付いてきた。
「そういや、あんた名前何て言うんだ?」
「……山中と言います」
「山中、ね。で、どこ行く気だ?」
「…この湖の対岸にある、『レイクビューホテル』です」
「ホテル? その上司はそこに泊まってるってのか? 町がこんな有様じゃ、経営してないんじゃねえの?」
「いえ、はっきりとそこに居る、と決まった訳ではないんです。2人で来た『思い出の場所』と言えば、もうそこぐらいしか……」
 しかし、今もあのホテルの事は鮮明に思い出せる。俺は、霧の向こうに佇んでいるであろう、2人で泊まったホテルに、思いを馳せた。船で湖を横切り、辿り着いた玄関には、確か噴水があった筈だ。時折物悲しい音楽を奏でる、1階ロビーのオルゴール。案内図を見ながら『2Fに図書室があるんだって』と喜ぶあの人の横顔。
 こうやっていても、まざまざと脳裏に描くことが出来る。312号室という、俺達が泊まった室番まで覚えている。2人で並んで、窓から霧に煙る湖面を眺めたっけ。
 そうだ、確かビデオも持って行ったのだ。大きくて重くて、出発前艦長に呆れられたけど、沢山あの人を撮ることが出来た。霧の中を歩くあの人、部屋で窓を見つめて、くつろぐあの人。沢山、幸せな瞬間をテープに収めたのだ。そう言えば、あのテープはどこに行ったんだろう……。
「思い出の場所?」
 無遠慮な声音に、俺ははっと我に返った。
「……手紙が、来たんです。『思い出の場所』で、待ってると……」
「変な事言う上司だなぁ。2人で来たって事は出張か何かか? 何て奴なんだ? その上司っての」
 俺は、艦長の名前を出すことを一瞬躊躇した。あの人は、世界で殆ど知らぬ者は居ない、文句無しの有名人だ。そこで俺は名字だけをぶっきらぼうに言った。
「海江田、です」
「海江田?」
 ややすると、ふうんと気の無さそうな返事が戻ってきた。
「どんな漢字書くんだ?」
 俺は、驚いて思わず立ち止まってしまった。幾多の映画になり本になり、今も尚生々しく語り継がれている、あの航海の覇者を、彼は知らないというのか? いや、それどころか、彼はこんなそっくりの面立ちをしている。それでは、さぞや周囲に散々冷やかされたに違いない。それでも、知らないのだろうか?
「それは……海、に江戸の江、そして田園の田、です……」
「ふうん、長ったらしい名字だな」
 また興味も無さそうに、煙草を吹かす気配が伝わってくる。どうやら本当に知らないらしい。新聞もテレビも本も、一切見ない人なんだろうか。それでも、知らなさすぎると思うが。
 しかし樫井は、本当に関心が無いようで、あっさりと話題を変えた。
「で、その海江田さんとやらとホテルの、どこが『思い出』なんだ?」
「……」
 黙り込んだ俺に、後ろから忍び笑う気配が伝わってきた。
「ふふっ……何だい、もしかして、上司アンド部下何つって、アヤしい関係だったのかぁ?」
 腹の底が冷えたような憤りが、一瞬俺を掠めていった。
「しかも『思い出の場所』が『ホテル』ねぇ……、ふふん、一体どんな『思い出』なのやら」
 とうとう俺は我慢できなくなり、振り返ると思い切り樫井を睨み付けた。
「おっと、そんなおっかない顔すんなよ。冗談だよ、ジョーダン」
 煙草と一緒に唇の端に笑みを引っかけ、樫井はあの苦手な黒く、大きな瞳で俺を見た。
 途端に怒りも冷める。俺は諦めて大きな溜息を付くと、再び歩き出した。



 相変わらず濃い霧靄の中を、かき分けるように、俺達はレイクビューホテルへ向かった。ホテルは丁度この辺りから、湖を挟んで向かいにある。沿ってぐるりと歩いて行けば、たどり着ける筈だ。
 しかし、早くも、と言うか予想していていない事もなかったが、俺達の足は止まった。ホテルへ続く筈の一本道で、途中橋が崩れ落ちていたのだ。
「……この道しかねえのか?」
「ええ、あとひとつは……以前はその方法を使ったんですが、ボートで行く方法もありましたけど……」
 念の為、この辺りにあった筈のボート置き場へ行ってみたが、案の定がっちり門は閉ざされていた。
 白い霧の中、樫井の灯す煙草の火が、蛍のようにほんのりと光っている。俺はつい、ぼんやりとそれを見ていた。
 すると、何を勘違いしたのか、樫井は俺にも煙草の箱を突き出した。
「え?」
 俺は思わず自分を指さした。どうやら勧めてくれているらしい。
「何だよ、吸いたいんだろ?」
 垣間見えるフィルター辺りの模様から、そうではないかと思っていたが、やはり差し出されたパッケージは、昔俺が吸っていた銘柄のものだった。
 俺は、艦長と出会ってから、あの人が煙草を吸わない人だと知って、止めたのだった。
 10年ぶりぐらいになるだろうが、俺はこの蓮っ葉で我が儘な男に見くびられてはいけない、と思い、何でもない風を装いながら、受け取った。
 火を貰い、ゆっくりと紫煙を吸い込んだ。もっとも、いきなり肺へ入れる真似はしない。少しずつ、口に溜めた煙を、喉の奥へと流し込んだ。そうする内に、フィルター近くまで灰が来た頃、俺はすっかり呼吸するように、紫煙を味わうことが出来た。
 久し振りだ。この、指先や頭が、しんと冷えていくような感覚。細長く煙を吐き出すと、このまま自分も煙になって、この白い霧に溶けてしまいそうな気がした。
 自分から望んだ訳ではないが、俺は唐突に落ち着くことが出来た。煙草を足下に放り、踏み潰すと、再び歩き出す。
「何だよ、まだ他の道を知ってるのか?」
 慌てて俺の後を付いてきた樫井は、そう聞いてきた。
「いえ、確かこのすぐ横に、確か……ああ、これだ」
 ボート置き場の脇に、置き忘れられたように建てられていたそれは、この町の沿革を収めた歴史資料館だった。
 もっとも、こじんまりした公民館風なのが、この町の素朴さを現している。
「歴史資料館? こんな所に何の用があるんだ?」
「実は、昔2人でホテルに戻る時、丁度ボートが出た直後でして……待つ間、ここで時間を潰したんですよ」
 俺は、徹底的に2人で辿った道取りを、そのまま歩きたかった。まだ俺が忘れている『思い出の場所』があるかも知れない。それを、ひとつでも逃したくはなかった。
 試しに入り口に立ち、扉を引いた。
 ……ガチャン。
 やはり戸は封鎖されていた。試しに何度か揺すぶってみたが、びくともしない。安普請そうな建物なのに、妙な所で頑丈だ。
 ううん、と俺は腕を組み、考える。
 あと2人で辿った道程…。
 必至に頭の隅をつつき回すように考えるが、この霞む視界に同化しているのか、今ひとつ判然としない。まるで壊れたビデオテープのようだ。
 ビデオテープ。そうだ、この辺りも持ってきたビデオで撮ったんだ。重いカメラを担ぎ、息を切らせた俺を、あの人は笑いながら振り向いて、    
『ほら、置いていくぞ!』
 たたたたた……。
 そう、あんな風に軽やかに走って行ったんだ。
(ん?)
「おい、山中! 今誰かの走ってく足音、聞こえたぞ!」
 樫井の押し殺した、しかし鋭い声が俺を我に返らせた。
 丁度来た道と反対方向へ、その足音は消えていった所だった。
 俺は、気が付けばそちらへと走り出していた。何が何でも逃がすものか、という気迫が、俺の足を動かしている。
「ちょっ、待てよ! 危ねえだろ! 化け物だったら、どうすんだ!」
 後ろから、息を切らせて樫井が付いてくる。俺はそれにも構わず走り続けた。
「艦長! 艦長なんですか?」
 あの軽やかで柔らかい足音。化け物なんかじゃない。確かにあの人の足音だ。俺は、そう確信していた。そうだ、きっとあの人だ。あの人は、俺達を街で徘徊する化け物と勘違いして、逃げ出したのかも知れない。
「艦長! 俺です、山中です!」
 俺は走りながら叫んだ。
「待って下さい! 俺です! 迎えに来たんです、艦長!」
 たたた……という、今にも霧に消えそうな足音が、角を曲がって行った。俺も両足に力を込めて、スピードを上げる。
「艦長!!」
 はっ、と息を切らせて、俺は立ち止まった。霧の中浮かび上がった建物に、全身が凍り付く。
「ま……待てって……ってんのに……ぜえ…」
 おぼつかない足音が、俺の背中に追いついた。そして真後ろで立ち止まると、俺と同じように、目の前に立ちはだかる建物を見上げたようだった。
「へえぇ……何だよ…やっこさん、ここに入ったのか? ……んだぁ? ここ……」
 ふうっと疲れたように重い息を吐いて、樫井はぽつりと言った。 
「……ああ、病院か……」
 今やすっかりくすみ、灰色がかっているが、嘗ては目映く白亜の壁を人の目に映していたのだろう建物。その中央に燦然と貼り付けられている赤十字も黒ずんで、まるで血で描かれた十字架のようだった。
「何で……」
「あ?」
「何で、ここに『戻る』んだ……?」
「? 何言ってんだ?」
 病院。こんな所ほど、あの人に似合わない、忌まわしい場所は存在しない。
 何より自由で気高く、誇り高かったあの人を、3年もの間縛り付け、閉じこめた白い牢獄。
 新聞にもテレビにも、彼が眠る病院が映らない日はなかった。そして、俺はその映像を見る度に、胸が締め付けられるような気がしたのだ。まるで、監獄に入れられた囚人を、見せ物にしているような気がしたからだ。
 羽をもいだ鳥を、牙を抜いた猛獣を見せられているような、気がしたからだ。
 そんな、彼にとっても、そして俺にとっても忌々しい場所でしかない病院にたどり着いてしまったのは、気分の良いものではない。俺の足は、それ自体がひとつの壁のようにそびえたつ、くすんだ建物を見上げたまま、動けなくなってしまった。
「おい、何ぼーっと突っ立ってんだよ。入るのか?」
 そんな俺の強張りにも構わず、樫井はどん、と俺の背中を叩いた。
「な、何するんですか!」
「何するんだは、こっちのセリフだろうが! 人ほっぽって走り出したほど気合い入ってたクセに、いきなり木偶の坊になってんじゃねえよ!」
「いや、その……」
 俺は、やっと樫井の出で立ちを思い出して、居住まいを正した。彼の履いている靴は厚底のブーツなので、これでは俺の足についてくるのは大変だっただろう。
「す、すいません、つい……あの、その、艦長だと思ったものですから、夢中になって…」
 この人は、顔立ちはそのものでも艦長ではない。そう思うのだが、やはりこの顔には弱い。つい下手に出てしまう。俺は冷や汗をかきながら頭を下げた。
「……まあ、しょうがねーかも知れないけどよ。何つったって『大事な上司』様だからな。で、どうすんだよ? その『大事な上司』様はここに入ったんじゃねえの? 追わねえのか?」
 かちり、とライターで火を付けて、樫井は煙を遠くへ吐き出した。霧に溶けていくその紫煙を横目に眺めながら、俺は苦い気持ちで病院を伺う。
 大丈夫だ。ここはあの人の入院していた病院ではない。辺鄙な街の病院にしては、ちょっと規模が大きいようだが、ただの何て事はない病院だ。
「いえ、勿論中に入ります。貴方はどうしますか?」
「そんなに俺が足手まといか? そう事ある毎に置いて行こうとすんなよ。……付いて行くよ」
 煙草を指先で弄びながら、樫井は、にやっと笑った。それはまるで娼婦のような、媚びを含みつつもしたたかな影を滲ませたものだったので、俺は慌てて目を反らす。
 艦長は間違えてもそんな表情はしなかった。同じ顔で、そんな品のない笑い方をしないで欲しい。
「……はぐれないで下さいよ。責任は持ちませんから」
 ハンドガンを握り直し、俺は振り向きもせずそう言った。
 



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