SILENT HILL ……1
フロントガラスと霧の向こうに覗く光景を、俺は信じがたい思いで見つめた。
やがて距離が縮まり、いざその事実を目の前にしても、まだ信じられなくて、俺はゆっくりとブレーキペダルを踏み込んだ。
そっと止まった車から見上げると、果たして、サイレントヒルに入る一本道は、霧の中、しっかりと金網で塞がれている。
何があったのだ、この町に。確かに数年前、たった一度しか来たことは無かったが、リゾート地というパンフレットの謳い文句とは裏腹に、町は相当寂れた印象を与えてくれた。申し訳程度の遊園地施設やホテルは、本場のリゾートのそれと比べると余りに貧相なものだったし、閑静である、というぐらいしか取り柄のない湖畔の町だ。しかし一応住人も居て、銀行も病院も学校もあった。それが唐突に廃町になったというのか。
金網は、丁度ドライブインの辺りで張られていた。俺はがら空きの駐車場に車を停め、外へと降り立った。そこで、自分の足が随分重く感じられる事に気付く。
無理もない。ロンドンであの手紙を受け取って、すぐ宿泊をキャンセルし、空港に飛び込み、車をレンタルして走り通してきた。殆ど眠ってもいない。疲れ切っているのだろう。
しかし、俺は疲労した体とは逆に、頭は冴え冴えと目覚めていくのを感じていた。
この町に、あの人が居る。そう思うだけで、今にも走り出したいくらいなのだ。
……普通に考えれば、気でも違ったかと思われるに違いない。海江田艦長は、紛れもなく3年前、死んだ。そう、死んだ筈の人間から、手紙が届くわけなどない。
それでも、俺は信じていた。
あの人の存在を。いや、それとも奇跡を。
俺は、取りあえず眉間の辺りに蟠る眠気を振り払おうと、駐車場隅にあるトイレへ行った。
洗面所のコックを捻り、顔を洗う。幾分さっぱりしたか、と顔を上げ、俺は一瞬眼を見開いた。
何故なら、そこに恐ろしく顔色の悪い男がそこに居たからだ。まるで何かに取り憑かれているようだ。落ちくぼんだ眼窩に、濃い影が陰鬱な翳りを作っている。
俺は、思わず恐る恐るとそんな自分の頬を撫でた。鏡の男も、強張った指先で、濡れた頬に触れている。
「ひどい顔してるな、お前」
俺が語りかけると、目の前の男も暗い顔のまま、顎から水滴を滴らせ、俺に話しかけてくる。
……何て顔をしてるんだ。我ながら悲愴なその表情に、呆れてしまう。
何かに怯えているような、恐れているような鏡の男としばらく対峙していたが、俺は思い切りよく腰を伸ばし、そこを後にした。例え何があろうと、何が待っていようと、俺は行かなければならない。あの人が、俺を待っているのだから。
そして、ぐるりと見渡すと、道路の脇に小道へ入る階段を見付けた。どこに通じているのかと見渡してみるが、湖が広がっているらしき向こうは、霧でさっぱり見えない。ふと、そこで駐車場の端に、観光案内図があるのを見付けた。
寄って見ると、あの小道は湖の畔(ほとり)をぐるりと回る形で巡り、そのまま上がれば町の道路に続いてるらしい。俺は早速階段を降りていった。あの人に会えるなら、1分1秒も惜しい。
そして、舗装もされていない山道同然の小道を、俺はしばらく歩いていった。右手に霧深い湖が広がっている。
しかし、それにしても静かだ。道が封鎖されていた所を見ても、もうこの町が人の住む所として機能していないのは分かるが、ゴーストタウンというものを歩いたことがない俺は、余りの静寂に、押しつぶされそうな思いを感じた。
その時。微かな物音を聞いた。周囲がこれ程静かでなければ聞こえなかったに違いない、ささやかな物音である。
俺は殆ど反射的にそちらへと歩いていった。
見ると、この小道を管理していた所のものらしい、崩れかけた物置があった。がらくた同然に散らばる箒や剪定鋏や材木、バケツに混じって、俺は物音の発生源を見つけた。ラジオだった。
それはごくシンプルなラジオだった。チューニングと音量のつまみだけが付いた、ポータブルラジオである。スピーカーからは耐えず、金属をかきむしるような、耳障りな音が鳴り続けている。
試しにチューニングをいじってみたが、まるで反応がない。どこを回してもこの音がなるばかりだ。電波が届かないのだろうか。
別に歌謡曲だの、野球中継だのを聞く気はなかったが、この濃い霧の中、気象予報ぐらいは知りたかった。どこか見晴らしの良いところに持って行けば使い物になるだろうか。
ふと、そんな事を考えていた俺は、驚いた。手元のラジオが、突如よりけたたましく、耳障りな音を上げたからだ。
「何だ、まったく……」
これは、いよいよ使い物にならないか、と俺が振り返ったその時。
俺は、目の前に立っている者を、しばらくぽかんと眺める事しか出来なかった。
顔も腕もない。全身焼け爛れたようなどす黒く引きつれた膚を、ぐねぐねとよじらせながら、唯一の人間らしい器官である2本の足で、そいつは俺へと近付きつつあったのだ。
(?)
俺はしばらく、呆けたようにそいつが近付いてくるのを眺めていたが、やおら数歩の距離まで接近した時、ふいに目の前のそれが、ぐいっと上体を引いた。
そして、薄茶色の飛沫を、ぶうっと俺に吹き付けたのだ。
「な、何だ!?」
咄嗟に顔を覆ったが、遅かった。途端に、眼が灼けるように痛み、息が出来なくなる。
毒ガスのようなものだ。気付いたが、涙と咳で、俺はその場にしゃがみ込んだ。
「ごほっ……、っ!」
霞む目で、やっと足下を見ると、そいつの影が、再びぐうっと上体を反らしたのが見えた。
また、この飛沫を浴びせる気だ。俺は、ぞっと全身が総毛立つのを感じた。致死性はないかも知れないが、こんなもの、何度も喰らっては堪らない。
俺は慌てて後ろに引いた。しかし余りに勢いを付けたものだから、尻餅を付いてしまい、物置の中のがらくたに、体ごと飛び込んでしまった。
「つっ!」
右手に走った痛みに、俺は驚いて飛び退いた。涙越しに見ると、釘が何本も引っ掛かった材木が転がっていた。この釘に手を置いてしまったらしい。
しかしそれどころではない。足音が、すぐそこまで迫っていた。
気が付けば、俺はその材木を握り締め、立ち上がっていた。そして、思い切りそいつの居た辺りへと振り込んだ。
びしっ!
ギェェエエ!
当たった。向こうも驚いたらしい、その歩みが止まった。俺はすかさず、二度、三度と叩き付けた。
殆ど手当たり次第、という感覚だったが、ふと涙が晴れてきたので、俺は手を止めた。
そいつは、既に俺の足下で身動きひとつせず、血だらけになって横たわっていた。
静寂に俺の獣じみた呼吸だけが響く。俺は上着の裾で、ぐいと顔を拭った。
何だったのだ、こいつは。早鐘を打つ鼓動を押さえながら、俺はそれでも手にした材木を手放すことが出来なかった。自分を取り巻く、余りに不気味で、不可思議な状況の為に。
つまり、俺はやっと、この町が普通ではなく、おかしい事に気付いたのだ。
そして、暴れた拍子に転がり落ちたラジオを拾い上げた。
分からない。一体、この町に何が起こったというのか。
しかし、たったひとつ分かっている事はある。それは、俺はひとりでこの町を、あの人求めてどこまでも行かなければならないと言う事だ。
もしかして、艦長は、この奇妙な町に閉じこめられてしまったのかも知れない。考えれば無理もない事だろう。こんな化け物が居ては、力と運に自信でも無い限り、表を歩くことも出来ない。
なら、尚更何があろうと、何が起ころうと、俺はあの人の元へ辿り着かなければならない。
あの人は、俺を待っているのだから。
俺は木材を握り締め、ラジオをポケットにねじ込み、再び歩き出した。