SILENT HILL  ~序曲~


 俺は、フロントに向かいながら、ろくに荷物の入っていない鞄を後ろ手にボーイに預けた。
「ミスター・ヤマダでいらっしゃいますね? ご宿泊3泊のご予定でご予約頂きました? ありがとうございます。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい」
 フロントは物静かな口調で続けた。年季の入っているであろうチーク材に包まれたフロントに似合う控えめな態度に、俺は僅かに安堵する。良かった。自分の正体に気付かれてはいないようだ。
 イエス、と短く答えて、俺はサングラスを上げ直した。長い英原潜生活の賜物で、喋ろうと思えば幾らでも話は通じるだろうが、無闇に目立つつもりはない。かつて『やまと』の副長であり、現『タービュレント』副長の自分の顔は、困った事に公になり過ぎていたので。
「ああ、そうでした。ミスター・ヤマダ。お手紙をお預かりしています」
 キィを受け取り、フロントに背を向けた次の瞬間だった。フロントがテーブル下にごそごそと手を入れ、白い封筒を一通、俺に差し出したのである。
「……俺に?」
「はい。確かにお預かりしていました」
 極秘の航海・任務を常とする『沈黙の艦隊』機構の一員であり、しかも数少ない休暇をわざわざ偽名でやって来た俺に、誰が手紙など預けるというのか。恐らくどこにでもある名字を使ったから、誰かと間違えているのだろう。『人違いだ』と言いかけて、寸前で思いとどまった。
 下手に目立つのは避けたい。押し問答など御免である。俺は、仕方なく白い封筒を受け取った。

 

 窓からは、ロンドンのくすんだ町並みが見下ろせた。かつては『霧の街ロンドン』と名高かったその風景も、今は過去の話だ。気象の変化からか、今やこの英国首都は、霧に包まれる事など滅多にないらしい。
 俺は、ふと思い出した。本当に凄い霧に出くわした日の事を。
 今でもこうして鮮明に思い出せる。あの人とふたり、旅行に行った時の事だ。
 静かな湖畔に建つ閑静なリゾート地へと、休暇を利用して俺達が泊まったのは、この世界屈指の過酷な航海に旅立つ、直前の事だった。
『凄い霧だね、山中君。向こう岸が見えないよ』
 湖の向こうを見る為のものらしい、コイン式の双眼鏡をつつき、これ何の為にあるんだろうね、と彼はあどけなく笑っていた。
 俺達の後ろに広がっているのは、瀟洒な薔薇園だった。色とりどりの花弁が幾重にも咲き乱れているのだろうが、それすらも霧の向こうだ。俺は、柵に肘を預け、言葉とは裏腹に楽しそうな艦長を、笑って見つめた。
『他にも色々施設はあるそうですから、見て回りますか?』
 観光案内のパンフレットを片手に、彼の側に立つと、ふいにその手が俺の上着の裾を掴んだ。
 驚いて見ると、彼はこちらを見ずに、ぽつりと言った。
『霧が深くて……君がここに居ない気がする……』
『……』
 俺は笑みを消して、そんなあの人の横顔を見つめた。そんな事を言う彼の方が、今にも消えてしまいそうに、心細く眼に映った。
 そっと、その手を握り返し、肩を抱き寄せた。
『もう、ホテルに戻りますか?』
『うん……』
 冷たい霧に濡れたその肩は、ひやりと俺の手を強張らせた。そう、今もこの右手に、あの冷たさを感じられる。
 あの霧深い町、名前は何と言ったっけ。確か───。     
 はっ、と俺は窓際で我に返った。
 何をぼんやりと思い出に浸っているのだ。今更、今頃……。
 そう、海江田艦長はもうこの世に居ない。死んだのだ。
 狙撃された直後、脳死状態に陥り、それからしばらくして本当に息を引き取った。世界中の新聞は一面でそれを報じ、彼の遺体を預かっているセントラル病院の周りは、泣き叫ぶ人垣が幾重にも取り囲んだ。3年も経った今も、花を手向ける人々が、毎日のようにやって来るらしい。
 俺ですら、今も、思い出すだけで頭の奥が締め付けられる感覚を味わってしまう。彼の死を知った時の事を、実は良く思い出せない。俺の頭が、現実であることを拒否したのかも知れない。誰かから人伝で聞いたのか、それとも報道で知ったのかすら記憶にないが、俺は体を支えていた芯を抜かれたような虚脱感に苛まれ、その瞬間真っ白になっていたのだろう。
 あの時以来、自分の中でぽっかりと大きく、何かが欠けたまま、時だけが移ろっているような気がする。ただ、食べて、寝て、動くだけの機械になったようだ。そんな、殆どぜんまい仕掛けの人形さながらに感情もなく働きづめだった俺を危惧して、『沈黙の艦隊』機構がわざわざ直々に休暇を与えてくれたのが、今回の上陸だった。
 しかし、どれだけ悔いても、惜しんでも、もうあの人は帰って来ないのだ。後を追うことも許さなかったあの人の為に、これからもひとりで、俺は生き続けなければならない。
 俺はのろのろと窓際から離れ、備え付けのテーブルに向かった。このままこうして、ぼんやり過ごしていれば、余計な事ばかり考えてしまいそうだった。やはり休暇の話なんか受けるんじゃなかった。まだ働きづめの人形で居る方がマシだ、と俺は切実にそう思った。このまま一人で居れば、どんどん悪いこと、哀しいことを思い詰めて行きそうだ。
 取りあえず気を紛らわせる為、当面の仕事にしようと、先刻預かった封筒を見る為に足を運ぶ。宛名に詳しい身元なり差出人の住所なり書いているのならば、送ってやろうと思っていたのだ。
 ところが、予想に反して、その封筒には何の住所も、差出人の名前すらもなかった。
 そして、俺は、その場に凍り付いたように、動けなくなった。
 封筒の面には、たった一行、あの見慣れた綺麗な日本語が記されていたのだ。

『親愛なる副長へ』

 どれぐらい、そうしていただろう。俺は、指一本でも動かしたら、この夢から覚めてしまうのではないかと、頑なに固まっていたが、やがて震える手で、封筒を開けた。

 

『あいまいな眠りの中で

夢見るのはあの町

サイレントヒル

いつかまた2人で行こうと約束しておきながら

私のせいでかなわなかった

私は一人でそこにいる

思い出の場所で

おまえを待っている』

 

 ああ、そうだ。あの町の名前は。 

 あの、霧深い町の名は、サイレントヒル。


 


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