SILENT HILL ……10


「か……」
 俺は、振り向いた姿勢のまま硬直した。
「……………艦長」
 そこに居たのは、紛れもない、俺が探し求めていた『海江田艦長』だった。優しく理知的な微笑。きっちりと後ろに撫でつけた黒髪の下、露わになった聡明な額。
 しかし、その姿は、樫井と初めて逢った時以上の衝撃を、俺に容赦なく与えた。
 そのまま、ぎしり、とシーツから身を起こし、俺と向き合うようにベッドから足を投げ出しているその白い体には、至る所からチューブやコードが伸びていたのだ。
 そう、俺が取り憑かれたようにむしり取り、引きちぎった後に残された、あのままの姿だったのだ。
「全部、思い出したのかい?」
 にっこりと笑うその顔にも、あの日のまま、チューブやコードが繋がり、垂れ下がっていた。
「………」
 俺はその痛々しく無惨な姿に釘付けになりながら、震える膝を踏み締めて立ち上がった。
「か……」
 そして、彼の前に立つと、俺は懺悔を求める殉教者のように、その前に跪く。
「艦長……」
 彼の躯から伸びたコードが膝の下敷きになり、骨まで食い込んだが、俺は構わず頭を垂れた。
「申し訳有りません……!」
 ベッドから降りた白い爪先を見つめながら、俺は振り絞るように、やっとそれだけを言えた。
 愛する貴方をこの手にかけた俺が、言わなければならない言葉など、これだけだ。
 何と罵られても、軽蔑されても、当然だ。貴方の命を守るべき俺が、その命を奪ったのだから。
 俺は、ただ一途に傅いたまま、彼の次の言葉を待った。
 ところが、あらゆる予想に反し、俺の後頭部に振り落ちてきたのは、呆気ないほど不思議そうな声だった。
「何が…?」
 俺は、は? と思わず彼を振り仰いだ。そこに居たのは、側頭部にも、鼻孔からもコードやチューブを伸ばしながら、これだけは変わらない子供のような大きな目を、いっぱいに見開いた彼だった。
「勿論───勿論、貴方の命を奪った事です! ……貴方は、『死にたい』などと一言も言っていなかった! むしろ、どんな時も貴方は生きようとしていた! それなのに、俺は───俺が、貴方を殺してしまったんです………!」
 全身が震えていた。許されるなどとは到底思っていない。それでも、俺は、俺の罪を告白した。
「山中」
 すると、子供をあやすような、労るような優しさを帯びた声が、彼から零れた。
「随分今の君は、辛そうに見えるな。まるで、逃亡中の犯人のようだ」
 自分の言った例えが気に入ったのか、彼は一度、くすっと笑った。
「でも、どうしてそんなに苦しそうなんだ? だって、これは、君が望んだ事なんだろう? もっと満足そうな顔をしてるものじゃないのか?」
 そう言って、彼は、すいと指先で自分の躯から垂れたコードを持ち上げ、俺の前にぶら下げた。
「………」
 望んだ。そう、確かに俺が願い、やった事だ。
 でも、どうして。俺は、自分でも分からなかった。
 この人を救いたい気持ちが、どうしてこの人の命を奪ってしまう事になったのか。
「の……望んだ……いや、望んでは……いいや───俺は、貴方を救いたかった……だけ、です……」
 失語症のようになってしまった俺に、艦長はまた慈悲深く笑った。
「救う? 私を? 本当に?」
 そして、俺は思い出した。この人の前では、自分も知らない、本当の俺を引きずり出され、晒されてしまうという事に。
(………)
 いいや、俺はこの人を救いたかっただけだ。それだけだ。
 それだけの筈だ。
 しかし、艦長の澄んだ瞳は、俺ですら見たことのない俺の深い所までも、見透かしているようだった。
 俺は咄嗟に息を継ぐため、ごくりと喉を鳴らそうとして、顔を引きつらせた。口の中はからからに乾いていて、飲み込むものなど何も無かったのだ。
「そ……そうかも、知れません……。いえ……きっと、そう…なんでしょう……」
 やっと、掠れた声で俺は言った。
「俺は……どうしようもなく弱くて……。ただ、耐えられなかったんです……。苦しんでる貴方の姿が、何も出来ない自分が、辛くて、寂しくて……。そうなんです……その通りです……」
 解放したかった? この人を?
 違う、本当に解放したかったのは───。
「俺は───『苦しむ貴方』を見て『苦しむ自分』に耐えられなかったんです……!」
 解放したかったのは、自分だったのだ。
『俺』がもう苦しまないよう、貴方を殺したのだ。
 俺の弱さを、脆さを、この人に転嫁したのだ。
 独りよがりで。エゴイスティックで。自己中心的で。
 そんな、どうしようもない自己満足の果ての狂言を、俺は貴方に押しつけたのだ。
「……成程。そんなに私は、君にとって重荷だったのか?」
 足と腕を組んで、艦長はふうんと俺を覗き込んだ。
「違います! 重荷なんかじゃ……! 確かに、確かに貴方を殺したのは俺です。しかし、俺は本当に貴方を愛していたんです! 誰より、何より、貴方だけがすべてでした! お願いします、それだけは信じてください!」
「私を、愛していた?」
 しかし、それでも艦長の目は、俺への容赦ない追求を止めることは無かった。その目は、俺のすべての罪を暴こうとする、冷たいが貪欲な裁判官のそれだ。
 俺は彼の前で、罪人の自分が、腸(はらわた)はおろか、その奥の骨も、神経も、体液の一滴までも引きずり出されようとしているのを感じた。
「違う……違います……。信じて下さい……。俺は、貴方を……本当にあなたを……!」
 最後の抵抗だった。もうこれ以上、俺の罪を暴き立てられたくなかった。半ば本能のような防御反応で、俺は馬鹿みたいに首を横に振り続けた。
「嘘だ」
 柔らかそうな唇が、しかしあっさりと、俺の弁明を拒んだ。

「私は随分と長い間、君に愛されていたと思っていたよ」
「…………」
 断罪された。
「だが、違ったんだな」
 最後の最後に、俺ですら知らない隠し通してきた『罪』が、晒される。

「……あ……ああ………───ああああっ!」
 俺の目から、涙が溢れ、こぼれ落ちた。
 違う、断じて違う、と、まだ俺の中のどこかで声がする。
 そうとも、そんな訳ある筈がない。この人を、いつでもどこでも、一番大切に想ってきた、それは真実だ。紛れもない事実だ。
 しかし今、俺の奥から掴み出され、目の前に晒された罪状を、否定出来る術を、俺は持っていなかった。
 額を床に押しつけて、俺は泣いた。
 いつからそう思うようになったのか。それは、病院で眠り続けるこの人に会った瞬間から芽生えた感情なのだろうか。
 いや、もしかしたら、静かに、ただ静かに、奥底に溜まり続けていたのかも知れない。
 弱くて脆い俺は、それら感情を見なかった事にしてきたのかも知れない。
 ふいに俺の中から飛び出してきたのは、ただのきっかけでしか無かったのかも知れない。
 どれ程思っても、愛し抜いても、決して俺一人のものにはならない貴方。
 最後には俺一人を置いて、深町二佐のように手紙のひとつも言葉なく、遠くへ行ってしまった貴方。
 そう、白いベッドに横たわる貴方を見た時、俺の胸に込み上げてきたのは、『愛しさ』ではなかったのだ。
 それは『戸惑い』であり、そして、『怒り』であった。それが、やがて『憎しみ』へと変わるのにさして時間はかからなかったような気がする。
 あの人の横たわる寝台の側で、俺は突っ立ったまま、自分でも気付けなかった、気付かなかったどす黒い霧が、俺の脳を奥深いところから浸食していくのを感じていた。

(俺一人を残して、何故この男は、こんな所でのうのうと寝ているんだろう?)

 何より許せなかったのは、眠る彼の姿だったのかも知れない。一瞬見れば、まるで生きているままの彼のようだと思うだろうが、こうして間近で見ると、3年にも渡る長い疲労の痕跡が、あちこちに見て取れた。
 あれ程生き生きと白く輝いていた膚はくすみ、綺麗に櫛でまとめていた髪はべったりともつれ、生気の欠片も感じられない彼は、ただ『死んでいない』というだけの、殆ど無機物に近い、ただの肉の塊ではないかと、俺は思った。彼が、もはや、この病室に点在している機材や器具のひとつにでもなったような錯覚が、俺を捕らえる。病院のスタッフ達が、懸命に彼の躯を清拭等しているのだろうが、それでも隠し仰せない、歳月の流れと医療の限界という現実が滲み出ているのを、俺は見た。
『醜い』
 あんなに美しかったあの人が、こんな姿になったという哀しみも、勿論あった。しかし、それ以上に俺を捕らえたのは、理不尽なまでの戸惑いと、不条理な怒りだった。
 これが、俺を長い間、縛り続けてきた男なのか?
 こんなにも醜いものが、俺を苦しめ続けてきたと言うのか?
 一分一秒たりとも彼の事を思わなかった日は無く、その果てがこの有様だと言うのか?
 いい加減にしてくれ。俺が一体、何をやったと言うんだ。貴方の事を思い続け、貴方の為にすべてを捨てたこの俺に、この仕打ち、あんまりだ。この男には慈悲のひとつもないのか。こんな事が、許されるのか。
 俺の手が伸びる。
(畜生)
 色とりどりのコードが、ひやりと俺の指先に触れた。
(畜生…)
 そのまま握り締め、力任せに思い切り引っ張って───。
(畜生……!)

 気が付けば涙は涸れて、俺の目はぼんやりと彼の生白い爪先を見ていた。
 乾いた喉は、嗚咽によりひりつくように痛い。俺は幾度か咳き込んで、顔を上げた。
 裁きの時間は終わった。すべての罪は晒された。
 後は、罪人が罰を受けるだけなのだ。
「艦長」
 そんな俺を、少し首を傾げて、艦長は見た。
「お願いします。俺を───俺をどうぞ、罰して下さい! 弱くて意気地がなくて、臆病者のこの俺を、どうぞ罰して下さい! 断じて下さい!」
 この人こそ、俺を断じる資格がある。
 何と罵られようと、傷つけられようと、殺されようと、俺は一向に構わなかった。いや、むしろそれを望んでいた。
 傷つけられた者が、傷つけた者を罰する。それこそ贖罪の原点ではないだろうか。
 この人の手によって、俺が罰せられる事。
 それだけが、無限の贖罪世界を、完結させる事が出来るのだから。
 赦される事などもう望んではいない。ただ、この悪夢に近い世界に、終止符を打ちたかったのだ。
 俺は、俺を救ってくれる筈の唯一の人を、縋るような目で見上げた。
 しかし。
「じゃあ、簡単だ」
 そして、艦長はにっこりと笑い、人差し指で自分の額の真ん中を差した。
「………」
 俺は、一瞬彼が何を言おうとしているのか分からなくて呆然としたが、やがて理解すると同時に、背中のライフルが、ずしりと重く感じられた。
 ……何という事だ。
 俺は、出来ませんと言いたくて、涙の跡が残る目で、訴えるように彼を見上げた。
 しかし、艦長は笑顔をより深めるばかりだった。
「で……出来ません」
 とうとう、掠れた声でそれだけを言えた。
 だが、すっかり震えて竦んでしまった俺に、艦長は噛んで含めるように言った。まるで、我が儘ばかり言う子供を、あやすように。
「駄目だ、山中。だって君は、苦しみたいんだろう? だから、こんな世界なんか作ったんだろう? じゃあ、もっと苦しまなきゃ駄目だよ。『樫井くん』ばかり殺されるのも可哀想だしね」
「嫌です! それだけはお願いします! 俺は二度も貴方を───」
「ちゃんと私も殺さなきゃ」
「………」
 俺は、ぼんやりと、しかし確かに、今の俺を取り巻くこの世界の不思議さを、理解しつつあった。

 この町『サイレントヒル』は、俺が苦しむために俺が作った世界なのだ。
 俺の懺悔を、贖罪を吐き出すために、飲み込むために存在するのだ。
 俺を裁くために。俺を罰するために。

(……そうか)
 ああ、そうか。
 これが、俺の罰なんだな。
 俺はもっともっと、苦しまなきゃならないんだな。
 当然だ。自分勝手に貴方を愛し、自分勝手に貴方を憎み、自分勝手に貴方を殺したんだ。当たり前の報いだ。
 俺は、艦長の目を見つめたまま、のろのろと背中に手を回し、ライフルを掴んだ。
 弾は既に装填されている。俺は痛む左肩を堪え、ゆっくりと持ち上げ、照準を定めた。
 銃身の先に、男にしては余りに幼く、無邪気とも言える作りの顔が見えた。
 幾度も愛し、幾度も求め、そして幾度も俺を置いていった、あの顔だ。
 流石に銃口がぶれる。この顔を撃ち抜く事に、躊躇いが沸き、引き金にかけた指先が震える。
「山中」
 その顔が、花開いたように笑った。
 その笑顔は、ビデオの中の艦長、そのままだった。
「愛しているよ」
 俺の目から、また涙が一滴、頬を伝い落ちた。
 そう言えば───。
 この人が狙撃されたと聞いた時。衝撃と怒りで頭が真っ白になったのだけれど、その時一瞬だが紛れもなく俺の胸を過ぎった想いがあった。
 それは『嫉妬』だった。
(撃ったのはどこのどいつだ、この野郎)
(横取りする気か、貴様)
(その人は、俺が───)
 過ぎた愛ゆえか、それとも憎しみの為なのか。今となっては良く分からない。
 ただ、俺は、艦長の命の灯火を吹き消そうとする男を、羨ましい、と思ったのだ。
 俺は、涙の跡が乾く前に、同じように微笑み返した。
「俺もですよ、艦長」
 ああ、艦長。
 貴方を、とうとう俺のものに出来るのですね。
 俺だけのものになるのですね。
「愛しています」


 そして、俺は、微笑いながら、引き金を引いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 相変わらず霧が濃くて、湖など見えはしない。それどころか、この公園を取り囲む薔薇の花すらも見えない。
 俺は柵に肘を預け、静かに凪いだままの湖面を、ぼんやりと見つめていた。
 その時。底の厚そうな靴音が、俺の背中に近付いてきた。
「山中」
 振り向かなくても分かる。俺はその姿勢のまま、ライターの擦れる音を背中で聞いていた。
 ふう、と煙を吐き出す気配の後、彼はぽつりと言った。
「また、海江田を殺したのか?」
 俺は返答はせずに、ゆっくりと振り返った。
 そこに居たのは、俺の目の前で3度も死んだ、あの樫井だった。
 相変わらず、しなやかそうな躯には、傷一つありはしない。
 この湖のように、波一つない穏やかな瞳が、俺を真っ直ぐに見つめている。
 また逢えるだろうと、勿論思っていた。だから、その時、必ず言おうと思っていた言葉があった。
「樫井さん」
「何だ?」
「すいません」
 煙をくゆらせていた樫井は、ちょっと驚いたように、きょとんと俺を見た。
 何が? と言いたげな彼に、俺は頭を深々と下げた。
「何度も……俺のために───俺を苦しめるために、貴方を傷つけている事を……許して下さい」
 俺を罰するために存在する、儚い人。
 俺の心の弱さが、脆さが生み出した、哀れな幻。
 すると、彼の足下に、吸い差しの煙草がぽとりと落ちて、踏み潰されるのが見えた。
 そして、ゆっくりと彼の腕が、俺の首を抱き締めた。
「気にするなよ、山中……」
 暖かく、柔らかい体が、俺を包み込む。
「俺は、そのためにここに居るんだから……」
 耳許に心地よく響く、優しい声音が、俺の乾ききった心の芯まで、染みいっていった。
 幾度も傷つけられ、命を絶たれながらも、その度に俺の前に現れてくれた人。
 これが悪い夢なんだと、信じさせてくれる人。
 俺を、赦してくれる人。
「さあ、山中」
 そっと躯を放し、樫井は俺の手を取った。
「行こう」
 笑顔の向こう、指さす先は、公園の出口だった。
 そしてそれは、サイレントヒルへの、入口でもあった。
 俺は、泣きたいような、笑いたいような顔をしていたに違いない。
 そして、俺はその手を握り締め、公園の出口へと、ふたりで歩いていった。

 俺を幾度も罰する町、サイレントヒルへ。

 俺を幾度も赦す町、サイレントヒルへ。



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