朝目覚めると…本がありました。
分厚い本です。改めて見ると大きいです。
なるほど、いくつも料理が載っているのもわかる気がします。
出番がやってきたんだ。どうしよう…お姉ちゃんに話すと不機嫌になるから無理に頼めないし…。
…なんて考えているうちに、登校の時間が来て、授業が過ぎて、休み時間も過ぎて、
そして放課後になってしまいました。
その頃には料理のことなんてすっかり忘れてしまって…。本だけはしっかりと持ってたのに…。
でも、偶然にも祐一さんと一緒に帰る機会を得ました。
そこで思い出しました、本のことを。祐一さんのおかげです。
慌てて祐一さんの目の前で本を取り出し、事情を説明しました。
少しなら協力してやると言ってくれたので、早速料理を確認します…。
『●うまいぼうチーズ
一番人気の
チーズ味』
「なるほど…」
ここは祐一さんの出番だと言っているも同然です。
「チーズといえばチーズいっきですよね、祐一さん」
「いきなりなんだ。しかもなんでだ」
「だって、一番人気ですよ?祐一さんの名前に漢字の一が使われているじゃないですか」
理由も動機もばっちりです。
「栞…お前は結局そんなことしか考えてないのか。
まったく、こんなんじゃあ将来が思いやられるな…」
祐一さん失礼です。ここはしっかり反論しておかないと。
「祐一さんは極悪人です」
「………」
あ、失敗。間違えてしまいました。
早く言いなおさないと、祐一さんが落ち込んでしまっています。
最悪、協力してくれなくなってしまいます。
「祐一さんは失礼千万です」
「…わかったよ、俺が悪かったから。でもいっきはしないからな」
謝罪してくれても…協力はしてくれなさそうです。
なんとか説得しないといけないです。
「祐一さん、久瀬さんは5本もいっきしてくれたんですよ?」
「久瀬が…?」
「はい」
「…あいつはバカか」
祐一さんやっぱり失礼です。
「それは久瀬さんに対してあんまりです。私の希望に添ってくれたんですよ?」
「添うのもどうかと思うぞ…」
ひどく呆れながら、祐一さんは大きなため息を一つつきました。
仕方ありません、こうなったらこの言葉を言っておきましょう。
「祐一さん、8000本納品するとバイトのおにーさんは大変なんです」
「そうだよな…だからっていっきとは関係ないからな」
「………」
祐一さんは冷たいです。
「もう頼みません」
「ああ、頼むな。そもそも栞が食べなきゃいけないんだからな」
「一緒に食べてくれると思ったのに、ひどいです」
「一緒に食べるのはいいが、いっきはしたくないと俺は言ってるんだ」
頑固ですね、祐一さんも。
結局…いっきも無しで、二人で一本ずつを食べました。
商店街の駄菓子屋に置かれているそれは、種類が豊富でした。
その中のチーズ味を食べました。一番人気だけあって、数がたくさん仕入れられていました。
「ところで祐一さん」
「なんだ」
「数がたくさんあるのは、人気があるから数があるんでしょうか?
それとも、人気がなくて売れ残ってるから数があるんでしょうか?」
「そんなのは見張りでもしないとわからんだろ…。
ただ、見た目の差別化はしないと思うぞ。均等に店頭には並べるはずだ」
「そうでしょうか…」
なんて、そんな疑問よりは私は既に別のことで頭がいっぱいでした。
次回こそは、希望をかなえないと…ということです。
<次こそは>
「なんでまたすぐあたしなわけ?」
「いや、俺に言われても…」
時は昼休み、授業が終わった直後。
たまっていた不満を直にぶつけてみた。この事態の元凶となっている相沢君に。
「だいたいね、人の食事を勝手に決めるなんてことが許されていいわけ?」
「だから俺に言われても…。しかし食事を勝手に決める、か…。
気持ちはわからんでもないがな…」
あたしの一部の言葉に反応したのか、遠い目を始めた。
きっと今までのことを思い返しているのね。
そんなことをすれば遠い目になるのも無理ないと思うけど…昔は昔、今は今なのよ。
今はただ、あたしのこの状況について何か考えてほしいものだわ。
「ちょっと相沢君、正気に戻ってよ。この料理について考えてみてよ」
「ん、あ、ああ…」
「ねえねえ、どうしたの香里〜」
「美坂、相談に乗るぞ」
相沢君の反応に、名雪と北川君も話に加わってきた。
丁度いいわ、一緒に見てもらいましょ。
『●うまいぼうメンタイ
根強い人気の
メンタイ味』
「…なんだ、俺も似たようなの食ったぞ」
「わたしも〜。香里も一緒に食べたよね」
「オレは食って無いな…」
なんて自己中心的な意見なのかしら。
で、名雪の言う通りたしかに付き合って食べてあげてたわね…。
そしてまたあたしが食べなきゃならないなんて冗談じゃないわね。
とか考えてる場合じゃなくって。
「食べたとか食べてないとか、そんなことは問題じゃないわよ。どう食べるかが問題でしょ?」
「贅沢だぞ美坂。こんなもの、買ってすぐ終わりじゃないか」
贅沢…あたしって贅沢なの?
「ちょっと北川君、その物言いはひどいんじゃないの?」
「いやだって、事実だし…」
「甘いな北川。栞に見せてみろ、香里にいっきをせがむはずだ」
嫌なこと言ってくれるわね、相沢君たら。
けど…あながちそれは否定できないのよね。なんてことかしら。
“お姉ちゃん、メンタイと言えばメンタイいっきだよね”
“何言ってんのよあんた…”
頭の中で栞のセリフが浮かんでくる。
メンタイといえばメンタイいっきですって?冗談じゃないわよ。
「姐のあたしにそんなこと強要する妹なんてすぐに縁を切ってやるわ」
「美坂、字がなんか違って無いか?」
横から入る北川君の茶々。まったく、さっきから不愉快極まりないわね。
「五月蝿いわね、ちょっと間違えただけよ。わざとよ!」
「香里、そんなに怒ると美人が台無しだよ〜?」
「名雪も名雪でそんないらない茶々やめてよね。
とにかく!問題は、このあたしに本がまわってくる間隔がやけに短くないかってことよ!」
「ずうっと来てた俺からすれば全然ぬるいと思うが…」
「あのね、相沢君。上を見ればキリはたしかにないわよ。
でもね、事情が違うでしょ?今後のあたしの運命を左右するかもしれないのよ?」
「けど香里、来たら来たで料理食べないとどうしようもないんじゃないの?」
最後のとどめのセリフを名雪が発した。
そしてこれはある意味まとめのセリフ…。
「…ええそうよ、結局はそうなのよ」
もう諦めた。名雪の言う通り、結局は本が来たら食す、それだけなのよね。
間隔とか回数とか料理の内容なんて関係ない…。差別があっても無くてもそれは仕方ないんだわ。
躍起になって騒いでた自分が馬鹿みたい…。はあ、あたしも諦めよくなったもんね。
「でもね、これだけは言わせて頂戴。
8000本納品するとバイトのおにーさんは大変なのよ」
「「「………」」」
とたんに三人が黙り込んだ。
「香里、それわたしも言ったよ?」
「俺も言ったぞ」
名雪も相沢くんも食べたんだもの、そりゃそうよね。
けれども、食べてない北川君は…。
「なあ美坂、なんだそれ?」
案の定質問を投げかけてきた。
「…仕方ないわね、素直に買って食べるとしましょ」
「うん、それがいいよ」
「おい美坂!俺の疑問は!?」
「うまいぼうに関わらなかった北川には意味の無い言葉だ」
その通りね…いろんな意味で。
結局は、帰りがけに商店街で買って食したあたしだった。
<根強い、ねえ…>
「…マジか?」
ついこの前本を手にしたような気がするんだが…なんでこうも早くオレの番に?
なんて言ってたらつい先日騒ぎまくってた美坂にぶっ飛ばされそうだな。
しかし問題なのはこの料理だ…キワモノ系じゃねえか。
こういうのは相沢の専売特許じゃねえのか?
『●生まれた卵
フツー生まれないでしょ!
『ピヨピヨ』…カワイイ』
「カワイイ…じゃねえだろうが!」
つまりはこれはひよこの踊り食いってことなのか?
ぱっくり割れた卵から顔をのぞかせている雛鳥をバリバリ食えってことなのか?
いやそれ以前に…
「絶対にこれは料理じゃないだろうが!」
激しく叫ぶ。俺的には無茶苦茶納得がいかなかったし、食いたくもなかった。
しかし…食わなければならないんだよな。
問題はどうやって食べるかであって…。
「そうだ、あの人に頼んでみようか?」
困った時は誰かに頼むべしだ。
もちろん相沢達じゃない。あいつらに頼んだが最後、面白がってひどい目に遭わされるに決まってる。
特に相沢は、以前の仕返しとばかりに…なんて友達に恵まれてないんだ、俺は。
というわけで、俺が頼みに行ったのは…。
「はぇ?生まれた卵ですか?」
「そうです、倉田先輩」
「あははーっ、佐祐理でいいって以前言ったじゃないですかーっ」
「そ、そうでした、佐祐理さん」
笑顔が素敵な先輩、倉田佐祐理さんに頼ることにした。
実際、相沢も以前から随分とお世話になっている。
昼食に偶然にも入っていることが数多くあったとか。
ならば俺もそれに便乗しない手はない。
というわけで、相沢よろしく屋上手前の踊り場までやってきたというわけだ。
だが、一つ考慮していなかった事態が発生していた。
笑顔の佐祐理さんの隣で…川澄先輩がこちらをきつい目で睨んでいたのだ。
どう話しかけようかと思案しているうちに、重苦しく口を開いた。
「…潤」
うわ、こんな呼び方されたの初めてだぞ。
名前呼びというのは俺にとっては新鮮なのだ。
緊張しつつ、それに応える。
「な、なんですか川澄先輩」
「ひよこさんは私が守る…」
ぎらんと目が光る。…いや、実際は光っていなかったが、俺にはばっちりそう見えた。
先ほどとは比べて段違いに緊張感が高まる。
「い、いや、俺はひよこを食べようとしているわけじゃなくて…」
「…ひよこさんは私が守る!」
弁解するヒマもなく、突如川澄先輩は立ち上がった。
そして、手に持った箸で襲い掛かってきた。
びしっ!
「おわっ!」
間一髪、俺の顔めがけて突き出されたその攻撃を避けることに成功した。
座った体勢のままだったので危なかったが…このままでいると危ない。逃げなければ!
「舞、ちゃんと座って食べないとダメだよ?」
「佐祐理、ちょっと待ってて。潤を退治する」
「はぇ?潤さんを?」
俺が逃げの準備をしている最中、やけにのんびりした会話がなされていた。
冗談じゃない、退治なんてされてたまるか!
急いで立ち上がる。急に立ち上がる。そして…
「あ…れ?」
立ちくらみ。
そうだった、長時間座っていて急に立ち上がるなんていう行為は立ちくらみを起こすのだ。
そして俺はその場に崩れ落ちる。
「…ひよこさんは私が守る…!」
「い、いや、ちょっと、待って、川澄先輩…」
「…舞でいい」
「………」
名前呼びを求めてくるとは…佐祐理さんといい、やけに人懐っこい先輩方だ。
相沢の奴、こんないい先輩達と仲が良かったんだよな…なんて許せない奴だ。
もっとも、俺は今そのいい先輩に退治されかけているのだが。
「ま、舞さん、俺はひよこを食べたいわけじゃなくって、
なんとか本の条件を満たす食べ物が食べられないかと思って…」
「…ひよこさんは私が守る!」
結局聞いちゃいないよこの人。
ああ、俺は何か間違っていたんだろうか…。
佐祐理さん達に頼るという、自分では最良の選択肢をとったはずなんだけどな…。
「ねえ舞、生まれた卵ってことは、生まれた後の卵でいいんじゃないのかなあ?」
「…?」
最期を覚悟していたところへ、佐祐理さんののんびりした呼びかけが聞こえてきた。
生まれた卵の考察…。
全然緊迫感が無いというのがらしいといえばらしいのだけど、そのおかげで舞さんの動きが止まった。
ひとまず危機は去ったっぽい、という事で自分でほっとしていると、佐祐理さんは更に続けた。
「つまり、ひよこを食べるんじゃなくて、ひよこが生まれた後の卵の殻を食べるんじゃないのかな」
「…なるほど」
佐祐理さんの理論は合っているっぽい。
それによって舞さんも引き下がった。さすがは佐祐理さんだ!
しかし…それでも卵の殻かよ。卵の殻をわざわざ料理として食わなけりゃならないのかよ。
なんて贅沢は言ってられない。生きているひよこをそのまま食うより断然ましだ!
「では潤さん、夜うちにいらしてください」
「え?」
「夕飯として卵の殻をご馳走しますよーっ」
「………」
ご馳走って言われても…。
しかし戸惑いつつも、俺は頷いた。折角の誘いだったし、危機を救ってくれたし。
そしてその隣では、舞さんもこくりと頷いていた。
夜。意味があるのか無いのか、卵の殻を食べるためだけに俺は佐祐理さんの家に呼ばれた。
もちろん、それと共に普通の食事もご馳走になった。
しっかし食べてて思ったんだが…やっぱり大きな家だよなあ。食事も豪華だ。
相沢の奴、しょっちゅうこの家に来てたみたいだが、ますますもって許せない奴だ。
…もっとも、俺も便乗してそこそこ来てたんだけどな。
ところがその夕飯後…帰る直前に俺は佐祐理さんに別室に呼ばれた。
なんだろうと思ってそこに向かうと、彼女は手に小皿を持っていた。
進められるがままに席に着く。
そして彼女が目の前にそっと差し出してくれたそれには、小さな魚が泳いでいた。
「あのう…これは?」
「見ての通り、お魚さんの踊り食いです。舞に見つかると怒られちゃうので早く召し上がってください」
「…なんで?」
「生まれた卵の条件を更にちゃんと満たすためですよ」
…なるほど、いえてる。
卵の中身を求められているならば、これならば…。
「でも…本当はピヨピヨなんでひよこさんを食べないといけないと思うんですけどねえ…」
「い、いえ、魚でいいんじゃないんですか?」
「ダメですよ潤さん、妥協は。今回は佐祐理はここまでしか協力できませんけど」
「………」
妥協…って言われてもなあ…。
食べるあてなんて無いし…。
自分で買って食べるなんて絶対におかしい奴だと思われるだろうし…。
「とにかくこれは食べてくださいね」
「分かりました。用意されたからには食います!…おりゃ!」
ためらいなく、俺は皿を傾け、その中身をたいらげた。
口の中でもごもご動くのもなんのその、いっきに飲み込んだ。
「…ふう、ふう」
「はぇ〜…すごいです」
「ははは、踊り食いは初めてだったんですけどね」
「見事ないっきですねえ…」
「………」
佐祐理さんが見ているのは何か違うようだった。
そういや栞ちゃんに影響されていっきフリークになったとかかんとかって相沢が言ってたっけ…。
ともかくこれで今回は終了!終了だ!
お礼を佐祐理さんに告げながら、俺はその場を去った。
しかし…家に帰っても結局なんだかんだで不安だった俺は…
とかって、食おうと思ったんだがやはり食わなかった。
だって…だってなあ…!!
<ぴよぴよ>
「きましたか…」
私に出番がまわってきました。
それほど目立つ行動をしていないとか、無口だとか、
回避されそうな様々な条件は持っているのですが…。
「などと考えても仕方ありませんね」
相沢さんが発端となったこの本。
相沢さんが発端となった料理騒動。
受けて立とうではありませんか。
しかし…。
「結構挑戦的な料理ですね…」
『●ウルトラブレッド
秘伝のレシピで作り出した
究極のパン』
こんな料理を相沢さんは今まで食べ続けてきたというのでしょうか?
特定の人物でしか作りえなさそうな料理を…。
もっとも、秋子さんという方が傍に居るのではこの程度は造作もないかもしれませんね。
ただ…私の場合は自らが作るしかありません。
「これも運命でしょうか…」
そこはかとなく嫌な気分にさせてくれる運命です。
苦労するのが、目に見えて分かってしまっている運命です。
愚痴をこぼしていても何も進むわけではありませんが…。
「ともかく作るとしましょう」
究極、秘伝。難解な単語はいくつか出てきていますが、要するに伝統のパンを作ればいいのです。
天野家に代々伝わる、究極のパンを…
「…そんなものはありませんでした」
仕方ありませんね…。
こうなったら出るところに出るとしましょう。
そうそう、おみやげも忘れずに、と…。
いそいそと私は仕度を始めました。家を出る仕度を。
向かうところはただ一つ。相沢さんが最も頼りにしている人物のいらっしゃる家です…。
ぴんぽーん
「はーい。…あら?」
「こんにちは、秋子さん」
「あらあら、たしか美汐ちゃんね。どうしたの?料理で困りごと?」
さすがです。何もかも見透かしているようなこの洞察力。
そして言葉と同時に投げかけてくる笑顔。私も見習わなければなりませんね。
「ええ、ちょっと難しい料理が出現いたしまして。お力添えをしていただけないかと」
「了承。丁度今晩の献立を何にしようか迷っていたのよ。さ、あがって」
「お邪魔します」
一礼して、水瀬家に足を踏み入れる。
聞いた話によると、相沢さんも名雪さんも真琴もお出かけ中らしい。
秋子さんの他に居たのは…。
「あ、美汐ちゃんこんにちは」
月宮さんでした。
「こんにちは。これおみやげです」
丁度いいと思って家から用意したものを差し出す。
「うわぁ、ありがとう」
喜んで受け取った月宮さんでしたが、中身を見て動きが止まりました。
「うぐぅ…コレって…」
「肉まんです。真琴が喜ぶと思って」
「それは分かるけど…作りかけ?」
失礼な。
「いつでも温められるように、特別製です」
「うぐぅ…」
「あらあら、今回の料理が肉まんだったら良かったのにね」
料理の用意をしつつ秋子さんが笑顔で覗き込む。
言われてみればその通りです。
「料理が人に合わないというのは困りものですね」
「そうね。で、お料理なんでしたっけ?ウルトラブレッド、でしたっけ?」
「ええ、そうです」
既に告げていた料理名と共に質問してきた秋子さんに本を渡す。
と、隣から月宮さんがそれを覗き込んできた。
「凄い料理名だね…」
「食べても超人になるわけじゃありませんからね」
「うぐぅ、そんなの分かってるよ」
「相沢さんからよく聞く話を統合すると、このパンを月宮さんが食べることにより、超人の力が…。
それによって食い逃げをよりスムーズに…などと考えていらっしゃるのかと思いまして」
「うぐぅ!そんなことボクしないよ!」
…そうですね。相沢さんはどうも話を誇張してしまうそうですし。
ならば話半分と捉えておくのがいいでしょう。
「このパンを食べても空は飛べませんから」
「だからボクはそんなこと考えてないよっ!」
「はいはい、そのパンはもう出来上がりましたよ」
「「ええっ!?」」
秋子さんの言葉により、会話が中断される。
驚きです。こんなに早く作るなんて…。さすが秋子さんです。
彼女が用意してくださった皿には、見事なまでの形をしたパンが…。
「さ、味見をどうぞ。究極の味がするかどうかはちょっと自信ないですけど」
「いただきます」
ひとかけらを手にとらせてもらう。
そして口に運んだそれは…なんとも不思議な味がした。
どこにも無いような…初めて味わう味…。
「…素晴らしいです」
ついついこんな言葉が出てしまいます。
「よかったわ、大丈夫そうね」
その日の晩、一緒にご飯を、ウルトラブレッドをご馳走になりました。
<来てよかったです…>
「あぅ、またお魚ぁ…?」
最初真琴の出番がやってきた時もお魚だった。
でもって、今回のこれも…お魚よねえ。
でもって、トロってたしか凄く高かったような。
でもって、それで祐一は破産宣告を出さなきゃならなくなってしまったのよね。
でもって、祐一は引越しを余儀なく…。
「って、違う違う」
それに祐一がどうとかなんてどうでもいいもん。
大事なのは真琴に料理を任されたってこと!しかもお魚!
「今回も張り切るからね、ぴろ」
「………」
「ぴろ?」
呼びかけたのに返事が無かった。
同じ部屋ですぐ隣に居るはずなのに…?
慌てて横を振り向くと、目を閉じて静かに呼吸するぴろの姿が目に入った。
ふかふかの座布団の上で丸くなって…。
「…あぅ、ぴろってば寝てたんだ」
寝ててもかわいー。
でもって、寝てるから余計かわいー?
「うわぁ、可愛い寝顔だね」
「うわっ!」
突然真琴ともぴろとも違う声がした。
びっくりして飛び上がってどしんとしりもち。
気が付くと、呼びかけたのは…
「うぐぅ…そんなにびっくりしなくても…」
「あゆ…?」
そう、あゆだった。
そういや昨日は真琴と一緒に寝てたんだっけ。
一定の日ごとに名雪の部屋と真琴の部屋とを行ったりきたり。
うーん、あゆってば結構まめだよねえ。
「…でも、急に呼びかけられるとやっぱり驚くわよぅ」
「そう言われても…」
困ってるみたいだった。
そうだ、ついでだから相談してみようかな。
「ねえねえ、今日の料理なんだけど」
「うん、見てたよ。おおトロなんだよね、真琴ちゃんが食べなきゃいけないのは」
なあんだ、既に知ってるんじゃない。
「…覗き見してたの?」
「うぐぅ…そうとも言えるけど…」
「落ち込まない落ち込まない。とにかく協力してよ、ね?」
「うん…と言いたいけど、素直に秋子さんに頼まない?」
むぅ、あゆってば早速弱気なんだから。
いきなりそんなんじゃあ先が思いやられるじゃないの。
ぷうっと頬を膨らませていると、あゆが本の文章を指差してきた。
『●おおトロ
本マグロの最も美味しい
ところをお刺身にしました』
「ね?本マグロなんてボク達が手に入れられる代物じゃないよ?」
「そんなのやってみなけりゃわかんないじゃない」
「どうやるの?買うしかないよ?言っておくけど食い逃げなんて出来ないからね」
「あぅ…食い逃げ?」
って、どこの世界にマグロを食い逃げしようとする可憐な女の子が居るのよぅ。
「あっ、ご、ごめん!今のなし!」
心の中で反論している最中にあゆが慌ててぶんぶんと手を振ってきた。
何慌ててるんだろ。ああ、食い逃げのことね。
「ふふん、思ったとおりじゃない。やっぱり食い逃げなんて無理なのよ」
「そうだよね、あははは…」
…って、食い逃げの話なんてどうでもよくて!
「おおトロをどうするか考えてよぅ」
「だから秋子さんに頼もうよ」
「あぅ、でもぉ…」
「ボク達では不可能な料理なんていくらでもあるんだから。それを考えようよ」
「…それもそうね」
前回は魚で頑張ったのになあ。
今だ可愛く眠っているぴろをちらりと見ながら、真琴は秋子さんに頼む決心をした。
「了承」
「うわぁ、さすが秋子さん」
「ね?さすが秋子さんでしょ」
「丁度今朝市場で仕入れた大マグロがあってね、さばこうと思っていたの。
よかったわ、いいタイミングね」
「「………」」
秋子さんの言葉に二人喜んでいたのだけど、後から続けられた言葉に沈黙。
市場?今朝?でも朝から家に居なかったっけ?
秋子さんって一体何やってたんだろ…。
ま、いっか。細かいことは気にしない!
「でも…真琴にさばけない?」
せめて少しくらいは真琴も料理に携わろうと尋ねてみた。すると…
「了承」
やったぁ!さすが秋子さん!
「あ、秋子さん、大丈夫なの?」
「なによぉ、あゆったら失礼ねぇ。真琴は大丈夫だもん!」
「うぐぅ、でも…」
「大丈夫よ、あゆちゃん。赤いものを見る覚悟があるなら誰にでもできますから」
「「………」」
またしても沈黙。赤いものって、あれのことだよね…。
でもって、それだけで誰にでもできるものなのかな…。
「あぅーっ、やっぱり真琴不安…」
「あらあらあら、やる前から弱気になっていてはだめよ。何事も挑戦ですからね」
「あぅ、でもぉ…」
「ふぁいとよ、真琴」
「あぅ…」
真琴ってばひょっとしたら余計な事言っちゃったのかも…。
ちらりとあゆを見ると、小さく手を振っていた。それはばいばいってことなの…?
不安いっぱいのまま…真琴は秋子さんにさばきの指導を受けたのでした。
<けどね、美味しくできたんだから!>
くらいくらい意識。底の底の意識。
そこからのぼってくれば…まぶたの裏に光が見えた。
「…朝かしら?」
少しまぶたを開いてみれば、気持ちのいい朝日が窓から差し込んでいる。
目覚めは爽やか。私はベッドから上半身を起こして、うーんと伸びをした。
「今日も一日頑張りましょう…あら?」
普段は認識しえないものが手に触れた。
丁度私の隣。固い固いもの。そして、ぱらぱらとめくれるもの。
「あらあら、今回は私の番なのね」
クスリと笑ってしまう。
とうとうやってきましたか。
今まで頼られる身がほとんどだったけど、果たして私は誰に頼ることなく済ませられるでしょうか?
「…なんてね」
もう一度クスリと笑う。
そんな笑顔のまま、本をぱらりと開く…。
『●お粥
お米を水で
煮込んで作る』
「これはたしか…以前祐一さんが作ってくれましたね」
料理がまるでダメだった祐一さんもどんどん積極的に作るようになって…負けていられませんね。
特に難しい技術は必要としませんが、特に美味しいものを作ろうとすると話は別です。
そこの部分を強調してみるとしましょうか。
「さて、と…」
朝の支度を始める。
さすがに朝食に出すわけにはいきませんから、夕飯にでも作るとしましょうかね。
都合上、あっという間に夜です。
もっとも、一日というものはいつもあっという間なのよね。
色んなことをやっていると、時間というものは過ぎるのも早い。
「秋子さん、今晩の夕飯はなんですか?」
台所に立っていたら、いの一番に祐一さんが尋ねてきた。
部屋で居るのが退屈になったのかしらね。
多分名雪は部屋で勉強。真琴とあゆちゃんも何かに夢中になっていることでしょう。
とりあえず夕飯のお知らせは祐一さんにお願いするとしましょうか。
そうそう、メニューを言っておかないといけませんね
「今夜はおかゆですよ」
「はい?」
尋ね返す祐一さん。こういう反応をよくしてましたね。
そんなに驚くことでもないんですが。
「お粥と言ってもたくさん種類を作ってありますので心配ありませんよ」
「でも、俺にとっては病人食ってイメージがあって…」
「祐一さん、それは偏見ですよ?第一、以前自分で作ってらしたじゃありませんか」
少し語調を強めてたしなめる。
すると、案の定というのかしら、祐一さんはしゅんとうなだれてしまいました。
「そうですね…すいません。…ところで、どういう種類が?」
すぐに気を取り直そうとするところも祐一さんらしいですね。
けれども私が答えるのは…
「企業秘密よ」
やっぱりコレね。
「あのう、そんなに秘密にしなくても…」
「食べるまでのお楽しみですよ。お粥と聞いて皆少しがっくりくるかもしれませんけど…。
そこは、直接内容を告げるのじゃなくて、謎を残しつつ招いてみませんか」
「はあ…なるほど、そうですね…」
どうも祐一さんは腑に落ちない様子。
でもやっぱり内容をさらりと告げるのもどうかと思いますしね。
「それでは祐一さん、そろそろ料理はできるので皆を呼んできてください」
「あ、はい。分かりました」
返事をしながらしきりに首をかしげながら、背を向ける。
ちょっと思うことだけど、祐一さんって結構器用なのかもしれないわね…なんてね。
そして始まった夕飯。
いつもながらに、皆美味しく食べてくれて嬉しいものだわ。
梅にわさびにその他もろもろ。たくさん種類を用意した甲斐があるというもの。
開始して皆は黙々と食べていたくらい。
しばらく経ったところで、一番に口を開いたのは真琴だった。
「ねえねえ秋子さん、どうしてお粥だったの?」
「それはね真琴、企業秘密よ」
「あぅ…」
真琴らしい反応ね。それにしても“あぅ”っていつも言っているのはどうしてなのかしら。
尋ねても多分真琴は“あぅ、わかんない…”なんて言うだろうけど。
「ねえねえお母さん、ひょっとして今回はお母さんの番だったの?あの本」
「あら、さすがね名雪。その通りよ」
あっさり気付かれちゃったわね。
微笑を浮かべていると、くいっとあごを祐一さんがそらした。
随分と自信たっぷりであるというのは顔を見ればすぐわかるわね。
「俺は最初から分かってましたよ。作りやすい料理でよかったですね」
「あらあら、おかゆを病人食とか言っていたのにそういう言葉が飛び出すんですか?」
「あ、ああ、あれはちょっとしたフェイントで…」
「皆を呼びに行った時にも首をかしげてましたけど?」
「ちょっと肩がこってて…」
祐一さん、それはさすがに苦しい言い訳ですよ。
くすりと笑いかける。おろおろしている祐一さんも珍しいわね。
「祐一君、そんなに見栄張らなくても…」
「見栄じゃないぞ、意地だ」
「うぐぅ、変わんないと思うよそれって…」
あゆちゃんの言うとおり。
でも祐一さんにも男として貫かなければならないものがあるのでしょうね。
ここは黙って流してあげましょう。
それにしても、お粥一つでこうも楽しくなる食事もいいものですね。
<穏やかなのはいいことです>
「あはははーっ」
本が来たので倉田さんを真似て笑ってみた。
…やはり僕には似合いませんね。
「そりゃそうでしょ…」
「おっと!…たしかあなたは美坂香里さんでしたね」
これはしまったと思ったところを慌てて取り繕う。
幸いにも美坂さんは少しのツッコミをしに来ただけのようでした。
「ええそうです。先日は妹がどうもご迷惑をおかけしました」
妹…そういえば美坂栞さんにいっきをせがまれましたっけ。
「いえいえ、大した事ではありませんよ」
倉田さんが絡んでいるとなれば、と心の中で思いつつ笑顔を返すと、
美坂さんは厳しい顔つきをこちらに向けました。
「久瀬先輩、あんまり栞を調子づかせないでください」
「は?」
「何か出てくればいっきだなんて…誰でもやってくれると思ってるんですよ。
どんな食物が出ても…。それに倉田先輩まで引き込んで…」
「言われてみればそうですね…」
あの時の彼女の勢いは相当なものでした。
しかし倉田さんが関わっているとなれば僕としては協力しないわけにはいきませんからね。
ただ、目の前の美坂さんの表情はこれ以上に無いと言っていいほど憂いと呆れを含んでいました。
相当苦労なさっているようですね。彼女の日常がうかがえます…。
とはいえ、心外な言葉を投げかけられた事には反論せざるをえません。
くいっとメガネを指で上げます。
「しかし美坂さん、調子づかせるとは心外な事を言いますね。
どう転ぼうと僕はあの時に食物を食べざるをえなかった。食べ方が多少変わっただけですがね」
「事実を言ったまでですけど。いっきをしただけで終わってるんですよ」
終わってる…。
「倉田先輩の名前が出たから久瀬先輩はいっきに身を投じたんでしょうけど…。
それで、栞からも倉田先輩からもいっきの対象となってしまったのには変わりないんですからね」
「ぐ…」
結構きつい事を、歯に衣着せずにぶつけてきますね。
しかしまったくもって彼女の言うとおり。そして返す言葉もありません。
…というのは相沢君辺りの発想となるでしょうけどね。そこは生徒会長たる心意気を見せておきますか。
「では美坂さん、妹さんのいっき精神を収めれば僕に対する誤解も解いてくれますかね」
「元々誤解してるつもりもありませんけど…収めるなんてできるんですか?」
「そこは僕の腕の見せ所ですよ。ま、見ててください」
「無理だと思いますけど…」
「………」
あからさまに無理という言葉を使ってくるとは、見くびられたものですね。
「ところで久瀬先輩、さっきはなんで笑ってたんですか?」
いきなり話の転換ですか。別に構いませんがね。
「そうそう、忘れるところでした。実は僕の所に本がやってきましてね」
「頑張ってくださいね」
事情を少し聞いただけで、彼女はくるりと背を向けてすたすたと歩き出しました。
そうきますか…人に関わっておきながら…。
もっとも、彼女自身この本をかなり忌み嫌っているみたいですから無理もないですがね。
「さてと、本の中身を確認しますか…」
『●お刺身
新鮮なお魚は生で食べると
とっても美味しいです』
「はぇ〜、今日は久瀬さんのところに来たんですね〜」
「く、倉田さん!?」
気付けば、すぐ隣に倉田さんが立っていました。
じいっと僕が見ている本を覗き込んでいます。
いつやってきたのでしょうか。まるで美坂さんと入れ違いになるかのように…。
おっと、急いで身だしなみを整えねば!
さっさっさっ
「これはこれは倉田さん、ご機嫌麗しゅうございます」
「お刺身なんですね、お店で買って食べればすぐですねえ」
「はは、そうですね」
外食でもいいですが、スーパーなりで簡単に購入が可能です。
特に苦労もせずに食せるというわけです。
とここで、倉田さんがにこりと笑いかけてきました。
「けどお刺身なら今日のお弁当に用意しているんですよ。一緒に食べませんか?」
「!!!」
意外なお誘い!しかしいきなり慌てない慌てない。
心の中で深呼吸し、念のためにと聞き返しておきます。
「よ、よろしいんですか?」
「ええ、もちろんですよーっ」
「そうですか、ではお言葉に甘えさせていただきます」
心の中でガッツポーズ!
なんということ、倉田さんと昼食を共にすることになろうとは!
今日は凄くついているみたいですね。
「その代わり、いっきをお願いしてもいいですか?」
「はい?」
不意の言葉に自分の時間が静止。
間髪入れずに倉田さんは言葉をつなげてきた。
「お刺身といえばお刺身いっきですから。あはははーっ」
「………」
刺身といっきとどういうつながりが…。
ここは…受けておくべきなのでしょうか…。
しかし、たった今さっき、美坂さんの前でたんかをきってしまった以上、簡単にはいそうですとは…。
しかし、ここで断ると倉田さんとの昼食会が…。
倉田さんをとるかいっきをとるか…決まってますね。
「分かりました、いっきを引き受けましょう」
「よかったです。ではお昼休みに」
「ええ、よろしくお願いします」
「あははーっ、それじゃあ失礼しますねーっ」
一礼をして倉田さんは去ってゆきました。
その後姿を見ながら…僕はまた一つ何かを失ってしまったような気がしました。
「…まぁ、対象は美坂さんのみですしね」
小声で呟いたそれは屁理屈に過ぎませんが…それでもよしとするしかない。
そう自分に言い聞かせ、今日の料理騒動はいっきで幕を閉じました。
<それはもう豪快に>