Kanon     “the  pure soul”

 

「相沢!」

「相沢君!名雪!」

 北川と香里が、飛び込むように手術室の前に座っていた祐一と名雪に声をかけた。

「……北川、香里」

顔を上げる祐一、名雪は祐一の肩にもたれかかり、眠っているようだった。

外はもう、夜の帳の中。学校が終わってから大急ぎでここに来たつもりだったが、手術室のランプは未だ消えていない。それは、長い時間が経ってもまだ結果が出ていないということだった。

「わざわざ来てくれたのか……悪かったな」

「そんなことはいい…」

 答える祐一の顔も、生気を失ったように青白い。名雪は寝ているのではなく、恐怖で失神したと言われても説得力がありそうだった。

「う……」

 そのとき、微かに名雪の瞼が動いた。

「お母さん……お母さんは!?」

 立ち上がり、あたりを見回す名雪。

「落ち着きなさい。まだ終わっていないわ」

 名雪をなだめるように、香里が両肩を抑えた。

 

 そのとき、ランプが消えた。重々しく扉が開き、手術着の医師たちと看護婦が重々しい表情のまま出てくる。

「親戚の方は?」

 執刀医らしき初老の医者が、4人を見回す。

「俺たちです」

 名雪の手を引き、祐一が医者の前に立つ。

「患者はICUに、君たちには話があるので」

 看護婦達に指示した後、医者はついてくるように促した。北川と香里は、ただその背中を見つめるだけ。酷く、寒い夜だった。

 

            Episode  12:the trust ―Jun Kitagawa―

 

―信じること。簡単なようで、難しい。

  信じること、そのおかげで、俺は一人の少女の気持ちが救えたと思った。

   誰よりもその事を教えてくれた友達、信じてくれ、お互いを、奇跡の起こる瞬間を……―

                                  −Jun Kitagawa−

 

「状況は良くありません」

 カルテに目を通しながら、医者は無常な事を言う。震える名雪の肩を抑えながら、祐一は静かに言葉を待つ。

「失礼ですが、あなた方は?」

「患者の甥と、娘です」

 肉親が高校生の男女、ということで怪訝な顔をしていた医者が納得したように頷いた。

「俺の両親にも連絡しましたが、来るのは大分遅くなるとのことです」

 連絡はとっくに入れていた。しかしどんなに早くても1週間はかかるという。

「最善を尽くしますが、正直、意識が戻るかどうかは……」

 その後は、やたらと専門用語が飛び交う意味不明の会話として祐一達には届いた。

「お母さん……お母さん」

 そして、その間中ずっと、震える声で呟いている名雪の声が聞こえた。

―信じられるのか?―

 誰かにそう問われたような気がした。

名雪と祐一。7年の苦行を経て、結ばれた二人。繋がれた心、そして、今の絶望。何を信じるというのか、何を求めればいいのか、それすらも解らない。ただ、孤独と不安だけが、そこにあるだけだった。

 

               *

 

『朝〜、朝だよ〜』

「………」

 変わらない朝だった。いつものように目覚ましから、名雪の間延びした声が聞こえてくる。

「名雪、朝だぞ」

 扉を叩く。しかし、声は聞こえない。幾度か叩くが、声は返ってこない。

 

「おはようございます、秋子さん」

 いないはずの相手の名前を呼ぶ。台所は何処も変わっていない。だが、食卓には何もない。香ばしいトーストの香りも、自家製の色鮮やかなイチゴジャムも、秋子の微笑みも……何もない。

「いただきます」

 買い置きのパンをトースターに入れ、焼き上げたパン。戸棚には、色々なジャムが入っていた。名雪の好きなイチゴジャムも、恐れおののいたオレンジのジャムも。やがて祐一はお盆を用意し、その上にパンとイチゴジャムを乗せる。

時計を見れば、そろそろ学校へ行かなくてはならない時間だった。休もうか、とも思ったが、学校に状況の説明もしなくてはならない。

「……言い訳だな」

自嘲の笑みを浮かべ、祐一は名雪の部屋へと歩いていく。

学校に行くのは逃げだと解っていた。ここにいてやるべきだと解っていた。だが、絶望に咽ぶ名雪の姿は、見るに耐えないものだった。

なんと酷い男か、なんと無情な態度か。名雪は自分が落ち込んだときに、どれほど傷つけられようと側に居てくれたというのに自分は逃げるのか。

自責と自戒の念は、祐一の心を蝕んでいく。

「朝食、用意しておいた。学校に報告に行かなきゃならないし、何かあったら電話してくれ。帰りに病院にも寄ってみる」

 そうして、祐一は扉を開けた。見上げれば日差しがまぶしい、雲ひとつない蒼天の空。どこまでも空は遠く、どこまでも風は流れる。美しく、そして悲しい空だった。

 

「相沢!」

「相沢君!」

 見れば、北川と香里が駆け寄ってくる。気になって、玄関の前で待っていたらしかった。

「呼び出してくれればよかったのに」

 乾いた笑いで、祐一は答える。その態度が、状況は好転していないということを2人に理解させた。

 

 テストの内容など、覚えていなかった。何を答えたかなど、覚えていなかった。気がつけば、放課後になっていた、そんな感じだった。

「相沢君、ちょっといい?」

 教師が去っていくと同時に、香里が祐一の手を掴んで人気のない廊下の隅へと連れて行く。悲壮に満ちた香里の顔も、見るのが辛かった。だが、その必死の思いが、逃げることも目を逸らすことも許しはしなかった。

「相沢君、私、最初からあなたのことを知ってたの」

「?」

 言葉の意味が解らず、祐一は訊ねるような視線を香里に向けた。

「名雪がね、嬉しそうにあなたのことを話していたから。祐一は照れ屋だから解りにくいけど、本当は優しいって、祐一とはもう何年も会っていないけど、祐一と過ごした時間は楽しかったって、何度も話してくれた……」

 

―香里、あのね……―

 その日のことを覚えている。『祐一』がこの街に戻ってくることを初めて名雪から聞かされたときのことを。

―また『祐一』の話?―

 我ながら呆れていた、と香里は思う。それでも、その嬉しさを全身で表したような名雪の態度が面白くて、ついつい訊いてしまったことを覚えていた。

―でも、気になるんだけど、どうして『今までここに来ることがなかったの』―

 名雪の顔色が変わった。

―辛いことが、あったの―

―辛いこと?―

 名雪が『祐一』について話すときにはじめて見せる、寂しげな表情。

―それ以来、この街に来なくなったの―

―……彼は、『全てを知った上で』来るの?―

 名雪はかぶりを振る。一度だけ祐一の母親から聞いたことがあった。祐一には、記憶が無いという。

―どうなるかなんて、解らない。だから、香里もできれば祐一を見守ってあげて……―

 

「そんなことを?」

 香里が頷く。

「何で……なんで俺なんかのために……辛い恋を引きずらなくたっていいじゃないか……」

 拳を握り、祐一は俯く。香里の言葉は、祐一にとっては責められているのも同じだった。7年前に傷つけ、今度は傷ついた名雪の前で、何もできない自分自身の姿。それを責められている。

「恋ですって……違うわよ」

 だが、香里は怒ったように面を上げ、祐一を見上げる。

「解らない!?名雪はね、相沢君を愛していたのよ!信じていたのよ!」

「香里……」

香里は泣いていた。祐一は香里も同じ気持ちなのだろうと解った。

大切な相手が苦しんでいる。その相手のために何もできない。だが、香里はそれに加えて怒りもあった。自分よりその相手に近いところにいるはずの人間が、なぜその相手に対して何もしてやれないのかという、怒り。そして、自分は何もできないという、怒り。

7年の間、あの子はずっと信じていたのよ!相沢君が立ち直って、また2人でいることができるって!あなた、そんなあの子に何をしたっていうのよ!」

祐一の胸倉を掴み上げ、殴りかからんばかりの勢いで香里が叫ぶ。

直視しているのが辛かった。香里の視線は痛かった。俯こうとする祐一に、香里は拳を振り上げる。

殴られるのか、それもいいだろうと祐一は思う。千回殴られたとしても、何の解決にもならないけど。

「………」

 だが、予想していた衝撃はいつまで経ってもやってこない。

「止せ」

 振り上げられた拳は、北川の手によって押さえられていた。淡々と香里と祐一を見つめる北川、やがて香里は力なく拳を下ろし、北川にもたれかかるように後ろに下がった。

「どうすればいいかなんて、わからねえよ」

 香里の肩を抑えながら、北川が言った。

「……自分が『かつてそうだった』からか?」

北川は、かつて栞との関係に悩む香里を、ひたすらに見守り続けてきた。

故に祐一の気持ちも、香里の気持ちも痛いほどよく解った。2人にもそれが解っている。だからこそ、北川は言葉を続けた。

「信じることは、もうできないか?」

「………」

「自分にできることは何も無いと、本当にそう思っているのか?」

「………」

「好きだという気持ちを、もう失ったのか?」

「………」

 北川の顔を見ていることができなかった。たまらず祐一は外に視線を移す。

「……もう一度、向かい合ってみろ。秋子さんのことは、俺や美坂、栞ちゃんがついている」

 去っていく祐一に向かい、北川は言った。穏やかだが、力強い激励の言葉だった。

 

               *

 

「祐一」

「祐一さん!」

 帰り道、舞と佐祐理に呼び止められた。縋るようなその視線は、祐一と名雪に何が起きているか知っているとすぐにわかった。

「秋子さんの様子はどうなんですか」

「まだ、意識が戻りません…」

 佐祐理の問いに祐一は力なく答える。と、そこで後ろにいた舞を見た。

「舞、お前の力でどうにかならないのか?」

 かつて舞は、死に至ろうとする母と佐祐理を助けた。ならば、その力で秋子を助けることも可能なのではないかと思った。

「………難しい」

 だが、舞は重々しくかぶりを振る。

「自分でも、上手く使えない力だし、何が起こるかもわからない」

確かに舞の力は危険な側面を秘めていた。魔物を生み、佐祐理や祐一を傷つけた事象が証明していた。

それでも、今は藁にでも縋りたい気持ちだった。何でもいい、秋子を助け、名雪が再び微笑んでくれるための。

「だめなのか……」

「祐一、名雪はどうした?」

 うなだれる祐一に、舞は問う。

「………心を、閉ざしてしまった。昨日から、ずっと部屋にこもっている。なあ舞、本当にどうしようもないのかな?あいつや秋子さんが笑ってくれることは、もうないのかな」

「祐一………」

 困った顔で祐一を見ていた舞だったが、やがてかすかに口元を緩め、祐一の頭の上に手を置いた。

「舞?」

「祐一、ふぁいと、だ……名雪なら、そう言った」

 祐一の瞳と、舞の瞳が向かい合う。何かを決意したような、舞の瞳がそこにあった。

「鍵は、祐一と名雪が握っている」

 舞は決意していた。自分にできることをやることを。助かるかなど、わからない。

「?」

「祐一さん。奇跡を呼ぶ力は、きっと誰でも持っているのだと思います」

 それでも佐祐理と舞は知っていた。あの奇跡は、舞が心の底から相手を思うからこそ起きたのだと。

「佐祐理さん…」

「私は、お母さんや佐祐理を、心の底から助けたいと思った。そして、助かった。だから、祐一と名雪に祈ってほしい……私は私にできることをやる。祐一も、祐一ができることをやって」

 ならば、祐一と名雪が今一度心を通わせ、秋子の笑顔をもう一度願うなら、その奇跡は必然。

祐一に背を向け、舞は歩き出す。言うべきことは全て言った。後は自分にできることをやるだけだと言わんばかりに。

「舞、佐祐理さん……」

「佐祐理たちは、信じていますから」

 佐祐理の言葉は、いつまでも祐一の心に響いていた。

 

               *

 

0件です―

留守番電話が、無機質な声で答えた。

病院からの連絡はない。つまりまだ事態は進んでいないということだった。もっとも、その結果がどちらへ向かっているのかは見当もつかない。家の中は暖房も点けられておらず、冷え冷えとした空気が部屋を満たしていた。薄暗く、肌寒い部屋。見慣れたはずのこの光景は、まるで別の世界に来たかのように異質に見えた。

「……飯でも作るか」

 じっとしているのは余計に辛かった。買ってきた野菜やレトルトを袋から出し、慣れない手つきで料理を始める。

「……こんなものか」

 食えないわけではなかった。それでも、秋子と名雪の料理に慣れた舌からすると、酷く味気ないものに思えた。否、それだけではない。真琴が消え、あゆが消え、秋子は死の狭間。そして名雪は、心を閉ざしてしまった。こんな状態で物を食べる気力などあるわけがなかった。どんな料理も、今は旨いとは思えないだろう。

 

「名雪、夕食を作ったから置いておくよ。気が向いたら食べてくれ」

 ノックの音とともに、夕食の入ったトレイを下においた。小さな扉を隔てて、名雪と祐一は同じ家にいた。だが、その心は遥か彼方。一度は重なり合った心、それすらも今は遠い彼方だった。舞と佐祐理は尽力してくれている。奇跡のためには心が必要だといった。だが、今の自分に何ができるのか?どうやって、名雪の心を開けばいいのか?答えは出なかった。

―かたん―

 部屋で寝そべっていた祐一は、小さな音で目を覚ました。

予感があった。かすかな期待に胸躍らせ、部屋の外に出る。名雪の部屋の前には、少しだけ量の減った料理が残っていた。そして、かすかに開いた扉の隙間から、僅かに星明りが漏れ出していた。意を決し、祐一は名雪の部屋の扉を開いた。

「名雪……」

 闇に満たされた、静謐な空間。

名雪の心情を具現化したようなその空間に、祐一は一歩足を踏み入れる。夜の闇に覆われたその空間に目が少しずつ慣れてくるころ、祐一は名雪の姿を見つけた。ベッドの上にひざを抱えて蹲り、悲しみと絶望に満ちた瞳で床を見つめていた。部屋は何も変わらない。いくつもの目覚まし時計は変わらず時を刻み、名雪がケロピーと呼んだカエルのぬいぐるみも、名雪の傍らにいた。だが、部屋の主はただ、闇に身を委ねたように無表情。ズキリ、と胸に痛みが走る。

「……食事、食べてくれたんだな」

 精一杯の笑いを浮かべ、祐一は言葉を続ける。

「……おいしくなかった」

「そっか、なら、次はもっとしっかり作るよ」

「別にいいよ」

 小さく、拒絶の言葉を紡ぐ名雪。それでも、祐一は懸命に言葉を捜す。いまここで言葉を途切れさせてしまえば、二度と名雪と心を通い合わせることはできないかもしれないという予感すらあった。それほどまでに今の名雪は儚く、危うげだった。

「大丈夫だよ『秋子さん』には敵わないかも知れないけど」

 秋子の名に、名雪がびくりと体を震わせた。

「出てって!!」

 初めて聞く、名雪の叫び声。自分を射抜くような名雪の視線に、かつて雪ウサギを叩き落した自分の姿が重なった。

「なら、このままお前は逃げるつもりか?」

 痛い、と祐一は思った。

あのときの名雪の気持ちが、今になってようやく理解できたと思った。大切な人を失う痛み、大切な人を傷つけてしまう痛み、今ならその両方がよくわかった。

「……私、この家でずっとお母さんと二人だった。お父さんの顔も知らない。祐一は遠くに住んでいて、あんまり会えなかった。でも、私は寂しくなかった」

 とつとつと、名雪は語り始めた。

「お母さんが側にいてくれた……寂しくないように、いつも笑ってくれた。だから私も、いつも笑おうとした」

「……ああ、そうだな」

 秋子の母としての姿が浮かんでくる。

優しさ、賢さ、暖かさ。真琴を受け入れ、あゆを受け入れ、そして17年の時に渡って、名雪の支えになっていた秋子。祐一も何度、秋子に助けてもらっていたかわからない。名雪もそうだった。どれほど祐一に傷つけられても、痛みをこらえる姿を微塵も見せずに、笑っていた。栞のためにデータを集め、舞との記憶を見つけ、真琴のために寒空の下を走り回り、あゆのために慣れない裁縫をしていた名雪。秋子と名雪なくして、いまの祐一はいなかった。

「あなたは一人じゃないんだよって、いつも教えてくれた。だから、私もそうしようと思った」

母と娘、ただ相手だけがいる家。

それは祐一が来る前の水瀬家の姿。お互いを支えあい、お互いを必要とする二人の場所。だからこそ、祐一を必死に助けようとした。孤独だからこそ、その辛さがわかる。故に、孤独に咽ぶ祐一を名雪は放っておけなかった。

「これで、私は一人ぼっちだね……」

 力なく顔を下げる名雪。

「そんなことをいうな!俺だっている。香里も、北川も、栞も、舞も、佐祐理さんも、天野も、みんながお前を心配している!知っているか?舞はあの力で、秋子さんを助けようと必死にがんばっているんだぞ?お前ががんばらなくてどうするんだよ……お前が笑っていなくて、どうするんだよ!」

 祐一は手を伸ばす。だが、その手は届かない。数歩歩けば近づける、ほんの僅かな距離。それでも心はそれよりはるかに遠く離れ、名雪を想う気持ちは届かない。

「ダメなんだよ」

 ぽとり、と雫がこぼれる。能面のような名雪の顔に、初めて浮かんだ表情。

「私、もう笑えないよ…」

 溢れだすように、涙がこぼれてゆく。

「笑えなくなっちゃったよ………」

 

               *

 

 何もしてやることはできなかった。心を開いてあげることも、勇気を出してもらうことも何もできず、無力感に打ちのめされるだけだった。四肢を投げ出すように、ベッドの上に倒れこむ。冷たい布団が祐一を出迎えた。あの日に感じた名雪の温もりが、酷く遠いものに感じられた。

 

―……―

気がつけば、駅にいた。

列車がたどり着くホームの上に祐一は立ち、去り行く人々、訪れる人々をただ見つめていた。楽しげに語らう子供、寂しげに笑う老人。それぞれがそれぞれの線路の上で、物語を紡いでいた。なんともなしに駅の外を見つめると、あのベンチがあった。

 

幼いころ、あゆが祐一を待ち、この町に帰ってきた祐一が名雪を待ち、7年前、名雪が来るはずのない人を待ち続けた場所。線路は時として交わる。人の物語もまた、時として交わる。交わり、別れ、傷ついた人々。そしてどこにもいけない自分が、情けないと祐一は思った。

 

―情けないわね―

 懐かしい声が、耳に届く。

―!?―

 信じられない相手が、そこにいた。

―情けない、って言ったのよ―

 金色の髪、幼さを残す声。消えたはずの、物の怪の少女。

―真琴……?―

 真琴が、祐一を見つめていた。

 

―『おかあさん』がああなっているのは知ってる―

 かすかな沈黙の後、意を決したように真琴は言った。

―だれかが『助けよう』って、必死に手を引いているのも―

―舞に会ったのか?―

 心当たりはあった。奇跡使いの力を持つ、一人の少女とその親友。

―そんな名前なんだね。でも、そんなことを言いにきたんじゃない―

 ひときわ厳しい瞳で、真琴は祐一を見すえる。

―なんで『こんなところ』で泣いてるの?―

 胸に痛いセリフを、躊躇なく真琴は言う。

―どうしようも、ないからか……―

 拳を握り、項垂れる祐一。

―なら、舞とか言う人は、まったくの無駄ね。力を無駄に使うだけ―

―?―

―どんな力でも同じ。力を使って何かを成し遂げるのは、強い気持ち。真琴が祐一たちに逢えたのも、祐一が憎いって思っていたから―

 舞の力は、強い気持ちが生み出すもの。真琴の力も、また然り。気持ちがなければ、何も起こらない。

―何年も真琴は、その気持ちを忘れずにいた。わかる?その程度であきらめたら、奇跡には程遠いわよ―

 微かに笑い、真琴は言う。その手には、あの日名雪が手渡したヴェールがあった。

―だから、『二人のおかあさん』のために、祈って―

 真琴の手がヴェールを介して、そっと祐一に触れた。

 

               *

 

目覚めれば、薄暗い部屋。

いつの間にか眠っていたらしい。

外は、雪に覆われていた。しんしんと、雪は絶えることなく降り続いていた。

降りしきる雪は、人の想いに似ている、と祐一は思った。絶え間なく続き、幾重にも連なる。そして、春になれば消えていく。消えた雪は大気となり、新たな雪となり続いていく。長い、果てることのないKanon。

「懲りない男だな、俺も」

微かに笑い、祐一は名雪から受け取った目覚ましに目を向けた。

確かに、諦めが早いと思った。名雪は7年もの間、自分を信じてくれた。あの冬の日の記憶に苦しみながらも、何度も何度も助けてくれた。ならば、まだあきらめるわけにはいかなかった。新たなKanonは、この手で紡がねばならない。

「消そうぜ、悲しみの雪を」

 そうして、『録音』のスイッチを静かに押した。

 

「名雪、起きてるか」

 祐一は一人、名雪の部屋の前に立つ。返事はない。聞いているかいないのか、それすらもわからない。

「俺、待っている。あの場所で、ずっと名雪を待っている」

 だが、祐一はかまわず続けた。

「借りた目覚まし時計、ここに置いておく。もし寝ているのなら、これで起きてくれ」

 そうして、祐一は名雪の部屋に背を向けた。

 

小さなベンチに腰掛け、祐一は雪が舞い落ちる空を見つめる。

初めてこの町に戻ってきた日のことが、遥か遠くに感じられた。わけもわからずこの街を拒絶して、そしてさまざまな邂逅があった。その都度、力になってくれた少女とは、ここで再会を果たした。遠い日に思いをはせ、少女のことを考えていると、誰かに声をかけられた。

 

「何をしているのです?秋子さんのところへ行かなくてよいのですか?」

「そうですよ、こんなところで……」

 美汐と栞だった。怪訝そうに祐一を見下ろす2人。

「一人で行くわけには、行かないだろう」

 その言葉で、いつも祐一のそばにいた少女がいないことに栞は気がついた。

「名雪さん……ですね。どういうことですか?」

「ああ……」

 そして、祐一は今までのことを話す。名雪が心を閉ざしたこと。名雪のために、待っていることを。

 

「なんとも、回りくどいやり方ですね」

 呆れたように、美汐は言った。

「それに……もし名雪さんが来なかったらどうするつもりですか?」

 栞は、少し遠慮がちに問うた。

「いくらでも待つさ。7年の縛鎖に比べれば、たいしたことじゃない。あいつは7年も、俺を信じてくれた。愛してくれたといってもいい」

静かに、それでもはっきりと祐一は言った。

そう、名雪の感じていた痛みと信じていた時間の長さ。それはあまりにも長い。ならば、信じようと思った。かつて名雪がしてくれたことを、今度は自分がしてやろうと思った。

「俺は名雪に対して『恋』をした。だが、あいつは違う。人を欲しいと思うことを『恋』というのなら、誰かを信じて、その人のために尽くすことは『愛』と呼ぶ。少なくとも俺は、そう思う。そして、名雪は間違いなく『愛』を持っていた」

「相沢さん……」

 だから待つのか?と美汐は視線で問う。

「だから、信じてやりたいんだ。俺みたいなどうしようもない男を信じてくれた、あいつの気持ちを」

 苦笑しながら、祐一は頷く。

「祐一さんらしいですね」

 くすくすと栞は笑う。

「そういえば、入院していたんじゃなかったのか?」

「いえ、秋子さんの看病で北川さんとお姉ちゃんが徹夜していましたので、差し入れをゲットと思って抜け出しちゃいました」

 しれっと答える栞。つられて祐一も笑ってしまう。

「やっぱり不良病人だな」

「この場合、何もしないほうが人としては不良でしょう」

 言葉とは裏腹に、美汐も楽しそうだった。

「そうだな……秋子さんのほうは、頼む」

「ええ、任せてください」

 ぽん、と自分の胸をたたく栞。少女たちの気遣いが、心強かった。

「解るか名雪。お前のおかげで、こんなに頼もしい仲間が得られたということに……」

 去り行く二人を見つめながら、祐一は言った。

 

               *

 

祐一の去っていく足音が聞こえた。

一晩中、名雪は眠れなかった。秋子との記憶を思い返し、そして現状を思い出して悲しみに沈み、それから逃れるように記憶を思い返す。安堵の回想と絶望の真実を繰り返す悪循環。

「……おかあさん」

 何度目かの呟きとともに、瞼が重くなってくる。その欲望に抗わず、名雪はベッドに体を横たえた。

毛布に包まり、瞳を閉じる。不意に、祐一の顔が浮かんだ。あの日の夜。一晩中自分を抱いてくれた祐一の暖かさが、今も必死に呼びかける祐一の心が、微かに思い出された。

 

 気がつけば、雪の降りしきる商店街を歩いていた。何故こうしているのかなど、解らなかった。だが、目的だけは決まっていた。

―待たないと―

 呪文のように繰り返しながら、名雪は歩き続ける。ブーツを染みとおしてくるほどに降り積もった雪の中を、ひたすらに歩き続けた。やがて名雪は、駅前のベンチの前にたどり着いた。ベンチに積もっていた雪を払いのけ、うなだれるように腰掛けた。

―………―

 雪は降り続けていた。静かに、それでも確かに振り続ける雪の結晶は、名雪の体を白く染めていく。頭の上に積もった雪が、体温で微かに溶け、雫となってそれはさながら涙のように名雪の顔を降りていく。

―待っているの?―

 誰かの声に、名雪は面を上げた。

―こんにちは―

 声の主は、一人の少女だった。赤いカチューシャ、茶色のコート、羽のついたリュック。よく知っている相手のはずだった。だが、何故か名前が思い出せなかった。

―あなたも、待っているの?―

 少女も同じく、全身雪まみれだった。頭の上には雪が積もり、コートの肩は真っ白く染まっていた。まるで自分と同じかそれ以上に待ち続けているかのように。

―待っていた、と言ったほうが正しいかな―

 少女は空を見上げながら、悲しそうに答えた。

―私も、待っている……のかな?―

 だが、それは違う気がした。確かに自分はここで来るはずのない相手を待ち続けていた。それでも、もうその理由は失っているように思えた。

―違うよ。ボクたちはもう、その理由を失くしている―

 少女の言葉に反論する気はなかった。そう、確かにもう、理由はない。それは確かだと解っていた。

―ボクもキミも、待ち続けた相手に出会った。ボクは真実を取り戻して、キミは傷痕を癒してもらって、ボクたちは本当の意味での再会を果たした―

 淡々と少女は続けた。

―そうだね…私たちは、ここで『待ち続けていた』んだよね。同じ人を―

 少しずつ、記憶が蘇り始めていた。大切な何かが、蘇り始めていた。

―これは、何なの?―

―夢だよ―

 羽の少女は、即答する。

―夢。待とうとする気持ちが作り出した夢。ボクは夢を見続けて、キミは夢と現実を何度も行き来した―

―そうだね。私はそのために夢を繰り返した。『あの人』の代わりに全てを持っていようと思った―

名雪はいつも寝ていた。寝るのが好きだった。

それは何か?簡単なことだった。忘れるのが怖かったのだ。祐一のための決意を。夢はヒトの記憶装置であるという。眠りの中でヒトは記憶を反芻し、脳の中に溜めていくという。いつか祐一と再会したときのために、自分だけは覚えていようと決意した。

―でも。もう夢は終わり。ボク達の夢は、真実と和解で終わりを告げた。解る?―

 確かにそうだった。真実を取り戻したあゆは彼岸へと消え、祐一との心を通い合わせた名雪は、夢を見る必要がなくなった。

―キミのいるべきところは、ここじゃない―

―でも、私はもう、どこにもいけない―

 何がおきているのか、ようやく思い出した。秋子のことを思い出し、一人ぼっちになった自分。

―それは違うよ。ひとついいことを教えてあげる。『キミは一人じゃない』。勇気を出して目を開けば、きっとその意味が解るよ―

 少女の作り物の翼が、白鳥のような純白の翼へと変わる。

―キミの心に救われた人たちが、キミのために祈っている―

 少女は翼を広げ、まばゆいばかりに光り輝く。

―人を『愛せる』、キミのために……―

 そして、夢が終わりを告げた。

 

               *

 

『名雪』

「!?」

 目を覚ました自分のベッドの上で、突如として聞こえた声に名雪は飛び起きた。自分が支えようと、いつも側にいて、そして心を通わせた相手の声が聞こえる。

『俺には、奇跡は起こせないけど』

 扉の外から、相手の声が聞こえてくる。

『でも、名雪のそばにいることだけはできる。約束する』

 扉を開いた先には、自分がかつて渡した目覚まし時計があった。

『名雪が悲しいときは、俺が慰めてやる。楽しいときは、一緒に笑ってやる』

 目頭が熱い、溢れ出る涙が、止められない。

『もう、どこにもいかない。俺は……』

 目覚まし時計を抱きしめ、ただその言葉を聴く。

『俺は、名雪のことが、本当に好きみたいだから……』

 そして、泣き続けた。

……そう、1人じゃないと、今ならわかった。名雪は立ち上がり、コートを羽織る。行こう、あの人のところへ、自分が信じた、そして自分を信じてくれる、あの人の元へ……

 

               *

 

時計を見れば、もう日が変わろうという時間だった。

人通りの絶えた駅前で、祐一は待ち続けていた。目を閉じれば、初めてこの街に戻ってきたときの事を思い出す。

「あの時は、2時間待たされて雪だるまにされたか……」

 つくづく因果な場所だ、と祐一は思った。あゆが、自分が、そして名雪がこの場でひたすらに来るはずのない人を待ち続けた。奇跡は来るはずのない人たちを巡りあわせ、物語を紡いだ。そんな記憶に想いを馳せながら耳を澄ませば、雪を踏む足音が聞こえてくる気がした。

「学校、さぼってる人発見」

不意に、風が和らいだ気がした。

下を見ていた祐一は、女物のブーツが目の前にあることに気がついた。そう、気のせいなどではない。ゆっくりと顔を上げると、そこには待ち焦がれた人の顔がある。

「…遅刻だぞ」

 寒さで思うように動かない唇を、祐一は必死で動かす。

「ごめん。一生懸命走ったけど、間に合わなかったね」

 名雪の頭と肩には雪がうっすらと降り積もり、息も荒い。

「…でも、遅刻はしたけど、間に合ったよね?」

 無言で頷く祐一。名雪の手が、そっと祐一の頬に添えられた。

「祐一、やっぱり私、強くなんかなれないよ」

 凍り付いていたような体に、暖かさが流れ込んでくる。

「だから、祐一のこと頼っても、いいよね?」

「ああ」

 名雪の顔は、涙に濡れていた。

「あの言葉、信じてもいいんだよね。私、消さないよ?証拠、ずっと残っているよ?」

 それでも、笑っていた。

「もし約束破ったら、イチゴサンデー」

「だめだよ、イチゴサンデーでも許してあげない」

 あの日から見られなかった、名雪の笑顔がそこにあった。

「なら、破るわけにはいかないな」

「そうだね…祐一。順番逆になったけど、遅れたお詫びだよ」

 そして、名雪の顔が近づく。

「それと、私の気持ち……」

 静かに、二人の顔が重なる……

―祐一、ずっと言えなかったけど―

 ほんの一瞬、7年前の名雪の姿が、今の名雪の姿に重なる。

―私、祐一のこと、好きだったよ……―

 だから、祐一は言った。あの日以来言えなかった、後悔を打ち払うように。

「俺もだ、名雪……」

 

               *

 

 少年と少女が、待ち続けた人々の前に現れる。

「待ちくたびれた」

 黒髪の少女は、それでも嬉しそうに答えた。

「ああ、すまなかったな……」

 少年は、少女の祈りの手に自分の手を重ねる。

「奇跡を信じることを思い出すのに、時間がかかっちゃった」

 少年の傍らの少女も、それに習う。

「あはは、でも、よかったです」

 黒髪の少女の友が続く。

「そうね、さあ、いくわよ」

「ええ。ふぁいと、です」

「ああ、行くぞ」

 姉妹と、一人の少年も手を乗せた。

「信じましょう」

 赤い髪の少女が、力強く頷いた。

―奇跡は、人を信じる心―

 懐かしい少女の声が聞こえた。

―私たちのお母さんのために―

 今はいない少女たちの声が聞こえた。

 少年と少女たちの祈りが、世界を満たす。

 そして……

 閉ざされた瞼が、ゆっくりと開かれていった………

 

                               −Episode 12:“Jun Kitagawa” end−


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