Kanon
“the pure soul”
闇の中を、彷徨っている。
2人の少女は、闇の中で。
―後悔した?―
目の前で、誰かの声がした。
少女の一人にとっては、懐かしい声だった。
もうどれほど長い間、この声を聞いていなかったのだろう?思わず涙が浮かぶほど、懐かしい声だった。
―夢を終えたことを、後悔した?―
少女は頭を振って答えた。
―後悔なんて、あるわけないよ。あの人を助けられた。無力なボクでいなくてすんだ―
答えた少女の傍に、もう一人の少女も続く。
―確かに、悪くなかった。アイツが嫌いだったんじゃない…それが解った―
―それに、もう『あなたに会える』―
だが、その言葉は声の雰囲気を厳しくさせた。
―それは違う―
―違う?―
首をかしげる少女たちに、声は続けた。
―夢の終わりは常に目覚め。そう、その意味を、あなたたちはもう、知っている―
なにより、あなたたちを待つ人がいるのだから……
Last
Episode :the “Miracle” ―pure
souls―
目を覚ますと、日差しが暖かい。
季節は移ろい、街は初春の様相を呈し始めていた。街を埋め尽くすほどの雪は消えうせ、昨日は今年初めて桜を見た。
例年より早い春の訪れ。それはまるで自分たちを祝福しているようだと祐一は思った。
「そろそろ、あいつを起こすかな……」
いくらか暖かくなってきた空気を胸いっぱいに吸い込み、祐一は起き上がった。すっかり日課になった、少女を起こす朝の光景。
「祐一、朝ご飯できたよ」
と、扉の前から声がかけられた。
「うそだろ……?」
「祐一、失礼」
扉を開けば、すねた顔の名雪がそこにいた。
「すまん」
さすがにばつが悪い気がして、祐一は素直に謝った。
「私だって、ちゃんと起きられるよ。それに、お母さんが帰ってくるまでは、私がしっかりしないと。だから、祐一さんもしっかりしてくださいね」
秋子の口調を真似て、名雪は言う。それでも…
「なんか名雪、最近秋子さんに似てきたな」
そう。名雪は変わったと思う。雰囲気が特に。それは『誰かと支えあおうとする気持ち』がより強く、はっきりとなった故だと祐一は思った。
「うん。そうだね」
心底嬉しそうに、名雪は言った。
「そういえば、秋子さんの退院は今日だったな」
秋子は意識が戻って以来、医者が驚くほどの驚異的な回復を見せ、医者の見立てよりもずっと早く退院できることになった。
奇跡としか言いようがないと言っていたが、事実そうなのだと2人は確信していた。あの日の祈りが奇跡を呼んだのだということは、あの場にいた誰にとっても疑いようのないことだった。
「さあ、朝ごはん食べて、学校行くよ」
「ああ」
名雪に手を引かれ、階段を下りる。窓から見える空は、雲ひとつない晴天。柔らかな春の日差しが、家に降り注ぐ。今日は、いい天気になりそうだった。
「もう、コートっていう季節でもないな」
コートを手に取ろうとして、苦笑しながらハンガーに戻す。部屋の外に出れば、支度を終えた名雪が出迎えてくれた。
「行こうか」
祐一の手をとり、名雪が歩き出す。
「ああ」
外に出れば、心地よい春の日差しと、時折駆け抜ける春一番。天を見上げれば、どこまでも空は青い。このまま両手を広げれば、あの空へと旅立てそうだと思うくらいに。
「わ、桜だ」
風に乗り、桜の花びらが一片、名雪の頭の上に降り立つ。風に舞う桜は、まるで雪のようにも見えた。暖かい、淡く桃色に輝く雪。流れる桜、流れる雪。
その光景はどちらも雪の名を持つこの少女に相応しく、そして美しい。
「もう、そんな季節になったんだな」
感慨深げに祐一が呟く。
「そうだね、いろんなことがあったね。本当に」
そう、この街に戻ってから今まで、あまりにも多くのことがあった。悲しいことも多かった。出会いと別れ、絶望と希望、そのどれもを、2人で乗り越えてきた。
それでもいま、こうしてここにいる。それが何よりも嬉しかった。
*
「祐一さーん!名雪さーん!」
元気のいい掛け声とともに、制服姿の栞が駆けてくる。
屈託のない笑顔と、生命力にあふれたその振る舞いは、もはや死の影など微塵も見えなかった。その後ろには、そんな栞を微笑ましく見つめる北川と香里の姿。
「おはよう、栞ちゃん」
「元気そうだな」
「はい!もう元気バリバリです!」
わざとらしく力瘤を作る栞。その物言いと態度がおかしくて、思わず笑いがこぼれた。
「祐一さん、人の顔を見て笑うのは失礼ですよ」
「いや、悪い悪い。なんか、北川の調子のよさがうつったような気がしたもんでな」
それでも、悪くない変化だと思った。死の影を伴う儚い姿よりも、こうして生気に満ち溢れた姿のほうが、この少女に相応しい。
「おまえな、俺をそういう目で見ていたのか……?」
呆れたような溜息の北川。
「そう言うな、これでも褒めたつもりだが?」
「嬉しくねえよ……」
やれやれ、とでも言いたげである。そんな彼の様子を見つめて、香里が口元を綻ばせた。
「あら、私はずっとそう思っていたけど?」
それが親愛の笑いであることは言うまでもなかった。
「そういえば、栞ちゃんは今日から学校?」
いつもの通学路を、5人で歩く。こうした時間も、あの冬の日以来だった。
「ええ、もっとも、出席日数の関係で、もう一度一年生ですけど」
照れたように頭を掻く栞。
「気にするな」
そんな栞の頭に、祐一は手を乗せる。見上げた祐一の顔は、どこか陰のある大人びた顔つきに見えた。
「栞には時間があるんだ。焦ることはないさ」
だが、すぐに納得する。祐一という人間がこの3ヶ月の間に歩んだ苦難の道。それは過去の後悔に悩む少年を、大人にさせるには充分すぎる試練の道だった。そして祐一は、様々な仲間とともにそれを乗り越えてきた。
「そうですね……」
そして、栞はそんな相手の力になれたことが、嬉しかった。
「そういえば、秋子さんが今日退院するんですって?」
2人を見つめながら、香里が尋ねた。
「ああ」
「なら、私も行きますね。同じ病院ですから」
栞と秋子は同じ病院にいることもあり、知り合いが共通しているところからいつの間にか仲良くなっていた。
「そうだね、みんなで行こうか」
名雪が、それに答えた。
*
『それでは、これにて本年度の卒業式を終了させていただきます……』
アナウンスが流れ、喧騒とともに体育館から人が流れてくる。今日は卒業式があり、祐一達もそれに出席するために来たのだった。それぞれの想いとともに校舎を後にする人々の中、祐一達は目当ての人間を漸く見つけた。
「佐祐理さん!」
「あ、祐一さん。名雪さんも」
声をかけられた佐祐理が、手を振って返す。特徴的な大きなリボンは、卒業式に合わせた袴姿でも外すことはなかった。桃色の小袖と赤い袴が、周りに咲き乱れる染井吉野とあいまって、佐祐理という人間をより魅力的に見せていた。
「卒業おめでとうございます、佐祐理さん」
「はい、ありがとうございます」
一礼する名雪に礼を返す佐祐理。
祐一はこの2人はよく似ていると思った。どちらも過去、大切な人を失い、そして、その後悔を微塵も見せずに、今の大切な人のために尽くしてきた。
「おめでとう。佐祐理さんの友達であることを、俺は誇りに思いますよ」
だからこそ、祐一は想いを告げる。この、彼女達の旅立ちの日に。
「祐一さん……」
佐祐理とて祐一と名雪に何があったか知らないわけではない。だが、祐一にとっても、名雪にとっても、そして自分にとってももう後悔はない。
「はい、佐祐理も祐一さんのお友達であることを、一生誇りに思います」
故に、満面の笑顔を浮かべて、佐祐理は答えた。
「そうですね、私もそう思います」
名雪も続いた。
「それじゃあ、行きましょうかお姫様」
佐祐理と名雪の前でわざとらしく一礼する祐一。
―ぽか!―
と、そんな祐一の後頭部に、無言でチョップが落とされた。
「あははー、もうひとりのお姫様を忘れてはいけませんよー」
振り向けば、舞の姿。赤い小袖と紫の袴姿で、いつものように無表情。
「そうだね、祐一が悪いよ」
それでも、彼らにはわかる。舞もこうして卒業できることが嬉しいということを。そして、彼らの友達であることを誇りにしているということも。
「お前な、冗談を真に受けるな」
「祐一に、忘れられたかと思った」
そして、微かに寂しげな顔をする。卒業とは次のステップへの始まりでもあり、3年間続いた時間の終わり。こうして4人が共有した記憶の時間は、二度と訪れることはない。それが舞にも解っていた。
「忘れたりはしないよ」
舞の瞳を見つめ、祐一は微笑む。
「そうですよ、舞さん」
名雪が、それに続く。小さな子供としての心を持つ舞に対し、幼子に語りかける両親のような二人。舞はそんな2人を暫くぼう、と見つめた後、静かに頷くのみ。
「さて、そろそろ行かないと」
「どうした?」
「お母さんが、今日退院するんだよ。だから、お迎えに行かないと」
「秋子さん、もうよろしいのですか?」
「ああ、お前のおかげだよ。舞」
だが、祐一の言葉に、舞はかぶりを振った。
「秋子さんが助かったのは、祐一達がみんなで信じたからだ。私はただ、それをまとめただけ。それにあの時、誰か別の大きな力があったから」
力の中心となっていた舞は、消えた二人のことも感じていた。
奇跡などではない、と舞は思う。あれは必然だったのだ。生きて欲しいと願う力が生み出した必然の事象だったと。
「そうか…」
祐一も名雪も、それは解っていた。考えるまでもない。夢枕に立ち、その結果へと誘ったのは消えたはずの少女達の意志なのだから。
*
「天野?」
商店街の花屋の前で、花束を選んでいる美汐に出会う。
「相沢さん、水瀬さん」
「どうしたの?こんなところで」
「たまには、会いに行ってあげないと」
そうして、美汐は遠くの丘へと視線を移した。そして2人は思い出す。消えた少女の片方、人の温もりを求めた天邪鬼な少女のことを。
「そうだな……いろいろありすぎて、全然行っている暇がなかったからな」
祐一も共に、ものみの丘の方角へと視線を移した。
―にゃあ―
「あ、ぴろだ」
いつの間にか、美汐の足元に寄り添うぴろの姿があった。
「ねこー…」
アレルギーが出るのも厭わずに、ぴろに近づこうとする名雪。
「止せ。阿呆」
名雪の腕を掴み、自分のほうに引き寄せる祐一。
「ふふ、相変わらずですね」
美汐が笑う。この少女の微笑みは秋子に似ている、と祐一は思った。
母親らしい、包容力のある笑顔。
それは辛いことを体験しながらも、それでもなお他人のために動ける強さが生み出したものだと解った。
「天野も、相変わらずおばさん臭いな」
「そうですか、相沢さんもけっこうおじさん臭くなりましたよ」
そんな美汐の突っ込み返しに、祐一は苦笑する。つられて名雪も笑う。それでも祐一と名雪は気づいていたのだろうか。彼らもまた、美汐と同じ強さを得たことに。
「そういえば、お二人はご存知ですか?」
ひとしきり笑った後、美汐は少し楽しげに問う。
「何をだ?」
首を傾げる祐一。
「あの丘には、まだまだたくさんの妖狐がいるんです……もしかしたらこの街にいる人間の半分は、妖狐なのかもしれませんよ?」
「わ、じゃあお友達にも、結構狐さんがいるのかな?」
悪戯っぽい美汐の口調に、名雪は本当に信じているのか目を丸くする。
「怖いことを言うなよ」
「そうですか?なら、こう考えてみるのはいかがでしょう?」
空を見上げ、美汐は言葉を続ける。
「あの子達一人一人の力は小さい、でも、その力がみんな集まると、とてつもない奇跡を起こすことができる」
「……確かに」
そのことに実体験がある祐一が頷いた。
「なら、もしもですよ、あの子達がまた何かを願うのなら、奇跡はまた起きる」
「……そのときは、また父さんと母さんか?」
真琴の面倒を見ていたことも、今となってはいい思い出だと思う。見知らぬ子供が迷っていたら、今度は後悔などしないように、とも思う。そして、それはむしろ望むところだとも思う。
「そうだね、ふぁいと、だよ。お父さん」
名雪も同じ気持ちだった。
「ああ、頑張ってくれお母さん」
そのことが嬉しくて、冗談がすぐに出てくる。そして、花束をまとめた店員が出てきた。
「それでは、私はこれで」
「ああ、俺たちも今度は行くから」
「はい」
何か、楽しみな気がした。深く考えようと思って、やめる。楽しい予感は、それがわからないからこそ楽しい。ならばそのときまで、その気持ちを抱えていよう。焦ることはないのだから。
*
「ふう、これで全部かしらね」
荷物をまとめ、着替え終えた秋子がベッドの周りを見回す。腕時計を見れば、まだまだ祐一たちが来るまでには時間があった。窓から見える景色は、桃色に染まった病院の並木道。少し歩きたい気分だった。愛用のカーディガンを羽織って、秋子は部屋を出た。
「いろいろ、あの子達には世話をかけたわね……」
病院の廊下を一人で歩きながら、感慨深く秋子は言った。
祐一が戻り、真琴と出会い、あゆと出会い、苦しみ続けた。自分はまだいい。だが、終焉のときを目の当たりにした祐一の苦悩は自分よりも大きいものだったろうと秋子は思った。
名雪もそうだった。痛みに耐え、愛を持ち続けた7年。それでも、苦しいそぶり一つ見せることなく、祐一を支え続けた。
「ふふ、なんだか急に老け込んだみたいですね」
「あ、秋子さん!」
振り向くと、制服姿の栞が立っていた。
「あら栞ちゃん、どうしたの?」
「検査なんです。それでまだ時間があるので秋子さんに会おうと思って」
「あらあら」
それから二人は、いろいろなことを話した。栞の入院生活、秋子と名雪と祐一の家庭、これから先の生活に思いを馳せて。
「そういえば、秋子さんはご存知ですか?この病院の眠り姫の話」
「え?」
「7年前、事故で意識不明になった女の子がいるんです。そして、それ以来一度も目を覚ましたことのない女の子が……秋子さん?」
真剣な秋子の瞳を、初めて栞は見たような気がしていた。
「その病室は、どこですか?」
ただ、その言葉だけを秋子は言った。
*
「そんな…」
「まさか…」
祐一と名雪も、言葉を失っていた。病室の名札には、確かにこう書かれている。
―月宮あゆ―
7年前に消え、そして奇跡の鍵となった少女。この名前は何を意味するというのか。
「秋子さんは、知っていたのですか?」
「7年前のことは…ですが、こうしているとは私も」
祐一の問いに、秋子は頭を振って答える。
「開けてみれば、解るよ」
名雪が、意を決しノブを掴んだ。無言で頷く祐一、秋子、栞。
無機質な電子音と、生命維持装置の規則的な音。薄いカーテンの向こうのベッドに向かって、祐一が一歩足を踏み出す。
「そんな……」
それは、間違いなくあゆだった。
腰まで伸びた茶色の髪、閉じられた瞳、頬のこけた面立ち。7年前の記憶とも、ましてやこの間まで出会っていた姿とも違う。だが、間違いなくあゆであると解った。その証拠に、その胸の上には小さな天使の人形が乗っている。
「知っているよ…一緒に、待っていた」
俯きながら、名雪も続ける。
「でも、どうして」
「原因はわからないそうです。医師も手を尽くしたのですが、どうしても」
秋子もあゆの主治医から聞いたのだが、原因は解らないという事だった。
「俺のせいだ」
「祐一?」
怪訝な表情を見せる名雪に、祐一は続ける。
「あいつは7年前、お母さんを失って悲しんでいた。そして俺と出会った。だけど、あの事故で俺は記憶を捨てて、去った」
「じゃあ、あのときの私と同じ……孤独から逃れるため、全てを否定したの?」
名雪は秋子を失いかけたとき、すべてを拒絶し、引きこもった。ならばこの少女も同じだというのか。孤独から逃れるため、世界の全てを拒否したというのか。
「…どうすれば、いいのでしょう」
全員の気持ちを代弁するように、栞が言った。だれも答えるものはいない。
「祐一?」
祐一が、何かを決意したようにあゆの前に立った。
*
虚無の空間で、あゆと真琴は声の続きを聞いていた。
―待っている、人がいる?―
―そう―
あゆの問いに、声は答えた。
―たとえばそれは、伝承の物の怪―
街が見渡せる小高い丘の上で、何匹もの狐たちが空を見上げている。そしてその中心には、鈴がかけられた小さな十字架。そしてその十字架を守るように、小さな猫が座っていた。
―たとえばそれは、かつてあなたを救った人―
街の病院のある一室で、ひとつのベッドを囲み、一心に祈る人々。かつての少女たちの家族が、祈っている。
―耳を澄ませば、聞こえるでしょう?―
少年の、祈りの声が。
*
「いろいろすまなかったと、思っている。許してくれ、とも言えない」
眠る少女に向けて、祐一は言葉を続ける。
「だけど、これだけは言わせてくれ。かつてお前は、こう言ったな?『ボクはここにいてもいいの』と」
あゆも知っていた。自分が真実ではないことに。だからこそ、その真実を探して、彷徨っていた。そう、あゆは真実を探していた。
「不安だったんだね。独りぼっちになりそうで、でも、私にも解るよ、その気持ち」
名雪がその言葉に続く。
「あゆちゃん。私はかつてあなたに言った。『母親になることはできなくても、家族になることはできる』と」
秋子もまた、言葉を紡いだ。
「あゆさん……だから、私たちは言います。あゆさんを、私を、いろんな人を救ってくれた祐一さんから教わった、あの言葉を」
栞が瞳を閉じ、そして開いた。
――――君は、一人じゃない――――
その言葉が、確かに聞こえた。その瞬間、闇が薄れていくのがわかった。そう、夢の終わりは常に目覚め、長い夢が、終わりを告げようとしていた。
―わ、わ?―
―な、なによこれ!?―
絵の具が解けていくように闇が解けていく。解け落ちた先には、まばゆいほどの光。世界が変容していく。常世と現世との間にできた危うい世界が、消えていく。
―これでもう、いいでしょう?―
そんな二人に語りかける声は、先ほどとはうってかわって穏やかだった。そう、まるで子供を見守る母のように。
―おかあ…さん?―
そう、その声の正体にようやくあゆは気がついていた。7年前のあの時以来、一度たりとて聞いたことのないその声に。
―ボク……ボク……―
言いたいことはいくらでもあった。話したいこともたくさんあった。だが、どれもが声にならない。何を言えばいいのか、解らない。永訣のこの時に、何をするべきかわからない。
―あなたはもう、一人じゃない。あの人たちがいる。目覚めなさい。あなたの真実に―
だが、母はただ、黙ってエールを送る。その言葉で、何を言うべきか漸く解った。
―おかあさん……ありがとう!!―
涙を振りまきながらも、笑顔を浮かべて。
―ええ―
その瞬間、あゆと同じ瞳と髪の色を持つ、一人の女性の姿が浮かぶ。女性は穏やかに微笑み、頷いた。奇跡の起こる瞬間、ひとつの世界が終わり、新たな世界が生まれる瞬間。光に包まれ、そして、少女の夢は終わりを迎えた……
*
雑踏の中で、少女は人を待っていた。
「うぐぅ、遅いよ……」
目にする人々の数は、数え切れないほどに多い。それでも、誰も人待ちの少女のことなど目にもとめず、それぞれの目的に向かって歩いていた。
何度目のため息をついただろう。誰かに、声をかけられた。
「よう、どうした不審人物」
「祐一、酷い……」
聞きなれた人たちの声が、耳に届いた。
「だれがだよっ!」
この相手の性格には大分なれたつもりだったが、言い返してしまう自分が少し悲しいと少女は思った。
「冗談だ、気にするな、あゆ」
「ごめんね、今度私からも言っておくから」
全然反省の色が見えない少年をたしなめる少女。
「そういえば、どうしたんだその帽子?」
少女は、猫の耳がついたような白い帽子を被っていた。
「うぐぅ、実は床屋さんで髪を切ってもらったら…切られすぎた」
落ち込んだように少女は下を向いた。
「あゆちゃん……今度、私の行きつけの美容師さんを紹介してあげようか?」
少年の相手の少女は、心底気の毒そうに言った。
「うん、ありがとう……」
そして、少女は立ち上がった。
「それじゃあ、行こうか」
少年の言葉に、二人の少女が頷いた。
*
遠くに街を見渡せる、山の上に作られた墓地。その一つの前で、祐一、名雪、あゆ、秋子は手を合わせていた。
「目覚める前に、いや、ボクが眠り始めたころから、ずっとお母さんはボクを見守ってくれていた」
祐一たちの顔を見つめながら、あゆは言った。
「そして、ボクたちを導いてくれていた、そんな気がするんだ」
あゆ、祐一、そして名雪。愛娘と彼女に関わった人々。彼らは皆、どこかで大きな力を感じていた。それはあゆがひとつ。そしてそのあゆを支えていた誰か。
「お前がそう言うのなら、そうなんだろう」
空を見上げ、祐一は言った。
「何かが起きたとき、やっぱり頑張らなくちゃならないのは、そいつ自身だ」
何かを悟ったように、淡々とした祐一の言葉が続く。
「それでも、頑張っていれば、誰かがそれを見つけてくれる。そうしてそれは力になる。それが、奇跡だ」
―――――たとえばそれは、ある姉妹の日常。
「お姉ちゃん、北川さんが来ているよ?」
栞が、香里の部屋を覗きながら声をかける。
「解っているわよ!」
香里はドレッサーの前で、いくつもの服と睨めっこ。
「まったく。あの人なら何を着たって可愛いって言ってくれるのに」
「余計なお世話!だいたいなんであんたがあたしのことでそこまでいうの!」
半分やけになったように、香里が言った。
「いろいろお姉ちゃんには苦労をかけたから…だから、今度は私がお姉ちゃんのために頑張ります。失った時間……取り戻したいと思うから」
「栞……」
「だから、これからですっ!」
満面の笑みで、栞は答えた。
「美坂、まだなのかぁ?」
痺れを切らしたのか、階下から北川の声が聞こえてきた。
「ほらほら、北川さんを待たせちゃダメですっ!」
「わかってるわよ!」
少年と少女達のKanon。それはまだ、はじまったばかり。
―――――たとえばそれは、二人の少女。
「舞、ベッドはこれでいいかなあ」
「……大きすぎると思う」
あるデパートの家具売り場で、舞と佐祐理が悩んでいた。
「せっかく一緒に暮らすんだから、いいのが欲しいじゃない」
「別に、佐祐理が一緒ならそれでいい」
卒業後、二人は一緒に暮らすことになっていた。佐祐理が舞を放っておけなかった、というのもある。舞が心配だった、というのもある。
「私は、佐祐理と一緒にいたいから」
「あはは、当然だよ。佐祐理も舞と一緒にいたいよ」
だが、それ以上に一緒にいたかった。大切な相手と、離れたくなかった。
「うん」
舞は頷き、ベッドの手触りを確かめるように撫でた。
よく晴れた日に干された布団を乗せて、このベッドで眠るのは気持ちがいいだろうと思った。そして、佐祐理が一緒ならもっと気持ちがいいだろうと思った。
「これにする?佐祐理」
「あ、舞も気に入ってくれたんだね」
心底嬉しそうに、佐祐理は笑う。
「佐祐理と一緒に寝て、佐祐理と一緒にご飯を食べて、佐祐理と一緒に勉強して、佐祐理と一緒に祐一達に会いに行って……今までできなかったこと、いろいろやりたい」
これから先の未来に想いを馳せ、舞は夢を語る。
「うん、これから一緒に色々やろう。なくしたものは、取り返せばいいから」
舞も頷く。
「さ、それじゃあ次は台所用品だよ!」
「うん」
2人の友は、手を取り合い歩く。なくしたものを取り戻した二人の物語は、これから始まる。
―――――たとえばそれは、ある丘での再会。
春の日差しの中、一人の少女が眠っていた。
狐の毛を連想させる鮮やかな金色の髪、幼さを残す面立ち。綺麗というよりも、可愛いという形容が似合う少女。少女は生まれたての赤子のような無邪気な顔で眠り、その傍らで一匹の猫が丸まっていた。
「こんなところで寝ると、風邪を引きますよ」
誰かが、声をかけた。花束を抱えた赤い髪の少女は少女の側に腰掛け、花束を小さな十字架に添える。
「寝ていたの……?」
少女はうっすらと目を開き、どこか虚ろな瞳で自分を起こした相手を見つめる。
「そうですね……長い間、寝ていたと思います」
見渡せば、不思議な気配に満ちていた。少女達を見つめる狐達の視線、それは彼女のかつての同胞達が、彼女の目覚めを祝福しているかのようにも思えた。
「いろいろ、あったような気がする……」
まだ少女は目覚めきっていないようで、夢と現実が混濁したような感覚なのだろうと理解できた。
「ええ……本当にいろんなことがありました」
赤毛の少女は、目覚めた少女をそっと抱きしめる。
「帰らなくちゃ……」
「ええ」
そっと涙を拭い、赤毛の少女は頷いた。
「ご案内しましょう、あなたを待つ、家族の元へ」
「うん!」
少女は手を引かれ、歩き出す。
待ち焦がれた春。夢でしか知らなかった春。夢は現実となり、少女は待ち人の元へ帰る。
―――――どれもが、呼び起こされた奇跡。
「奇跡だよね。こうしてまた、みんなで笑いあえることは」
名雪が祐一を見つめ、答えた。
「そうだな」
祐一は答え、頷く。
「そろそろ、行きましょうか」
「うん、ボク、おなか空いたよ」
そんな2人を見守る秋子と、新たな世界へ想いを馳せるあゆ。
「ええ、今日は自家製のタイヤキですよ」
「やったぁ!秋子さん大好き!」
秋子に抱きつき、あゆが早く行こうと2人を急かす。
日差しが暖かい。季節は移ろい、街は初春の様相を呈し始めていた。街を埋め尽くすほどの雪は消えうせ、街には桜が咲き乱れていた。例年より早い春の訪れ。それは、まるで自分たちを祝福しているようだと祐一は思った。
「終わったね、私たちのKanonは」
陽光に手をかざし、空を見上げる祐一に名雪はそっと言葉を紡ぐ。嬉しさと寂しさが入り混じったような小さな声で。
「終わり?違うな」
「え?」
太陽がまぶしかった。これからその日差しは、どんどん強くなっていく。季節というKanonが作る、その証だからだ。少女が好きだといったこの街で、これからもKanonは紡がれる。
だからこそ、祐一は言った。
――始まりさっ!!――
全ての、苦しみを解き放って………
There was fully sadness .
−Ayu Tsukimiya−
It was painful, and the mind seemed to become lonely because it was
painful.
−Shiori Misaka−
It came to be defeated at painful, and to want to give it up occasionally.
−Sayuri Kurata−
Still, you were waiting at the end.
−Mai Kawasumi−
It is said, "You are not lonely".
−Makoto Sawatari−
I love you.
−Nayuki Minase−
We were able to meet you, and were really good…………
Kanon “the
pure soul” end
ORIGINAL STORY : KEY
SPECIAL THANKS TO
KURI KURON
Dejavu
Konoe Kasasagi
Bizenya
Gaogao
Neko Tsukiwatari
Kamaboko
Misteafu
Yuzuki
Fusuma
Ryuichi Ootsuka
I
wish to express our gratitude sincerely for goodwill and cooperation of
everybody.
―OROCHI―
参考資料一覧
本作品の執筆に辺り、以下の資料を参考とさせていただきました。
Visual Art's/key/ドリームキャスト用ソフト "Kanon"
Visual Art's/key/ドリームキャスト用ソフト "AIR"
清水マリコ/Kanon〜雪の少女/パラダイムノベル
清水マリコ/Kanon〜笑顔の向こう側に/パラダイムノベル
清水マリコ/Kanon〜少女の檻/パラダイムノベル
清水マリコ/Kanon〜The fox and the grapes/パラダイムノベル
清水マリコ/Kanon〜日溜りの街/パラダイムノベル
森嶋プチ/Kanon1〜2/メディアワークス
エンターブレイン/The Ultimate Art Collection of "Kanon"
エンターブレイン/カノン ビジュアル・コミック・アンソロジー
エンターブレイン/カノン ビジュアルファンブック
ラポート/アンソロジーコミック Kanon1〜21(その他Kanon刊行物含む)
DNAメディアミックス/アンソロジーコミック Kanon1〜14
宙出版/アンソロジーコミック Kanon1〜16
角川書店/Kanon the animation "Dream Days"
依澄れい/Kanon & AIR "SKY"/角川書店
石本理沙/Kanon & AIR "Dreams"/宙出版
内村かなめ/Kanon & AIR 「リフレイン」/宙出版
綾野貴一/Memory my favorite Kanon/宙出版