Kanon
“the pure soul”
雪が降っていた。
灰色の空から、全てを覆いつくすほどの雪が、降り続けていた。
駅前の小さなベンチ、一人で待ち続ける少女。少女の頭には雪が降り積もり、少女が待ち続ける時間の長さが誰にもすぐにわかった。小さな拳を握り、俯き、ひたすらに待ち続ける少女。
「………」
だれかの名前を呼ぶ。それでも、雑踏の中の人々はそれぞれの目的に夢中で、待ち続ける少女の声など聞こえようもない。やがて夜の帳が落ち、誰かが少女の前に現れた。
「こんなところにいたのね、さあ、帰りましょう」
少女によく似た女性は、そっと傘を少女の上に乗せる。
「……ダメだったよ」
少女はただ、小さな声で言う。
「そう……」
女性はただ、そう答える。
「う……ああああああああ!」
少女はただ、泣き続ける。女性はその少女を抱きしめる。ただ、その悲しみを、その痛みを癒そうと……
やがて時が過ぎ、少女は一人の少年と再会した。
「私の名前、まだ覚えてる?」
名前は覚えていた。だが、少年は真実を失っていた。少女はその真実は知らない。それでも、少年がその真実に至れば、耐え難い痛みをおぼえるだろうということは解った。ならば、自分のすべきことは何なのだろう。自分には何ができるというのだろう。
不意に、少女は母のことを思い出す。いつも微笑み、困ったときは助けてくれ、暖かさを与えてくれる母。
ならば、自分も母のように、彼に暖かさを与えよう。できるかどうかなど、わからない。その考えすらも、傲慢かもしれない。
「ふぁいとっ、だよ」
少年と少女はKanonを紡ぎ始める。偶然が引き合わせた少女、栞。夜の校舎から始まった長い戦い、舞と佐祐理。家族を求めた少女、真琴。奇跡に導かれた出会い、あゆ。少年は少女達のために尽力し、少女はただ、少年と少女達のために尽くした。
少年は、悲しみに沈んでいた。少女はそんな少年の肩に手をまわし、必死に歩いていく。
「帰ろう……私たちの家に、帰ろう……」
答えない少年への呼びかけなのか、自分自身への叱咤激励なのか。ただ、少女はその言葉を繰り返す。
痛かった、何もかもが痛かった………
Episode
11:the “pain” ―Nayuki
Minase―
―痛かった、何もかもが痛かった。
そしてあの人は、もっと痛かった。
私には、その痛みを和らげることはできなかった。悲しかった。そして、痛かった……―
−Nayuki Minase−
祐一はただ、眠っていた。時折苦しそうに呻き、汗を浮かべる。名雪は黙ってその面倒を見る。氷枕を額に載せ、汗を拭き、ずっと側に居続けた。
「名雪、あなたはもう寝なさい。後は私がやるから」
秋子の言葉に、名雪はかぶりを振った。
「お願い、こうしていさせて」
あの日、悪い予感がして祐一の後を追った名雪は、駅前のベンチでただ一人、雪に埋もれるように座っていた祐一を見つけた。必死に連れて帰った。そして無理が祟ったのか、祐一は熱を出して倒れた。名雪はひたすら祐一の側についていた。さながら『かつての後悔を取り戻す』かのように……
「名雪……」
「ねえ、お母さん」
何かを言おうとする秋子を制して、名雪は言う。
「私には、何もできないから……なにもできなかったから。真琴にも、あゆちゃんにも、祐一にも」
ぽたり、と布団に落ちる雫。
「祐一は、7年前にとても悲しいことを経験したんだよ。でも、私には何もできなかった。そして今も、本当のことを思い出して、痛くて苦しんでいる」
「そう……そうね」
その言葉で、秋子にも何があったかだいたいは理解できた。
「痛いんだよ。痛くて心が壊れてしまいそうなんだよ。でも、私には何もできない。祐一の痛みを和らげてあげることも、祐一の代わりに苦しんであげることも、祐一の代わりに泣いてあげることも、何もできないんだよ……」
ベッドに顔をうずめ、名雪は言った。
「だから、せめて側に居てあげたい……お願いだよ。今だけは、わがまま言わせて」
「了承」
そうして、無理はしないようにね、と言って秋子は静かに部屋を出た。
自分の部屋に戻り、天井を見上げながら、秋子は呟くように言った。
「解るかしら、名雪。誰かを得たいと願う気持ち、誰かを欲しいと願う気持ち、それを人は『恋』と呼ぶ。でも、あなたはそれ以上に祐一さんに何かをしてあげたいと思っている」
眠り続ける祐一の姿を、その傍らに居続ける名雪の姿を思い浮かべ、秋子は言った。
「その気持ちを、人は『愛』と呼ぶのよ……」
*
目を覚ませば、朝日の輝き。家の軒下に巣を作った、雀の鳴き声が聞こえた。祐一はゆっくりと瞼を開き、そんな光景をじっと感じていた。
「………」
と、近くで誰かの息をする音が感じられた。微かに首を動かせば、そこには寝息を立てる名雪の姿。自分の下の氷枕。ベッドに寄りかかるように眠る名雪。
「そうか……最後まで、世話になったんだな」
思えば、この少女は最後まで自分の側にいてくれていた。結局、自分ひとりの力で今までのことを為しえたわけではない。全ては、誰かの助けがあったからだった。そしてこの少女は、一番多く助けていてくれた。
「うにゅ……」
寝惚け眼のまま、名雪が目を覚ます。体の苦しみはまったくと言っていいほどなかった。
「起きろ、遅刻するぞ」
「う……ん」
祐一の声に、名雪がふらふらと起き上がる。祐一はサボろうか、とも思った。だが、却って一人でいると、余計に辛い。名雪を部屋まで送った後、制服を取り出した。
「おはようございます、祐一さん」
変わらぬ笑顔で、秋子は出迎えてくれた。だが、すぐに心配げな表情を見せる。
「もう少し、寝ていらしてもよろしいのですよ?」
「いえ、もう平気です」
わざとおどけてみせる祐一。
そんなにひどい顔をしていたのだろうかと一瞬思ってしまう。それでも、秋子はそれ以上追求することはせず、すぐにいつもの微笑を浮かべるだけだった。
正直、じっとしていると余計に気がめいりそうだった。ならば、無理をしてでもいつもの生活を貫いたほうがいい。現実に埋没してしまえば、苦しいことも少しは忘れられるかもしれない。そう思っていた。
さく、さくと雪を踏みしめながら、いつもの通学路を2人は歩く。
世界は無慈悲だ、と祐一は思った。誰がいなくなろうと、誰が苦しもうと、そんなことはお構いなしに進んでいく。ふと名雪を見ると、彼女もどこか寂しげ。だが、祐一の視線に気がついた名雪が、あわてて笑顔を作る。
「そういえば、栞ちゃんが一般病棟のほうに移ったんだって。今日は土曜日だし、部活の後でお見舞いに行こうと思うんだけど、祐一も一緒に来ない?」
「……そうだな」
気を使っているのが解った。
こいつは昔からそういうやつだったなと祐一は思い返す。要領が悪く、不器用で、いつも祐一の後を追いかけていた。だが、同時に共にいる人間を知らず知らずのうちに穏やかな気持ちにさせるところがあった。
相手を認め、自分を認め、互いを補完しあうような理想的な人間関係を作る。きっと少女達との出会いの中で、曲がりなりにも今までやってこられたのはこの少女のおかげなのだと今なら思えた。
「あれ、舞さんと佐祐理さんだ」
「ん?」
学校の入り口で、舞と佐祐理が屈みこんで何かをしていた。
「……祐一、名雪」
声をかけられたことに気がついた舞が、振り返って祐一と名雪を見た。
「ええ、実は……」
佐祐理が示した先には、半分崩れかけた小判型の雪と、あたりに踏みにじられた小さな葉とナナカマドの実。
「雪ウサギさん、壊された……」
憮然とした口調で舞が言う。おそらく舞が作ったものだったのだろう。それが気がついたら誰かに壊されていたのだ。
「…………」
だが、祐一には何故かその光景に見覚えがあった。雪ウサギ、崩された、過去の記憶、それは誰の手によって?ぐらり、と視界がゆがむ、偏頭痛が酷い。まるでそれは、過去の古傷をえぐられるかのような感覚だった。
「祐一、どうしたの?」
「祐一?」
「祐一さん?」
そんな祐一の変調に気がついたのか、名雪と舞と佐祐理が、心配そうに上目遣いで祐一を見上げていた。
「あ、ああ、なんともない」
あわてて頭を振り、パンパンと手で頬を叩く。わざと力瘤を作ったり、シャドウボクシングをしてみせる祐一。
「そうですか……?」
佐祐理はまだ釈然としないようだったが、それ以上追求してくるようなことはしなかった。
「直してあげようか」
と、名雪がしゃがみ込み、壊れた雪ウサギの欠片を集め始めた。素手で雪に触れている所為もあって、名雪の白い手が赤く染まってゆく。
「悲しいもんね、『一生懸命作った何かが、何もできずに壊されてしまうのは』」
どこか寂しげな表情を湛えて、名雪は言う。無言で頷き、舞もその作業に加わった。
「あはは、そうですよね」
佐祐理もなにか感じることがあるのか、その後に続く。
暫し立ち尽くしていた祐一だったが、やがて彼も作業に加わった。朝の校舎の片隅で、雪ウサギを作る四人。傍から見ると、なんとも滑稽な光景に見えただろう。いつもの祐一なら、すぐに去っていっただろう。だが今は、違っていた。どうしてか、手を止めることができなかった。
まるでそれは、悪いことをしたときに、その罰として何かをさせられているような気持ちによく似ていた。それは、名雪の顔を見るたびに、確たる現実として浮かび続けていた……
「目がない」
舞があちこち見回すが、目に使ったナナカマドの実が何処を探しても見つからなかった。
「これでは、片方の目しかありませんよね」
佐祐理も残念そうに雪ウサギを見つめていた。
「そうだ、ねえ祐一、これを使っちゃダメかな?」
ポケットに手を入れ、名雪はひとつの小さなビー玉を取り出す。忘れようもなかった。真琴に鈴を買ってやったときに、一緒に名雪に買ってやったものだったからだ。
「お前、もしかしてずっと持っていたのか?」
そうだよ、と名雪は頷いた。
「折角の、祐一からのプレゼントだからね……」
照れたように、それでもどこか寂しそうに名雪は笑う。
「いいんですか?そんな大事なものを?」
「大切なものなら、無理しなくても」
佐祐理も舞も『別にそこまでしなくても』と言っていた。だが、名雪はもう決めているようで、祐一をじっと見つめる。
「いいさ、そんなものでよければ、またいくらでも買ってやるよ」
名雪のそんな顔を見ていると、断ることはできなかった。
「うんっ」
そして名雪は、満面の笑みを浮かべる。
出来上がった雪ウサギは、やはり目の大きさが違うので妙にアンバランスに見えた。
それでも、こうして直せたのだから満足だった。急がないと遅刻だよ、といって名雪が昇降口へと走っていく。舞もそれを追い、後には佐祐理と祐一が残された。
「あいつは……あんなものを後生大事に抱えなくても」
やれやれ、とでも言いたげに祐一は名雪の姿を見つめていた。
「あんなもの、ではありませんよ」
だが、そんな祐一をたしなめるように佐祐理は言った。
「佐祐理さん?」
「大切な人から貰う何かは、その人にとっては本当に大切な宝物ですよ。値段なんて関係ありません」
「大切な人って……別に俺たちは」
言いかけて、何かが胸の奥で騒ぐ。
―きっと、祐一君にとって名雪さんは特別の人なんだね―
かつてあゆに言われた言葉が蘇った。
「さあ、行きましょう。遅刻しますよ」
佐祐理が祐一の手を引き、名雪と舞の元へと駆け出す。後はただ、芝生の上に小さな雪ウサギがぽつんと取り残されているだけだった……
*
「よう、元気にしてるか不良病人」
「酷いですよ祐一さん、そんなこと言う人、嫌いです」
「だめだよ、そんなことを言っちゃ」
栞の病室に入るや否や、祐一のいつもの軽口が飛び出す。そして名雪のたしなめる声もいつも通り。それでも栞は、突然の見舞い客が嬉しいようで、言葉とは裏腹に表情は明るい。
「あら、この間食事制限があるのにこっそりアイスを買いに行こうとして叱られたのは誰だったかしら」
悪戯っぽく香里が笑う。
「あ、あれはあれですよ」
「ま、もう少しの辛抱だろう?無事に退院できたら退院祝いに奢ってやるよ」
慌てる栞に、北川が言う。
「わ、ありがとうございます。『お義兄ちゃん』」
がん!がん!
派手な音をたてて、病室の壁に頭をぶつける香里と北川。
「ま、待ちなさいよ……なんなのよその呼び方は」
額を押さえながら、香里が栞に詰め寄る。
「いえ、いろいろお世話になりましたし……」
そこで北川と香里を交互に見つめ、さも楽しそうに笑う。
「それに、いずれはそうなるのでしょうから」
しれっと栞は言ってのけた。耳の先まで赤面する二人。
「わ、そうだったんだ。全然気づかなかったよ」
「やるな、式場は平安閣か?」
驚く名雪と、これ幸いと笑う祐一。
実際、2人の仲がいいとは知っていたがちゃんと付き合っているとは意外だった。
「そうなんだ。ご祝儀あんまり出せないけど、お幸せにね」
「栞の快気祝いもあるから…そうだな、あんまり出せないよなあ」
「ええい!やめんかおまえらあ!」
楽しそうな祐一と名雪に、真っ赤になって北川が怒鳴り返す。
「あはは、からかいすぎたね。でも、いいんじゃないかな。香里は栞ちゃんのことで大変だったし、北川君は香里の支えになれていたんだから、そうなってよかったと思うよ」
どこか神妙な面持ちで、名雪は言う。
「……そうだな、大事にしてやれよ、北川。大切な相手が『いつまでも側に居る』とは限らないからな」
「相沢……?」
陰のある祐一の表情に、北川が怪訝な表情を向けた。かける言葉が見つからず、気まずい沈黙がその場を支配する。
「あ、ええと、名雪さんはどうなんですか?好きな人、いるんですか?」
場の雰囲気を変えようと、半ば無理やり質問する栞。
「みんな好きだよ」
質問の意図とは違うことを答える名雪に、栞が苦笑しながらも問い直す。
「そうじゃなくて、好きな男の人とか」
「………!」
微かに香里が顔をこわばらせたことに、祐一だけが気づいた。
「……うん、『昔はいたよ』……そして、ふられちゃった」
窓の側に移動し、外を見つめながら名雪が答える。背を向けているため、その表情を窺い知る事はできない。
「その方とは……それっきりですか」
「うん、それっきり」
栞も自分の失言に気がついたのか、言葉尻を濁す。
居心地が悪かった。まだ何か忘れている。祐一は半ば確信していた。あゆを失った後、自分はどうしていたのか覚えていない。そして時折名雪に見出す罪悪感と安心感。つまり、7年前の最後の記憶が、その鍵を握っている。だが、それを見つけ出す術は見つからなかった。
「ああそうだ、あなたたち、テスト勉強はしている?」
気まずい沈黙を破るように、香里が声をかけた。
「テスト?」
まったく聞き覚えがなかった。
「あ、言うのを忘れてたよ。この間祐一が休んだとき、1週間後テストをやるっていきなり言われたんだよ」
名雪が思い出したように言う。
「うわ、マジか……」
とりあえず、現実的な問題が突きつけられる。
ただでさえ転校したばかりで授業内容についていけないというのに、その事を考えると余計に憂鬱になってくる。
「教えてあげようか?」
「そうだな」
とはいえ、名雪の言葉が頼もしかった。
「頑張ってくださいね、みなさん」
栞が両拳を握り、4人に激励する。それは、決して勉強のことだけではなかっただろう。
*
「名雪、いるか?」
その日の夜、祐一は名雪の部屋のドアを叩く。手には勉強道具を携えて。
「うん、はじめようか」
パジャマの上に猫模様の半纏を着た名雪が出迎えてくれる。
見ればもう始めていたようで、名雪の部屋に置かれたテーブルの上には、教科書やノートが広げられていた。向かい合わせに座り、それぞれが勉強を始める。静かな夜だった。互いのペンがノートの上を走る音と、ページをめくる音だけが小さな部屋を満たす。
「眠い……」
「寝るな」
時折眠気を催す名雪に、祐一がチョップを入れる。
「痛い……」
「自業自得だ」
そんなことをどれほど繰り返したことだろうか?不意に名雪が言った。
「そういえば昔も、こんなことがあったよね」
「?」
「祐一と2人で、冬休みの宿題をしたことがあったじゃない。あの、最後の冬に……ごめん、言っていいことじゃなかったね」
「別にいいさ。思い出を閉ざしたのも、心が潰れるのを恐れて逃げたのも……全部俺の弱さだ」
その弱さは、7年の時を経て罰となり襲い掛かってきた。それを自分が受けるのはかまわない。
だが、そのために目の前の少女を傷つけているという罪悪感は拭えない。2人の間にはなくした記憶がある。それはもう確定事項だと祐一は確信していた。
「ねえ、すこし気分転換しようか。頭もすっきりするし、目も覚めるよ」
そんな祐一を気遣うように、名雪は言った。
「そうだな、そうするか」
「滑りやすいから、気をつけてね」
「おっとと……」
言われる側から足を取られそうになる。名雪はベランダへと繋がる戸を開けて、2人でベランダへと出ていた。二人が並んでもまだ余裕があるくらいベランダは広く、外に広がる町並みは、白い闇の中に沈んでいた。家々の屋根はどれもが雪に覆われ、庭の木々は枝に雪を乗せ、そして2人が立っているベランダも、白く雪で覆われていた。街灯の明かりも届かず、部屋の明かりだけが、まるで舞台の役者を照らすスポットライトのようにそこだけに光を落としていた。
「……祐一、この街には慣れた?」
不意に名雪は祐一を見て、訊ねた。
「そうだな……慣れたかも知れないが、やっぱり寒いな」
「当たり前だよ。私だって寒いもん」
瞬間風が吹き、名雪の青く長い髪を微かに揺らす。
「でも、私はこの街が好きだから……」
空には、満天の星空。
「冬は、白い雪に覆われて……」
凍てつく大気は水蒸気すらも凍らせ、星の輝きすらも明確にする。
「春は街中に桜が舞って……」
名雪はそんな星空を見上げ、
「夏は静かで……」
祈るような視線を空に向け、
「秋は目の覚めるような紅葉に囲まれて……」
そして、祐一を再び見つめる。
「そして、また雪が降って、大好きな冬が始まる…この街、ならではだよね」
この街をまた嫌いにならないで、と言うかのように……
*
その晩、再び祐一は夢を見た。
降りしきる雪の中、祐一はひとりで泣いていた。駅前の広場、小さな木のベンチ。そこだけが街灯に照らされて、あたりは闇に沈んでいた。そして、小学生のように幼い、自分の体。涙を拭う。それでも、頬を伝う涙は途切れることはない。
何故泣いているのか、その理由はすぐに解った。これは、記憶の続きだった。あの冬に封じた、最後の記憶の欠片だった。
「やっとみつけた」
不意に、誰かに声をかけられる。三つ編みの、祐一と同じくらいの幼い女の子。見紛うはずはない、あの日の名雪の姿。
「家に帰ってこないから、ずっと探してたんだよ」
白い小さな手は、赤く染まっていた。その両手には、一つの雪ウサギが乗っていた。いままで、それを必死に作っていたのだろう。小さな手が、見るからに痛々しい。
「ほら、これ、雪ウサギっていうんだよ……祐一は明日帰っちゃうから、私からのプレゼントだよ」
だが、それは悲しみに沈む祐一のためだった。手の痛みより、祐一の痛みに苦しむ姿のほうが遥かに痛かった。
「わたし…ずっと言えなかったけど………祐一のこと、ずっと……」
だが、その先の言葉は届かなかった。祐一の手は、名雪の手を払う。雪ウサギが宙を舞う。葉っぱの耳はとれ、目に使われたナナカマドが転がり、雪ウサギはただの雪の塊となった。
「あ……ごめんね」
涙を浮かべながらも必死で名雪は笑う。
「私……悪かったよね」
痛かった。それでも、祐一のために、泣くわけにはいかなかった。
「ねえ、祐一。さっきの言葉、もう一度祐一に言いたいから、明日、もういちどここで会ってくれる?わたし、ここでずっと祐一のこと、待ってるから……」
涙を拭いながら、笑いを絶やすまいとする名雪。
痛いのに、泣くことも、怒ることもせず、笑い続ける名雪。
やがて全てが消えうせ、祐一は幼い頃の自分の声を聞く。
―砕けた雪ウサギ、砕けた心、何もかも忘れて、眠りたかった。この全てを、なかったことにしたかった。それが全ての忘却であると、俺は知るはずもなかった……―
*
『朝〜、朝だよ〜』
目覚ましの声が、意識を現実へと引き戻す。殆ど本能的に目覚ましを止め、今が現実であると知るために、少しの時間を要した。
「……夢?」
そして、今の光景が現実であると認識すると、漸く最後の謎に合点がいった。名雪に対する罪悪感、名雪が漏らした意味深な言葉の意味も今なら全てがわかった。
「俺は……一人で逃げていたのか」
拳を握り、壁を叩いた。
名雪は全てを覚えていたのだ。そして、祐一が記憶を失っていることも知っていたのだ。だが、それゆえに名雪はいつもの自分を貫き通していた。過去の気持ちも、微塵も悟らせようとはしなかった。ただいつか、祐一が過去の記憶を取り戻しても苦しまないように、ひたすら側に居たのだ。いや、それ以前に名雪は、7年もの間ずっと痛みに耐えてきたのだ。
―それは、大好きな人が苦しんでいるのに、何もしてあげられない無力感。
―それは、大好きな人が苦しんでいるのに、側に居てやれない絶望感。
―それは、大好きな人を想い続け、それでも答えは返ってこない寂寥感。
どれもが、耐え難い痛み。しかし、名雪はそんな痛みにずっと耐えてきた。
「名雪っ……!」
そして、何故祐一はここまで名雪を見ているとああまで罪悪感に囚われるのか、何故最後まで名雪にすがっていたのかという理由も解った。
何のことはない。祐一は何もかもを忘れているのをいいことに、名雪に惹かれていったのだ。だが、かつて名雪を傷つけたという気持ちは依然として残り、それが記憶の復活と、本来の気持ちを表に出すことをためらわせていたのだ。
「……」
それでも、気がつけば名雪の部屋の前に立っていた。
我ながら虫のいいことだ、と思う。散々苦しめ、散々利用した挙句、今更赦しを請おうというのか。
だが、それ以上に嫌だったこともある。それは、自分を慕ってくれた相手を、これ以上傷つけること。そして、その相手に対し、何もできないこと。それは、今の祐一にとって耐え難い痛みだった。
「……どーしたの、祐一?」
寝惚け眼の名雪が、のそのそとベッドから出てくる。
「ちょっと付き合って欲しいんだが、いいか?」
「うん……先に下に降りていて」
「あら、今日は早いですね、祐一さん。お休みですから、もっとゆっくりしていてもよかったんですよ?」
朝食の支度をしていた秋子が、声をかけてくる。
「いや、そういうわけにもいかないんです」
「……そうですか」
祐一のいつになく真摯な瞳に、秋子はそれ以上何も問おうとはしない。
「おはようございます〜」
そして、半分以上寝ている名雪が降りてくる。そんないつもと変わらない名雪の様子に苦笑しながらも、祐一は気合を入れるように頷いた。
「行こうか、名雪」
そして、2人がたどり着いた場所。
「私、この場所にはあまり来ないんだ」
そこは、2人にとっては忘れることのできない場所だった。それは、2人が再会した場所、それは、かつて祐一に傷を穿つ要因となった、友との待ち合わせの場所、それは、祐一が名雪に傷と痛みを与えた場所。
「ずっと、待ってしまいそうだから……」
俯き、唇を噛む名雪。
「私、バカなんだよ。昔のこと、ずっと引きずって……」
「名雪…俺は、お前のことを……」
虫のいいことだ、と解っていた。今更こんなことを言うのは卑怯だとも解っていた。それでも、言わずにはいられなかった。
「ずるいよ…いまさらそんなこというなんて」
くぐもったような名雪の声が、耳に痛い。
「ダメだよ……祐一に言いたかった言葉、もう忘れちゃったよ…」
名雪が逃げるように去っていき、祐一は追いかけることも、止めることもできない。ただただ力なくうなだれ、へたり込むように後ろのベンチに腰掛けるだけだった。
「あいつも、ずっと待っていたのかな……」
冷え冷えとしたベンチが、祐一の体を芯から冷やしていく。見上げれば、どんよりとした曇り空。自分と名雪の心を表したような空を、祐一はいつまでも見続けていた。
*
「くそ…はかどらないな」
その日の晩、祐一はひとり勉強道具を広げ、テスト勉強に勤しんでいた。だが、全然進まない。昼間の一件以来、名雪とは口を聞いていなかった。否、話すことができなかった。悶々とした気持ちを抱えたまま、どれほどそうしていたことだろうか。
―こんこん―
不意に、誰かが何かを叩くような音が聞こえた。それはベランダに繋がるガラス戸から聞こえていた。気になった祐一がカーテンを開け、そして言葉を失う。
「名雪……」
「少し、話してもいいかな」
頷き、祐一はベランダに出た。今気づいたことだが、祐一の部屋と名雪の部屋はベランダで繋がっていた。
2人でベランダの手すりに寄りかかり、宵闇に霞む街を見つめる。街灯の明かりも遠く、街の明かりはなお遠い。そんな景色を見つめながら、名雪が口を開いた。
「私ね、ずっと考えたよ。あんまり頭はよくないけど、どうして私は昔のことを引きずっているのかって、一生懸命考えたよ」
「ああ…」
ただ、祐一は名雪の言葉を待つ。
「だから、イチゴサンデー7つ」
「?」
俯いていた名雪が、じっと瞳を上げて祐一を見る。
「それで、許してあげるよ」
そして、満面の笑み。
「私、祐一のことが、まだ好きみたいだから……」
「名雪……」
そして、小さな二つの影が、一つになった。
夢のような時間。互いのぬくもりも、胸いっぱいに広がる相手の香りも、まるで夢を見ているよう。それでも、一つのベッドの上で同じ毛布に包まりながら、互いの暖かさを感じる。だから、これは真実の時間。
「ねえ、祐一」
名雪は祐一の腕を枕にして、静かに言葉を紡ぐ。
「私ね……祐一が記憶を失っているって解ってた」
「……そうか」
祐一はただ、名雪を抱きしめる。もういい、何も言うな、お前がこれ以上傷つくことはないと言わんばかりに。
「だって、そうじゃなかったら、あそこにいられるはずがないよね……」
そう、2人の再会したあの場所は、祐一にとっては、来るはずのない友を待ち続けた場所。
「ごめんね…」
それは雪の中待たせたことに対してなのか、それとも、自分がその場所を指定したことに対してなのか。
「いいんだ…全部、俺が弱かったからいけないんだ。痛みに耐えることも、立ち直ることも放棄して、逃げていた俺が悪いだけだ」
名雪を抱きしめる手に力がこもる。誰かを傷つける痛み、誰かを殴った拳は、何よりも痛いということを、今の祐一は誰よりも理解できていた。
「いいんだよ、もう……」
たおやかに微笑み、名雪は祐一の頭を撫でる。
「ねえ、私、このまま眠ってもいいかな」
見れば、名雪の瞼が下りかかっていた。ああ、と頷く祐一。
「うん……おやすみなさい」
すうすうと安らかに寝息を立て始める名雪。祐一はそんな名雪の寝顔を、飽きることなく見つめていた……
*
「朝〜朝だよ〜」
目覚めは、いつもの目覚ましの声。
「朝ごはん食べて、学校行くよ〜」
これほど気持ちのいい朝は、いつ以来だっただろうか。緩やかな朝の日差し、微かに残る、愛しい相手の香り。
「まだ、眠っていたい……」
それを、まだ感じていたかった。
「起きないと、乗っかるよ〜」
「ご自由に……」
と、答えたときだった。
「えい!」
「ぐあっ!」
あわてて目を覚ますと、制服姿の名雪が祐一の上に馬乗りになっていた。
「目、覚めた?」
悪戯っぽく笑う名雪が、新鮮だった。
「嘘だ、名雪が俺より早く起きて、もう着替えているなんて……」
「祐一、酷いこと言ってる。それに……」
それでも、口調とは裏腹に楽しそうに名雪はベッドから降り、振り向きざまに言った。
「祐一と、同じことがしたかったんだよ」
その微笑が、素直に可愛いと感じられる朝だった。
「あら、珍しいわね。名雪がこんなに早く起きてくるなんて」
下に降りると、秋子も驚きに目を丸くしていた。
「お母さんまで……」
「気持ちは解ります。俺もびっくりしましたから」
そんな秋子の様子が楽しくて、祐一もついつい会話が弾む。
「だったら、今度は私が祐一を毎朝起こしてあげるね」
「そうだな…」
胸を張る名雪の様子を、微笑ましく見つめる秋子。
「良かったわね……2人とも」
そして、嬉しさと寂しさが入り混じったような表情を秋子は見せる。
嬉しいのは解った。秋子が名雪の気持ちを知らなかったわけはない。こうして2人が笑い会っている姿、それの意味することを解らないはずはなかった。だが……
「秋子さん?」
寂しげな理由が気になった。そして、すぐにその理由が解った。食卓のパンは5枚、そして、此処にいる人間は3人。
「お母さん……」
そこで、名雪は初めて秋子は一人であったことに気がついた。自分と祐一はお互いを支えあうことで、この苦しみを乗り越えられた。
だが、秋子はどうなのか。娘と呼べる相手を二人も失い、そしてその気持ちを隠して、祐一と名雪を見守っていた。
「大丈夫ですよ」
それでも、いつもの笑みをすぐに見せる秋子。
玄関で、いつものように2人を送り出す秋子に、名雪は言った。
「お母さん……気をつけてね」
悪い予感がしていた。なぜかは解らない。それでも、言わずにはいられなかった。
「大丈夫よ。そうだ、今日は名雪の好きなイチゴケーキを買ってくるわね」
「うん、いってきます」
そしてそれは、決して予感などではなく―――――
*
「相沢と水瀬はいますか!」
五時間目の授業中、担任の石橋が息せき切って飛び込んでくる。
「どうしたんですか?」
ただならぬ様子に驚きながらも、祐一と名雪は石橋の側へ行く。
「水瀬のお母さんが、事故に遭われた」
「嘘………!」
色を失い、ふらつく名雪をあわてて祐一が支えた。
「タクシーを呼んである。早く行きなさい」
祐一はただ、その言葉に頷くしかなかった。
行く途中、やけに道が混んでいた。絶望と焦燥が入り混じった面持ちで外を見ると、その理由がすぐに解った。
――原型をとどめていない車。
――慌しく現場検証をする警察官達。
――そして、つぶれかけ、雪が積もったイチゴのケーキ。
祐一は吐き気を堪えながら、震える名雪の肩を抱く。イチゴのケーキを買ってくるといっていた秋子の姿が、やけに遠い。
雪が降っていた。
惨劇の場所を、白い雪がゆっくりと覆い始めていた…………
−Episode 11:“Nayuki Minase” end−