Kanon     “the  pure soul”

 

 小さな少年が、泣いている。

「どうしたの?」

 少女は、優しげに声をかける。

「…………」

 だが、少年の泣き声は止むことはなく、ただ、自分に起きた絶望に彩られていた。少女はただ、そんな少年を見て、自らの瞳に涙を潤ませる。

 

秋子はただ、そんな2人を抱きしめるのみ。何故こうなっているのか、秋子自身は解っていた。

だが、なにをしようというのか、何ができるというのか。この少年が直面した真実は、少女に押し付けられた真実は、あまりにも重かった。外に広がる、灰色の空。大気を覆う、雪の乱舞。

いっそのこと、この雪に全てを消してもらい、楽になれたらどれほど良いことだっただろう。それは遠い日の記憶。

 

「……?」

 ゆっくりと瞼を開くと、見慣れた天井と誰かの寝息。

「あゆちゃん……?」

 秋子のベッドの傍らでは、毛布をかけられたあゆが小さな寝息を立てていた。その後ろでは、仲良く肩を寄せ合って、壁に寄りかかりながら眠っている祐一と名雪。

「しょうがないわね……」

 あゆを起こさないようにベッドから降り、余っていた布団を二人にかける。本来は自分がやるべきであった仕事を、2人で片付けてくれたのだと解った。

「ありがとう……みんな、でも……」

 三人の寝顔はどれもが穏やかで、無邪気。どんな苦しみも、どんな痛みも忘れて眠る赤子のように安らかだった。

だが、黒い予感が胸の中をよぎる。彼らの長い追想曲は、いまだ途中。そして曲を奏でるに至った真実を、3人はだれも思い出してはいない。だからこそ、秋子は祈った。

 

……心から愛する、3人の子供達へ。

 

            Episode  10:the “truth” ―Akiko Minase―

 

―真実、それはあの子達を捕らえる、7年の縛鎖。

   真実、それはあの子達を苦しめた、残酷なるもの。

    終わりなど解らない。せめてその終わりが、あの子たちに安らかなものでありますように―

                         −Akiko Minase−

 

「それじゃあ、ボクはこれで帰ります」

 夕食の後、あゆが秋子に深々と頭を下げた。

「別に今日も泊まっていってもいいんだよ?」

「うん、だけどずっといるのも悪いから」

 どこか寂しげな笑みと共に、あゆは答える。そんなあゆに向かって、秋子は諭すように言った。

「ねえあゆちゃん。私はあなたのお母さんになることはできないかもしれないけど、でも、家族になることはできると思うの」

「!」

 あゆが驚いたように目を見開く。秋子は知っているのだろうか、自分のことを。

「だから、またいつでも来てちょうだい。歓迎するから」

 

 そして、途中まで送ると言った祐一と共に、あゆは歩いていた。

「ねえ祐一君。秋子さん……ボクのことを知っていたのかな?」

 先程の言葉は、知っていなければ言えない。

「さあな。最も、あの人は聡明なひとだから、お前のことにも気がついていたんだろう」

 真琴のこともあった。あゆについても、知らないまでも気がついてはいたと祐一は思った。

「そっか、そうだね。あ、ボクはここだから」

 あゆが立ち止まり、道を指差す。

「ああ、知らない人にタイヤキあげる、なんていわれてもついていったらダメだぞ」

「うぐぅ!そんなことしないよっ!」

 言いながらも、あゆは笑いながら去っていく。まるで宵闇に溶け込むかのように……

 

               

 

「あれ、2人とも今帰り?」

 次の日の帰り道、2人は再びあゆと出会った。

「ああ、お前はどうした?」

「ボクも学校帰りだよ」

 いつものダッフルコートに羽リュックといういでたちで、あゆは答えた。

「へえ、あゆちゃんの学校って私服登校なんだ?」

「そうだよ。ボク、学校大好きだもん。でも、名雪さんの制服も綺麗だよね。ボク、一回着てみたいな」

「そうだね。だったら私の予備の制服があるから、また家に来る?お母さんも喜ぶよ」

「え、いいの?」

「もちろんだよ」

 わーい、と全身で喜びを表し、あゆが2人を急かしながら先に走ってゆく。

「まったく、相変わらず子供っぽいやつだな」

 苦笑しながら、祐一は言う。

「相変わらず?祐一、昔もあゆちゃんに会ったことがあるの?」

「ああ……随分昔にな。初めて会ったとき、お互いに子供だったけど、あいつは『昔からのまま』な気がする。だからか、何かほっとけないんだよ」

 そうなんだと頷き、名雪は困ったような悩んでいるような曰く言いがたい表情を見せる。

「きっと、祐一はあゆちゃんのことが好きなんだよ」

「それは絶対にない」

 言葉とは裏腹に、何か引っかかるものがあった。

 

               *

 

 その日の晩も、4人で夕餉を囲んだ。

その後は初めて名雪の制服を着たあゆの姿を見た。そんなあゆをからかう祐一、祐一をたしなめる名雪。そしてその光景を見つめる秋子。4人で他愛のない話をして、夜がふけていく。

 

そして再び、祐一は夢を見る。過去の記憶を宿す夢を。

「ねえねえ祐一君、あれはなに?」

 あゆと商店街を歩いていると、一軒のゲームセンターの軒先にあゆは視線を移していた。見るとクレーンゲームが設置されていた。透明なボックス内のケースの中にクレーンがあり、クレーンを操作して中の人形をとるというオーソドックスなものである。

「クレーンゲームだ」

 そして、内容を説明する祐一。見るとあゆは、小さなマスコットに心奪われているようだった。小さな天使の人形。頭にはわっかがあり、背中には小さな翼。フェルトでつくられた顔は笑顔を向けている。

「取ってやろうか?」

「ほんとに?」

「ああ、これでも得意だからな」

 そうして、コインを投入して祐一は筐体の前に立った。

 

「ねえ、祐一君」

「まて、あと少しでどうにか……」

「前もその台詞を言ったよ」

 気がつけば、時計の長針が一周するかどうかという時間が経っていた。何度両替機と筐体の間を往復したか解らない。気がつけば、今年のお年玉を全て使い切っていた。

「………」

「まあ、こんなこともあるよ」

 必死でフォローを入れるあゆ。祐一は肩を落としながら、とぼとぼと帰っていくだけだった。

 

 翌日の昼のことである。いつものように祐一を待っていたあゆは、待ち人が来たことに気がついて立ち上がっていた。

「遅かったね。どうしたの?」

「ああ、ちょっとな」

 そうして、懐から何かを取り出す。

「祐一君……これ」

 驚きに目を見開くあゆ。

「ああ、何とか今日は一発で取れた。あのままじゃあ、プライドに関わる」

「祐一君……ありがとう!」

 照れたように頭を掻く祐一に、あゆは歓喜の表情を浮かべた。

 

「俺、もう少ししたら家に帰らなくちゃならないんだ……」

 巨木の下で、祐一は言った。もともとこの街には名雪の家に遊びに来ていただけだった。冬休みが終われば、帰らねばならない。

「そっか…」

木の上のあゆが、寂しげに呟く。

自分が戻れば、この少女は一人きりだった。名雪や秋子に紹介することも考えた。だが、この少女は自分を頼っていることも事実だった。なら、自分が何かをしてやるべきだと思った。

「なああゆ、さっきの人形、実はただの人形じゃないんだ」

「え?」

「それはな、持ち主の願いを3つまでなら叶えてくれるっていう不思議な人形なんだ」

「……誰が叶えてくれるの?」

 いかにも「胡散臭いなあ」という表情であゆが言った。

「俺だ」

「あはは、そうなんだ」

 そんな祐一の気遣いが嬉しかった。そのぶっきらぼうな態度の中で「君は一人じゃない」と言ってくれている気持ちが嬉しかった。

「そうだね…なら、ボクのことを覚えていてください。祐一君が自分の街に帰っても、時々でいいから、ボクのことを思い出してください」

「ああ、解った。約束だ。俺はあゆのことを忘れないし、必ずこの街に戻ってくる」

「うんっ!」

 満面の笑みで、あゆは答えた。

 

「あとはね……ボク、祐一君と一緒に学校に通いたい。一緒に勉強して、一緒に給食を食べて、一緒に帰りたい……ダメかな、こういうのは」

 同じ時間を過ごしたいと思った。自分を孤独からひろいあげてくれたこの少年と、共有できる記憶が欲しかった……例え、独りに戻っても彼を待ち続けることができるくらいの。

「よし。なら、今日からここが俺たちの学校だ。テストもない、宿題もない。怖い先生もいない。俺たちの学校だ」

 両手を広げ、祐一は言う。

「そして、給食はタイヤキ。毎日色々なタイヤキが食べ放題!」

 つられて、あゆも言う。少年と少女の笑い声が木霊する。2人は笑っていた。別れが必然であると言うのなら、せめてより多くの2人の記憶を作ろう、その想いと共に。

 

 帰る頃にはもう空は緋色に染まり、2人の後ろに長い影が引かれていた。

「あ、これいいね」

 道すがら、あゆは地面に落ちていた小さなガラス瓶をひろいあげた。

「何するんだ、そんなもの?」

「祐一君、タイムカプセルって知ってる?」

 頷く祐一。そしてあゆは、先程の人形を取り出した。

「これを埋めようと思って」

 そうしてあゆは、瓶のふたを開けて人形を入れる。

「何でまた?」

「最後の願いを、残しておきたいからかな」

 茜色に染まる空を見上げながら、あゆは答える。

「ボクはもう二つもお願いを叶えてもらったからね。だから、最後の一つは未来の自分、もしかしたら自分じゃない他のだれかのために贈りたいから、かな」

「おいおい、かなえるのは俺なんだぞ」

 あゆの言葉に、祐一は苦笑する。

「頑張ってね、祐一君」

 笑いながらも、何処からか拾ってきた枯れ枝で、地面を穿り返し始める。祐一もそれに習い、二人で地面を掘り返す。そんな、ある落日の光景だった。

 

               *

 

「こんにちは、祐一君!」

 例によって、学校帰りにあゆに声をかけられた。

「あれ、名雪さんがいないね?」

「ああ、今日は相当遅くなるから先に帰ってくれって言われたんだ」

 とはいえ、まだ一人で家に帰ろうと思えるほど立ち直りきっていたわけでもなかったし、今朝の夢の意味を問い直していると、いつの間にか商店街をぶらついていただけだった。

「お前こそどうしたんだ?相変わらず変なリュックを背負って」

「変じゃないよ!これは勉強道具とかが入っているんだよ!それにボクも学校帰りだよ」

 一気にまくし立てるようにあゆが言った。祐一は苦笑しながらも答える。

「にしても、どんな学校なんだ?俺はここに戻って日が浅いから、他の学校の事なんて知らないからな」

 あゆは以前私服登校だと言っていたが、詳しい話を聞いたことがなかった。

「うーん、そうだね。『テストもない、宿題もない。怖い先生もいない、給食にはタイヤキがついたりもする』よ」

「えらく都合のいい学校だな……」

 だが、何故だろうか。何かあゆの言葉には引っかかるものがあった。故に、祐一は言ってしまったのだ。

「なら、これから一緒に連れてってくれよ」

 崩壊を始める、その言葉を。

 

               *

 

「そんな……」

 眼前の光景を見て、あゆは絶句していた。あゆに連れられていった場所。そこは森の中の小さな空き地だった。その中心に、大きな木の切り株が一つあるだけ。周りは鬱蒼とした森。

「なあ、場所を間違えたんじゃないのか?」

 祐一も心中穏やかではなかった。

自分にもここには覚えがあった。忘れようもない。7年前、あゆと2人で過ごした『学校』に他ならないのだから。あゆの話した学校の内容。そして今のこの光景。夢と現実が奇妙なシンパシーを持つ。

「そんな、そんなはずはないよ!今日だってちゃんと学校に……」

 リュックをひっくり返したあゆが絶句する。その中には、何も入っていない。その姿はまるで母親に置いてけぼりにされた子供のようにか細く、危うい。

「ボクは……ここにいたらいけない人間なの?そんな……探さなくちゃ!早く!」

 そしてあゆは脱兎のごとく駆け出す。

「おい、待てあゆ!」

祐一はあゆの落としたリュックを引っつかみ、あゆの後を追う。

しかし何故だろうか?あゆの走るスピードは信じられなく速い。まるで風が駆け抜けるがごとく、木々の間の道なき道を疾駆する。どれほど走ったことだろうか、やがて2人は、初めて互いのことを思い出したあの並木道にたどり着いていた。

「あゆ、どこだ!」

 夜の帳が落ちた空、薄暗い街灯の明かりを頼りに、祐一は必死にあゆを探す。どれほど探したか、やがてあゆの姿が目に映った。

「あゆ……?」

なんと表現したらよいのか。

あゆは呆然と地面にへたり込んでいた。その周りには掘り返された穴の数々。小さな手は土に汚れ、寒さに青白く染まり、血が滲んでいた。今にも泣きそうな瞳で祐一を見上げる。なにかにすがるように……

「もう、一緒にはいられないね」

「おい、どういうことだ、あゆ!」

 訳がわからなかった。ただ、ひどく悪い予感が頭をもたげていた。乱れる心に導かれるように、祐一はあゆの側に寄ろうとする。

「なに……?」

 だが、祐一の手は空しく空を切る。あゆのへたり込んでいた場所には何もなく、辺りにはほじくり返された土の跡と、小さな穴がいくつか残るだけだった。

「俺は……何を忘れている?」

 何故か、そんな言葉が口から漏れた。

 

               *

 

 夢を見ていた。

 その中の祐一は、「A」のイニシャルがついたシールが張られた紙袋を持ち、森の中を走っていた。

あゆと会える最後の日に、せめて何かの贈り物をと思いながら必死に選んだ。気がつけば約束の時間を大幅に過ぎ、待ち人である少女が頬を膨らませている姿が浮かんだ。

「遅れた遅れた、気合をいれすぎたかな」

 それでも、贈り物を選び、その相手が喜ぶ姿を想像すると、不謹慎と思いながらも頬が緩んでくる。そして視界が開け、いつもの場所へとたどり着いた。

「遅刻だよ!祐一君」

 祐一の頭上からかけられる声。見ればあゆは、木の上に腰掛けたままこちらを見下ろしていた。

「悪い悪い、遅れたな」

 照れくさそうに笑いながら、祐一は頭上のあゆを見上げた。

「とりあえず降りてこいよ。渡したいものがあるんだ」

「え、そうなんだ。わかったよ」

 そうしてあゆが木の枝の上に立った瞬間、『それ』は起こった。

 

――ひゅうっ!――

 

 ひときわ強い風が吹いた。そう、ただそれだけだった。

「あれっ?」

「あゆ!?」

それはただの風、それでも、小さなあゆの体を一押しするには充分すぎる威力だった。

ほんの一押しの力。だが、押し出された先は虚空の空間。風に吹かれた木の葉が舞うように、あゆの体が宙に舞う。そして次の瞬間は、重力という縛鎖に引かれたまま、地面へと加速度という力も加えられて引きずられて行く。降り積もった雪も、その衝撃を受け止めるには至らなかった。

地面に叩きつけられたボールのようにあゆの体は跳ね、そして別の場所へと投げ出された。

「…………」

 白い雪が、あゆの体が、赤く染まってゆく。あゆの命が、流れてゆく。

「あゆ!」

 我に返った祐一が、あゆを抱き起こす。

「あゆ、しっかりしろ、あゆ!」

「あはは……落ちちゃったよ、ボク、木登り得意だったのに」

 微かに目を見開くあゆだが、その瞳は焦点が合っていない。

「しっかりしろ、あゆ、今、今病院へ連れてってやるから!」

 あゆを抱きかかえる祐一の手は、真っ赤に染まっていた。生暖かい赤い液体が、あゆの流れていく命そのものだろうかと思ってしまう。

「ねえ、祐一君……また、またこの街に戻ってきてくれる?」

 虚ろな瞳で、右手を上げるあゆ。

「ああ、戻ってくる!必ず戻ってくるから!」

 その言葉に微かに微笑み、小指を差し出すあゆ。

「なら……ゆびきり」

「ああ、指きりだ」

 祐一も片手を差し出し、その小指を絡める。

「うん………約束、だよ」

 そして指が絡められる。だが、それだけ。

「おい……切らないと指きりにならないだろう?」

 あゆの瞳は閉じられ、唇は何も語らない。ただただ、赤いものが流れていくだけ。

「あゆ、あゆ!」

 『いのち』が流れてゆく。赤い『いのち』はその周りを赤く染めていく。放り出されたあゆへのプレゼントの袋が、投げ出された弾みに開いていた。流れ出したあゆの『いのち』が白い袋を赤く染めてゆく。小さな赤いカチューシャが、赤い『いのち』に彩られてゆく――――――

------------------------!」

 

               *

 

「はあ、はあ、はあ」

声にならない叫びを上げて、祐一は目を覚ました。

思わず手を見てみる。いつもの自分の手だった。それでも、感覚ははっきりと覚えていた。血にまみれたあゆの体を、体温を失ってゆく、小さな少女の姿を。

記憶の扉は開かれた。そして同時に、真実も明かされた。だが、その真実はあまりにも残酷な真実。小さな少女、いないはずの少女、今なら全てが納得いった。何故『昔のままだ』と思ったのか、『都合のいい学校』だったのか。彼女はあのときに確かに消えたのだ。

それでももう一度会うという約束はあゆの魂を留まらせ、夢のようにこの街で祐一を待ち続けていた。そうして祐一が戻ったときに、夢の少女は真実となり姿を現した。

「これは……そういうことなのか?」

 祐一の荷物にまぎれていた赤いカチューシャ。それは間違いなくあのときのものだった。そして、血にまみれたそれは、先程の夢が真実であるという証。だが、ならばどうすればいい?全ては『終わった』ことなのか?自分は最早『何もすることができない』というのか?焦燥感に苛まれた祐一が、頭を抱える。

――ボクは……ここにいたらいけない人間なの?そんな……探さなくちゃ!早く!―-

 不意に、先程のあゆの言葉が蘇る。探す、とあゆは言っていた。それは……そしてあゆがほじくり返していたあの場所は……

「アイツが探しているのは……あの人形?いや違う……あれが、あいつの『接点』。あゆは、この世界とのつながりを探していた」

 何もかも失った人間が求めるものは、決まっていた。それは、自分とこの世界を繋ぐ接点となりうるもの。夢にしか過ぎない自分を現実へと結びつけた、その奇跡の証。

「……あいつに、返さないとな」

 不意に、あゆの残したリュックが目に付いた。そうだ、あゆの追想曲はまだ終わっていないのだ。あゆが7年間追い続けた想いを、あゆを縛っていた鎖を解き放たねばならない。

自分の頬を叩いた。朝の冷気と痛みが、意識を鮮明にしてくれた。

「ふぁいと、だ」

 

「名雪、頼みがある」

 終了のチャイムと共に、祐一は名雪の前に来た。

「どうしたの?」

 祐一の真摯な気迫に押されて、名雪が微かに驚いたような表情を見せた。

「人手がいる、助けて欲しい」

 暫し見つめあう祐一と名雪。

「祐一、もしかして……『思い出した』の?」

 祐一の顔は『何かを為さねばならない』という使命感に燃えていた。そしてその意味に、心当たりはあった。

「……知っていたのか?」

 だが、名雪はかぶりを振る。

「祐一がこの街を嫌った理由、来なくなった理由……何か『全てを忘れたいくらい悲しいこと』があったことだけは解るけど…」

「そうか」

 いずれ名雪には話さねばならないと思った。名雪も口にこそ出さなかったが、心配していたのだろう。

「ごめん。変なことを言ったね。うん、私はいいよ」

 そうして、いつものように名雪は微笑むのだった。

 

「で、俺たちは何を探せばいいんだ?」

 件の場所に集められた人間は多かった。北川、香里、舞、佐祐理、美汐、そして名雪。栞はまだ入院中とのことで、手を貸せなくてごめんなさいだそうよと香里が言っていた。

「小さなガラス瓶だ。中に天使の人形が入っている」

「…ここにあるの?」

 舞の問いに、頷く祐一。

「解った」

 舞はそれ以上は何も答えようとはせず、シャベルを握り締めた。

「解ったわ。はい」

 香里が針金を取り出し、それぞれに配る。

「これを地面に差し込んで、ヒットしたところを掘れば効率がいいでしょ?」

「わ、さすが香里」

 名雪が感嘆の声を上げた。

「では、はじめましょう。日が暮れる前に終わらせないと」

 美汐の言葉に全員が頷く。

「そうだね、みんな…」

「あははーっ、ふぁいと、ですね」

「佐祐理さん……それ、私の台詞」

 キメ台詞?を佐祐理にとられた名雪が、少し悲しそうな表情をする。それでも、こうして手伝ってくれることが嬉しかった。

「ありがとう、みんな」

「いろいろ、相沢君たちには世話になったから、当然よ」

 香里は、嫣然と微笑んだ。

 

 そして、夜の帳が落ち始めた頃だった。

「おい、これじゃないのか!!」

 北川の声に、一同が集まってくる。北川の手に握られているのは、半分壊れたガラス瓶の中に入った、壊れた人形。

「ああ……間違いない」

 感慨深げに涙を浮かべ、それを抱きしめる祐一。

「それにしても、随分ボロボロですねえ」

 佐祐理の言うとおり、翼は片方がもげ、頭についていた天使のわっかもなくなっていた。全体が泥で汚れ、本来の印象は見る影もない。

「なら、私が直すよ」

 名雪が自分の胸を叩き、自信ありげに言った。

「そうだな、頼むよ」

 

               *

 

「名雪、入るぞ」

 コーヒーの入ったお盆を持った祐一が、名雪の部屋の扉を叩く。

「うん、いいよ〜」

 扉を開けて中に入ると、名雪は作業に夢中といった様子で、辺りにはフェルトや綿が散乱していた。

「少し休憩したらどうだ。イチゴジャムもあるぞ。

「わ、ありがとう」

 お茶請けとして、スコーンとイチゴジャムが乗せられていた。当然、どちらも秋子の自家製である。名雪と祐一がテーブルに向かい合い、暫く2人は無言で食べていた。

 

「なあ、名雪………お前には、話しておかなくちゃならないと思う。真実を」

「………」

 その言葉に、名雪が微かに表情を硬くする。

「見当がついているかもしれないけど、あゆのことだ……あいつは7年前、この町で出会った俺の友達だったんだ」

「だった……」

「ああ。あいつは母親を亡くしていたらしい。初めて会ったとき、あいつは泣いていた。放っておけなかった。だから、いつのまにか友達になっていた。だけど……俺が帰る前の日に」

 祐一は俯き、拳を握る。

「そうじゃないかって思ってた。この街には学校なんて私たちのところしかないし、あゆちゃんの姿が、時々幻みたいに見えていたから……」

 心底悲しそうに、祐一を見つめる名雪。

「俺、この街が嫌いなんだ。今ならわかる。目の前で大切な誰かがいなくなる……その前で何もできない……あんな気持ちはもう嫌だった。だから俺は、この街に来なくなったんだ」

 俯いた祐一は泣いていた。微かに戸惑いの表情を見せた名雪。だが、すぐに祐一の側へと歩み寄る。

「名雪……?」

 祐一の前に、鼻腔をくすぐる名雪の香り。名雪は祐一を抱きしめ、幼子を諭すように祐一に語りかける。

「最後の晩、祐一は泣いていたよね。辛いことがあったんだって、私にも解ったよ。でも、どうすることもできなかった。これから祐一がどうするのかはわからないよ。でも、忘れないで……『祐一の帰る場所はここにある』から」

------------------------------!」

堰が切れたように、祐一は泣いた。名雪はただ、そんな祐一を抱きしめるのみ。

名雪も泣いていた。あゆは名雪にとっても友達だった。秋子にとっては娘だっただろう。真実は残酷だった。少年の傷痕を穿ち、少女の心を苦しめ、一人の少女を消した。それでも、まだ演奏は続いていた。7年にわたるKanonは、まだ終わることはない。逃れられない運命の中、少年と少女はひたすら泣いた。

 

 

「祐一君、名雪さん」

 目を覚まして下に降りれば、あゆがエプロン姿で2人を出迎えていた。

「なんでおまえがいるんだよ?」

「当然だよ、今日からボクも、ここに住むことになったんだから」

 言われて思い出した。あゆは秋子に引き取られ、今日からここに住むことになったのだ。

「それで、秋子さんに料理を教えてもらうんだよ」

「台所を破壊するなよ」

「うぐぅ!そんなことしないよっ!」

 頬を膨らませ、拗ねたようにあゆが言う。

「ふぁいとっ、だよ」

 後ろでは名雪が応援していた。

「うん、ボク頑張るよ」

「あゆちゃん、いらっしゃい」

「はーい」

 秋子の声に元気よく返事をし、あゆがぱたぱたと駆けて行く。そんな光景を見て、何故か涙が浮かんだ。悲しかった。そう、これは『叶わぬ夢』なのだから……

 

 

 翌日の朝、祐一と名雪は一緒に目を覚ました。

「できたよ、祐一」

 名雪の手に乗る小さな人形は、7年前と寸分変わらぬ姿を取り戻していた。

「上出来だ……ありがとう」

 祐一は照れくさいのか、すこし困ったように笑っていた。

「今日は帰らないと思う。秋子さんにもそう言っておいてくれ」

「うん、解った。気をつけてね」

 その言葉に頷くこともかぶりを振ることもせず、祐一は名雪に背を向ける。そしてただ一言、言った。

「ありがとう……」

 その言葉は人形を修理してくれたことに対してなのか、それとも……

「違うよ、祐一」

 だが、名雪は答えた。

「出かけるときは、『いってきます』だよ」

 あの少女が焦がれた、母親と同じ微笑で。

「そうだな……いってきます」

「うん、いってらっしゃい」

 

               *

 

「この場所は、変わらないな」

切り株に腰掛け、祐一は木々の合い間から見える陽光に目を細めた。

枝に張り付いた樹氷が、キラキラと陽光を跳ね返す。一面白に覆われた世界、その上で水晶のように輝く木々、それはまるで天上に住む天つ人(あまつびと)の宮殿のように美しく、翼をもった天使のような少女の思い出の場所には、これほど相応しいものはあるまいとさえ思えた。

「神々の遊ぶ庭……ああ、たしかにあいつにはふさわしいな」

 北海道のある山は、かつてそこに住んでいた人々がそう呼んでいた場所がある。最早雪にも、この街に対する嫌悪もなかった。ただ、待ち人に来て欲しい、その願いがあるだけだった。

 

東にあった太陽が、やがて中天へとさしかかる。

太陽の熱が、凍り付いていた樹氷を僅かに溶かし、雫がぽたりぽたりと地面へ吸い寄せられていく。それでも時折、鳥の鳴き声が響き、ここが決して死の世界などではないことを教えてくれる。祐一はただ待ち続ける。少女の残した翼のリュック、少女の求めたこの世界との証、そして、少女ともう一度逢いたいという想いと共に……

 

太陽はやがて西へと傾き、世界を金色に染め上げていく。

黄昏の光景の中、懐かしい声が聞こえた。

「祐一君……」

 消え入りそうなほどの儚い声に、祐一は立ち上がる。

「遅かったな」

 優しげに微笑み、祐一はリュックと人形を差し出した。

「感謝しろよ、お前のためにいろんなやつらが手を貸してくれたんだから」

「うん、ありがとう……ねえ、祐一君」

 祐一から受け取ったリュックと人形を抱きしめ、あゆは祐一を見た。夕暮れの光を宿したあゆの赤い瞳は、信じられないほど美しい。

「今日は、お別れを言いに来たんだよ」

 解っていた。世界との接点を失ったこの少女は、もうここにいることはできない。これは奇跡なのだ。こうして会えないはずの2人が出会ったことは。

「願い事」

「?」

「最後の願い、まだ叶えてやっていなかったな。言ってくれよ」

「そっか、そうだったね」

 そうしてあゆは大きく息を吸い、姿勢を正す。

「なら、最後のお願いです……ボクのこと、忘れてください。ボクなんか最初からいなかったんだって、そう思ってください」

 笑顔だった。これ以上ないほどの笑顔だった。まるでもう自分は何も望まないのだと、そう言っているかのようだった。だが、祐一は静かにかぶりを振り、あゆを抱きしめる。

「本当にそれでいいのか?お前の願いはそれでいいのか?」

 変わらない口調で、祐一は問いかける。あゆの体が、ぴくりと震えた。

「だって……ボクにはもう願いなんてないもん……二度と食べられないと思ったタイヤキ、いっぱい食べられたし、祐一君にだって会えたもん!秋子さんにも、名雪さんにも会えたもん!」

 我慢が消えれば、止めることはできなった。あゆの瞳には滂沱の涙。嗚咽を隠そうともせず、祐一の体を必死に抱きしめる。消えねばならないとは解っていた。でも、それでも……

「祐一君、ボク、本当はまだここにいたい、祐一君たちと、ずっと一緒にいたいよ!」

 偽らぬ気持ちだった。別れたくなかった。7年の年月を経て取り戻した暖かさを、失いたくはなかった。

 

「あゆ……」

 そんなあゆを、祐一はただ抱きしめる。いつまでもこうしていたかった。存在しているという証を、感じていたかった。だが……

「ねえ祐一君、ボクの体、まだあったかいかな」

「あたりまえだろっ!」

 耳を澄ませば吐息の音も聞こえる、抱きしめた腕からは脈打つ鼓動すら伝わってくる。これが全て偽りなどとは思えない、信じたいとも思わない。だが、真実は一つだった。奇跡が終わりに近づいているという厳然たる事実は、変わらない。

「よかった……」

「あゆ……?」

 あゆの体が、輝いていく。夕日に消えていくかのように、輝いていく。

『悲しまないで』

 声にならない声で、あゆは言った。

『キミは優しいから、だからみんなキミのことが好き』

 小さな体が、ふわりと宙に浮く。

『キミがボクを暖かいと思ってくれるのなら、キミだけはココにいられる。そしてキミは、その心で『愛する』ことができる』

 祐一の顔を両手で抱き、そっと額にキスをする。

『だから……さようなら……キミだけはどうか…』

 

 消えていく、溶けていく、夕日の光に溶けていくように小さな少女が消えていく。光に包まれる、少女の顔は笑顔。心の底から幸福と言える笑顔。膝をつき、祐一はその光景をただ見つめ続けるだけだった…………

 

               *

 

雪が降っていた。

凍てつく寒波と吹き荒ぶ風。人々が背を丸めながら歩く夜の街で、少年は一人、ベンチに腰掛けてたたずんでいた。

「………」

冷たさも、苦しさも、最早何も感じない。

ただ、心がうつろだった。どうすればいいのかも、解らなかった。

遥か遠い日、自分はこうしていた気がすると思った。このまま消えてしまえ、そう思う気持ちも過去のままだった。だが、自分は消えることなく此処にいる。ならば何故此処にいるのか、その記憶はなかった。

「………」

 誰かが目の前に立っていた。そうだ、あの時も確か、誰かがこうして目の前にいた。

「帰ろう……」

 誰かは少年の手を掴み、少年はただそれに従うだけ。

 

 消え去りたいほどの絶望の中で、たった一つだけ残った暖かさ………

 

 

                               −Episode 10:“Akiko Minase” end−

 


Episode  9
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