Kanon     “the  pure soul”

 

少女は、独りでそこにいた。

 どれほどの時を、そうして過ごしていたのかは解らない。気がつけば独り、小さなベンチに腰掛けていた。

待ち続けていた。ひたすらに雪の中を。何を待っているのかも、解らない。何を求めているのかも、解らない。確かなことは『待ち続けなければならない』ということ、ただそれだけ。行き交う人々はその姿など目にもとめず、それぞれの物語を紡ぎ続けるのみ。

終わることもない、止まることもない、時の縛鎖。そんな無益な時間をどれほど続けたのだろう。季節の移ろいを幾度眺めたか、覚えていない。それはあたかも醒めない夢のごとく。

 

「雪、積もってるよ?」

「そりゃ、2時間も待ってるからな」

 

ある日、自分の隣で、誰かの声が聞こえた。他人の声など聞いたのは、えらく久しぶりだったような気がしていた。何となく、少女はその相手を見つめてみる。

―――!

 そして、少女はその2人の姿に、驚きに目を見開く。頭に雪を積もらせたまま、待ち人を待っていた少年。そしてその少年を迎えた少女。去っていく2人を追いかけるように、少女は――さも当たり前のことをするかのように、立ち上がった。

「あれ?」

 縛鎖が消えたことに、少女は気づいていない。否、自分が縛られていたということすら、未だに知らない。しかし真に知らないのは、これは彼女に与えられた奇跡であるということ。夢の御霊に過ぎない彼女が、何かの偶然で世界とのかかわりを持ったということに。

 

「ボクは……?」

商店街のビルのガラスに映っている自分の姿を見ながら、少女は夢から醒めたかのように瞳を瞬かせた。赤いカチューシャ、茶色のダッフル、リュックに取り付けられた小さな羽。

だが、少女には酷い違和感があった。その姿は自分であって自分でない。まるで意識だけが借り物の肉体に閉じ込められているようにすら思えた。考える。考える。思い出す、思い返す。それでも、その答えは記憶にも意識にもない。

「行こう」

どれほどそうしていたか、やがて少女は何かを求め、静かにその一歩を踏み出したのだった……。

 

            Episode  9:the “dream” ―Ayu Tsukimiya―

 

―夢、夢をみている。

  終わることのない夢、ボクを縛る夢という鎖。

   泣いていたボク。泣いていたあの子。ボクは、どうしてここにいるのだろう……?―

                                  −Ayu Tsukimiya−

 

「相沢さん?」

 図書室にいた祐一に声をかけたのは、美汐だった。

「ああ、天野か」

持っていた本を棚に戻し、挨拶を返す祐一。

改めて美汐の顔を見ると、まるで腫れ物を見つめるかのような瞳が最初に目に飛び込んでくる。

無理からぬことだ、と思った。近しい誰かの「終わり」を2度も見つめたのだから。そして、そんな表情で見つめてくる人を、祐一は2人知っていた。

「よく、こちらに来られるのですか?」

「いや、名雪を待っているだけだ。正直、一人で帰るのが辛い…」

名雪のように部活に入っているわけでもなく、秋子のように仕事をしているわけでもない。辛い何かを忘れられる、そんな場所が祐一にはなかった。名雪と秋子は、そんな祐一に微笑む。自分たちも辛いのに、微笑む。故に、祐一は彼女達の傍らに寄り添うようになっていた。

「甘えているな、俺」

自嘲気味に祐一は笑う。

甘えている、とは解っている。本来なら自分こそが彼女達を支えるべきだ、とも解っていた。だが、逃げ場を求める心は、近しい2人にすがってしまう。だから、こうして名雪が部活を終えるまで、待つことがいつの間にか日課になっていた。

「……2人とも、お元気ですか?」

 それは、決して肉体の調子を聞いたわけではないことがすぐにわかった。

「ああ、大丈夫だと思う。『少なくとも俺よりは』」

 その言葉に、美汐は短く頷いた。

「そうですか、ですけど、強がっているということもありますから、そのときは支えになってあげてください……私が言えた立場ではありませんが」

 誰かに話せば気持ちが楽になる。そのことはよく言われる。美汐も秋子に救われていたのだとよくわかった。

「……そうだな」

「相沢さん、あなたは私のようにはならないでくださいね……」

「ああ、おばさん臭くなんかはならないぞ」

 祐一の返答にきょとんとした後、微かに美汐は祐一を睨む。無論本気で怒っているわけではない。

「失礼ですね、物腰が上品だと言ってください」

「そりゃあ失礼」

 微かに、心が軽くなった気がした。

 

               *

 

「おつかれさまー」

「おつかれさまでしたー」

 陸上部の部室からは、着替えた生徒達の姿が次々と出てくる。そしてその中の一人が、祐一の姿を見つけ、駆け寄ってくる。

「お疲れ様」

「うん、祐一もお疲れだよ」

 そうして、2人で帰ることが日課になっていた。

 

「あ、そうそう。今日、商店街によって帰りたいんだけど」

「イチゴサンデーは奢らんぞ」

こういってきたときは、大概が百花屋行きである。予め釘を刺しておこうとする祐一。

最も、別に本気で断っているわけではなかった。せめてこういう態度をとりでもしないと、祐一は本当に潰れてしまいそうだったからだった。

「違うよ。時計の電池がないから、交換してもらうの」

 だが、名雪はあくまでも自然だった。それはそう見えるだけなのか、それとも……

 

時計屋の前で、名雪を待ちながら商店街に視線を移す。

吹き荒ぶ寒風に、体が震える様を感じていた。

この街にはじめて来たときから、ここでは色々な出会いと物語があった。名雪との買い物、栞との放課後、佐祐理の過去、真琴との記憶、それ以外にも舞の誕生日プレゼントもここで買ったと聞いていた。

それでも7年前の記憶が酷く不完全であることだけは変わらなかった。真琴のことは思い出した。だが、その後のことがまったく思い出せない。それを望んでいるのか、いないのかということすらわからなかった。

「祐一君」

「?」

 不意に、香ばしい香りと、誰かの自分を呼ぶ声。

「こんにちは、久しぶりだね」

 タイヤキの詰まった紙袋を抱えた少女が、ニコニコと笑っていた。

「なんだあゆか。名雪かと思ったが」

「なゆき?」

 首を傾げるあゆ。そういえば直接の面識はないはずだった。

「俺の従妹だ。俺の居候している家の娘でもある」

「へえ、じゃあ、祐一君はこの街でその人の家に住んでいるんだ?」

「そういうことだ」

 と、そのとき時計屋の扉が開いて、名雪が戻ってくる。

「お待たせ、あれ?」

 祐一とあゆを交互に見つめ、祐一に尋ねるような視線を向ける名雪。

「ああ、こいつは月宮あゆ……この商店街で、食い逃げを生業にしている」

「うぐぅ!だれがだよっ!」

 すかさずあゆが突っ込む。タイヤキを見ると、ついついいつぞやの食い逃げを思い出してしまう祐一だった。

「こっちが水瀬名雪。主食はイチゴで、趣味は寝ることだ」

「……べつに主食じゃないよ」

 名雪が呆れたように言った。寝ることを否定しないあたり、事実なのかもしれない。

「えっと、あゆちゃん?祐一のお友達?」

 そして、あゆを見る。

「は、はい」

 いきなり名を呼ばれ、あゆがまじめな顔で直立不動。暫し2人は見つめあい……

「苦労するね」

「うん、いっつも祐一君はこうだから」

「待て……」

 しみじみと語り合う少女達を見つめながら、祐一は肩を落としたのだった。

「よろしくね、名雪さん」

「あ、私もなゆちゃんでいいよ」

 そんな祐一を尻目に、2人はすっかり意気投合していた。

「……ややこしいからやめろ」

 それでも何とか突っ込む祐一。確かに「あゆちゃん」「なゆちゃん」ではややこしいと思った。

「……そうだね、やっぱり名雪さんって呼ばせてもらうよ」

「残念……」

 名雪は心底残念そうだった。

 

「ところであゆちゃんは、どういう用事でここにきたの?」

「え……」

 と、そこであゆの表情が硬くなる。まるで「訊いてはいけないこと」を訊いたかのように。

「あゆちゃん?」

 何か悪いことでも訊いたのだろうか、と不安になり、微かに表情を曇らせる名雪。

「どうした?」

 さすがに祐一もその様子がおかしいことに気づき、あゆの顔を覗き込む。

「……探し物」

 声を無理やり絞り出したかのようなか細い声で、あゆは言った。

「探し物があるんだよ」

 今度ははっきりと、あゆは言う。

「どうしても探さなくちゃならないんだよ。どうしても……」

 先程の明るさとはうって変わり、まるで母とはぐれた幼子のような不安げな視線で祐一と名雪を見るあゆ。その様子から、祐一達にもあゆのただならない様子が見て取れた。

「一体何をなくしたの?」

「わからない……」

 名雪の問いに首を振るあゆ。

「それじゃあ探しようがないぞ?」

「でも、探さなくちゃならないんだよ。どうしても……それに、見たら思い出すよ、きっと……」

半分泣きそうな顔になりながら、あゆが答える。

見れば名雪もどうすればいいのかわからず、不安げに祐一とあゆを交互に見つめていた。祐一はそんな2人の様子を見つめた後、あゆと名雪の頭に手を置いた。

「落ち着け。心当たりはあるのか?」

「えっと……商店街…商店街で『手に入れたもの』のような気がするよ」

「なら自ずと探す場所は限定されるな……お前がよく行く場所はどこだ?」

「手伝って……くれるの?」

 あゆが祐一を見上げる。

「このまま放っておくのも寝覚めが悪いからな」

 行くぞ、と言い残し祐一が歩き出す。

「気にしなくてもいいよ。祐一は照れているだけだから」

 呆気にとられるあゆの横で、名雪が笑う。

「行こう。探せばきっと見つかるよ。ふぁいとっ、だよ」

「あ……うんっ!」

 満面の笑みで、あゆは頷いたのだった。

 

               *

 

「見つからないな……」

 そうしてどれほど歩き回ったことだろうか。気がつけば街灯の明かりを頼りに進むほどに夜の帳は深く落ちていた。

「クレープ屋さんはダメ、タイヤキ屋さんもダメ、甘いもの屋さんもダメ、ファーストフード店もダメ、あとはどこ?」

 名雪があゆから訊いたリストに一つずつバツをつけていた。

「どうでもいいが、お前の行く店って食い物屋ばかりだな……」

「うぐぅ、ほっといて」

 拗ねるあゆも、疲れと不安が僅かに見て取れた。然程広くないとはいえ、商店街を端から端まで行ったりきたりしていたのだ。疲れるのも無理はないなと祐一は思う。

「あとは、次の角のケーキ屋さんかな」

「うん、それで最後だね」

 名雪も頷き、そして3人は角を曲がった。

 

「あれ?」

 あゆが呆然とその光景を見つめていた。

「場所を間違えたのかな?」

 名雪も首を傾げていた。そこにはケーキ屋の代わりに、駐車場があるだけだった。

「おかしいな、確かにこの間来たのに……」

「つぶれたのかもしれないな。とにかく、これで振り出しか」

 これであゆの言っていた場所は全てまわったことになる。つまり成果は何もなしということだった。

「もう真っ暗だね……」

夜空を見上げながら、名雪が言った。

商店街の外れに位置するその駐車場は人気も少なく、街の喧騒もどこか遠い。いるだけで不安になりそうな、そんな場所だった。

「今日はもう無理だな……とりあえず今日は帰るか」

「そうだね……ありがとう。祐一君、名雪さん」

 どこか寂しげな笑みを浮かべ、2人に背を向けるあゆ。

だが、なぜだろうか?去ろうとするあゆの背中は、彼らが見知っているよりもずっと小さく、儚く見えた。だからだったのかもしれない。

「あゆ」

 祐一は、気がつけばあゆを呼び止めていた。

「どうしたの?」

振り向いたあゆは、いつもの笑顔だった。

そして、何といえばいいのだろうと思ってしまう。呼び止めはしたが、どうすればいいかわからない。ただ、このままあゆを放ってはおけない。そう感じたことは確かだったというのに。

「良かったら、家に来ない?」

 そのとき、名雪が横から声をかけた。名雪も同じことを考えていたと祐一には解った。

「え、でも……」

「気にするな。秋子さんなら一秒で了承してくれる」

 戸惑うあゆの肩を叩き、祐一は笑った。

 

 なぜ、こうしたのかは解らない。それでもこの小さな少女がその微笑の裏側に自分たちと同じ『歪み』を抱えている。そんな気がしてならなかった。そしてそれは、決して予感などではなく―――

 

               *

 

「ただいま」

「ただいま〜」

「お邪魔します……」

 祐一達の後ろから、おずおずとあゆが顔を出す。

「お帰りなさい2人とも。そちらの方は」

 いつものように出迎える秋子。

「俺の友達の月宮あゆです。で、こっちの人が水瀬秋子さん。この家の家主で名雪の母親だ」

 あゆと秋子に互いを紹介する祐一。

「あ、月宮あゆです。で、家主ってなに?」

 いきなりの質問に祐一が脱力した。

「家主って言うのは……」

 と、そこで少しふざけたいと思ってしまう。

「始まりの神だ。1月を意味するJanuary の語源でもある」

「わっ、秋子さんって神様!?」

「それはヤヌス」

 呆れたように名雪が突っ込む。祐一の奇抜な性格に慣れたようで、かなり手早い。

「冗談だ、本当はエホバを英語読みするとそうなる」

 祐一はめげない性格だった。

「や、やっぱり神様!?」

「それはヤーウェ……それより、どんどん本来の意味から離れていってるよ」

 名雪が溜息一つ。

「うぐぅ……祐一君、もしかしてボクのこと嫌い?」

「全然そんなことないぞ。因みに本来の意味は家の主。要するに家で一番偉い人だ」

「最初からそういいなよ……」

 と、祐一達がトリオ漫才を繰り広げている前で、秋子は一人、怪訝そうにあゆを見つめていた。

「月宮あゆちゃん……?」

 あまり悩んでいるようには見えないが、秋子にしてみればかなりの表情の変化である。

「そうね、そんなはずはないものね」

 だが、秋子は納得したかのようにすぐに思考を打ち切る。

「いらっしゃい、あゆちゃん。よろしければご飯も一緒にどう?」

「あ……はい」

 

「うわ、この煮つけおいしいよ秋子さん」

「あら、ありがとう。もっと食べる?」

「うんっ!」

 目を輝かせながら料理に舌鼓をうつあゆ。見ているほうが気持ちよくなる食べっぷりだった。

「あんまり急ぐとのどに詰まるぞ」

苦笑する祐一。それでもこれは久しぶりの「笑いある食卓」だった。

秋子は食事を今でも一人分余分に作る。そのことを知ったとき、変わらない秋子の微笑みの中の「歪み」を知った気がしてならなかった。そういった意味で、確かに祐一はこの少女が好きだった。変わらない明るさを振りまく、この腐れ縁の食い逃げ少女が。

「う、うぐぅ!」

「わ、あゆちゃん大丈夫?」

 案の定、のどを詰まらせたあゆに名雪が背中をさする。

「ほれ、水だ」

「んぐ、んぐ……」

 必死でコップの水を飲み込むあゆの様子を、3人は微笑ましく見つめていたのだった。

 

「良かったら、今日は泊まって行ったら?」

 食事の後、片づけを終えた名雪がそんなことを言い出した。

「え、いいんですか?」

「了承」

 相も変らぬ即決で秋子が答えた。

「でも、困ったわね。あゆちゃんが寝る部屋が余っていないのよ」

「………」

真琴の部屋はいまだあのままだった。

まるで消えた真琴がいつかひょっこり帰ってくるのではないか、そんな淡い期待を捨てきれないのだろうと祐一は思う。なにより自分自身もそう思っていたのだから。

「なら、私の部屋で一緒に寝ようよ」

 名雪がそんな重い雰囲気を打ち払うように横から提案する。

「え、いいの?」

「うん。もちろんだよ」

「ほら、そうと決まれば早く家に連絡してこい」

「うんっ!」

 子供のように、あゆは大きく頷いた。

 

               *

 

 名雪の部屋で、あゆと名雪が話していた。

「そういえば、秋子さんってすごいよね」

「え?」

 風呂から上がった名雪に、あゆが声をかけた。

「だって、急に押しかけたボクの分のご飯まで用意してくれるなんて」

 それは、他愛ない一言だった。それでも……

「違うんだよ」

 俯き、重々しい口調で名雪は言う。そのあまりの変わりぶりに、あゆは驚きを隠せない。

「え…もしかして、まだ他に誰かいるのかな?名雪さんの妹さんとか?」

 しかし、名雪は黙って首を振る。

「『いた』って言うほうが正しいと思うよ」

「……!」

 その言葉の奥にあるものを、あゆは悟った。たしかに『誰かがいた』。過去形が意味するものを悟れないほどあゆはバカではなかった。

「だから、なんだね……『そのひとが、まだいる』ってことなんだね」

「うん……お母さんも、祐一もきっと辛いと思う……力になりたいけど、どうしようもないから。ごめんね。変なこと言っちゃって」

 無理に笑いを取り繕い、名雪はあゆを見つめる。

「優しいんだね。名雪さんは」

 穏やかに、あゆは名雪を見つめ返す。

「そんなことはないよ……『私は、誰も救えないから』」

 あゆはそんな名雪に対し、静かに首を横に振った。喜びと悲しみを内包したような、不思議な表情だと名雪は思った。

「優しいよ…ボクにも『誰かを失う辛さも、その時に助けてくれる人の優しさ』もわかるから……」

「そうなの、かな?」

うん、とあゆは大きく頷いた。その笑顔と仕草は、名雪に安らぎをもたらす。

例えばそれは、知られないはずの苦労を理解してもらい『よく頑張ったね』と言ってもらう気持ちにもよく似ていた。

「そうだよ……それに強い。『夢の中へ逃げ込むより、現実に残らなくちゃならないことのほうが、きっとすごく辛い』ことだと思うから」

「夢……」

 何となく、名雪は自分がどうしていつも寝てしまうのだろうかと考える。眠らなければ疲れが残るというわけでもない。それでも、眠ることは必要不可欠だと『解って』いた。

 ならば、夢のことを語るこの少女は自分にどこか似ている、と思った。

「あゆちゃん、私たち会ったことがあったのかな?」

 なぜか、そんな質問が思い浮かんだ。同じベッドに入るようにあゆを促しながら、名雪は問う。

「どうだろうね……でも、知っていた気がするよ。きっと……」

 最後の言葉よりも早く、眠気が襲ってくる。まるで、その先を聞きたくないかのように、名雪は眠りへと落ちていった……

 

               *

 

「ふう、いい湯だった」

 風呂上りの祐一が二階に上ると、あゆが祐一の部屋の前で待っていた。

「どうした?」

「うん、名雪さんがもう寝ちゃったから、少し退屈で」

「あいつは……自分で誘っておいてそれか?」

 呆れたように祐一が言い、そしてあゆを部屋に招きいれた。

 

「そういえば、家のほうには連絡がついたのか?」

「え……あ、あのね。お母さん、今いないから」

 その問いに答えるあゆは、どこかあわてているように見えた。

「そ、そんなことより、名雪さんって時計をコレクションしているのかな?」

「いいや、ただ単に寝起きが悪すぎるだけだ」

 露骨に話題を変えるあゆ。無理に聞くことでもないと思い、祐一は話を合わせた。

「そうなんだ、すごいねえ」

「すごいじゃない。毎朝アイツを起こす俺の苦労も少しは察してくれ」

 わざと仰々しい溜息をつく祐一。そんな祐一を見て、あゆが笑う。

「何がおかしい?」

「ううん。ただ祐一君にとって、名雪さんは特別の人なんだなって思って」

「そりゃ、従妹だからな」

 ぶっきらぼうに答えるが、どこかに引っかかるものを感じてしまう。

「やっぱりだ」

「なにがだ?」

「祐一君は、素直じゃないからね」

 意味深な言葉を言い、あゆがくすりと笑う。

「でも、うらやましいよ。2人が」

「?」

 だが、明るさはそこまでだった。どこか寂しげに、あゆは視線を逸らす。

「祐一君、名雪さん、秋子さん……とても仲のいい家族だよね。お互いを信じあって、助け合って」

 信じている、助け合っている。傍目にはそのように映るのかと祐一は思ってしまう。

「だけど、俺は甘えているだけかもしれないぞ。あの2人の優しさに。名雪だって、起きれないのをいいことに、俺に甘えているだけかもしれない」

 最近の自分の態度を思い出し、自嘲気味に笑う祐一。

「それでもだよ」

 あゆが逸らした瞳を再び向けた。

「辛いことがあったとき、悲しいことがあったとき、一人でいるのは寂しいよね?一人で泣いていると、泣いても泣いても悲しみは晴れないよね?」

 一言一句、噛み締めるようにあゆは言う。

「だけど、そんなとき、誰かがそばに居てくれたら嬉しいよね?心の底からその人を心配して『君は一人じゃない』って言ってくれる人がいると、悲しみを忘れることができると思わない?」

「あゆ……」

 祐一はいつしかそんなあゆの言葉に聞き入っていた。

「きっと祐一君たちはそういう関係なんだよ。祐一君は、キミが思っている以上にあの二人を支えている。祐一君が名雪さんや秋子さんの優しさに救われているのなら、二人も同じくらい祐一君に救われている。ねえ祐一君、辛いなら、頼ることがあってもいいんじゃないかな?きっと家族って、そういうものだと思うんだよ」

 柄じゃなかったかな、と言って頭を掻くあゆ。やられた、と思った。あの2人が優しいのは解っていた。だが、自分は甘えているのではないかという後ろめたさがあった。それでも……

「側に居る。それだけで支えになることもあるよな」

 そのことが解った。名雪も秋子も辛いのだろう。ならば、あの2人の側に居た自分も、逆に2人の支えになれていたのではないか、そう思えた。

「うん!」

 その笑顔は、まるで真冬の太陽のように暖かかった。

 

               *

 

 久しぶりに、祐一は昔の夢を見ていた。

「ねえ祐一君、どこへいくの?」

 鬱蒼と茂る木々。雪に覆われた森の中を、祐一はあゆの手を引いて歩く。商店街で出会った二人は、少しずつ仲を深めていった。

昼過ぎに商店街で出会い、タイヤキを食べて二人で商店街を歩く。そんな日常を繰り返していた。そんなある日、祐一は「たまには別の場所で遊ぼう?」とあゆを誘い、町外れの丘にある森に来ていた。

「もう少し」

「その台詞、さっきも聞いたよ」

 怯えたような声であゆは答えていた。森は伸びた枝に光がさえぎられ、昼なお薄暗い。あゆならずとも不安がるのは無理もなかった。

「よし、着いた!」

「わっ!?」

 祐一にひときわ強く手を引かれ、目の前に急に光が飛び込んでくる。

「ここが、俺のお気に入りさ」

 そこは、森の中でもひときわ大きな木が聳え立つ、広場のようなところだった。大人が数人がかりでも抱きしめるのが困難であろう巨木。それは太陽の光を全身に受け、はりついた樹氷を輝かせる。その光景は神々しいほどに美しかった。言葉を忘れ、呆然とその光景をあゆは見つめる。

「すごいね……そうだ、祐一君。ちょっと後ろを向いててくれないかな」

「?」

「いいから」

 あゆの言葉に釈然としないものを感じながらも、言われたとおり後ろを向く。そして暫く経ったとき……

「いいよ!祐一君!」

「あ、あゆ!?」

 あゆは巨木に登り、その上の枝の一つに腰掛けていた。

「なにやってるんだ!危ないぞ!」

「すごい、すごいよ祐一君。街が全部見える!」

 だが、あわてる祐一を尻目に、あゆは眼前に広がる景色に心奪われていた。白く染まった町並みを、天から見下ろすのにも似た光景は、小さな少女を興奮させるのには充分すぎるものだった。

 

 

「はあ、おもしろかった。祐一君、もうこっち見ていいよ」

 やがてあゆが木から降りてくる。

「はあ、驚かせやがって。でも、どうしていちいち後ろを向いていなけりゃならないんだ?」

 その問いに、あゆは頬を染めてスカートを押さえる。

「なるほど……まあいいさ。あゆが楽しめたのなら」

「え?」

 その言葉に、あゆがきょとんとして祐一を見る。

「はじめて会ったとき、お前は泣いていたからな。そういうのを放っておくのはどうかと思う」

「祐一君……心配してくれたの?」

 上目遣いにあゆは祐一を見上げる。その表情は、素直に可愛いと思えるものだった。

「さてね、まあ、どうでもいいさ」

祐一は照れる顔を見られまいと、あゆに背を向けた。

また「ずるいよ祐一君!」とでも言ってくるのだろうな、と思いながら。名雪といいあゆといい、どうも自分は他人に素直になりにくい性格だなと自分で自分を笑ってしまう。だが……

「ねえ祐一君、お母さんのこと、好き?」

 おずおずと祐一の背中に問いかけるあゆ。

「好きだよ」

「うん、ボクも好き……ねえ祐一君。お母さんが、いなくなっちゃったんだ」

「………」

祐一は何も答えない。

かけるべき言葉が見つからなかった。近しい人を失った悲しみ、それこそがあゆの泣いていた理由だった。

「ボク、ずっと泣いていた。一人ぼっちになったって。でもね、祐一君と出会えて、初めて笑うことができたんだ」

「……今でも、辛いか?」

 どうしてもう少し気の効いた言葉が出てこないのだろう。もっと優しげな言葉をかけるべきだと、頭ではわかっているのに言葉は上手く出てこない。

「うん。辛い。でもね、忘れることはできると思うんだ。だから、祐一君には本当に感謝してる」

 ありがとう、と言ってあゆは祐一の前に出た。そこには、変わらないいつものあゆの笑顔。

「行くか」

「うん」

 そうして2人は、夕暮れの街へと帰り始めた……

 

               *

 

『朝〜、朝だよ〜』

「………」

 まどろむ意識に、いつもの目覚ましの声が割り込んでくる。

夢を見ていた。それは何故か懐かしく、どこか悲しい夢。少しずつ、少しずつ何かを思い出していくような気がしていた。名雪の名前に始まり、あゆの姿、10年前の夏の日、7年前の狐、そして7年前の最後の冬。

「夢……か」

 夢はヒトの記憶装置であるという説がある。眠りと共に活動していたときの記憶を反芻し、脳に焼き付けるための作業の余波であるというものだ。すなわち、夢とは過去の想起。忘れていたものを呼び起こす、ヒトの内なる動きだった。

 不安な気がしていた。何か、何かが怖かった。

 

「おはよう、祐一君!」

 名雪を起こしてから階下に下りると、あゆと秋子が談笑しながら食事をしていた。

「おはようだよ〜」

 祐一の後ろから、相変わらずの名雪の声。手には何故か、いつものカエルのぬいぐるみを抱えていた。

「……なんだそれは?」

「けろぴー」

 その現実離れした光景に、あゆは目を白黒。

「けろぴーは、ここ」

 そして空いていた席にけろぴーとやらを置き、自分もその隣に座った。

「みんなでする食事って、いいものですよね」

 秋子は一人、マイペースだった。だが……

「お母さん、顔色悪くない?」

 少しは目を覚ましたらしい名雪が怪訝そうに秋子を見る。言われてみて祐一も、不自然に秋子の顔が赤いような気がしていた。

「大丈夫よ……あら?」

 いきなり秋子の体がふらついたかと思うと、そのまま地面に向かって倒れていく。

「お母さん!?」

「秋子さん!?」

「しっかりっ!」

 辛うじて倒れる前に祐一が秋子の体を受け止める。

「ひどい熱……」

 名雪が秋子の額に手を当て、ただならぬ様子を察していた。

「ど、どうしよう……」

 あゆがおろおろと右往左往。

「名雪、とりあえず秋子さんを着替えさせて寝かせておけ。俺は医者を呼んでくる」

 ともあれここにいる3人ではどうしようもない。祐一が指示を出す。

「わかったよ」

「ぼ、ボクにも手伝わせて!!」

 と、そこであゆが叫ぶように言った。目には涙を浮かべ、今にも泣き出しそうだった。

「もう『大切な誰かを失う』のは嫌なんだよっ!!」

そうか、と祐一は納得できた。

あゆはかつて母を失った。そして『ひとりぼっち』と言っていた。あゆにとって家族の暖かさとは憧れるものでもあり、同時に二度と手に入らない宝物でもあるのだ。前にあゆとの間に感じた『歪み』の正体はまさにこれだった。すなわち、大切な誰かを失った経験という。

「わかった、名雪、あゆ。家のことは頼む」

 その言葉に、2人は頷いたのだった。

 

               *

 

医者の見立てでは、疲労から来る風邪だということだった。

無理も無いと思った。秋子はいつも笑っていた。子供達を見守っていた。しかし真琴との一件は、彼女にも大きな傷痕を残した。精神と肉体は不可分。肉体が痛めば精神も痛み、その逆もまた然り。

「無理、させてたのかな」

「そうだね…」

 今は薬のおかげで、秋子の様子も大分落ち着いていた。それでも、この一件は間違いなく秋子も2人と同じ『歪み』を抱えていることを理解させていた。

「学校、行かなくちゃね」

 思い出したように名雪が言う。

時間は午前10時過ぎ、今から走れば3時間目には間に合うだろう。そういえば、ばたついていた所為で遅刻の連絡もまともに入れていなかった。

「じゃあ、秋子さんの面倒はボクが見るよ」

 秋子の傍らに座っていたあゆが胸を叩く。

「お前こそ、学校はいいのか?」

「良いんだよ。ボクの学校は自由だから」

 よく解らない理由を言いながら、あゆは答える。

「解った。頼むぞ」

「ごめんね、お願いできる?」

 秋子を一人にしておくのも不安だった。悪いとは思いながらも祐一と名雪は頼む。

「うん。まかせてっ」

「あっ、そうだ……」

 言いながら、名雪はメモを引っつかみ、何かを書き出し始める。

「どうしたの?」

「これ、お母さんが目が覚めたときのために、ね」

 そうして、メモをあゆに手渡したのだった。

 

               *

 

 部活の関係で帰れない名雪に先立ち、授業が終わるなり祐一は先に家に戻っていた。台所を見ると、掃除をすることが心底嫌になるくらいすさまじい様相を呈していた。だが、その中で一つだけ、食欲をそそる匂いをさせるものがあった。

「雑炊か?」

 コンロの上の土鍋に、雑炊が入っていた。ためしにひとすくい味わってみる。少し塩味が足りないような気がしたが、病人用には丁度良いだろう。

見ると、傍らにはメモが転がっていた。名雪の字でかかれたそれは、この雑炊のレシピだった。なれない手付きで料理をしているあゆの姿を思い浮かべると、どこか微笑ましかった。

 

「秋子さん、起きてます?」

 秋子の部屋の扉を叩く。

「祐一さん?静かにお願いしますね」

 そうして言われたとおり静かに扉を開く。

「あゆ……」

「寝たばかりですから、そっとしておいてあげてください」

秋子のベッドに寄り添うようにあゆは眠っていた。

そんなあゆの頭を秋子は撫でながら、穏やかな微笑を浮かべている。窓から差し込む穏やかな昼の日差しが、そんな2人を暖かく照らしていた。まるで本当の親子のように、穏やかで安らぎに満ちた光景。

「よく、頑張ったじゃないか」

 かつてあゆは、目の前で大切な人を失った。そしてその事実を受け止める勇気も、その相手を引き止める力もなく、ただただ悲しみにくれるだけだった。だからこそ、あゆは必死になった。大切な誰かを失いたくない。何かをしてあげたい。今の祐一には、その気持ちが痛いほどよく解った。

「ええ、本当に……」

 穏やかな午睡の時間、あゆは寝息を立てて何を夢見ているのだろう?願わくば、それが幸せな夢でありますように……心の底から2人は、そう思った。

 

                               −Episode 9:”Ayu Tsukimiya” end−

 

 


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