Kanon     “the  pure soul”

 

 街を一望できる小高い丘の上。そこは「ものみの丘」と呼ばれる、地元の人間すらも忘れかけた小さな伝承が残る場所だった。

――曰く、その地には妖孤が住む――

――曰く、彼の者は人に災いをもたらす――

――曰く、彼の者は奇跡を起こす力がある――

それはどこにでもある、モンスター・サーガ。

人には恐れがあった。孤独への不安、他者への不安、モンスターとはそんな人々の恐怖の象徴だった。そして、人はそれらを「御伽噺」として恐怖からの逃避に使う。だが、世界はそんな甘いものではない。人は世界の全てを知りえたように思えても、決してそんなことはない。モンスター、ホーリー、様々な「人にあらざる者」たちの伝承。それらは決して御伽噺の世界だけの話ではなく、時として真実を含む伝承もある。

 

「………」

少女の前には、一匹の小さな狐がいた。

それは誰かの悪戯の被害か、それとも単に運が悪かったのか、その体は傷ついていた。怯えたように子狐は少女を見上げる。

「大丈夫よ」

 少女は微笑み、その狐を抱き上げた。

 

 少女の献身的な看護により、すぐに子狐は回復していった。少女と子狐の間に友情や家族意識が生まれるのは、至極当然のことだった。やがて少女と子狐は、出会った場所で共に遊び、日が暮れたら別れる。そんな生活を繰り返していた。

「ねえ、もしあなたが人間だったら、ずっと一緒にいられるのかな?」

 少女の言葉は、彼女にしてみればほんの冗談交じりの他愛ない一言だった。子狐は変わらず少女を見上げているだけで、肯定も否定もしない。

 

――もしあなたが人であるのなら――

 

 この言葉が彼らにとってどのような意味を持つのか、今の彼女は知らない。

 

次の日、少女がその場を訪れても、そこには「彼女が待つ」相手はいなかった。

予感がなかったわけではない。相手は野生の存在。それと出会い、時を同じくして過ごせたことそのものが奇跡に近いのだ。微かな悲しみと共に、少女は草原の上に寝転んだ。

「こんにちは」

 そんな彼女の上に、一つの影が重なった。見たことのない姿。金色に輝く、短く刈りそろえられた髪、年のころは少女とさほどの違いはないのだろう。だが、わずかばかり幼いように見える。

「こんにちは…」

何故だろうか?少女はこの相手を知っている気がしてならなかった。無論顔に覚えなどない。それでも、間違いなく『知っていた』。

「あなたは?」

 はじめまして、と一礼して名乗りを上げる。それはまったくの偶然か、それとも何かの必然か?

―――――その相手は、彼女の友人と同じ名を名乗ったのだった。

 

            Episode  8:the “family” ―Mishio Amano―

 

―家族であるということ。それは何なのでしょう?

  血の繋がり、共に過ごす空間と時間、生きるうえでの枷

   どれほどの人が知るというのでしょうか…その言葉の真意、そして「家族を失うこと」の意味を―

                                  −Mishio Amano−

 

夜の帳が落ちた、小高い丘の上に真琴はいた。

枯れた草の上に座り、眼下に広がる街の光景を眺めていた。

遠くには、街明かり。闇の中に浮かび上がる幾つもの光の群れは、深海の更に果てにあるという竜宮の光景すら想起させた。真琴はまるで小さな子供が、ショーウィンドウの中にある玩具を見つめるようにしてその光景を見つめていた。決してたどり着けない御伽噺の世界を夢見ることにも似た気持ちで……

「にゃあ」

 真琴の傍らには、昼に落とした猫がいた。耳と四肢の先のみが黒い、線のように細い眼の白猫。

「ごめんね、落としたりして」

 そういいながら、真琴は先程購入してきた肉まんを取り出し、半分を猫に差し出す。

「本当は、もっと買いたかったんだけどお金がないから……寒いね。早く春が来るといいね……春が来て、ずっと春だったらいいのに……」

 凍えるような大気、時折吹き抜ける寒風。命そのものを奪われそうな真冬の大気の中、猫と真琴は2人きり。一人と一匹は身を寄せ合い、丘に寝そべった。見上げれば漆黒の空に広がる、満天の星空。宵闇の中、遥か彼方で瞬く星の姿。

「ひとりぼっち、だね……」

星を見ていると、まるで自分がこの宇宙でたった一人ぼっちでいるような錯覚を覚える。瞬く星は遥か彼方の存在。そして記憶のない自分の居場所もまた遥か彼方。寂しい、怖い。様々な負の予感から逃げるように真琴は目を閉じる。ぎゅっ、と猫を抱きしめ。どれほどそうしていたのか、やがて真琴は何時しか眠りへと落ちていった……

「……か、風邪引くぞ」

「……だよ、そんなことをいっちゃ」

 誰かの、懐かしい声を聞きながら……

 

 

 祐一が捜し求めていた姿は、酷く儚いものに見えた。自分を仇と狙い、暴れていた少女は自分よりずっと小さく、弱しいものに見えていた。猫を抱きしめ、丸くなって眠る真琴の姿は、まるで捨てられた子猫のようでもあり。

「バカ、風邪引くぞ」

祐一は眠っていた真琴を抱き上げ、背負った。

予想していたよりずっと軽い真琴の体。祐一は気づいていたのだろうか、初めて真琴の前で素直な気持ちを言えたことに。彼女に対して、微笑んであげたことに。

「だめだよ、そんなことを言っちゃ。ちゃんと猫さんを探してきたんだから褒めてあげないと」

 名雪がたしなめるように言った。

「バカだよ。帰るところがあるってのに、こんなところで一人でいて、やっぱりバカだ」

バカ、と繰り返す祐一。それはなにより己自身に対してでもあった。

真琴に辛く当たったこと、名雪と秋子を信じなかったこと。だから、真琴にも早く気がついて欲しいと願う。自分の心、秋子の心、名雪の心に……

「ふふ、そうかもしれませんね。帰ったら何か暖かいものでも用意してあげないと」

 秋子が慈愛の笑みを湛え、そっと真琴の額を撫でた。

 

               *

 

「よっこらせっと」

 背負っていた真琴を布団に横たえ、祐一はこきこきと凝った肩を動かした。

「お疲れ様」

 名雪が真琴に掛け布団をかけ、暖房のスイッチを入れた。すうすうと真琴は寝息をたて、その側には先程の猫がいる。アレルギーのある名雪の側から離して置いて置いたのは祐一の気遣いだった。

「こうして寝ていたら、こいつも可愛いもんだが」

 微かに笑いながら、祐一は言った。

「祐一、お気楽だよ」

 だが、その言葉に対する名雪の返答は意外なものだった。

「どういうことだ?」

「お母さん、この子が何処の子かって、ずっと調べているんだよ」

「……そうか」

 確かにこうして探しにまで行くくらいだ、それくらいやっていたのだろうと祐一は思った。そして、その言葉が現在進行形であるということは、成果が上がっていないということだった。

「それにね、もし記憶が戻らなくて、本当のご家族が見つからなかったとき、この子がここにいたいのならここに置いてもいいって、そう言ってたから」

「……ただの家出少女が、記憶喪失を偽っているとかは考えなかったのか?」

「そうかもしれないね。でも、こう考えたことはない?」

 名雪は微かに悲しげに目を伏せて言った。

「家から出るって事は、家族の人と上手くいっていなかったのかもしれない。それに、帰りたくても帰る場所がないのかもしれない。だったら、うちの子として育ててもいい。お母さんはそう言っているよ」

そして名雪は祐一を見つめる。そうなったとして、それでいいかと問うていた。

微かに逡巡する祐一。少し前なら却下していただろう。それでも今は違った。

「……了承。俺はかまわないよ」

 真琴は家族だ。今なら自信を持ってそう言えた。

「お母さんほど、早くないね」

 秋子の口調を真似た祐一に、名雪がクスクスと笑みを浮かべた。

「それに、こんな危険人物は然るべき保護者の下で教育してやらないと」

 真琴の額を撫でながら、冗談交じりに祐一は言った。

「祐一、まるでこの子のお父さんみたいだよ」

「お父さんって……だったら、おまえも母親になって教育してやれ」

「わ、わたしがお母さん!?」

 祐一と自分を見比べて、名雪が頬を染める。

「へ、変な意味で言ったんじゃないからな!」

 祐一も言ったことの意味に気がつき、顔を真っ赤にしたままつっけんどんに返した。

「あらあら、賑やかですね」

 いつのまにか入ってきた秋子が、微笑ましげにその光景を見つめていた。

 

               *

 

「わーーーーーー、なんであたし、こんなところにいるのよ!」

 翌朝、祐一は真琴の叫びで目が覚めた。扉を開けて外に出ると、パジャマ姿の真琴が右往左往していた。そんな姿がどこか微笑ましくて、祐一は笑ってしまう。

「あ!なに笑ってんのよぅ!」

 頬を膨らませた真琴が祐一に詰め寄ってくる。

「はぁ、やっぱりバカだなお前は」

 軽く嘆息して、祐一は言った。

「何がバカなのよ」

「あのな、お前はこの家の『家族』なんだからな、当たり前だ」

 その言葉に真琴が目を丸くする。そして祐一は真琴の肩をぽんと叩き、言った。

「お前の帰る場所は、ここなんだから」

 

「おはようございます。祐一さん、真琴、名雪」

 着替えた祐一と名雪の後ろで、例の猫を抱えた真琴が2人に隠れながら秋子を見つめる。秋子は真琴を名雪と同じように名前を呼び捨てにする。それは彼女の決意だった。この一人ぼっちの少女を、娘にするという。

「どうしたの?」

 言いたいことは解っていた。それでもあえて、秋子は問う。自分の意志で言わせること、それもまた、母としての務め。

「あのね……この子を飼ってもいい?」

「了承」

 微笑を絶やさぬまま、秋子は答える。

「ありがとう!」

 満面の笑みを浮かべ、真琴は猫を抱きしめる。子供を見つめる両親のような瞳で真琴を見つめる祐一と名雪。もう一人の娘となった真琴。にぎやかになったこの家。笑い声が絶えることなく続いていく。私たちの長い追想曲は続いていく。秋子はそう思っていた……少なくともこの時は。

 

               *

 

「祐一ー!、名雪ー!」

 学校から出てきた二人を見て、真琴がパタパタと駆け寄ってくる。それはさながら、飼い主を見つけた小動物が、甘えるように駆け寄ってくる姿を連想させた。苦笑しながらも真琴を迎える祐一と名雪。真琴はそんな二人の手をとり、遊びに行こうと引っ張ってゆく。

「あー、『ぴろ』も一緒だよ!」

 真琴の頭の上の猫を見つけた名雪が目を潤ませながら真琴ににじり寄る。

「ちょ、ちょっとやめてよ!」

「ねこー、ねこー」

 夢遊病者のように真琴に迫る名雪。真琴が怯えながら後ずさる。

「落ち着け、あほ」

 舞に習って、名雪の頭にチョップを落とす祐一。

「痛い……」

「アレルギーが出るだろうが、まったく」

 猫には『ぴろ』という名がつけられていた。名づけたのは祐一であったが、真琴も気に入っているようであり、すっかりその名前が定着していた。

「でも、『ぴろ』っていう名前は何処から取ったの?」

 名雪がずっと気になっていた疑問を訊く。

「ピロシキだ」

「はえ?」

 即答した祐一の答えに、名雪が目を丸くした。

「いやな、真琴の好物が肉まんだって言うから、料理つながりで」

 ピロシキとは、パン生地の中に肉餡を入れて衣をつけて揚げたロシア料理である。肉まんよりもむしろカレーパンなどに作り方が近い。

「真琴は知っているの?」

「いいや、まあ、気に入っているからいいんじゃないか?」

「いいかげんだよ……」

 そんな祐一の様子に名雪は溜息をついた。

それでも、と思う。こうした祐一の冗談を言う性格も真琴には必要なことなのかもしれない。自分の予想が正しくて、本当に『人の温もり』を知らずに育ったのが真琴だというのなら、こういった冗談も彼女を『人に引き戻す』ためのファクターかもしれない。

なら、自分も傍らで笑っていよう、そう思った……何があろうとも、真琴のために、秋子のために……そしてなにより、祐一のために。

「ん?」

 と、祐一はそのとき、自分たちを見ている視線に気がついた。校門の側で、自分たちを見つめている一人の少女。僅かにウェーブのかかった赤い髪の毛、一年生の制服。可愛い、と言っても差し支えのないほどだが、何処となく陰のある表情が近寄りがたい雰囲気をかもし出していた。

「………」

 少女は祐一の視線に気がついたのか、視線を逸らしどこかへと去っていく。

「どうしたの?」

「あ、いや、なんともない」

 名雪の声で、漸く我に返る祐一。どこか後ろ髪を引かれる思いがしながらも、祐一は真琴と名雪に手を引かれ、帰り道を歩き始めた。

 

 

「……綺麗」

 とある店先のショーウィンドウを、呆けるように見つめる真琴。何を見ているのか気になった祐一と名雪が、真琴の側へと寄ってくる。

「ウェディングドレスだね」

「うん、漫画で見た」

 名雪の言葉に頷き、再びドレスを見上げる真琴。パールのような光沢を放つ生地を幾つも重ね合わせて作られたドレス。それはまるで天上の住人が纏う衣装のような輝きを持ち、その空間だけが世界と隔絶された楽園であるかのようにも錯覚させた。

「いいなあ……結婚かあ」

 飽きることなく真琴はそれを見つめている。

「だったら、先ずは相手を見つけないと」

 からかうように祐一が言う。

「ふんだ、祐一よりもかっこいい人を見つけるんだから」

 ぷいと横を向き、頬を膨らませる真琴。そんな2人を見つめながら、名雪は

「仲がいいね」

 と笑っていた。

 

「わ、なんだろ?」

 真琴がファンシーショップの軒先を、興味津々といった面持ちで見つめていた。

「どうした、何かいいものでも見つけたか?」

 後ろから祐一が覗き込むと、真琴は鈴のついたゴムひもを手に取っていた。上目遣いで祐一を見上げる真琴。

要するに『買ってくれ』と言っていた。見れば特価コーナーの処分品である。確かに安いのだが……

「そんなものでいいのか?もっといいものがあると思うが」

「これがいいの」

 だが、真琴は頑として聞かない。

「解ったよ、名雪もどうだ、こんなものでよければ?」

「え、私も?」

 見れば名雪は、驚き半分と嬉しさ半分と言った表情。

「ああ、どうせついでだ」

二人そろってこんなもので喜ぶなよ、と苦笑する祐一。

「そうだね……じゃあ、これがいいかな」

 名雪は赤いビー玉を手にとる。

「……?」

何かが頭をよぎった。

白い雪、砕けた雪……赤い玉。どこか懐かしさと、痛みと、そして不思議な安らぎを覚える。だが、それが何なのかは解らない。

「どうしたのよ、祐一?」

 真琴の声で我に返る。

「あ、ああ……なんともない」

 そして真琴と名雪の手から商品を受け取り、レジへと歩いて戻ってきたときのことだった。

「祐一遅いわよ!」

 真琴が頬を膨らませる。

「そういうなよ」

 と、言ったところで真琴の体が揺れた。

「あ、あれ?」

 ふらり、と糸が切れた人形のように前のめりに倒れる。

「真琴!」

「ど、どうしたの?」

 咄嗟に祐一が真琴を受け止める。見れば名雪も心配げに真琴を見つめていた。

「あ……あれ、どうしたんだろう」

 と、そこで真琴の顔がやけに赤いことに気がつく。

「真琴、お前、酷い熱だぞ!」

 額に触れた掌から伝わる熱は、明らかに異常だった。とても外を歩き回れるような状態ではないことは疑いようもない。

「早く家に連れて帰らないと!」

「ああ」

真琴を背負い、家路を急ぐ二人。

悪い予感がしていた。まるでなにか、取り返しのつかない何かが始まっているような、そんな気がしていた。そしてそれは、決して予感などではなく……

 

               *

 

 翌朝のことだった。

「真琴、起きてるか?」

 真琴のことが気にかかり、起きて着替えると早々に真琴の部屋の扉を開く。

「あう……?」

 真琴は布団から上体を起こし、入ってきた祐一をどこか虚ろな瞳で見つめていた。

「熱は、下がったようだな」

 額に触れると、とりあえず熱はない。

「あう…ゆういち?」

「?」

 だが、気のせいだろうか?見上げる真琴の視線は昨日までの真琴とは別人のように思える。良く言えば純粋に、悪く言うのなら子供に逆行したかのようにも見えた。

「疲れているんだろう?今日は寝ていろ」

 そうして祐一は真琴を布団に寝かせる。だが……

 

               *

 

「……どうしたんだろうね」

学校からの帰り道、名雪が声をかけた。何かと問うまでもない、真琴の変調についてだった。

熱は下がり、回復はしていた。だが、少しずつ真琴の体に異変が起きていた。祐一はただ、そんな真琴を見つめるだけだった。

「俺の……所為なのか」

「祐一……」

それは自分が辛いことを言って、あんな寒空の下に追いやったことが遠因なのだろうかとも考えてしまう自己嫌悪。そしてそれ以上の無力感。大切な相手がいる。だが、その相手に対して、何もすることができない。

 変調は、幼児への退行とも呼ぶべきものだった。痴呆症になった老人が子供に退行することがあるが、それ以上におかしかった。例を挙げればきりがない。箸を使うことができなくなった、文字を読むことができなくなった、喋ることが極端に少なくなった、自分が何者であるのかということすら、忘れているように思えた。それは避けることのできない終焉を予想させた。今起きていることは、結果ではなく何かの兆しなのだと。

「あの…」

 そのとき、2人に声をかけた人物がいた。おずおずとした弱気な誰何の声に振り向くと、あのときの少女が立っていた。

「あんたは……確かこの間の?」

 祐一の言葉に頷く少女。いつぞやの帰り道に出会った少女に相違なかった。

「初めまして、天野美汐と申します」

 一礼し、その瞳で祐一と名雪を見つめた後、静かに、しかしはっきりと言った。

「真琴という子のことで、お話があります」

 

「あら、あなたはあのときの?」

 水瀬家に美汐を招きいれたとき、開口一番に秋子は言った。

「いつかは失礼しました」

「……真琴のことですね」

 一礼した美汐の真摯な瞳に、ただならぬものを感じ取った秋子が言う。無言で頷く美汐。

「とりあえず、立ち話もなんですから」

 そう言い、秋子は居間へと美汐を招きいれた。

「……単刀直入に訊く。お前は真琴を知っているのか?」

 美汐の向かいに座った祐一が、身を乗り出すようにして訊いた。

「直接の面識があるわけではありません……相沢さん、水瀬さん、水瀬さんのお母さん、あなた方は『妖狐』というものをご存知ですか?」

「狐の妖怪変化ですね。平安朝の『金毛白面九尾』の妖狐が有名ですが」

 秋子が答える。頷く美汐。

「伝承には時として真実を含むものもあります。あなた方はものみの丘の伝承をご存知ですか?」

「そういえば、昔、あそこの狐は祟るとか何とか聞いたことがあるけど」

 名雪が思い出すように答えた。

「そうです……あそこには確かに妖狐がいます。人に災禍をもたらす」

「……ばかな、何を言っている?」

 祐一にはとても信じられないことだった。そしてこの少女が言わんとしていること、それは……

「真琴が妖狐である、そういうのですか?」

 祐一の予感を秋子が代弁する。

「そんなことが!」

 祐一が机を叩き、立ち上がる。

ふざけるな、と叫びたかった。得体の知れないことを言うこの女を、今すぐ叩き出してやりたかった。

だが、美汐の全てを見通したような瞳が、それを許さない。威圧するでもなく、脅すわけでもなく、ただ単に事実を述べるだけの無感情な瞳。美汐は事実を語っている。半ば本能的に解っていた。

その事実が余計に祐一を苛立たせ、同時に行動を押さえ込ませていた。

「妖狐は人にあこがれます。人に触れた妖狐は、その人を慕います……いえ、最早『恋』というレベルでしょう。恋慕の心は彼らに奇跡を与え、そしてその人の前に現れます」

覚えはあった。

七年前。怪我をした子狐。名前をつけて、この家で家族として過ごした。思い出にすらならないほどの、小さな記憶。

「真琴、鈴を持っていたわね」

 秋子は言った。茫然自失とした祐一と名雪に語りかけるように、秋子は続ける。

「あの頃、私はお財布に鈴をつけていたの。狐のマコトは鈴の音が大好きで、いつもお買い物のときについてこようとした……そう、そうだったのね。道理でいくら探しても、手がかりがないわけだわ」

「そういえば、鈴の音が好きだから、それにあわせて歌ってあげたこともあったね」

 名雪がそれに続く。

「知っている……思い出した。『沢渡真琴』、俺の昔の憧れの人だよ」

 妖狐は恋をする。誰かを欲しいと願う気持ち、誰かを得たいと願う気持ち、それをヒトは『恋』と呼ぶ。いや、人になったばかりの真琴は、それが恋であるということにすら気がついていない。もっと原始的で、根源的な、そう『誰かといる暖かさ』を求める気持ちだろう。

「…俺はかつて、『沢渡真琴』という人間と共に居たいと願い、その事を話した。幼い妖狐は、その姿になれば俺とずっと居られると思った。だからこそ、それを願った。そしてそれは叶った。そういうことなんだな?」

舞は「強い思いが奇跡を呼ぶ」ということを教えてくれた。これはまさに奇跡だった。

「ええ。ですが、その奇跡は一瞬の煌きです」

「?」

 顔を下に向けた、美汐の声が震える。拳が震えていた。何かを堪えていた。

「命と引き換えにした、ほんの僅かな煌きです!」

 顔を上げた美汐の顔は、涙に濡れていた。あふれる涙を拭うことなく、最後には叫ぶように真実を紡いだ。

「どういう……ことだ?」

解っていた、それでも訊かずにはいられなかった。祐一はほんの藁のような希望にでも縋りたかった。

最悪の予想とは違ってくれ、祐一は心からそう願う。

「そのままの意味です。奇跡は命を代価にする。話の様子からだと、もう……」

 最悪の予想。それは確実だった。力なく座り込む祐一、最後の言葉を美汐が紡ごうとしたときだった。

「ありがとう」

 絶望の言葉を紡ごうとする美汐を、秋子は静かに抱きとめていた。泣きじゃくる美汐の背をそっと撫で、幼子に語りかけるように秋子は続けた。

「あなたは『同じことを経験したことがある』のですね。だから、私たちを放っておけなかった。ありがとう、本当のことを教えてくれて、そうでないと『何もできないまま』でしたから」

「苦しいと解っていて、永遠にその記憶は残ると知っていて、それを受け入れるというのですか!?」

 激昂する美汐の額をそっと撫で、秋子は続けた。

「そう、苦しいわ。真琴はもう、私の娘ですから。娘を忘れる親はいないわ。だけど『真琴はいなくなる』。だから、真琴にしてあげられることはもうそんなにない。だから、ありがとう……あなたが教えてくれなければ、娘との、家族としての時間を、失ってしまっていたから」

「………」

「最後に、真琴に会ってあげてくれませんか?あの子には、友達が必要だと思いますから」

 美汐の涙をそっと拭い、秋子は言った。

「…解りました」

 長い沈黙の後、美汐は静かに頷いた。そこにはもう、涙はなかった。

 

「あう?」

 真琴の瞳は、まるで小さい子供だった。何も知らず、何も解らず、無垢に世界を見つめる瞳。見知らぬ客人の姿を人見知りするわけでもなく、寄り添うわけでもなく見つめていた。

「初めまして、私は天野美汐です。あなたは?」

穏やかに微笑み、美汐は言った。

祐一にも解っていた。この少女の陰のある部分は、そんな辛い記憶を持っていたからなのだ。だが、それでも美汐は『悲しみを増やしたくない』と願いこうして助力をしてくれている。その優しさが嬉しかった。真琴の終わりが避けられないと知っていても、ここまでに『愛された』真琴の人生に後悔はないはずだ、そうとさえ思えた。

「あう……ま…こ…と」

「そう、真琴ね。いい名前ね、真琴」

「あう!」

 真琴が両手を振って喜び、両手の鈴を揺らした。

「人はただ、風の中を……」

「名雪?」

 どこか懐かしいフレーズを、名雪は口ずさんだ。

「お母さんが昔歌ってくれた子守唄。狐のマコトはね、この歌と鈴の音が大好きだったの。言葉の意味は解らないのかもしれないけど……」

 照れたように、名雪は言った。

「そんなことはないわ、名雪。例えその言葉の意味が解らなくても、歌は人の気持ちを伝えるものだから。心を込めて歌った歌は、言葉を越えて相手に伝わるものよ」

「歌なんて、カラオケ以外は久しぶりだな」

 その歌を祐一も知っていた。忘れもしない。怪我をして苦しんでいた子狐に、名雪と2人で歌ったのだ。

「歌いましょう、その歌は私も好きです……真琴、鈴を鳴らしていたくださいね」

 そうして家族は歌う。遠い日の歌を、遥か彼方の世界から来た、この一人ぼっちの少女に伝えたい想いを乗せて……

 

♪人はただ、風の中を、迷いながら、歩き続ける。

その胸に、遥か空で、呼びかける、遠い日の歌

 

♪人はただ、風の中を、祈りながら、歩き続ける。

その道で、いつの日にか、巡り合う、遠い日の歌

 

♪人は今、風の中で、燃える思い、抱きしめている。

   その胸に、満ちあふれて、ときめかす、遠い日の歌

 

 追想曲と名づけられた曲に乗せられた歌詞。それはまるで、真琴の歩んできた道そのものを示しているようにすら思えた。

一人ぼっちで迷っていた真琴は、心の底から『家族』へと呼びかけていた。いつか祐一達と巡り合うことを、祈っていた。その気持ちを抱きしめて、自分の胸をときめかせていた。それは恋に恋する少女よりもなお幼い気持ち。

だが、それがなんだというのだろう?会いたい人がいる、共に過ごしたい人がいる。そして相手も、そう思っている。ならそれは、それでいい。永遠ではないにしても、確かに真琴は、同じ時間を、あれほど焦がれた人々と共に過ごしたのだから。

 

               *

 

その夜、祐一、名雪、秋子、真琴の四人で外食を楽しんだ。

祐一達にとっては久しぶりの、真琴にとっては初めての体験。街に一軒だけあるファミリーレストランに四人で足を運び、真琴が色とりどりの料理の写真に目を輝かせる。

「真琴、このシークレットディナー、なんていうのはどうだ?」

 祐一が写真の載っていないコースを指差す。しかも妙に値段が安いあたり、余計に疑わしい内容だった。

「祐一、どうしてそういう得体の知れないものを頼むの……」

 名雪が呆れたように呟く。

「でも、おもしろそうですね」

「あう〜」

 結局、四人でそのディナーを頼んだ。因みに単にその日のお勧めを日替わりで出すだけのメニューで、つまらんと祐一が唸っていた。そんな祐一を見て、3人が笑う。そんな食事風景。

 

―みんなで食べるご飯は、美味しいでしょう。真琴―

 

 別の日は、花火をした。

「ほら、これなんかおもしろいぞ」

「あう〜」

 祐一が手渡した花火を、面白がって真琴が振り回す。

「わ、わ、あぶないよ」

「気をつけてね、真琴」

 ちりちりと燃える線香花火。小さな火の玉の周りで、火の光が爆ぜる。小さく、儚く、それでも確かに存在する光。だが、それは決して永遠などではなく……

「あう……」

 最後の光が、音もなく消え去る。それはまるで、全ての終わりのようで、それでも祐一は笑う。

「また、やろうな、真琴」

 

―花火は、こうしてみんなでやるものだ。悪戯より、こっちのほうが楽しいだろう?―

 

別の日は、4人で街を歩いた。

何でもいい。ただ、思い出だけが欲しかった。こうしてみんなで過ごせる時間が残り少ないとわかっていたから、残されるものがその人のことを忘れないように、去り行く人が笑って逝くことができるように、何かの証が欲しかった。

「あ、あれ」

 名雪がゲームセンターの軒先にある、プリントシール機を指差す。

「あら、なあに?」

「撮った写真が、シールになるんですよ」

 と、言って祐一は真琴の荷物に入っていたシールを思い出す。ただ一人で移っていたシール。それはもしかして、真琴の夢だったのではないだろうか?そう思えた。一人で移るフレームの周りに、側にいてくれる『誰か』を夢見て撮った悲しい夢の産物。なら、やることは決まっていた。

「一緒に撮ろう?」

 名雪が筐体に駆け寄り、祐一と秋子がそれに続く。

「狭いわね……」

「わっ、お母さん押さないでよっ、私、おちるっ」

「こらこら、俺の上に乗るなっ!」

 だが、筐体の中で押し合いへし合いする3人を、真琴は遠くから寂しげに見つめていた。

 

「ほら、おいで。お母さんは脇役でいいから」

 だが、真琴はまだ戸惑っているようで、その場から動こうとしない。

「しょうがない……」

 真琴の側へ行こうとした祐一を制して、名雪は言った。

「おいで、真琴」

名雪は真琴を、初めて名前で呼んだ。

それはやはり、名雪も戸惑っていたのだろうと祐一にも解った。どう接するべきか解らないから、名前を呼べなかった。だが、今は違う。全てを知り、全てを受け入れている。だから、名雪は真琴を呼ぶ。名雪が真琴に手を差し出す。

「あうっ!」

 満面の笑みを浮かべ、真琴が駆け寄る。名雪は真琴の手を掴み、筐体の中へ招き入れた。

 

―もっと早く、名前を呼んであげればよかったね……だから、ね―

 

               *

 

 そして、終わりは唐突に訪れた。真琴は再び熱を出し、床に倒れた。

「あう……」

 祐一達の見守る中、何かを求めるかのように、真琴はその小さな手を天に伸ばす。すぐにその手を祐一は握り返していた。次の発熱が真琴の終わりだと美汐から聞いていた。だが、まだなにか、できることはないだろうか?この少女にしてやれる、最後のことがあるのではないか?そう思えてならなかった。

「……これは?」

 と、そこで真琴の布団の側に置かれていた漫画本が目に付いた。それは真琴と和解するために、祐一が買ってきた少女漫画だった。その最後のページには、ヒロインの少女がウェディングドレスに身を包み、結ばれた少年の側で微笑んでいた。

――いいなあ……結婚かあ――

 かつて真琴が言っていた言葉を思い出す。生きていれば、こんなところで終わるべき存在でなければ、真琴もいつかこのような未来を歩めたのだろう、そう思うと余計にやるせなさが祐一を満たす。

「そうだな……するか、おまえの結婚式を」

 決意したように祐一は立ち上がる。秋子もその意図を察したのだろう。祐一達に部屋を出るように促し、真琴を着替えさせた。

 

「祐一」

 自分の部屋へ行った名雪が、何かを抱えて戻ってくる。

「これは……」

 名雪の手には、一枚のヴェールがあった。白く輝く布が、名雪の手から祐一へと手渡される。

「昔、劇で使ったものなんだけど……いいかな?」

「上出来だ…」

 少し照れて、祐一は名雪に礼を述べる。

「私、お母さんにはなれないね」

「?」

「真琴に、何もしてあげられなかったから……名前を呼んであげることも、苦しみを和らげてあげることも、できなかったから。お母さんみたいに優しくしてあげることも、できなかったから」

名雪は俯き、小さく拳を握っていた。

泣いている、祐一には解った。いつか感じたことは、間違いではなかった。誰よりも他人の悲しみを理解し、そしてその力になり、共に生きることを無上の喜びとする。それが名雪であり、秋子なのだ。

「だけど、こうして思い出を作るために頑張ってくれた……お前の気持ちに救われたやつは、多いと思うよ。ありがとう……やっぱり名雪は、秋子さんの娘だよ。お前がいなければ、ここまで来られなかったと思うから」

 栞、香里、舞、佐祐理、そして真琴の悲しみや苦しみと戦うことができたのはこの少女のおかげだ。祐一はそんな感謝の意を込めて、そっと名雪の頭を撫でた。

 

「それじゃあ、行ってきます」

 真琴と共に玄関に立った祐一が、秋子と名雪に最後の挨拶を述べる。永訣の別れだと解っていた。二度とこの時間は戻ってこないとわかっていた。だが、秋子は

「ええ、いってらっしゃい」

 と、いつものように微笑を返す。そんな秋子に、真琴はそっと近づいた。

「あら、どうしたの?」

「…………」

 誰にも聞き取れないほどの小さな声で、何かを話す。否、最早声など出せないのだろう。それでも、真琴は意志が通じると信じて、小さく唇を動かす。

「―---------っ!」

秋子が顔を背け、声を押し殺すように両手で顔を押さえる。

何を言ったのかなど、知る由もない。だが、秋子は泣いていた。おそらくこの場にいる者の誰にとっても初めてであろう、秋子の感情を吐露する姿。顔を背けたまま、嗚咽を漏らすまいとしたまま、秋子は言った。

「いってらっしゃい……真琴」

 

               *

 

――ものみの丘。

 かつて真琴と祐一が初めて出会い、別れ、そして再び出会った場所。全ての物語の結末には、この場所が相応しいと祐一は思った。結婚とは永遠を誓う儀式、それを分かつのは死以外にない、最高の盟約の儀式。ならばそれに相応しい場所は、ここ以外にない。

「よっこらせっと」

 拾ってきた枯れ枝と蔓草で、祐一は十字架を作る。夕暮れの光が長く十字架の影を伸ばしていた。随分と時間がかかったな、と苦笑しながら、待っているであろう真琴の姿を見つめた。

---------」

それは、あまりにも幻想的な光景だった。

ヴェールを被り、夕暮れの光で金色に輝く草むらに立つ真琴。

その姿は、天上の天使もかくやというほどに輝いて見えた。

それはどんな高価なドレスを着た花嫁よりも気高く、どんな綺麗なブーケを携えた花嫁よりも美しく、この世に斯くも美しい結婚の光景があるのだろうかと思う。

祐一は暫し時を忘れて呆然とその光景を見詰めていた。

「あう?」

 やがて祐一に見られていることに気づいたであろう真琴が、小首を傾げ祐一を見た。祐一は真琴に見とれていた自分に苦笑しながら、真琴の手を引いた。

「はじめるぞ、俺たちの結婚式だ」

 

祝詞はいらなかった。賛美歌もいらなかった。立ち会うべき神父すらもいらなかった。

それでも2人は永遠を望んでいた。それは何よりも確かな、絆の証だった。小さな十字架の前で、祐一は真琴を抱きしめた。

暖かかった。脈打つ音が聞こえていた。真琴の香りが胸いっぱいに広がっていた。瞳を開けば、不思議そうに祐一を見つめる無垢な真琴の顔。どれほどそうしていたのだろう?気がつけば、真琴は眠そうに瞼を閉じかけていた。

 座ろうか、と促して祐一は真琴を後ろから抱きしめるようにして腰掛けた。小さく真琴の鈴が揺れた。

もう真琴は何も喋らない。何の表情も作らない。ただゆっくりと、静かに瞳を閉じてゆくだけ。彼女が待ち望んだ春は、今も儚い夢の中。いや、こうして過ごせたことそのものが、誰にとっても夢の光景。ならば、夢の終わりは幸せな終わりを、そう思った。

「人はただ……風の中を」

 真琴が好きだったあの歌を、祐一は歌った。

「迷いながら、歩き続ける」

 聞きなれた声が聞こえた。名雪が、秋子が、美汐が歌っていた。それは祝詞、賛美歌、そしてレクイエム。歌が終わる頃、真琴の体が小さく輝いて……そして、消えた。

 

小さな丘の上に、十字架が立っている。

 その首には小さな鈴がかけられ、時に悲しく音を立てる。

 

                          それは、暖かき家族の絆の証

                               −Episode 8:”Mishio Amano” end−


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