Kanon     “the  pure soul”

 

 小さな丘の上に、十字架が立っている。

 その首には小さな鈴がかけられ、時に悲しく音を立てる。

 

                          それは、暖かき家族の絆の証

 

 小さな視線は、小さな少年を見上げていた。

 そこは、街を一望できる丘の上だった。

 

夕暮れの光があたりを赤く染める中、二つの意識は、離れようとしていた。

視線は離れたくはない、そう無言の内に語っていた。少年は、しかしそれを望んでいた。

いかないで、いかないでと哀願するように視線は少年を見上げる。

『ごめん。もうお別れなんだ』

少年はそれでも心底済まなさそうに、微かにかぶりを振った。

屈みこみ、その小さな体を、そっとなでる。ちりん、と音がして少年は持っていた鈴を渡す。

『………』

声にならない声で、『彼女』は泣く。

いかないで、わたしを一人にしないで。それは祈りにも似た悲痛な叫び。だが、その願いは叶わない。泣いた、彼女は泣いた。それはひとえに、知らないものを知ったが故の悲しみというのか……

 

それで終わっていれば、それはただの悲劇に過ぎなかったのだろう。

それでも、彼女は終わることはなかった。生ある限り生きねばならぬという、それは生物として不変の本能。彼女は生きた。様々な艱難辛苦を経て、『彼』を『彼女達』と同じように待ち続けたのかもしれない。

季節の移ろい、星のめぐり、それらをどれほどに見つめただろう?覚えるのもばからしいほどの、長い時の流れ。春夏秋冬、季節の奏でる追想曲は終わることなく続いた。

 

やがて時は流れ、彼女は再びこの場にいた。何故戻ったのかなど解らない。ただ、自分の『終わり』が近いことを悟った彼女は、気がつけばこの場に足が向いていた。

「?」

 そのとき、足に『何か』が触れた。それは、風雨に晒されてさび付いた、小さな鈴。

-------!」

わけもなく、涙があふれる。

彼女は思い出していた。かつて共に過ごした大切な相手のことを、自分に温もりをくれた、遠い日のあの歌を。

悲しみと共に怒りが湧き起こる。どうして、どうしてあの時、自分を切り捨てた?憎い、あいつが憎い。動かぬ体に鞭打ち、彼女は空を見上げた。

「………」

 そのとき、彼女を見つめる一対の瞳があった。それは、彼女と同じ存在。共に同じ時を生きた、彼女の仲間だった。

「………」

行くのか?と『彼』は問うた。『彼女』は無言で眼下に広がる街を見詰める。

それが肯定の意である事は疑いようもない。暫しの沈黙の後『彼女』は歩き出す。それはもう後戻りのできない道だった。それはより深い悲しみと共に、その命を終えるという選択だった。それでも、彼女に後悔はなかった。

――もう一度、『アイツ』に会える――

それは願いだった。憎悪だと彼女は言った。

だが、彼女は知っていたのだろうか?誰かを欲しいと願う気持ち、誰かを得たいと願う気持ち、それを人は何と呼ぶのか……

 

             Episode  7:the “hate” ―Makoto Sawatari―

 

―憎かった。

  私を捨てた『あいつ』が憎かった。

     だから私は、『あいつ』の所へ向かう。それさえ叶えば、後悔なんてある筈がない…―

                                  −Makoto Sawatari−

 

「?」

 買い物からの帰り道、祐一は誰かにつけられているような感覚があった。気になり振り返ってみる。

「なんだ・・・?

と、視線の先で奇妙な物体を見つけた。

「つけられる覚えはないんだが、誰なんだ?」

 それは、ボロボロの布をかぶった浮浪者のような風体。突風に拭かれて、布がばたばたとはためく。顔は隠れていて、よく解らない。

「……あんたにはなくても、こっちにはあるのよ」

 その声は、祐一が想像していたよりもはるかに幼く、自分と同じかそれより年下の女の子の声だった。だが、やはり声にすら聞き覚えがない。

「……あなたが、憎いから!」

 少女は、勢いよく布を脱ぎ捨てた。

露になったその姿を見つめてみる。祐一より頭一つくらい小さな少女だった。可愛いといっても差し支えないほどの顔立ち。野生の狐を連想させる金色に輝く腰まで届くほどの長い髪。Gジャンをセーターの上に羽織り、肩から小さな鞄を下げていた。だが、可愛らしいはずの顔は怒りに歪み、小さな拳を握り締めていた。

「覚悟!」

 少女が地を蹴り、勢いに乗った拳を繰り出す。

「!?」

 咄嗟にかわす祐一。少女の拳はむなしく宙を切る。

「あう……今度こそ!」

 向き直り、もう一度拳を突き出す少女。

「おっと」

それをかわす祐一。

なんだ、と祐一は拍子抜けしていた。この少女の攻撃はてんで出鱈目だった。しかも動きが緩慢で、避け続けるのにたやすいどころか、喰らう方が難しいほどである。

「……ぜえ、ぜえ……このぉーーーっつ!」

「ほい」

 少女が破れかぶれに大振りのストレートを繰り出そうとするところを、祐一が少女の頭を抑える。少女は祐一よりも小さいので、当然その拳は届かない。

「あうぅぅぅぅぅ……」

 落ち込んだような悲鳴をあげる少女。

「なんだか知らんが、俺はあんたに怨まれる覚えはないぞ」

「うるさい……うう、お腹が減っていなければあんた……なんか……に」

 ずるり、と少女がへたり込み、そのまま前のめりに倒れた。

「お、おい?」

 少女を見てみるが、目を覚ます気配など微塵もない。

 

「なにしてるのかしら、あのひと」

「そういえば、さっきあの女の子と喧嘩していたわよ」

「何を考えているのかしら、あんな小さな子相手に」

 

 しかも周りからは、祐一が一方的な加害者に見られているようだった。

「え、え〜と、じゃあ、そういうことで」

 愛敬笑いを振りまき、少女を背負ってそこから逃げ出す。逃げる道すがら、どうしてこんなことになったのか、祐一はわが身の不幸を呪ったのだった……

 

               *

 

「ただいま」

 見知らぬ少女をおぶったまま、祐一は水瀬家の扉を開けた。

「お帰り祐一……?」

出迎えた名雪が、目を丸くする。

無理もないだろうと思った。夕飯の買い物に行った人間が、見知らぬ女の子を背負って帰ってきたのだからそれは驚くだろう。

「えっと……大きなおでん種?」

 ここでこういう返答をするあたりが名雪らしかったが。

「……人間だ」

「あ、やっぱり?」

「とにかく、布団を用意してくれ」

「うん。わかったよ」

 

 居間の扉を開けると、秋子の声が出迎える。

「お帰りなさい、祐一さん。大きなおでん種買ってきたのね」

「……あんたら親子は、食人鬼かっ」

 娘と同じボケをかます母親に、とりあえず突っ込んでおく祐一。疲労が余計に増した気がした。

「冗談ですよ」

 頬に手を当てながら、微笑む秋子。

「秋子さんの冗談は冗談に聞こえません……」

 嘆息する祐一。

「祐一、お布団の用意ができたよ」

「ああ」

 詳しい話は食事のときにと言い残し、祐一は謎の少女を抱えたまま階段を上っていった。

 

               *

 

「実はな、勝手に襲い掛かってきて、勝手に倒れた。というわけなんだ」

 食卓を囲みながら、祐一は今までのいきさつを一言で話した。

「……はしょりすぎ」

 名雪が呆れたように言う。

「とはいっても、本当にそれだけだ」

「それにしたって、襲ったのだから何か理由があるでしょう?知らない間に迷惑かけていたとか、何かの勘違いだとか?」

「それが解らないから困っているんですよ」

頭を抱える祐一。

どうもこの街に来てから、女難の相があるのは気のせいだろうかと思いながら。

「誤解じゃなくて、祐一のとんでもない過去が暴かれたりしてね」

 名雪が呑気に言ってくる。

「そんな覚えはない」

「舞さんのことを忘れていたよ」

「……まあ、それはそれだ」

 確かに色々と忘れているのは事実だった。

「……でも、何処の子なのかな」

 名雪は気になるのか、しきりに首を傾げていた。。

「ともあれ、誤解に決まってますよ。そしたら一発殴っておしまいだ」

「殴らないの」

 名雪がたしなめるように言う。全てはあの少女が目を覚ましてから、ということでこの場はおひらきとなった。

 

「……起きないね」

 食事を終えて、名雪と2人で少女の部屋へ行く。空き部屋だった部屋に布団を敷き、とりあえずの部屋としておいた。

「身元も解らん、覚えもない、どうしたものだか」

 祐一の手には少女のバックが握られていた。勝手に開けるのは気が引けたが、他に当てもなかったので名雪と2人で調べていた。だが、手がかりは何もなかった。入っていたのは財布とゴミ、そしてシールとなっている写真。

「何で一人で撮っているんだよ……」

その写真には少女が一人で映っていた。

唯一の手がかりになりそうだったのにと、大きく嘆息する祐一。

「今日は泊めてやるか……」

「そうだね」

 そうして部屋の明かりを消し、2人は外に出た。

 

               *

 

「……」

 不意に、祐一は目を覚ました。時計を見ると午前2時。そしてこういうときには得てして尿意が伴うものである。

「トイレ、いっとこ」

 用を足して、部屋に戻ろうとする道すがら、台所に明かりが灯っている様が見えた。

「?」

 いささか気になり、台所を覗いてみると誰かが冷蔵庫の中身を漁っていた。

「あう〜っ、何ですぐに食べられるものがないのよう」

女の子の声だった。

「名雪か?夕飯をあれだけ食べておきながらさもしいやつだ」

と、そこでちょいと脅かしてやれという悪戯心が頭をもたげてくる。にやりと笑い、そろりと足音と気配を殺しつつ近づき、無造作に投げられたコンニャクを手に取る。

「変なパジャマ着せられているし……」

 暗くてよくは解らないが、冷蔵庫の明かりが辛うじて少女のシルエットを浮かび上がらせていた。金色の髪、カエルのパジャマ。祐一はそんな少女の真後ろに立ち、コンニャクを手放した。

 

 ひやっ!

 

 冷えたこんにゃくが、少女の背中に悪寒をもたらす。

「!!!!!!!!!!!!?」

 声にならない声を上げ、少女は暴れまわる。がしゃん、どかん、ばたん。戸棚に頭をぶつけ、少女に棚の上の箱やら皿やらが直撃した。

――どかん、ばたん、ばりん!――

「わ、な、名雪?」

最後の「ばりん」は皿が割れた音だろうか、流石にやり過ぎたと思う祐一。

するといきなり部屋の明かりがつけられ、寝巻きのうえにカーディガンを羽織った秋子が駆け寄ってくる。

無理もない、この騒ぎで寝ていられるなら、隣近所が空襲にあっても寝ているだろうと祐一は思った。

「どうしたんですか、こんな夜中に近所迷惑ですよ」

「……おおさわぎ?」

 と、その後ろから寝惚け眼の名雪が顔を出す。

「……お前はこの家に何人いるんだ?」

「うにゅ?」

 間抜けな返答を返してしまう二人。では騒いでいたのは誰だろうと思い、棚のほうを見れば……

「あう〜っ、死ぬほどびっくりしたよぉ」

「あらあら、大丈夫?」

 かいがいしく、秋子が涙目の先程の少女をあやしていたのだった。

 

               *

 

「で、結局お前何なんだ?」

 秋子の御手製のお茶漬けを4人で囲み、食べ終えた祐一が少女に問うた。

「……わからない」

「解らない?どうしてだよ?」

 鋭い視線で詰問する祐一。

「だめですよ、そんな言い方では怯えるじゃありませんか」

 祐一をたしなめるように言って、秋子が訊ねた。

「こんばんは、私は水瀬秋子、隣にいるのが娘の名雪、あなたを連れてきた男の子が相沢祐一さん、あなたは?」

「あう……わからない」

「解らない?」

祐一が怪訝な視線を少女に向ける。

どうにもこの少女は胡散臭かった。さしあたって行き所のない家出娘が適当な芝居をうっているというあたりだろうかと祐一は思った。

「……覚えて、ないの」

「覚えてない?その割には俺が憎いとか何とか言っていたようだが」

「あうぅぅぅぅ……だって、それはあたしのたったひとつの道しるべだから……こいつが憎いって…」

「記憶がないのにそんなことがあるか?大体憎まれる理由がない」

 当たりか、と祐一は思った。後は適当に引っ掛ければ襤褸を出すだろうと思った矢先だった。

「ダメですよ。そんな意地悪しちゃ」

「……秋子さん、いきなり庇わないでくださいよ」

 どうやら秋子は彼女の言葉をそのまま信じているようだった。

「祐一、酷い」

「お前まで言うのか、名雪……これじゃあ俺の立つ瀬がないだろうが……」

 水瀬親子にたしなめられ、こうなってしまえば祐一は何もいえない。大きく息を吐き、名雪を見た。

「じゃあ、お前ならどうする?」

「そうだね……記憶が戻るまで、ここにおいてあげればいいんじゃないかな?」

 おっとりとした微笑を浮かべながら、とんでもないことを名雪は言う。

「待て!そんなこといったら秋子さんが了承するのは目に見えてるじゃないか」

「了承」

 祐一が反論するよりも早く秋子が言う。時間にして1秒かかるかどうかというところか。

「……ほら、一秒で了承されたじゃないか」

 諦めと疲れが入り混じったような溜息をつく祐一。

「ともかく、今日はもう遅いから早く寝ましょう。祐一さんも名雪も遅刻したら大変ですから」

 そして秋子の言葉でここはお開きとなる。

 

「そういえば、昔にもこんなことがあったよね?」

「あん?」

 部屋へと戻る途中、唐突に名雪が言った。

「覚えてないかな?昔、祐一が怪我をした狐を拾ってきて、でもすぐにお母さんにばれちゃって、その後暫く一緒に暮らしていた子がいたじゃない」

「ああ、そんなこともあったか……」

 記憶を思い返す祐一。あれは確か7年位前だった。森の中を歩いていると怪我をした子狐がいた。それをそのまま放っておくことができず、結局連れ帰ったことがあった。そして秋子さんに頼んで治療してもらい、その後森に返した筈だった。

「懐かしいよね……そういえば、その子の名前何だっけ?」

「覚えてないよ、そんなこと……もっとも、人間を拾ったのなんて初めてだがな」

「そうだね。でも、仲良くなれるといいね」

「遠慮したい……」

 

               *

 

 翌朝のことだった。半分寝ている名雪と共に食卓に行くと、昨日の記憶喪失の少女と秋子が向かい合って座っていた。

「おはようございます、祐一さん」

「おはようございます、秋子さん、と、自称記憶喪失」

「あう〜っ、自称じゃなくて本当に記憶がないの!今だって必死に頑張ってるんだから邪魔しないで!」

少女にしてみれば精一杯睨んでいるつもりなのだろうが、どう見ても頬を膨らませて拗ねている子供である。

やれやれ、と思いながら祐一は名雪と2人で席に着いた。

「何なら俺がつけてやろうか?」

「……言ってみなさいよ」

 警戒する少女に悪戯っぽい笑みを浮かべ、祐一が言う。

「殺村凶子なんていうのはどうだ?」

 電話帳のメモに名前を書いた紙を見せる。

――どかっ!――

 返事の代わりにパンチ一発。流石に不意をつかれて、祐一は頬に一発入れられる。

「ってて……その物騒な性格にぴったりだろうが?」

「いや、いまのは祐一が悪いと思うよ……」

 呆れたように名雪が言った。

 

「……マコト」

「どうしたの、祐一?」

 朝食のトーストを齧りながら、唐突に祐一は言った。名雪が不思議そうに祐一を見る。

「いや、昨日話していた狐の名前、たしかそれが……」

「それよっ!!」

 いきなり件の少女が大声を上げて立ち上がる。

「あらあら、何か思い出したの?」

 秋子が2人分の朝食を運びながら会話に加わってくる。

「名前よ名前!私の名前!」

「あらあら、なら教えてもらえる?」

「真琴、沢渡真琴だよ」

――沢渡、真琴?--―

 その名前を聞いた祐一が怪訝な表情を真琴と名乗った少女に向けた。

「ふふーん!どう、祐一。真琴の勝ちよ!」

「……何が勝ちなんだ?」

「だって、真琴は真琴の名前好きだもん。なら、真琴の勝ち!」

 その通り勝ち誇ったように真琴が喜ぶ。

「……なるほどね、っと、そろそろ行かないとやばいぞ!」

「わ、わ、そうだね」

「って、どこいくのよ?」

 あわてる2人を不思議そうに真琴が見つめる。

「学校だ学校!お前だって行ってないのか?」

「学校・・・?って、何?」

 目を丸くして真琴が問う。どうやら本当に知らないらしかった。

「何って……ああ、記憶がないんだったな」

「そうよっ!」

 真琴の怒鳴り声とともに、また一日が始まった。

 

               *

 

 その日の夜のことだった。

――ぎしっ、ぎしっ――

「?」

 祐一が目を覚ますと、何者かが床板を踏み鳴らす音が聞こえた。

「あははっ、よく寝てる」

 耳をすませば、真琴の声が聞こえた。何をやっているんだと思っていると、そっと扉が僅かに開かれた。

「よしっ、これで……」

 見ると、何かが光っているように見えた。そしてそれをそっと部屋に放り込んだ。ぱちぱち、と何かが燃える音がする。

「って、やばいだろうが!!」

 飛び起きる祐一。何をやったのかはわからないが、燃えるものを使っているあたり流石にまずい予感がした。見ると導火線の半分ほどまで火が進んだねずみ花火である。

「……あの野郎…いや、女郎か?」

 何でこのようなことをするのか解らなかったが、そこでふと思いつく。

「何のつもりか知らないが懲りさせてやるか」

思ったら祐一は早かった。すばやく花火を掴み、僅かに開かれた扉から外へ放り投げた。

――ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱーーーん!!――

 壮絶な音と共に花火が爆ぜる。

「あうあうあうあうあうーーーっ!」

 と、共に響く真琴の悲鳴。すばやく電気がつけられ、寝巻きのうえにカーディガンを羽織った秋子と、同じく猫模様の半纏を羽織った寝惚け顔の名雪が起きてくる。

「どうしたの?こんな夜中に、近所迷惑よ」

「まったくだな、なに考えてるんだ真琴?」

 したり顔で祐一は真琴を見下ろす。

「花火だね〜」

「真琴、花火をしたかったの?」

「あう……うん」

 秋子が腰を抜かしている真琴の側で屈みこみ、優しく問う。

「だめよ、花火は外でするものだから。今度は私にいってね。無下にはしないから」

「う、うん」

さすが秋子さん、と祐一は思った。

怒鳴るわけでもなく、ましてや暴力を振るうまでもなく、相手の瞳を真摯に見つめ、一言一句丁寧に諭すように叱る。この類の叱り方は、実は一番「こたえる」やり方である。そしてなにより、相手に理解させることになる。

「たいしたもんだな……母親の鑑?」

「うにゅ?」

 腕を組みながら感心する祐一を、名雪は不思議そうに見つめていた。

 

 が、翌日の晩である。

「あはは〜、また寝てる」

 寝ている祐一の枕元に、懲りもせずに真琴がやってくる。今度は祐一も黙ってはいなかった。

「おりゃ!」

「あうっ!?」

 布団を跳ね除け、起き上がった祐一が真琴の腕を掴む。その手には袋に入ったコンニャクが握られていた。今度は何をするつもりだったのだろうか?

「で、何しに来た?」

「え、えっとね。おなかが空いたから何か食べようかと思って」

「何なら一人で食え。俺は眠い」

「今度は何ですか?」

 と、そこで秋子が起きてきた。

「ああ、真琴がコンニャクを食べるだけですから」

「え?そのまま……真琴、そんなにおなかが空いてたの?」

 確かに真琴の手にあるのはそのままのコンニャクだった。秋子は真琴の手を掴み、心底心配そうな視線を向ける。

「だめじゃない、これはそのまま食べるものじゃないの。ほら、おなかが空いてるのだったら今度は私にいって。無下にはしないから」

「え、え〜と……」

 困惑する真琴。まさかバカ正直に「悪戯するつもりだったの」とは流石にいえなかった。

「ほら、遠慮せずに食って来い。俺は寝る」

 そして秋子に引きずられていく真琴を見送った後、改めて祐一は眠りについた。

 

               *

 

それから暫く、真琴の夜の悪戯は続いた。

ある日は焼きそばの麺を顔に落とされた。またある日は豆腐を顔に落とされ、昨日は風呂を味噌汁にしていた。際限なくくりかえされるその悪戯に、流石に祐一も辟易していた。

「ふあ〜あ」

「うにゅ〜」

 ある休みの日、一緒に出かけた祐一と名雪が、二人そろって大あくびをする。余談だが、登校途中のこの2人の様子を見て、北川と香里に「似たもの夫婦」などと呼ばれたことまであった。

「……祐一、眠そうだね」

「真琴が毎晩やかましいからな……お前も貴重な睡眠時間を削られて辛くないか?」

 名雪は12時間くらい平気で寝る人間である。自分より辛いだろうと祐一は思った。だが、名雪の答えは意外なものだった。

「そうだね、でも、楽しいよ」

「あれが楽しいのか……?」

 冗談とも本気とも取れぬ名雪の言葉に呆れたように祐一は言う。

「それにね、あの子はきっと、祐一にかまってもらいたいんじゃないかな?」

 少し考えるような仕草で、名雪が言った。

「……それにしたってやり方があるだろ?」

「でもね、あの子は記憶をなくしているんだよ。不安なんじゃないかな?帰る場所もわからない、どうするべきかもわからない、その中でたった一つの道しるべ。それが祐一のこと。でも、どうやって接したらいいか解らない……きっと、あの子はすごく不器用なんだよ」

 まるで我が事のように不安げな表情で、名雪は語る。

「名雪……」

こういう名雪の姿を見ると、どうしても秋子との血のつながりを考えてしまう。

特に意識することもなく、殆ど本能的に相手の「不安」を見つけてしまう。そして、その力になりたいと思う。本人達にしてみれば、特に意識しているわけでもなくそうありたいと思ってしまう心。それが名雪と秋子という人間ではないだろうか?

「なんか、そういうところ、秋子さんに似ている」

「どうしたの、急に?」

考えてみれば、水瀬家には「父」がいない。

祐一も詳しくは知らないが、少なくとも物心ついたときから、名雪と秋子は2人で暮らしていた。それは祐一が想像するより遥かに苦難に満ちた道程だっただろう。だからこそ、2人は家族としてその絆を強めていったのかもしれなかった。

つまり、自分たちが孤独という辛さを知っているから、他人を孤独から救いたいと思ってしまう。香里や栞のときも、舞や佐祐理のときも名雪はその不安や孤独を敏感に感じ取っていた。だから、真琴についてもそうなのかもしれなかった。

「いや、なんともない……そうだな、少しは歩み寄ってやるべきかもしれないな」

「うん、ふぁいとっ、だよ」

 母親によく似た微笑で、名雪は答えた。と、そのとき聞き慣れた声が聞こえた。

 

「ちょっと、なにすんのよぉ!」

「真琴?」

 見ると真琴が足元にじゃれ付く一匹の猫にすりつかれながら、辟易している姿があった。

「ねこさんだよー」

 更に横を見ると、目を潤ませながら、真琴にすりついている猫を見る名雪。見ると夢遊病者のようにふらふらと近づいていこうとしていた。傍から見るとかなり異常な様子である。と、そこで祐一は重要なことを思い出した。

「待て!お前確か猫アレルギーだろ!」

「うー、だけど猫さんなんだよ!」

 わけのわからない名雪の理屈に、さっき名雪を見直したことを少しばかり祐一は後悔した。

「ねこー、ねこー!」

「いいからお前はここで待っとれ!」

 尚も近づこうとする名雪に釘を刺し、祐一は真琴に近づいた。

 

「なにやってんだよ、お前」

「だって、この子がしつこく近寄って来るの」

 だが、むしろしつこく、というよりはじゃれているように見える。

「懐かれているんじゃないのか?」

「うう、迷惑〜」

 涙を潤ませる真琴の様子が、どこか可愛らしいと祐一は思ってしまう。

「腹減っているのかも知れないな、ここで待ってろ。何か買ってきてやるから」

 

「お待たせ」

 祐一は懐に紙袋を抱えていた。袋の中から微かに湯気が出ていた。

「この間、北川に教えてもらったんだよ」

 言いながら、紙袋に包まれた中華まんを取り出し、名雪と真琴、そして真琴の足元の猫に渡す。

「食べるのかな?」

 真琴も興味津々といった面持ちで、その様子を見つめている。

「わ、ほんとに食べた」

「可愛いね〜」

 2人に見守られながら、猫は舌鼓。中の餡は肉だった。要するに肉まんである。

 

「おいしかった〜」

「ごちそうさま、祐一」

 食べ終えた3人と一匹は、歩道橋の上を歩いていた。因みに件の猫は真琴が気に入ったのか、真琴の頭の上に乗っていた。

「重い……」

「いいなあ……猫さんと一緒」

「よくないわよ……」

 表情をしかめながら真琴が頭の上の猫を掴み、胸の前で抱えた。

「ともあれ、肉まんも食べたし、これで用済みね」

 猫の顔を見ながら、真琴は言う。

「おまえな、そこまで懐かれておきながらそれはないだろう?」

「いいのよ。下手に人間に飼われて優しさを知るよりも、一人で野生の中にいたほうがいいのよ」

「いいじゃない、一緒にいてあげたら」

 あくまでも猫を拒絶する真琴に、名雪がやんわりと言う。

「どうだか、ペットなんて飽きたらどうせすぐに『ポイ』でしょ。だったら最初から一緒にいないほうがいいわよ」

 気のせいだろうか、その言葉を吐く真琴は何時にもまして悲しげに見えた。まるで『自分自身が体験した辛いこと』を語るかのように。

「どうせいつかは別れるのよ。だったら……」

 そうして歩道橋の上から上半身を乗り出し、猫を持った両手を前にだす。

「にゃあぁ!」

 そして、手が離れた。

「猫さん!」

「にゃぁぁぁぁぁぁ!」

 身を乗り出して名雪が見れば、猫は下を走っていたトラックの上に落ち、そのまま鳴き声だけを残して去ってゆく。呆然とする名雪と祐一。

「……行っちゃった」

 その中でただ一人、真琴は他人事のように言う。

「行っちゃった、じゃない!!なに考えてやがる!!」

 祐一は先程真琴の境遇に同情したことを心底後悔した。真琴の胸倉を掴み、殴りかからんばかりの勢いで真琴に詰め寄る。

「い、いたいじゃない!なにすんのよ!」

「お前は何だ!?分けのわからん行動だけじゃなくて、そんなことまでするのか!」

「ちょ、ちょっと祐一、落ち着いて」

 見かねた名雪が間に入り、どうにか祐一と真琴を引き剥がす。

「うーーーー」

 見れば真琴は、動物が威嚇するような目つきで祐一と名雪を睨んでいた。

「祐一のバカ!嫌い!」

 踵を返し、真琴は去ってゆく。後には呆然とした祐一と名雪が残されるのみだった。

 

「ただいま」

「おかえりなさい、祐一さん、名雪。今日も一日お疲れ様です」

 釈然としない気持ちのまま帰ってくると、秋子が水色のエプロンで手を拭きながら出迎えてくれる。秋子に挨拶した後、祐一は部屋で着替え、帰りに買ってきた肉まんの袋を開けて買ってきたマンガ本を取り出した。

――言いすぎだよ、もっと言い方を考えないと、理解してもらえるものもしてもらえないよ――

 先程の名雪の言葉が蘇る。真琴と別れた後、仲直りしてやれと暗に名雪は言っていた。そして土産のつもりで買ってきた肉まんと漫画を携え、祐一は真琴の部屋の前に立った。

「真琴、居るか?」

 返事はない。微かに躊躇した後、扉を開く。しかしそこには誰もいない。

「真琴、いないのですか?」

 後ろから秋子が声をかけた。見ると代えのシーツを持っていた。

「……もう、戻ってこないかもしれませんね」

「……そうですか」

 秋子は淡々と答えるのみ。理由を問うことも、祐一を責めることもしない。

「きっと、記憶が戻って家に帰ったんですよ」

 根拠のない予想を紡ぐ祐一。そして秋子に背を向け、自分の部屋に戻った。

 

               *

 

「……眠れねえ」

 その夜、真琴は帰ってこなかった。そして布団に入るも、眠れない。真琴が毎晩悪戯をしにやってきては、そのつど失敗する姿が何故か脳裏に焼きついて離れない。

人は一人になり、孤独と闇に晒されるとき、己を省みる機会を得る。

――言いすぎだよ、不安なんじゃないかな?――

名雪の言葉がリフレインを繰り返す。祐一は考えた。

何が悪い?誰が悪い?真琴か、それとも自分自身か?ならば自分は何をすべきか……?

「くそっ!」

 起き上がり、すばやく着替えてコートを羽織った。

 

 夜の街をひたすらに走った。

降り続く雪。肌も凍りそうな冷気。こんな中で人が一晩も外で耐え切れるとは思えない。悪い予感が頭をもたげ、不安を振り払うように更に祐一は走る。駅前、商店街、通学路、自分が知るありとあらゆる道を探して走り回る。それでも真琴の姿は影も形も見えない。

「くそ、これで駅は探した、商店街にもいない、通学路でも会わなかった……他には?」

 道端で立ち止まり、必死で記憶の糸を手繰る。しかしこの街で過ごした日々が浅い祐一にとっては、そうそう心当たりがあるわけではなかった。

「学校にもいなかったし、公園でも見かけなかったね」

「そっちもかよ……って、名雪!?」

 いつの間にか後ろに名雪が立っていた。自分と同じように走り回っていたのか、コートの裾が汚れ、肩にはうっすらと雪が積もっていた。

「あの時止められなかった、私にも責任があるから、ね。お母さんは森や裏山の方を回っているよ」

 照れ笑いを浮かべ、名雪は答えた。

「はは……なるほど。バカだな、俺」

 そして祐一は漸く理解した。

何のことはない。この2人も本心では心の底から真琴のことを心配していたのだ。それも天邪鬼な自分とは違い、自分に素直な2人は、迷うことなく真琴を探して走り回っていた。

それは心地よい敗北感を祐一にもたらす。そして同時に、祐一はここまで他人を気にかけることのできる人間が自分の『家族』であることが心から嬉しく思えた。

「(お前も早く帰って来い。お前を心から心配してくれるやつがここにはいるんだ)」

「とりあえず、お母さんと合流しよう?」

 名雪の言葉に頷く祐一。

「(帰って来い、真琴……会ったら先ずは謝ろう。そして、今度は四人で肉まんでも食べよう……なあ、真琴)」

 心から祐一はそう思う。そして2人は、夜の雪道を走り出した。

 

               *

 

「あら?」

同じ頃、真琴を探して歩き回っていた秋子は、一人の少女に出会っていた。

祐一達と同じくらいの年頃の赤い髪の少女。可愛いといっても差し支えのない顔立ち、だが、彼女の顔は悲しみと絶望が入り混じったような憂いに満ちていた。葬儀の帰りなのだろうか?少女は傍らに小さな花を抱え、黒い服に身を包んで呆然と立ち尽くしていた。そこは裏山への入り口だった。

「こんばんは」

 何となく気になったのか、秋子は少女に声をかける。

「……こんばんは、どうなさったのですか?」

 ややあって、少女は答える。まるで秋子に声をかけられて、初めて我に返ったように見えた。

「ええ、実は娘を探しているのです。あなたと同じくらいの年で、狐さんみたいに綺麗な髪をした女の子なのですが……」

「!?」

 その言葉に、少女の表情が驚愕に彩られる。

「知っているのですか?」

「……その子なら、先程この先へ行くのを見ました」

 言いながら少女は裏山への道を指差す。

「この先は、たしか『ものみの丘』ですね」

 無言で少女は頷く。だが、その後の少女の言葉は、秋子すらも驚かせるものだった。

「……このままお帰りください。あの子はあなたの『娘』などにはなりえません」

「!?……あなたは、真琴を知っているのですか!?」

 少女は問いには答えない。秋子に背を向け、歩き出す。

「本当の、悲しみを味わいたくないのなら、関わらないほうが良い………」

 そんな言葉を残して………

 

                               −Episode 7:”Makoto Sawatari” end”−


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