Kanon
“the pure soul”
「どうだった?」
一日の終わり、それぞれ署名を集めてきた仲間たちに祐一が問うた。
「良くはないけど、まあまあかしらね」
香里が差し出した名簿には、約半分が埋まっていた。
「まあ、こんなものだろうな。やれやれ、お前らといると退屈しないよ」
香里と行動を共にしていた北川も、同じような状態だった。それでもこれでいいの、と申し訳なさそうにする香里。
だが、そんな香里の肩をお前は最善を尽くしたといわんばかりに軽く叩く北川。
いい二人だな、と名雪は思った。ともあれ、ある程度の署名は集まっていた。
「あとは、主催者側だけだね」
「……」
名雪の言葉に、佐祐理が表情を固くする。
「どうしたんです」
「生徒会、ね」
祐一の問いに、香里が答えた。
この学校の生徒会はかなり発言力が強く、PTAや教職員にまで影響を及ぼすほどであった。実際、生徒会に睨まれて立場を崩された人間は生徒、教師、職員問わず枚挙に暇がない。舞の退学処分を決めたのも、他ならない生徒会なのだった。しかも舞踏会は生徒会の管轄である。悪条件がそろいすぎていた。
「……万事休すか」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
だが、佐祐理は笑って答えた。一同を見回し、佐祐理は言った。
「ここは、佐祐理に任せてもらえないでしょうか?」
「……佐祐理、まさか?」
何か心当たりがあるのか、舞が表情を引き締めた。
「大丈夫ですよ」
しかし、佐祐理は笑顔を崩さずに、そう答えるだけ。
署名を持ってきた佐祐理を、冷ややかに久瀬は見つめていた。
「……愚かなことですね。嘘に嘘を積み重ね、何ができるというのか」
唇を吊り上げ、久瀬は笑う。署名の名簿を、無慈悲にも破り捨てながら。
「それでもどうにかしたいのなら、何をすべきかは解りますね?」
その言葉に、佐祐理は静かに頷いた。
それは、佐祐理の覚悟だった。
Episode
6:the “lie” −Kuze−
−嘘。それは人が生み出した、知恵の極み−
−嘘。それがあるからこそ、人は自分を、他人を偽る−
−偽り、偽られ、人は生きていく。だが、真実は一つ。百の嘘も、一つの真実には及ばない−
−Kuze−
翌朝のことである。
祐一と名雪は登校するや否や、目を疑った。校庭の中心に集まる生徒たち、そしてその上で演説する男の姿に対して。
「さて、ご登校中の皆さん。今日は我々生徒会の新しい仲間を紹介しようと思います」
壇上の久瀬が、高らかに声をあげた。その横では、佐祐理が困惑した表情を浮かべ、久瀬と聴衆の間で所在なげにたたずんでいる。
「彼女は倉田佐祐理さん。もうすぐ卒業という身の上ながら、我々の仲間として迎えることとなりました。ご存知の通り、県議会で議長をつとめる倉田氏のご令嬢であらせられます。これは我々生徒会にとって非常に意義のあることであり、また……」
「やっぱり…」
後ろから、聞き覚えのある声が届いた。
「舞…」
そこには、さもあたりまえのように制服を着た舞が立っていた。
「今朝、いきなり『退学は取り消し』といわれた。そして、ここに来いって」
「でも、それと佐祐理さんといったいどういう関係が?」
「久瀬は、佐祐理を欲しがっていた。佐祐理の父親は県議会議員を務めている。久瀬は佐祐理の影響力に目をつけ、佐祐理を生徒会に引き入れた。ところが私の騒ぎが起きたときに佐祐理は私を弁護し、生徒会から去った……よくは、解らないけど」
「生徒会にしてみれば、舞は佐祐理さんを奪った。だから目の敵にしていた、ということか」
納得したように祐一が頷いた。今回の事件は彼らにとっては渡りに船だった。舞を退学にすれば、当然佐祐理は動く。そこで生徒会に戻ることを引き換えに舞の退学を取り消す。そういうシナリオなのだろう。
「で、今回の事件を利用して戻そう、か。久瀬め、それが生徒会長の態度か」
怒りに燃える視線で、久瀬を見つめる祐一。
「じゃあ、最初から仕組まれたってことなの?」
ようやく事態を把握できた名雪が祐一と久瀬を交互に見た。
「ああ。ついでにいうなら舞を呼んだのも、ここで舞を見下して、勝利の美酒に酔うつもりだったのだろうな」
高圧的な視線で舞を見る久瀬の姿が、その予想は真実だと語っていた。
「ひどい…」
「ああ…」
見るに耐えない光景だった。
プロパガンダの道具にされる佐祐理。久瀬の憎悪のはけ口にされる舞。彼女たちが望んだものは何一つ手に入らず、残されたのは残酷な真実のみ。
許せない、と思う。祐一も名雪も人を憎むようなタイプではない。それでも眼前のこの男は憎い、と思った。そのときである。
−ナラ、ドウニカスル?−
不意に風が巻いた。土煙が旋風を巻き、天高く上る竜巻となる。ざわめく人、吹き荒れる風鳴りの音が響く。
「?」
その声は聞き覚えのある声だった。
だがどうしてだろうか、ひどく懐かしい声だと思った。遥か遠い日に聞いたような、幼い子供の声だった。だが、考える暇などなかった。巻いた風は、やがて嵐のように校庭に吹荒れる。吹きすさぶ風の気配に、祐一はありすぎるほど覚えがあった。
「魔物!?」
舞が叫ぶ。
渦巻く大気。大気は荒れ狂う風に吸い寄せられ、巨大な空気のレンズでもできたかのように、周囲の空間を歪ませる。そして収束した大気は、真直ぐ久瀬と佐祐理のいる壇上へと向かっていく。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う生徒たち。しかも魔物の気配は壇上の佐祐理と久瀬へと向かっていく。
「佐祐理!」
「佐祐理さん!」
舞と祐一が走る。魔物の動きは止まらない。地を穿ち、大気を切り裂き、小型の竜巻のように周囲の土くれを巻き込みながら走っていく。
「く、来るなっ!」
久瀬が慌てて壇上から飛び降りる、佐祐理を押しのけて。
「きゃっ!」
「くそっ!」
その所為でバランスを崩した佐祐理を寸でのところで祐一が受け止めた。
突風は去った。後には腰を抜かしてへたり込んだ久瀬と、その前に立ちながら厳しい視線を久瀬に向ける舞の姿。
「許さないから」
抑揚のない口調、それでいてはっきりとした意志の宿る口調。
「佐祐理を傷つけたら、許さないから」
周りを見渡せば、同じく敵意と怒りを向ける祐一と名雪の視線。
「おぼえていろっ」
腰が引けた状態で捨て台詞を残し、久瀬は去っていく。
「所詮、嘘の塊の権力なんてこんなものか」
祐一が呟く。
こんな醜態を晒したとあっては生徒会の支持率も落ちるだろうと祐一は確信していた。もともと生徒会はその暴挙ゆえに支持率が高くない。後にこれを機に生徒会が解体され、再構築されることになるのだが、とりあえず彼らには関係のないことだった。
「それにしても……」
呟きながらあたりを見回すが、魔物の気配は最早微塵も感じられない。
だが、あのときのあの声は何だったのだろう?という疑問が頭をもたげる。舞踏会の時に聞こえた声も確かにあれだった。そして、どこかで聞いたことのある声だった。何か、何か大切なことを忘れている。そんな気がしていた。
*
「こんにちわーっ!」
授業が終わるや否や、教室に聞きなれた声が聞こえた。
「佐祐理さん?」
声のした方向を見ると、ニコニコと笑いながら佐祐理が入ってくるところだった。
「どうしたんですか?」
「実は、今日は舞の誕生日なんですよ。本当はもっと早くに言うべきだったのですが、ごたごたの所為で準備ができなくて」
「へえ…って、じゃあ急いでプレゼントとか用意しないと?」
2人にとってもこの話は寝耳に水だった。
「それは佐祐理が用意します。お2人にはこれを書いて欲しいのですよ」
佐祐理が手渡したのはバースディカードだった。連名でプレゼントを贈るということなのだろう。
「舞さんはこのことは?」
名雪が問う。
「まだ内緒です。ですから、今晩は空けておいて欲しいんですよ」
「俺はいいけど」
「私も大丈夫だよ」
「なら、決まりですね。お2人には後で連絡します。舞は『佐祐理が迎えにいきます』から」
楽しみにしてくださいね、といって佐祐理が去っていく。
だが何故か、2人には不安な予感があった。そう、今の佐祐理の言葉に込められた不吉な意味に、彼らは気づいていなかったのだ。
「ただいま〜」
部活帰りの名雪の声が玄関から聞こえた。祐一は階下に降り、名雪を出迎えた。
「お帰り、まだ連絡は来てないからさっさと書けよ」
名雪の分のバースディカードを手渡す。
「そうだね〜、今何時かな?」
「8時ってところか……」
と、言いかけて何かが引っかかることに気がついた。
「どうしたの?」
「……待て、佐祐理さん、あの時何ていった?」
胸の奥に悪い予感が広がっていく。あの時自分はとんでもないミスをしたのではないか?今になって漸く祐一はそのことに気がついていた。
「たしか…『佐祐理が迎えに行きます』だったけ……ど!?」
言って名雪も漸く事の重大さに気がついた。
佐祐理はどこで舞と落ち合うつもりだ?そして今はいつの時間帯だ?更に佐祐理は舞の夜の行動を知っている。
「祐一さん、お電話ですよ。倉田さんという方から」
その場にそぐわないほど穏やかな声が2人にかけられる。杞憂であってくれ。そう願いながら祐一は秋子から受話器を受け取った。
『祐一さんですか、佐祐理ですけど』
佐祐理の声はいつものままだった。とりあえずほっとする祐一。だが、安堵はそこまでだった。
−バリィン!!−
『きゃあっ!』
破壊音、そして悲鳴。悪い予感が現実となる。
「佐祐理さん!佐祐理さん!」
呼びかけるが、返事はない。やがてツーっといった電子音が聞こえるのみとなる。
「祐一」
不安げな視線を祐一に向ける名雪。
「学校だ……くそっ!どうして気がつかない!知っていれば止められた!」
その言葉で名雪も理解する。佐祐理は舞が夜の校舎にいることを知っていた。だから直接あそこに迎えにいったのだ。そしておそらくはそのために……
「早く行こう」
祐一の手を掴み、名雪が言う。
「今なら、まだ間に合うかもしれない」
「……そうだな」
頷きあい、祐一がコートを引っつかむ。2人は夜の街を駆け抜け、学校へと向かう。
ただただ、2人の親友の無事を願いながら……
*
夢ならばどれほど良かったか。そう思わせるほどの凄惨な光景が広がっていた。
砕けたガラス。リノリウムを赤く彩る血。壊れた携帯電話。リボンでラッピングされた、大きなアリクイのぬいぐるみ……その真ん中に横たわる傷だらけの少女。「あか」が少女を彩る。か細い月明かりなど殆ど光を与えないというのに「あか」だけが克明に浮かび上がる。あか、いのちのいろ、ち、血の匂い。鼻を突く、むせ返るような血の匂いが空間に満ちていた。
そしてその前で、呆然とたたずむ剣を持った少女。
「佐祐理さん!」
意外にも真っ先に我に返ったのは名雪だった。倒れる佐祐理の体を抱き上げ、必死に呼びかける。
「う……」
うめき声をあげる佐祐理。生きている。とりあえずそれだけは確実だった。
「……して」
「?」
俯いた舞が、唇を噛み締める。
「どうして……佐祐理が……」
「舞、落ち着け!」
祐一の声にも耳を貸さず、舞は叫ぶ。
「どうして!どうして!」
剣を振り上げる。そして構える。
「許せない……許せない!終わらせる!全て終わらせる!」
「!?」
舞の全身から、得体の知れない『何か』が浮かび上がる。何故なのか、それは魔物の気配に酷似していた。まるで舞それ自身が魔物であるかのように……
「祐一、名雪……佐祐理をお願い」
強く剣を握り締め、舞は言う。
「舞!?」
「私は……魔物を討つ!」
憎悪に満ちた光を双眸に宿し、舞は剣を構え、そして走り去った。
「あのバカ……名雪、早いとこ救急車を呼んでここから逃げろ」
「祐一はどうするの!?」
「何かおかしい。何かおかしいんだよ。魔物は、舞は」
初めて舞に会ったときから感じていた不思議な懐かしさ。
魔物の声、そして舞の戦う理由。それらが一本の糸でつながると祐一は漠然と感じていた。だが、まだピースはそろっていない。それでも今、この場で最後のピースが手に入る、そんな気がしていた。
「悪いことはまだ起こる。舞を止めないと。そうなる気がする」
「祐一……」
上目遣いで祐一を見る名雪の瞳は、今にも泣き出しそうなくらい潤んでいた。
名雪も感じているのだろう。祐一が向かう先の危険を。いなくなる、『また』祐一がいなくなる。それ半ば確信めいた予感だった。
「そんな顔をするな。佐祐理さんのこと、頼む」
祐一は名雪の頭をそっと撫で、2人に背を向けた。後に残されるのは、二人の少女。
「帰って……きてね」
去り行く祐一に向かってそう呟き、名雪は佐祐理に肩を貸し、佐祐理を引きずるように歩き出した。
*
夢か現か。
校舎の中で繰り広げられる激戦の光景は、あまりにも現実離れしていて、そしてその中で戦う舞の姿は、祐一が魅了されるほど美しかった。
爆発を繰り返す大気、それを紙一重でかわし続ける舞。
振り上げられる刃の軌跡が月光に照らされ、白銀の光が闇の中を駆け抜ける。
峻烈な冷気を伴う大気を切り裂き、二つの意識が闇の中を駆け巡る。
「はぁぁぁぁぁぁぁ!」
大気がゆがんだ。それが魔物の存在を克明に浮かび上がらせる。舞が剣を振るう。ゆがんだ空間が砕ける。しかし次の瞬間、また別のゆがみが舞を襲う。
「堕ちろぉぉぉぉ!」
舞の叫びが魔物へと向かってゆく。振るわれる刃、響く人外の悲鳴。
手出しなどできる世界ではなかった。あまりにも現実離れしたその光景は、紛れもない戦場だった。
それでも、なにかがおかしかった。
「……荒れ、ている?」
今日の魔物は何かが違っていた。
今まで舞に対して攻撃こそしていたが、あれほどまでに強烈な殺意を込めた存在だったろうか?
いや、確かに殺意はあったのだが、今日はあまりにも桁が違う。まるで舞の精神に呼応しているかのようだった。
――キテ、クレタ――
「?」
と、祐一は突如自分へと向かってくる気配を感じた。床に罅が入る、ガラスが砕ける。間違いない。魔物は祐一を狙っていた。
「祐一!よけて!」
舞の切迫した叫び。半ば本能的に横に跳ぶ祐一。その瞬間、祐一の頬を掠めるように何かが駆け抜け、地面が砕ける。
一歩間違えば、今頃砕けていた。祐一の背中に悪寒が走る。魔物を追うように舞が走ってくる。
「ええぇぇぇぇぇぇぇぇい!」
走りこむ勢いを殺さないまま、舞の剣が横薙ぎに振るわれた。揺らめいていた空間が両断されるという信じられない光景。
――アアアアアアア!!――
魔物の絶叫。そして気配が消えた。
「やった……のか?」
「……多分」
見ると舞は先程の戦闘のダメージか、腹に斬られたような傷痕があった。佐祐理ほどではないかもしれないが、こちらも重傷であることには変わりなかった。
「とにかく、事が済んだのなら早く行くぞ。佐祐理さんのことも気にかかる」
「うん……祐一!」
と、そのとき祐一の背後に強烈な気配。殺しきれていなかったのか、それとも最初から複数いたのかわからないが、それは魔物の気配に相違なかった。
「あぶない!」
舞が祐一を突き飛ばす。そして体勢の崩れた舞を、容赦なく魔物は襲う。
「きゃあっ!」
「舞!」
衝撃に飛ばされ、舞の体がボールのように宙を舞う。それでも辛うじて受身を取ったのか、剣を杖代わりにして立ち上がろうとしていた。
「舞、立てるか!」
舞の側に駆け寄る祐一。そして舞が脂汗を流し、右足が赤く染まっていることに気がつく。骨折くらいはしているだろう。だが、むしろあの状況でその程度で済んだのが奇跡的といえた。
――………――
しかし魔物の気配は変わらない。状況がよけいに悪くなったことには変わりなかった。
「舞、乗れ!とりあえず逃げるぞ!」
舞を背負う祐一。逃げられる保証などなかった。それでも、逃げねばならない。祐一は走り出す。ただ、ひたすら。
*
「佐祐理さん、もうすぐですから」
名雪が佐祐理を背負ったまま、昇降口の扉に手をかけた。しかし凍りついたかのようにそのノブは動かない。
「あれ……」
鍵を調べるが、開いていることは間違いない。力任せに扉を引くが、びくともしない。名雪の心に焦りが表れ始める。体当たりでもして強引に突破でもしようかと考え始めたときだった。
――行かないで――
「?」
聞きなれない声が聞こえた。思わず名雪は振り返る。
「あなたは……?」
幼い少女が、たたずんでいた。黒く長い髪、白いワンピース。ウサギの耳のついたカチューシャ。少女は苦しげにわき腹を押さえながら、大きな瞳で名雪を見つめていた。
「いや…知っている?」
だが、何故だろう?名雪はその少女に見覚えがあった。確かにどこかで、この少女と会ったことがあるような気がしていた。
――助けて――
少女の言葉で我に返る。苦悶の意を込めたくぐもった声。少女は助けを求めていた。
「ど、どうしたの!」
少女の下に駆け寄る名雪。そして絶句する。抑えられたわき腹はまるで何かに斬られたかのように血が滲んでいた。佐祐理ほどではないにしろ重傷には間違いなかった。
――行かないで……まいをこわさないで。ゆういちをこわさないで……あなたたちなら、それができるはずだから――
「……あなたは、まさか?……舞、さん?」
そう、この少女は舞をそのまま幼くしたような姿だとわかった。傷ついている少女、夜の校舎で戦う少女、では、魔物というのはまさか…?名雪の脳裏に、ある考えが浮かんだ。
「あなたが魔物……じゃあ、魔物というのは」
「……行きましょう。名雪さん」
「佐祐理さん?」
荒い息で佐祐理が目を覚ます。
「……魔物は、舞そのもの。佐祐理は……大丈夫ですから……それに、『もう失うのは嫌ですから』……」
微かな沈黙の後、少女達はうなずきあう。それは、最後の鍵だった…この戦いを、終わらせるための。
*
「くそったれ!しつこい!」
祐一はただひたすら、廊下を駆け抜けていた。すでに舞は背負っていない。だが、彼には役割があった。ひたすら逃げ、いつもの屋上への踊り場で舞を降ろしたときに、舞は言った。
―祐一、このまま逃げてほしい―
―バカを言うな!お前を一人にして逃げられるか!―
―違う、正確には『逃げるふり』をしてほしい。そして、中庭に誘い込んで―
―何?―
―問答をしている暇はない。早く……お願い。佐祐理のためにも―
そうして、ひたすら走り続けていた。
背後からは連続する爆発音。
「くそ、気化弾頭か!?」
大気中に可燃性のある燃料をばら撒き、発火させることにより周囲を一気に爆発させる気化弾頭という兵器を思い出した。
確かに洒落にならない威力だった。ガラスが砕ける。床が割れる。照明が爆ぜる。
足腰が痛い、わき腹が痛い。それでも走らねば、死が待っている。
時間の流れが酷く緩慢に感じられた。走っている時間は数分にも満たないというのに、もう数時間も走っているような感覚に囚われる。極度の緊張が、時間の感覚を曖昧にしていた。
「酷い鬼ごっこだ、まったく」
毒づいた瞬間、見慣れた中庭へとつながる扉が見えた。ゴールはすぐ側。祐一はいっそう深く踏み込み、最後のスパートをかける。
「どりゃっ!」
勢いを殺さず、そのまま扉に体当たり。
肩に激痛が走るがかまわない。扉はあっさりと開き、その後ろから強烈な気配が音を立てて迫ってくる。
足がもつれ、転がる。迫る気配を、側転してかわす。
濃紺の夜空、校舎の上には満月が淡い輝きを放っていた。と、そこで祐一は見知った姿を屋上に見た。
「舞!?」
舞が大きく剣を掲げる。おぼつかない足取りで、地を蹴る。
「はぁぁぁぁぁぁぁ!」
夜空に舞う少女。
少女は振り上げた剣を突き出し、重力という力に後押しされ魔物へと突進してゆく。
月を背に、少女は刃を振り下ろす。それはあまりにも幻想的で、力強い光景。月を背にした少女の白銀の刃が、魔物へと振り下ろされていく――――――
「舞―――――――――!」
爆ぜる大気。かき消される少年の絶叫。
爆発が周囲の雪を吹き飛ばし、視界がホワイトアウトする。たまらず祐一は顔を覆う。すさまじい衝撃が祐一を襲い、そして祐一の決して軽くはない体が吹き飛んだ。
*
気がつけば、見知らぬ道を歩いていた。
太陽は西に赤く輝き、うだるような暑さが抜けて、微かに吹く穏やかな風の中を歩いていた。
夏も終わりに近づいたというのに、北国のこの街も暑さだけは他の町と変わらなかった。ぬけるような青空、空には白い雲、木々の緑が萌える森、森で鳴くセミの声。
あの夏の日は、何時のことだったのだろう?記憶が存在すること自体が疑わしい、はるか遠い夏の日。
その日彼は、金色に染まる麦畑を歩いていた。風に吹かれ、揺れる麦穂。それはさながら、金色の海を渡るような光景だった。
何時の間に自分はこんなところに来たのだろう?と思いながら、少年はそれでも歩みを止めることはない。
『こんにちは』
と、そのとき声がかけられた。道の先には、一人の少女が立っていた。黒い髪を風に揺らせ、白いワンピースを纏う、少し年上の少女。
『きみはだれ?』
少年は問う。
『はじめまして、わたしは『まい』だよ』
少女は答える。
『きみが、ぼくを呼んだの?』
『……うん』
硬い表情で少女は答える。まるで人と話すことそれ自体に慣れていないように見えた。
『じゃあ、おともだちだね』
『?』
少年が微笑み、右手を差し出す。
『……』
おずおずと少女は手を伸ばし、少年の手を握る。
『よろしく、まい!』
少年は太陽のように晴れやかに笑う。それが少女の喜び、そして悲しみの始まりだった。
*
「……まい…?」
意識を取り戻した祐一が見た光景は、先程までの夢と現実が混濁しているようなものに見えていた。
「………」
足を引きずるように立ちながら、剣を構える舞。そしてそれに対峙する相手は…
「まい……?」
そう、それは先程の夢に出てきた少女そのものだった。
黒い髪、白いワンピース、ウサギの耳のついたカチューシャ、千切られた木の枝。そして、舞と同じ傷痕。
魔物の姿が見えている。祐一は漠然とそのことを理解していた。
そしてその少女の目の前で舞は刀を大上段に構えている。祐一は気がついていた。あの魔物の正体に、そしてこの剣を持つ夜の戦士の正体に。
舞の双眸に憎悪が宿る。剣を握る手に力がこもる。小さな少女が怯えていた。全身傷にまみれ、動けない少女は恐怖に満ちた表情で、舞の剣を見つめている。
「終わりだ!」
燐光。
銀の軌跡を描いて刃が振り下ろされる。ざくり、と肉に刃が食い込む厭な音。だが浅い。刃は肉を絶つことすら叶わず、その薄皮一枚を切り裂いたに過ぎなかった。
「祐一……!?」
「止せ……そんなことをしても、何の解決にもならない」
祐一は舞と少女の間に立ち、その右手で舞の刃を受け止めていた。刃を握った手が赤く染まる。
「放して!」
剣を振り上げる舞。そして再び振り下ろそうとする。
「駄目です舞さん!」
横から、名雪の叫び声。
「名雪……佐祐理!?」
見れば、息も絶え絶えの佐祐理に肩を貸して、名雪が立っていた。
「だめだよ。その子は……舞なんだよ」
佐祐理が荒い息を吐きながら言う。呆然とする舞に向けて祐一は更に続けた。
「もう止すんだ……お前の戦いは終わった。魔物なんていなかったんだよ。『まいちゃん』」
「!?」
そしてその言葉は、舞自身ですら失っていた記憶の門扉を開く鍵だった……
*
10年前のことである。
あの日出会った祐一と舞はそれから、共に遊ぶようになっていた。祐一が出かけると、いつの間にかこの麦畑にたどり着く。そして時を忘れて遊びつくす。頭の回転が速く、色々な遊びを思いつく祐一、無感情で、それでも必死に心を開いていく舞。そして時が終われば、気がつけば祐一は自分の場所に帰っている。そんな日常を幾度くりかえしたのだろうか……?そんなある日のことだった。
「今日、お祭りがあるんだって、一緒に行かない?」
浴衣姿で現れた祐一は、開口一番そう舞に告げた。
「……行きたくない」
暗い表情を更に曇らせ、舞は言った。
「だいじょうぶだよ。僕が一緒だから、きっと楽しいよ」
「……人ごみは、いやだ」
祐一の誘いに、頑なに心を閉ざす舞。
「なら、お土産を買ってくるよ。何がいい?」
舞のその様子にただならぬものを感じた祐一が、話題を変える。
「……うさぎさん」
「うさぎねえ……まあいいか、何か買ってくるよ」
翌日、祐一は紙袋を手にして舞の前に現れていた。
「ほら、約束の……とはいかないまでも、うさぎさんだ」
袋の中身は、ウサギの耳がアクセサリーとしてつけられた白いカチューシャだった。照れたように顔を赤く染め、おずおずとそのカチューシャをつける舞。
「……ありがとう」
そして、消え入りそうな声で、そっと舞は言った。
「うさぎが好きなのか?」
祐一の問いに、こくり、と舞は頷いた。
「少しだけ、昔の話をしていい?」
「うん、いいよ」
そして祐一は知ることとなる。舞がここに一人でいた理由、人が嫌いな理由を。
*
――思い出が、あった――
小さな病室に、光が差し込んでいる。
その上の白いベッドの上に、一人の女性が起き上がり、腰掛けていた。かつては綺麗、といっても差し支えない顔立ちだっただろう。だが、頬はこけ、肌の色に生気はなく、その美しさも今は薄れ、枯れかけた草花のように見えた。
「こんにちは、おかあさん!」
病室の扉が勢いよく開け放たれ、小さな少女が飛び込んでくる。
「こんにちは、まい」
穏やかな微笑を浮かべ、女性は答えた。
――大好きな人との、思い出が――
そして、2人はさまざまな話をする。というよりも、舞が一方的に今までのことを話し、母がその言葉に耳を傾ける、そんなものだった。それでも、2人にとってはこの時間はかけがえのないものだった。大好きな人がいる、大好きな人と同じ時間を過ごせる。それがなによりも尊いものだと、2人は知っていた。……それは、この時間が決して永遠などではないと知っていたからに他ならなかった……
「おかあさん、わたしね、おかあさんが元気になったら、いっしょに行きたい所があるの」
「あら、なあに?」
「動物園」
「そうね、舞は何が見たい?」
「うさぎさん。いるかなあ?」
「いるわよ。約束する。おかあさん、必ず元気になる。だからそれまで、舞は元気でいてね……」
「うん!舞、元気でいるよ!」
叶わぬ未来の話をしながら、2人は微笑みあう。
――なんでもよかった。ただ、未来の話だけをしていたかった。今、こうして2人でいられるのだから未来は存在すると、そう信じていたかっただけだった――
母が倒れたのは、舞がまだ小さな頃だった。
それでもすぐに帰れる、そう思っていた。
だが、それは叶わぬ夢であると舞が気づいたのは何時だったのだろう?死の概念を理解したのは、何時だったのだろう?
だが、それでも決して舞は泣こうとはしなかった。自分が泣けば、母は悲しむ。自分が強くなくては、母は悲しむ。だからこそ、舞は笑い続けた。苦しみと悲しみを、笑顔という仮面で覆いつくし……
ある冬のことだった。
「……もう、だめなのですね」
瞳を開けば、視界がゆがむ。体を動かそうとするが、鉛のように重い。
それはさながら動力の壊れた機械を、力で無理に動かそうとするような感覚に似ていた。
これで私も終わりか。達観したように母は感じていた。覚悟はできていた。だが、心残りがないわけではなかった。
「舞……」
そう、それはただ一人この世界に残される愛娘のこと。死が避けられない運命というのならば、せめて最後に何かしてやりたかった。
―おかあさんが元気になったら、いっしょに行きたいところがあるの―
舞の言葉が蘇る。そう、それは娘との唯一つの約束だった。そしてそれは唯一娘のためにしてあげられることだった。
「そうね、行きましょう。舞」
立ち上がり、病室のボストンバックに入れられていた着替えの中から、コートと外出着を取り出す。体がふらつく、服に袖を通すことすらおぼつかない。指先が震える、ベルトをスカートに通すことすら辛い。それでも、彼女はそれを止めようとはしなかった。ただただ娘への想いだけがその死にかけた体を動かしていた。手鏡を取り出し、唇に薄く紅を塗る。紫色の唇が、ピンクの輝きを取り戻す。色を失い、かさかさに乾いた肌に、クリームとファンデーションを塗る。生気のない青白い肌が、白磁器のような輝きを取り戻す。眉の形を整える。柳眉と呼ばれてもよいほどの、整った眉。寝癖のついた髪に、櫛を通す。カラスの濡れ羽色のような美しい黒髪が、輝きを取り戻す。
「おかあさん……?」
いつものように病室に入ってきた舞が、驚きに目を見開いた。
外出着に身を包み、化粧をした母の姿は別人かと思うほど完璧で、美しかった。本当に病気が完治したのか、そう錯覚するくらいに。彼女はそんな舞に微笑み、静かに言った。
「行きましょう。動物園に」
――でも、お母さんは無理をしていた――
さく、さくと雪踏みの音。病院を抜け出た2人は、雪の小道を歩く。
「おかあさんと動物園、おかあさんと動物園」
楽しげに歌いながらスキップで歩く舞。そして母はそんな舞の様子を微笑ましく見つめながら、その後ろを歩く。
それでも、本来歩ける体などではなかった。足を一歩踏み出すたびに、全身に激痛が走る。視界もかすみつつあり、もう立っていることすらやっとだった。
「おかあさん!?」
ゆらりとよろめき、母は膝をついた。駆け寄ってみると、はあはあと荒い息を繰り返していた。化粧で誤魔化しているだけで、本当は顔面蒼白なのだろう。
「まだ調子が悪いの!?だったら少し休もうよ!!」
「舞……」
「無理しなくってもいいよ!だから、休もう!」
そうして、舞と母親は近くのベンチに腰掛け、2人でその景色を眺めていた。太陽が南の空に輝き、葉を失った街路樹が、樹氷でキラキラと輝いていた。遠くにはどこかの子供達が遊ぶ声。
空が青かった。ゆったりと流れる雲が白かった。それは穏やかで暖かく……そして悲しい空だった。
「動物園、行けなかったわね」
心底申し訳なさそうな母の言葉。
舞にはもう解っていた。その約束は決して叶えられはしないことを、母と共に過ごす時間は、これが最後なのだということを。
「……ううん、そんなことないよ」
「?」
ぴょん、とベンチから飛び上がり、舞は母に向き直った。そして街路樹のナナカマドの木を見上げ、そこから僅かに残っていた小さな赤い実と枯れかけた葉をちぎった。雪を小判型に固め、その上に葉を二つと、実を二つ。
「ほら、うさぎさんだよ!」
舞の小さな手に乗る、白い小さな雪ウサギ。
「ああ、そうね。ウサギさんね……」
見えてなどいなかった。だが、彼女には解っていた。舞が雪ウサギを持って、自分に微笑んでいることが………
「うん!わたし、もっといっぱい作るよ、動物園だもん。いっぱいのうさぎさんがいるんだから」
――ひたすらに、ウサギを作った。作るたびにお母さんは笑ってくれるから、私が作り続ける限り、お母さんは笑ってくれると信じていた――
そうして舞はただひたすらに雪ウサギをつくる。
作るたびに、母は笑う。だから作る。こうして雪ウサギを作り続ければ、母は笑ってくれる。まるで願をかけるように、舞は雪ウサギを作り続けた…
「おかあさん?」
そうしてどれほど経ったか。いくつ雪ウサギを作ったか。
「おかあさん!!」
母は笑っていた。私の人生に満足したといわんばかりに爽やかな微笑で。閉じられた瞳は何も映さず、吐息の音すら聞こえない。
「いや……いやだよ………いやだよ―――――――――!」
灰色の部屋で、母は眠っていた。白い着物に身を包み、その顔には白い布。枕元から香る線香の香りがやけに鼻についた。涙が止まらなかった。ひたすら泣き続けて、もうどれくらい経ったのか解らない。体中の水分を全て出しつくして泣いたような気がするが、それでも涙は止まらない。なにもいらなかった。何も欲しくなかった。ただ、大好きな相手にそばに居てほしかった。
「お母さん……」
くぐもった声を上げたとき、不思議と違う考えが芽生えていた。
――祈ろう、そう思った――
何故か、そんなことを考えた。
祈ろう。もう一度母と過ごせる時間が来ることを思いついた。決まってしまえば、あとはやるだけ。両手を胸の前で合わせる。気だるい体に力が戻ってきたような気がした。自分の全身が熱くなる。全身が炎で炙られているかのように熱い。ひたすら、ただ、ひたすらに祈り続けた………
「まい………?」
最後の瞬間、母が微笑んだ姿が見えた。
奇跡はおきた。望みは叶った。だがそれは、決して彼女らが望んだ未来ではなかった。
――悪魔の子――
――忌むべき力――
舞の持つ力は、彼女達親子を世界から遠ざけた。ヒトにあらざる力、畏怖されるべき力。畏怖とは恐れの意味を持つ。そして恐れは恐怖と同義となる。舞は恐怖の対象となった。ヒトは『異なるもの』を恐れる。舞の力は『異なるもの』。故に彼女は追われた。街を追われ、親族からも追われ、ただ2人。気がつけば、身を隠すようにこの小さな田舎町の片隅に2人で肩を寄せ合うように暮らしていた。この日までは……
*
「……友達がほしいと思うのは、贅沢な願いだと思う?」
長い独白の後、舞は祐一に問うた。今にも泣き出しそうなほどに舞の瞳は潤み、捨てられた子犬のように不安な目で見上げていた。
「ばか」
ぽん、と祐一は舞の頭に手を乗せた。太陽のような笑顔を浮かべ、祐一は笑っていた。小さく細い肩を叩き、祐一は続けた。
「そんなのはあたりまえのことだ。だから、俺が居る。そうだろう?『君は一人じゃない』」
少年は、さもありなんとばかりにうなずく。嬉しかった。これほど嬉しさを感じたのは何時以来だったろう。もしかしたら、母が蘇ったあの日以来だったかもしれない。今度こそ、今度こそ願いは叶う。それは『一人ぼっちになりたくない』という、ヒトとして当たり前の願い。だが、それすらも叶わないということに、彼女は気がついてはいなかった………
*
「……あのときの少年が、祐一?」
視線を逸らさないまま、舞は問うた。どうやら漸く思い出したらしい。かつて二人で過ごした、「一度きり」のあの夏を。
「この魔物……いや、魔物なんかじゃない。これは『おまえそのもの』だ。お前が持つ『力そのもの』だ」
舞が傷を負わせるたび、舞自身も傷ついていた。魔物というこの少女も足が折れ、腹にはひときわ大きな刀傷がある。故に魔物とは、舞の分身、シンクロしたもの、ドッペルケンガー。いわば舞は、自分そのものと戦っていたのだ。彼女が魔物を傷つける。それは舞自身を傷つけることに他ならなかった。
「……それでも、私はこれを討たねばならない。こんなものがあるから、おかあさんを一人ぼっちにした。佐祐理が傷ついた。祐一に迷惑をかけた」
「でも、それでどうなるんです?舞さんは自分で自分を殺そうとしている。どうして十年も、自分を殺そうとしたんです?受け入れようとしなかったんです!
名雪の言葉に舞が押し黙る。沈黙が流れる、そして……
「……それは、俺の所為だ」
祐一が答える。
「?」
首を傾げる名雪。
―解らない?なら見せてあげる―
小さくもはっきりと、魔物としての「まい」が答えた。
*
その日、いくら待っても祐一は現れなかった。
どうして来てくれないんだろう?もしかしてわたしは嫌われたのだろうか?もう、共に過ごせる時間はないのだろうか?かつての悪夢が蘇る。忌むべき子として迫害をうけた、昔の記憶。また自分は一人になる。それは幼い舞には耐え難い恐怖に他ならなかった。一度芽吹いた負の予感は、決して枯れることも消えることもなかった。たまらぬ思いで受話器を握り、訊いた水瀬家の電話番号を押す。
『祐一君?わたしだよ、まいだよ!』
『ああ、行けなくてごめんね。俺、今日帰らなくちゃならないんだ。また来るよ』
だが、負の予感に支配された舞には、その言葉を信じることはできなかった。何か、何か必要だ。彼らをここにもう一度たどり着かせる理由が。考えた、ただひたすら考えた。何がいる。どうすればいい。そして閃いた。
『魔物が来るんだよ!私たちのあの場所に魔物が!!護らないと!!』
『魔物?そんなものいるわけがないだろう?嘘はよくないよ』
だが、祐一は笑って取り合わない。やがて電話が切れる。絶望の中、舞は思った。本当に魔物がいれば、そしてこの場所を護りきることができたら。もし、この力のことを知った所為で拒絶されたのならこの力が無くなれば……そうすればもう一度、もう一度過ごせる。祈った。ただひたすらに祈った。そして、その願いは叶えられた。それは酷くいびつな形で。
「……魔物」
振り返った舞の前には、歪む空間があった。
――それは「魔物がいれば」という理由で生み出された魔物。それは「この場所を護らなければ」という理由を成立させるために、破壊という目的を持った存在。それは「この力が無くなれば」という願いで切り離された、舞の力だった。これが、長い夜の始まりだった……――
*
「なら、たった一つの嘘が、魔物を生み出して、舞さんを戦いに駆り立てたの!
確かに願いは叶えられた。だが、そのために彼女は友人を失った。祐一があの場所に来られたのも、舞の力によるものだった。それに気づかずに幾度となくその場所を探したが見つからず、やがて記憶からも少女の存在が消えていったのだった。
―でも、分かたれたものは舞そのもの。だから、帰りたいと思った―
分離した魔物は、所詮は舞の一部だった。本来一つであったものが無理に分かたれたものの、同じ存在である魔物と舞は惹かれあう。故に、魔物は長い時の中で回帰を願った。だが、舞はそれを拒み続けた。だからこそ佐祐理に、祐一にすがったのだろう。だが、「破壊する」というプログラムに縛られた魔物は、破壊行為以外のコミュニケーションを知らなかった。故に佐祐理を傷つけ、祐一と名雪を襲ったのだ。
「………でも、私は剣を捨てられない」
「何故だ!もう戦う理由はない。お前の力になれなかったことは謝る!だのに何故、お前は戦うんだ?」
叫ぶ祐一に対し、舞はかぶりを振る。
「剣を捨てた私は、本当に弱いから。力も剣もないのなら、私はもうなにもないから……」
俯いたまま、舞は言う。それはあの時垣間見た、酷く儚げで危うげな姿。
今なら理解できた。この少女の時間はあのときから止まったままなのだ。孤独を怖れ、嫌われることを怖れ、ただ誰かの温もりを求めていた小さな少女のままなのだ。それでも今まで生きてこられたのは、それはひとえにあの嘘の所為。それを否定することは、彼女にとって死と同義なのだ。
「俺がいる!名雪がいる!佐祐理さんだっている!もう、お前は一人じゃない!力とだってきっと上手くやっていけるさ。俺達が一緒にがんばればさあ!」
「……でも、傷つけるしかこの力にはない……佐祐理が……佐祐理?」
「!?」
「佐祐理さん!?」
佐祐理の瞼が閉じられていた。息をする音すらも聞こえない。それが意味するもの、それは……
「佐祐理!佐祐理!!」
駆け寄り、佐祐理の体を揺り動かす舞。だが、佐祐理は語ることも、瞳を開くこともない。
「佐祐理――――――――――――――――――――――――――!」
絶叫が、響いた。
―……まだ、間に合うかもしれない―
すすり泣く3人の側で、魔物となった小さな「まい」が声をあげた。
「……もういちどだけ、力を使う」
小さな「まい」の意志を汲み取った祐一が、頷いた。舞の前に立ち、その両肩に手を置く。
「よく聞け、舞。お前の力がどれほどのモノなのかは解らない。だが、お前が忘れていることがある」
「……私が、忘れている?」
「そうが、お前が初めて力を使ったとき、お前は何をした?」
舞の力とは、おそらく使い手が強く望むことを具現化させる力。舞が願ったからこそ、母は蘇り、魔物が生まれた。言うなれば『奇跡使い』の力。
「……上手くいくかなんて、解らない。それにあの力を受け入れたら、今度はまた誰かを傷つける」
すなわち魔物となった「まい」の力を再び舞に戻し、その上で今一度力を使うということ。
「でも、そうしたら佐祐理さんを永遠に失っちゃうんですよ?」
名雪もその意味を悟ったのだろう。舞の瞳を見て、決意を促す。
「お前は一人じゃない。そう言っただろう?俺達がついている。もう一度、やり直そう。佐祐理さんや俺達と一緒にいれば、お前も『自分を好きになれる』はずだ」
「ふぁいと、だよ。舞さん」
暖かくも力強い、名雪と祐一の瞳。
それはまるで失われていた勇気すらも取り戻させてくれるような感覚だった。再び魔物となった己の姿を見つめる舞。
傷つき、泣きそうになっている小さな女の子。それは紛れもない真実の自分の姿。否定したい弱い自分そのもの。それでも……
「もどって、魔物の役割は終わった」
受け入れる。舞はそう決めた。
魔物である自分を戻せば、自分はきっと弱くなる。でも、この力は傷つけるだけではなかった。助けることもできた。なら、もう一度信じてみよう。自分が授かったこの力を。母を取り戻せたこの力を、友を呼ぶことのできた、この力を………
小さな舞が微笑み、その姿が風に吹かれる砂のように崩れていく。そして崩れた体は真夏の夜に舞う蛍火のように美しく輝きながら、舞へと吸い込まれていく。
それは分かたれたものが一つに戻る光景。舞が胸の前で祈るように両手を組み、跪く。祐一と名雪はそんな舞の手に、自分の手を重ねた。光が満ちる、心が満ちる。3人の想いが一つになり、彼岸へ旅立とうとする佐祐理の魂へと語りかけてゆく。
――生きる資格、無いと思っていました――
――……どうして、そう思う?―-
悲しげに、舞が問う。
――結局のところ、佐祐理も舞の中に一弥を見ていたに過ぎなかったのかもしれませんから――
――ですけど佐祐理さんは、舞のために一生懸命だったじゃないですか――
不安など笑い飛ばすように、祐一が言う。
――同じなんですよ、私たち。誰かのために何かをしてあげたい、その気持ちは――
――まだ、頑張ってもいい……ですよね?--―
弱気になった佐祐理を、名雪が導く。
――……だから帰ろう、佐祐理。もういちどみんなで、佐祐理のお弁当を食べたいから――
――そうだね、舞……みんな――
頷きあう4人。失ったものは多かった。取り返せないものも多かった。それでも得られたのは、かけがえのない友達と、これから生きるための時間。もう一度、やり直そう。もう一度、笑いあおう。
遥か彼方の星から放たれた、夜の闇の中を駆け抜ける光がたどり着くときが来た。そこは深い闇という旅路の果てにたどり着いた、友達という名の観測者の御許。どんな夜にも終わりが来るように、星から放たれた光が、命ある『誰か』がいる場所にたどり着くように、十年という長い夜が今……終わりを告げた。
それは、悲しみに満ちた戦の終わり。そして……新しい物語の始まりだった。
−Episode 6:”Kuze” end−