Kanon     “the  pure soul”

 

 雨。

 灰色に染まった空から、雨の雫が降り注いでいた。

黒い服を着た大人達が、慌しそうに、それでも沈痛な面持ちで走り回る。その中に、場違いなほど幼い少女がひとり。亜麻色の髪、大きなリボン、漆黒の服、胸に抱かれた遺影。

「………」

 少女は黙して語らない。表情すらも作らない。笑顔に作られた人形のほうがまだましだと思えるほど、少女は希薄で無意味な存在だった。

 

 血。

 やがて少女は一人になる。幼い子供の部屋で一人、少女はたたずんでいた。

整えられた家具、子供の玩具。だが、折りたたまれた布団が置かれたベッドは、ここが主のいない部屋であることを示していた。

「……一弥」

 誰かの名前を呟き、少女は懐から小刀を取り出す。能面のように凍てついた表情で刀を握り、静かにそれを己の手首に押し当てた。流れる血、流れる涙。そう、彼女は泣いていた。凍りついた表情は何も作らないのに、涙だけが止まらない。涙、その意味に気がつくことがないまま、少女はただただ血を流していた……

 

 桜。

それぞれが新しい生活への希望を胸に抱き、生徒達が集まる学校の中に、少女はいた。

そこで彼女は一人の少女を見つける。薄汚れた野犬、野犬に手を差し出す黒髪の少女。飢えた野犬に手をかじらせる少女を見て、どこか似ていると少女は思った。

「あの、よろしければどうぞ」

 少女は微笑み、自分の弁当を差し出しながら黒髪の少女に声をかけた。

 

――セメテ、コレガ私ニデキル贖罪ニナレバ……――

 

 倉田佐祐理と川澄舞の出会いであった。

 

               Episode  5:the “sin” −Sayuri  Kurata−

 

―罪。それは人が犯す、この世の悪徳。

  罪。それは赦されざること。赦されることのない人に、生きる価値はあるのでしょうか?

赦しを他人に求めることは……許されるのでしょうか?―

                                  −Sayuri Kurata−

 

「おはよう、舞、佐祐理さん」

「おはようございます。2人とも」

 こうして祐一と名雪が舞と佐祐理と同じ時間を過ごすようになってから、3日が過ぎていた。寝惚け眼の名雪の手を引いた祐一が舞と佐祐理に挨拶し、

 

「今日はたくさん作ったんですよー」

 昼には佐祐理の作った弁当を4人で囲み、

 

「……魔物」

 夜には舞と校舎の見回り。これが新たなKanonとなり、彼らの日常となっていた。

 

 だが、2人は少しずつ舞のことが気になりかけていた。ある日のことである。

「……逃げろ」

 祐一と名雪の顔を見るなり、逃げていく人間がいた。

「?」

 その相手は祐一も名雪も全然知らない相手だった。

「知らない間に恨みでも買った?」

 祐一が憮然と言う。

「それなら、誤解は解く」

 たしなめる名雪の言葉に頷き、て声をかけようとしたときだった。

「よしたまえ」

 聞き覚えのある声が後ろからかけられた。振り向く2人。

「久瀬?いったい何のことだ?」

顔をしかめながら祐一が答える。

初対面の印象が最悪だった所為もあって、祐一はどうしても久瀬を好意的に見ることはできなかった。

「不良の仲間とは関わりあいたくないということだ」

「……なんだと?」

言われて、舞の顔が思い浮かぶ。

久瀬は舞と敵対関係にあるか、或いは久瀬が一方的に嫌っているのか解らないが、ともあれ激しい確執がある。久瀬が生徒会長という発言力を利用して根も葉もない噂を流していることが想像できた。

「君たちも友達は選ぶことを薦めるよ。ただでさえ年頃の男女が同居している、ということで素行があまり良いとはいえないからね」

ぎろり、と殺気のこもった祐一の瞳が久瀬を捉える。

言うに事欠いて名雪まで巻き込むかと言わんばかりに。

しかし久瀬はそんな祐一の態度など意に介さず泰然自若と構え、唇を吊り上げて笑っていた。

「……そうだな、少なくともお前のようなタイプだけは友達にしないよう気をつけるよ」

「久瀬さん、それはいくらなんでも言いすぎです」

 2人の激しい視線を気にした様子もなく、ニヤニヤと久瀬は笑う。

 この場で殴り倒してやりたかったが、流石にそれをやると名雪まで巻き込むことにも祐一は気がついていた。憤慨する気持ちを抱えたまま、二人はその場を去るだけだった。

 

               *

 

「お昼ご飯ですよ〜」

 佐祐理が子供を呼ぶ母親のような口調で、3人の前に弁当を広げた。箸やスプーンを手に取り、いただきますと声を重ねる4人。そんな中で、祐一が舞に話しかける。

「舞は何が好きなんだ?」

「……」

 悩んでいるのか、無視しているのか微妙な沈黙。

「舞、話しかけられたらちゃんと答えて」

「……たこさんウインナー」

 その様子を見て、祐一が嘆息した。

「それか、原因は」

「?」

 首を傾げる舞に、祐一はやや重い表情で答える。

「原因?」

「ああ、少々酷な言い方だけど、お前が評判悪い理由」

 首を傾げる名雪を後目に、祐一は続ける。

「せめてもう少し愛想良くできないのか?それだから生徒会に目をつけられたりするんだぞ」

「……」

 舞は答えない。

「少し可愛くしてみるか」

「どういうこと?」

 首を傾げる名雪と佐祐理を尻目に、祐一は続けた。

「これから『はい』は『はちみつくまさん』、『いいえ』は『ぽんぽこたぬきさん』だ」

「祐一、意味不明だよ」

「さあ舞、言ってみろ!」

「……はちみつくまさん」

「……」

「……」

 舞は相変わらずの無表情だが、困惑しているのだなと名雪と佐祐理は解った。

    

「どうしたの、さっきはいきなりあんなこと訊いて?」

 教室に帰る道すがら、名雪が訊いてきた。

「友達が誤解される、っていうのはあまり良い事態じゃないだろう?」

「……悪いうわさ、確かにあるね」

 その言葉だけで全てを察した名雪は、沈痛な面持ちになる。

「久瀬め、生徒会長が聞いて呆れる」

 毒づいて、ふと壁に目をやる祐一。そこで一枚のポスターの存在に気がついた。

――舞踏会――

 瀟洒なタキシードを着た男と、豪華なドレスを着た女が踊っているイラストと共に、その文字が見て取れた。

「ああ、毎年この時期にやるイベントなんだよ。体育館をダンスホールにして、みんなで踊るんだって。って祐一?」

 名雪が横を向くと、祐一がなにか考え込むような仕草をしていた。しばしの間唸っていた後、やがて天啓があったといわんばかりに表情を輝かせた。

「これだ!これを利用できないか?」

「利用って、何に?」

「決まっているだろう!『川澄舞校内人気者計画』にだよ!」

 いきなりのハイテンションでまくし立てる祐一に、名雪は目を白黒させながらその怪しげな計画を聞いていたのであった……

 

               *

 

「はえ〜、舞踏会ですか?」

 翌日の昼、祐一にこの計画を聞かされた佐祐理が、驚いたように目を丸くする。

「えっとですね、これに舞さんが参加すれば今までの悪いイメージを払拭できるんじゃないかって祐一が」

「はあ、なるほど。でも、ドレスが要りますよね、これは」

 佐祐理が指差したところには『正装でご参加ください』と書かれていた。それを聞いた祐一が表情を固くする。

「まあ、確かに問題はそこなんですよね」

「お母さんもそんなの持っていないし……」

 考え込む祐一と名雪。

「……たこさん美味しい」

 そんな2人を尻目に、舞は弁当に舌鼓。

「待て、お前のためにやっているんだぞ、少しは考えろっ!」

「祐一うるさい」

 すばやく祐一の頭にチョップを入れる舞。流石に剣を振り回すだけあって、その動きは素早かった。

「そうですねえ、どうにかしましょう」

 ぽん、と両手を打ち、佐祐理が言った。

「どうにかって?」

「なんとか手に入れてみます。任せてください」

 自分の胸を叩き、自信ありげに佐祐理は答える。顔を見合わせる祐一と名雪、相変わらず弁当に箸をつつく舞。

「佐祐理たちはもうすぐ卒業ですから、思い出、いっぱい作りたいじゃないですか」

そういえば、彼女達は3年生であったことを思い出す祐一。

その割には1月という今の時期、やけに余裕たっぷりな態度をしているのですっかり失念していた。もしかしたら推薦でももらっているのかもしれないと祐一は思った。

「思い出ですか」

「そうですよ。佐祐理と舞が出会ってからもう3年になりますけど、その間、とてもいろんなことがありました。そして今、祐一さんや名雪さんとお知り合いになれた。これからいっぱい時間がたって、大人になって、お年寄りになって、そうしてその時に『楽しかったよ』って思い出を言える人生は、素敵だと思いませんか?」

「………」

心の底から楽しげに語る佐祐理。

しかしその言葉は、微かながらもはっきりと祐一の心を打つ。思い出、記憶、楽しかった。何故だろうか、それらの言葉は酷く祐一の心を乱す。さながら『思い出を拒絶している』ようにすら思えてきた。ふと名雪を見れば、どこか不安げな表情をしている。

「……祐一、どうした?」

 気がつけば舞にまでそんなことを言われていた。余程酷い顔をしていたのだろうかと祐一は思う。

「祐一さん?」

「あ、いや、なんともないですよ。そうですね、作りましょうか、思い出を」

「はいっ!」

 祐一の言葉に、佐祐理は微笑みと共に頷いた。

「……踊るの?」

「ああ、当日は一緒に踊ろうな?思い出、作ろうぜ」

「……わかった。楽しい思い出、嫌いじゃないから」

 舞も、決して表には出さないまでにも期待している様子が見て取れた。

 

               *

 

 そして、舞踏会当日。

「祐一さ〜ん、名雪さ〜ん」

 佐祐理が教室の入り口で手を振っていた。

「相沢、おまえあんな美人の先輩と知り合いだったのか?」

 横で余計な茶々を入れる北川を無視して、二人は佐祐理の元へと駆けて行く。

 

「はい、これがお2人の衣装ですよ」

 ガラガラと音をたてて彼女が引きずってきたのは、巨大なスーツケースだった。

「佐祐理さん、まさかこれ買ったんですか?」

「あはは、いいじゃないですかそんなこと。それとこれはお2人に進呈します」

 当惑する2人をよそに、佐祐理は微笑を絶やさない。

「(祐一、佐祐理さんてすごいお金持ち?)」

「(俺も知らないよ。まあ、ありそうだけど)」

 小声で話す二人に、佐祐理は小首を傾げる。

「どうしたんですか?」

「あ、いや、なんともないですよ」

 あわてて祐一が弁解する。

「(まあ、無理に聞きだす必要もないだろう)」

 

舞踏会は夕方からということで、とりあえず解散ということになった。

名雪の部活も今日はその所為で休みということもあり、久しぶりに2人は同じ時間、一緒に帰路につくことになった。

「ねえ祐一、折角だからまた百花屋さんに寄らない?」

「……寄るのは構わんが、奢らんぞ」

「うん、いいよ。祐一もいっしょにね」

 と、名雪は答える。

ただ単に食べたいだけなのかもしれないと祐一は思った。まあ、たまには付き合うのも悪くないと思ったときだった。

「あれ、佐祐理さんじゃないか?」

 見知った後姿。大きなリボン、亜麻色の髪、3年の制服。

「あ、ほんとだ。佐祐理さ〜ん」

 2人に声をかけられ、佐祐理が振り返った。

「祐一さん?名雪さん?」

 

 そうして佐祐理を連れて、3人は百花屋へと入っていった。

「落ち着いたいい雰囲気のお店ですね」

渡されたお絞りで手を拭きながら、佐祐理が感想を述べた。

こうして一緒に外食をしてみると解るが、佐祐理はこういう雰囲気にかなり慣れているように見えた。さながら外国の映画に登場するどこかの王族が食事をしているような気品があり、動きにそつがない。

「佐祐理さん、よく外で食べるんですか?」

 興味半分で、祐一は訊いてみた。

「よく、というわけではないですけど」

「でも、テーブルマナーに慣れているみたいですよね。なんか、すごく気品があるし」

「そうそう。お嬢様って感じがするし。それとも親父さんが、厳しい人だとか?それにいつも敬語だし、俺は下級生だから普通に話してもいいのに」

「……佐祐理が、普通に話したことのある人なんて舞と…あの子ぐらいですよ」

 名雪と祐一の言葉に、微かに佐祐理の表情が曇った。

「佐祐理さん?」

 怪訝に思った祐一が、声をかける。

「あ、あはは……そうですね。確かに、お父様は『昔は厳しい人』でした」

 曖昧に言葉を濁す佐祐理。顔を見合わせる祐一と名雪。

『訊いてはいけないことを訊いた』ということがなんとなく解った。

「ま、無理に聞く必要もないよな」

「そうだね」

 話題を変えようと、務めて明るく二人は言った。だが、佐祐理の返答は意外なものだった。

「あの、よろしければ少し、佐祐理の昔話に付き合っていただけないでしょうか」

 意外な申し出に、2人はどう反応すべきか迷った。だが、佐祐理の瞳は穏やかながらも真摯な輝きを伴い、断ることを許さない独特の雰囲気があった。

無言で2人は頷いた。

 

「佐祐理には、弟がいたんです。名前は一弥、倉田一弥です」

 とつとつと、佐祐理は言葉を紡いでゆく。弟の存在を過去形で示す、それが何を意味するのか2人にはすぐにわかった。

「『あの子』っていうのが?」

「はい、一弥です。佐祐理が小学生のときに、死んだんですけど」

 

 自分に弟ができる。そう思った幼い佐祐理は、一日千秋の思いでその日を待ち焦がれていた。母親のお腹を期待に満ちた視線で見つめる佐祐理に、佐祐理の母は言う。

−これで、あなたもお姉さんですね。ちゃんと、面倒を見るのですよ−

−はい、お母さま−

 遠くない先の弟との生活、その希望に胸を膨らませ、佐祐理は満面の笑みで答えた。

 

 やがてその日は訪れ、無事に弟は生まれた。赤子の眠るゆりかごの上には、流暢な字で『一弥』と書かれた和紙が貼られていた。白いシーツに包まれて眠る、幼子の姿。

−『私』がお姉さんだよ、一弥…−

 飽くことなくその姿を、佐祐理は見つめ続けていた。

 

 佐祐理の前に、一人の男が立っていた。幼い佐祐理は姿勢を正し、緊張の面持ちで男の言葉を待っていた。部屋に差し込む逆光が、余計に男の姿を『逆らいがたいもの』として映す。

−佐祐理、お前に仕事を任そう−

−お仕事、ですか?−

−そうだ。知っての通り、私もあいつも忙しい。あまり一弥に構ってやれない。だからお前に一弥の世話を任せたい−

−はい、お父様−

 厭ではなかった。むしろ嬉しいとさえ思った。大好きな弟とずっと一緒にいられる。そして一緒に思い出を紡いでいける。また、父は自分を信じてくれている。そう思えたからこそ、佐祐理は満面の笑顔で頷いた。

−うむ、だが佐祐理、決して一弥を甘やかしてはいかん。常に厳しくあれ−

−厳しく?−

 首を傾げる佐祐理に、佐祐理の父は続ける。

−一弥はこの倉田家を継いでもらわねばならない。立派な後取りになるために、一弥を甘やかすな、威厳を持て−

 幼い佐祐理にとって、父は絶対の存在だった。その言葉に逆らうどころか、疑問を呈することすら許されることではなかった。だからこそ、佐祐理は厳しく一弥に接しよう。そう決めた……それが罪と過ちの始まりであるとも解らずに……

 

 幼い一弥が泣いていた。転んで、膝からは擦りむいたのか血が滲んでいた。

−泣いちゃダメ!−

佐祐理の一喝に、一弥が体を震わせる。

佐祐理は叱る。初めて敬語を使うことを止めて。だが、その心はまったく別のところにあった。叱りたくなどない、痛くないよと笑って手当てしてあげたい。だが、それは許されないことだった。『威厳を持て』その命令に逆らうことになるからだった……

 

道を歩いていた2人は、駄菓子屋の店先にたむろしている子供達を見つけた。小銭を握り、思い思いの駄菓子を買って、それを食べる子供達。水鉄砲を買って、遊ぶ子供達。一弥はそれを見つめながら、佐祐理の手を握った。上目遣いで佐祐理を見上げながら、期待に満ちた視線を向ける一弥。

一緒に食べたい、一緒に遊びたい、そう言っていた。

−………−

無言で佐祐理は手を引き、その場から足早に立ち去る。お金を持っていなかったわけではない。

だが、父の命令が佐祐理にそれを許さなかった。『甘やかすな』、その命令に逆らうことになるからだった……

 

 笑いたい、遊びたい、一緒にこの時間を楽しみたい。しかし、それは許されない。少しずつ、佐祐理は笑いを失っていった。いつしか『生きること』それすらも苦痛に思うようになった。だが、苦しみはその本人だけでなく、周りにいる人間をも蝕んでいくということに彼女は気づかなかった。

泣く一弥、叱る佐祐理。動くことを望む一弥、それを止める佐祐理。そんな悪循環をどれほどくりかえしたことだろうか……崩壊の予兆に最初に気がついたのは、佐祐理だった。

 

「一弥は、喋らなかったんです」

「喋らない?」

 佐祐理は頷く。

「極度の心因性ストレスから来る、失語症……お医者様はそう仰っていました」

 

 だが、それは始まりに過ぎなかった。病は気からという言葉が示すように、病んだ精神は肉体をも蝕んでいった。やがて一弥は倒れ、病院を生活の場とするようになっていった。佐祐理は気がついていた。自分の犯した罪と過ちに。目の前で苦しげに横たわる一弥の姿が、なによりの証拠だった。

−どうすれば、いいんだろう?−

必死に考える佐祐理、やがて彼女は思い出す。一弥が本当に望んでいたことを。

それは微笑みあい、一緒に遊ぶこと。そして、それは命令に逆らうこと。

だがそれがなんだというのだ。贖罪なのだ、これは。どんな結果になろうと、それは為さねばならないことなのだと佐祐理は気がついた。

 

−一弥、一弥−

 夜の病院。そこで一弥は眠っていた。幼いその体は、揺り動かせば崩れそうなほどに儚い。やがてうっすらと瞳を開き、一弥は佐祐理を見つめる。佐祐理は笑った、おそらく初めて一弥に対して。

−はい−

 駄菓子の包みを開き、一弥に手渡す。きょとんとしていた一弥も、やがて佐祐理の意図に気がついたのか、微笑んでそれを受け取る。

暗い夜の世界で、幼い姉弟の笑い声が響く。それはおそらく初めての姉と弟の時間。尊く、儚い一睡の夢のごとく。だが、決して夢などではない。握った手からは間違いなく、お互いの温もりが届いていた。だから、これは夢ではなく現実だった。……最後の晩餐だった。

 

「それから暫くして、一弥は死にました」

「「………」」

 祐一と名雪は2人、言葉をかけることも、頷くことも、かぶりを振ることもできない。安直に言葉を紡ぐことが許されない、そんな雰囲気があった。

「だから、大切にしたいんです」

「?」

 そんな2人の苦悩を察したのか、佐祐理はいつもの微笑を浮かべながら言った。言葉の真意を理解できない祐一を制して、名雪は言った。

「だから……今のお友達を大切にしたい、そういうことなんですよね。『護れなかったものを、今度こそ護りたい』から」

 名雪が一言一句噛み締めるように言う。

「はい。ですから、今日の舞踏会、楽しみましょう」

「……そうですね、ふぁいと、だよ」

 半ば自分に言い聞かせるように、名雪は言った。

「そうです。ふぁいと、ですよ」

 

               *

 

「これはまた、ここまで変わるものとは…」

 会場の体育館で祐一は感嘆の念を禁じえなかった。

その様相はいつも授業を受けている体育館とはあまりにもことなるものだった。天井には赤い天幕と色とりどりのリボンが張られ、床にはどこから調達したのか、瀟洒な模様の絨毯が引かれている。壁は赤いカーテンが飾られ、白いクロスのかけられたテーブルの上には、色とりどりの料理。

ステージの上からは、室内楽サークルが奏でる、ゆったりとした調べのセレナーデ。そして思い思いの正装に身を包み、談笑する出席者たち。さながらどこかの迎賓館のパーティとでも思わせるほどに、独特の雰囲気が漂っていた。

「すごいね、まるでお城みたい」

「ああ」

 隣にいる名雪も同じような感想を持っているのか、しげしげとあたりを見回していた。

それにしても、と祐一は思う。佐祐理から渡されたドレスを身に纏う名雪を見ていると、見慣れたはずの彼女ですらどこかの貴族に見えてくる。薄いブルーのドレス、アップにまとめられた髪、銀色に輝くティアラ、胸元の赤いペンダント。普段余り意識したことのない名雪の女性としての美しさが見事に引き出されていた。

「祐一」

「?」

 突然、後ろから声をかけられる。後ろに立つのは一人の少女。赤いマーメイドラインのドレス、ドレスに合わせた色のリボンで鮮やかな黒髪を一つにまとめ、首には十字架をあしらったチョーカーをつけている。背が高く、体のラインに均整のとれたその姿は、さながらモデルのようだった。

「えっと、ひとりかな?連れは?」

 少女の雰囲気に呑まれてか、しどろもどろな返答を返す祐一。美しくもどことなく冷たい印象をもつその少女は、どこかで見たことのある顔だった。

「連れは祐一、あなた」

「……祐一、舞さんだよ」

 横では名雪が呆れたように呟く。

「…わ、そ、そうか」

 確かに舞だった。しかしこうしてドレスに身を包み、上目遣いに祐一を見ている舞の姿を見ていると、とても同じ人物とは思えないほどだった。夜の校舎の「戦士」としての舞。昼のどこか掴み所のない「学生」としての舞。そして今の舞。人とはかくもさまざまな『顔』をもつものだなと祐一は少し感動を覚えた。

「踊るって、約束した」

「そうだな……じゃあ、行ってくる」

 名雪に手を振り、祐一は舞の手を握った。

「…上手く踊れないかもしれない」

「気にするな、楽しめばいいのさ。こういうものは」

 静かに笑い、祐一と舞は、踊る人々の輪の中に溶け込んでいった。

 

 指揮者がタクトを振り上げると、チェロとコントラバスの奏者は威厳がありつつもどこか穏やかな旋律を生み出す。次の瞬間、ファーストヴァイオリンの奏者たちが一斉に弓を振り、軽やかなワルツを生み出す。そしてセカンドヴァイオリンとヴィオラの奏者たちがそれに続く。楽しげで、聞くものの心を軽やかにするようなワルツの音色。

「……」

「…行くぞ」

 ワルツの音色にあわせ、軽やかにステップを踏んでいく舞。ダンスの足運びは剣術の動きに通じるところがあるのだろうか?初めてという割にはその動きは軽やかだった。やがて一人、また一人と祐一と舞は出席者達の視線を集めていった。

 

「……祐一さん、お借りしてしまいましたね」

「?」

 白いドレスを身に纏った佐祐理が、いつの間にか名雪の横に立っていた。比較的シンプルなデザインの名雪や舞とは対照的に、胸元と手袋に水鳥をあしらった羽飾りがついたドレス。一歩間違えばけばけばしい印象を与えかねないそのドレスを、佐祐理は見事に着こなしていた。

「あはは、いいですよ。祐一や舞さんが楽しめるなら、それで」

「そうですか……そうですね」

 佐祐理はグラスを名雪に手渡し、自らもグラスを手に取った。そうして僅かな沈黙が流れる。名雪が意を決したように口を開いた。

「……ひとつ、お聞きしていいですか?」

「はい、なんなりと」

「どうして私や祐一に、昔の話を?」

 微かに、佐祐理の表情が曇る。

「……あなた達なら、きっと舞を『本当に孤独から救ってくれる』と思いましたから」

 天井を見上げ、佐祐理は言った。

「知って…いたんですか?舞さんの夜の行動を」

 言って、愚問だったと気がつく。

自分より何倍もこの少女は舞と長い時間を過ごしている。ならば、気がつかないほうがおかしいのだ。

「ええ、舞が佐祐理以外の人に心を開く姿、殆ど見たことがないんです。勝手なお願いだと思います。ですけど、舞のことをお願いできませんか?」

「……それは、違うと思いますよ。苦しいとき、寂しいとき、『誰かが側にいてくれる』ことは本当にその人にとって、力になれることだと思います。佐祐理さんが諦めちゃダメです。『諦めることは、本当に希望を失う』ことですから」

「……そうですね。ごめんなさい、少し弱気でしたね」

 そういって微笑み会う名雪と佐祐理。

 

音楽が止むと同時に、喝采が起こる。見ると照れた様子の祐一と舞が、拍手に迎えられて戻ってくるところだった。

「祐一、すごいよ。実は得意だった?」

「舞、かっこよかったですよ」

 そんな2人を微笑ましく迎え、声をかける名雪と佐祐理。

「はは、なんかあからさまにほめられると照れるよ」

「でも、祐一と踊るの、嫌じゃない」

 舞は相変わらずの表情だったが、少しは喜んでくれたのだろうか、と祐一と名雪は漠然と、佐祐理ははっきりと思った。

「そうだな、たまにはこうして踊るのも悪くない」

「なら、続けて佐祐理の相手は務まらないですか?」

「あ、だったら私もお願い」

 佐祐理と名雪が口をそろえ、苦笑する祐一。

「…ええい、こうなったら倒れるまでつきあうよ」

 そんな他愛ない会話、そのときだった。

 

「!?」

 舞が突如表情を険しくし、あたりを見回す。それは紛れもなく「戦士」の顔。

「きゃあっ!!」

 悲鳴、そして爆発音。紛れもない魔物の襲来。

「来ている!」

 舞が走り出す。

「待て!舞!」

 それを追おうとする祐一、そのときだった。

−ゆらり−

 陽炎のごとく、佐祐理と名雪の周囲の空間が揺らめいた。

「!?」

「まさか、魔物!?」

 反射的に名雪は佐祐理の手を引き、その場から離れようとする。

「名雪!?佐祐理さん!?」

 祐一も異変に気がつき、踵を返す。その刹那、異変が起きた。

−キイテ−

「なんだ!?」

 そよ風のような感覚と共に、聞きなれない声が聞こえた。

まるで幼い少女のような、か細く、無邪気な声。だが、それどころではない。あの2人を護らねばならない。その意志が、謎の声を無視させた。

−キイテ!!−

 ひときわその声が高く響く。同時に大気が爆ぜた。さながら竜巻が発生したかのように、周囲のテーブルが砕け、床が切り裂かれ、そして、血が飛び散った……

「さ……ゆり?」

 床に倒れるのは、衝撃を喰らって倒れた佐祐理の姿。

「佐祐理さん!」

 介抱する名雪の手に、べっとりと血が滲む。

「動かすな!早く手当てを!」

 駆け寄る祐一に浮かぶのは、焦り。

 

−キズツケタ……ワタシガ、ソウダヨネ、『マイ』−

 

 何者かの声が聞こえた。「傷つけた」その言葉だけが舞の中にリフレインを繰り返す。

「ああああああああああっ!!」

 気がつけば、舞の手には一振りの剣が握られていた。

「止せ!舞!」

 祐一の制止の声も届かない。

獣の咆哮のごとき怨嗟の声と共に、舞は剣を振るう。テーブルを切り払い、カーテンを切り裂き、舞は無差別に破壊を繰り返す。否、魔物を切り払っているのが祐一達には解った。しかし、それは傍目には、舞の無差別な破壊としてしか映らない。

 

「川澄舞!貴様、どういうつもりだ!!」

 当然、全てが収束した後に起こるのは、賛美でも賞賛でもなく、久瀬の怒声だった。

「このままで済むと思うな!お前は学校の恥部だ、無事に済むと思うな!!」

 そしてそれは、一夜明けて現実となる。

 

               *

 

「祐一!祐一!」

 翌日の朝、名雪に引きずられて掲示板を見ると、そこには無慈悲な一言が書かれていた。

−下記のものを、素行不良とみなし、退学処分とする   三年C組 川澄舞−

目の前が暗転したように思えた。祐一も名雪も、その日どうして過ごしていたか覚えていない。気がつけば2人、いつもの食事場所に訪れていた。

昨日までは、嬌声と笑顔に満たされていたその空間も、今はただ虚ろに、無機質な校舎の空気に満たされるだけの場所。夢のようだ、と思った。昨日まで楽しげに語らっていたことも、今ははるか遠くの日に感じる。誰かとの時間を失う。それがこれほどの虚無感を伴うことだとは知らなかった。いや、忘れていた。祐一も、そして名雪も……

「……どうして、そんなに悲しいの」

 突然かけられる声。気がつけば、舞と佐祐理の姿がそこにあった。だが、今は佐祐理にすら微笑みはない。

「……どうしてだ!?」

 矢も盾もたまらず、祐一は掴みかからんばかりの勢いで、舞の前に立つ。

「思い出を作るんじゃなかったのか!?一緒にいるんじゃなかったのか!?」

「………」

 舞の両肩を掴み、祐一は舞を見つめる。

「……どうして、どうしてそんなに、悲しむ?」

「――っ!馬鹿かお前は!わからないのか!?」

 舞の体を揺すり、祐一はあらん限りの大声で叫ぶ。

「かんたんなことですよ」

 そんな祐一の肩に手を置き、名雪は舞を見据える。滅多に見ることのない、真摯な名雪の青い瞳が舞を捉えて離さない。

「好きなんですよ。みんな、舞さんのことが」

「……」

「好きな人が、いなくなるのは辛いから、だから、悲しむんです」

 やがて名雪の瞳に輝くのは、涙。うつむく舞の頬を両手で押さえ、祐一は舞の瞳を見つめる。

「答えろ舞。おまえは、どうしたい?」

 心が熱い、目頭が熱い、忘れていた何かがよみがえる、そんな感覚。彷徨していた舞の心が、一つの答えに辿り着く。

「私は……ここにいたい……まだ、佐祐理や祐一、名雪と一緒にいたい……」

 俯く舞の姿は小さな子供のように怯え、そして崩れ落ちそうなほど儚い。

どうしてだろうか、この少女の本質はこのような姿なのではないかと、3人は思ってしまう。弱いから、怖いから、だから強くあろうとしていた、なぜかそんな気がした。

「舞……」

「舞さん……」

 不安げに舞の名を呼ぶ佐祐理と名雪。

「よく、言えたな」

だが、祐一だけは違った。

舞が顔をあげると、真冬の太陽のように明るく、暖かい祐一の笑顔。ぽん、と舞の頭を叩き、言った。

「まだ、終わりじゃないんだ。頑張ろうぜ。俺たちで」

「祐一?」

「考えよう。舞が戻れる方法を。友達だろう、俺たちは?なら、最後まで抗うのが俺たちの役目だ」

栞の一件を経て解ったこと。

それは「信じる強さが奇跡を呼ぶ」ということだった。なら、もう一度抗おう。大切な人のために、走り出そう。促すように名雪を見る。きょとんとしていた名雪だったが、やがて花が咲くように微笑んだ。

「ふぁいと、だよ、みんな」

 その言葉に頷く祐一、佐祐理、そして舞。最高の思い出を、みんなで。その思いと共に……

 

               *

 

「済まん、手を貸してくれ!」

 祐一は香里と北川に深く頭を下げる。二人は一瞬顔を見合わせながらも、祐一の真摯な気迫に気圧され、ただ事ではないと悟っていた。

「人手が要るの」

 名雪がそれに続く。そんな名雪の肩に手を置き、香里は穏やかな微笑を見せた。

「話を、まずはそれからよ」

 

 舞を復学させる案は簡単なものだった。魔物の存在を立証することは難しい。ということで、あそこに野犬が飛び込んできたということにし、舞はそれを追い出すために戦ったのであり、彼女の破壊は不可抗力であった。ということにしようというものであった。

「でも、嘘だよね」

 この話を聞いた名雪は、多少は良心が咎める気がしていた。

「とはいえ他に手もない。仕方ないだろう」

 祐一もそのことは重々承知していた。とはいえ、他に手がないことも事実であった。

「しょうがないですよ。嘘も方便です。頑張りましょう」

「……ありがとう」

 そして佐祐理と舞の言葉が全てを決めた。こうして、舞の復学作戦は始まったのだった。

 

 

                                Episode 5:”Sayuri  Kurata”  end


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