Kanon     “the  pure soul”

 

−キイン!−

 峻烈な金属音、虚空の闇に輝く銀色の軌跡。

「!!」

「!!」

軌跡の正体は、少女の振るう刃。刃が狙うのは、眼前に存在する『何か』。

少女は刃を正眼に構え『何か』へと意識を集中する。

「!!」

『何か』が動いた。躊躇せず少女は走り、真円を描くような美しい軌跡と共に、白銀の刃を振り下ろす。

「――――――!!」

 『何か』の気配が消えた。少女の振るった刃はむなしく宙を切り、リノリウムの床に打ち付けられるのみ。

後は何も残らず、ただただ夜の大気と少女、そして少女の手に握られた刃だけがそこに残された。

「………」

 無言で少女は刃を納め、気配の残らないあたりを見回した。ここは夜の学校。誰一人として立ち入るもののいない虚無の空間で、彼女はいつからか戦っていた。

『何故』と問うたとして、『何時』と問うたとして、少女には答える術はない。ただひとつ言えるとするなら、敵がいる。だから戦う。それはなんとも単純で、そして生物として酷く当たり前すぎる答え。

そして人として、あまりにも悲しすぎる答え。歩み寄ることも、心を結ぶこともない悲しきエンゲージ(交戦)。終わらない戦いを繰り返す、それが彼女のKanon

「………」

 少女が窓の側へ歩み寄る。窓から星明りがこぼれ、空間を静謐な雰囲気に満たす。

冬の大気はその寒さゆえに光を乱す水蒸気の割合を減らす。そうして光の減衰率が下げられた冬の世界は、幾星霜の時を経てこの星にたどり着く別の星の光を克明に浮かび上がらせる。

光とは波動を持つ粒子であるという。生命は活動する存在、即ち波動であるという。ならば光とは、星と星との間を駆ける、生きた存在。

 光は自分の旅路を覚えているのだろうか?ただひたすらに虚無の世界を駆け抜けた旅路で、何を思っているのだろうか?それともただ盲目的に、駆け抜けているだけなのだろうか?

 だとするならば、盲目的に戦うこの少女はまさに光。夜の闇の中を駆け抜ける、悲しい光。

だが、星の光がやがて別の星に届くように、やがて彼女もたどり着くときが来る。そしてそれは、そう遠くない未来の話……

 

               Episode  4: the “night” −Mai  Kawasumi−

 

−夜、今日も夜が来る。戦うときが来る。

  夜、終わることのない戦いを繰り返し、そして何かが始まる。

     その先にあるものを、私は知らない。ただ、いえるのは、私はそれを待っていた……−

                                  −Mai Kawasumi−

 

 ある夜のことだった。

「祐一、いる?」

 コンコンというノックの音と、名雪の誰何の声が聞こえた。祐一はベッドから起き上がり、扉を開けた。

「どうした、こんな時間に?」

「祐一、今朝私のノートを借りたよね。予習したいから返して欲しいんだけど」

 昼間、名雪からノートを借りた覚えはあった。確か授業内容の食い違いを埋めるために一通りコピーしようと思っていたことを思い出す。

待ってろ、といい鞄をひっくり返すが何も出てこない。そういえば、普段から教科書などはロッカーの中に入れっぱなしだったことを思い出す。いつもの癖でロッカーに放り込んでしまったのだろう。

「すまん、学校だ」

「ええ〜、困るよ。明日、小テストがあるのに」

「……そうだっけ?」

「そうだよ〜」

 名雪が非難の視線を向けてくる。何か言い返そうにも、非は完全に祐一にあるのは明らかである。

「わかった。今から行ってくる」

 言って、部屋のハンガーにかかっていたコートを羽織る祐一。

「え、いいの?」

「ああ、他に道もないだろう?」

 何故かこんな言葉が、祐一の口からこぼれた。……思えばこれも、予感なのかもしれなかった。

 

               *

 

 夜の大気の冷たさは、昼のそれとは比べ物にならないほどに祐一の肌を凍えさせた。コートの襟を閉めて、老人のように背を丸めて歩く。安請けあいしたことを少しばかり後悔したときだった。

「はい、これであったかいよ」

 と、優しげな声と共に、微かに寒さが和らいだ。いつの間にか青いマフラーが巻かれていた。

「名雪?」

 見ると同じ色のおそろいのマフラーをした名雪が、ニコニコと笑いながら立っていた。

「お母さんの手編み、あったかい?」

「ん、ああ…でも、どうしてお前まで」

「一人で歩くのは、寂しいからね。ほら、行こう?」

 そういって名雪は祐一の手を掴み、引っ張るように歩き出した。

 

 取り留めのない話をしながら、2人はいつもの道を歩いていた。学校の話、栞の手術が成功したという話、香里と北川の話、そしていつしか気がつけば目的地にたどり着いていた。

この時間の学校は相変わらず人気がなく、常夜灯の明かりだけが虚空の闇に白い校舎を浮かび上がらせている。どこか幻想的で、どこか不気味な闇夜のファンタジー。

「……」

ぎゅっと名雪が祐一の手を掴む。怖いのも無理がないか、と思った。

人には闇に対する怖れが本能的にある。それは見えないものへの恐怖であるとも、孤独への恐怖であるとも言われている。

「心配するな、何も起きやしないさ」

 だが、そんなものがあるわけなどない。懐中電灯を持ってきたから光はある。2人なのだから孤独でもない。なんとか入り口を見つけて、夜の校舎に忍び込んだ。

 

「確か……ああ、これだな」

 ロッカーの中をゴソゴソと探し、漸く目的の物を見つけ出した。

「よかったね、すぐに見つかって」

「そうだな、見つからなかったら名雪にまた何か奢らされそうだ」

「え〜、いいじゃない別に」

「人の財布の中身くらい……」

 と、言いかけたときだった。

 

――どくん。――

 世界が揺れた。

「!?」

「!?」

同時に、あたりに異様な気配が立ち込める。

厭な気配だった。真夏の熱帯夜がもたらす熱気のように全身にまとわりつき、なおかつ真冬の外の冷気よりも凍えそうなくらい、冷え冷えとした感覚。生あるものを蝕む、強烈な黄泉の瘴気とでも言えばいいのだろうか。気を抜けば、そのまま意識すら失ってしまいそうな気がする。

「祐一……」

 名雪が祐一の服の袖を「ぎゅっ」と握る。ここにいてはまずい。そのことだけははっきりと解った。名雪の手を握り返し、教室の外へと出た。

 

「………!?」

 そして外には、更に奇妙な光景。窓から注ぎ込む月光が、その姿を祐一と名雪の前に浮かび上がらせる。

「おんな……のこ?」

 名雪が漸く口を開く。そこに立っていたのはひとりの少女。

整った目鼻立ち、凛とした輝きを放つ瞳、美しい、という陳腐な形容で表すことが愚かに思えるほどの凄絶な美しさ。腰まで届くような鮮やかな黒髪を大きなリボンでまとめ、彼らより一学年上の制服を着ている。だが何よりも2人を驚かせたのは、その脇に携える一振りの諸刃の剣。だが、その刃の輝きすら、この夜の闇の中に立つ少女の美しさを際立たせる。

闇夜に浮かぶ、一つの幻想とさえ思う。

「……!」

少女が刃に手をかけた。

それと同時に、彼女の全身から身の毛もよだたんばかりの強烈な殺気が吹き荒れる。

この少女は戦士だ、何故か祐一はそう思えた。この沈黙の場所を乱すものを討つ夜の戦士だと。

「ま、待て」

「わ、私たちは」

 祐一と名雪の弁明の声など意にも解さず、少女が駆けだす。

「名雪!」

 思わず名雪の体を抱きしめ、自分の体を盾にするように横へ飛ぶ祐一。止まらない少女の駆け抜ける足音。

「?」

 少女は名雪と祐一の姿など意にも介さず、夜の廊下を駆け抜ける。

――ぐおっ!――

 刹那、少女の眼前の空間が変化した。さながら凸レンズを介して見た世界のように、少女の前の空間がゆがんで見えた。

「な…なんだ!?」

 それは形容のし難い『何か』。姿が見えるわけでもない、獣のような咆哮をあげるわけでもない、しかしそれでも絶対的な存在感を伴い、そこに存在していることだけは確かだった。呆然とした祐一と名雪が見守る中、少女は剣を振り上げる。

 一閃。

 白銀の刃がきらめき、袈裟懸けに振り下ろされる。

「!!!!!!!!!」

 この世ならざる悲鳴をあげる「何か」。

次の瞬間、声は衝撃となり周囲の空気が爆ぜ、ガラス窓が共鳴音叉でも起こしたかのように揺れ、そして砕け散った。

「ひいっ!?」

狼狽した名雪が祐一の胸の中に飛び込む。ガラスの破片を食らわせないために名雪を抱きかかえながらも、祐一は歯の奥がガタガタと震える様を感じていた。

本当に別の世界に迷い込んでしまったのだろうかと思う。夜の校舎の中で剣を携え、目に見えぬ何かと戦う少女。これではまるで御伽噺だ。夜の中の御伽噺だと…。

 

 やがてその空間を覆っていた「何か」の気配は消え失せ、そこにいるのは剣の少女と祐一と名雪のみだった。震えの収まらない名雪を何とか立たせ、少女を見つめた。

「……助けて、くれたのか?」

 少女は黙して答えない。

「あ……その、あ、ありがとう」

 名雪がようやく言葉を紡ぐ。少女は祐一と名雪を交互に見た後、2人に背を向けて歩き出す。

「お、おい…」

 祐一の言葉に、少女は振り返り、短く言った。

「私は……魔物を討つ者だから」

 『魔物』。透き通るような声で、確かに少女はそう言ったのだった……

 

               *

 

 翌日の朝。

「おはようございます。祐一さん」

 いつものように挨拶をしてくる秋子の声が、祐一には嬉しかった。あの御伽噺のような世界から、漸く帰ってこられたと思えた。

「おはようございます、秋子さん」

 挨拶を返す祐一、その後ろからパジャマの上に猫模様の半纏を羽織った名雪が声をかけた。

「おはようございまふあぁ〜」

 名雪の挨拶は、最後は欠伸にとってかわられる。

「…おやすみなさい」

 そのままテーブルに突っ伏す名雪。眠そうなのはいつものことだが、今日は特に酷いようだった。もしかしたら昨日の騒ぎのショックで、あまり眠っていないのかもしれない。

「どうしたのかしらね?」

「……まあ、いろいろあるんですよ」

怪訝な表情で問いかける秋子に、曖昧に答える祐一。

流石に昨日の出来事を話す気にはなれなかった。秋子の性格からして話せば相談に乗ってくれるかもしれないが、あまり巻き込みたい話ではない。

「ほら起きろ、イチゴジャム、お前の分も食べちまうぞ」

「う〜……それはダメ」

 のっそりと起き上がる名雪。

「祐一さんもイチゴジャム食べますか?」

「あ、俺は甘いのは苦手ですから」

 方便ですよ、と続けたところで、秋子が思案するようなそぶりを見せる。

「……甘くないのもありますよ」

 そして天啓を得たとばかりに秋子が微笑む。最初の微妙な沈黙がかなり怪しかった。

「ごちそうさまっ!」

 ばね仕掛けの人形のように勢いよく名雪が立ち上がり、着替えてくるね、といいつつ慌しく去っていく。

「どうしたんだ、あいつ?」

 いつにない寝起きの良い姿に驚きつつも、首を傾げる祐一。

「これ、試していただけないでしょうか?」

 名雪のことなど気にした様子もなく、秋子が両手で抱えて持つほどの大きな瓶を「どん」とテーブルの上に置いた。

名雪のことも気になったが、とりあえず座り差し出されたジャムを見つめてみる。どことなくオレンジに似た色をしているが、甘い匂いがしないあたり別の果物から作ったのかもしれなかった。

「はあ、じゃあ少しだけ」

 スプーンにひとすくいジャムをとり、焼きたてのトーストの上に乗せ、口に運ぶ。

「………………」

舌の上に広がる、なんともいえない独特の味と風味。

確かに甘くはない、苦くもない、ましてや辛いわけでもない。食感は確かにジャムだ。しかし、どう考えてもジャムの味ではない気がした。強いて言うなら、生気が抜けていくような味とでも言えばいいのだろうか…?

「あの…なんでしょうか、これは」

「ジャムですけど」

 やっとの思いで口を開いた祐一に、即答する秋子。

「…何のジャムです?」

「秘密です」

人差し指を口に当てて「秘密」のジェスチャーで秋子は答えた。

普段なら可愛いと思える仕草だが、今は逆に恐怖を覚える。

「…食べられるものですよね」

 つう、と背中を冷や汗が伝う。

「勿論ですよ」

 とはいえ、一口食べただけで『これは本当に食べ物か?』と思ってしまった祐一には信じられない。恐怖と戦いながら無駄とも思いつつも、もう一度訊いてみた。

「…何のジャムですか?」

「企業秘密です」

 これ以上はないほどの微笑で、秋子は答えた。

「……」

 無言で立ち上がる祐一。

「どうなさったんですか?」

「きょうはなゆきといっしょににっちょくでした、それではいってきます!」

 巧く回らない舌を必死で動かし、名雪の後を追ったのだった。

 

「あ、早かったね祐一」

 外に出ると、着替えを終えた名雪が待っていた。

「逃げたな」

「えっと、なんのことかな」

 非難する祐一の視線を逸らすように名雪が答えた。

「……あのジャム、旨かったな」

「え、うそ」

 名雪が眼を丸くして祐一を見る。

「やっぱり知っていたな」

「あ……」

 しまったとばかりに口を押さえるがもう遅い。

「で、何なんだあれは?」

「私も知らないんだよ。でも、お母さんのお気に入りで私もよく薦められるんだよ」

 溜息をついて答える名雪。それを見て祐一も溜息をつく。

「……水瀬家の魔物か」

「あながち否定できないところが怖いね」

 そこで『魔物』という言葉を使ったことに祐一は気がついた。夜の校舎でただひとり戦う少女、孤独な夜の戦士のことを。

「昨日のあの子、何だったんだろうな」

「…私も知らないよ。部活で残ったことはあるけど、あんな人に会ったことはないよ」

 かぶりを振る名雪。と、そこで祐一は見知った後姿を見つけた。

「おい、あれ…」

 名雪が祐一の視線の先を追うと、見知った黒髪とリボン。そして一学年上の制服。剣こそ携えていないが、昨晩の少女に相違なかった。同じ制服を着ているのだから同じ学校の人間だなと、今更のように納得する二人。

「……訊いてみるか」

 やがて意を決したように、祐一が頷く。

「訊くって、ちょっと祐一!?」

 名雪が声をかけようとするよりも早く、祐一は駆け出して少女の脇に立った。呆気にとられた名雪だったが、溜息一つついて祐一の後を追う。

 

「……あいかわらずだね」

そういえば、昔からよくひとりで突っ走っていって、自分はそれを追いかけていたことを名雪は思い出す。

それでも、それは決して嫌なことではなかった。そのおかげで、2人の思い出を作ることもできたし、意外な友達と出会えることもあった。失敗したときもあったが、そんなときは自分も一緒に泣いて、祐一を慰めたこともあった。

こんなところは昔と一緒だなと名雪は思った。こうなったらとことん祐一に付き合おう。…今は、時を楽しもう。この得体の知れない少女とも、いい思い出が作れるかもしれない。もしもそれが苦しみをもたらすのなら、また、共に泣いてあげよう……そう思った。

 

「よお」

 片手をあげて、親しげに声をかける祐一。

「?」

 少女は祐一の声に振り向くが、やがて興味がないと言わんばかりに再び正面を向く。

「ええと、昨日の晩、お会いしました?」

 今度は名雪が声をかける。先輩のようなのでとりあえず敬語を使ってみた。

「………」

今度は名雪の方を見るが、やはり黙して答えない。祐一と名雪は顔を見合わせ、どうしたものかと思案する。そうして暫く歩き続けた時だった。

「あれ〜、その方達は舞の友達ですか〜」

 間延びした女の声が後ろからかけられた。そこで少女は漸く反応し、声の主に振り返る。そこにいたのは一人の少女。

「おはようございます」

少女はにっこり微笑み、一礼する。

黒髪の少女と同じく3年の制服を着た女生徒だった。穏やかな物腰と屈託のない笑顔が印象的な美しい少女で、腰まで届くほどの亜麻色の髪と大きなリボンが特徴的である。黒髪の少女とは対照的に、母性と慈愛を湛えた柔らかい雰囲気が印象的だった。

「あ、おはよう」

「お、おはようございます」

 思わずどもりそうになるが、それでもなんとか答えを返す祐一と名雪。

「あ、自己紹介が遅れましたね。3年の『倉田佐祐理』と申します」

 そういって期待に満ちた視線を向ける佐祐理という少女。

「あ、俺は相沢祐一、同じ学校の2年」

「私は水瀬名雪です、祐一の従妹で2年です」

「はえ〜、そうなんですかあ。舞とはどのようにして?」

 どうやって答えたものだか、まさか『昨日命を救われました』などと言えるわけもない。答えに窮する名雪に、祐一が助け舟を出した。

「いや、昨日名雪と2人で忘れ物を取りに夜中に学校へ行ったんですよ、そこで」

 夜中の学校、という所で微かに佐祐理の笑顔が翳った。しかしそれもほんの一瞬のこと。すぐに微笑を取り戻し、納得したように頷いた。

「じゃあ、自己紹介もまだですね。舞、ちゃんと自己紹介した?」

さながら子供を諭す母親のような口調である。

案外、秋子さんの親友になるのではないか?と祐一は思った。

「……川澄舞、3年」

そっけなく少女は答える。

どうにも話しにくい相手だ、と祐一は思った。昨日の晩もそうだが、今日は別の意味で話しにくい。まるで人と話すことそれ自体に慣れていないと思える相手だった。

「ええと、倉田さん?」

 名雪は舞と話すことを諦めたのか、佐祐理と楽しげに会話している。女の子同士ということもあって、話が通じやすいのかもしれなかった。

「あはは、佐祐理でいいですよ。舞のお友達なら佐祐理のお友達です。ですから佐祐理にも『名雪さん』『祐一さん』と呼ばせてください。舞も名前で呼んでくれたほうがいいよね」

 無言で舞は頷く。

 「そうなんですか、解りました。佐祐理さん、舞さん」

「そうだな、佐祐理さん、舞」

 佐祐理の気さくな性格のおかげか、すぐに緊張が解けていく。

「インパクトはすごかったが、いい出会いかもしれないな」

 空を見上げながら、祐一は言った。

 

と、会話を繰り返していくと気がつけば校門の前だった。

 

「あれ、どうしたんでしょう?」

 名雪が校門の前に人だかりができていることに気がついた。気になって4人で人ごみを掻き分けて前に出る。

――ウウウウウ!――

 そこにいたのは、一匹の野犬だった。

そしてそれと対峙するのは、竹刀を構えた体育教師。しかし、低く唸りながら威嚇を繰り返す野犬とは対照的に、体育教師は腰が引けておりいかにも頼りない。よく見ると竹刀の先が震えていた。

―――グワウッ!―――

 雄たけびを上げて、突進する野犬。

「ひっ!」

 がむしゃらに竹刀を振り回すが、竹刀はむなしく宙を切る。さらにあろうことかその時に竹刀を取り落とす体育教師。

―――ぐるるるる!―――

はいずるようにして逃げ回る体育教師に興味が失せたのか、野犬は祐一達の方を向いた。攻撃対象が自分達に移ったと思った生徒達が、いっせいにパニックに陥り始める。

「じょ、冗談じゃねえ」

「に、逃げようよ」

 ほうほうの態で逃げ出す生徒達。その流れの一つが祐一達に向かってきた。

 

「きゃっ!」

 名雪が逃げ惑う生徒達に押しやられ、しりもちをつく。と、そこで動けない名雪と野犬の目が会った。

「ひ……!?」

「名雪!?」

「名雪さん!?」

 ひとりなら問答無用で逃げ出すところだが、流石にそうも行かない。名雪と野犬の間に走りこみ、祐一が構えた。

一応柔道をやっていたことがあるので、そのときを思い出した構えだった。最も、古流柔術ではないので打撃技などない。犬を投げる技など知らない。つまりは完全なはったりだった。

「(……厄日だな、昨日といい今日といい)」

 心の中で溜息をつく祐一。

おびえる心を必死に抑え、野犬と対峙する。唸る野犬の瞳は血走り、さながら飢えた獣を連想させた。いや、まさに獣そのものか。野犬が走り出す。せめて名雪たちを逃がす時間くらいは稼ごう。祐一は覚悟を決めた。

「(もう、誰も守れないのは嫌だからな)」

 と、何故かそんな言葉が脳裏をよぎる。

突進する野犬、刀のような幾つもの牙。南無三、駆け出そうとする祐一、そのときだった。

―しゅっ!―

「舞!?」

 猟犬もかくやというほどの俊敏な動きで、舞が祐一と野犬の間に走りこむ。手にはどこから調達したのかシャベルが握られていた。

「ていっ!」

その瞬間、舞の姿が昨日見た『夜の戦士』としての舞の姿にオーバーラップした。野犬の牙を紙一重でかわす舞。一切無駄のない『戦士』の動き。そして野犬が体勢を崩す瞬間を舞は見逃さない。

「はあっ!」

逆袈裟に振り上げられたシャベルが野犬の腹に命中した。

「ぐ……るるるる」

 短く泡を吹き、野犬が倒れ伏した。

 

               *

 

「祐一!舞さん!」

 名雪が駆け寄ってくる。心配げに見上げる名雪の頭に手を置き「大丈夫だよ」と祐一は笑う。

「佐祐理」

 と、その横で舞が佐祐理を見た。

「うん、待っててね」

 その言葉だけで全てを察したのか、佐祐理はどこからか小さな弁当箱を取り出し、それを野犬の前に差し出す。

「大丈夫ですよ」

――微笑。

 それで安心したかのように、野犬は弁当箱の中身をがっつき始める。思わず顔を見合わせる祐一と名雪。

「時々降りてくるんですよ、この子」

 2人の疑問を察したかのように、佐祐理が言う。

「舞と初めて出会ったときも舞がこの子を取り押さえてくれて、そして『おなかが空いている』って言ってくれたんです」

 それで、いつも余分に弁当を用意しているのだと佐祐理が言ってくれた。

「いい人たちだね」

名雪が言ってくる。そうだな、と祐一が答える。

最初のインパクトが強すぎてどう接するべきだか迷ったが、こうして野犬の頭を撫でている舞と佐祐理の姿を見ていると、何のことはない普通の女の子に見えてくる。それこそ昨日の光景の方が夢と片付けられそうなくらい。

 

 だが、すぐさま昨日の光景は現実なのだと彼らは知ることになる。

「川澄舞だな」

「……」

 無遠慮に投げつけられた男の声に、舞が顔を上げた。角ばった眼鏡をかけた、妙に尊大な態度をとる男子生徒である。

「あ、久瀬さん。おはようございます〜」

 いつものスタンスを崩さずに、挨拶する佐祐理。祐一は「誰だ?」と、隣の名雪に訊ねるような視線を向けた。

「生徒会長の久瀬さんだよ」

 名雪が耳打ちしてくる。成る程、道理でえらそうなわけだ。と納得する祐一。

「で、その生徒会長が一体何の用なんだ?」

 それでも、祐一から見ればどうにもこの久瀬という男は胡散臭かった。知的な印象といえば聞こえはいいが、どちらかといえばこの男は権謀術中を駆使して私欲に走りそうなタイプに見えた。なによりその狡猾さを湛えた瞳が証明していた。

「ガラスを壊したのだよ、彼女は」

「ガラス?」

 言われて、昨日の夜を思い出す。確かに魔物とやらが消えたとき、その衝撃で何枚かのガラスが割れていた。あの時はそんなことなど気にかけていなかったが。

「……祐一」

 名雪が何とかならない、と哀願するような視線を向ける。

とはいえあのような状態をどう説明したものか。悩む祐一を尻目に、久瀬は更に続けた。

「別に一度や二度じゃない。彼女は問題のある生徒だ。ゆえにわれわれ生徒会が彼女を導かねばならない」

 いちいち癪に障る言い方だと祐一は思った。舞と知り合って時間はそんなにないが、この男の言は理解に欠いた言い回しであることは確かだった。

「で、証拠はどうした?それともあの場でお前達が監視でもしていたのか?」

「彼女は夜の校舎に何度も忍び込んだという目撃情報がある。状況証拠としては充分ではないかね?」

 祐一を見下すような、久瀬の言葉。

「なるほど?つまり夜中に易々と生徒が忍び込めるほどこの学校の管理体制は甘いわけだ。その点に言及しない生徒会も問題があるといえるな。生徒の不法侵入ならまだいい。さっきは野犬が飛び込んできたぞ?怪我人が出たらどう責任をとる?」

 痛烈なほどの揶揄と皮肉に満ちた祐一の言葉に、久瀬のこめかみが引きつる。

「ともあれ、生活指導部のほうに呼び出しがかかっている。同行願おうか」

 旗色悪しと悟ったか、久瀬が後ろに控えている風紀委員に声をかける。

「待て、話は…」

「……私は大丈夫」

 なおも食い下がろうとする祐一を制して、舞は去っていった。

 

               *

 

「佐祐理さん」

 名雪と学食に行く途中、祐一は佐祐理と会った。彼女の前には生活指導室の扉。

「……」

それだけで祐一と名雪は理解した。佐祐理の沈痛な面持ちを見ていると、祐一も名雪も声をかけることがはばかられた。

「……舞は、何も言わないんです」

 重苦しい沈黙を破るように、佐祐理は言った。

「弁解もしないで、ただお説教をされるだけなんです」

無理もないなと祐一は思った。

あの状況を説明しろというほうが無理だし、何より舞という人間はそういった状況で自己弁護ができるほど話し方が上手いとも思えない。裁判とは言葉のコン・ゲーム(化かしあい)なのであるから。

「……」

 やがて扉が開き、舞が姿を現す。

「舞!」

 佐祐理が駆け寄り、不安げに舞を見た。

「……大丈夫。なんともない」

 その言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろす三人。

「よかった〜」

「ほっとしたよ」

「そうだね」

 思わず笑みがこぼれる。それを見て舞が不思議そうに祐一と名雪を見つめる。

「……どうして、祐一や名雪がほっとする?」

「え?どうといわれても……?」

 名雪がまじめな顔で思案する。

「友達、だろう?さっき佐祐理さんがそう言った」

 だが、祐一はそんな名雪を制して言った。

「……トモダチ」

 その言葉に舞がなにか考えるようなしぐさを見せる。

「あはは、そうですよ舞。祐一さんと名雪さんはお友達です。そうだ、一緒にお食事はどうですか?佐祐理のお弁当、一緒に食べませんか?」

 だが、その思考は佐祐理の言葉で中断されたのだった。

 

               *

 

「これはまた、意外な穴場だな」

佐祐理に案内されて来た場所は、屋上へと通じる階段の踊り場だった。

夏は屋上で食べるのですけど、今は寒いですからと佐祐理が説明してくれた。

「どいて」

 舞がシートを踊り場に広げた。

さながらちょっとしたピクニックである。そしてどこから取り出したのか、3重の重箱を広げた。

「佐祐理さんが作ったんですか?」

「はい。どうぞ召し上がれ」

さあどうぞ、と佐祐理が箸を手渡す。

栞ほど量はないが、この人数に丁度いいくらいだった。色とりどりの食材を効果的に配置し、見ているだけでも食欲をそそる。

「すごいな、秋子さんにも匹敵するかも」

「うん、びっくりだよ」

 祐一と名雪が感嘆の声を上げた。と、そのとき祐一の腹の虫がなる。

「祐一、お行儀悪い」

 と、名雪が言った瞬間、名雪の腹も同じ音を立てた。真っ赤になって名雪が俯く。

「あはは、たくさん食べてくださいね」

 佐祐理がクスクスと笑いながら、二人に勧めた。

「仕方ないだろう。謎ジャムの所為でまともに朝から食っていないからな」

「謎ジャム?」

 佐祐理が首を傾げる。

「わ、わ、なんでもない、なんでもないですよ」

 慌てて名雪が弁解した。

 

「ふう、しかし佐祐理さんは本当に料理が上手ですね。料理人でもやっていけるんじゃないですか?」

 若者らしい健啖さを遺憾なく発揮して食べ終えた祐一が言った。

「本当です。私もこんなに上手く作れませんよ」

 名雪も純粋に感動しているようで、感嘆の視線を佐祐理に向けた。

「あははー、たいしたことじゃありませんよ。名雪さんだって作ろうと思えばできますよ」

 謙遜しつつも相手を立てることを忘れない。気遣いの仕方というものをよく心得ている相手だった。

この少女は本当に暖かい雰囲気を作ることに慣れている、そんな印象を祐一は受けた。

「そうだな、今度は弁当を作ることを日課にしたらどうだ?早起きできるようになるかもしれんぞ」

「……う〜ん、期待はしないでね」

 意外にも、名雪はやる気のようだった。

「舞さんなら、何が好きですか?」

「……たこさんウインナー、牛丼……他にも色々」

こうして、取り留めのない時間が過ぎてゆく……

 

               *

 

 再び夜が来る。祐一は決意したようにコートを着て部屋を出た。

「どうしたの?」

 と、そこで名雪に声をかけられる。

「話をききそびれたからな。ちょいと正体を確かめに」

「……祐一、相変わらずだね」

「?」

 それだけで全てを悟ったのか、微かにもの悲しげな声と共に名雪が言った。

「いつも、ひとりで走っていくところが」

 その言葉に、何か引っかかるものを感じる祐一。

そういえば、昔この街に来ていた頃、名雪の手を引っ張って、それで名雪が動けなくなるまでひとりでどこまでも走っていった気がする。そうして後で名雪に謝っていた気がした。

「でも、私も気になるから。友達は大切にしないとね」

 だが、名雪は祐一の思考など知るはずもなく、いつものように笑い、出かける支度をする。

 

――なぜか、既視感を感じていた――

 

 当然というべきか、意外というべきか。舞は昨日と同じく剣を構えて、そこにいた。

「……無遠慮というか大物というか、せめてほとぼりが冷めるまで自重したほうが良かったんじゃないのか?」

 昼間のことを思い出し、祐一が苦笑する。

「……魔物は何時現れるかわからないから」

 素っ気無く舞は答える。魔物、という言葉に何か引っかかりを覚えた祐一は訊ねてみる。

「で、魔物とやらは何なんだ?」

「……解らない」

「解らないって、戦っている相手の正体もわからずに戦っているのか、お前は?」

 祐一の声には驚きを通り越して呆れが混じっていた。

それでは無意味ではないか。理由なき戦いほど無意味なことはない。だとしたら、一体何時からだ?この少女は、何ゆえ戦いという無意味な檻に閉じ込められている?

「……解らない」

 同じ答えを舞は繰り返す。大きく祐一は溜息をついた。

どうもここの知り合いは理解に苦しむやつが多い、栞といい、舞といい、あゆといい、名雪といい……それでも、何故か放ってはおけなかった。不思議なことに、彼女達を放っておく事を考えると酷い罪悪感に囚われる。その理由は、いまだ解らない。

「あ、あの、佐祐理さんほど美味しくないかもしれないけど」

 名雪がしどろもどろになりながらバスケットを取り出す。

「……牛丼?」

 中には、保温式の弁当箱に入れられた牛丼。肉と玉葱の香ばしい香りが実に食欲をそそる。

「何で?」

 それにしても牛丼弁当とはあまり見かけない。祐一が呆れと驚きが混じったような表情で問う。

「舞さんが好きだって言ったから、少し味見してくれたら嬉しいかなと思って」

「名雪の牛丼……相当に嫌いじゃない」

 意外なほど綺麗な箸使いで、それでも相変わらずの無表情で答える舞。それでも剣を手放さないあたりは舞らしいなと祐一は苦笑した。

 

 結局その日は、何も起こらなかった。舞の話によれば、魔物は毎日現れるようなわけではないという。

ただ、校舎を去るときに見た舞の後姿だけが、酷く危うげに見えた……

 

                               −Episode 4:”Mai Kawasumi”  end−


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