Kanon     “the  pure soul”

 

朝が来る。

カーテンの薄布を通して降り注ぐ陽光が、眼に痛い。

殆ど眠った覚えなどなかった。朝が来るのが嫌だった。

隣の部屋には、薄い壁を通してひとりの少女が眠っていた。

−アイタクナイ−

自分に言い聞かせる。

憎め、嫌え、あいつはあたしに苦しみをもたらすだけだ。

ひたすらに言い聞かせる。

 

髪を整えるために鏡を見た。

酷い顔だ、と自分でも思う。

 

目の下が窪んで隈ができていた。ここ数日の間、ろくに眠れたためしがない。隣の部屋の、あの少女が来てからは特に。

「馬鹿みたい…」

 小さく姿見を叩くと、夜気に冷やされたひんやりとした感触が手から伝わってくる。

こんなことをしても何の解決にもならないことは解っていた。それでも、どうすることもできず、彼女は一人ここにいた。

−『待っている』−

 親しい少年に言われた言葉を思い出す。

それは何についてなのか?自分が真実を晒すことなのか?

だがそうしたところで何になる、と少女は力なく頭をたれる。

−でも、わからないよ。誰かが奇跡を持っているかもしれない−

 誰かがそう言ったような気がしていた。

 

話せば少しは楽になれるのかもしれない。

もしかしたら、求めて止まない奇跡を起こす鍵を誰かがくれるのかもしれない。

「友情……か、ありがたいもの、よね」

 親しい少年は、仲のいい少女は、少女の従兄という少年は、あの子の為に尽くしてくれるだろう。いや、すでにそうしていた。

なら、あたしは何をすべきなのだろう、彼女は思った。

カーテンを開けると、眼を焼くほどにまぶしい朝の光が差し込んでくる。

 

今日は、久しぶりの青空だった。

 

               Episode  3:the “friend” −Kaori  Misaka−

 

−友。それは人が生きるうえで、不可欠なもの。

   友。それは助け合い、信じあうという人の世界の救済。

   信じてもいいのだろうか、頼ってもいいのだろうか、そうすれば、あの子を救えるのだろうか−

                                  −Kaori  Misaka−

 

 

「おはようございます!祐一さん、名雪さん!!」

校門の前までダッシュしてきた祐一と名雪を出迎えたのは、一人の少女。

ぬけるような青空に相応しい笑顔で、栞は真新しい制服に包まれて二人に手を振っていた。

「おはよう、早いな栞。名雪にも見習わせてやりたいよ」

 横の名雪を指差しながら、祐一は笑う。

「祐一、酷い…でも、おはよう栞ちゃん」

 祐一が栞の右に立ち、名雪が左に立ち歩き始める。と、そこで見知った後姿を見つけた。

「おはよう、香里」

 いつものように名雪が声をかける。

「ああ、おはよう……」

 そしていつものように香里が答える……筈だった。

名雪と祐一の間にいる栞を見て、香里の表情がこわばる。期待と不安が入り混じったような曰く言いがたい表情を見せる栞。

「どうした美坂……?」

 横にいた北川が栞と香里を交互に見比べ、納得したように険しい顔つきになる。

「先に行くわ」

 だが、そんな北川や栞の様子になど最初から眼中になかったかのように、香里は足早に去っていく。

「あ、ほら、私たちも急がないと遅刻ですっ!」

 栞の声が、やけに遠く聞こえる朝だった。

 

 

「祐一、お昼休みだよっ」

 名雪が声をかけてくる。今日は栞を誘って学食へ行こうと決めていた。

「祐一さん、お昼休みですっ!」

いつの間にか教室にやってきた栞が、名雪に続く。

両手を握り締め、全身で喜びを表現する栞の姿は、祐一ならずとも心躍らせる何かがあった。

「なら、俺も付き合うか、美坂は……?」

 北川が続き、香里を呼ぼうとするがその姿はない。

「あの…バカ……」

 見れば、逆の出口から足早にさっていく香里の姿。やるせない思いを隠しながら、北川は栞たちの後を追った。

 

 学食はどこの学校でも変わらず賑わっていた。レストランのような明るい照明に、木の家具を配置したその空間は、設計者のセンスの良さが窺えた。

「祐一さん、ここが空いてますよ」

 目ざとく4人分の席を見つけた栞が手招きする。

「ああ。栞は何にする?」

「えーと、祐一さんと同じものがいいです」

「解ったよ」

 

「こ、これですか?」

 しどろもどろになりながら目の前のカレーを見つめる栞。

「そうだが、どうした?」

「私、辛いのはがちょっと……」

祐一と同じものが食べたいといって出てきたのはカレーだった。

「わ、私のAランチと交換する?」

「い、いえ。折角祐一さんが買ってきてくれたんですから、頑張ります!」

名雪の提案を辞退し、水と牛乳のグラスを交互に口に運びながら、必死にカレーを流し込む栞。

顔を真っ赤にして食べるその姿は、見ていてどこか微笑ましかった。

 

「で、どうだったのかな?久しぶりの学校は?」

 食事を終えた栞に、名雪が訊ねる。

「はい、色々面白かったですよ!例えば…」

そしてその後、栞は久しぶりの学校生活を得意げに話し始める。

 

栞を心配していたという友達の話。

どこか陰のある女の子の話。

美術の時間で色々なデッサン法を習った話。

 

……それは、聞いている祐一達が久しく忘れていた学校生活の楽しさを、改めて教えられるような話だった。

 

「それじゃあ、私はこれで。放課後はどうしますか?」

「俺はバイト」

「ごめん、私部活」

 北川と名雪がかぶりを振る。

「なら、俺が付き合うよ」

 祐一が栞の頭に手を置き、答える。

「もう、子ども扱いしないでください。でも、ありがとうございます」

 頬を膨らませた後、満面の笑みで栞は答えた。

 

 そして祐一と栞は商店街を歩いていた。アイスクリーム屋でアイスを買い、文具店で絵の道具を見て、本屋で栞がお気に入りのドラマの原作本を紹介してもらった。

それはあまりにも普通の学生の放課後で、だが何よりも尊い時間であると祐一と栞は知っていた。また、決して永遠ではないということも。

−ならば、今を享受しよう。かけがえのない、この時を−

 それが、二人の決めた結末だった。

 

 やがてゲームセンターにたどり着いた。

「祐一さん、何か得意なゲームでもあるんですか?」

「そうだな、あれなんかは割合」

 祐一が指差した筐体は、二本のレバーが取り付けられた大型の筐体が4つ並んでいるものだった。二人でチームを組んで二体のロボットを操り、相手チームと戦うといった内容である。

2人チームですか、でしたら私と祐一さんなら丁度2人ですね」

「そうだな、やってみるか」

 2人仲良く座って、筐体にコインを入れた。

−どかん!−

「えう〜、むずかしいですよ〜」

「まさか最初のステージで死ぬとは思わなかったよ……」

栞の運動神経は相当酷いようで、開幕数十秒であっさりゲームオーバーの文字。

少し簡単なものから入ったほうがいいな、と簡単そうなゲームを探してみる。と、祐一の目に昔懐かしい筐体が目に付いた。

「あれなんかどうだ?」

 祐一が指差したのは、もぐらたたきの筐体だった。

「よしっ、リベンジです!」

 両手で頬を叩きながら、ハンマーを手に取った。

−ずどん!−

「零点なんて、初めて見たぞ」

「そんなこというひと、嫌いです〜」

 それでも、栞のこうした色々な表情を見ているだけでも、ここに来た価値は充分だと祐一は思った。

 

コインが尽きる頃には、もう空は茜色に染まっていた。

大気の揺らぎが、様々な波長を消し去り作る色。赤、朱、橙、様々な『赤』が作る僅かな時間だけの空の芸術。

空が作る色は大地やそこに住む人々を染め上げ、それもまた芸術となる。

「わあ、綺麗ですね……」

落日の光に輝く商店街を見つめながら、栞が感慨深げに呟いた。

道には足早に家路を急ぐ人の群れ、空には巣へと戻るカラスの鳴き声、今日もまた、変わらない一日が過ぎていく。時の流れは誰にも平等だった。人生の流れとは異なり……

赤く染まる少女の横顔を見ていると、そんな考えを祐一は思い浮かべた。

「祐一さん、明日、お弁当作ってきてもいいですか?」

 それでも、栞は祐一の不安など何処吹く風と言わんばかりの快活さを崩さない。

「それはいいけど、大丈夫か?」

「ええ、お姉ちゃんにいっぱい教えてもらいましたから、期待していてくださいね。名雪さんや北川さんにも言っておいてください」

 本当は体の調子を聞きたかったのだが、この様子だと大丈夫そうだな、と祐一は思った。そして栞を家まで送り、祐一はひとり家路を急いだ。

「?」

 と、物陰で見知った人影を見つけた。ウェーブの髪の少女は、祐一の視線に気がつくや否や背を向けて走り去る。

「……おまえは、それでいいのか?」

 呟く祐一の声も、少女に届くことはない。こうして、一日が終わる。

 

               *

 

 翌日の昼、栞は巨大な重箱を携えてやってきた。

「…栞ちゃん、どうしたのこれ?」

 その重箱はおせち料理にも使えそうなくらい巨大な代物で、4人で食べるにしても相当な量だった。

「実は、調子に乗って作りすぎちゃって…でも、名雪さんは運動部ですし、祐一さんも北川さんも育ち盛りですから、これくらい大丈夫ですよ」

 苦笑いを浮かべながら、栞がさあどうぞ、とばかりに重箱の中身を差し出した。一辺が30センチはありそうな重箱が6つ、中には色とりどりの料理が鎮座していた。

 色とりどりの野菜、綺麗に飾り切りされた果物、旬のものを巧く利用したそのラインナップは食欲をそそることは間違いない。この人数でこの量を食べることを考えなければ、の話だが。

「ああ、消化剤もありますから、気にせずドンドンいっちゃってくださいね」

用意周到なことに栞がどこから取り出したのか、大量の胃腸薬を取り出した。

ポケットの容積を越えるほどの量があるのは気のせいだろうか?

「はい、祐一」

 引きつった顔の名雪が祐一に箸を渡す。

「ほれ、名雪」

 同じく引きつった顔の祐一が名雪にフォークを渡す。

「腹くくれ、2人とも」

 諦めたような顔の北川がスプーンを握った。

 

 また明日も作ってきます、という栞。

「頼むから……」

 祐一が息絶え絶えにテーブルに突っ伏す。

「量を……」

 名雪の苦しそうな顔は初めて見たな、と同じく突っ伏している名雪を見ながら祐一は思った。

「考えてくれ……」

 北川の顔も青白かった。

 

「ん…?」

…そして、物陰から彼らの様子を見ていた視線に、名雪が気づく。

「……」

 視線の主は、何も語らずにその場から逃げるように去っていく。

 名雪はただ、悲しげにその視線の主を見つめるだけだった…

 

               *

 

 ある夜のことだった。

「名雪、電話よ」

 祐一と2人でテレビを見ていた名雪は、秋子の声で電話機を手に取った。

「もしもし、私だけど?」

『……名雪?』

 その声はあまりにも悲壮感を湛えていて、それが親友のそれであるとは、名雪にも一瞬解らなかった。

「香里?どうしたの、こんな夜遅く」

『今、大丈夫?相沢君と2人で……学校まで来て欲しいんだけど』

「大丈夫だよ。すぐ行くね」

 何を話されるかは見当がついていた。香里から、と祐一に小声で伝えると、祐一も頷く。

『……ありがとう』

 

 夜の校舎は彼ら以外に訪れる者もなく、ただただ常夜灯の明かりが人なき空間を照らすだけ。

「よお」

 祐一と名雪の後ろからかけられた声は北川だった。

「ああ」

「北川君も?」

名雪の言葉に頷く北川。

だが、名雪もそれ以上は何も語らない。誰もが解っていた。友人が自分達を呼んだ理由を。

「ごめんなさい、こんな時間に呼び出して」

 その友人は、酷く疲れているように見えた。

いつもの自信に満ちた微笑みも、はきはきとした行動的な性格も全てがない。普段着のまま、上着も着ずに立っているその姿。

頬は冷気によって赤く染まり、髪の上には微かに雪が積もっていた。

そんな香里の姿は、このまま夜風に吹かれて崩れ落ちそうなほど儚く見えた。

 

「……馬鹿な昔話に、少し付き合ってくれる?」

 その問いに沈黙で答える3人。それは無言の肯定だった。

「……妹がいたのよ」

 今まで頑なに否定していた言葉を紡ぐ香里。冷やりとした冷気に体を微かに震わせ、香里は続ける。

「それだけなら、それだけの話だったわ。でも、あの子は生まれつき、体が弱かった。だから姉は、そんな妹を守ろうと、必死になってがんばってきた。辛いときには笑って、楽しいときには一緒に笑って、でも、そんな『幸せの欠片』を集めて、いつまでもいられると思っていた」

 拳を握り、香里は俯く。

「でも、あの子に刻まれた呪いは、そんな生易しいものじゃなかった。少しずつ、まるで削られていくように、あの子は弱っていくんだって教えられた」

 それは、栞という人間の流れは、酷く速い流れであるという証。

 死と言う名の海へ、より早くたどり着く証。

「そして、あの子は次の春を迎えられないって、しばらく前に言われたのよ。身勝手よね、いままで散々手間掛けさせて、そして、今が最後の冬なのよ、馬鹿らしいわ!馬鹿じゃない!いなくなる人間のために一生懸命だった私、馬鹿じゃない!!!教えてよ……あの子、何のために生まれてきたの……」

 ぽとり、と香里の足元に雫がこぼれるのを、名雪は見逃さない。香里は言葉を絶やさない。

「だから、私、あの子のことを嫌いになったのよ!妹なんて、最初からいなかったって、そう思ったら楽になれる、そう思ったのよ!」

 膝を落として、香里はうなだれる。

「……ならどうして、お前は泣いているんだ?嫌いなやつのために、涙なんか流せるのか?」

 うなだれた香里の前にしゃがみ込み、北川は香里と目を合わせる。

「香里…」

 そんな香里の頭を、名雪はそっと抱きしめる。くぐもった声で、名雪は続けた。

「栞ちゃんのこと、本当に好きなんだね。私には解るよ。大好きな人のために、何かをしてあげたい気持ち」

「あなたに…」

 何がわかるの、という言葉を香里に言わせずに、名雪は続けた。

「でも、香里は幸せだと思うよ。栞ちゃんはね、香里をずっと待っているから。どんなに苦しくても、香里がまた、微笑んでくれることを待っている」

「……そうね。解るわね『あなたなら』」

 香里の顔から険が消えていく。

「香里……」

 だが、祐一は何かを感じていた。気のせいだろうか、香里と名雪の言葉が、何故か祐一の心を打つ。それはまるで、見えない古傷を触られているような不思議な痛み。

「なあ、聞いてくれ」

それでも、そんなことはどうでも良かった。今はこの傷ついた友の手を引いてあげることが全てだ、そうわかっていた。

顔を引き締め、祐一は続ける。

「……色々教えてくれたよ。栞は。お前と一緒にいた思い出を、すごく楽しそうに」

 香里のそばに屈みこみ、言葉を続ける。

「だから、香里」

 名雪は香里の瞳を見つめ、満面の笑みと共に、言った。

「ふぁいとっ、だよ」

「――――――――――っ!!」

 堰を切ったように、嗚咽を漏らす香里。

「ほら、風邪引くぞ?」

 北川が自分のコートを香里にかけて、その背中をさする。

「そうか、あいつ……」

祐一は納得した。この少年はこの少女を心から愛していた。大好きな相手を、支えてやりたいと思っていた。なら運命に抗おう。それがきっと、友情という言葉の真意。

「探そう、俺達と奇跡を」

 それが、祐一と彼らの約束だった。

 

               *

 

変わらぬ夜明け、変わらぬ朝。

肺を痛めるほど冷たい朝の大気、穏やかな東からの陽光。そんな中を、2人は走っていた。

「名雪、もちっと早く起きてくれんのか?」

「う〜ん、努力はしているんだけど」

 最早日課となった早朝ダッシュの最中、2人は聞きなれた声で足を止める。

「おはようございます!祐一さん、名雪さん」

 振り返れば、栞が駆け寄ってこようとする姿が見えた。と、そこで栞がバランスを崩す。

「きゃあっ!」

 短く悲鳴をあげて、雪に突っ伏す栞。

「えう〜、冷たいですう」

 顔から雪溜りに突っ込んだ栞が、涙目で2人を見上げた。

「ははは、もう少し運動神経を鍛えなくちゃダメだな」

「祐一、酷い。それより大丈夫?」

 名雪が駆け寄ろうとしたときだった。

 

「まったく、なにドジやってるの?」

栞の目の前に、差し出された手があった。

 

それは懐かしいほどの優しい声。

「…お、お姉ちゃん?」

 呆然とする栞の手を掴み、香里は栞を立ち上がらせた。向かい合う姉妹の瞳。

「しょうがないわね、みんなに心配させて」

 香里がハンカチを取り出し、栞の顔についた汚れを拭う。

「関係ないんじゃ、なかったのか」

 そんな2人の様子を見つめながら微かに微笑み、祐一は問う。

「関係あるわよ……」

 一呼吸おいて、確かに香里は言った。

 

「この子は、あたしの『妹』なんだから」

 

「お姉……ちゃん?」

 

ぼうっとしていた栞が、思い出したように口を開く。

 香里が神妙な面持ちで栞を見る。微かな沈黙の後、香里は静かに頭を垂れた。

「お、お姉ちゃん!?」

「どうしたらいいのかなんて、解らないわ。でも、ごめんなさい」

 その言葉だけで、栞は香里の意思を悟る。

帰ってきてくれた、と解った。自分の時間が残り少ないと解ったあの日以来、別れを恐れて自分の前から去った姉が帰ってきてくれた。

胸が熱い、目頭が熱い。でもそれは、心地よい熱さ。満たされなかったものが、満たされていく熱さ。

「ダメです、お姉ちゃん…ずるいです。赦せないですよ」

 その言葉で香里が頭を上げると、そこには笑いと涙を湛えた栞の顔がある。

「栞…そうよね、いまさら赦してくれなんて、虫が良すぎるわよね」

 背を向ける香里。そしてその背中に、久しく忘れた温もりを感じる。

「……そうです、簡単に赦してもらおうなんて思わないで……赦して欲しかったら、私と……一緒にいてくださいっ!」

 ぎゅっ、と香里を抱きしめる栞。暖かい、と思った。肌を通して伝わるこの暖かさが、これは現実なのだと栞に教えてくれる。

「そう…そうよね。馬鹿みたい、私たち、今まで何をしてたのかしら」

 香里もその手を握り、涙に濡れたくしゃくしゃの笑顔で栞を抱きしめたのだった……

 

「よかったね…」

「ああ……」

 不覚にも熱くなった目頭を冷やすように、祐一と名雪は空に視線を向けた。

 

ああ、なんて綺麗な青空。姉妹を祝福するような、なんて綺麗な青空だろう。探せる、奇跡は必ず。そう思えるような空が、ここにあった。

 

               *

 

「聞いたことがないな」

 栞の病気について訊ねたとき、香里はあっさりと答えてくれた。

「まあね、医者の話ではかなり珍しい症例よ。治療法も確立されていないそうだから…」

栞の病名は祐一、名雪、北川の誰にとっても初めて聞く病気だった。元々体の弱かった栞だが、その所為で闘病生活を余儀なくされていた。

今にして思えば、ゲームセンターで見せたあの反応の悪さも、病気が遠因になっていたとも考えられた。せめてもの救いだったのが、進行速度が普通の人よりも遅く今まで生きてはこられた。それでも定期的な輸血や薬、放射線治療といった措置で、辛うじて生を繋いでいるという状態。

「そんな……」

 名雪が悲壮感に満ちた声を上げる。

 どういう気持ちなのだろう。終わりが見えていて、それから逃げることも、それに抗うこともできない栞は。そして、栞を見つめ続けてきた香里は。

「いろいろな医者に相談したわ。でも、誰もその答えは得られなかった」

 香里が悲しげに顔を伏せる。

「……手出しできないのかよ!」

 祐一が力なく拳を壁に打ち付けた。

「祐一さん……」

 悲しげな表情を見せる栞に気がつき、拳を下ろして乾いた笑いを祐一は浮かべた。

 

               *

 

「ゆーいちくーん!!」

帰り道、祐一と栞が商店街を歩いていると、背中に聞きなれた声と重みを感じた。

けだるそうに首を向けると、あゆの顔と香ばしいタイヤキの香りがそこにあった。

「…また食い逃げか?」

「うぐぅ、違うよ。ちゃんと謝って今度はお金払ったもん!」

 あゆが頬を膨らます。

「食い逃げ?」

「あ、あはは、なんでもないよ、えっと…この間の人だよね、祐一君の知り合いだったの?」

 あゆが栞と祐一を交互に見比べながら訊ねるような視線を祐一に向けた。

「初めまして、美坂栞といいます。祐一さんとは、あの後知り合ったんです」

「そうなんだ、ボクは月宮あゆ。なら、友達だね、はい」

 と、祐一と栞の前にタイヤキが差し出された。首を傾げる祐一に、あゆは続けた。

「祐一君たち、寒そうだったから…これであったかくなるよ!」

ああなるほど、この少女は俺達に気を使っているのだなと祐一は理解できた。

ありがとう、と言ってタイヤキを受け取る。懐かしい味だった。

そういえば、初めてあゆと出会ったときもこうして二人でタイヤキを食べていたはずだった。

 

「タイヤキの縁か、妙な縁だな」

「そっかな、ボクはいいと思うよ」

 あゆも自分のタイヤキを取り出しながら、祐一や栞と並んで歩き出した。

「……昔に戻ったみたいだね」

 懐かしむような、あゆの声。

「ああ…」

「お2人は昔から?」

「まあな、昔名雪の家に遊びに来ていたときに知り合った」

確かに、微かに残る記憶には、あゆと2人でタイヤキを食べながら歩いたそれがあった。

だが、ただそれだけ。それ以上、何もない。

「祐一君、悩んでた?」

 いきなりのあゆの発言に、祐一は目を丸くしてあゆを見る。

「だって、何か辛そうな顔をしていたから……良かったら話してよ」

「そうだな……」

 一人で悩んでダメだったら、友達に話せ。それがここ数日の間で彼らが学んだことだった。

だから祐一は話す。偶然が再会を呼んだ、この腐れ縁の食い逃げ少女に……

 

「………そんな」

 あゆが悲痛な面持ちで栞を見る。

「別に今すぐってわけじゃないですよ」

 そんなあゆに、厭になるほどにいつもの微笑を向ける栞。

「それに、あゆさんともこうして知り合えた。私はそれで十分ですよ」

「栞ちゃん……」

 だが、あきらめたくはないとあゆは思う。せめて、この新たな友達のために何かできないだろうかと必死で考えた。

 

「う〜ん……だったら、簡単だよ」

 ややあって、あゆがぽんと両手を叩く。

「簡単って、おまえな?」

 いきなり笑顔になったあゆに、呆れたように祐一は言った

「でも、この世界全てのお医者さんを当たったわけじゃないよね?」

「そりゃあそうだが」

「なら、祐一君は今日、どこへ行っていたの?」

「そりゃ学校に……学校?」

 何か引っかかるものを感じる。学校?

「そうだよ。学校にはいろんな人がいるよね。そこには本だってある。調べることはできるはずだよ」

「解らないなら、探せ、か!」

 妙案だと思った。確かにいないなら探せばいいじゃないか。『天は自ら助くるものを助く』、奇跡を探すことはできる筈だ。

「ありがとう、あゆ。光明が見えたよ」

「うんっ!」

 

               *

 

「精が出ますね、名雪、祐一さん」

 コーヒーとクッキーが乗せられたお盆を片手に、秋子が名雪の部屋を訪れた。帰るなり祐一は秋子に頼み込み、パソコンを貸してもらった。

「いろんな研究機関や医療機関にアクセスしてるんだけど……英語やドイツ語なんて解らないよ……」

手伝っていた名雪がとほほとため息をつく。

「とりあえずリストアップするだけでいい。秋子さん、翻訳ツールは?」

「ええ、ここにありますよ」

といっても、祐一は外国語など知らないので、秋子にいろいろ手を貸してもらっていた。それから、部活から帰ってきた名雪と共に、2人で作業を続け、気がつけばもう日が変わろうという時間だった。

「うにゅ…ありがとうだよおかあさん」

 半分眠りかけた名雪が危なっかしい手付きでコーヒーカップを受け取る。

「すいません、気を使わせて」

「いいんですよ。私にもお手伝いさせてください」

 秋子の心遣いが嬉しかった。握った友達の手が、別の友達へ、そしてその家族へ。そうして絆を広めていく。それが友情だと思った。

「ふぁいとっ…………だお〜」

 やがて、ぱたりと糸が切れたように机に突っ伏し、寝息を立て始める名雪。

「あらあら」

「しょうがないやつだな……」

 名雪をベッドに運び、蒲団を掛ける祐一。

「ありがとう、名雪」

 無邪気な寝顔に、そっと声をかけ、髪を撫でる。

「えへへ……」

 寝顔の名雪が、微笑んだ気がした。

 

               *

 

「まあ、リストアップはしてみた」

 翌日の朝、祐一は検索した結果見つけてきた論文のコピーを何枚か見せた。

「相沢、これは?」

 怪訝な顔で問い返す北川に、祐一が言う。

「栞の病気を調べて、研究している医者をリストアップしてみた。栞」

 そして、栞と向かい合う祐一。

「あきらめないからな、俺たちは」

「え…?」

 そんな祐一の迫力に気おされながら、栞が問い返すような視線を向けた。

「栞ちゃん。奇跡はね、起こすものだよ」

 横に立っていた名雪が、栞の肩に手を置いた。

「名雪さん……」

「ここに出ている人間は、誰しもがお前の病気に挑んでいる人たちだ。栞、お前はまだ、俺たちと一緒にいたいか?」

 はじめて見る瞳だった。強制しているわけでもなく、憐憫をこめているわけでもなく、ただ優しく言葉を促す。そんな祐一と名雪の瞳を始めて見た。

「いたい…です」

 ほんの僅かな時間の後、それでも栞はしっかりと頷いた。

「いたいです……みんなと、いたいです……」

 最後にはその声は涙が混じる。それでもただ、栞は自分の意思を繰り返す。

「なら、頑張ろうぜ」

 北川は忘れない、と思った。泣きじゃくりながら祐一にすがりつき、ありがとうを連呼する栞。泣くなといいながら、涙を堪えた笑顔で笑っていた香里の顔を……

「うん。ふぁいとっ、だよ」

 

 慣れない専門用語が混じる英文を、5人で必死に調べた。

「美坂、これでいいのかな、この訳文」

 北川が辞書と首っ引きで意味を訳そうと理解し、

「あなたね、これは関係代名詞よ。疑問文にしてどうするの」

 香里もまた、先頭に立って調べ、

「祐一……ovaryってどういう意味?」

 名雪が眠い目を擦りながら、単語リストを作り、

「名雪、その文献は違うやつだ……」

 祐一はメールを研究者たちに送っていた。治療法を提唱した人たちに、治療を依頼するために……

 

               *

 

 栞の奢りで31とプリントされた袋に詰められたアイスを買い、気がつけば栞と再会した公園に来ていた。

2人で噴水の側に腰掛け、アイスを開ける。

「ありがとうございます。祐一さん。私の命を助けてくれて」

「気が早いだろう?まだ探している真っ最中だ」

 それでも、幾人かの答えは得られた。見知らぬ少女のために時間を割いてくれる人間は、決して少なくはないと思った。

「いいえ、助けてくれたんですよ。だって私、もう死んでいるはずなんですから」

 そう言って栞がストールとセーターに隠された、左腕を見せた。

「……」

 腕には、二本の小さな傷。それが何を意味するのか、解らないほど祐一は愚かではない。

「私、自分に残された時間が少ないって知っていました。お姉ちゃん、別れが辛くて、私を避けていることも知っていました。お医者さんが気を使って私に帰宅許可を与えてくれたのに、どうしても、私たち、一人ぼっちでした」

 彼方の一番星を見上げながら、栞は続ける。

「だから、どうせ終わるなら早いほうがいいだろうって思ったんです。私、そう思って出かけて、小さな黄色いカッターナイフを買いました。そこで祐一さんたちに出会ったんです」

 確かに、栞の荷物にはカッターナイフがあった。

「そしてその夜、私は自分の腕を切りました。痛くないんですよ?いいえ、痛いと解っているのに、痛くないんです」

 栞は祐一に視線を移し、更に言葉を続ける。

「腕からどんどん血が流れていって、そのとき、祐一さんたちの声が聞こえたんです。笑っていた祐一さんたちの顔が、見えたんです。どうしてだかわかりません。でも、そうしたら何故か涙が出てきて、悲しくて、苦しくて、それ以上刃を押すことができませんでした」

 そっと傷を撫でる。

「……」

「そうしたら、無性にもう一度会いたくなったんです。そして学校に来てみたら、本当に会えた。ドラマみたいですよね?会いたいと思っていた人に本当に会えるなんて」

 俯き、その口調がくぐもったものへと変わっていく。

「ああ…」

「そして、いっぱい、いっぱい祐一さんは私にくれました。学校生活、友達、そして……生きることの意味。祐一さんたちと一緒に過ごしたこの時間は、どんなドラマより、どんな本より楽しかった」

 栞は、祐一の手を握る。目じりに涙をたたえたまま……

「だから……さよならしたく、ないです」

「栞…」

 子供をあやすように、祐一は栞を抱きしめる。泣きじゃくる栞に、祐一は言葉を続ける。

「きっと、少しでも起きる可能性があるから奇跡っていうのさ。だから、俺達は奇跡を探したんだ。一人ぼっちになっていた女の子を、助け出すために」

「……祐一さん」

「……どうした?」

「私、どうしようもない弱虫ですよね」

「?」

「だって、一人ぼっちになるのが怖くて、お姉ちゃんから逃げて、生きることからも逃げて、上辺だけで笑っていた。だから、本当は私が一番臆病なんですよ」

 微かに自虐的な笑みを浮かべ、栞が呟いた。

「どうかな、臆病なのはみんな同じなんじゃないかな?例えばお前の前にいる男がそうだ」

 視線を上げると、公園の水銀灯が微かに明滅しながら点灯された。

 

闇夜の中に浮かび上がる、雪に彩られた公園。雪が生み出す白の輝きは、祐一に言葉を紡がせた。

「俺は昔、よく名雪の家に遊びにこの街に来ていた……7年前までは。だけど、どうしてか俺はこの街が嫌いなんだ。理由なんか解らない。名雪はそれを聞いたら、とても悲しそうな顔をする。もしかしたら、俺も何か嫌なことがあって、それで忘れたのかもしれない」

「……似ていますね、私やお姉ちゃんと」

「ああ、だから、あまり気にするな。真実と向き合うのは辛いことなんだろう。それでも、辛いときは誰かを頼ったっていい、そう思えば多少は楽にならないか?」

 そっと栞の頭に手を置き、祐一は微笑んだ。

「そうですね……そうですよね。やっぱり祐一さんはすごいと思います……私、祐一さんと出会えてよかった。『君は、一人じゃない』って教えてくれた。いいえ、祐一さんだけじゃない。名雪さん、北川さん、そのほかのいっぱいの友達、そして、お姉ちゃん…いろんな人に会えて、良かったと思います」

「人は生涯に三人の友を得れば幸せである、か……確かに、俺も栞に会えてよかったと思うよ。おかげで、少しはこの街が好きになれそうだ」

 立ち上がり、栞の手を引く。

「はい…」

 

 帰ろうか、そう言った時だった。

「あ、こんなところにいた、探していたんだよ二人とも」

 息を切らせながら、名雪が駆け寄ってくる。

「どうしたんだ、そんなに慌てて?」

 息を整える名雪の側に駆け寄り、祐一が訊ねる。

「朗報だよ!手術ができる人がいるんだよ!」

 

               *

 

 そして数日後の病院で、祐一たちは栞の傍に集まった。

「何か、緊張しますね」

 薄いグリーンの手術着に包まれた栞が、ベッドの上でおどけたように笑っていた。

「……そうだな」

 なんと答えたらいいのかわからない。曖昧な答えを祐一は返す。

「祐一、栞ちゃん…」

 後ろから名雪が不安げに声をかけた。

「……栞」

 香里が声をかける。危険な手術であることには変わりはない。最近発表されたばかりの治療法で、成功するかどうかは微妙なところだった。

「忘れてますよ、お姉ちゃん」

 だが、栞は香里の不安など吹き飛ばすように笑う。

「え?」

 きょとんとする香里に、栞はさらに続けた。

「『私は一人じゃない』……祐一さんたちが教えてくれました。私は一人じゃない。お姉ちゃんが、北川さんが、名雪さんが、祐一さんがいます」

 戦場へと向かう戦士にも似た凛々しさで、栞は答えた。

「不安なのは解るさ。俺だって怖い。だけど、そんな顔をしてたら、折角の奇跡が逃げちまうぞ?」

 おどけた様に、北川が続く。

「大丈夫だよ、香里」

 名雪が香里の肩に手を置き、微笑む。

「そうさ、お前が信じられなくて、どうする」

 祐一が続けた。

「それに、これで終わりじゃないんですよ、お姉ちゃん」

 ガラガラと音を立てて移動するベッドの音。

「栞…」

「手術が終わってからが色々大変なんです。だから、待っていてください。私が帰ってくるのを」

 手術、そして手術の後に本当の戦いが始まる。合併症、感染症が起こることもある。危険はこれからもいくらでもある。これは始まりなのだ。文字通り、栞の命を賭けた戦いの。

「だから、さよならは言いません。祐一さん、名雪さん、北川さん、そしてお姉ちゃん」

 一同を見回し、栞は微笑む。彼らが知る中で、最高の笑顔で。

 

「いってきます!!」

 

 

 闇夜に浮かぶ病院を振り返りながら、名雪が言葉を紡いだ。

「助かるよね、栞ちゃん」

「そうだな。きっと助かるさ。奇跡は、起こせるから奇跡っていうんだ……」

 名雪の肩に手を置き、祐一が答える。

 

宵闇の中、優しく照らす月明かり。

奇跡を起こす彼らを、祝福するかのように……

 

 

                               −Episode 3:“Kaori  Misaka” end−


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