Kanon     “the  pure soul”

 

一人の少女がいた。

少女は自らの左手を無感情に眺めていた。

赤い雫、命の雫、それがこぼれていく。

 

それでも彼女の肉体は「生きようとする本能」に従い、少しずつその流れをせき止めていく。

右手には力なく握られた黄色のカッターナイフ。

刃が赤く染まり、刃の鋭さを失ったナイフ。

−どうすればいいのだろう?−

虚ろな意識の中で少女は考える。

終わりは避けることができない。

 

ある詩人に曰く。

人生とは死という名の海へと向かう川の流れ。そしていかなる権力を持とうと、その定めからは逃れることのできないこの世界で最後の真実。

だが、その流れは速いものもいれば、遅いものもいる。

明けない夜はない。そう誰かが言った。

だが、その前に人は死ぬ。とも言われる。

 

少女の心を満たすのは何なのだろう?

生への渇望?

死への絶望?

生きる者たちへの羨望?

それはどれもが正解でもあり、誤りでもあった。

終わりの瞬間があるのなら、そのときは一緒にいたい人がいる…その人がいないこと、その寂しさこそ少女の心を満たすものだった。

「……月?」

 不意に窓を見上げれば、雲間から煌々と輝く真円の月。

柔らかい光だ、と少女は思う。

「あの人たち、なんだったんでしょう」

何故か、昼間会った2人組みを思い出した。

羽のついたリュックを背負った少女と、掴み所のない印象とどこか陰のあるような笑顔を湛えた少年。

「もう一度、会えるのでしょうか?」

 その問いを少女は、虚空に浮かぶ月に問いかける。

 

答えなどあるはずがない。それなのに、彼女は月がこう言った気がしていた。

−会える、あなたが望むなら−

 それは羽の少女の声であったような気もするし、また違う誰かの声であったような気もする。

「そうです、よね」

 そう呟くと、不思議と心が軽くなった。

 

生きていける、そんな気がした。

 

               Episode  2:the “link” −Shiori  Misaka−

 

 −時間、それは誰の上にも平等で、そしてなにより不平等なもの。

    絆、それは人が誰でも持っているもので、何より尊いもの。

      私の時間、私の絆、失ったのなら求めよう。本当に大切なものなら、求めよう……−

                                 −Shiori  Misaka−

 

『朝〜、朝だよ〜』

「!?」

 いきなり耳元でささやかれるように聞こえてきた名雪の声で、祐一は一気に目を覚ました。

『朝ごはん食べて、学校行くよ〜』

「な、名雪!?いつの間に!?」

 慌てて起き上がり、枕元を見回すが、名雪の姿は影も形も見えない。

『朝〜、朝だよ〜』

「……これか?」

 声の主は名雪の目覚まし時計だった。

よく見ると、時計の文字盤の横に『録音』と書かれたボタンがある。自分の声を録音して、目覚ましとして使うタイプの時計なのだろう。

「名雪のやつ、妙なものを…」

 と、嘆息して言いかけたときだった。

−じりりりり!、ぴょぴょぴょ!、ぴぴぴぴぴ!、どがががが!、ずど〜ん、ずど〜ん!−

「な、何だ!?」

 いきなり耳を劈くような騒音が、隣の部屋から壁を一枚通して聞こえてくる。

そこで昨日の事を思い出す。確か名雪は「どれがいい?」と言いながら大量の目覚ましを抱えていた。

「あいつ……全部使ってるのか?」

 ともあれ放っておくわけにもいかない。届いたばかりの制服に身を包み、名雪の部屋の前に立った。

「名雪!おい、名雪!」

扉を叩き、叫びを上げるが返事はない。

冷静に考えてみると、目覚ましの音の方が明らかに大きいのでこの程度の音で気がつくわけがないのだ。

「……入るぞ!名雪」

 女の子の部屋に勝手に入るのも気が引けるが、場合が場合だと自分に納得させて名雪の部屋の扉を開けた。

年頃の娘らしく綺麗にまとめられており、木目の家具を基本としてまとめた名雪の部屋は名雪本人同様に柔らかい印象を受ける。この騒音と、部屋のあちらこちらに置かれた目覚まし時計を別にすれば、の話だが。

「く〜」

「…マジか?」

 そして名雪本人は、大量の目覚まし時計が奏でるコーラスの中、胸元にカエルのぬいぐるみを抱きしめて眠りの中。あまりにも安らかな寝顔が、祐一には信じられない。

「ええい!起きんか名雪!!」

 名雪の体を揺すって、必死に呼びかける。

「……うにゅ?あれ、祐一?」

 祐一が来たことで漸く眼が覚めたのか、眠そうに目を擦りながら名雪が起き上がる。当然、うるさがっているようには見えない。

どっ、と疲労を感じる祐一。

「祐一、元気ない?」

「いいから、早く目覚ましを止めろ…」

「うん……」

 寝惚け眼で目覚ましを止める名雪の姿を見て、祐一は大きく今日何度目かの溜息をついた。

 

               *

 

「おはようございます、祐一さん」

「……おはようございます、秋子さん」

 先に居間に下りてきた祐一は焼きたてのパンの香りと、ジャムの香りと、秋子の笑顔に迎えられる。

それは爽やかな朝の風景には間違いなかった。それでも先程のダメージを癒すには至らないようであった。

「名雪、起きました?」

「まあ、何とか」

 と答えると、秋子は驚いたように頬に手を当てる。

「すごいですね、私が起こしてもこんなに早く起きることなんてないのに。これからは祐一さんにお願いしようかしら」

「……謹んで辞退させていただきます」

「残念です」

全然残念がっていない表情で答える秋子。

ああは言っても、多分明日から毎日名雪を起こすことになるのだろうな、と祐一は思った。

「おはようございます…」

 そこに半ば寝ている名雪が現れて、漸く朝食と相成った。

 

「イチゴジャム、おいしいね〜」

名雪がイチゴジャムをのせたパンを食べながら、幸せそうに微笑む。

何でも、秋子の自家製なのだそうだった。甘いものが苦手なので遠慮しておいたが、そのうち一度は食べてみようと祐一は思った。

「ところで名雪、えらくゆっくりしているが時間は大丈夫なのか?」

 祐一はここから学校までどれほどの道のりで、どれほど時間を所要するのか全然知らない。

「あ」

「どうした?」

「急がないとダメだね〜」

「……おまえな」

 溜息をつく祐一を、秋子は優しく見つめていた。

 

 一歩外に出れば、コートを通して嫌がおうにも冷気が全身に襲ってくる。スパイクのついた防寒靴を通して、雪の寒さが足元から浸食してくるような錯覚に囚われた。

「今日は暖かいほうだよね」

 名雪が余計に気落ちしそうになる台詞を言ってきた。

「……今すぐ帰りたくなったぞ」

「でも、祐一だって昔はここに住んでたんだよ」

 確かにそうだった。だが、ならば何故それを拒絶したのだろう。その答えは未だにない。

「確かにそうだが…ブランクが長すぎる」

「ふぁいとっ、だよ」

「そうだ、時間は?」

「う〜ん、ちょっと走らないとダメかな」

腕時計を見ながら、全然深刻でないように名雪が言った。

腹をくくろう、走れば少しは暖かい。そう思いながら、祐一は走り出した。

 

               *

 

「ぜえ、ぜえ……」

「到着だよ」

肩で息をする祐一とは対照的に、まだまだ走れると言わんばかりに元気な名雪。

そして名雪が建物を背にして立ち、紹介するように両手を広げた。

「ここが、私の通う学校。そして、祐一が今日から通う学校、だよ」

 早鐘を打つように脈動する心臓が少しずつ落ち着きを取り戻してくる。それに伴って漸く呼吸が落ち着いてきた祐一が顔をあげて校舎を見た。

大きな白いコンクリート製の校舎。校門から校舎まではオレンジと白のブロックで覆われた小さな庭になっており、外灯と芝生が無機質な校舎とブロックの中で微かなアクセントを作っている。

デザインとしては変わっているが、なかなかに綺麗な校舎だと祐一は思った。

「おはよう、名雪」

「久しぶり、水瀬」

と、祐一の後ろで名雪を呼ぶ声がした。

一人は名雪と同じ制服に身を包んだ少女、整った目鼻立ちは間違いなく美人の部類といえ、ウェーブをかけた栗色のロングヘアもそんな彼女によく似合う。その姿はおっとりとした名雪とは対照的に大人びてかつ凛とした印象を受ける。それでも、名雪に見せる表情は親愛のそれであることは間違いなかった。

もう一人は祐一と同じ制服に身を包んだ少年で、頭頂部で髪の毛の一部がピンと立った独特の癖毛があり、快活さと人当たりのよさが同居したような中性的な顔立ちをしていた。彼も名雪の友人だろう。

「おはよう、香里、北川君」

 名雪がにっこり笑って二人に挨拶を返す。

「久しぶり、元気だった?」

 香里と呼ばれた少女が、名雪に声をかける。

「おととい会ったばかりだよ」

「それでも、3日会わなかったら久しぶりよ。ところで」

「こいつは誰なんだ?」

 香里の後を引き継いで北川と呼ばれた少年が質問する。

なかなかに息の合った二人のようだ、と祐一は思った。

「誰といわれても困るが」

「祐一だよ。この間電話で話した、いとこの男の子」

 その言葉に香里と北川がなるほどと頷く。

家庭事情を教えるあたり、名雪の友人の中でもかなり親しい方だなと祐一は思った。

「へえ、なるほど」

 どことなく含みを持たせた笑いを見せる香里。なるほど、というあたり名雪から祐一のことを聞いていたらしかった。

「相沢祐一だ…ええと」

とりあえず自己紹介をしておこうと名乗る祐一。そこで名前を知らないことに気がついた。

初対面だから当たり前といえば当たり前だが。

「私は香里、美坂香里よ。香里でいいわ」

 香里が右手を差し出す。その手を握り返す祐一。

「なら俺も祐一でいい」

「それは遠慮しておくわ、相沢君」

 どことなく知性を感じさせる笑みが印象的である。

「俺は北川、北川潤だ。好きに呼んでくれ」

 祐一の首に腕を回し、北川が言う。印象の通り、人当たりのよい性格だった。

「良かったね。友達ができて」

 心底嬉しそうに名雪が言う。

「そうだな。最も、なじめないならなじめないで一人でいるつもりだったけど、居るに越したことはないよな」

それは転勤族の子供がだれもが思いつく処世術だった。

別れの悲しみがあるのなら、絆はいらない。悲しむだけなら、初めから独りでいたほうがいいという。

「……祐一、ひとりは寂しいよ」

 その言葉に、名雪は微かに表情を曇らせる。

「おおい、早く行かないと遅刻だぞ」

 後ろから北川の声がかかる。歩きながら、名雪はなんであんな寂しげな表情を見せたのだろうと祐一はずっと考えていた。

 

               *

 

 慣れない雰囲気ではあったが、名雪、香里、北川といった友人ができたことは、それでも祐一には心強い。しかもクラスまで同じだったことは僥倖とも思えた。

「おい、相沢」

 4時間目の授業の終わりごろ、祐一は後ろの席の北川に小声で話しかけられた。

「中庭に人がいる」

「?」

 気になって見下ろしてみると、見たことのある人影がそこにあった。栗色のボブヘアー、チェックのストール。昨日あゆと一緒に出会ったあの少女がそこにいた。

「……」

 無視してもよかったが、どうにも後ろ髪が引かれるような気がしていた。

 

「祐一、お昼休みだよ」

 授業が終わるや否や、隣の席の名雪が祐一の側にやってくる。

「相沢君、お昼ご飯はどうするの?」

 香里がそれに続いてくる。

「学食へ行こうよ、案内するよ」

「そうだな。俺も行くし…」

 と北川が言いかけたときだった。

「悪い、先に行っててくれ。後から行く」

 祐一が立ち上がり、走って教室を出て行く。呆然とする名雪に香里が訊いた。

「相沢君、場所知ってるの?」

「…多分、知らないと思うよ」

 

               *

 

重い鉄の扉を開けると、雪に覆われた中庭に出る。

ブロックで固められた前庭とは対照的に、芝生が大半を占める中庭は季節の所為もあってか人気がない。ただひとりを除いては。

「どうしたんですか?」

 ストールの少女は、祐一に世間話でもするように話しかけた。

「いや、中庭にここの学生じゃない不審人物がいたから、見に来た」

「そうなんですか、ご苦労様です」

少女はそれが自分を指すことに気がついているのかいないのか、おっとりとした口調で答えた。

最も常時スローペースの名雪とは違って、この少女の場合は宙に浮くシャボン玉のように掴み所がない。

「初めまして、美坂栞と申します」

 頼まれてもいないのに自己紹介する辺りが特に。

「……俺は相沢祐一だ」

あなたのお名前は、と目で問う栞に押されて半ばあきらめたように祐一は答えていた。

それにしても昨日とはあまりにも印象が違う。最初に会った時はまるで霞のように儚い印象を受けたが、今の栞は霞どころか雨雲くらいに存在感がある。もしかしたらこちらの方が彼女の『地』なのかもしれなかった。

「では祐一さん、とお呼びしますね。でも祐一さん、一つ違いますよ」

「違う?」

「はい、私はれっきとしたここの1年生です」

「サボりか?」

「違いますよ。そんなこと言う人、嫌いです」

 ぷう、と栞が頬を膨らませる。

「実は病気で学校を長いこと休んでいたんです」

「成る程」

 栞というこの少女の儚げな側面は、そういった事実に裏打ちされていたのかもしれないなと祐一は納得できた。

「でも、病気で長期にわたって休んでいる女の子って、ドラマみたいでかっこいいですよね?」

「思わん」

 だが、この性格がそれを中和していたようだった。

「それでも、今日は会いたい人がいたので、ここに来たんです」

「会えたのか?」

 その問いに栞は曖昧に笑って言葉を濁す。深入りすべきことではないかもしれないと思い、祐一は話題を変えてみた。

「何の病気か、訊いてもいいか?」

「……」

 栞は俯き、やがて決心したように言った。

「風邪です」

「………」

「えっと、流行性感冒のほうが解りやすいでしょうか?」

「……いや、いい。よく解った」

何度目かわからない溜息をつく祐一、と同時に腹の音が三大欲求の一つを告げた。

「お食事はまだなんですか?」

「ああ、せっかくだから一緒に食うか?学食や購買にあるものなら買ってきてやるけど」

「そうですか、でしたら……」

 

「祐一、こんなところにいた」

 校舎に入るなり、名雪に声をかけられた。

「どこ行ってたの?探してたんだよ」

「……不審人物を尋問しに」

「祐一、わけが解らないよ」

 この際だ、名雪も巻き込んでやろうか、と不意に思った。流石にこの季節にあんなところで『あんなもの』を食べたくはない。

「まあいいや。中庭で食おうと思うんだが、来るか?」

「うん、私はおっけ〜だよ」

 

               *

 

「初めまして、美坂栞です」

 祐一が連れてきた名雪を見て、栞が名雪に一礼した。

「美坂…?こんにちは、水瀬名雪だよ。はい、栞ちゃんはこれでいいのかな?」

 微かに怪訝な表情を見せた名雪だったが、すぐにいつものように笑い、栞に自己紹介する。

「はい、ありがとうございます名雪さん」

 名雪が袋の中身と木のスプーンを取り出し、栞に手渡す。名雪も同じように中身を取り出した。

「なあ、お前ら一つ訊いていいか?」

 焼そばパンの包装を外しながら、祐一が問う。

「どうしたの祐一、まるでおばけでも見たような顔して?」

「お化けのほうがまだ現実味がある。馬鹿な問いだと思うが栞、名雪、お前らの食いたいものって本当にそれなのか?」

 何を今更、と言わんばかりに2人は頷く。

「はい、バニラアイスですよ」

「ストロベリーアイスだよ。祐一、変なこと訊くね」

 2人は外の冷気など気にした様子もなく、談笑しながらアイスを食べていた。見ている祐一の方が凍えそうなほど楽しげに。

こいつらの触覚はいかれているのだろうかと祐一は思った。

「祐一、変なこと考えてない?」

「祐一さん、失礼なことを考えていませんか?」

「……気のせいだ」

 ただでさえ寒さの所為で喋る気が失せるのに、この2人の食事風景を見ていると、余計に喋れなくなってくる。

こうして奇妙な昼休みは過ぎていったのだった……

 

 

「そうだ、やっと思い出したよ」

 昼休みが終わり、教室に戻る途中に唐突に名雪が言った。

「何をだ?」

「栞ちゃんの苗字、香里と同じなんだよ」

 祐一は言われて初めて気がついた。

美坂栞と美坂香里。成る程、確かにそうだった。と、そこに香里と北川の姿が見えた。

「どこ行ってたのよ、あなたたち?」

 香里が呆れたように言った。

「学食でずっと待っていたんだぞ」

 北川が続く。

「いや、ちょっと客の相手をしていた」

「客?おまえ、転校してきたばかりでもう知り合いがいるのか?」

「それとも名雪のほう?」

「ううん、美坂栞ちゃんっていう子」

「!?」

 名雪の言葉に、香里の表情が微かにゆがむ。何か『触れてはいけないもの』に触れたかのように。

「香里の妹?」

「何言ってるの名雪。あたしに妹なんていないわ」

 そっけない態度で香里は答える。

「でも、美坂、なんて苗字はあまりないだろう」

「知らないわよ!!」

 祐一の問いにいつになく語気を荒げ、香里が言う。思わず名雪や北川ですら言葉を失うほどの剣幕だった。

「……ごめんなさい、怒鳴ったりして。それより授業、始まるわよ」

 そう言って去っていく香里の後姿は、酷く寂寥感を感じさせる『何か』があった。

 

               *

 

「祐一、放課後だよ」

 授業が終わると、例によって名雪が祐一の側に寄ってくる。

「そうだな、帰るとするか」

「私、今日部活がお休みなんだよ」

「なら、一緒に帰るか」

「うん、ねえ、イチゴサンデー」

 昨日のことを思い出し、祐一は苦笑する。何か乗せられた気がするが、まあいいだろうと思った。

「はいはい、で、部活といっていたけど、何の部活なんだ?」

「陸上部だよ。そして部長さんだよ」

「……ギャグか?」

 名雪の普段の生活を見る限りでは、あまりにもギャップがありすぎた。

「祐一、酷いこと言ってる」

「なんだ、知らなかったのか?水瀬はこないだのインターハイまで行ったんだぞ?」

 北川が会話に割り込んでくる。

「知らなかった…」

 名雪とインターハイと言う単語はあまりにも整合性がなさ過ぎるように見えた。確かに今朝のダッシュでも息一つ切らしてはいなかったが…

「親戚だろう?知らなかったのか?」

「そうなんだが、なにぶん長いこと離れていたからな…」

 歯切れ悪く祐一は答える。

確かに7年という年月は長い。人を変えるには充分な時間だと思う。7年前の面影を残す名雪も、違っていて当然だった。

ならば何故、7年も名雪と会わなかったのだろう?確かに離れていたところに住んでこそいたが、別に会おうと思えばいつでも会えたはずなのに…?

「どうしたの、ぼおっとして?」

 名雪が祐一を上目遣いに見ながら訊いてくる。

「あ、ああ、なんともない」

 思い出しかけた何かが、沈んでいくような気がしていた…

 

 名雪に案内された「百花屋」という喫茶店は、アンティークな雰囲気が漂う、落ち着いた内装が特徴的な店だった。

木目を上手く壁の模様として取り入れ、ランプを模した白熱灯の輝きも、店の雰囲気に合っていた。学校帰りの学生の姿もちらほらと見える。きっとこの町に住む学生達の交流の場でもあるのだろう。

「ありがとう祐一、つきあってくれて」

 テーブルに置かれたイチゴサンデーを見ながら、名雪が言う。

「べつにいいよ。どうせ待たせたことにはかわりないさ」

 コーヒーを飲みながら、祐一は答えた。

「ねえ、祐一」

 微かに深刻そうな色を浮かべながら、名雪は話し出した。

「香里のこと、嫌いにならないであげてね」

「?」

「香里、普段はあんなこと言ったりしないんだよ」

 昼間のことを言っているのだろう。

確かにあのときの香里の剣幕には、多少気圧されたのは事実だった。本当はこのことを相談するつもりだったのかもしれない。

「別に気にしてなんかいないぞ。まあ、気にならないといえば嘘になるが」

「気になる…栞ちゃんのこと?」

「ああ。本当に香里、妹はいないのか?」

「解らないんだよ。香里、お家のことについて話さないから」

 すまなさそうに名雪はかぶりを振った。

「でも、だよ。もし香里や栞ちゃんがなにか苦しんでいるんだったら、なにか助けてあげたいよ」

 表情を曇らせ、名雪は言った。それは偽りない名雪の本心。苦しむ友人の力になりたいという。

「そうだな…」

 

               *

 

 それから昼休みに栞と会うのが2人の日課になっていた。

4時間目に祐一が栞の姿を見つけて、名雪がアイスクリームを用意して、祐一がパンを買って誰もいない校舎で自称風邪で休んでいる栞と食事をとる。

香里のことは不思議と話題に上らない。話すタイミングが解らないということもあったし、なにより栞も香里も互いの話題に触れることを避けていたように見えたからだった。

それは同じ時間を追い続けるKanonのような日常。だが、永遠に続く時などない。終わらない日常などない。それはおそらく彼ら自身が一番わかっていたことだった。

 

 そんな日常に一石を投じたのが、見知らぬ少女の一言だった。

「あの、先輩方」

 中庭から帰る途中で、2人は見知らぬ少女に呼び止められた。

リボンの色から判断すると1年だろうか?と、祐一は思う。女子の制服のリボンは、そのまま学年を現していると祐一は名雪から聞いていた。

「先輩方が会われていたのは、美坂さんですよね」

 おずおずと確かめるように尋ねる少女。

「そうだけど、あなたは?」

 問い返す名雪。

「あ、私、美坂さんのクラスメートなんです」

 少女は答えた。確か栞も1年だから、クラスメートというのも間違いではないだろう。

「あいつもしょうがないな。風邪引いてるのにぴょこぴょこ出歩くから、こうやって人に心配かけやがる。明日は説教でもしてやるか」

「え、風邪!?」

 少女の表情が驚愕に彩られる。思わず顔を見合わせる祐一と名雪。

「そんなはずないです。美坂さん、入学式の時に一度来て、その時に倒れたっきり一度も学校にきていないんですよ!?」

「……なんだって?」

 そういえば「長いこと休んでいる」と栞は確かに言っていた。ならば…栞とは一体何なのだろう?

「あ、でも、もしかしたら快方に向かっているのかもしれませんよね。ごめんなさい、変なことを訊いて、それじゃあ」

 そうして少女は廊下の奥へと消えていった。

 それは、日常という池に投じられたほんの小さな石一粒。

 だが、まぎれもなく波紋は広がっていく……

 

               *

 

 ある日の夕暮れのことだった。

「美坂?」

 忘れ物を取りに来た北川は、教室で中庭を見下ろすように立っている香里の姿を見つけた。

外を見ているのか表情は窺い知れない。

落日の時間が作り出す、赤い世界。黄昏の光は教室を赤く染め、その中に立つ香里は酷く危うげに見えた。

「例えば、よ」

 誰にともなく香里は話す。

「大好きなものが、もうすぐなくなるとしたら、どうするのが一番正しいことだと思う?」

 香里の意図は読めない。だがそれでも、ふざけた返答が許されるような雰囲気ではないことは解った。

「……最後まで、大好きなものの側にいることじゃないのか?よくは解らないが」

「そうね、きっとそれは正しいのよ。相沢君も名雪も、正しすぎるんだわ。それとも知らないだけ?『無知こそ至福の喜び』だって誰かが言ってたけど、そうよね。羨ましいわ。あたしだけなのかしらね、正しいことをする勇気も、現実を受け入れる強さもないのは?」

 そう、知らないことは幸せなのだろう。だが、知ってしまえばどうする?それを受け入れるのか、それとも……?

 しばらく香里は黙っていた後、顔を伏せたまま北川の横を去ろうとする。

「ごめんなさい、変なことを訊いて」

 去り際に、短く香里は言った。

「謝らなくてもいい……それでも、一つ教えてくれ。どうして一人ぼっちで泣いているんだ?」

「!!」

 顔を伏せていても、涙の跡までは誤魔化しきれなかった。

いや、そんなレベルではなかった。常に側にいた彼ならば、知らないほうがおかしいのだ。

「水瀬は、お前の力になりたいと思ってる。俺も相沢も。無理に教えろ、とは言わないさ。それでも、一言だけ言わせてくれ」

 香里の肩に手を置き、北川は言った。

「俺達は、『待っている』からな」

 

               *

 

「そうですか、そんなことを」

 翌日の昼、昨日の少女のことを話すと栞はあっけないほど簡単に答えてくれた。

「黙っているつもりもなかったんですけど、しょうがないですよね」

 寂しげな笑みを浮かべた跡、栞は語り始めた。

「私、生まれたときから体が弱かったんです。その所為か、気がついたら病気。いろんな薬を飲んで、いろんな注射をしても治らない病気。だから、いつもひとりぼっちでした。入院と退院の繰り返し、寝たり起きたりの繰り返し、でも、嫌じゃなかったんですよ。お姉ちゃんがいてくれたから」

 栞は語る、最愛の姉のことを。

 

ある日、栞が熱を出して倒れた。

担ぎ込まれた病院で栞は熱の苦しみに苦痛をもらす。姉はそんな栞の手を必死で握る。

−大丈夫だから、私がいるから、だから、栞は大丈夫−

必死の想いを、握る手に込めて姉は祈る。

やがて夜が明けて、栞は自分のベッドにもたれかかるように眠る姉の姿を見て姉の手を握り、同じ毛布に包まる。

 

ある日、病室で栞は寂しげな笑みと共に空を見ていた。

入院の時期は、栞の通う学校の修学旅行の日だった。病室の片隅に置かれた、旅行鞄と制服。友人達の笑い声を思い浮かべながら目を閉じる栞に、姉は声をかけた。

−旅行しよう?2人で一緒に−

姉の描いた絵には、飛行機の窓から見た外の景色や、見知らぬ町の景色。

旅行鞄を片手に握り、二人は空想の旅に出る。

 

ある日、栞は家にいた。

明日は家庭科の授業で、料理を作ると栞は言った。包丁の握り方など知らないという栞に、姉は呆れたように言う。

−しょうがないわね、あたしが教えてあげるわよ−

 そう言って、冷蔵庫の中身が空っぽになるまで2人で料理を作る。

その日の晩は、両親の喜びと共に料理を楽しんだ。

 

 どれもが儚く、そして尊い時間の記憶。

 

「でも、私の時間はもうすぐ終わるんです。だから私、お姉ちゃんに愛想をつかされちゃいました。散々苦労をかけて、その最後にいなくなるんですから、愛想をつかされて当然ですよね」

 自虐的な言葉と共に、栞は俯く。

「どうしようも……ないのかよ。奇跡が起こるとか」

 そんな祐一の言葉に、栞は微笑んで、指で祐一の口を塞ぐ。

「祐一さん。起こらないから、奇跡っていうんですよ」

 それは、嫌になるほど変わらないいつもの栞の微笑み。何か言葉を紡ごうとする祐一を制して、名雪は言った。

「栞ちゃん。それは違うよ。香里は、栞ちゃんのことが大好きなんだよ。だってそうだよ。私にも解るから、大切な誰かがいなくなってしまうとき、どうすることもできない無力さも……怖くて近寄れない寂しさも」

 一言一句、噛み締めるような名雪の言葉。言葉を通して、名雪の苦痛が伝わってくるような気がしていた。

「名雪さん……いいんですよ。こうして楽しく過ごせたんですから。こういう時間、嫌いでしたか?」

 名雪と祐一がかぶりを振る。それと同時に響く、チャイムの音。

「そろそろ終わりですね、それではお2人とも、さよならです」

去っていく栞。2人はかける言葉も、互いを慰める言葉も思いつかない。

ただそれを受け入れるだけ。

 

……かつて、同じことを感じていた気がする。祐一は何となく、名雪ははっきりとそう思った。

 

               *

 

 それから、栞は現れなくなった。

家まで押しかけようか、とも考えたが栞の家がどこにあるのかは解らなかったし、香里に聞くこともはばかられていた。

 

部活の名雪と別れて祐一はひとり、気がついたら栞と初めて出会った並木道を歩いていた。

あゆの食い逃げに付き合わされて、気がついたら栞と出会っていた。栞の言葉を借りるなら、ドラマのような出会いというやつだろうか?

そんなことを考えながら歩いていると、やがて開けた場所に出る。そこは大きな噴水を中心に回りに芝生が広がる公園だった。

 

雪に埋もれて訪れる人も少ないこの場所で、祐一は漸く見つけることができた。

「栞」

 栞はベンチに腰掛け、スケッチブックにペンを走らせていた。

「さよならしたつもり、だったんですけどね」

 スケッチブックから顔を上げ、困ったように栞は笑った。

「俺達はそうしたつもりはないが?」

「そうですね、確かに祐一さんも名雪さんも、さよならとは言ってくれませんでしたね」

 スケッチブックを膝に乗せ、栞は祐一を見た。

「当然だ。あんな別れ方なんぞしてたまるか」

 なんともなしに栞のスケッチブックを覗いてみる。それは一見得体の知れない線の羅列が並んでいるかのように見えた。

「これは、異次元の風景か?」

「違います。そんなこと言う人、嫌いです」

 ぷい、と横を向く栞。苦笑しながら再びスケッチブックに、祐一は視線を落とす。その中心に、人と思しきものが二つ並んでいた。何かを巻きつけた女の子と、ワカメみたいな髪型の女の子。そう、それは…

「……栞、学校に来る気はないか?」

「?」

 何故か、唐突にそんな言葉が祐一の口からついて出た。

「色々思ったんだが、やっぱり『天は自ら助くる者を助く』ってことだと思うんだよ」

絵の姿は、間違いなく栞と香里だと祐一には解った。

この絵は栞の夢なのだ。望む姿なのだ。何かをしてやりたい。心からそう思った。

同じ空間で、同じ時間を過ごす。それが叶うのなら、奇跡も起こせるのではないのかとも思えた。

「行こうぜ、俺達の学校に」

 祐一は手を差し出す。

「俺もいる、名雪もいる、お前を心配する友達だっているんだ。こんなところで一人、幸せな夢を想像するより、ずっといいだろう?」

 沈黙。

 どれほどの時間が流れたかわからない。

「はい…」

それでも微かに日の光が赤く変わり始めた頃、栞は確かに頷いたのだった。

                           Episode 2:“Shiori Misaka” end


Episode  1
Episode  3
戻る