この物語を、私のつたない文章を認めてくれた方々と、無能な私を鍛えてくれた友人と、そして物語を作ることがどういうことを意味するのか深く考えさせていただいた鍵の名を持つチームの方々に捧げます。

 

 ……ありがとう。

 

 

 

                      Kanon     “the  pure soul”

 

 夢。

 長い夢を見ていた。

 

 どこまでも降り続く雪。

灰色の空。

 

 小さなベンチに、独りの少年が座っている。

 

「………」

 ただ独り、少年は泣いていた。

否、泣くことにすら疲れていた。

嗚咽の声もすでにむなしく吐き出す吐息に過ぎず、それでも枯れはてることのない彼の涙だけが止まらない。

年のころは10歳くらいだろうか?小さな体が押しつぶされそうになるほどの悲しみに苛まれ、そして泣いていた。

「……祐一」

 彼の傍らに立つのは二人の少女。

少年と同じくらいの年だろうか。1人は崩れた雪ウサギを挟んで、悲しみに歪もうとする顔で必死に笑顔を作ろうとする。

「(……祐一君)」

 もう一人は彼の後ろに立ち、声にならない声で必死に少年へと呼びかける。

だが、彼女達の声が絶望と悲哀に沈んだ彼の心を引き上げることは決してなかった。

なぜなら彼の心に、彼女達の声など決して届いてはいなかったのだから。彼に残されていたのは苦痛、取り払いたいと願う心。

―キエテシマエ、ナニモカモ―

 ふと、彼はそう思った。

−コレハスベテ、ユメナノダ−

 それは逃避という、恥ずべき行為に他ならない。

彼の傍らにいる少女達を、心の底から裏切る行為なのだ。それをすれば、永遠に彼女達を失ってしまうのだ。

−ユメデイイ、ゼツボウナド……イラナイ−

 だが、彼に満たされた苦痛を解き放つにはそれ以外に方法はなかった。

忘却は心を凍らせ、凍った心は彼らの時を止める。

閉ざされた時、閉ざされた心。それは終焉?それとも封印?

−悲しいわねー

 誰かの声が聞こえた。

―悲しい、確かに悲しいだろう。彼女達を傷つけた挙句自分ひとりだけ逃げてしまう。それはあまりにも身勝手で、悲しいことだ―

少年は思う。

−でも、これは終わりではない。終わりのない、夢などない−

 確かに夢には終わりがある。

―この悪夢の先に何があるというの?みんなが悲しみに沈んで、その先に何があるというの?―少女は思う。

−それは、あなたたちが決めること−

 そう、未来を決定するのはヒトの意思に他ならない。

―ではボク達は、この閉ざされた世界で、どうすればいいというの?―

もう一人の少女は思う。答えはない。ただ、それでも彼女たちは思った。

「「待ち続けよう」」

 確かにそう思った。

 

彼が心を閉ざすなら、私たちが覚えていてあげよう。

そしていつか、彼が再びこの街を訪れることがあるというなら、そのときは微笑んであげようと。

 

 時の流れは、止まることはない。

 

雪は溶け、やがて春が訪れる。

太陽が世界を満たす夏がやってくる。

木々が色めく秋が来る。

そして再び、雪が世界を覆う冬の到来。

それは変わることのない時の移ろい。移ろわないものは、閉ざされた心。

 

時は巡った。変わらない流れを繰り返すKanon(追想曲)の如く。

 

 そして、7度目の季節の巡り。

 

 夢。

 長い夢を見ていた。

 

 遠い日の、遥か遠い日のKanonを……

 

               *

 

 雪。

 雪が降っていた。

 

 眼に映るのは、降りしきる白い結晶の群れ。吹き荒ぶ風は容赦なく体温を奪い、凍てついた大気は肺に痛みを与えてくれる。

そんな中で一人ベンチに座る自分は、まるで夢の続きを見ているようだと思った。

「……寒い」

 コートの襟を掴みながら、震える唇で相沢祐一は呟いた。どうやら寒さの所為で眠りかけていた意識を必死に引き戻し、視線を上げた。

「待ち人で凍死体…?洒落にならんぞ」

 時計を見ると午後三時。迎えに来る相手はいまだ影も形も見えない。気がめいったのか再び頭を垂れる祐一。

冷たい風はいまだ止まず、このまま雪に埋もれて明日の朝は雪像にでもなっているのだろうか、などと考えたときだった。

「雪、積もってるよ」

 不意に、風が和らいだ気がした。

 

微かに幼さを残すような、おっとりとした少女の声。

顔を上げると、頭に積もっていた雪が零れ落ちる。視線を上げれば、一人の少女の姿。

「……そりゃ、二時間も待ってるからな」

 ぼうっとした視線で、祐一は少女を見つめる。

 

 流れるような青く長い髪、夢見るような、それでいて優しげな大きな瞳。雪の白さにも勝るとも劣らない雪花石膏のような白い肌。白いケープをリボンで留めて、その下には臙脂色のワンピースタイプの服を着ている。

「え?今、何時?」

 間延びした口調。ゆったりとした独特の雰囲気。

「三時」

 祐一はこの少女を知っていた。知らないわけはない。彼が待っていたのは、紛れもなく目の前にいる少女なのだから。

「わ、びっくり。まだ、二時くらいだと思ってたよ」

 おっとりとしたスタンスを崩さずに少女は言う。因みに、それでも一時間の遅刻であることは言うまでもない。

「ねえ、寒くない?」

「寒い」

 少女は遅刻したことを詫びる様子もなく相変わらずの口調で問いかけ、そして祐一も律儀にそれに答える。

「これ、あげる」

 少女の手から、祐一の手に何かが渡された。凍てついた体に火をともされたように熱い缶コーヒーが一本。

「遅れたお詫びだよ。それと、再会のお祝い」

 たおやかに少女は微笑み、祐一と少女の視線が合う。

「お詫びとお祝いが、まとめて缶コーヒー一本か?7年ぶりの再会が、えらく安っぽいぞ」

「7年・・・そっか、もうそんなに経つんだね」

 感慨深げに少女は呟く。

「ねえ、私の名前、まだ覚えてる?」

 海の深淵にも似た青い大きな瞳。その瞳に祐一を映し、少女は訊ねる。

「おまえこそ、俺の名前覚えてるか?」

 頷きあい、2人は同時に言葉を発する。少女の小さな唇が動き、7年という年月を埋めるかのように言った。

「祐一」

「花子」

「……違う」

 少女は柳眉を下げて、むくれたように答える。下がった眉から、かすかに雪が零れ落ちた。

「次郎」

「私、女の子」

 その様子が面白かったのか、祐一は更に冗談めかして続けた。

「さて、行くか」

「待って、私の名前」

 祐一は鞄を担ぎ上げ、立ち上る。

「秋子さんも待っているだろうし」

「名前……」

そして、祐一はこの少女と過ごす時間に不思議な既視感を感じていた。

確かに自分はかつて、この少女と同じ時間を過ごしていた。それは紛れもない真実だ、そう思う。

この街に降る雪も、共にいた少女の姿も、かすかに様相を変えたこの街の姿も、祐一は確かに知っていた。

「行くぞ…」

 そして祐一は振り返り、少女に手を差し出す。驚いたように少女は祐一を見上げた。

「名雪」

「うんっ!」

 その言葉で呆けていたような顔が一転し、花が咲くような笑顔で少女は答えたのだった。

 

               Episode  1:the “memory” −Yuichi Aizawa−

 

 −何か、忘れている気がしていた。

それが忘れたいことなのか、それとも覚えていないのか、そんなことは解らない。

 ただ、その先に触れたくない。それだけだった−

                                  −Yuichi Aizawa−

 

「……いこうよ〜」

 どこか遠くで、幼い少女が自分を呼ぶ声が聞こえた。

「早く行かないと、お店閉まっちゃうよぉ」

 今度ははっきりと聞こえ、声の主の姿が見えた。

三つ網の青い髪をして、買い物籠を下げた少女の姿がそこにあった。

それは幼い日の名雪の姿。そしてその声をかけられているのは、幼い日の自分であると祐一は気がついていた。

「寒いから嫌だ」

「ずるいよ、約束したじゃない。それにそんなに寒くないよ、きっと。ね」

 小さく首を傾げて、名雪は微笑み、祐一の手をとった。そして外に出る二人。

「寒いぞ…うそつき」

 雪こそ降ってはいなかったが、吐く息は白い。

「嘘なんかついてないよ。祐一は気合が足りないんだよ」

「足りなくてもいい、帰る」

「う〜、じゃあ祐一の今夜の晩御飯は紅しょうが!お茶碗山盛りの紅しょうがに、紅しょうがをかけて食べるの!飲み物はしょうがの絞り汁」

 それでも名雪は負けていない。

従兄の少年がこうやって駄々をこねるのもいつものことであったし、なんだかんだと言いながらも、最後には付き合ってくれるのもいつものことであった。

「わかったよ」

 しょうがないやつだな、とかすかに笑い、祐一は名雪の買い物籠を手にとった。

 

雑談を交えながら2人は歩き、そして2人は商店街にたどり着いた。

「それじゃあ、ここで待っててね」

「はいはい」

「いなくなっちゃやだよ」

 念を押して、名雪が商店街の喧騒の中へと消えていく。

 

こうして2人が打ち解けたのは一体いつのことだったのだろう?

気がつけば祐一と名雪は、こうやって冗談を交えながら同じ時間を過ごす仲だった。それでも、そんなことを気にしたことはなかった。それは2人にとってはどうでもいいことであったし、こうして2人は同じ時間を共有していく、それが当たり前のことだったからだ。

そう…あの日までは。

 

               *

 

「どうしたの、祐一?」

 横を歩く名雪の声で、祐一は漸く我に返った。

そうだ、自分は7年ぶりにこの街を訪れて、傍らにいる従妹の少女と再会して彼女の家へ行く途中なのだ。

「いや、すこし昔のことを思い出していた」

「よかったね。思い出せて」

 我が事のように嬉しさを湛えた、名雪の微笑み。

「別に良かったわけじゃないだろ。何か不都合があるわけじゃない」

「そうかな、でも…思い出して欲しいって思っている人が一人でもいるなら、思い出したほうがいいと思うよ」

 かすかに名雪は目を伏せる。

「そうか…まあ、そうかもしれないな」

祐一には、何故かこの街に関する記憶がなかった。

祐一は幼い頃、よく休みになるとこの街を訪れていた。そこで知り合ったのが名雪であり、そして他にも知り合いがいた気がするが、何故か思い出せない。それが丁度7年前。それまでは、この従妹の少女と共に確かにこの町で時間を過ごしていた。

「そうだよ。祐一はこれからずっとこの街で暮らすんだから」

「……まあ、卒業まではそうだな」

 だが、祐一の心には明らかな拒絶の意思があった。

何故かなどわからない。唯一つ確かなことは、7年前の冬以来、祐一は一度たりとてこの街を訪れたことはなかった。事実、外国へ転勤するという親と一緒にいることを拒否しなければ、こうして再び名雪と出会うこともなかっただろう。

「祐一、ここ覚えてる?」

 大きなアーケードを指差しながら名雪は訊ねた。その両脇には様々な店が軒を連ねていた。

「名雪に脅されてついて行かされた商店街」

「う〜、私脅してないよ」

 ぷう、と名雪が頬を膨らませる。

「冗談だ。どうしたんだ?家はこっちなのか?」

「違うよ。お母さんにお買い物を頼まれていたから」

 言いながら、メモを取り出す。

「祐一も一緒に行く?」

「いや、俺はここで待ってるよ」

「解ったよ、でも祐一、勝手にいなくなっちゃやだよ」

不思議な既視感を感じていた。随分と昔にもこんなことがあったような、そんな気がしていた。

 

空に視線を向けて、近場の店に寄りかかる。

瞳を閉じてみた。また何か思い出せるのだろうかと思いながら……………

 

               *

 

「うぐぅ〜!そこの人どいてぇ!!」

 いきなり聞こえてきた声で、祐一は一気に現実へと引き戻された。誰かが走ってくる。多少興味を引かれて、声のしたほうに歩いていく祐一。紙袋を抱えた少女が走ってくる。

肩まで伸びた栗色の髪、頭には赤いカチューシャ、茶色のダッフルコートを身に纏い、背中には白い羽。

「羽?」

「あ、あぶないっ!」

 と、馬鹿なことを考えていた所為か、走ってきた彼女とものの見事にぶつかってしまう。

「いたた…、何なんだ?」

「うぐぅ、酷いよ!退いてって言ったのにぃ!」

起き上がった少女がそんなことを言ってくる。因みに紙袋は手放していない。

余程大事なものなのだろうか?

「よける間もなく突っ込んできたのはどこのどいつだっ!」

「と、話はあとだよ!」

 言うが早いか、少女は祐一の腕を引っつかみながら走り出す。

「待て、何で俺まで付き合わされるんだ!?」

祐一は怪訝な表情で少女を見つめる。

「ボク、追われてるんだよ!!」

が、少女のあまりにも真剣な気迫に気圧されてしまう。

「そ、そうなのか?」

「そうだよ!早く!」

気がつけば少女は祐一の手を引き、走り始めていた。

 

走る、走る、買い物帰りの主婦をかわし、雑談をしている学生を左に避けて、ひたすら祐一と少女は走った。ふと気になって、祐一は後ろを見てみる。白い調理服を着て、エプロンをつけた中年男性が「待て〜!」と叫びながら迫っている姿が見えた。

「どういう理由で追われてるんだ、お前は?」

「説明はあとだよ〜」

 結局、理由の解らない鬼ごっこは2人が商店街を走りぬけ、見知らぬ散歩道にたどり着くまで続けられたのだった…

 

「ありゃ、あいつはどうしたんだ?」

 いい加減走ることに疲れた祐一が近場のベンチに腰を下ろす。規則正しく並んだ並木の向こうで、羽のついた少女が息を切らせよろめきながら歩いてくる姿が見えた。男の姿は見えない。

「撒いたな。なら急ぐ必要もないか、少しここで休むとしよう…」

 そうして、大きく息を吸う。

 冬の町が持つ肺が痛むほどの冷気が、火照った体に心地よかった。

 

「うぐぅ〜、キミ、足速いよ……」

 おぼつかない足取りで漸く羽の少女がたどり着く。

「ああ、おかげでゆっくり休めたよ。ありがとう」

「うぐぅ…」

 と、少女も漸く息を整えて祐一の側に座った。

 不思議な相手だ、と祐一は思う。年のころは自分と大差ないのだろうが、その仕草の中には幼さと懐かしさが同居したようななんともいえない感覚を覚えさせた。大きな赤い瞳、くるくるとよく変わる表情。

「……で?どうして逃げていたんだ?」

 微かにこの少女に興味が惹かれた。。

「……それは、ボクの口からは言えないよ。無関係の人を、これ以上巻き込みたくないからね」

 立ち上がり、明後日の方向を見ながら、どこか白々しく少女は答える。

 怪しい、と思った。この上なく怪しいと思った。

「遠慮するな。おまえの逃走劇に付き合わされて、こんなところまで一緒に走った仲じゃないか」

 少女のコートの襟を掴み、さわやかな笑みと笑いのない視線を向けたまま、祐一は少女をそのまま引っ張って座らせた。

「うぐぅ…実は」

 観念したのか、少女がとつとつと話し始める。

と、唸る少女が後生大事に抱えていた紙袋に視線がいった。中身は香ばしい匂いのするタイヤキが見えた。

何か悪い予感がした。

「おなかが空いていたんだよ……そしたら、大好きなタイヤキ屋さんがあって」

 悪い予感が余計に大きくなっていく。

「で、買ったはいいんだけど……お金がなかったんだよぉ〜」

「……つまり、お前が一方的に悪いってことだろうがっ!!食い逃げ犯!!」

「だって、しかたなかったんだよぉ〜〜。それに後でちゃんとお金払うもん!」

 少女の答えに大きく溜息をつく祐一。なんでこう、立て続けに得体の知れないことが起こるのか。

「まったく、名雪に2時間待たされたかと思ったら、今度は食い逃げの共犯か…17で前科者とは、相沢祐一一生の不覚」

 かくん、と大きく祐一は肩を落とす。

「え…?」

 少女が祐一を見る。

「まさか…だよね?」

 驚いているような、或いは懐かしむような視線。

「どうした、ええと…」

 と、名前を訊いていない事に気がついた。

「あゆ…月宮あゆだよ」

「あゆ…?」

かすかな頭痛と共に、眼前の少女の姿がゆれる。

知っていた。確かに祐一はこの少女を知っていた。そう、あれは7年前、名雪と出かけた後のことだった……

 

               *

 

 どんっ!

「?」

 何かにぶつかられたような衝撃。振り返ってみると一人の少女の姿。

背中まで伸びた栗色の髪、頭には白いリボン、雪原のウサギのような赤い瞳。年の頃は祐一と同じくらいだろうか?

「うぐっ・・・えぐっ」

 少女はその瞳いっぱいに涙をためて、セーターの袖で涙をぬぐいながら、それでも止まらない涙を必死に拭っていた。

「おい…どうしたんだ?」

 いきなり自分に泣きついてきたような少女に、しどろもどろになりながら祐一は訊ねる。

「うぐっ…えぐっ…おかあさん」

 祐一の問いにも答えず、少女はひたすら嗚咽を漏らすのみ。

「どうしたのかしら」

「きっとあの子になにかしたのよ」

 と、気がつけば通行人達がいつの間にか集まり、不穏な噂話まで立ち上っていた。

「じゃあ、そういうことで」

 踵を返し逃げ出そうとする。

「……おい」

が、少女ががっしりと服の裾を掴んでいて動けない。

「ええい…いくぞ!」

 少女の手を半ば強引に掴み、幼い祐一はそそくさと逃げるようにその場を後にしたのだった。

 

「やれやれ…ここまでくれば大丈夫か」

息を整えながら、祐一は改めて少女を見た。

涙は止まっていたようだが、不思議そうに祐一を見上げていた。よくよく考えてみれば、お互いに名前も素性も知らないことに祐一は気がついた。

「俺は相沢祐一だ、お前の名前は?」

「あ…ゆ」

「あゆ?フルネームは?」

「あ…ゆ」

「あゆあゆ?」

「うぐぅ…違う」

 泣いている所為で上手く思考がまとまらないのかも知れなかった。

「もう一度、名前は?」

「あゆ…月宮あゆ」

「月宮あゆ、だな。なんだ普通の名前じゃないか?」

「うぐぅ…」

 少女は泣きながらも面を上げて、祐一を見る。

「どうした、人の顔をじろじろ見て?」

 少女は答えない。

実は少女は何も考えないで自分にくっついてきたのだろうか?そして自分はどうして知らない男の子と一緒にいるのか?と今更に考えているのかもしれない。

「まあ、いいさ。何も訊かないよ。人を待たせてる、そろそろ…」

−ぐう−

 と、祐一が去ろうとしたところで、返事の代わりに少女の腹の虫が一声あげた。

「……」

 少女は顔を紅潮させて俯く。

「腹、へってるのか?」

 祐一は笑うまでも卑下するまでもなく問いかける。

「ほら、そういう時は素直に頷く」

 漸く解るかどうかというところで、少女は頷いた。祐一もこのわけも解らず泣いているこの少女を放ってなどおけなかった。

「よし、何か食べたいものでもあるか?俺の買える範囲でなら奢ってやるよ」

「…たいやき」

「よし、たいやきだな。待ってろよ・・・」

 そう言って、祐一は歩き出した。

 

               *

 

「あゆ…そうだ…」

 商店街で出会った、泣いていた女の子。タイヤキを買ってやったことを覚えている。その子の名が確か…

「あゆあゆ」

「うぐぅ…あゆあゆじゃないよ!」

 ぷう、とあゆは頬を膨らませ、祐一を睨む。

それでも、記憶の中の少女とそのままイメージが重なるほど幼さを残したあゆの怒り顔は、恐ろしさよりも可愛らしさが先に映った。

「でも、帰ってきてくれたんだね。ボクとの約束、守ってくれたんだね」

 潤んだ瞳が、祐一に向けられる。

「ゆういちく〜ん!!」

 と、抱きつこうとあゆが飛び掛ってくる。

−さっ!−

 反射的に祐一は身をよじる。

「えっ?うわぁ!!」

−どし〜ん!!−

 勢い余ったあゆは、そのまま街路樹に正面衝突と相成った。

「うぐぅ!?祐一君が避けたぁ!」

したたかに顔面を打ちつけたあゆが、涙目で祐一を見つめる。因みに今回の涙は、当然痛みによるものである。

「いや、二度もタックルなんぞ喰らいたくないからな」

「タックルじゃないよ!」

 童謡のトナカイよろしく、あゆが真っ赤になった鼻を押さえながら抗議の声。

「箭疾歩?」

「それは太極拳だよっ!っていうか根本的に勘違いしているよっ!」

 あゆが両手を振って否定する。因みに箭疾歩とは拳を突き出しつつ踏み込んでいく太極拳の技である。

「じゃあ何なんだ?」

「感動の再会シーンだよ!!」

 まったく、感動の再会で街路樹とキスしたのなんてボクくらいだよ、とあゆがぶつぶつと文句を言いながら立ち上がる。

「悪かった、大丈夫か?」

 言いながらあゆの頭についた雪を払い落とす。

あゆは一瞬驚いたような表情で祐一を見上げるが、すぐに撫でられた子犬がじゃれ付くように、祐一の手の動きにくすぐったそうに頬を染めていた。

「うん…祐一君、やっぱり変わらないね」

「そりゃあな、生まれ持った体がそう簡単に変わるわけはないだろう」

 その言葉に、あゆは静かにかぶりを降る。

「違うよ。祐一君のこういう優しいところがだよ」

 屈託なく微笑んで、あゆは言った。そして思わずあゆを見つめる祐一。

その後ろには街路樹、木、そしてあゆと自分。

確かにこのシチュエーションは記憶にあった。だが…何か、何かを忘れているような、そんな気がしていた。

そして同時に心のどこかが「それを思い出すな」と警鐘を鳴らしているようにも思えた。

「どうしたの、急にぼおっとして?」

 と、あゆが上目遣いに祐一を見つめていた。

「わっ!?」

 急にかけられたあゆの声に驚き、思わず祐一はあゆの体を突き飛ばす。

「うぐっ!?」 

 そのままよろめき、近くの木に今度は背中からぶつかるあゆ。どさどさ、と音を立てて枝の上に降り積もった雪が、落ちてゆく。

「祐一君、酷いよ」

「いや…すまん」

 流石に今度は祐一も素直に謝った。と、そのときだった。

「きゃっ」

 聞きなれない声が聞こえた。思わず2人はあたりを見回した。

 

               *

 

 声の主はあっさり見つかった。

栗色のボブカットの髪、青い瞳、名雪とは違い、病的と言えるほど白い肌。白いセーター、チェックのスカート、そしてその上に茶色のストールを羽織っていた。

彼女の周りにはコンビニの袋と、袋の中身と思しき荷物が散乱していた。駄菓子、小さなぬいぐるみ、筆記用具、黄色いカッターナイフ。更に彼女の頭の上にはうっすらと雪が積もっている。

「えっと…いかんぞあゆ、人に雪なんかかけちゃあ」

「…まるでボクが悪いみたいな言い方だね」

 とりあえずあゆに責任を押し付けるという作戦は失敗したな、と祐一は思った。

「祐一君、なにか酷いこと考えてなかった?」

「いや、気のせいだ……ええと、大丈夫か?」

 内心の動揺を微塵も見せずに、祐一はとりあえず少女に手を差し伸べる。

「………」

 少女は戸惑っているのか、祐一とあゆを交互に見比べながら目を瞬かせていた。

「あ、ごめんね、拾うよ」

 と、あゆが少女の荷物を拾おうと、手をカッターに伸ばしたときだった。

「……っ!」

 と、少女があゆから奪うようにカッターを握る。

「え…あ、あの、自分で拾いますから」

「う、うん」

少女の言い回しは、どこか『見られたくないものを見られた』かのように思えた。

その剣幕に押されたのか、あゆが手を引っ込める。

「いかんぞあゆ。人様のものに何でもかんでも手を出したら」

「拾おうとしただけだよっ!」

 あゆが頬を膨らます。少女は荷物を拾いながら、そんな2人を交互に見つめていた。

「でも、すごい大荷物だね」

 あゆが少女の抱えた袋を見て、感心したように呟く。

「…私、あまり外に出ないので、こうして時々まとめ買いするんです」

 ふうん、とあゆが頷く。

「それでは、私はこれで」

 一礼して去っていこうとする少女。何故だかわからない。だが、祐一は思った。

−また会いそうな気がする−

 と。

 

               *

 

「うそつき…」

あゆと別れ、商店街にたどり着いたときは、すでに夜の帳がおちようかという時間だった。

そして彼を迎えたのは、従妹の少女の拗ねた顔と言葉だった。

「…ごめん」

「荷物持って」

「はい」

 平謝りしながら、名雪の鞄を無言で持つ祐一。

「…そういえば、昔にもこんなことあったよね」

「?」

名雪の後ろにいる祐一は、彼女の表情を窺うことはできない。

ただなにか、深い悲しみがあるような気がしていた。それでも、それはほんの僅か。

「イチゴサンデー」

「イチゴサンデー?」

 最初に出会ったときと同じ表情で、名雪は微笑んだ。

「『百花屋』さんっていうイチゴサンデーの美味しい店があるんだよ」

「…解った。今度いっしょに行こう。それでチャラ?」

「うん、それに私も祐一を待たせたから、これでおあいこだよ」

 祐一を上目遣いに見つめ、名雪は言う。

「いこう?」

名雪が祐一の手をとり、走り出す。

冷たい大気が二人の前を流れていく。茜色に染まった西の空だけが、赤く染まって走りゆく二人を見つめていた。

茜空。何かを思い出しかけたような気がしていた。だがそれは決して浮かび上がってはこない。

「そうだな…」

 苦しい真実があるとしても、せめて今だけは安寧の時を。

 なぜかそんなことを祐一は考えていた。

 

暫く雑談を交えながら歩き、やがて2人は大きな一戸建ての前で立ち止まった。

白い壁、二重窓、庭の木々。この家は記憶にある7年前となんら変わらぬたたずまいでここに存在していた。

「お帰りなさい」

 一人の綺麗な女性が出迎えてくれる。藍色の髪を三つ編みにまとめ、白いセーターの上にピンク色のカーディガンを纏っている。

名雪とはまた違った独特の雰囲気があり、見るものを穏やかな気持ちにさせるような感じがした。名雪とよく似た微笑をする女性の姿もまた、7年前と変わらないと祐一は思う。17の娘がいるとは思えないほど若く見える不思議なこの女性は、祐一の母の妹であり、名雪の母。

「ただいま、お母さん」

「おかえり、名雪」

 そして、女性は祐一を見つめ、たおやかに微笑む。

「お久しぶりです。おかえりなさい祐一さん」

「これからよろしくお願いします、秋子さん」

「祐一、違うよ」

 と、名雪が横から声をかけた。

「帰ってきたときは、ただいま、だよ」

「そっか、そうだな」

確かに自分は7年前ここにいたのだ。なら、そう言うのも悪くないだろう。

7年ぶりに再会した従妹の少女と、微笑を絶やさないもう一人の母親に対して。

「ただいま、名雪、秋子さん」

「おかえり」

「おかえりなさい」

 

「家族が増えて、嬉しいわ」

3人で夕餉を囲みながら、秋子が言った。

確かにこの家は、2人で住むにはあまりにも広い。いや、祐一を加えて3人になっても、まだ余るくらいだった。

「そういえば、祐一、どうしてまたここに来られることになったの?」

 至極当然の疑問を、名雪が言う。

「ああ、うちの親が転勤で海外に飛ばされることになってな、それで英語もろくに話せん人間が海外転校なんて御免だった。で、一人暮らしを提案したんだ」

「わ、祐一、家事は全部一人でできるんだ」

 名雪が感嘆の視線を向けた。

「いや、自慢じゃないが何もできん」

「祐一…」

「それで、でしたら私が引き取るということになったのよ」

 頬に手を当てて、秋子が言った。

「そうだね、祐一一人にしておくのは私も心配だよ」

「…さりげなく酷いことを言ってないか?」

「秘密、だよ」

 楽しそうに名雪は笑う。

「でも、こんなに楽しい食事は久しぶりですね。今までは、ずっと名雪と2人でしたから」

 水瀬家は、祐一が初めてここに来たときからずっと母子家庭だった。それが何を意味するのかは祐一も知らない。

それでも決してその事を尋ねたりはしなかった。不躾な質問で気まずくなるのも嫌だった。ましてやこの暖かさを壊すことになるかもしれないのだから尚更だった。

「しがない居候ですが、よろしくお願いします。秋子さん」

「いいえ、違いますよ」

 秋子は小さくかぶりを振る。

「居候じゃなく『家族』ですよ」

 

               *

 

「ふう、食った食った」

「祐一、いっぱい食べてたもんね。お母さんも喜んでるよ」

食事が終わり、名雪に案内されて祐一は2階の部屋に来ていた。

綺麗に掃除されたフローリングの部屋で、窓際にはベッドと机、そして本棚が置かれていた。

「あれ、これは?」

「お母さんが用意してくれたんだよ。必要でしょ?」

「そりゃそうだが、何か悪い気がする」

「いいんだよ、お母さんがそうしたいんだから。それより、片付けよう?」

 そして、逆の壁を見ると、山と詰まれたダンボール。言うまでもなく祐一の荷物である。

「そうだな、そうするか」

「ふぁいとっ、だよ」

 逆に気の抜けそうな名雪の声と共に、2人は片付けを始めた。

 

「あれ、これなあに?」

名雪が手に持っているのは、小さなカチューシャだった。

子供用なのかサイズは小さく、表面に何かどす黒い汚れがこびりついている。

「覚えがない…な」

 祐一は手渡されたそれを取ってみるが、こんなものを入れた覚えはない。どす黒いのは血だろうか?干からびた血液の色によく似ていた。

「まあいいや、それよりありがとう」

 名雪の手伝いもあって、割合早く片付けは終わっていた。明日から学校が始まる。息つく間もなく新生活が始まろうとしていた。

「と、そうだ名雪」

 そこで、祐一はひとつ重要なことを思い出した。

「どうしたの?」

「目覚まし時計、持っていないか?」

「うん。何個あればいいかな?」

「……何個もあるのか?」

「ちょっと待って、持ってくるから」

 

「どれがいい?」

「……」

しばらくして戻ってきた名雪は、両手に抱えきれないほど大量の目覚ましを抱えていた。

カチカチと大量の時計が合唱する姿は、なかなかに壮観である。

「……趣味で集めてるのか?」

「そういうわけじゃないけど、どうする?」

「名雪が選んでくれ」

 別に時間通りに作動するのなら、この際何でも良かった。

「ならこれがいいよ」

と、名雪が一番上に乗っていた白いアナログ式の時計を手渡した。

「じゃあ、借りるな」

「うん、それじゃあ、もう寝るね。明日も早いから」

「ああ、じゃあな」

 名雪に軽く手を振って祐一は答える。

「祐一、違うよ」

 名雪が首を振る。

「?」

「夜は、おやすみなさい、だよ」

「そうだな、お休み、名雪」

「うん、おやすみなさい、祐一」

 そんな名雪の様子に苦笑しながら、祐一は答えた。

 

……かくして7年の時を経て、Kanonは動き出すことになるのであった。

                               Episode 1:”Yuichi Aizawa” end


Episode  2
戻る