Episode 3:destructive happiness
どこまでも雪は降り続き、全てを白く染め上げる。
ああ、どうか願わくば。
私のあの子もそれを願い、
忘却がそのために必要というなら、それもいとわないと私は思う。
たとえあの人が忘れても、あの子が忘れることはない。
「あんた・・・なのか」
「頼まれたからです」
「あなた達の間にいる、その子に」
約束、一体俺達は何を約束したというんだ。この見知らぬ少女と。
「ところで、一つ申し上げてもよろしいですか」
「どうして・・・・・そのお子さんを一人ぼっちにしたのですか?
この女、何か知っている以前に、絶対俺達の関係を勘違いしていると・・・・・・
「なるほど、お話は大体判りました」
「まあ、そうかもしれないが」
「そうかぁ?」
冗談はともあれ、鏡と上目遣いで二人を見ているセネカを見比べてみた。
・・・確かに髪の色や笑い方は名雪に似ていた。
「まあ、似ていなくも無いか」
「ところで、だ」
微かに考えるようなしぐさを見せ、美凪は頷いた。
美凪の父はこの駅に勤める駅長だった。最も、駅員一人という小さな駅だったが。
びゅうっつ!!
一際強い風が吹いた。
海辺のこの町は、冬になると季節風を伴う海風が吹き寄せる。
除雪車が入ったおかげで辛うじて道が出来ている歩道を必死に歩く。
だからこそ、この険しい白い道を歩くことも苦しくは無かった。
「おとうさん・・・います?」
「っと。もうすぐ次の列車が来るな。美凪は中で休んでなさい」
魂を失ったかのように虚空を見つめ、
美凪は立ち上がり、外に出る。
「・・・・・・どうしたのですか?」
「・・・・・・・」
「お父さん、わたし調べてみます」
とりあえず、リュックに積もった雪を落としてみる。
「ああ、水瀬さんですか?私はJR・・・線の・・・駅の駅長を務める遠野と申しますが。
「・・・ああ、ごめんね」
「ええと・・・水瀬さん」
「じゃあ名雪さん、君の親戚に、相沢祐一君という人はいないかな?」
「やっぱり、君は知っているんだね」
「ああ、列車を間違えて、ここに来てしまったらしい」
「・・・線の・・・駅だよ。名雪さん」
「あ、ちょっと・・・」
加えてこの記録的な大雪である。
「君は・・・水瀬名雪さんだね」
*
だが、祐一と名雪が決定的に違うところがある。
祐一には思い出すなら名雪のほうが先なのか・・・と思えた。
「話を続けましょうか・・・」
「すいませんでした・・・いきなり泣いて」
「いや、別にいいんだ」
余計な詮索はこの子達の傷痕を広げるだけだ。
「それより、今日はもう遅い。今日は家に祐一君と泊まっていきなさい。
「ああ。それに、祐一君を一人にしてはおけないだろう?」
「とっても、とっても悲しい出来事があったんです」
「祐一は、いつも冬になると、私のところに遊びに来ていました」
「でも、今年の冬、祐一は一人の女の子に会ったんです」
「祐一は、その女の子と仲良くなっていきました」
「でも、その女の子が、事故にあってしまった。
「祐一が、壊れてしまった・・・
「祐一・・・どうすれば・・・」
−それは、とても辛いことがあったから−
−もしかしたら、祐一さんはここに関する全てのことを、永遠に否定するかもしれない−
−だから、私たちは祐一さんを好きでいてあげましょう−
−もし、祐一さんの心が癒されて、またこの街を訪れるとき、笑顔で迎えてあげるために−
−できるわ、だって・・・−
名雪は、祐一さんのことが、本当に好きなのだから・・・・・・・
その日、名雪はもういちど泣いた。
想い人が、いつか必ず自分の名前を呼んでくれることを信じながら・・・
そうしてどれくらいすごしていたのか解らない。
「ずいぶんと長く、話し込んでしまいましたね」
「・・・・・覚えている、私」
「名雪・・・」
宿で本当に家族と言わなきゃならんのか・・・?
と、考えると頭痛がしてきた。
「でしたら・・・じゃん」
「・・・・・鍵なら錠前がセットだが、錠前は?」
「この街には、宿はそんなにありませんし、私が掃除してますから綺麗ですよ」
「そうですか・・・なら、使わせてもらいます」
こうして3人は、とりあえずの家を構えることになった。
「う〜、風が気持ちいいねえ」
あきらかに気を使っていた。祐一やセネカに対して・・・
「なあ、せっかくだから晩飯の買い物にでも行かないか?」
「手、つなごうか」
それは他人が見れば、仲の良い若夫婦とその娘に見えただろう。
「なんか、嬉しいね・・・仲のいい家族みたいで」
それでも祐一は、セネカの言葉を否定する気にはならなかった。
どんなときでも、側にいてやる。
案外、これは俺と名雪にとってのディシプリン(discipline/試練)なのかもしれないな・・・・
落日の光景を見つめながら、祐一はそう思った。
「お、ここいらで見ない顔だけど、新顔かい?」
「うんと〜・・・・・・これなんかおいしそう」
っていうか、俺達ってやっぱり親子に見えるんだな・・・
それでも家庭をもったら、こんな感じなのかなと思った。
意外にオムレツを上手く焼くのは難しい。
「私の自信作だよ♪」
秋子直伝と言うだけあって、専門店の料理人顔負けの出来だった。
「ママの料理、美味しいよぉ」
「秋子さんか・・・まあ、あの人は名雪よりもっとすごいな」
更に想像を進める祐一。
−セネカちゃんのために、お料理がんばったのよ−
ジャムドレッシングの海鮮サラダ・・・
「秋子さんが笑ってあの魔性のゲルを大量にセネカに投与する・・・・・・
「でも、一度会ってみたいな」
一応忠告はしておいた。後でどうなっても俺は知らん。
「祐一、なにか酷い事考えてない?」
「・・・・・・ママと一緒に、入りたくない?」
「ママーっ!パパがぁ、一緒にお風呂に入ろうって!!」
「う〜、やっぱり見てるよ〜」
って、いかんいかん。セネカもいるし。
と、慌てて理性を総動員させて煩悩を打ち消す。
「早く早くっ!」
何だこれは?
祐一の頭に疑問が浮かぶ。
近くの森から聞こえる虫達の鳴き声は、静かな夜を彩る無上の音楽。
祐一は一人、湯上りにベンチの上に寝転んで、その空を見つめていた。
−雪、積もってるよ−
−ふぁいと、だよ−
−朝〜、朝だよ〜、朝ごはん食べて学校行くよ〜−
−私・・・もう笑えないよ−
−私の・・・気持ち−
−ずっと、祐一のこと・・・好きだったよ−
いくつもの二人の記憶。
そもそも、あのときに俺に外を知覚することが出来たのか?
「祐一」
シャンプーの香りに混じる、名雪の香り。
「セネカのやつは、もう寝たのか?」
「やれやれ・・・扶養家族は気楽なもんだ。人の苦労も知らないで」
「なあ、名雪」
「祐一、酷い」
「だから、ハッピーエンドを目指そうね」
それでも、エンドという言葉は嫌で、
「たわけ」
「エンドを目指すんじゃないだろ?俺と一緒に歩こう、って言ってくれ」
「うん、そうだね」
どこまでも空は続き、星達は瞬き続ける。
To be continued.......
月宮あゆ
ボクは、はじめて旅に出た。
そして、秋子さんの先生。
それが、あの二人の約束の鍵だった。
次回、" Kanon" side story "Nayuki's discipline time"
Episode 4:shuttered memories
閉ざされたモノが、姿を現す・・・・
mail:b963008t@tobata.isc.kyutech.ac.jp
−壊すという、幸せ−
その中で紡がれる記憶は、冷たく、そして儚い。
あの人の心は悲しみに染まり、
押し寄せる現実はその小さな心を押しつぶす。
その小さな体と心が、潰れないように。
届かぬ想いをかき集め、
そうして、あの人の側にいる。
だから私は、信じたい。
あの子の想いが、あの人に届き、
いつかまた、あの時のように笑いあえることを。
記憶を壊すことで得られる幸せも、今のあの人には必要不可欠。
それがあの子なのだから。
だから私は、信じたい。
いつか今日という日が思い出に変わり、
二人の絆の、糧となることを・・・・・・
-Akiko Minase-
1
3人は、美凪と名乗るその少女と向かい合っていた。
さあ、と俺達の間を海からの風がぬけて行く。
祐一には、自分でも何を言っているのかわからなかった。
「はい」
しかし、美凪は小さく頷く。全てを理解しているかのように。
「あなたに葉書を出したのも、かつてあなた方と出会ったのも、私です」
美凪は彼らを見つめながら、透き通るような綺麗な声で言った。
「何のために、だ?」
再び、祐一は問う。
まだ全てを思い出したわけではないからだ。
「頼まれた?誰にですか?」
名雪がおずおずと訊ねてくる。
セネカを見つめ、美凪は言う。
「セネカが・・・?」
祐一は傍らにいるセネカを見つめた。
セネカは二人を見つめ、そして言葉を紡ぐ。
「そうだよ、パパとママの約束してくれた時間になったから、セネカが頼んだの」
セネカはいつものように笑いながら、答える。
祐一の中の疑問が余計に大きくなっていく。
美凪がいきなり言ってくる。ずい、と顔を近づけ、名雪と祐一を交互に見た。
「は、はい」
名雪がまじめな顔で直立不動。
親の使命を放棄することは、許されることではないと思うのですが」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
絶句する祐一と名雪。祐一は思った。
*
それから30分後、とりあえず祐一と名雪がここに来ることになったいきさつ、
そしてセネカと出会ったことを話した。
納得したように美凪が頷く。
「っていうかあんた、俺達がこんな大きな子供がいるほど年増に見えたのか・・・?」
嘆息しながら祐一が言った。
「いえ、とてもお二人に似ていらっしゃったので。てっきりご家族かと」
しれっと美凪は言う。
最も、確かに祐一も名雪に良く似ているのは認めていた。
「そうだね。祐一に結構似てるよ」
ニコニコ笑いながら名雪が続いてくる。
自分には似ているとは思えなかった祐一が唇を尖らす。
「そうだよ、ほら」
言いながらコンパクトを取り出して、中の鏡を祐一に見せた。
コンパクトの中の自分の顔と興味津々といった面持ちで二人を見ているセネカと見比べる祐一。
「うむ、なかなかの美男子だ」
「祐一、ふざけない」
祐一のボケに的確に突っ込んで来る名雪。
洒落のわからないやつだ、と祐一が舌打ちする。
が、瞳の色や輪郭はどちらかといえば祐一よりかもしれない。
最もどちらかと言えば祐一は端整、というよりは中性的な顔立ちである。
いわゆる女顔なので、そのせいもあるのかもしれないなと祐一は思う。
とりあえず無難に答えておく。
そこで祐一は話を切り出し始める。
「あんたは、例の8年前の冬のこと、どこまで知っているんだ?」
ともあれそれを知らなければ話にならないからだ。
「お二人とも、忘れてらっしゃる?」
頷く祐一と名雪。
「そうですか・・・まあ、ずいぶんと昔のことですから。お時間、よろしいですか?」
微かに寂しげな表情を見せたのは気のせいだろうか?
どことなく美凪の口調が重い。
「ああ」
「判りました、お話しましょう」
2
8年前のことである。
美凪の冬休みの日課の一つに、身重の母に代わって駅に勤める父に昼食を届けることがあった。
その日も、いつもと変わらない日々のはずだった・・・
美凪はコートについているフードを深く被りなおし、
母から預かった父の弁当が入ったランチボックスを握り締めた。
雪は荒々しく舞い落ち、極度に下がる気温は呼吸すら苦しくさせる。
そんな街を、美凪は歩く。
こんな雪の日も、雪国の鉄道には日常茶飯事だった。
当然、駅員は列車を走らせるためにこの吹雪の中、整然と立って任務を果たす。
美凪にとって、そんな父は誇りだった。
やっとの思いで駅にたどり着いた美凪が、駅員室に声をかけた。
「ああ、ご苦労様。疲れただろう?こっちでお茶でも飲みなさい」
ジャンバーを着た、温和な顔つきをした男が顔を出す。
それが美凪の父だった。
立ち上がり、ホームに列車を迎え入れるために出て行く美凪の父。
「はい。ありがとう」
入れ替わりに駅員室に入る美凪。父の性格に相応しく、小奇麗にまとめられた部屋だった。
「あつい・・・けどおいしい」
父の入れてくれたお茶を飲み、なんともなしに窓の外を見つめたときだった。
「?」
不意に、列車から降りてきた人々の中に、自分とさほど年が変わらないであろう少年の姿を見つけた。
ふらふらとおぼつかない足取りで少年は雪の積もったホームを歩いていた。
美凪の父は気がついていない。
やがて少年は糸の切れた人形のように膝をつき、そして倒れた。
先ほどと変わらぬ吹雪に転びそうになるが、何とか少年の元にたどり着いた。
外は氷点下の世界だ。
倒れて眠れば、命は無い。
少年の顔は、能面のように冷たく、表情が無い。
美凪に声をかけられたことすら、気がついていないのかもしれない。
「・・・・・・お腹でも、空かれましたか?」
少年は答えない。それでも放っておくわけにはいかなかった。
少年の手を肩にまわし、なんとか立ち上がらせる。
放ってはおけなかった。
その瞳の奥にある何かが・・・深い悲しみをたたえていたから。
*
「迷子・・・なのかな」
とりあえず駅員室に少年を迎え入れ、話を聞こうとする。
しかし少年は、美凪の問いにも父の問いにも答えず、虚ろな目で椅子に座るのみ。
まるで重度の鬱病患者のように、何にも反応すらしなかった。
美凪は、少年の持っていたリュックを手にとっていた。
「いいかな?こんなことをして?」
それでも人の荷物を勝手にあさるのは相手が子供でも抵抗があった。
務めて優しく、美凪の父は聞いてみた。
「・・・・・・・」
少年は黙して答えない。
「仕方ないか・・・私はまだ仕事があるし、美凪、頼むよ」
「はい」
するとネームプレートがついていることが解った。
「相沢・・・祐一さん・・・ですか?」
少年を見るが、反応は無い。
「・・・では、相沢さんと呼びます。リュック、開けますね」
一応断りは入れておく。
リュックの中身は、着替え、教科書とノート。それと切符の入った封筒。
「相沢さん、ここから・・・いらっしゃった?」
切符に書かれた地名を尋ねるが、やはり少年は答えない。そのときだった。
「水瀬・・・?」
封筒に書かれた紙に入っていた、水瀬という名前と電話番号。
「・・・・・てがかり、ですね」
とりあえず、手がかりはそれだけだった。
「どうだった?」
やがて、父が戻ってくる。
「こんなものが・・・」
例の紙を見せた。
「ふむ・・・わかった。電話してみよう」
そう言って、受話器をとった。
ああ、お嬢さんかな?申し訳ないんだけど、お母さんかお父さんに代わってもらえないかな?」
どうやら受け取ったのはその家の子供らしい。
−祐一!?−
受話器を通してでもその女の子の声は聞こえてきた。どうやら当たりと美凪は思った。
「・・・・・・切れてしまったなあ」
嘆息して、受話器を元に戻す。
「知り合いでしたか?」
「ああ、祐一君のいとこという名雪さんという人が電話に出た。
多分、美凪や祐一君と同じくらいかな」
「それで、どうなったのですか?」
「ここの場所を聞いて、それで切られたよ。どうやら、そのうち名雪さんも来そうだ。
そういえば、今思い出したよ。列車に乗って、行方不明になった男の子がいたらしい。
多分、彼がそうなんだろう」
言って、管内の路線図を見る美凪の父。
「警察にも知らせるべきでしょうか・・・?」
「一応は知らせるが、当てにならないだろうな。
火事騒ぎの後始末でてんてこ舞いだ。動くのは時間がかかるだろう。
それに、この大雪の所為で道が塞がれている。そっちの方で手一杯だよ」
少し前に町外れの森にある教会で大火事があり、死傷者を出す騒ぎが起きていた。
いまでもその残務整理に追われていた。
そちらのほうの対応にも追われていた。というよりこちらの方が深刻だった。
聞いた話だと、雪崩で幹線道路が封鎖されたらしい。その所為でまたもや職員総出で除雪作業。
今やここは、鉄道以外は陸の孤島だった。
3
青い髪を三つ編みにした少女が、ここに飛び込んできたのはそれから数時間してからだった。
「祐一は!?祐一はどこですか!?」
少女は美凪の父の足元で、必死に叫ぶ。
名雪の側にしゃがみこみ、美凪の父が問う。
「はい、そうです、祐一は、祐一は!?」
その必死の表情は、心の底から祐一を心配していることがわかった。
これほど心配してくれる人がいながら、祐一というあの少年はいったい何ゆえにああなったのか。
そんなことを美凪の父は思った。
「ああ、こっちだよ」
言いながら案内する。
「祐一!?」
部屋の中に入るなり、開口一番名雪が叫ぶ。
「・・・・・・・」
しかし名雪の叫びにもかかわらず、祐一は黙して応えない。
「ゆういち・・・?私だよ・・・名雪だよ・・・分らないの?」
呆然としながらも、名雪は必死で祐一に呼びかける。
しかし祐一は何も応えず、虚ろな瞳でただただ呼吸を繰り返すのみ。
「祐一・・・祐一ぃぃぃぃぃぃぃ!!」
名雪の悲痛な叫びが、小さな駅舎に響いた・・・・
「そんなことが・・・・?」
一息入れましょうか、といって話を止めた美凪の言葉に、祐一は絶句する。
「・・・・・・・」
名雪はいつに無く苦しそうな表情で、美凪を見ていた。
忘れていた記憶の門扉が、音を立てて開くというところか。
祐一はあの時、精神崩壊に近い状態にあった。
しかし名雪は、正常な心でここに来たのだ。
つまり、祐一はそのときの記憶を『最初から持っていない』可能性もある。
だが名雪は違う。
自分で封じたのか、或いは何らかの理由があったのか記憶を『持っている』のだ。
そして、また辛い思いを名雪に強いるのかとも。
そして再び、美凪の昔語りが始まった。
*
泣きつづけた名雪もようやく落ち着いたのか、立ち上がって美凪と父に頭を下げた。
いきなり泣いたのは恥ずかしかったのか、俯きがちに顔を上げる。
そっと名雪の肩に手を置いて、美凪の父は笑った。
ならばそっとしておいてあげようという気遣いだった。
君のお母さんには私から連絡しておいたから」
「いいんですか?」
泣きはらした目を擦りながら、名雪は問うた。
祐一は相変わらず何の反応も示さない。
「美凪、母さんには言っておいたから、この二人を連れて行ってくれないか?」
「はい。ええと・・・私から名乗るべきですね。私は遠野美凪です」
ぺこり、とかわいらしく頭を下げる美凪。
「あ、ありがとう。私、水瀬名雪です」
小さな女の子二人が頭を下げて自己紹介する様は、なんだか微笑ましいなと美凪の父は思った。
*
「あらあら、いらっしゃい。よく来たわね」
美凪の母は、快く奇妙な二人を迎え入れてくれた。
マタニティドレスにエプロンといういでたち。
あと4ヶ月もしたら、私に妹が出来るんですと美凪が言っていた。
「お、お世話になります」
と名雪が頭を下げ、
「ほら、祐一も」
一応祐一の頭を無理やり抑えて頭を下げさせた。
「ふふ、さあどうぞ」
美凪の母は微笑み、二人を招きいれた。
*
「お風呂、一緒にどうですか?」
「一緒に入るのも、楽しいわよ」
暖かい食事に、石油ストーブの暖かさ。それが名雪に落ち着きを取り戻させていた。
そんな名雪に声をかけたのが美凪と美凪の母だった。
「は、はい」
暖かい湯船につかると、体にまとわりついていた重たいものが溶けていくような気がしていた。
長いこと列車に揺られて、祐一を抱えるようにしてここまで来たのだ。
幼い体には、酷な一日だった。
「なんだか、お泊り会みたいですね」
「あ・・・そうですね」
「後でみんなで背中の流しっこでもしましょうか」
美凪と母の穏やかな物腰に、名雪は少しずつ緊張がほぐれていくのを感じていた。
だからこそ、話せたのかもしれなかった。
ぽつり、ぽつりと名雪が話し始めた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
その子は・・・祐一の目の前で、冷たくなっていって・・・」
ぐっと名雪が小さなその拳を握る。
私がいくら話しても、
お母さんがなにをしても、祐一は答えてくれなくて・・・そして」
湯船の水面にぽとり、とこぼれる涙の雫。"
「大丈夫よ・・・」
美凪の母が名雪を抱きしめる。
「本当に、名雪さんは祐一さんのことが好きなのね・・・」
「・・・・・・」
そっと名雪の小さな頭を撫でて、美凪の母は言った。
「大丈夫、本当に祐一さんのことを思っているのなら、いつか必ずあなたのことを思い出すわ」
「でも・・・・・・」
「信じてあげましょう・・・あなたが信じれば、きっと大丈夫」
美凪が続いた。
「あはは・・・・・二人とも、お母さんと同じこといってる」
笑いながら、泣く。
或いは、泣きながら、笑う。
*
思い出される、あの日の秋子と自分の言葉。
祐一を待ち続けながら、しかし祐一は現れなかったあの日。
−名雪、祐一さんは心を閉ざしてしまった−
−・・・うん−
一人ぼっちで雪のベンチに座り続ける名雪に、秋子は言う。
−うん・・・解ってる−
名雪の頭に積もった雪をほろい落とし、傍らにしゃがみ込んで視線を合わせた。
−・・・そう、なんだ−
傘を開き、名雪を迎え入れた。
−お母さん?−
そして、名雪は初めて秋子の顔を見つめる。
穏やかさと優しさをたたえた母の微笑みは、変わらず名雪を迎え入れた。
−できるかな・・・−
4
いつの間にか、日が傾きはじめていた。
そのあまりにも衝撃的な内容に、誰もが言葉を失っていた。
快活さを絵に描いたようなセネカですら、言葉をおさめていた。
気がつけば遠くではカラスの鳴く声が聞こえ、夕暮れの斜光が4人を赤く照らしていた。
彼らは何も言わず、ただ、そこにいるだけだった。
沈黙を破ったのは、美凪だった。
名雪が呟くように唇を開いた。
「でも、まだだよ。もっと大事なこと、私忘れてる。それは美凪さんも知らないことだと思う」
自分を抱きしめるように肩を掴む名雪。心なしかその体が震えてるように思えた。
「ママ・・・」
祐一が名雪の肩にそっと手を置き、セネカが心配げな視線を名雪に向ける。
「あ・・・大丈夫だよ・・・心配、しなくても」
作り笑いを浮かべながら、名雪が答える。
それは、すごく痛い笑顔だと祐一は思った。
*
「ところで、皆様方はこれからどうなさいますか?」
「ああ、近くで宿でも借りようかと思っていたんだが・・・・・・」
答えて、セネカがいることを思い出した。
相沢祐一18歳、8歳の娘の父親・・・笑い話にもならん。
いきなりどこからか熨斗袋を取り出す美凪。
流暢な字で『進呈』と書かれていた。
「どうぞ」
いきなり祐一の手に、その熨斗袋を手渡した。
「進呈・・・?」
名雪も流石に目を白黒させていた。
中に入っていたのは、鍵が一つ。
「あそこです」
俺のボケを素で返す美凪。こいつは意外とつわものかもしれん、と祐一は思った。
そして美凪の指先には、今は廃線となった駅舎があった。
そういえば、街を歩いていても宿泊施設の類はあまり無かった気がしていた。
「いいんですか?」
名雪が遠慮がちに訊く。
「いいですよ。文字通り『同じ釜の飯を食った』仲ですから」
名雪に答える美凪の顔に、微かに笑みが浮かんだ気がした。
この少女は、俺達に気を使っているんだな、ということがようやく祐一にも解った。
*
元は宿直室として使われていた部屋らしかった。
美凪の言っていた通り綺麗に掃除されており、ガスや電気や水道も一通り使えるらしい。
セネカが網戸がついた窓を大きく開き、潮風を楽しんでいた。
無邪気なやつだな、と微笑ましさすら感じられた。
わずかに心が軽くなる祐一は、名雪を見てみた。
「そうだね、気持ちいい・・・すごく」
先ほどのことを忘れているのか、と思えるほどいつもの名雪だった。
だが、そんなはずはあるまい、ということも解った。
余計な心配などかけまいと。
祐一の口から、そんな言葉がついて出た。
「そうだね、ママの料理食べてみたい」
セネカが子供らしい無邪気さで、名雪の手を握る。
「うん、そうだね」
セネカの手を握り返し、名雪はいつものように笑った。
たとえそれが偽りの笑みでも、今はそれが祐一には嬉しかった。
道端を歩く祐一に、おずおずと名雪が言ってきた。
「・・・そうだな」
「セネカも一緒!」
夕暮れの街を、3人手を繋いで歩く。
そして祐一も名雪も、それも悪くないと思い始めていた。
それは二人が、いつかこうありたいと望む姿でもあったのだから。
長く伸びる3人の影、そっと肩を寄せる名雪。
「そうだな、こういうのもいいかもな」
祐一はただ、それを受け入れる。
「そうだよ・・・それがママの願いだもん・・・ずっと、パパと一緒にいることが・・・」
セネカがそんなことを言った。相変わらず良く分らないことをいう。
苦しいときは、支えてやる。
それが、祐一が名雪とあの冬に交わした約束。
5
3人は商店街に来ていた。
名雪が晩御飯のメニューを色々と提案し、セネカがものめずらしそうにあちこちを見回している。
人のよさそうな八百屋の親父が、3人に声をかけてくる。
「いや、旅行です」
「そっか、何もないとこだけど、楽しみなよ」
答える祐一に、気さくな笑みで八百屋の親父は答えた。
セネカが初物であろうトウモロコシを手に取る。
「ゆでるのに時間がかかるぞ、セネカ。それに好き嫌いはよくない」
「う〜、セネカ、にんじん食べれるよ!」
ぷうとセネカが口を膨らます。
誰もそんなことは訊いていないんだが、と祐一は苦笑する。
「ははは、元気な嬢ちゃんだ!いいねえ、奥さんに似てかわいくて」
「あはは・・・ありがとうございます。じゃあそれもください」
名雪はそんな親父の調子に苦笑しながらも、セネカの持っていたトウモロコシも買っていた。
と、祐一は嬉しくも内心は複雑だった。
*
「ねえねえパパ、これ欲しいなあ」
雑貨屋に入った祐一に、セネカが期待に目を輝かせながら上目遣いの視線を向けていた。
「だからパパじゃない・・・これは・・・なんだ、えらく安っぽいおもちゃだな・・・」
セネカが持っていたのは、いわゆる食玩というおまけつきの菓子だった。
小さなカチューシャと指輪がセットになって、ラムネ菓子がついている。
セネカのペンダントから比べると、えらく不釣合いな気がした。
「・・・うう〜いいじゃない。プレゼントしてよ」
「・・・やれやれ」
存外、娘には甘いタイプなのだろうか、と祐一は思いながら財布を取り出した。
「・・・・・・Rock-a-baby, in the tree top♪」
例のおもちゃをつけて、ご満悦と言った様子のセネカ。
聞き慣れない歌を聴きながら、祐一はセネカの頭をそっと撫でる。
微笑をかえして、セネカは祐一を見つめる。
セネカの顔を見ていると、いいことをしたかなと思ってしまう。
「あ、セネカちゃん祐一に買ってもらったんだね」
「うん!初めてのプレゼントだよ。ねえパパ」
呑気に会話する自称二人の娘と名雪。
「パパって・・・いや、もういい」
だんだんと言うのも馬鹿らしくなってくる祐一。
*
夕食は、名雪特製オムハヤシライスに、焼きトウモロコシだった。
要するに、オムレツが乗ったハヤシライスだった。
火を通しすぎれば焦げ付くし、火が弱ければ半熟のどろどろだ。
バターも多ければ卵の味を殺すし、少なければ焦げの原因になる。
味付けは色々あるが、卵の味を生かしきるには経験が要る。
輝くような黄色。
そして外は香ばしく、中はスポンジケーキのように柔らかい。
理想はこうだが、これを実現できる料理人はそうそういない。
フランス料理人の腕を見るには、オムレツを作らせればいいというくらいだ。
そういって名雪が出したオムハヤシライス。
そっけないほどの淡白な白い米とオムレツ。
それが絶妙な味付けのハヤシライスとマッチしていいバランスで味を作っている。
本当ならドゥミグラスソースを自分で作ったほうが良いと名雪は言う。
が、これでも金が取れそうな出来栄えだった。
因みに今回はそんな暇が無かったので、缶詰のものを利用していた。
スプーンを加えたまま恍惚の表情を浮かべ、幸せを全身で表すように、セネカが言う。
「お母さんの特訓のおかげだよ」
「うにゅ?ママのママ?」
「そうだよ」
「う〜、それって私のがだめってこと?」
ぷう、と頬を膨らませる名雪。
「んなことは言ってない。名雪も十分上手いさ。ま、一流と超一流の差ってことか」
なんとなしに、セネカと秋子が会った時のことを考えてみる。
−はじめまして、セネカです−
−あらあら、はじめまして。私は秋子、水瀬秋子よ−
−うん、知ってるよ。よろしくね『おばあちゃん』−
−(ぷちん)−
不穏な音が祐一の脳裏に聞こえた。
名雪の母・・・ってことはセネカは秋子さんを「おばあちゃん」って呼ぶのか・・・?
そうなるとその後は・・・・・・?
−わーい−
そして、台所に鎮座する例の物体で彩られた料理の数々・・・・・・
ジャム入りコンソメスープ・・・・・・
ジャムライス・・・・・・
ジャムソースのステーキ・・・・・・
デザートはジャムのかかったアイスクリーム・・・・
「・・・・・謎ジャムのフルコースか?」
想像して薄ら寒さを覚えた。
想像するのがたやすいだけに洒落にならんぞ、怖すぎる」
ぞくり、と祐一の背中に悪寒が走った。
「そのときは、呼び方に気をつけるこった・・・」
と、無責任なことを考える祐一。
「気のせいだ」
*
「お風呂が沸いたよ〜」
名雪の声が、宿直室でトランプをしていた祐一とセネカに届いた。
「先に入れよ、俺は後でいい」
荷物からタオルと旅行用のボディソープとシャンプーの小瓶を取り出し、セネカに手渡す。
「ええ〜、みんなで一緒に入ろうよ」
セネカが顔を膨らますが、やがて何か思いついたように祐一の耳元に唇を寄せた。
「ぶっ・・・」
いきなり何を・・・と言わんばかりに顔を真っ赤に染め、祐一がセネカを見る。
「あ、やっぱり期待してた?」
してやったり、と言わんばかりの表情で両手を口に当ててセネカが笑う。
「言ってないわぁっ!!」
「え・・・・」
名雪が顔を紅潮させて祐一を見る。
「え・・・えーーと」
祐一とセネカに期待と不安と興奮と羞恥心が入り混じった視線を向ける名雪。
「ほらほら、行こうよっ!」
右手で祐一を掴み、左手で名雪を掴みながらセネカが歩き出す。
「お、おい」
「セネカちゃん・・・」
結局、流されてしまう二人だった。
「おっ風呂、おっ風呂♪」
「う〜、祐一、あんまり見ないでよ」
楽しそうに服を脱いでいくセネカと、タオルで前を隠しながらちらりちらりと祐一を見る名雪。
「わ、解ってるよ」
極力名雪のほうを見ないようにしながら祐一もタオルを腰に巻く。それにしても、とも思う。
アップにまとめられた髪、うなじのライン。
芸術的ともいえる裸身を小さなタオルのみで隠した名雪の姿。
恥ずかしがるその姿がなんとも・・・・・・と思う。
それは祐一ならずとも興奮を覚える姿だった。
セネカがいなければ襲っていたかも・・・などとも思ってしまうが。
と、セネカが祐一の手を引こうとしたときだった。
「あれ、セネカ・・・ちゃん!?」
名雪がセネカの背を見て、驚いたように言う。
「何・・・?」
祐一も気がつき、セネカの小さな背中を見る。
セネカの背中にはケロイド状の火傷をしたかのように焼け爛れたような痕が広がっていた。
そして腰の辺りに、十字架にも似た痣が二つ並んでいた。
「あ・・・はは、なんともない、なんともないよ」
なんともなくはないだろう、と祐一は思うが、それより早くセネカがバスタブに飛び込んでいた。
「良いんだよ、これは『パパとママには関係のないこと』なんだから」
セネカはそう言いながら、湯船に体を沈めて笑っていた・・・
6
そして夜の帳が落ち、空は一面の星空が広がる。
都会のよどんだ夜空と異なり、
この町の夜空は漆黒のビロードの上に縫い付けたビーズのような夢幻の星空だった。
透き通るように澄んだ大気は、幾星霜の時を経て届く光を余すことなく地上に届かせ、
天の川の星の輝きの一つ一つさえ数えられそうな星空の夜。
瞬く星があまねく空は、宇宙が作り出す至高の絵画。
こうして星を見ていると、あの冬の記憶がありありと蘇ってきた。
そういって、遅刻してきた名雪の顔を思い出す。
ガッツがあるんだか無いんだか判らない声。
目覚ましの声。
絶望の夜。
雪の日の口付け。
そして、7年越しの、告白。
だが、まだ祐一の中のパズルの断片が完全にそろっていなかった。
そんな疑問もある。
知覚出来なかったのなら、最初から記憶などあるわけがない。
それは無いはずのピースを探すようなものだ。
そんな不毛な予感が頭をもたげ始めたときだった。
祐一の傍らに、名雪が腰掛けた。夜風に乗ってシャンプーの香りが届く。
自分の好きな香りが、そばにあることが祐一には嬉しかった。
そしていつも見ているはずの名雪の顔も、この夜は何か違って見えた。
祐一も起き上がり、名雪の横に座りなおす。
「うん、いっぱい遊んだしね」
食事の後は風呂、そして3人で童心に帰ったように遊んだ。
子供の頃は、こんな気持ちで遊んだのかなと思った。
「祐一、すっかりお父さんだね」
くすくすと名雪が笑う。
「セネカか・・・・・・なんか余計に解らん事が増えた気がするぞ」
「でも、いいよ。思い出せたことも、色々あるよ」
「そうだな」
確かに、色々判ってきたこともある。それを考えると、たいした進歩だ。
そして名雪がいるから、祐一はそれが解ったことに気がついていた。
「ん?」
大きな、夢見るような瞳が祐一を映す。
いつもと変わらぬ、まっすぐな瞳が。
「ありがとな、付き合ってくれて」
「わ、祐一が素直」
ふざける名雪にとりあえずチョップを入れる。
「いらんことを言うからだ」
「・・・でも、私もお礼」
そういって、名雪の唇がそっと祐一の唇に触れた。
「祐一がいたから、祐一のことを好きになれたから、こうしていられるんだと思う」
「名雪・・・」
その笑顔は、夜空にひときわ輝く星のように明るく、そしてまぶしく。
その瞳は、幸福と信頼に満ちて。
「わ、また殴る〜」
祐一が二度目のチョップ。
「こんなところで終わってたまるか。俺達はまだまだ人生続くんだ」
「祐一?」
きょとん、とする名雪に、祐一は続けた。
そうして祐一は名雪の肩を抱く。
意外にも小さなその体は、すっぽりと祐一の中に納まった。
名雪も祐一に体を預け、静かに瞳を閉じる。
それは、試練すらも忘れさせてしまうかのように・・・・・・
次回予告
秋子さんと二人で。
遠い日の、お母さんとのお出かけのようで、ボクは嬉しかった。
その人の記憶。
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