" Kanon" side story "Nayuki's discipline time"



         

       Episode 4:shuttered memories


     −トザサレタ、キオクノカケラ−

 長い夢を、ボクは見ていた。
 それは悲しくて、辛い夢。
 一人ぼっちの夢。

 でも、その夢に囚われたのはボクだけじゃない。
 ボクとあの人にかかわった全ての人が、囚われた夢。

 夢は記憶を奪い、
 奪われた欠片は、どこかへと去ってゆく。

 消えることが出来たなら、それは幸せかもしれない。
 でも、いちど生まれたものは、消えることはない。

 生み出された夢は、やがて記憶を糧にして現実となる。
 人は、現実に起こることを夢見るものだから。

 だから、ボクが出会ったあの人たちも、夢に向き合っている。
 それは、あの人たちの試練で、ボクにもどうすることもできない。

 でも、許されるのなら、ボクは祈りたい。
 あの人たちが、試練に勝って、もういちど笑って歩けることを・・・・・・

                      -Ayu Tsukimiya-

         1

「・・・・・・なんか、祐一君と名雪さんがいないと寂しいね」
 今、食卓にはあゆと秋子の二人しかいない。
 金曜の夜、いつもなら家族4人で夕餉を囲むのが水瀬家だった。

「そうね・・・・・・」
 心なしか秋子の表情もすぐれない。だが、それは寂しさのみではなかった。

 あの冬の日の後。
 自分があの場所にたどり着いたときには、もうすでに全てが終わっていることが分った。
 名雪にせよ祐一にせよ、そのときの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
 二人はその記憶を探しに行っている。
 そして、それは決して楽なことではないことも。

「秋子さん、どうしたの?」
 上目遣いであゆが訊いてくる。
「秋子さん、すごく辛そうに見えたよ・・・・」
 あゆの赤い瞳が潤んでいるように見えた。

「ごめんなさいね・・・あの子達が、ちょっと心配だったから」
 すぐにいつもの顔で、秋子は答えた。

「大丈夫だよ」
 満面の笑みをたたえて、あゆは言う。

「あのふたりだもん・・・・・・どんなことがあっても、大丈夫だよ」
 あゆは蘇る前、蘇った後、色々な苦難を乗り越えてきた二人を見続けてきた。
 妬けそうなほど仲のいい二人。
 苦しみを抱え続けた、弱い二人。
 でも、いつも支えあう強い二人。

「そうね・・・そうだ、あゆちゃん」
「うぐ?どうしたの?」
 微かに悪戯っぽく微笑む秋子。

「私と、出かけない?」
「え?」
 この人のこういう顔を見るのはあゆには初めてだった。

「私の昔の友達が、海辺の町に住んでいるの。あゆちゃん、海見たことある?」
「ううん・・・海かぁ」
 そういえば、誰かと遠くへ行ったことはなかった。
 最も、機会があっても立場上ずいぶんと遠慮していたのだが。

「行きましょう。私達も」
「でも、その人に迷惑だよ」
「いいのよ、この間あゆちゃんのこと話したら、ぜひ会いたいって」
 それならば、とあゆは思う。

「そうなんだ・・・だったら」
「そうね、決まり。明日からお互いに休みだから、行きましょう」

 だが、あゆは知らない。秋子の本当の目的を。
 彼女は望んでいたのだ。彼らの物語の決着を見届けることを・・・


         2


「・・・・・・」
「うにゅ・・・」
 目覚めは、少女の声。
 祐一が首を動かすと左には名雪が寝息を立て、右には空になった布団があった。

「そういえば昨日、家族らしく川の字で寝ようとか名雪が言ってたな・・・」
 それでちゃっかり了承してしまう俺も俺だが・・・・・・と、苦笑する祐一。

「セネカはえらく早起きだな・・・」
 名雪も見習って欲しいぞ、とぼやきながら時計を探す。
 幾ばくかは寝起きも良くなってきてはいたが、それでもやはりお世辞にも寝起きがいいとはいえなかった。
 名雪が持ってきた枕もとの時計を見ると、午前6時半。
 昨日は夢も見ず、ぐっすりと眠っていたらしい。
 お陰で、すこぶる調子が良かった。

 カーテンを通して差し込む朝日に目を細めながら、名雪を起こさないように祐一は起き上がる。
 着替えて、駅舎の外に出た。
 都会のよどんだ空気と違い、潮の香りと植物の香りを伴う、朝の空気が気持ちよかった。
 木々の葉に朝露が輝き、陽光を受けて輝く。
「・・・・・・」
 ベンチに腰掛け、空を見上げた。雲は少なく、青空が広がっている。
 今日も暑い一日になりそうだった。

−Rock-a-bye baby, in the tree top−

 どこからか、歌声が聞こえてきた。
 楽しげに、それでも一生懸命に歌う小さな子供の声。

「セネカ?」
 聞き覚えのある声だった。自称祐一と名雪の娘と名乗る、幼い少女の声。
 声は駅の裏手、使われていないホームから聞こえてくる。

−When the wind blows, the cradle will rock−

「・・・・・・」
 セネカは虚空を抱きしめるように両手を広げ、一心に歌う。
 昨日の買い物の時に歌っていた歌だった。
 そしてどこかで聞いたことがある歌だ、と祐一は思った。
 あの冬の日ではない。
 もっと遥か遠く、そう、自分が生まれた頃に・・・・

−When the bough breaks,the credle will fall−

 言うなればそれはロスト・ララバイ(忘れられた子守唄)。
 自分が赤子の頃に、誰かに歌ってもらったのだろうか?

−And down will come baby,cradle and all−

「子守唄・・・か」
 あの歌も、セネカの「本当の両親」から教えられたものだというのだろうか。
 ならそれは、どこにいるというのだろうか。

「探すものは、まだまだあるってことか」
 一生懸命に歌うセネカの姿は、何故か近づくことを躊躇わせた。
 祐一はセネカに背を向けて、駅の前へと歩いていった。




 と、不意にシャボン玉が目に付いた。
 風上から風下へと流れるその姿を目で追うと、やがて爆ぜ、消える姿が目に映った。

「どんなものでも、消えるときは来る・・・解ってはいるが、あんまり考えたくないことだな」
 シャボン玉を飛ばした主に向けて、祐一は言っていた。

「おはようございます。相沢さん」
 その人物、美凪は昨日と同じくストローと小瓶を携えて、駅の側の大きな木の根元に立っていた。

「ああ、早いな。まだ7時前だと思ったが?」
 せいぜいこんな時間に起きるのは主婦とラジオ体操に起きる小学生位だと祐一は思った。

「で、朝早くからどうしたんだ?」
 祐一も美凪の側に腰掛ける。木々や草花から漂う朝露の匂いが鼻腔をくすぐった。

「あなた達のことが気になったものですから」
 ストローと小瓶を置いて、美凪が言った。

「そう簡単に思い出せれば、苦労はないんだが」
 昨日は結局夢も見なかったし、何も思い出せた様子は無い。
 セネカのこともあるし、どうするべきか問題は山積みだった。

「そうですか・・・今日はどうなさいますか?」
「どうするといわれてもな・・・・・」



「パパー、美凪さん、おはよーっつ!!」
 と、聞き慣れた声が聞こえてくる。自称祐一と名雪の娘は、朝からテンションが高かった。
 先ほどの近寄りがたい雰囲気は消えうせ、人懐っこさと快活さを湛えたいつものセネカだった。

「おはようございます」
「おはよう、朝から元気だな」
「うん!セネカはいつも元気だよ!」
 大きな瞳を輝かせながら、大きくセネカは頷いた。
 と、そこでふと思いついたことがあった。

「なあ、遠野」
「はい?」
「あんたは、かつて俺達を助けてくれた。そうだったよな」
「ええ、そうですよ」
 こくり、と美凪は頷いた。

「あんたの家に連れて行ってもらった後、どうなったんだ?」
「・・・・・・」
 美凪は黙して答えない。

「覚えて・・・いないの?」
 セネカが上目遣いで祐一を見た。それはどこか、泣く事を堪えているかのようにも見える。
「・・・ああ」
 といっても、祐一にはあの時に外界を知覚できたとは思えなかった。
 それはつまり、記憶していたかどうかすら怪しいということ。

 やはり、鍵は名雪が握っているのだろうか・・・

「そこから先は・・・『あなた達の問題』だと思います」
 しばし逡巡した後、美凪は言った。
「それは決して楽なことではないと思います。ですが、あなた達は一人ではありません」
 穏やかな瞳の中に真摯な色を浮かべ、美凪が祐一を見つめる。
「俺達が自分の手でどうにかしろってことなのか?」
 美凪は頷く。
「信じてください。あなたを助けようと必死だったあの人を、何よりご自身を」

「遠野・・・あんたも、なにかあったのか?」
 祐一の顔を見つめるその顔は、どことなく秋子に似ていると俺は思った。

 何かとても辛いことを体験し・・・それを乗り越えたかのような・・・


         3


 そして名雪は、再び夢の中にいた。
 あの日の記憶を宿す、夢の中に。

「雪、やまないね」
「・・・・・・・」
 窓の側で祐一と並んで名雪は外を見ていた。

 遠野家に泊まらせてもらい、一夜明けたその後も雪は止むことなく降り続いていた。
 海風と季節風がもたらす猛吹雪は未だ止むことはなかった。
 視界も数メートル先すら怪しい。
 ここまで積もることは名雪も見たことがなかった。

「お、早いね君たち」
 美凪の父が二人に声をかけた。
「あ、おはようございます。ほら、祐一も」
 例によって、無理やり祐一の頭を下げさせる。

「はは、いいよ。ところで・・・」
 そんな二人の様子に苦笑しながら、美凪の父は言う。
「どうかしたんですか?」
「ああ、さっき、本社と君のお母さんから電話があってね」
 そこまで言って、微かに言葉を濁す。

「お母さんから?」
「ああ、こっちに向かっているんだが、どうやら今日は無理だ」
 そう言って、外に視線を移した。
「え、どうしたんですか?」
「この大雪の所為で、昨晩列車事故があってね。線路が破損して列車が走れない。
 それに私もこれから後始末に行かなければならない」
 名雪は知らなかったが、この年は記録的な大雪だった。そのためにこうした事故がたびたび起きていた。

「道路も封鎖されていてね、いまやここは陸の孤島だ」
「そうですか・・・あ、それじゃあ」
 自分達はどうすればいいんだろう、と訊こうとした時だった。
「ああ、君たちはここにいていいよ。流石にこれはしかたないしね」
 美凪と一緒に遊んでてくれ、と言い残して美凪の父は外に出た。


         *


 ふわ。

「?」
 不意に名雪の前に、一つのシャボン玉が現れる。
「おはようございます」
 いつの間にか、ストローを持った美凪が立っていた。

「家の中でやるのは行儀が悪いと思いますが、こんな日は悪い子になりたくなります。
 一緒に悪い子になりませんか?」
 そういって、名雪にストローを二本渡した。
「美凪さん・・・」
 この人は私達に気を使っているんだな、と名雪は思った。
 昨日の夜の風呂場での一件以来、必死で祐一の心を開く方法を探していたのだろう。
「ほら、祐一も」
 その心をありがたく受け取り、祐一にストローを手渡そうとする。

「祐一、手を開かなきゃ、持てないよ」
「・・・・・・」
 しかし祐一は拳を握ったまま、それを開こうとはしなかった。
 握られた拳が、祐一の外界への拒絶を示しているかのように。

「お気に召しませんか・・・ごめんなさい」
「そんな、美凪さんが謝ることじゃない」
 美凪は、力になれないことを心底残念がっていた。
 名雪もまた、心が締め付けられるような苦しさを感じる。

 そして祐一は、未だ虚ろな瞳で世界を見つめるだけだった・・・


         4


「あれ、早いね、二人とも」
 それからしばらくして、漸く名雪が起きてきた。

「あ、美凪さんおはようございまふぁぁ〜」
 それでもまだ目が覚めないのか、台詞の最後が欠伸に取って代わられていた。

「おはようございます、いい夢は見られましたか?」
「・・・・・・・」
 『夢』という言葉に名雪がかすかに表情を強張らせた。
 やはり、名雪のほうが思い出すのは先なのか。

「あ、は、はい。これから朝食にしますけど、一緒にどうですか?」
あわてて名雪が取り繕うように言う。
「いえ、私は帰ります、ごゆっくりどうぞ」
 そういって美凪は去っていった。


         *


「ごちそうさま〜」
 子供らしい健啖さを発揮して、名雪が作った朝食を食べ終えたセネカが手足を広げて寝転がる。
「行儀悪いぞ、セネカ」
 祐一は壁に寄りかかりながらそんなセネカを見ていた。
「私、後片付けしておくよ」
 名雪が手馴れた手付きで食器を片付けていく。

 どうするべきなのだろうか?
 とりあえず、その辺りから考えてみた。

 完成見本の無いジグソーパズルを組み立てるような途方も無い話だった。
 しかもピースが全てそろっているのかどうかすら怪しい。
 だが、組み立てようとしなければいつまでもそのままだ。

「ふぁいと、だぜ」
 名雪の口調を真似て、解ったことを思い出してみる。

 駅舎・・・俺達の再会した場所。今いるところ。
 セネカ・・・自称俺達の娘、訳が解らないことばかり言う。俺達に似ている。
 遠野・・・8年前の冬に俺達が会った少女。俺の恩人。
 冬・・・俺が記憶を封印するに至った理由。あゆの人生を閉ざし、名雪に大きな傷を残した。
 教会・・・焼け落ちたような、壊れた教会。

「教会!?」
 そこで祐一ははたと思い出した。あの場所を祐一は知っていた。
 しかし、何で焼け落ちていたのか、どうして自分は知っているのか、それが解らない。

「あれが・・・欠けたピースなのか?」
「どうしたの祐一?神妙な顔して?」
 水仕事を終えた名雪が訊いてくる。試してみる価値はありそうだった。

「なあ、これから出かけないか、みんなで」
「うん。私はいいよ」
「セネカもいいよ」
 名雪とセネカが頷く。
「よし、決まりだ」


         *


 少しずつ、日が高くなりつつあった。
 並んで歩く彼らの横には、天高く枝を広げた木々が生い茂る。
 やかましいくらいに激しく鳴き声をあげる蝉。
 遠くで風を受けて回る風車。
 そんな海辺の道を、3人は歩いていた。

「こうしてみると、ピクニックみたいだね」
 帽子を被り直しながら、名雪が言う。
「そうだな」
 祐一の手には名雪が大量に作ったサンドイッチや弁当が入ったバスケットがあった。
 出かけるんなら何か作るよと言っていた笑顔が印象的だった。

「ママのお弁当、楽しみ〜」
 セネカは昨日祐一が買ってやったカチューシャを付けて、鼻歌交じりに歩いていた。

「Rock-a-bye baby, in the tree top♪」
「・・・その歌、今朝も歌ってたよな」
 言ってから、まずいことを訊いたかな、と思う。

「うん。随分・・・もうどれくらいか解らないくらい昔に、聞いた歌」
 微かに寂しげな笑みを浮かべて、セネカは答えていた。

「子守唄だね」
 名雪が答えた。
「子守唄?」
「うん、祐一は知らないかな・・・・・マザーグース」
 聞いたことがあった。

「確か、イギリスの古い民謡だか童話だったか?」
「そうだよ、確かそれは"Rock-a-bye-baby"・・・だったかな」
「ほほう」
 名雪の意外に博識な一面を見せられて、祐一は感嘆の念を禁じえない。
「セネカちゃん『お母さん』に習ったの?」
「・・・・・そう、なるのかな」
 セネカが歯切れ悪く答える。

「きっと、そうなんだね」
「え?」
 きょとん、とするセネカの頭を、名雪は撫でる。
「子守唄はね、幸せの証なんだよ」
「名雪?」
 名雪の言葉に当惑した祐一が問い返す。

「生まれたばかりの赤ちゃんは・・・・・・
 ううん、3歳くらいになるまで、子供は世界をはっきりと知覚できないんだよ」
 視覚や聴覚といった感覚器官が完全に機能するようになるには時間を要すると祐一は聞いたことがあった。

「だからね、いつも小さな子供は不安なの。
 大切なお母さんの顔が見えない、声が聞こえないということが」
「ママ・・・」
 セネカがすがるように名雪を見上げる。

「だから、お母さんは子供に、色々なことを伝えるの。
 あなたが大好きです、いつまでも側にいますって」
 名雪はそんなセネカの不安を打ち消すようにセネカと視線を合わせる。

「あなたが幸せな夢を見られますようにって、祈りを込めて歌うの。
 たとえ言葉の意味が届かなくても、歌は人の心を伝えるものだから・・・
 だから、子守唄を覚えているってことは、お母さんに愛された証なんだよ」
 名雪は微笑み、セネカを見つめる。
「だから・・・『幸せの証』?」
 そうだよ、と名雪は頷いた。

「私には、セネカちゃんが何を不安に思っているのかは『完全には分からない』
 でも『それを受け止めてあげること』は私たちにも出来ると思うから」

 その姿は、本当の親子のようで、
 娘をあやす、母の姿そのもので、祐一はただ、その姿を見つめるのみ。

「そうだね・・・『ママはそのために』ここに来たんだよね」
 微かに俯き、セネカは言う。
「大丈夫だよ・・・セネカは・・・・・・こうしてパパとママに会えたから」
 俯いた顔を上げたとき、セネカはいつもの笑顔だった。

「行こう、パパ、ママ」
 先頭を切ってセネカは走り出す。
 その姿は明るくもあり、儚げでもあり、
 言いようのない不安が、二人の心に微かに生まれていた・・・・


 そんな会話をしながら、やがて3人は目的の場所にたどり着いた。


         *


「祐一・・・ここって」
 名雪も思い出したように目を見開く。
「ああ。色々考えたんだ。だけど、ここについては俺達は何も知らない」
「・・・うん」
 名雪の取り戻した記憶にも、ここのことはなかった。
 だとしたら、やはり最後の鍵はここにある。そう、確信できた。

「・・・・・・・」
 セネカが珍しく押し黙っていた。
 笑顔と声が消えると、この少女の存在感は極端に希薄になる。
 そう感じていた。

「いこ、パパ、ママ」
 しかしすぐにいつもの表情に戻り、祐一と名雪の手を引く。
「あ、ああ」
「そうだね、行こう。祐一」
 名雪とセネカに手を引かれ、祐一は古ぼけたコンクリートの階段を上る。
 やがて見えてくるは、昨日となんら変わらないたたずまいを見せる崩れかけた教会。
 そのときだった。

−!?−

 また、何かが祐一の頭に浮かぶ。
 雪の日。
 教会はすでに崩れていた。
 名雪と二人で、ここに来ていた。

「ぐっ・・・・・」
 しかし脳神経がいきなり焼ききれたかのようなすさまじい苦痛が祐一を襲う。
 耐え切れず、祐一は片膝をついた。

「祐一!?」
「パパ!?」
 名雪とセネカが祐一の側に駆け寄ってきた。

−来たな・・・時が−
「!?」
 セネカの後ろに、見慣れぬ二人の男女の姿。
 年若い二人、どことなく雰囲気がセネカに似ているのは気のせいだろうか?
 無感情な瞳で祐一を見つめる2人。

「誰だ・・・?」
 しかしそれはすぐにかき消え、痛烈な痛みだけが祐一を襲う。


「祐一、祐一!!」
 不意に痛みが和らいだ気がした。名雪に抱きかかえられていることが解った。
 俺はいつも、名雪に苦労をかけてるな・・・・・
 そんなことを思いながら、祐一の意識は闇へと溶けていった。


         5


 そして、あゆたちは・・・

「うわぁ・・・・・綺麗」
 バスから降り立つと、一面の海が広がっていた。
 水平線は青い大きな孤を描き、真夏の太陽は海を輝かせていた。
 彼方に広がる大空で、カモメ達が舞う。
 大気を満たす潮風の香り。
 あゆにとって、初めての世界。

「よかった。あゆちゃんが気に入ってくれて」
 後ろに立つ秋子が微笑む。
「うん。ボク、海に来たこと無かったから、すごく・・・すごく嬉しいよ!!」
 無邪気な子供のように瞳を輝かせながら、スカートの裾を翻してあゆが振り向いた。

「あらあら、その子ですか。あなたの『新しい娘』さんは?」
「うぐ?」
 二人に声をかけたのは白い着物を着て、薄いブルーの日傘をさした老婦人だった。
 年のころは60を超えたのか、髪は白く、深い皺が刻まれている。
 それでも丁寧な物腰と、たおやかな微笑みは見るものに不思議な安らぎを与える人だった。

「ご無沙汰してます、先生」
「先生?」
 一礼した秋子に、あゆは二人を交互に見比べる。

「紹介するわ。この人は『佐倉 芹香(さくら せりか)』さん。私の高校時代の先生よ」
「はじめまして、お話は伺っていますよ」
 微笑を絶やさず、芹香と名乗った老婦人は答える。

「そしてこの子が月宮あゆちゃん・・・いいえ、今は『水瀬』あゆ。以前にお話した子です」
「は、はじめまして・・・月宮・・・いいや、水瀬あゆです」
 いささか人に慣れないあゆが、緊張しつつ答えた。

「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいですよ。それより、立ち話もなんですから、家に行きましょう」

 そして二人は、芹香というこの老婦人の家に案内されることとなった。


         *


「わぁ・・・綺麗な家」
 あゆが感嘆の声を上げた。芹香の家は、海辺の道に立つ家だった。
 石垣の塀が家の周りを囲い、庭には色とりどりの植物が植えられていた。
 ガーデニングが趣味という芹香自慢の品だと秋子が言った。
 二階建ての家で屋根には屋根瓦が用いられ、壁の白さは漆喰だった。

「ありがとう、あゆさん」
 芹香が答え、家に案内する。

 縁側の窓を開けると、広がるのは海の風景。
「すごいなあ・・・家の窓から海が見えるなんて」
 目を閉じて、大きく息を吸う。

「空気の感じが違う・・・なんか、すごく懐かしい匂いがするよ・・・」
「あゆさんは、素敵な感性をお持ちなのですね」
 西瓜を切ったお盆を持ってきた芹香が、そんなことを言った。

「あはは・・・でも、ボクは海に来たことがないから」
「そうね。でも、初めて見たものを感じられることは誰にでも出来ることじゃないわ」
 秋子が言う。
「そうですよ、その気持ちは大事にしないと」
 芹香がそう続けた。



 それからしばらく、3人は思い出話に話を咲かせた。
 秋子の高校時代。
 あゆが水瀬家に来ることになったいきさつ。
 あの冬のことを。
 今のことを。

 秋子の高校時代のエピソードを楽しみ、
 あゆに起きた事件に涙し、
 そして今の生活を楽しげに語らう。

「そういえば」
 あゆが不意に気がついたように言った。
 コルクボードにはられた写真を見るあゆ。
「あれって、教会ですよね?」
 セピア色に色あせた写真は、森の中に立つ一軒の教会だった。

 その隣には、教会と同じ形をした陶器の模型が置かれていた。
 プラスチックの透明な器に覆われており、下にはスイッチらしきものがある。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
 その言葉を聞き、秋子と芹香が押し黙る。

「え・・・あの、ボク、何か変なことを言いましたか?」
 二人を交互に見つめるあゆ。

「そうですね・・・あゆさんと同じ、辛く苦しい思い出です」
 芹香は遠い目で、語り始めた。



「私には、娘がいました」
 その言葉が過去形であることにあゆは気がついた。芹香は続ける。
「名前は夏葉(なつは)といいました。私の・・・たった一人の娘でした」
 遠くを見つめるような瞳で芹香が言う。
「あの子は、優しい子でした。
 誰かのために生きる人になりたいと、やがて教会に勤めるようになりました」

「それが・・・あれなんですね」
 写真と模型を見つめるあゆの言葉に芹香は頷いた。

「明るく優しかったあの子は、いつも人気者でした。そして、ある方と知り合い、結ばれました」
 よくよく見ると、そのコルクボードには他にも何枚もの写真が貼られていた。
 結婚式、何かのお祭り。
 写真に封じられた笑顔は、時を経ても変わらない。
 彼らの幸せな時間は、その中では永遠だった。

「そして、瀬音香(セネカ)という娘を授かりました・・・
 生まれたばかりの瀬音香をつれて、二人はあの教会へ行きました。
 いつも三人で・・・とても幸せそうでした・・・いいえ、幸せでした。
 あゆさん、そのスイッチを押してごらんなさい」
「は、はい」
 言われるままにスイッチを押す。

「これは?」
 模型から流れるのは、オルゴールが奏でる楽しくもどこか安らぎを感じさせる音楽。
「あの子が良く瀬音香に歌ってあげていた子守唄です」
 よく見ると、オルゴールの下に"Rock-a-Bye-Baby"と刻まれていた。それが歌の名前なのだろう。
 そこで言葉を置き、芹香は空を見上げる。

「でも、幸せは長くは続きませんでした。8年前のことです」
 その言葉にあゆと秋子が押し黙る。
 あの年はあゆにとってはあの長い夢の始まった時なのだ。

「あの年の始め、教会で新年を祝う宴がありました。
 ・・・それが終わった夜のことです。突如、教会から火が出ました。
 飾りが残っていた教会は瞬く間に火に包まれ、その中にいた3人は・・・
 ・・・折り重なるように死んでいました。
 マリア像の前で、瀬音香を守るように・・・」
 涙を堪えようとしているように見えた。
 否、実際そうなのだろう。人の傷は、おいそれとは消えないものだ。
 祐一を、名雪を、そして自分自身を踏まえてあゆはそれを強く理解していた。

「ごめんなさい、芹香さん」
 あゆが必死に頭を下げた。
「あゆさん?」
 その態度に芹香は驚いたように顔を上げた。

「訊いてはいけないことを訊いたんですよね・・・ごめんなさい」
「あゆさん・・・」
 しかし芹香はあゆの頭をそっと撫で、諭すように言った。

「いいんですよ・・・あなたも、辛いことを話してくれた。
 今度は私が話さなくてはならない。それだけですよ・・・」
「芹香さん・・・」


「さあ、今日はあなた達を歓迎するために飛び切りのご馳走を作りましょう」
 立ち上がった芹香は、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「そうですね、お手伝いします」
 秋子が立ち上がり、それに続いた。

 優しくて、強い人たち。
 二人を見て、あゆは思った。


         6


 再び、祐一は夢の中にいた。

 祐一はあの時、何も解らないわけではなかった。
 何度も必死で呼びかけてくる名雪の声も、少しずつだが聞こえてくるようになっていた。

 それでも、心を押しつぶすほどの絶望は深く、
 話したいという意志は決して現れはしなかった。


「祐一、この町は海があるんだよ」

 名雪の声は途切れることは無い。
 壊れた祐一の心の欠片を拾い集めようと、必死に祐一に声をかけていた。

「祐一、今日は帰れないんだって」

 名雪の言葉を聞くたびに、祐一の記憶と苦痛が蘇る。
 記憶の再生は、心にナイフを突き立てられているような感覚だった。

「祐一、遊ぼうよ、美凪さんと一緒に」

 名雪は笑っている。
 だが、心は悲しみに満たされていた。

「祐一、シャボン玉やらない?美凪さんすごく上手いんだよ」

 祐一は全てを拒絶している。
 更に、心は絶望に満たされていた。

「祐一・・・・・・」

 偽りの笑顔を、必死に作る名雪。
 無表情の仮面を、必死で演じる祐一。

 無様な二人、と祐一は思う。
 そして側にいる美凪は、悲しい二人と思う。

 名雪の言葉の一言一言が、祐一には痛い。
 何もせず、ただ逃げている自分もまた、痛い。

 だから祐一は、逃げたのだ。

 そう、今なら解った。

 あの日の記憶からも、名雪からも、逃げたかったんだ。
 俺は、誰よりも自分を許せなかったから。

「祐一?」
 突然立ち上がった祐一に、名雪は目を丸くする。

「祐一!?」
 祐一は立ち上がり、駆け出す。

 嫌だった。何もかもが。
 そして祐一は、荒れ狂う雪の中へと飛び出していった・・・・・・


         *


「待って、待って!祐一!」
 どこをどう走ったのか、覚えていない。
 必死に後を追いかける名雪の姿も、解らない。

「祐一っ!」
 やがて祐一は、脚をもつれさせて倒れた。
 その上に名雪が、逃がすまいと覆いかぶさるように倒れる。
「はあ、はあ・・・」
 名雪の息が聞こえてくる。どくどくという心臓の音も。
 早鐘のように二人の心臓が脈打つ。
 荒い息のまま、二人は雪の上に倒れていた・・・・・・


「教会・・・なのかな?」
 やがて動かない祐一を見て、大丈夫だと思った名雪が辺りを見回す。
 二人は、雪に半分うずもれた崩れかけた教会の前にいた。

「う・・・寒い」
 名雪が体を震わせる。無理も無いだろう。猛吹雪の中、ろくに上着も着ていない。
 祐一が飛び出してから、何も着ないで追いかけてきたのだから当然だった。
「・・・・・・」
 祐一はコートを脱ぎ、名雪にかけてやる。
「祐一・・・?」
 驚いた名雪の表情。

「・・・・・・・・・」
 祐一はただ、何も言わずに教会へと歩いていた。
「まって、まってよ祐一」
 名雪が慌ててついて行く。

 どこかへ行こうとする俺、俺についてくる名雪。
 こんなときでも、そのスタンスは変わらないなと祐一は思った。


         *


 壁が崩れた教会の中は煤け、大きな火事で焼け落ちたことを示していた。
 その中に立つマリア像の前に二人は腰掛けて、一つのコートに包まりあっていた。
 何も語らない二人。
 寒風の中で身を寄せ合いながら、お互いの鼓動が聞こえるほど近くにいながら、
 心は、遠く離れてしまった二人。

 寒空に凍える捨て猫のように、二人は孤独だった。

 そう、そのとき祐一は初めて「寂しい」という心を思い出した。
 壊れていた心に、はじめて灯った感情。
 孤独から抜け出したいと、祐一は思う。

「どうして・・・ここにきた?」
 だからこそ、祐一は言葉を紡いだ。

 身勝手だ、と思った。
 散々名雪を引きずりまわして、都合のいいときだけ頼るのかと。

「祐一が・・・心配だったから」
 名雪は祐一の側に体を寄せて、答える。

「・・・・・・ここは、終わった場所だ」
 祐一は、そんなことを言った。
 宗教とは、全ては死と向き合い、やがて訪れる死の恐怖から逃れるために存在する。
 そして、ここは壊れた教会。
 死すらも見捨てた、終焉の場所だった。

「祐一は、終わってないよ」
名雪は答える。
「でも・・・進むことも出来ない・・・もう、疲れた」
 祐一は心を押し殺すように、そう言った。

「なら、休めばいいんだよ」
「やすむ?」

「そうだよ。祐一はただ、疲れているだけ。苦しいことがありすぎて、疲れているだけ。
 立てないのなら、側にいるよ。
 眠くなったら、子守唄を歌ってあげる。
 疲れが取れたら、私が起こしてあげる。
 そして、立ちたくなったら、私が手を引いてあげる」
「・・・・・・」
 初めて祐一は名雪の顔を見つめた。

 そこにあるのは、優しさを湛えた少女の姿。
名雪の笑顔、名雪の言葉。壊れた心を癒そうとする、その姿。
 あまりにも健気で、優しい少女。


「・・・・・・まるで、プロポーズの言葉みたいだ」
「そうだね・・・祐一となら、いつか結婚したいよ」
 そしてまた、ただただ黙って二人でいる。
 他愛ない子供の約束。
 それでも、その言葉は祐一にとって希望だった。

 もしかしたら、俺はこの絶望から抜け出せるかもしれないという。

−かつん−

 不意に、何かが落ちる音がした。
 ラピスラズリがはめ込まれた、小さなペンダントだった。
 マリア像の台座の上に乗っていたものが落ちてきたらしかった。

「綺麗な石だね・・・」
名雪がそれを見つめる。
「ああ・・・」
 手を伸ばし、それを拾う祐一。
 だが、それはただの石ではなかった。

 それ自体が淡く輝き、意志を持つかのように俺達の心に響いてくる。
「これは・・・?」
「なんだ・・・?」

−・・・おぎゃあ・・・おぎゃあ・・・−

 それはさながら、赤ん坊の泣き声のように。
 信じられない光景だった。

「泣いてる・・・この子、泣いてる」
 名雪の手の中でその石はやがて姿を変えて行き、白い布に包まれた赤子の姿を形作る。
 ペンダントは赤子の胸の上に置かれ、そしてそこには刻まれていた。

 seneka、と・・・・・・



 次回予告

 セネカ

 記憶の扉は開かれたね。
 パパとママ両方に。

 これで、8年前に刻まれた約束が始められるね。
 私達の。

 私はずっと待ってたよ?
 パパとママが、ここに来てくれることを。

 次回"Kanon" side story "Nayuki's discipline time"

Episode 5:What was a man once

 約束は・・・・・もうすぐ

    mail:b963008t@tobata.isc.kyutech.ac.jp


Episode 5
Episode 3
戻る