(7-2)  騎士サルヴァトーレ・ディ・トスカーノ――一六八四年より所有

 
   アントニオはバイオリンの買い手と直接交渉したことは一度もないが、どこかの王侯かその宮廷音楽家が彼の手から直接受け取りたいという希望を表明することが時々ある。そんななとき、アントニオは仕事場から応接間のほうへ上がってくる。彼は誠実で好感が持てる。しかし同時に節度を心得、礼儀をわきまえ、控えめである。 彼が比較的口数がおおくなるのは、音楽家や演奏の名人(ヴィルトゥオーゾ)と同席するときだ。彼はお客の感想やためし弾き、それに賞賛の言葉を聞いてから、やがてまた工房に隣接する自分の仕事場に引きこもるのだった。
 
   仕事場には長いテーブルのほかには、バイオリンを生み出す道具と気に入らないバイオリンを破壊し償却するための暖炉があるだけである。誰かに心を開くというのは例外といってもいい――コレルリとは食堂の大きなテーブルでワインを前にして何時間も打ち解けて話し合った。
 
   まさにそれだからこそフランチェスカは、彼が最初の瞬間からトスカーナの騎士にむけた異常な関心にとまどったのだった。しかしそれはこの騎士がためし弾きもせずに通常の価格に上乗せして払った五ゼッキーニ金貨にたいしてではない。そんなことはなにもいまはじまったことではない。音楽の愛好家の貴族や、または、その代理人たちよりもはるかに質素な放浪者の中にだってそんな場合がないわけではなかった。
   しかし騎士の外観や身のこなし、話し方にはどんなにさりげなく自然に振舞おうとしても、なにか特殊な、不調和で不安定な、霧包まれたような秘密めいた印象を拭い去ることができなかった。黒いサテンのコートのスその下には、膝までの朱色のズボンがのぞき、膝までとどく白いヴェストには半球の銀のボタンが狭い間隔で縫い付けられている。かつらは当時の習慣では肩にとどくくらいの長さがあるのが普通だったが、やっと耳が隠れるくらいの長さしかなく、六つに分けてカールしてあった。そのうえ彼は短剣もおびていないし、外出用のステッキももっていなかった。だから貴族であるのか、しかるべき身分の市民であるのかを示すいかなる目印も身につけていなかった。
    声はよく響いた。だが、それでも何か不快感を与える声だった。顔は大きく、盛り上がったわし鼻とは裏腹に女性的な感じがした。身のこなしは猫みたいに用心深く柔軟だった。そして赤いリボンのついたエナメルの靴には高いヒールがついていた。
   「親愛なる親方(カーロ・マエーストロ)、このバイオリンはまるで初めての舞踏会に出るために着飾る令嬢みたいにスマートですね。この色、この香り……、ああ……まったくすばらしい。それにこのほっそりとした棹(ネック)……長めの糸倉……、表版のこのなだらかなふくらみ……、ほとんど平らな裏板……、流麗に、深く彫りこまれた渦巻き……、気を悪くしないでいただきたいのですが、このバイオリンはわたくしのフランス式の弓にまさにぴったりです……、いやいや、ほかの弓でこのバイオリンの弦にふれることなど、とてもできません。ご覧なさい、これはブレッシア派の弓ですね……。そうですとも、わたしのフランス式の弓なら、この楽器からもっと流麗な音を引き出せますよ。もし、あの弓がここにあったらなあ……あの弓でなら、きっと宇宙の音楽をテーベの森の陰で聴くことができたような、宇宙の最高の音楽となるでしょう……、それとも、もしかしたらテーベではなかったかもしれませんが……。
    フランチェスカ夫人は文字通りわたくしを幸せにしてくださった。このバイオリンにかんする知らせをわたくしに下さったのですからね。でも、方法のまえでこのバイオリンを演奏することが、わたくしの最初の心配事になりそうです……。実は、わたくし、法王庁の合唱団でメッツォ・ソプラノのソロをうたっているのです。でも、コントラルトもうたいます。実際、わたくしの声域は非常に広いのです……」
    秘密がやっと明らかになった――騎士はアントニオがその高いヒールからすでに推測していたとおり、カストラートだったのだ。
   「そうですとも、こんな芸術的な財宝に二〇ゼッキーニなんて、なんとささやかな報酬でしょう。ほとんどただのようなものです……。せめてものお礼にわたくしが教会のなか以外のところでは、かつて一度も演奏したことのない、パレストリーナのミサ曲のなかから、その主要なソロを、このきわめて私的な場所で演奏いたしますことをお許しください……」
    彼は美しい真珠色の刺繍と大きな房飾りのついたゴブラン織りの銭袋を丁重にテーブルの上に置いた。それから金飾りのあるレースのネクタイを手でなでおろしてから、一方の手で弓を取り、もう一方の手でバイオリンを取って構えて『スタバト・マーテル』を弾きはじめた。
    彼はうたい、そして、その歌にバイオリンで伴奏した。時々、バイオリンがメロディーを弾き、歌が伴奏に変わることもあった。これらの二つの声部はまったく茫洋(ぼうよう)として、それでもなお、人の心を掻きたてる新しい芸術の形をもっていた。パレストリーナやスカルラッティのトッカータ、ソナタ、コンチェルト・グロッソはここでは断片の形で現われたかと思うと、ふたたび消え、新しいテーマの中に融合されていく――その楽の音は高く、低く、また激しく渦巻き、ネーデルランド楽派の対位法とイタリアのベルカントが楽しげに絡み合いながら、メロディー、レシタティーヴォ、フーガ、そしてカノンの噴水となって猛烈な勢いで展開していった。もはや、だれもバイオリンの音と人間の声とを区別できなかった。その二つの声部は、音色も強弱も、クレッセンドもディミヌエンドも一体となっていた。
    それは、ぞっとするような、忘れようにも忘れることのできない異様なものだった。まるで炎の中から飛び出してきたガラスの鳥のように、泥沼の上を右に左に気まぐれに飛びまわる黒い蛾のように……。それは夕闇のなかに突進していく巨大な幻影(ファントム)だった。氷の鎧の上で炎を発する地の色をした太陽、暗い洞窟の闇へ移行していく日食、それとも墓場の上での新婚の夜の激しい息づかい。
    アントニオは何度となくコレルリ、トレッリといった最高の名声を博しているヴィルトゥオーゾの演奏を聞いたことがある。そんなときバイオリンとその音が、名人の手によって高貴なものへと高められ、バイオリンに純粋で美しい生命が吹き込まれる。すると、今度は、その生命がたちまちバイオリンから放射されてくるという、そんな印象をいつももったものだった。
    しかし、今は、自分の作品が誰かの手によって汚され、芸術にではなく、何か別の目的に――何かの陰謀に――利用されようとしているかのような、そんな感じがするのをどうしようもなかった。声は完璧で、途方もなく広い音域だったが、それでもその声は蜘蛛が蝿をその糸でからめ取ってしまうように、彼のバイオリンその早いパッセージやトリルでがんじがらめに、丸め込んでいるかのような何か不快な感じを与えた。ときどき楽器が、不自然で不気味なソプラノを圧倒して輝かしく響くこともあったが、それはまさに蝿が虹のような薄膜の羽を打ち振るって蜘蛛の巣から逃れようとしているかのようにも聞こえた。だが、その後を追うようにふわふわした絹のような糸が、常に、いつわりのやさしさを示しながら蝿にまつわりつき、金茶色に輝くその体を包み込み、身動きできなくしてしまうように思えるのだった。やがて、突然、すべては消え、バイオリンハダマスカス織りのテーブルクロスの上に横たわった。
   「それにしても、わたしのフランス式の弓がここにあったらいいのに!」
    騎士は勝ち誇ったように言って、唖然としている同席者たちを見まわし、よわよわしい微笑を浮かべながら額の汗をぬぐった。
   「少なくとも、わたしが弓を一本選ぶとしたらです……。もちろん、このブレッシアの弓もまんざら捨てたものではありません。でも、このバイオリン、ここなる名匠の作になるこの楽器にはふさわしくありません……」
   「あんたも、そのバイオリンにはふさわしくない、あんたもだ! そもそも、この楽器そのものがだめなんだ!」
    これまでその存在自体が、誰にも気づかれていなかった、その誰かが叫んだ。驚いてみんなが振り向いた。薄暗がりの、そのドア枠にもたれて立っていたのはジャコモ、例の頭の少しおかしいジャコモだった。体中を震わせて彼は弟のアントニオに向かって叫んだ。
   「それをこの人に売っちゃだめだ。神の愛にかけて、この人に渡しちゃだめだ!」
    アントニオは兄の叫びに、自分自身の「我」も同意しているような気がした。この硬直した静寂のなかのすべてのものが、険悪な雰囲気に包まれた。やがて、フランチェスカ夫人がジャコモのほうに向かっていき、ループでふくらませた大きなスカートで、まさに、いともあっさりと彼をドアの外に掃き出して、その後ろでドアをばたんと閉めた。
   「申し訳ありません、カヴァリエーレ。あれはただの哀れなうすのろです」
    彼女は愛想よく言い、それと同時にゼッキーノ金貨の詰まったゴブラン織りの銭袋も、彼女の巨大な乳房の谷間に消えた。
   「あいつがうすのろだなんて断定することはできん」不意に、そして頑として父親のシニョーレ・アレッサンドロが割って入った。「そうとも、あいつを馬鹿呼ばわりするもののほうがだ、そいつのほうが間違っておるのだ」
    それから一瞬口をつぐみ、それから続けた。
   「たしかにちょっと変人ではあるのです。その点は議論の余地はありません。あいつのおかしなところを、それほどまじめに取る必要はありますまい。あいつになりかわって、わたしのほうからおわびをもうしますよ、カヴァリエーレ・トスカーノ」
    アントニオは黙っていた。騎士は自分自身の沈黙に苦しんでいた。そして鶏が鳴くまでにその沈黙で誰かを――ペテロがキリストにしたように――三度、拒否するのではないかというような気がした。しかしそれは火が消える最後の瞬間にぽっと赤く燃え上がるような、ただの、もやもやとした、ある一瞬の、かりそめの印象に過ぎなかった。そしてこの燃え上がる火に映し出された苦悩の影は、いま、このカストラートの痛々しい微笑の中で不意に消えた。アントニオはその反映を見た――鋭く、しかも決定的に。彼はバイオリンを騎士に渡して言った。
   「さあ、どうぞ、これはわたしの血と肉です。どうかお受け取りください。そして愛を注いでやってください」
    アントニオは目で銭袋を探した。なぜなら、この「性」をなくしたこの男に、その金を返そうと思ったからだ。しかし、銭袋がすでにないことがわかったとき、そんなものは最初からなかったのではないか、ただ、まぼろしを見たのだと考えた。騎士はバイオリンを受け取り、自分で持ってきた飾りのついたケースに収めた。
   「カーロ・マエストロ、もし『三人の女神』酒場までご一緒していただけるとありがたいのですが。郵便馬車は五時に出発します――それまでのあいだ、少しばかりお話しながら、この買物のお祝いに乾杯いたしましょう」
    アントニオはこの人物ののなかに、バイオリンの「魂」(訳注・日本語では「魂柱」)といわれている細くて丸くて小さな棒を探していた。やがて「三人の女神」酒場の静かな仕切り部屋で、事実、その「魂」を見つけたのだった。この酒場はもともと、どさ回りの役者や音楽家、楽器製作の親方たちの溜まり場であり、画工、詩人、放浪歌手、踊り手や、ヴィルトゥオーゾたちの住処でもあるし、また、ペテン師や占い師、いかさま賭博師の仕事の場でもあった。
    酒場の建物はベネチアン・ゴチックのひどい模倣であり、時間の嘴(くちばし)でついばまれた正面壁(ファサード)はサンタ・セチーリア広場の、奇妙な三角形の空間に面していた。そして、その空間は古ぼけたあばら屋や安酒場などで囲まれており、底ではいろんな種類のコメディア・デラルテの亜流が演じられていた。謝肉祭のころになると、ここからカーニバルの貴族が大勢の仮装行列を引き連れて出てくる。
    酒場のそばの大きな中庭の柵からは色のついた破片の山があるだけで、以前は門があったのだろうと推測される場所には、黒い鷲の紋章をつけた黄色い郵便馬車が昼も夜も一時間ごとに出発したり到着していたのだろうと想像できた。郵便馬車の御者の吹く丸く巻いた真鍮のラッパは絶えることなく鳴り響き、幻想のなかの旅人たちが、騒々しくもみ合いながら、あわてふためき、大声をあげながら乗ったり降りたりしている。
    下卑た叫び、オペラのアリア、犬の遠吠え、郵便馬車のラッパ、車のきしみ、馬のひづめの音、御者のののしる声、そういったものがみんな入り混じりあって、耳になじんだハーモニーをかもし出す。子供たちの楽しげな喚声、鞭のなる音、それがまた繰り返し、大きなうねりとなってクレッセンドする。馬車を止めるひさしの下で、または馬小屋の中で酔っ払った客がげろを吐き、また下男たちを伴った静かな一団は、あらゆる種類の用件をすませている。
    こういった自然主義的ばかばかしいシンフォニーとはちがって酒場の裏口は神を貼りつけ、蜘蛛の巣と汚れにおおわれた壊れた窓を通して、水藻の繁茂したマルキサーノ運河をのぞいていた――そして、ここ、運河に沿った一帯にはもの悲しい陰鬱な静けさが支配していた。
    店の中のいろんな障害物を避けながら進んでいくこの不思議な騎士の後に続いて、アントニオが入った部屋の小さな窓もこの裏側に面していた。簡単な相談で、白のボルドー・ワインに意見が一致した。そのほかにも騎士は、キジのパイ、スキャンピ、ロブスター、キャヴィア、四種類のサラダ、マヨネーズ、オリーブ、ハム、シトロン、サージンなどを注文した。彼は実にみごとなてさばきで、そのすべてを切り、さらに適当な大きさに切り分け、マヨネーズやオイルをかけ、混ぜ、押しつぶし、つつき、それから、この合成物を味わうようにアントニオにすすめた。
    ボルドー・ワインはそれ自身のなかに不思議な炎を秘めている。壁の中にはこぶし大の大砲の弾が黒くなって残っていた。これは以前、フランス軍かスペイン軍がこの窓をめがけて発射したものだろう。破廉恥な絵の落書きされた黄色のドアにはたくさんの蝿が金茶色をしてとまっている。鉛の枠に流し込まれた色ガラスの入った窓の、蝿の糞にまみれたカーテンを通して、ところどころ、燃えるような日差しがさし込んでくる。ときどき赤い服を着たせむしの給仕がビンや皿をもって二重のドアを押し開けて入ってきた。どこかの隠れ家でときどきネズミがチューチューと鳴いている……。やがて騎士は饒舌に語りはじめた。
   「そうですよ。わたしはベニスを崇拝しています。以前、ポンテ・ディ・リアルトの近くに、腐った杭の上に崩れかかった小さな館がありましたが、できるなら、あんなところに住みたいですね……。その他の町はみんな同工異曲です……。それらの町を描く画家はどんな絵の下にも、風呂連ストラディヴァリも、ウイーンとも、マルセイユとも書くことができますよ。しかしベニスはちがいます。その下にはそんなことは書けません……。秋になるとあそこには黒いゴンドラの上のザクロの茂みでもあるかのように、ふくらんだブドウの葉が赤く染まります。無数の色がたわむれる川岸の潟(かた)の面は血の色に変わり……、そしてすべての金メッキはそこではすべてがおぼろで、すべてのブロンズはグリーンに、そしてガラスでさえも、あそこではそれほどギラギラとは光りません。それに朝も、あそこでは薄い闇です……、ベニスの朝のように、なんとなくもの悲しい朝を、これまでにご覧になったことはありますか?」
    アントニオはワインを飲み、知らないと首を振っただけだった。
   「あの皇帝軍の連中、プロムナード・コンサートのときにはサン・マルコ広場で騒々しくわめきたてるだけ……、何百年来の石造りの提督官邸はあきらめ顔に苦笑するだけです――彼らもきっと『双頭の鷲』の大崩壊とともに消えていきますよ……」
   「そうですとも、消えてしまいますよ」
   「しかし、そのことについて、わたしは話したくありません……、わたしは、ほら、女たちみたいにおしゃべりなんですよ……、ハーレムの宦官たちも同じようにおしゃべりだと聞いたことがあります……、きっと、あなたも、こんなことがどうしてわたしたちに興味があるのか、おわかりだと思います……このいまいましい運命の親近感からですよ……。わたしはコンスタンチンープル(イスタンブル)にいったことのある人には誰であれ、そのようなサルタンの王宮の番人と話したことがあるか、彼らはいったいどんな風だったかとたずねるのです……。いつか演奏旅行に出かけるようになったら、一度、コンスタンチノープルに行きますよ。そしてこれらの運命的同族と王侯の贈物を分かち合うことにします……、わたしは復讐するためにすべてを彼らと分かち合いたいのです」
    彼は、何かに対する勇気を自分の中に吸いとリたいかのように、一気にワインを飲み干した。彼は自分の手で作った混ぜもの料理をたぷりと食べ、レースのハンカチで蝿を追い払ってから、また饒舌に語りはじめた。
   「わたしは復讐するためにと言いました。なぜなら、そうなることがわたしの復讐になるからです。わたしには二十一人の兄弟がありました。六人が女で、あとは全部男です。わたしたちはひどい貧困のなかで育ちました。それは土地もち百姓にとって市民層や小作百姓より、もっとひどいものでした……。わたしたちの家の膨大な財産は父の馬鹿な行為のおかげで灰燼(かいじん)に帰してしまったのです……父はおろかなことに、『金』を作ろうとしたのです……ヨーロッパじゅうのいかさま師たちが入れ替わり立ち代わりわたしの家にやってきました。一人が去るとその一人は別の一人をよこしました。その男にも何かにありつかせるためです。
    でも、もう、そのころには錬金術をやっている人など、どこにもいませんでしたよ! 山師と気の違ったやつらだけです。金持ちの気の違ったやつが一人だけ残ったのです。それが父でした……そして父のところに集まってきた盗人たちが何もかも持ち去っていったのです……。
    それに兄弟たちはカードのギャンブルにつぎ込みました。見境もなにもなく、目を血走らせて、毎日二十四時間、賭けをやっていたのです。ただ、ひたすら昔の財産を取り戻すために。兄弟たちは『ファラオ』という危険な賭けだけがそのただひとつの方法だと本気になって考えていたのです。彼らの情熱は何かの幸運の助けを賭けの中に試すというところまできていたのです。しかし、すべて負けでした。負けて、負けて、負けつづけ、社会のつまはじきになってしまったのはもちろんのこと、最後のには国じゅうからも追放というところまで落ちてしまいました……。それはわたしの六歳のときでした。わたしたちは全員あまり評判のかんばしくない乞食になりさがっていました。
    そんなある日、わたしのなかから突然音楽が噴出してきたのです。いまになってもわたしはその瞬間を呪わざるをえません。わたしは旅回りのの音楽家の手からヴィオラを取ると、まるで何年もまえからその楽器を習っていたかのように弾いたのです。気が付いたときには、わたしは神がわたしにその音楽を吹き込んだのだといわんばかりに弾いていました。それとも悪魔でしょうか。一人の悪魔のような顔をした年寄りの楽長が、わたしに音楽をただで仕込んでやろうといって引き取ってくれました。それによって、わたしは一家の希望の星ともなったのです。わたしはほかのどんな楽器でもうまく弾けるようになりました。それに歌も……」
    彼の唇はゆがみアストラカンのコートの幅のひろい襟に丸い涙の滴(しずく)が落ちた。三番目のボタン穴にさした硫黄のような黄色のバラが色あせていた。彼はこみあげてくる嗚咽(おえつ)の道をふさぎでもするかのように、急いで混ぜものの料理を飲み込んで、大きな涙の滴のたれたグラスから、たっぷりとワインを口に含んで、口のなかのものを流し込んだ。
   「うたうこと……、それはわたしの運命です……歌……あの悪魔の顔をした楽長はいつもいつもカストラートについて説明していました。いかに完璧な音域をもっているか、いかに大きな富を宗教的、世俗的な王侯から、また、その合唱団で、また、演奏旅行で、舞台で、教会で得られるかを……。そして家族の会議でもわたしの『男性』を犠牲にすること、そしてその代償に昔の財産をふたたび取りもどすということが決定されたのです。
    たしかに、この騎士の称号も、その意味するところは、まあ、護身です……、そうなるように洗礼のときにすでにわたしの未来はそうなるべくきめられていたのです……わたしは愚か者や悪党、殺し屋やいかさま賭博師の犠牲になるように生まれてきたのです……、もう、ここまで話したら多分おわかりでしょう。何をわたしが言いたいのか……、わたしは一度、すべてのことを誰かに、トウヒの木からバイオリンのなかの魂を削りだすことのできる人に話さなければならないと……それに、誰が……、誰にわかるものか、魂のないバイオリンなんて、そんなものはバイオリンではない……!」
    アントニオは長いあいだ答えることができなかった。ただ、壁の黒い大砲の弾を、まるで生まれてはじめてみたかのように、ひたすら見つめに見つめていた。それからやっと静かに話しはじめた。
   「バイオリン製作者はどんなバイオリンにも魂(柱)を入れます。しかし、もし、魂柱の外側の端と駒の内側の端が完全に一致していないと共鳴板がうまくいきません」
   「まったく、そのとおりです。うまく響きませんね。わたしはおなじ安定度で力と軽やかさで、ソプラノからバスまですべての音域をうたうことができます。また、ほとんどの楽器をおなじくらいの技術で弾くことができます。舞台ではどんな役でもこなします。しかし、それでもわたしの声の音色のなかには、何か邪悪なものがあるのです。楽器の演奏技巧においては、大したことではなくても、声の場合にはそれが大きな意味をもつのです。
    舞台の上では、わたしには男性的身振りが、それに女性の役では女性的なしとやかさが欠けているのです。このような欠点について、おなじ運命にあるわたしの同僚たちは何も知らないのです――しかし、わたしはあらゆる瞬間にそれを感じています。お分かりでしょう、わたしの苦しみにはダンテの『地獄』がかけているのですよ!」
    アントニオの頭のなかにバラダイスが浮かんだ。そして、自分の青春時代のベアトリーチェのことを思い出し、そして言った。
   「わかります」
    騎士はボルd−・ワインを仰いで喉に流し込んだ。そして、猫の目のような黄色い彼の目がきらりと輝いたかのように見えた。
   「きょう、わたしは庭で幼いオモボノと遊びました。この子だけは、ほかのこのように、わたしから逃れようとしませんでした。しして、ほんの一瞬のことですが、この子はわたしの……息子だと信じたほどでした。もちろん、あなたはあのお子さんを絶対にくださいませんよね。だいいち、わたしのような、こんなすさんだ生活には向きませんよ……でも、放浪の生活のあいだに、あの子を自分の息子だと、ふと思うことがあったとしても、どうかお許しください……。そしてあなたのバイオリンを弾くとき、これはオモボノが泣いたり、喜びの声をあげたり、笑ったりしている、この音で、あの子が天使の笑いを笑っているのだと思うのをお許しください。
    わたしみたいな人間は、いずれにしろ長生きはしません。ただ、虫食いの果物のように一日一日、腐っていくだけなのです。そしてやがては道端の水溜りのなかに落ちて吸い込まれてしまうのです……。わたしは例のわが家の盗人どもの一団を、たえず、いいかげんにあしらっています。わたしが大金を手に入れたら、あの膨大な領地を買いもどしてやると約束しています。そしてトスカー家の紋章も昔の光を取りもどすだろうと……。しかし、それは嘘です……いつか、わたしがすべてを売り払ったら、わたしの召使がすべてのお金をオモボノに、わたしのかわいい息子にとどけさせます。
    そのことは誰も知らないでしょう……あの悪党どもも……。しかし、いまはもう馬車が来ます。どうも、ありがとう、わたしに同行していただき、話を聞いてくださって……、わたしは酔っ払いでも、あほうでもありません……」
    彼は卑猥な落書きのある黄色のドアの向こうに消えていった。まるで幽霊(ファントム)のように、眠気が襲ってきたとき、やがて朦朧とした意識の渦の中に飲み込まれているとき、わたしたちのまわりを飛びまわり、やがて遠くの国へ旅立っていく夢うつつの幻覚のように消えていった。
    そして十二年後、彼はかつて語っていたような、ある小さな古ぼけた館のなかで、その楽器が彼の死を予告し始めたとき、「三人の女神」酒場での自分の告白を思い出していたのだった。




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