第12章 チェコスロバキア共和国の社会主義的性格を求める戦いにおける文学 




[目 次]

(1)社会的、政治的位置づけ
(2)大戦後のヴァイタリズム
(3)ヤロスラフ・ハシェク
(4)プロレタリア詩への努力
(5)1918年以後のS.K.ノイマン
(6)インジフ・ホジェイシー
(7)イジー・ヴォルケル
(8)ヨゼフ・ホラ
(9)アヴァンギャルドのはじまり
(10)イヴァン・オルブラフト
(11)マリエ・マエロヴァー
(12)20年代文学の傍流・初期のカレル・チャペック
(13)20年代の演劇活動
(14)30年代の展望
(15)ヴィーチェスラフ・ネズヴァル
(16)コンスタンチン・ビーブル
(17)フランティシェク・ハラスと唯心論的傾向
(18)ヴィレーム・ザーヴァダ
(19)30年代詩人のその他の作品
(20)ヴラチスラフ・ヴァンチュラ
(21)社会主義リアリズムへの努力−ベッジフ・ヴァーツラヴェク
(22)ヤロスラフ・クヴァトフヴィール
(23)マリエ・プイマノヴァー
(24)30年代の散文作家のその他の作品
(25)ユリウス・フチーク
(26)30年代のカレル・チャペック
(27)30年代の演劇
(28)占領から勝利の「二月」までの政治的発展
(29)占領時代の文化活動
(30)解放から「二月」へ

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 (1) 社会的かつ政治的文脈(コンテクスト)                 

 1918年10月28日に宣言されたチェコスロバキア独立国の建設は、本来、民族再興運動の頂点であった。なぜなら近代民族の最後に残された属性たる民族統一 ――国家的統一――が達成されたのだからである。しかし、その国家は民主的ブルジョア型の国家として形成されたのだったが、そうような国家形態はすでにその全盛期を過ぎ、帝政ロシアの廃墟の上には最も進歩的国家形態が形成されていたという時代だったのである。したがってチェコスロバキア国家はその成立の端緒からある程度アナクロニズムの弊をまぬがれなかったのである。
 もちろん、その根は戦争前の時代にある。オーストリアにおける社会民主党は1907年の選挙の勝利を十分生かすことができず、信用を失い、1911年におこなわれた選挙のさいには、時すでに大勢は帝国主義的世界大戦への歩みを進めていたのだが、チェコ社会民主党は意見表明すらなしえなかった。社会民主党は民族問題の解決にたいする無能力性のゆえに、またチェコ民族はオーストリアの枠のなかにおいてのみ存在しうるという信念のゆえにチェコの領土内で民族解放運動の先頭に立つことができなかったのである。
 社会民主党の立場は戦争の勃発によってさらに一層弱められた。なぜなら、主戦力である労働者党は戦争に賛成と宣言したからであるフランス社会党もオーストリアの社会民主党もまたドイツのも同様であった。またイギリスの労働党もロシアのメンシェヴィキも「祖国防衛」に立ち上がった。労働者党は戦争を許さないという希望は、したがって御破産になったわけである。そして1912年にバーゼル(スイス)においておこんわれた第二回インターナショナルにおいて V.I. レーニンが「社会民主党は自国が戦争に突入することを望んでも自国を支持しないだろう」という原則を提示したことによって、立場は一層苦しいものとなった。
 わが国においてはブルジョアジーの利害が分裂していたため、状況はなおさら複雑であった。ブルジョアジーはまず第一に専制国家に賛成であった。彼らはその国家の枠内 大きな経済的全体内で経済的に成立しえた。しかもその一部は戦争中でさえ専制国家に忠誠でありつずけた。しかしながらブルジョアジーの大部分は戦争中、大衆の専制国家にたいする憎悪を意識しつつオーストリアの崩壊を計算に入れ始めていた。しかし、それは統一的なものではなかった政治家のあるものたちは帝政ロシアを指向し(K.クラマーシュ)、他の政治活動の代表者たちはまた西側勢力に顔を向けていた(T.G.マサリク、E.ベネシュ)。
 この状況下にあって、戦争の嵐はたちまち社会的利害を圧倒し民族は一体として理解された諸々の願望の前面には民族解放の努力が押し出された。政治運動の共通の基盤としては、もちろん文化の意義が増大した。文化活動は歪められはしたが完全に圧殺されることはなかった。文学は民族意識、勝利の信念を鼓舞し、半信半疑のものに確信を与える重要な役割をになった。この時代にディク、ソヴァ、トマン、その他の詩人の詩が説得力を発揮した。
 この息吹をさらに盛り上げる大きな衝動となったのが、産業の中心地における劣悪な食料供給がもとで引き起こされたハンガーストライキと、とくに十月社会主義大革命の巨大な反響であった。その精神的ショックのもとでストライキの波は広まり、軍隊内での反乱にまで達する(とくに1918年5月21日、ルムブルク Rumburuk における反乱)。1918年のメーデーも大きなデモンストレーシンとなった。国内での反乱(軍隊からの逃亡に刺激された)とともに国外での反乱も重要である。これはロシアでも、フランスでも、イタリアでもブルジョアジーの支援する義勇軍として形成されたが、赤軍の戦闘へのチェコ義勇軍の参加によって社会革命的形態を取りつつあった。1918年5月にはモスクワの大会でロシアにおけるチェコスロバキア共産党が設立された。
 公的な政治は長い間逡巡し、足踏みをしていた。そこで作家たちは1917年5月17日の「夜の集会」(Vecer;Jar.クヴァピルによって企画された)における宣言によって発言した。この宣言のあとチェコの政治、文化の代表者たちの活動が次々と続く。1918年4月13日には A. イラーセクが独立のための戦闘へのチェコ民族の決意を読み上げ、5月16−19日にかけての国民劇場の建設記念日は全国民の意思表示(マニフェスト)の催しにふくれあがった。しかしながら指導力は1918年9月初めに社会主義評議会Socialistecka rada)を創設した労働者階級であった。いくつものデモンストレーションが起こり、10月半ばには幾つかの場所で独自のチェコスロバキア共和国が宣言された。労働者運動の力の影響のもとに民族解放の前面にブルジョア階級が押し出されたが、その政治的代表者たちは1918年7月にすでに民族会議を形成していた。この議会は1911年の選挙の結果にもとづいて政党の代表者から構成されていた(したがって、この状態は現実の勢力分布には対応していないのは当然である)。チェコスロバキア独立国は10月28日にこの国民議会を召集した。そしてスロバキアの代表者たちは二日遅れてマルティナの会議でこの国家に連合することを決めた。
 すでに述べたように、新国家はとくにオーストリア産業の大部分(織物工業約80%、化学工業約75%、製糖約75%)が集中しかつ強力な労働者階級の存在するチェコ領土は、もともとアナクロニズムだったのである。だから新しい国家はその成立の当初から、両大戦間時代の全期間の性格を決定づける厳しい階級闘争が備わっていたのである。労働者階級の最初の成功はKSC(チェコ共産党)の創立であり、それは社会の進歩的部分の前面に立ち、全民族の次の発展はこれと密接に結合していた。それはまた社会の主導的勢力としてすべての事件に反応し、社会の発展はそれの歴史のなかにはっきりと反映しているのである。それゆえに、チェコ共産党の歴史における主要な事件もまた文化発展のなかに現れ、事実、わが国の文学の時代区分の節目にもなっている。党の誕生1921年、そのボルシェヴィキ化が1929年、その非合法化1938年、そして再生が1945年。これらの日付のおのおのは実際、社会主義国家への闘争の一つのエポックを示しているのである。
 文学は社会的発展にどのように対応しているのであろうか? 第一次世界大戦後の最初の月々はヴァイタリズムの波に浸されていた。もちろんヴァイタリズムは戦前にすでに記録されている。やがてプロレタリア詩と表現主義の弱々しい波が起こってくる。資本主義の一時的停滞の間にプロレタリア詩は低落し、いわゆるアヴァンギャルドが広がる。しかし、同時に「精神の涵養」(tribeni duchu )運動が起り、その間に思想的に進歩的であ
ったものが生命的なものとして現象していたことが明らかにされる。そして文学の「左」か「右」かへの分類にさいしては文学の巨匠たちは大概「左」への道を選んだ。1929年以後、ファシズムとの戦いがだんだんと深刻さを増し、そのため「精神の滴養」運動は終わる。それは占領期間中にも、1945年の解放と1948年2月の勝利との間の短い期間にも現れた。

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 (2)大戦後のヴァイタリズム


 独立国の建国は大衆の熱狂とともに受け入れられた。人生は美しく見え、また戦争の狂気のあとの文学生活のなかに快い楽天主義がヴァイタリスティックに広まった。なぜなら物質生満の喜びはすでに戦争以前に予告されており、それがいま新しい具体的内容を獲得したからである。ヴァイタリズムにとって特徴的なのは唯物論的世界叔と最も単純な生活現象の詩化であった。詩、そして文学自体が何よりも肉体の賛歌であり、理性的にとらえられたのではなく、感覚的にとらえられた具象的生活の賛歌であるはずであった。創作的面から言えばヴァイタリズムの傾向は素朴な生活を賛美しつつ、表現手段の単純化を要求し、この論点から原始主義(プリミティヴィズム)の問題も起こってくる。
 これらの諸傾向の前面に現れるのはフラーニヤ・シュラーメタである。Fr.ハラスHalas)は数年後、シュラーメタについて「彼は幻惑し、挑発し、それどころか怒らせた」と書いている。シュラーメタの長編小説『肉体』(Telo,1919)ほ「動物的本能の神格化と性格づけられたが、それは告白でもあり、呼びかけでもあった。今になって初めてノイマンが『森と水と谷間の書』において形象化したような生命の異教徒的快楽もまた十分堪能できたのである。しかしノイマンの場合には『新しい歌』(Hove spevy)のなかで詩的に表現された人間の労働や人間に仕える機械の威力による魔力が自然による魔力ときわめて近いものになっていた。この詩集の理論的案内者とも言えるのは論文集『人生万歳!』(At zije zivot!1920)である。
 ノイマンはここで、いまだに老醜をさらす象徴主義やアカデミックな詩に対抗する新しい方向として、表現主義、キュービズム、未来主義を提示している。この新しい芸術については当時、文明詩(Civilizacnipoezie)というふうに呼ばれていた。世界を作り変える人間の労働のノイマンの賛歌はすでに集団のヴィジョン、そして労働者の仕事の賛歌となっていた。
 ヴァイタリズムの重要な代表者はペトル・クシチュカ(Petr Kricka,1884−1949)であり、同時にロシアの詩、とりわけプーシキン、レールモントフ、その他スラヴの民族英雄物語詩(ビリン=bylin)の最もすぐれた翻訳家の一人としても知られている。彼の詩『メディニア・グウォゴウスカ』(Medynia Glogwoska)はまさに塹壕のなかで書かれたものだが、最初の−まったく最初ではないにしてもーわが国の詩における宣戦布告であった。クルジチエカの詩作品は彼の表現の直接性と表現力によって単純な事象から喜びを取り出している。なぜなら、われわれがいつもその周りを歩きまわっていながら気づかずにいる世界を発見しているからである。クシチュカは事物にたいする喜びに満ちた関係をきわめて暗示的に表現することができたが、それは彼がしばしば民衆歌謡の抑揚に接近する単純な形式をもちいているからでもある。
 世代の感情を最もよくとらえているのは彼の最初の三つの詩集『野ばらの繁み』(Sipkovy ker,1916)『白い破風』(Bily stit,1919)『弓をもった少年』(Hoch s lukem,1924 )である。クルジチュカは多くの詩を彼のホラーツコ(Horacko )の家に捧げている(彼はモラヴァのケルチュ Kelc に生れ、幼年時代をチェコ・モラヴァの高地ですごした)。
 ヴァイタリズムには一人の早世した詩人がある。それはバルトシュ・ヴルチェク(Bartos Vlcek,1897-1926)である。彼の最もよい詩は生れ故郷のヴァラッシュスコ(Valassko)に捧げられている。ヴァイタリズムの波はそれ以後の作家たちにも影響をおよぼしている。例えば、チャペックの『愛の盗賊』(Loupeznik )に。しかし、全体的に見ればほんの短い挿話にすぎなかった。戦後の興奮はいちはやく冷酷な酔い覚めの気分に取って代わられたが、その理由は階級的政治姿勢にあった。

 最初のチェコスロバキア政府は戦争終結時に構成された国民議会(Narodni vybor )と同じ構成をもっていた。政府は十月社会主義革命によって呼び覚まされた革命運動の圧力のもとに一連の進歩的施策を法制化した。なかでも一日八時間労働、ストライキ権、土地改革についての法律である。しかし、同時に労働者階級の力が過大になるのを防止しようと努め、約束はしたものの実は実現する気のないものも多かった。そんなわけで、たちまち階級闘争の火の手があがった。
 そのことは1919年の普通選挙ですでに危険信号が出され、1920年の民族議会への選挙が状況を一層きびしくした。なぜなら、その両方の選挙から最も強力な勢力として社会主義の諸党が選出されてきたからである。1919年の選挙の後、社会民主党を前面に打ち出した新政府が設立されはしたが、この政府は必要とされる革命的施策を実行する気など毛頭なかった。深刻化していく状況のうちに1920年の末、いわゆる「実務的(urednicka)」内閣が任命され、これによって長年にわたるブルジョアジーとの闘争は本質的に決着を見ることとなった。つまり労働運動は敗北したのである。しかし幅広い階層の期待を裏切った社会民主党の内部に対立が生じ、左翼は分離し、1921年5月にチェコ共産党を結成した。1922年、ただちに厳しい反共産主義的な施政方針が政府によって打ち出されたが、チェコ共産党が結成後初めて立候補した1925年の選挙では約百万票を獲得した。これによって共産党はチェコ国内で第二の強力な政党となったのであり、新しい階級闘争の頼るべき基盤となったのである。


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 (3)ヤロスラフ・ハシェク  Jaroslav Hasek


 ブルジョアジーの勝利は――それは20年代の半ば以後に起こってくる経済的繁栄に大きく助けられていたのだが――それを代表する文学的努力のなかにも現れたものの、成果は貧弱なものだった。そのことを如実に示す例がルドルフ・メデク(Rudolf Medek,1890-1940)である。1921年に彼は五部からなる『遠征』(Anabazi )を出版しはじめるが、この作品はロシアにおけるチェコスロバキア義勇軍の運命を扱ったもので、民族主義的な政府の政治方針の意向にそって描かれている。このチクルスはロマン『火を吹く龍』(Ohnivy drak )によってはじまり、『偉大な日々』(Velike dny,1923 )と名付けられたチクルスの第二部は国家の表彰を受けたが、このチクルスの芸術的価値は高くない。シャルダは愛国主義的駄作と評価し、ユリウス・フチークはメデクの愛国主義的書物を「愛国的殺人鬼小説」と呼んだ。
 はるかに大きな――公的に支援されたのではない、自発的な――反響を得たのは、多くの場合、戦争にたいして否定的視点をもつ作品だった。その一つがヤロスラフ・ハシェクの『世界大戦中の善良なる兵士シュヴェイクの運命』(Jaroslav Hasek;Osudy dobreho vojaka Svejka za svetove valky )である。この第一巻はメデクの愛国的五部作の開始と同じ年に出たが、ハシェクの作品は残念ながら未完におわった(ハシェクは三部と第四部の一部を書き終えただけだった)。しかしそれでもこの作品は単純な人間の目から見た戦争の最高の描写であり、わが国の社会主義文学の最初の偉大な作品となった。
 ハシェクはいまや伝説上の人物となっている。チェコの作家にかんしてこれほどの思い出や回想記やいろんな物語が書かれた例はまれである。しかしまたこれほどスキャンダルや風説に満ちた作家も多くない。ある時期、酒場でハシェクと同席し、一杯のビールをおごり、ハシェクの名声に熱くなったさまざまな善意の人々の努力がしばしば取り沙汰される一方で、彼の現実の人物像を意図的に偽ろうとする試みもしばしばあったのである。最近になってやっと彼の本当の生涯と彼の人間的実像を掘り起こそうとする努力が熱心におこなわれている(R.ピトリーク『さまよえる子鴨』R.Pytlik;Toulave house 参照)。

 ヤロスラフ・ハシェクは1883年にプラハで生れた。彼の父は中等学校の教師だったが、後に銀行員になった。幼時、ヤロスラフはかなりの貧乏を体験した。デモに参加してギムナジウムを退校させられ、短期間、薬局の見習となる。その後、商業学校で中等教育をおえる。彼の人生の特徴は権威にたいする反抗であった。だから、確固たる生活基盤を得ることに失敗したのも当然である。彼は人生の大半をボヘミアンな生活ですごした。しかし、同時に彼は非常に多作な作家だった。彼の作品はすでに1918年には活字になっていた。
 ハシェクの文学的発展にとって重要な意義をもつのは、チェコ地方から当時のハンガリー、ハリッチュ地方を徒歩旅行したこと、またアナーキストと接触し、彼らの挑発運動にも参加したことなどがある。当時のチェコ・ブルジョア政治批判の冠たるものは、1911年、法律の枠内で緩やかな進歩の党を創立し、その代表としてプラハ・ヴィノフラディ地区から立候補したことである。
 ハシェクの人生における転換点となったのは戦争だった。彼はオーストリア軍に入隊したがハリチュ地方での前線でロシア側に逃亡した。義勇軍に入り、義勇軍の出版物に記事を書いたが、その後ボルシェヴィキに移り、入党して赤軍に入った。ここで彼は政治委員の役を見事に果たした。1920年、チェコスロバキアにおける革命運動の援助を呼びかけられて帰国した。しかし革命の波は彼の帰国の時期にはすでに粉砕されており、その上、反動的出版物が彼に攻撃を加えた。ハシェクはプラハを出てハヴリーチュクーフ・ブロットの近くの村リプニツェ(Lipnice )に移って、シュヴェイクにとりかかったが、作品を完成することなく1923年1月23日に死んだ。

 ハシェクの文学活動は大量の風刺的でユーモラスな短編を生み出し、それらの作品はいろいろな形で雑誌に掲載された。だが、そのうち本の形で出版されたものはほんのわずかにすぎない(例、『テンクラート氏の苦境』1912、『外国の車掌およびその他の旅先からのまた国内からの風刺集』(Pruvodci cizincu a jine satiry z cest i z domova,1913;『わたしの犬商売、およびその他のユーモア譚』(Muj obchod se psy a jine humoresky,1915 )。それらのなかに『善良なる兵士シュヴェイク、およびその他のびっくりするような物語』(Dobry vojak Svejk a jine podivne historky,1912)もふくまれている。そのタイトルの人物はその後、風刺物語『捕虜になった善良なる兵士シュヴェイク』(Dobry vojak Svejk v zajeti,1917 )ではロシアで生き返る。ハシェクの短編の最もよい側面を示しているのは1972年に出版された『ユーモアと風刺の十日物語』(Dekameron humoru a satiry )である。
 ハシェクの風刺はその発端からオーストリア専制体制の社会的残滓を攻撃し、また支配階級社会を嘲笑したのだった。彼は被抑圧者の視点から社会を見たから彼の目は苦渋と同情に満ちていた。ハシェクの「大きな」テーマは支配階級にたいする最も単純な人間の反抗であったが、それはいろいろな姿をして現れた。そして最も多いのはおどけものの格好でであった。ここでハシェクはオイレンシュピーゲルという人物に起源を有する民衆のユーモアの古い伝統に結びついている。彼の場合にも最も好んだテーマは健全な理性と、それによってまったくどんでん返しをくらう秩序とのコントラストであった。それゆえにまたハシェクの風刺は、しばしば伝統的関係の急激な転覆にもとづいている(このこと自体、謝肉祭的馬鹿騒ぎや、古代ギリシャ喜劇を思い起こさせる)。
 例として短編『身分差別』(Stavovske rozdily )を取りあげてみよう。領地の監督と領地の執事は友人である。だが二人が一緒に酒を飲み、ちょっとした失態をやらかすようなときには、村中にはきまって「昨日、監督のニクルスはぐでんぐでんに(豚のように)酔っぱらい、執事はいささか上機嫌だった」と伝わるのだった。あるとき、この悪友の二人組が制服の村の警邏兵を池のなかへ放り込んだ。そして裁判になり、執事は一カ月の刑を言渡され、監督は無罪放免となった。それというのも彼は自分の行為を意識していなかったらしい、たしかに「彼は豚みたいに(=ぐでんぐでんに)」酔っぱらってからというのだ。判決が宣告されてから執事は絶望的に叫んだ。「なんてこったい、おれだって豚みたいだったっていうのに!」しかし、そう叫んでもなんの足しにもならなかった。
 ハシェクの主著は『善良なる兵士シュヴェイクの運命』である。1921−1923年にかけて書かれたが未完におわった。たしかに「ルデー・プラーヴォ」のコラムニスト、カレル・ヴァニェク(Karel Vanek )が続きを書いたが、ハシェクの理念(コンセプト)を理解していず、低俗に堕している。ハシェクの『シュヴェイク』はとくに Jos. ラダの挿絵とともに最も読まれているチェコの本の一つである。多くの言語に翻訳され、映画化もされ、舞台用にも脚色された。今日ではその作品は世界文学の一部となり、民衆的英雄の代表者となった。この英雄こそ不条理な権力にたいし、そのナンセンスな規則や命令には一言一句にいたるまで忠実に従いながら、その奇怪さを暴くことによって抵抗するのである。
 しかし、この人物は徐々に成長していった。1912年にハシェクの作品のなかで初めてシュヴェイクの名前にでくわすとき、それはオーストリアの軍服を着た愚か者であり、体の末端まで熱烈なる忠誠心に満ち満ちていたのである。そのうち軍国主義批判のなかでグロテスクな活力が優勢となる(この点で彼はシュラーメクと結びついている)。しかし最終的な人物像においてはグロテスクさが社会批判の任務をあてがわれる。シュベイクはもはや愚かな馬鹿ではなく、狡知にたけた小悪党に変身するのである。今や、重点は人間屠殺場へ人間の群衆を追い込む体制の嘲笑と断罪に、軍国主義と帝国主義戦争の断罪にある。もし、戦前期のシュヴェイクの原型において個人の愚かな態度が批判されているのだとしたら、今や俎上にのぼらされているのは社会の全秩序なのである。この境地への成熟に寄与しているのハシェクの戦争の実体験であり、また民衆の抵抗に新しい意味を付加しつつあった民衆の革命運動であったことは確かである。

 シュヴェイクの人物像は当然のことながら美的なものの嗜好者たちの反発を招いた。なぜなら彼らは、理想化されてもいなければ、振舞いも粗野な庶民的英雄に我慢がならなかったからである。だが、その粗野さ自体は決して自己目的的なものではない。シュヴェイクは粗野な状況のなかで粗野に振舞うのである。たしかに言うことは、言葉を選ばず、あけすけだし、行動には洗練のかけらもない。しかし、それでも正しいのである。ハシェクの風刺は粗野な戦争にふさわしく、残酷であった。それだから一層効果的だったのである。 シュヴェイクの人物像にたいしては、また視野があまりにも原始的な快感に限定されているという非難が寄せられている。しかし、それこそが戦争のなかでの人間の行動の典型なのである。ハシェクの戦争描写は、もちろん、メデクの描写とは正反対である。彼は英雄的夢を描いてはいない。むしろ人間屠殺場への道程を描いているる。そして人間は他の人間の利益のためにそこへ狩り立てられているのだ。
 だが、同様にハシェクにはシュラーメクが短編集『臆病な兵士』のなかで提示しているような戦争の悲惨のヴァイタリズム的な描写とも無縁である。ハシェクは戦争を生み出す軍国主義にたいする容赦のない憎悪に満ちた批判を提示し、非人間性を暴き、とくにオーストリーの戦争機構の途方もない愚かしさ、そしてその戦争機構に仕える人間たちの馬鹿さかげんを暴いているのである。オーストリー追従者の愚昧さにたいするハシェクの風刺の傑作は、収容所からシュベイクの女家主ミューラー夫人にあてた手紙である。愚かな検閲官が有害な言葉を削除しようとして、全体の文意を理解しないためにまさに肝腎な言葉は残しているようすが読者にはわかるのである。


 親愛なるアニンカ様! 私たちはここで快適にすごしています。そして全員健康です。隣のベッドの隣人は斑点のある×××××をもっています。それにここには黒い×××××もいます。そのほかはすべて順調です。食事はたっぷりあり、スープ用のジャガイモの×××××をかき集めています。わたし、シュヴェイクさんがすでに×××××と聞きましたのよ。ですから、あの方がどこに横わっておられるか、それとなく聞き出してちょうだい。戦争が終わってあの方のためにお墓の手入れができるようにね。あたし、あなたに言うの忘れてたわ。地下室の右手の木箱のなかに小さな犬がいるわ。小犬よ。でもその小犬は×××××のためにみんなが私のところへ来たときから、もう何週間も食べるものをもらってないの。だから、私、もう間に合わないかもしれないと思うの。そして、その小犬も本当にもう×××××と思うわ。


 シュヴェイクの人生にたいする関係は――彼の社会的位置付けによっても明らかなように――知性主義とは無縁であるし、動物的に粗野である。このことはこれまでも非難されてきた。しかし、その姿勢は大戦後のヴァイタリズムについて見出だされるものと本質的に同じなのである。ただ、異なった次元に移されているだけである。帝国主義戦争の残酷さを暴くところでは、シュヴェイクは残酷に語り、そのシステムの愚かさを暴くところでは言葉を惜しまない。しかし、本質的には彼自身と同様の環境におちいっている貧しい人々との人間関係は深いところで保っている。それは彼のブヂェヨブィツェ(Budejovice)への放浪の旅のとき、駅の食堂でハンガリーの負傷兵にどのように対応したかを思い出せば十分であろう。

 これらの苦痛の志願者の一人が野戦病院での手術のあと解放されてきた。血や泥のしみにまみれた軍服を着てシュヴェイクのそばに座った。なんだかばかに背が低く、痩せていて、悲しげだった。テーブルの上に小さな包みを置き、ボロボロの財布をひっぱり出し、何度も何度も金を数えなおした。
 それからシュヴェイクを見つめて尋ねた。「ハンガリー人かね?」
「兄弟、わたしはチェコ人だよ」シュヴェイクは答えた「どうだい、飲まんかね?」
「Nem tudom,baratom 」
「かまうもんかね、兄弟」
 シュヴェイクは自分のいっぱい注いだグラスをその悲しげな兵士のまえに置いてすすめた。
「さあ、グイと飲みなさいって」
 彼は理解し、飲み、感謝した「Koszonom szivesen 」そして自分の財布の中身をしらべて、最後にため息をついた。シュヴェイクはそのハンガリー人がビールを飲みたいのだろうと理解した。だが金が足りないのだ。それで、彼のために一杯注文した。それにたいしてハンガリー人はふたたび礼を言い、シュヴェイクに身振りで何かを説明しはじめた。彼は自分の撃ち抜かれた腕を示し、同時に国際語で言った。
「ピフ、パフ、プッツ!」
 シュヴェイクは気の毒そうにうなずいた。すると小人の傷病兵はなおもシュヴェイクに語りかけた。左手を下げて地面から半メートルくらいのところを示して、指を三本立てた。つまり小さな子供が三人いるというのだ。
「Nincs ham,nincs ham 」
 彼は家では食べるものがないと言おうとしてそう続けた。そして、汚い軍服の袖で涙のあふれ出る目をこすった。その軍服にはハンガリー皇帝のせいで彼の体のなかに飛び込んできた弾が空けた穴が見えていた。

 シュヴェイクは多種多様な命令や規則をナンセンスなものにしてみせる一方で、絶えずすべてのものに注釈をつけた。それは彼の批評性の二つの平面である。ハシェクはこの注釈にさいしては彼の人間状況についての完璧な知識とその尋常ならざる語り手としての能力を発揮させた。シュヴェイクの話題の豊かさは端的に言って無尽蔵であり、またその話の正確な場所の設定、その話のなかに登場する人物たちの名前が具体的に与えられていることなどによって、シュヴェイクのグロテスクな物語はリアルな色合いをおびている。まったくのところ、ハシェクのグロテスク性は本質的にリアリスティックなのである。彼はありそうもない状況を作り出すのではなく、人間関係のんかのグロテスク性を暴き出すのである。もちろん惜しみなく誇張もするが、われわれをリアリティーの外に連れ出すことはない。むしろ新しい視点からリアリティーを見ることを教えてくれるのである。
 そのことはハシェクの言葉の魔術によってさらに倍加される。彼の小説のなかには、もちろん、大急ぎで書きなぐったもの、でっちあげられたものもあるが、もともと彼はその大半を一気呵成に書いたのである。だから、すべてが同じ価値をもってはいない。それでも随所にハシェクの言葉のおもしろ味にたいする偉大なセンスが見られるのである。同時にそれは自己目的的おもしろさではなく、常により深い意味が志向されているのだ。シュヴェイクにおいてこの面での例は、様々な布令のなかにみられる悪い公用チェコ語の、きわめて独特のパロディーであり、その悪しきチェコ語が民衆独特の表現と対決するのである。例えば、従軍牧師イブルの戦地での説教を見てみよう。


 さて、親愛なる兵士諸君! 占領されしツストッザの前の丘のうえに老将軍がお立ちなされていた。老将軍の周りには忠実なる将官たち。その瞬間、厳粛な気分がこの一行を支配しました。それと申すのも、兵士諸君、司令官閣下の位置からほど遠からぬところに、今や死と最後の戦いを演じておる兵士が目に入ったからです。ラデツキー将軍の目にとまったことを知ったとき、四肢を引きちぎられて戦場に倒れ、深手を受けた旗手フルトは名誉を感じました。負傷せる勇敢なる旗手はぐっとわき起こる興奮のなかで、徐々に自由を失いつつある右手になおも金の勲章をしっかりとにぎりしめていたのです。高貴なる元帥を目にすると旗手の心臓はなお一つ鼓動を蘇らせ、麻痺した体に最後の力を振りしぼり、瀕死の兵士は超人的努力をもって元帥のほうへどにじり寄ろうとしたのです。


 説教の続きのなかでイブルは「自由を失いつつある右手」のことを忘れ、平然と、両の腕をもぎ取られた兵士はとやってのける。この負傷兵の最大の希望は戦いに勝ったのか負けたのかを知りたかったのである。そこでラデツキー将軍が勝利を告げると、フルトは自軍の栄光を称えたのち、死ぬ。そしてイブルは説教を次の言葉でおわる。「親愛なる兵士諸君。私もまた諸君のために祈る。諸君たちが全員、かくのごとくうるわしき最後に至られんことを」と。これはもはや風刺ではなくブラックユーモアである。そしてまさにこの点においてハシェクは比類のない名人なのである。
 ハシェクの語りのお好みの手法はいわゆるコラージュである。つまり二つの視点を対決させ、そのいずれもが本物として示されるのである それはあたかも恋愛ロマンと猟奇的読物の切抜きを交互に貼り合せたかのように見える。人物たちが会話体で語るダイアログなどの場合にその真価が最大限に発揮される。コラージュの手法は言葉の表現ばかりでなく、もちろん状況にたいしても適用される。この面で典型的なのは作品の冒頭の部分である。そこではフェルディナンドという名の人物が一方の文脈のなかでは王位継承者のフェルディナンドとして登場し、もう一方の文脈のなかではどこかのごく普通の人間として登場する 要するにここでは「大」人物と「小」人物が比較され、同時にその比較によって「大きさ」というものがいかに相対的なものであるかを示している。このように短編『身分の違い』において指摘した「状況の逆転」が生じるのである。シュヴェイクのなかではこの手の状況の逆転は、例えば、従軍牧師の営倉訪問である。従軍牧師はシュヴェイク(彼は銃殺されることになっていた)に魂の救済を与えるべくやってくる。しかしシュヴェイクは従軍牧師を新しい営倉者と思うのである。そこで彼を慰める。
 シュヴェイクの周りにはさらに多くの人物が現れる。その何人かはシュヴェイクと同じタイプになった。将校ルカーシュは心はあるがオーストリアの機械的機構によって愚人化されてしまっている。熱心な出世主義者の見習士官ギーグラー、無神論者で偽善者の従軍牧師カッツ、シュヴェイクの知的な対称者をなしている善良でインテリの一年志願兵マレク、それにとくに愚かなオーストリアの学校教師ドゥプ小尉などである。粉骨砕身、帝国のために献身するオーストリア人のタイプがここでは異常なまでの暗示性をもって描かれている。例えば、深酒で動けなくなったドゥプが救急手押し二輪車で前線へ運ばれていくところを描写したエピソードなどはその特徴をよく示している。そのときドゥプは兵士たちに向かって叫ぶ。


 ドゥプ少尉の前方五百歩以上も前方の路上に砂ぼこりがあがる。そのなかから兵士の姿が浮かびあがる。ふたたび高揚した気分を取りもどしたドゥプ少尉は、二輪車から頭をつき出して路上の砂ぼこりにむかってわめきはじめた。「兵士諸君、君たちの高貴なる任務は重い。君たちの苦難の行軍が始まろうとしている。あらゆるものかんする様々な不足、あらゆる種類の困難が始まるのだ。しかるに本官は全幅の信頼をもって期待する、諸君の忍耐と諸君の意思の力を。
「貴様の石の頭を」シュヴェイクも語呂を合せて叫んだ。
 少尉は続けた。「兵士諸君、諸君の前には、諸君を遮るがほどに強力なるいかなる障害も存在しない! 兵士諸君、小官はいま一度諸君に告げる、小官は諸君を容易なる勝利へと導くことはしない。その戦いは諸君にとって重い任務となろう。だが、諸君に不可能はない。諸君は時代の歴史から賞賛を博すだろう。
「口に指でもつっこんでゲロでも吐きあがれ」シュヴェイクはまた調子を合せた。
 するとドゥプはそれを聞いていたかのように、突然頭を垂れると道のほこりのなかへゲロを吐きはじめた。そしてゲロを吐き終わると、なおも叫んだ「兵士よ、前進だ」彼はまた通信士ホドウィンスキーの雑嚢にすがりつき、そして眠った……


 ハシェクは大戦後のヴァイタリズムの主要な代表者たちと同世代だった。彼はシュラーメクよりもほんの何歳か若く、クルジチュカより一歳年上だった。しかし、私たちはハシェクかんする一章を単に世代的関連のみのゆえにヴァイタリズムの章の隣に入れたのではない。要するに、ヴァイタリズムとハシェクとの間にはある一定の内面的関連性があるのである。なぜなら、ハシェクもまた、生への愛から書いたからである。
 生にたいする愛の探求は生を片輪にするものすべてにたいして、とくに生を破壊するものにたいしての戦いを意味する。そしてまさに私たちはハシェクの場合にそれを見るのである。シュラーメクが肉体の賛美者となったのは、同じ位置でハシェクは深く、より完全に見つめたのである。だからこそ彼は人間のなかの新しい関係を求める攻撃的な戦士となったのである。彼は古い関係をこれ以上維持できないものとして、いびつな鏡のなかに映し出すことによって戦った。しかしいかなる場合でも、彼の戦争にたいする断罪は生への同じ愛の表現であり、その愛からヴァイタリスティックな生の賛歌が生れ出たのであった。


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 (4)ロレタリア詩の努力:理論的前衛


                                         ハシェクの『シュベイク』はわが国最初の社会主義文学の大作として挙げることができる。そして作品が完成を日にする前に死が作者の手からペンを奪い取ったことは大きな損失であった。ハシュクが文学発展の重要な流れの端緒に立っていたことは、議論をまたない。もちろん社会主義文学を満足に発展刺せるには理論的な支柱が必要である。なぜならさまざまな発展の時期に、さまざまな課題を解決しなければならないからである。
 20年代には社会主義的文学の思索はプロレタリア文学理論の形成の方向へと導かれていった。作品は古い文学が市民文学に結びついていたのと同様に、プロレタリアートに結びついているべきであった。したがって、古い「社会的テーマ」の続きではなく、世界を労働者階級の目で見ながら、その利益を守る作品ということになる。それと同時に、詩にたいする努力が前面に出てきたのも当然である。なぜなら、講は急速に変りゆく現実に散文よりも即座に反応しうるからである。
 プロレタリア詩には幾つかの支柱を得た。その一つは F.X.シヤルダの積極的姿勢のなかに、そして批評的支柱はA.H.ビーシャに、また他方ではズデニュク・ネエドリーとS.K.ノイマンの文化宣伝活動のなかに得たのである。最後にあげた二人の著者は20年代
にはすでに名の通った権威者であり、両大戦間期、占領時代、そして解放後の最初の何年
間かのあいだ、彼らはその生活を労働運動と共にしたから、彼らの活動は文学発展のこの全期間を貫通していることになる。その関連をこの章で取扱うことにする。

 ズデニュク・ネエドリー(Zdenek Nejedly,1878年、リトミシェル Litomysl に生れ、1962年にプラハで没)は20年代の初めにはすでにカレル大学の音楽学の教授になってい たし(1909)、フス時代以前およぴフス時代の歌の歴史にかんする大著を出版していた。しかしそれと同時に文学の領域にも関与していた。たとえば A.イラーセクの作品の正 当な評価を試みている(『アロイス・イラーセク』1902)。第一次世界大戦中はチェコ進歩党で活躍したが、20年代に進歩的民主主義からマルクス主義的世界観へ移行し、この方面で広範なジャーナリネト活動を展開した。ここでとくに重要なのは、彼の雑誌『ヴァル(沸騰)』(1921−1930,1948年に再刊)であり、社会主義芸術のプロパガンダに努めた。この雑誌と「ヴァル」友の会の周囲にネエドリーは進歩的文化の代表者たち(ヴオルケル、ホラ、ヴアーツラヴユタ、その他)を集めた。
 しかしネエドリーの活動はこの程度のことで消耗しはしなかった。それ以後の活動のうちから少なくとも重要なものを取りあげてみると次の通りである。1921年の春「社会主義協会(Socialisticka spotecnost)」を設立した。「新ロシアとの経済・文化的連帯のための協会(SpoIecnost pro hospodarske a kulturnisblizenis novyn Ruskeh)と雑「新ロシア」(Hove Rusko,1925)の創立メンバーの一人であり、その一方で、ソビエト連邦の正しい認識のために寄与した。1932年には「左翼前衛(Leva fronta」の議長、1935年には「社会主義アカデミー(Socjalisticka akadeAie)」の議長となり、一年後には「民主的スペイン援助のための委員会(Vybor pro pomoc demokratickemu Spanelsku)にも参加した。占領時代の初めにソ連に出国し、戦争期間中ソ連で議動した。解
 放後は政府のメンバーとなり(とくに文部大臣として学校制度の改革をおこなった)、そしてチェコスロバキア科学アカデミーの初代会長となった。

 ネエドリーは常に文化活動に関与してきた。その際、歴史家の視線を現時点での現実の要求と結合することができた。彼の本業は音楽学者ではあったが、文化の全領域を把握しており、文学に寄与するところも極めて大きかった。文学においては一貫してリアリズム路線を擁護した。健全な歴史主義は進歩的文化伝統を教示するという点で有効であった
(フスにかんする著作――たとえば『ヤン・フス師とその真理』Histr Jan Fus a jeho pravda,1919−,その他イラーセク、パラーツキー、ニェムツオヴァ一についての著作)。20年代にはリアリズム芸術の伝統を強調することによって、アヴァンギャルドの一面性に対決した(この領域に属するのほ、とくにスメタナ研究に注がれた音楽分野の著作や、美学にかんする O.ホステインスキーの講義録の出版である)。ファシズムの捷頭期では彼の「レーニンにかんする研究(モノグラフィー)」(2巻、1937−1938)が有意義である。
 第二次世界大戦後は学識深い歴史家として文化遺産を近寄りやすいものにると同時に、正当な評価に貢献し、また「二月」<訳注・1948年2月の総選挙で共産党は大勝し、政権の座に着く>以後のわが国の文化が過去の文化価値を過少に評価するのにたいし忠告した。この関連に属するのは、たとえば、彼の研究『コミュニストたち――チェコ民族の偉大なる伝統の継承者』(Komuniste――dedici velikych tradic ceskeho naroda,1946)『わが国の文学の課題について』(O ukoIech nasi=teratury,1949)『造形芸術、音楽、および詩について』(O vytvarnictvi,hudbe a poezii,1952)『大衆および民族文化のために』(Za kuJtrulidovou a narodni,1953)、同じように、ティル、イラーセク、ハーレク、テレーザ・ノヴァーコヴァー、および K.スヴィエットラ一にかんする論文もある。
 ネエドリーは、どんな複雑な問題でも理解しやすく提示する芸術をとくに評価した。彼はまた文化の大衆性にたいする要求をすぐれた方法で実践へ導くことができた。同時に、彼は常に読者のことを配慮し、明晰な表現のゆえに彼の著作は多くの読者をもったし、ま
た今日にいたってももっている。そして常に有益な示唆の生きた源泉となっている。
 ネエドリーの言葉の特徴は余計な外来語を避けていることにあり、20年代以後のわが国のエッセイ文字における外来語の氾濫はまったく目に余るものがあったのである。
 ネエドリーの刺激を受けて若いイルジー・ヴォルケルも『ヴァル』のサーークルで「プロレタリア芸術」という講演をした。そして、その後この講演は1922年4月1日号の「ヴァル」誌に掲載されている。ここでは20年代初期の若い進歩的芸術家が社会主義詩というものをいかにとらえているか、その綱領(プログラム)が表明されている。
 ヴォルケルは自らこれはコミュニスト芸術家の綱領的基礎であると書いている。それは事実、わが国のアロレテリア文学のマニュフェストだったのだから、たぶん、彼の思想の要点を紹介することは無駄ではないであろう。それは、およそ次のようなものである。
 新しい芸術は階級的、プロレタリアートの、そしてコミュニズムの芸術でなくてはならない。若い芸術家は単に社会の批判、また社会をおとぎ話風に描くことを望まない。そうではなく、未来を求めて戦うことを望んでいる。それゆえに、新しい芸術の基本的指標は革命性である。芸術家の創造の視点は「大衆の外にはなく、そのなかに、完全に大衆のなかにある。それゆえに、プロレタリア芸術のおもな特質は市民的芸術の特質とは、まさに対立関係にある。個人主義にたいして集団主義が登場し、芸術至上主義にたいしては――傾向性(tendence)である」。芸術家は単に大衆の運動のみを描くのではなく、同時にこの運動の理由と意味を描くことを望む。ヴォルケルはこの関連においてテイルの『最後のチェコ人』(Posledni Cech)にたいするハヴリーチェクの批判の一節を引用して彼の見解を賞賛し、傾向的詩は非傾向詩よりも多くの人生を提示するからすぐれていると述べた。 芸術の基本的前提から、したがって、新しい芸術のオプティミズムが導き出される。そのオプティミズムはよりよい世界への信念にもとづいている。

 ネエドリーの「ヴァル」とともにノイマンの雑誌「六月」Cerven,1918−1921)と「プロレトクルト」(Proletkult,1922−1924)も若い世代の社会主義的創造に影響を与えた。ノイマンの発展――そしてすべての若い世代の発展にとって――とくに特徴的なのは「六月」であり、そのなかに独立国家建設についての初期的陶酔からコミュニズムヘの推移の過程を反映している。「『六月』の諸巻には私の認識の諸段階が、また10月28日(チェコ独立の日)から無条件のコミュニズムヘの過程が刻まれている。それは容易な時代ではなかったし、それほわずかずつの歩みであった。しかしこの過程を通過したわれわれにとってほ名誉なことである。われわれは認識した真理を拒否しなかったし、よりよき認識から得られたあらゆる結果を、またわれわれ自身の生存にとって最も危険きわまりない結果をも十分に吟味してきた」。プロレトタルトはこの観点から、すでにプログラム的に、また意識の上からもプロレタリア文学の概念を追及しているのである。
 すでに述べたように、プロレタリア文学への努力が最もほっきりと現れたのは詩の領域であった。それゆえに、また「プロレタリア詩」について語られることが多いのである。プロレタリア詩は20年代のまさにその初頭においてケァイタリズムの汝を圧倒し、文学活動のヘゲモニーをにぎったのである。とくにS.K.ノイマン、インジフ・ホジェイシー、Jos.ホラの詩において。しかし、おもな、そして最も純粋な代表者はイルジー・ヴォルケルだった。彼は1924年の初めに年若くして死んだ――そしてまたその頃、プロレタリア詩
の退潮も始まり、いわゆるアヴァンギャルドが前面に押し出されてくるのである。


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 (5)1918年以後のS・K・ノイマン

 ノイマンは組織者としてばかりでなく、詩集『赤い歌』(Rude zpevy,1923)の作者としても若い世代の社会主義作家の先頭にたっていた。この闘争的また綱領的煽動の書は反動的な陣営からは自然叙情守詩F森と水と谷間の凱以後の下落だと評価された。しかし現実には異なった社会状況に対応し、またそれゆえに異なった思想的、また、形式的諸問題を解決しようとする別のタイプの詩の問題だったのである。ノイマン自身がくぐり抜け、また、わが国の進歩的インテリゲンチャのすぺてが20年代において通過していた過程にとって典型的な詩は『わが国の戦闘の場について』(O bitevnih POliv nas)である。その詩から次の何行かを思い出してみよう。


われわれは
戦場だ
脳も心臓も、全部の神経がそこにある
われわれの誰もが、自分のなかに戦場をもっている
爆発の音や、叫びが空間を弓き裂く
そして苦闘が始まる
土地を押しひしぐ蹄、わだち
それほおまえの罪、おまえの手柄
おお、モスクワよ!

― ― ―

かくして
日々が過ぎる
心臓がうめき、脳が破裂するなら、するにまかせよ
おれたちのなかの、あいつを撃とう、小市民根性を撃とう
おのれたちのなかのあいつを撃とう、裏切り者を撃とう
坊主の嘘を、暗黒の羊飼いを
あいつを絞首台に吊るそう!


 ノイマンは社会の発展や階級闘争から生じてくるすべてと、常に真剣に取り組んだ。だから自分個人の問題と社会的問題を共鳴させることに成功したのである。彼ほ20年代の初めから非妥協的に階級的位置に立ち、文化の社会的性格のために戦った。彼はくり返しくり返し文学の社会的機能と作家の責任を強調した。そしてこの位置に立って、階級的視点から後退し、r純粋な」詩の再生に努める詩人たちと論争した。こうしてとくにポエティズムの方向へ発展しようとする「デゲィエッツイル」(Devetsil)派のプログラムと対決した。1929年の危機の年に彼は一時、チェコ共産党から離反したが、ただちに自分の迷いに気付き、謙虚に党との関係を修復した。
『赤い歌』の出版の後、ノイマンは数年間、とくにプロパガンダ活動に携わった。重要なのは、例えば、レーニンの著作『国家と革命』(Stat a revoluce)を「六月」誌の編集で出版したことである。これはチェコ語で出版された最初のレーニンの本だった。文学の領域ではすでに述べた論文集『背後の街とともに』(S mestem za zady)の他に 何冊かの戦争の回想録を出版している(『エルバサンの街』Elbasan,1922; 『戦争文明』Valecni civilistovo,1925; 『ブラゴジュダ』Bragozda,1928 )。プロレタリア詩退潮の時期に彼のエロチックな詩集『一つのことについての詩』(Pisne o jedine veci,1927; 新版1933『愛』Laska というタイトルで)出た。しかし、この詩集は政治詩からの後退を意味するわけではまったくない。この詩集に対応する散文作品「キャンプ場ロマン」『金色の雲』(Zlaty oblak,1932)がとりわけそのことを物語っている。この作品は本質的に同じ問題、つまり年老いた男とうら若い女性との関係を解決しようとしている。このロマンは新しいタイプの長編小説の大胆な試みであった。キャンプ場に設定された画家インドラと役場職員のマリオンとの関係は、階級意識を欠いた社会、ブルジョアジーについて、また女性の地位についての豊かな思索を背景として提示される。すべての問題性は、同時に進歩的職業知識人の目を通して見つめられている。
 1934年、ノイマンは健康上の理由からポジェブラディ(Podebrady )に転居した。『赤い歌』に結びつく闘争詩の線上では、詩集『心と黒雲』(Srdce a mracna,1935 )、『水平な人生のソナタ』(Sonata horizontalniho zivota,1937 )と続く。これらの作品は、ファシズムが勢力を拡大し、スペインに市民戦争が起り、またイタリアとエチオピアとの間にも戦争が始まった30年代の問題に回答を与えている。そして同時代の「純粋」詩やシュールレアリズムのアンティテーゼにもなっている。ノイマンは前者の作品を M. ゴーリキーに捧げ、献辞にはとくに次のように書いている。


 これは小市民国家の力なき詩人の最後の抒情詩集であります。わが小市民国家の文学は現在 ピンからキリまで プラグマティズム、シュールレアリズム、フォルマリズム、カトリック教、また社会的臆病風が吹き荒れています。この国は小国ではありますがブルジョア・デカダンスのあらゆる病気にかかっています。そして、この本をあなたに贈ろうとしている六十歳の詩人にして闘士はあなたのお陰で「暴君的イデアリズム」のくびきから解放されたというのに、たいして大きくもないもののなかに混じっても、かくも小さい、そんな小さなものを贈ろうとし、またそれ以上ましなものを贈ることのできない悲しみを抑えることができません。


 ノイマンは詩集『心と黒雲』の詩行のなかで自然の動機に、時代が何によって沸き立ったかにかんする政治的思索を結びつけた。彼は政治抒情詩『ソンガの憎悪』(Songy nenavisti )の章にドイツ人移住者の抒情詩を数編、翻訳して挿入したが、これらの詩はもともと風刺的週刊誌「シンプリクス」のチェコ語版のために一時期、彼が翻訳していたものである。詩集は有名なそしてしばしば暗唱される詩『ソビエト連邦への感謝』(Podekovani Sovetskemu svazu )によって締め括られている(「あなたに感謝を、そして愛をあなたへ――それは鐘のごとくに鳴り響く――そうだ、私は一人ではなかった――――私たちはもう何百万人もいるのだ」)。
 『水平な人生のソナタ』は典型的な国際主義の詩である。主題は事実自己の権利のために戦う人類全体、ドイツからスペインまで、北アフリカから南アメリカや中国までを包含している。ノイマンはここで同様に哲学的問題の詩的表現(序章「マテリアリズム」)につとめ、そしてくり返しくり返し行動の提唱をしている。


幻想と幻影からは作り出せない
よき土地の上に、よき世界を
日一日と、祖国の土を
まめの出来た手で、土を耕し
雑草、害虫、不純物を取り除かなければならない
すると、高貴な花を得るだろう。


 この詩集は『年老いた労働者たち』(Stari delnici )という作品で終わっている。これは Fr.ハラスの詩『年老いた妻たち』(Stare zeny)との論争詩である。

 フランスの作家 A. ジードの小冊子『ソビエト連邦より帰りて』(Navrat ze Sovetskeho svaz )によって触発されたノイマンの書『反ジード、または、迷信も幻想もないオプティミズム』(Anti-Gide neboli optimismus bez pover a iluzi,1937)は概念があいまいになっていた時代に、思想的明晰化のために重要であった。ジードは社会主義にたいする彼の小市民的想像をソビエト連邦のなかに発見しえた限りにおいてソビエト連邦に共感したのである。しかし彼の想像が現実と離反したとき、事実を主観的に解釈して表明した。その「証言」を出版し、それによって否か応かの決断をする必要にせまられている時代に「第三の位置」についての理論を提案したのである。ノイマンにとってはもともとジードとの直接の議論が目的ではなく、真の自由とは何か、真の民主主義とは何かを明確に説明することであった。この書はとくに若者に語りかけている。「若い友人よ。君たちにこのかなり長かった、だが、取り立てて異常だったとも言えないある一つの人生の結論を贈ろう。君たちは今日いくらか憂欝に当惑を感じている。それというのもあらゆる問題の渦巻くこの時代は、偉大な時代にふさわしいと思えるよりは、きっと汚れて、混沌としているように見えるだろうからである」とその書の序に書いている。
 1936年にはノイマンは『新しい歌』(Nove apevy)の第二版を出した。この詩集は1923年に発禁になった『赤い歌』(他の八編の詩とともに雑誌に発表された)から九つの詩が加えられ、新しい「結びの言葉」がつけられている。そのなかで、とくにいわゆる「純粋詩」や当時の文学に溢れていたデカダンス的な傾向にたいして議論をいどんでいる。(1948年の決定版ではこれらの詩は『赤い歌』に戻され『赤い歌』は1945-1947 年の詩を増補されている。そのなかで最も有名なのは『赤い旗、万歳』(Cest rude vlajce)と『1947年5月1日』(1.maj 1947)である)
 占領中、ノイマンは田舎に住んだ。しかし解放後、すぐにプラハへ戻り、政治活動を始めた。そして最後の息を引き取るまで働いた。『1947年5月1日』は激しい右派の反発を食らった。なぜなら、アメリカ大統領トルーマンのことを「帝国主義の図表」と名指ししたからである。占領期の詩をノイマンは詩集『底なしの年』(Besedny rok,1945)と『汚染された年月』(Zamorena leta,1946)に収めた。


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 (6)イーンジフ・ホジェイシー  Jindrich Horejsi

 イーンジフ・ホジェイシーは世代的にはノイマンに近い(1886-1941 )、そしてノイマンと同様にプロレタリア詩にたいしてその退潮の時期にも忠実だった。彼はプラハのプロレタリアの家庭の出身である。プラハの技術学校に短期間学んだ後、徒歩でパリへ出た。そしてパリで哲学部を卒業した。やがて彼はフランス語の知識を活用してすぐれた翻訳家になった(とくに J. リクチューズの翻訳)。第一次世界大戦中は前線にあり、帰還後は役人となり、進歩的インテリゲンチャの政治活動に参加した。彼は学生時代からすでに詩を発表していたが、彼の本として出版されたオリジナルな作品は三つの詩集『広場の音楽』(Hudba na namestei,1921)、『真珠の首飾り』(Koralovy nahrdelnik,1923)と『昼と夜』(Den a noc,1931)だけである。全集としては総タイトル『詩集』(Basne,1932)として出版された。
 ホジェイシーの処女作は、とりわけこの詩人を魅了し、また、圧倒した大都会の描写によって私たちをとらえる。大都会のなかで彼は囚人のように感じ、その感情は彼のなかに反発を目覚めさせる。都市のなかに彼はプロレタリアートの力をも認めはするが、彼の関心の焦点のなかに革命そのものはなく、むしろ革命前期、そして革命を渇望する時代であった。同時に、いつも感傷的になることをどうしようもなかった。彼もまたしばしば反語や皮肉を用いた。しかし彼の表現はノイマンよりは抑制されている。主題的には彼の抒情詩は対立関係の上に築かれているが、それが革命的行動の呼びかけへと尖鋭化されていない。むしろ行動への積極的参加者であるよりは現実にたいして夢を、抑圧にたいしては未来の正当なる世界のヴィジョンを対立させるところの傍観者なのである。彼は

貧困の生活よ、貧困の生活よ!
おまえは私らの受け継ぐべき遺産ではない!

と『広場の音楽』という詩のなかで書いている。詩集の表題はこの詩のタイトルから取られた。
 ホジェイシーは第二の詩集でわが国の恋愛詩(エロチカ)の発展における新しい段階を築いた。彼の愛人は労働者の女性であり、彼らの感情は、階級的な基本的色調をもち、集団的にとらえられた世界の一部として理解されることによって、超個人的次元に投影されている。A.M.ピーシャによれば、ここで愛の感情や運命は「脱私化され、脱利己化」されている。
 ホジェイシーの最後の詩集は次の点で重要である。すなわち、多くの芸術家が社会的絶望から空想の世界へ逃避するか「自我」の世界へ沈潜しようとしていた時代のなかで、プロレタリア詩人への道を進み続けようとしたことである。


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 (7)イルジー・ヴォルケル Jiri Wolker


 プロレタリア詩の最も才能にめぐまれた代表者は早世したイルジー・ヴォルケルである。彼はわが国の文学のこの発展段階において、全盛期の30年代にマーハが果たし、90年代にはフラヴァーチェクが果たしたのと同じ役割を果たしたと言えるだろう。彼は同時代の詩人の努力のまさに象徴となった。そして S.K. ノイマンとともに時代の要求を余すところなく作品のなかに盛り込んだのである。彼は急速に盛り上がりをみせていたプロレタリア詩の波が引き潮の時期にあった、まさにその時に死んだ。そのことからしても、すでに、彼の作品はプロレタリア詩の純粋な代表作品なのである。
 それ以後に起ったわが国文学の社会主義的内容をめぐる闘争は、しばしば彼の遺産をめぐっての闘争として演じられた。ノイマンの詩が成熟した男の詩であるのにたいして、ヴォルケルは若者の詩を創造したという点で、ノイマンと対称的である。ヴォルケルのなかでは健康な、どん欲な世代が語りかけている。
 ヴォルケルの詩のおもな特徴は ノイマンの場合のように 集団との結合であり、オプティミズムとわかりやすい形式である。彼は子供のころからすでに、生れ故郷のプロスチェヨフ(Prostejov,1900年に銀行員の子供として生れる)での労働者のハンガー・ストライキを通して、また、とくにプラハでの法律の勉学の期間に労働者の貧困を知っていた。このプラハで彼は Z. ネエドリー、S.K.ノイマン、A.M.ピーシャ、K.ビーブル、それに V.ネズヴァルなどと知り合った。最初、彼は貧困は理解と愛によって排除できると信じ、雑誌「訪問者」(Host)を出版していたブルノの「文学グループ」(Literarni skupina )と接近した。しかし、その改良主義のゆえにこの文学グループとは別れて、革命的グループ「デヴィエッツィル」に参加した。上に紹介したヴォルケルの論文『プロレタリア芸術』も「コミュニスト芸術家集団デヴィエッツィルの見解」として承認された。しかし「デヴィエッツィル」がヴォルケルの想像したような革命的プロレテリア芸術からそれはじめたとき、詩人はこのグループからも去る。彼は勉学の道半ばにして結核にかかり、1924年1月3日に死んだ。
 ヴォルケルは生前三冊の本を出版した。詩集『家への訪問者』(Host do domu,1921 )、『重い時間』(Tezka hodina,1922 )と散文で書かれた『戯曲三編』(Tri hry,1922)
である。この他に一連の詩、評論的論文、散文(とくに童話)などを発表した。そして決定版として膨大な四巻からなる全集のなかには、さらに遺品のなかに保存されていた手稿や、それまでに出版されていなかった初期作品も収録されている。
 詩集『家への訪問者』は単純な事柄への愛で満たされている。ヴォルケルは自分のまわりを見わたし、そこにあるものを初めて見たかのように、それらのものへの新しい関係を発見している。


私は、もの言わぬ同志、物を愛する
なぜなら、みんなが物たちを
まるで生命なぞないもののように扱っているからだ。
それなのに、彼らは生きていて、私たちを見つめている
まるで忠実な犬のように、注意ぶかい目をして
どんな人間も物には話しかけないと
じっと、耐えている。
彼らは最初の一言を口にするのを恥ずかしがっている
沈黙し、待ち、沈黙する
そして、それにもかかわらず
ほんの少しでもいい、話したがっているのだ!
だから、私は物を愛している
それに、また、全世界を。


 本来、物にたいするこの喜びの関係は戦後のヴァイタリズムが発展させてきたものである。ヴォルケルは最もありふれた事柄についても書いている。彼の詩の素材は、例えば、郵便ポストであり、刈入れであり、窓とか小さな部屋である。しかし世界にたいする彼の陶酔にはヴァイタリズムの特徴とする原始的野生味がない。無知な表情の裏に知性を隠している。物への愛は擬人法の頻繁な使用のなかにも現れる。詩人は物に呼びかけ、親しく語らう。愛と謙譲によって人生の対立を解決しようと望んでいる。これは人生にたいするオプティミスティックな関係であり、その関係のもとでは詩人の「我」(Ja)と周囲の世界との間の対立は存在しない。文明化は詩人を損なってはいず、それゆえに詩人は世界から逃れず、むしろ世界のなかに没入しているのである。
 ヴォルケルの詩はこの子供の世界と『聖コペチェク』(Svaty Kopecek,1921)のなかで別れを告げる。この詩はもともとは雑誌に発表されたものだが、詩人の希望により『家への来訪者』の以後の版では結びの詩として加えられている。このかなり広大な作品はモテイーフの自由な配列によって当時有名だった G. アポリネールの詩『圏』を思い起こさせる(この詩をカレル・チャペックは見事に翻訳して1919年に雑誌に発表し、また単行本としても出版した)。詩人は今や「成人した若者、学生、社会主義社」となり、有名なハナー地方の旅行、遍歴の地において少年時代の友人と出会っている。詩は世界を変貌させる行動へ向かう決意をもって終わっている。

聖なるコペチェクよ、緑深き山の上、風にそよぐ教会よ
この静かにして、浄められし故郷の標識の旗よ、
正義の力と幼きものの目と、燃える言葉のすべてをわれに与えよ、
今日、われらが信じるものを、また明日に実行させてよ!


 ヴォルケルは詩集『重い時間』という題名によって、すでに子供の心を失っているが、まだ、男の心が生れていない時期を象徴させている。この本は対立命題の上に築かれた意識的な社会詩である。ヴォルケルの初期の作品の調和的傾向はよりよい世界が築かれるためには、まず第一に古い世界が破壊される必要があるということの意識に取って代わられた。美しい未来の夢は打ち壊さなければならない――夢が実現するということによって。

工場から、屋根裏部屋から、労働者たちが出ていく
そのなかに、ヤンもマリエも混じっている。
聖者たちは手に、ユリの花をもち
男たちは槌と剣を
大きな夢が打ち砕かれるとき
多くの血が流れる。


 この詩句は『夢のバラード』(Balada o snu)からのものである。まさにバラードのなかで、ヴォルケルの名人芸は最大の目標を達成している(『生れなかった子供たちのバラード』Balada o nenarozenem diteti;『夢のバラード』Balada o snu; 『ボイラーマンの目のバラード』Balada o ocich topicovych )。ヴォルケルはここで綱領的に彼が人間性の最高の表明を見た詩の作者エルベンと結びついている。バラードはもちろん新しい社会主義精神で満たされている。つまり悲劇性は形而上的な力ではなく社会条件によって与えられたものだというのである。それゆえにまた革命的行動によってそれを克服することができる。
 ヴォルケルの詩は理念的ではあるが、しかしテーゼ性や無味乾燥な宣言文に陥ってはいない。詩人の言葉の背後には問題を単に理性的にばかりでなく、感情的にも体験した明確な個性が厳然と控えている。それはヴォルケルの場合、個人の利害と集団の利害との間に矛盾が存在しなかったから、そして人間の自由を客観的秩序の認識としてとらえたからこそ可能だったのである。それゆえに――病床にあって書かれた最後の詩に示されているように――「死もまた悪ではなく、苦難の人生の単なる一片にすぎない」のである。死の床でヴォルケルは次のような詩を書いている。


私が死んでも、この世には何も起こらず、何も変わるまい
ただ何人かのひとの心が、明け方の花のように震えるだろう。
大勢が死に、大勢が私とともに死のうとし、大勢が死ぬほど疲れている
なぜなら死と誕生において、人は孤独ではないからだ。


 ヴォルケルの遺作のなかに、おそらく彼の最も有名な詩『レントゲンの前で』(U rentogenu )がある。これは死の病にあるプロレタリアの階級的憎悪の情熱的表明である。
 ヴォルケルの三編の戯曲は詩とは異なり、それらのテーマが深刻である(戯曲『墓』Hrob においては個人の犠牲)にもかかわらず、芸術的説得力や心理的深さの点でかなり劣っている。それに反してヴォルケルの童話は、それが現在かつ日常生活に設定されているという点で童話ジャンルの発展の上から新しい段階を作り出している(『煙突掃除人について』O kominikovi、『郵便配達夫について』O listonosovi )。
 ヴォルケルはまさにわが国のプロレタリア文学のシンボルになっていたから、反理念詩の論争はしばしばヴォルケルの遺産をめぐる論争の形で起こった。両大戦間時代には二つの波が起こった。第一の波は彼の死の最初の記念のときに『ヴォルケルなんてうんざりだ』(Dosti Wolker! )という題の匿名の記事によって起こされた(「パースモ」7−8号)。ヴォルケルは良い詩人になるのを死によってさまだけられた最後のイデオロギー詩人と定義している。攻撃はもっぱらヴォルケルの詩の感傷的な表現に向けられた「左翼」からの攻撃として断定されていた。しかし、その問題の本質は当時成長しつつあったポエティズムが宣言していたような脱イデオロギー的詩にあったのである。第二の論争の波はヴォルケルの死後十年の記念に際して『十年後のヴォルケル』(Wolker po deseti letech,Listy pro umeni a kritiku 誌)という文章によってまき起こされた。この時も、思い込まれていたヴォルケルの感傷性が改めて批判されていた。今回も理念詩にたいする攻撃が本質的な問題だった。ヴォルケルは「未完成品、芸術的、詩的、また社会倫理的にも未完成品であり……大雑把にいえば、ブルジョアから奪ったものをすべてブルジョアに返しているプロレタリア詩人の運命といったところでだ!」というふうにきめつけられている。そしてこの評論は(またしても匿名)ふたたび「左翼」からの攻撃に見せかけてあった。しかし時間の試練によってヴォルケルの詩は勝ち進み、今日では両大戦間時代がわれわれに残してくれたもののなかで最も高価なものの一つになっている。


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 (8)ヨゼフ・ホラ  Josef Hora

 ヴォルケルと並んで20年代のプロレタリア詩の創造的代表者であり理論かでもあったのはヨゼフ・ホラである。彼の活動の特徴といえるものは詩人とジャーナリストの結合
(以前のネルダのように)と社会的平等への願望である。しかしプロレタリア詩は彼の作品のなかでは単なるエピソードにとどまったにすぎない。
 ホラは世代的にはノイマンとヴォルケルの中間に位置している。1891年、ドブルジーン・ウ・ロウドニツェに自作農の家庭に生れた。プラハで法律を修め、その後ジャーナリズムに投じた。最初に「人民の権利(Pravo lidu)」紙、その後「赤い権利(Rude pravo)」紙、そして1929年から1940年まで「チェコの言葉(Ceske slovo )」紙に在職した。30年代にはファシズムにたいする進歩的インテリゲンチャの闘争の指導的組織者だった。晩年は重病にかかり、解放の数週間後にプラハで死んだ。彼は30年代から戦争の集結までの間、若い世代にたとえようもなく大きな影響を与えた。
 プロレタリア詩が結晶を結んだ時代に、ホラはすでに『詩集』(Basne,1915)と『花のなかの木』(Strom v kvetu,1920)の二冊の詩集をものしていた。前者はなおも象徴主義の反響と A. ソヴァの影響を示しており、後者はとくに大戦後のヴァイタリズムによって満たされているが、同時にここではすでに現実と夢という両極が浸透している。特徴は人生をその多様性のすべての面においてとらえようとする努力と、不断の変化としての人生のダイナミックな理解である。その後三冊のプロレタリア詩(『仕事日』Pracujici den,1920、『世界の心とカオス』Srdce a vrava sveta,1922、と『嵐の春』Bourlive jaro,1923)が続く。ここでホラは先の両極性を克服している。これらの作品は彼のヴァイタアリズムの論理的な続きであり、それゆえここには二編の初期詩集に典型的だったモティーフも新しい位相において現れている。ホラのプロレタリア詩の理論的面での姉妹作品は日刊紙の批評記事と『文化と階級意識』(Kultura a tridni vedomi,1922)という論文である。文学的姉妹作品はロマン『社会主義的希望』(Socialisticka nadeje,1922 )であり、そ
の内容は1920年の社会民主党の右派指導者たちの裏切りについてのものである。
 ホラは上に述べた詩人たちとは反対に、プロレタリア詩のなかに新しいトーンをもち込んだ。そのことは情念(パトス)ではなく、むしろ感情(センチメント)について言える。彼は自分のまわりの世界を共感と未来にたいする信仰をもって見る。彼の詩『労働者の聖母マリア』(Delnicka madona=Pracujici den )が特徴的である。まず最初に貧しい家庭を暗示的に描いている。次の詩行がそれを物語っている。


マドンナよ! おまえは何と荒れたのだ! こんなに枯れしぼんで!
手のひらの青っぽい血管の交差
額にかげるかたくなな拒否的、乾いた唇
愛の言葉はもうとっくの昔のこと
喉は貧困を飲みくだす。


 このマドンナ(聖母マリア)は救済者の母のキリスト教的イメージにはそぐわない。しかしホラはキリスト教徒がキリストを信じるのと同じように彼女の子供を信じている。

三十歳になったとき
口に反抗の福音を唱えながら街に入る。
広場で正義の到来を宣言し
群衆を武装させ、彼らの手に夢とコインを与える
だが、はりつけにはならない
だって、彼の祈りは行為なのだから。


 ホラの姿勢にとって特徴的なもう一つの証拠は『おまえの手とおまえの心臓』(Tve srdce a srdce tve;『世界の心とカオス』より)の結びの句である。それは社会主義的というよりは、むしろ社会的な詩であり、その詩のなかで詩人は、世界は労働者の仕事を必要としているが、労働者の心には関心をもっていないことを自覚している。ホラは次のように結んでいる。

私はおまえの叫びを聞いた。だから、ひっそりとした静寂のなかから

おまえの心、この上もない孤独を
群衆のるつぼのなかへ、抗争の精神のなかへ投じよう。

おまえの正直な心と勤勉な手を、二つに分断する
壁を打ち壊すものは、誰かいないのか

おまえに仕事をくれるが、ひそかに
おまえの心まで欲しがるものがいないかと。

 ホラの詩表現は――これらの短い例からもわかるように、弁舌的というよりは室内楽的である。ホラは本質的には闘士というよりは、むしろ内気で繊細な観察者であり思索家である。たしかに彼は自分をプロレタリアートの思想的世界と一体化させることはできたが、同時にある程度の後退があり、強い知的要素が作品を貫いている。それゆえにシャルダは正当にも彼を「革命の講読者」(pismak revoluce )と呼んでいる。ホラは革命の行動の問題よりはむしろ倫理的問題を提示しているのである。このことは彼のその後の発展のなかにも現れる。彼はあらゆる事件に敏感に反応した。経済的危機、失業、そしてとくにファシズムの擡頭にたいして。
 しかしノイマンが――比喩的に言うならば――革命詩の灯台であったとするなら、ホラはあらゆる社会的地震を感知する地震計だった。だが、彼の作品がかくも大きな反響を得たのは、まさにこの感受性のゆえにであったのである。
 上掲の三つの詩集の後、ホラは徐々にプロレタリア詩から外れていくが、ポエティズムの波からは身を守った。彼は死ぬまで流派や傾向の外にとどまったが、決して社会的感受性を失うことはなかった。そのことはポエティズムの波の勃興期に出版された詩集『イタリア』(Italie,1927)が証明している。そして続く『風に鳴る弦』(Struny ve vetru,1927)にも言える。ここにはソビエト連邦訪問の体験も生かされている。 この二冊の書では、調和と人生の肯定面にたいする願望が強く表現されているとはいえ、その反面、革命性からの後退が一層深まっている。詩集『イタリア』はイタリア・ファシズムに反応して国内の社会闘争を見ているが、同時にそのなかにはホラの戦後最初の詩集のヴァイタリズムが反響しているし、また各個人の私的幸福の探求が宣言されている。そしてこの探求は瞑想的要素の強化と、ホラの抒情詩の「内面化」へ導いている。これはもちろんプロレタリア詩の客観主義から主観主義への偏向であることに変わりはない。しかしそれは同時に、柔軟な詩の技巧的な遊戯性と平衡を保ちつつ、詩人の世界ヴィジヨンの深化を意味している。表現の側面から見れば形式はより一層緊密化し、それとあいまって詩行の音楽性も増大している。
 『風に鳴る弦』ではホラの詩の中心的モティーヴは時間である。


時、私の心臓の兄弟、それは進み
そして私の人生の時間を刻む
時は瞬間、ためらい、私の顔のなかに倒れこみ
眠る、そして、花のように香る


 この詩集をきっかけにしてホラの詩は一層瞑想の性格をつよめていく(それゆえにホラはこれまでマーハやブルジェジナの隣に位置づけられてきた)、そして個人の存在ばかりでなく全宇宙を包含しようと努める。しかしながら、時間はすでに実り豊かな変化の象徴ではなく過ぎ去っていくものの象徴であった。だから憂欝(デプレセ)の根源となったのである。ホラは時間のなかで世界も詩人も無のなかに落下することを知っていた。それでも彼のペシミズムの底には、絶えず地下水として、時間はあらゆる不平等を平準化するという信仰が保持されていた。この線上に詩集『十年』(Deset let,1929)『おまえの声』(Tvuj hlas,1930)『二分間の静寂』(Dve minuty ticha,1934 )『無言のメッセージ』(Tiche poselstvi,1936)は生み出される。マーハの没後百年(1936年)を記念する16編よりなる小さなチクルス『マーハ変奏』(Machovske variace )において、ホラは人生のうつろいやすさから受ける恐れにたいして最も含蓄のある表現を与えた。
『沈みゆく影』(Tonouci stiny,1933)という詩集の第一部を形成する幾編かのバラードは客観化への道程を示している。これらのバラードはその夢想性のゆえにソヴァに近いが、またそのことによってヴォルケルとの対比をもなしている。だが、それでもなお新しい可能性を示している。ホラの詩は、その後の発展において時間のうつろいやすさに対立する確かさと堅固な点をも探求し、時間は単にうつろいゆくものであるだけではなく、進歩するものでもあるという意識に徐々にたどりつく。こうして究極的には人生の意義を人間の生産のなかに、祖国のなかに、その文化の持続のなかに、そして民族集団の不死性のなかに見出だしていく。このことをホラはとくに詩集『故郷』(Domov,1938)のなかで表現している。この詩集はわが国が最大の脅威に直面している時期に書かれた。ここで彼は第一次世界大戦の時のディクやトマンの戦争詩のある種の類比を作り出している。詩集は導入部にマーハ、ヴルフリツキー、シャルダといった民族の将来的存在を保証する作品の偉大なる著者たちに捧げた数編の詩をふくんでおり、ヒットラーのオーストリア併合への回答である頌歌的『故郷へ寄せる歌』(Zpev rodne zemi )によって最高潮に達する。
 ホラ作品の集大成とも言えるものは抒情的叙事詩『ヴァイオリニスト・ヤン』(Jan houslista,1939)である。彼は、赫々たる名声を博したが、また妻をも失った世界から、音楽家の祖国チェコへの帰還について物語る。故郷でヴァイオリニストのヤンは老いていくかつての愛人を発見する。しかしとくに重要なのは生れ故郷である。ホラはこの詩のなかで芸術の意味、そして個人主義にたいする民族相互依存の集団的意識の問題を象徴的に解決している。彼にとって時間は今や永続的諸価値の担い手であり、時間はその諸価値を未来のために保存するのである。詩はまたアレゴリカルに民族の不死の信念として、また文化的価値の防御への呼びかけとして語られる。

おまえは誰にむかって、歌ってきたのだ、わがヴァイオリンよ?
わたしは誰にむかって、いったい何を、おまえで奏でていたのだ?
おまえを愛したものたちは、いま、どこにいる?
わたしが遠方より、より近く、より近く、戻れば戻るほど、
笑いは重く、嘆きは深く
時が未来の天蓋の下に納めた
展望が、一層わたしを苦しめる
鋭い羽のはばたきの激しい風が
吹きつける。わたしらには
手のひらだけしか残っていない。故郷の土の手のひらと
穀物と、そして、それが「守れ」と叫んでいる


 占領時代に出版されたホラの最後の詩集『忘れられた娘の庭』(Zahrada Popelcina,1940)もまた同様の精神で貫かれており、生と死についての思索に満たされている。没後さらに『病床のメモ』(Zapisky z nemoci,1945 )『詩人アネリの生涯と作品』(Zivot a dilo basnika Aneliho,1945 ;ここでは彼の創作の軌跡の総決算がなされており、改めて詩の意味が思索されている)および『流れ』(Proud,1946)が出版された。
 すでに述べたロマン『社会主義的希望』は、もちろん彼の詩の芸術的高さには達していないが、この他に興味あるロマンは第一次世界大戦中の国内の状況を描いた『飢えの時代』(Hladovy rok,1926)と同時代の教養人のいろんな感情や問題を盛り込んだ『ガラスに吹く息』(Dech na skle,1938 )である。そして後者の作品では個人と集団、そしてソビエト連邦にたいする関係にあらためて解答が与えられている。作品はある程度自伝的性格をもち、両大戦間期のわが国のある部分のインテリゲンチャの精神的危機の、興味ぶかいしかも真実のドキュメントにもなっている。
 ホラの翻訳家としての活動も重要である。彼のロシア詩の翻訳(プーシキン、エセーニン、レールモントフ、パステルナーク)はロシア語からのわが国の翻訳において新しいエポックを意味している。とくに原典のリズミカルな特徴の感覚的把握においてそのことが言える。本当を言えば、ホラによって初めて新しい時代のヤンブス(短長格または弱強格)の詩が生みだされたのである。プーシキンの『オネーギン』的詩節構成なしにはホラの『ヴァイオリニスト・ヤン』の詩節を想像することはできない。
 ヴォルケル世代のヤロスラフ・サイフェルト(Jaroslav Seifert,1901 年、プラハ生れ)にとってプロレタリア詩はスプリング・ボードだった。彼の詩集『涙のなかの町』(Mesto v slzach,1921 )と『純愛』(Sama laska,1923 )のなかには、これまでに述べた詩人たちに対抗する新しい調子――快楽主義(ヘードニズム)――が響いている。サイフェルトはプロレタリアが惑わされ、渇望していた「この世のすべての美しきもの」(vsechny karasy sveta)を意識していた。この意図によってすでに彼の次の発展は示されていた。それはプロレタリア詩からポエティズムへの転向であった。


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