プロレタリア芸術のプログラム検証の最初の前触れはカレル・タイゲの論文『新しいプロレタリア芸術』(Karel Teige;Nove umeni proletarske: 「デヴィエッツィル」1922)がもたらした。タイゲ(1900-1951 )はその受けた教育からいえば建築家であるが、新しい芸術運動の主導的理論家となった。上述の論文において彼が強調したのは、プロレタリア芸術を語るとき社会的事実としてばかりでなく、何よりも芸術(つまり、作品自体のなかに非傾向的な詩に求められる必要条件をも満たしている芸術)として語る必要があるという点である。芸術の大衆性はわかりやすさと面白さのなかにこそ見出だされるものであるとタイゲは考える。しかしタイゲがその面白さを何に見出だしているかはきわめてユニークである。つまり「西部劇(インデアンもの、バッファロー・ビルもの、ニック・カーターもの)、センチメンタル・ロマン、映画のアメリカもの、チャップリンのナンセンスもの、素人劇団の喜劇、寄席の曲技師、旅まわりの歌手、サーカスの美女芸人や道化師、フィドロヴァチュカの大衆的お祭り騒ぎ、日曜日のフットボール試合 要するにプロレタリア一般が営んでいる文化生活なるもののほとんどすべて」である。したがって大衆性とは形式のなかにこそあるのであり、決して一定の社会的価値を求める戦いのなかにではない。特別の関心に与かっているのが映画であり、映画作者のなかではチャーリー・チャップリンである。
『新しいプロレタリア芸術』の論文の二年後にタイゲの『ポエティズム』宣言が出る。次に掲げるこの宣言の三つの部分は、他のいかなるところから切り取ってきた文章よりもポエティズムの基本要求を明瞭に表明している。
もし、新しい芸術、そしてわれわれがポエティズム(POETISUS)、生活の芸術と呼ぶものが、体験し、受容する芸術であるならば究極的にはスポーツや、愛や、ワインや、ありとあらゆる御馳走のように、ごく当り前の、楽しく、近寄りやすいものでなくてはならない。それは、職業ではありえない、むしろごく普通に必要なものである。生活が道徳的に生きるべきものなのだとしたら、そんなものは全然個人生活ではない。それは微笑みのなかにも、幸せのなかにも、威厳のなかにも欠かすことができないものだ。職業的−芸術家とは誤りである。それどころか、現代ではもはやかなり異常である。
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ポエティズムがもたらす芸術は軽快で、活気があり、空想的で、遊び心にあふれ、非英雄的で、恋にみちている。そのなかにはロマンティシズムの片鱗すらもない。ポエティズム芸術は陽気な仲間の雰囲気のなかに、つまり「笑う世界のなかに」生れたのだ。その笑顔に涙が光っていたからって、それがどうした。ユーモア気分が支配する。はっきり言ってペシミズムからは解放された。この芸術は重心を、かび臭い仕事場やアトリエから人生の享受と美の方向へと移し変える。これはどこからも、どこへも導かない道標だ。ひろびろとした素晴らしい公園のなかでぐるぐると回っている。だって、それは人生の道なのだから。そこでは時計はいつも満開のバラの花々を指し示す。それは香りだろうか? それは思い出か?
いや、いや、それは現代世界の見せ物をまえにした抒情−造形的(lyricko-plasti cke )興奮以外のなにものでもない。
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美しい言葉の劇、イメージの組合せ、情景の織り糸、そして「言葉なし」があってもいい。劇のためには自由な、曲技的精神も必要だ。この精神は詩を理性的な説教に当はめようとしたり、またイデオロギーによって台なしにしようとは思わない。哲学者や教育者であるよりは、むしろ道化や踊り子や曲芸人、そして現代詩人による旅芸人であることを望む。
この引用からもわかるように、タイゲはすべての人のための、すべての人によって創造された詩を要求し、論理的内容や、当然ながら理念性をも願い下げにしている。オプティミズムについて語るが、それはノイマンやヴォルケルとは別のオプティミズムである。かつて、ノイマンやヴォルケルは革命的展望のオプティミズムを語ったのだが、今ここでは瞬間の魅惑が語られているのだ。もちろん、彼はいつか、よりよい世界が来てコミュニズムが勝利するという信念はもっていたが、それはいつか遠い先の話である。なぜならポエティズムの信仰者たちは芸術としての文学は、本来、新しい世界のためには何もなしえないと考えていたからである。こうしてポエティズムの革命性は文学形式の領域における革命に狭められたのである。
文学の実践ではこれらの要求はすでに1922年にヴィーチェスラフ・ネズヴァルが詩『驚くべき魔術師』(Podivhodny kouzelnik)で、そして二年後には詩集『マントマイム』(Pantomima) によって実現化している。しかし、ポエティズムの遊戯性はJ.サイフェルトの詩集『TSFの波にのって』(Na vlnach TSF,1925)が最もよく具体化している。これと同時にネズヴァルは理論的論文『偽りのマリッジ・ゲーム』(Falesny marias)を出
版し、新しい運動の美学の創造に寄与している。そして、この新しい運動が全体として
それというのも、ここで扱われているのは(ポエティズムという名称が意味するだろう
ような)詩だけでなく、散文もドラマも論じられていたからであるが アヴァンギャル
ドと言われていたのである。実際の生活、とくに建築においては機能性に重点を置く、いわゆる構成主義(konstruktivismus)がアヴァンギャルドを代表していた。
組織的にはこの運動はデヴィエッツィル集団が中心になっていた。そして何種類かの機
関誌、とくにレヴュー誌「ReD」と「パースモ(圏)」を発行していた。タイゲ、ネズヴァルと並んで、20年代にはその重要な理論家はベドジフ・ヴァーツラヴェクだった。20年代の末にはポエティズムは本来の形態においてはすでに衰退していた。1928年にレヴュー誌「ReD」に発表されたタイゲの第二のマニフェスト宣言は実のところもはや、全盛期を過ぎた運動の決算書のようなものだった。30年代に本来のポエティズムはシュールレアリズムへ移行した。(この後の章参照)
タイゲが要求したのは単に誰にも作れるような(たしかに誰もが、何かのあるときには可能的詩人ではある!)そして人生の全領域を潤すような詩だけではなく、総合芸術、つまりあらゆる感覚器官が分かちあえるような、そんな芸術のプロパガンダをしたのである。詩的実践に当てはめると、とくに視覚的に色とりどりな、グラフィックな配列ということになる。詩人は言語によってだけでなく、視覚によっても作用をおよぼすべきだということになる。同時に、戦後通信手段が改善された結果、まるで手のとどきそうなまでに急に近くなった異国の地方にたいする関心も満たされた。船乗りや黒人への人気、あるいは、しばしばくり返される運動のモティーフもこのことと関連している。ヨーロッパの都市のなかで芸術家の関心を最も強く引きつけたのがパリだった。それはコミューンのパリであり、エッフェル塔やシャンソン喫茶で象徴されるパリであった。アヴァンギャルドは後のほうのパリを崇拝したが、それは当時、フランスを頼りにしていたわが国のブルジョアジーの政治状況にも当てはまることであった。それは、当然ながら技術から受ける陶酔であったし、その陶酔の表現がとりわけ当時の構成主義だったのである。この魔力を一方ではすでにサイフェルトの詩集のタイトルそのもの『TSFの波に乗って』(TSF=telegraphie sans fil=無線電信のイニシアル)が暗示している。
グラフィックな特異性で効果をあげようとする、だから、その当時には革命的に見えたポエティズムの遊び(広い視野に立って見れば、それはいわゆるポエジア・フィグラータと言われるバロックの遊戯を単に再生したものにすぎないとしても)の例として、挿入写真にサイフェルトの詩『サーカス』を掲載した(挿入写真No.69 参照)。グラフィック的に「正常に」配列された詩のなかでの形式の革命はとくに句読点の抹殺として現れた。
ポエティズムの詩人たちのなかで最大の空想家として有名なのはヴィーチェスラフ・ネズヴァルである。彼はどんなありふれた現実のなかからでも詩的表現をつかみ出すことができたし、また、それを魔法の光で照らし出すことができた。それというのも、ちょっと目には相互にひどくかけ離れているように思える諸現象のあいだの関連性をいつも探求していたからである。彼はまさに感動をどん欲に求めたし、生活全体を自分のものにしたいという願望は想像の自由な、連想的配列のなかに投影されている。例として、詩『色の一週間』(Tyden v barvach:Pantomima )から三つの節を引用しよう。
郵便配達夫は手紙を運んでくる
花嫁お付きの侍女は教会から愛を運んでくる
愛の後にはアゲハ蝶がついてくる
「水曜日」は黄色から淡い色調までのバラの日
兵士たちは作戦どうりに行進する
栗毛の馬で来たのは「金曜日」
太陽は矢車飾りで遊んでいる
そして糸車の回るきしみを聞いている
ランニングシャツを着た自転車選手
遊歩道を冒険者たちがのし歩く
一週間のうちで一番好きなのは「土曜日」
わたしの金髪の女神の祝祭日
しかし、この遊戯性にもかかわらずポエティズムの詩のなかには深い思想に根差しているものもある。例として、ネズヴァルのチクルス『アルファベット』(Abeceda ;詩集
『パントマイム』の最初の部分を構成している)の四行詩「A」をあげることができる。文字のグラフィックな形はさまざまな連想を喚起するが、その頂点をなすものは、眠る場所ももたない貧しい人々のイメージである。
A
みすぼらしい小屋と言われようとも
おおシュロの木よおまえの横枝をヴルタヴァ川のうえにかざしてくれ!
かたつむりは自分の質素な家をもっているそこから角をつき出して
なのに人間はどこに頭を休めたものかさえ知りもしない
ネズヴァルの詩芸術は次の発展段階において完全に発揮される。その時期は20年代に始まる。だから、彼についてはこの後の章で詳細に述べることになる。ここではもう少しサイフェルトの次の発展に注目してみよう。
ポエティズムの詩集『TSFの波に乗って』に続いて『ひばりが下手に歌う』(Slavik zpiva spatne,1926)の表題をもつ詩集のなかで詩人はポエティズムの遊戯性は人生をあまりにも単純化しすぎていることに気付き、ふたたび世界の悲しみを認識している。異国性は影をひそめ――ソビエト訪問の影響の現れというのは確かである――詩人は改めて世界の変革へ参加することの必要を宣言している。しかし、その後、主観的モティーフと姿勢が強まってくる。サイフェルトはグループから離れて自立し、彼の現実の内面的体験を表現する「純粋」な詩の創造に努めた。政治的抗争から離れて(確かに、それが彼のチェコ共産党との訣別の原因にもなっている)人生への愛から流れでる比類ない即興の絶対抒情詩の詩人となった。そして、とくに人生の中間領域で、またチェコの自然の調和と魅力の状況のなかで活動したのである。ここに属するのは詩集『郵便鳩』(Postovni holub,1929 )『膝の上のリンゴ』(Jablko z klina,1933 )『ヴィーナスの手』(Ruce Venusiny,1936)『春よ、さらば』(Jaro sbohem,1937)である。
民族の運命的瞬間にサイフェルトの新しい発展期が始まる。この時、彼は民族全体の運命にたいする責任を強く感じる。ミュンヘン会談へと流れていく危機は詩集『明りを消して』(Zhasnete svetla,1938)を生む刺激となり、やがて占領時代の民族意識を強めていく詩の作品が幾冊か続くことになる(『明りで装った』Svetlem odena,1940; 『石の橋』Kamenny most,1944 )。解放で歓喜の絶頂にいたるサイフェルトの市民詩は、後に『泥のヘルメット』(Prilba hliny,1945 )にまとめられる。
第二次世界大戦後、サイフェルトは内面詩へと進み、しばしば伝統への帰属を表明して
いる(『画家は貧しく世に出る』(Sel malir chude do sveta,1949 Ales の絵につ
けた詩『ヴィクトルカの歌』Pisen o Viktorce,1950 ; 『母』Maminka,1954)。この作品が「過去の現在時制への反映」と性格づけられることは決して不当ではない。
60年代にサイフェルトは作家同盟の議長として正しくない政治姿勢を取り、また保持した。そして、それにより彼の詩人として初期の時代に予想されたのとは反対の立場に立った。しかし、彼の活動のこの時期はすでに本書の枠からははみ出している。
散文ではとくにヴラディスラフ・ヴァンチュラがその初期作品『アマゾンの流れ』(Amazonsky proud,1923)や『長い、広い、そして、賢い』(Dlouhy,Siloky a Bystrozraky,1924)のリリシズムとファンタジーによって20年代のアヴァンギャルドを代表している。彼の最初の大作は『パン屋のヤン・マルホウル』(Pekar Jan Marhoul,1924)で、これによってプロレタリア詩と均衡を保っている。ポエティズムの遊戯性に最も近いのはヴァンチュラのユーモア散文『気紛れな夏』(Rozmarne leto,1926)であるが、その一方でロマン『耕地と戦場』(Pole orna a valecna,1925)においては戦争を作り出す市民社会の不条理性が簡潔な表現によって暴露されており、ある種の悲劇的ポエティズムを提示している。しかし、ヴァンチュラの傑作も30年代に含まれるので、彼の作品についても後で触れることになるだろう。20年代のわが国の散文の主な進歩的な流れはリアリズムへの努力によって引き継がれていく。そしてそれを代表するのがイヴァン・オルブラフトとマリエ・マエロヴァーである。
イヴァン・オルブラフト(本名、カミル・ゼマン Kamil Zeman)は作家の家に生れた。彼の父はアンタル・スタシェク(Antal Stasek)である。しかしオルブラフトがその後の人生のためにこの家庭環境から受け継いだものは、単に文学にたいする関心だけでなく、社会問題と、働くものたちの連帯についての鋭い関心でもあった。彼は1882年にセミリ(Semily) で生れた。ドヴール・クラーロヴェー(Dvur krarove)での中等教育の時代に労働者運動に接近し、またマルクス主義文献をも知ることになる。その後、ベルリンとプラハで法律を学び、後に哲学も学ぶ。しかし学業を終えることなく、社会主義のジャーナリズム活動に没頭することになる。まず最初はウィーンの「労働者新聞」(Delnicke listy,1909-1916)に、それからプラハの「民衆の権利」(Pravo lidu)さらにチェコ共産党の創立後は「赤い権利」(Rude pravo)で活躍する。1920年初頭にソビエト連邦を訪問する。チェコ共産党での熱烈な活動によって二度投獄される。30年代には数回、ザカルパツカー・ウクライナ(Zakarpatska Ukrajina) に滞在し、それから彼の作品の題材を得る。占領中は地方に住み、解放後チェコ共産党の中央委員会で政治的に、代議員として活動する。1952年に死亡。
オルブラフトはその文学作品においてわが国文学のリアリズムの伝統につながっており、またそれを豊かに発展させた。そのことは描写の手法においても、言語の点によいても等しく現れている。わが国の批判的リアリズム主義者たちと彼を区別するものは、とくに彼の大きな天分である。だから、現実を描写する際、古い散文がしばしば陥っていた暗さから彼はまぬがれている。彼はチェコ語の最高の名人の一人である。彼はなんの苦労も誇張もなしに、わかりやすくかつ興味ぶかく書くことができた。彼は説明的叙述を避けながら、それでも芸術的描写によって説得する。
オルブラフトの出版デビューは比較的おそい。それは『悪しき孤独者たちについて』(O zlych samotarich,1913 )という表題のもとに収められた三つの短編である。どんな孤独者かというと、サブタイトルに『放浪の物語』とある。放浪者のテーマそのものは今世紀の最初の十年間には新しくはなかった。世界文学においても放浪者は取り上げられている。例えば、M.ゴーリキー、またわが国の例ではヨゼフ・ウヘル(『放浪の人々にかんする章』1906年、上述参照)である。しかしオルブルフトはウヘルの感傷性を排除している。一方、ウヘルが印象主義の影響を受けているとしたら、オルブラフトは正真正銘のリアリストである。その上、オルブラフトはウヘルがともすると陥りがちであった消極性をも排除している。彼はまた差別された不幸な人物たちを描くその他の年長者作家 J.K. シュレイハルの作品にしみこんでいる個人主義的ペシミズムにも屈伏しなかった。オルブラフトは個人の苦しみは全世界の悲惨を必ずしも意味しないことを知っていた。むしろ喜びは人間が自分で勝ち取らなければならない。だからオルブラフトの場合、感傷よりも批判性が優勢である。彼の描く人間たちは「悪人」である。なぜなら社会が彼らを悪者に作り上げたのだから。したがって悪は世界の形而上的性質ではない。そこでオルブラフトは自由を求めて戦い、自分たちを爪はじきにした社会を憎悪の念で、また反抗のまなざしで見つめている人々を描く。たとえそれらの人物たちが非典型的(放浪者、ペテン師、屠殺人)であるとしても、彼らの反抗は今世紀初頭の進歩的若者の基本的生活感情を表現していた。このことによってこれらの小説は市民社会を批判し、彼らと戦う散文学のなかに加わったのである。
オルブラフトの最初の作品の「悪しき」主人公たちのなかには、個人の自由を求めるアナーキーな願望が依然として余韻を響かせている。しかし、たとえオルブラフトが自作の主人公たちのために自由と平等を求めるとしても、彼にとって自由の問題は無節操な生存の権利の問題ではなく、あくまで道徳の問題なのである。自分の幸福のためのこのような個人主義的姿勢をオルブラフトはロマン『最も暗い牢獄』(Zalar nejtemnejsi,1916)で批判している。これは盲人の話である。彼は市民階級のインテリであるが、彼にとって嫉妬が盲目よりも一層暗い牢獄となる。本当はここでも非典型的物語にもとづいて人間にとっての普遍的問題が描かれている。発展の視点から見れば『最も暗い牢獄』はオルブラフトの最初の本とは反対に、作者が社会的制約と他人にたいする個人の責任を意識しているという意味において次の段階に達したことを示している。
オルブラフトはロマン『俳優エセニウスの奇妙な友情』(Podivne pratelstvi herce Jessenia,1919)において彼の最初の芸術的頂点に達している。部分的に第一次世界大戦にかかわりをもつこの物語は単純にロマンチックな性格のものではない。それはインテレクチュアルな俳優イルジー・エセニウスと彼の友人で正反対の、直感的、天才的(zivelni)俳優ヤン・ヴェセリーとの物語である。ヴェセリーが前線でスパイとして殺されるや、エセニウスのなかで相反する二人の才能が調和的に統一されるかのように見える。クラーラ(Klara)にたいするエセニウスの関係が第二の物語の線を作りだす。クラーラはヴェセリーの子供を産むが、ヴェセリーの死後エセニウスは彼女を妻として迎える。ロマンはもちろん、より普遍的意味をもっている。なぜなら倫理的責任の問題、創造的仕事の問題、また戦争の間の民族の問題に答えているからである。したがって人物たちは本来は象徴であるが、だからといって、その生命力を失っていない。
倫理の問題を描こうとする努力はここで次のオルブラフトの発展を予告している。そのためには、もちろん階級的視点から見た現実が実際にかかえこんでいる諸問題を十分知りつくす必要があった。そこで決定的意味をもつ経験となったのが一つはソビエトへの旅行であり、他の一つがチェコ共産党の創立であった。
ソ連旅行の文学的成果は三巻からなるレポルタージュ『現代ロシア風景』(Obrazy ze soudobeho Ruska,1920-1921)であった。レポーターとしてのオルブラフトは具体性と客観性を維持した。彼は新しい社会秩序の建設が遭遇する困難を包み隠さなかった。それだからこそ、かえって説得性がある。レポルタージュにまじってわが国の文学における最初のレーニンのレポートがある。第二次世界大戦後オルブラフトは『現代ロシア風景』を『認識探求の旅』(Cesta za poznani,1952)という題名のもとに改訂している。
オルブラフトはロマン『プロレタリア女、アンナ』(Anna proletarka )のなかで近い過去の政治事件を描き出した。この作品は最初1924−1925年にかけて雑誌に掲載され、1928年に初めて本の形で出版された。それはまだ生き続けている政治闘争を描くという大胆な試みであった。主要人物たちはもはや『最も暗い牢獄』や『俳優エセニウスの奇妙な友情』におけるようにインテリではなく、階級意識へと苦労しながら目を開いていく無教育な女中なのである。アンナはブルジョア世界のアンティテーゼとして設定されており、この対立をオルブルラフトは諸々の人物のなかに描いている。そして二つの階級が相互に対立しあっているように、諸人物たちもまた鋭く対立しあっている。その結果として、ある程度の単純化が起るのは仕方のないことだが、だからといって、ロマンの迫力を減じているわけではない。ブルジョア批評家がこの作品を受け入れるにあたって一定の条件を付したのは当然である。しかし、作品はまず何よりもその作品が設定した目的の大きさによって評価する必要がある。人生にたいする階級的視野を描くことは、社会民主党の日和見主義(オポチュニズム)が社会の現実をおおい隠し、革命の波が退潮している時代には、とくに現実的課題であった。だから、まさにその時代にあって、近い過去を、本質的には現在を、正しい位置から芸術的に描き出し、その現在において自らの方向決定に力を貸すということは、当時、緊急な要望だったのである。
『プロレタリア女、アンナ』は革命的意識に目覚めたプロレタリアートを描くわが国の文学の最初の試みとして先駆的意義をもっている。そして今日ではチェコ社会主義文学の基礎的作品に属している。以前の作品の人物たちが象徴に陥りがちだったのにたいして、オルブルフトはこの作品のなかで、社会的進歩を担う血と肉をもった典型的人物として描き出している。初めのオルブラフトの二編のロマンの倫理的責任という個人の問題性は全社会的問題性へと合流し、個人は自己と進歩的社会階級との関係において描き出されている。これはもちろん大きな課題であり、オルブラフトはとくに個人と集団の力の相互間系を描くような、そして伝統的ロマン手法と現実描写とを調和させるような新しい手段の実現へ向けて努力しなければならなかったのである(この点はロマンのなかにレポルタージュ的要素を導入するということで示されている)。
いずれにせよオルブラフトの芸術活動の周辺に作品集『オーストリアと共和国に題材を得た九編の陽気な物語』(Devet veselych povidek z Rakouska i republiky,1927, 改訂版1948年『かつてあったこと』Bejvavalo という表題で)に集められた短編作品がある。この作品集は――その表題からも察せられるように――『プロレタリア女、アンナ』よりも比較的古い過去から題材を取っている。監獄生活の証言『格子のはまった鏡』(Zamrizovane zrcadlo,1930)はいまだホットな現在を描いている。これもまたレポルタージュではあるが、単なる記録ではなく、囚人と看守とについての心理学的考察の集成にもなっている。
他のタイプのレポルタージュを代表するのはザカルパツカー・ウクライナについて書かれた『名前のない国』(Zeme beze jmena,1932; 普及決定版は『山々と数世紀』Hory a staleti という表題で出た)である。当時、「ポトカルパツカー・ルス」と呼ばれてわが国に属していたこの地方は、一つには文明の手のとどかないその自然環境によって、他方では――そしてこれが一番重要なのだが――その住民の貧しさによって注意を引きつけた。
問題は文化的に遅れた土地(この地方には中世の迷信が依然として完全な形で生きていた)ということだけでなく、経済的に危機に瀕しているということだった。それというのも、この地方、ザカルパツカー・ウクライナは第一次世界大戦前にはオーストリア・ハンガリー帝国のハンガリー側に属していたから、住民の一部はハンガリーで仕事を得ていた。だが、チェコスロバキアに併合されてからは、それができなくなってしまったからだ。社会的圧迫はとくに30年代の経済恐慌期に増大していた。ちょうどその頃オルブラフトはこの地方に立ち寄り、ザカルパツカー・ウクライナの人民にたいして、当時の農本党(agrarni strana)によって提出され実行されていた植民地政策を暴露した。この土壌からロマン『盗賊ニコラ・シュハイ』(Nikola Suhaj loupeznik,1933 )の筋は生れた。
これもまた社会暴動の物語である。金持ちから奪い、それをふたたび貧者に与えるという盗賊の話は、ちょっと目には、わが国のマヘンによって改作されたヤノシーク伝説の題材を思い起こさせる。しかしオルブラフトの場合、近い過去、それどころか現在ともいえる時代の人物なのである(事件の中心は大戦後間もない時期に始まる)。ニコラ・シュハイはヤノシークと同様に歴史上の人物である。かつてのヤノシークと同様にニコラ・シュハイも民衆の反抗を象徴する。ニコラはオルブラフトが生きている時代に民衆の語りのなかに登場してきた。だから、オルブラフトは民衆神話成立の端緒を自作ロマンのなかに、きわめて正統的な方法によって取り入れたのである。
オルブラフトは芸術家として、このロマンのなかで自然の枠組みや人物の心理描写、愛のもつれ、罪の審判などの間の完全な均衡を取ることに成功している。叙述には叙事的冷静さが常に保たれているから人物像にも説得力がある。オルブラフトは無駄な効果を排除して、それによって本当の偉大さを獲得したのだった。彼の作品の力は、それが実話にもとづいていること、そして個人的反抗の実行者がいかにして民衆の自由への願望の象徴となり、また、個人の運命がいかにして全人類的シンボルにまで誇大化されていくかを描ききったことから生じてきている。
ザカルパツコはリアリスティックに描かれているが、同時に謎に満ちた土地として描かれている。
それというのも、竃にくべようとしてしわくちゃにした紙切れみたいな山襞のいり こんだこの森林地方には、わが国ではもうとっくの昔に起らなくなってしまったから という、ただそれだけの理由で安堵の笑みを浮べて語るような事件が依然として起こ っているからだ。この原始林の熟れきった薄暗がりのなかでは新たに泉が生れ、年ふ りたかえでの古木が死んでいく。そんな山また山、谷また谷のこの地方には一度足を 踏み入れたが最後、あか鹿であれ熊であれ人間であれ、かつて一度たりとも戻ってき たためしはないと言われているそんな悪魔にとりつかれた場所が今でもあるのだ。糸 杉のこずえを伝わり、のろのろと山の頂のほうへはい上がっていく朝霧の帯は死者た ちの行列だし、峡谷のうえにただよう雲は、誰かに危害を加えようとして山陰に身を ひそめる口を開けた性悪の犬どもだ。そして下のほうの谷川をはさむ狭い岸の、とう もろこし畑の緑と、ひまわりの花の黄色に色分けされた村々には狼人間が住んでいる のだと・・・・・・
オルブラフトは民衆の迷信を嘲笑しなかったばかりか、それにたいして批判的態度も取らず、その迷信を人物たちの性格の造形、そして実際のところ、物語の創造を助ける純粋な事実(prosty fakt )として受け取った。彼は物語を語る際、完全な客観性を保ち、彼自身は報告者としてひたすら背後に控えていたが、同時に、読者にたいする自分の関係を強調することを怠らなかった。そして常に、民衆的語り手という方法で読者との接点を結んだのである(例えば「それじゃ、オレスカ・ドブシチュクはどうなったか、おわかりかな?」というような疑問形を参照)。
ニコラは主要人物ではあるがロマンはもともと集団的である。なぜならニコラを支援する山人たちやその他のザカルパーツコの村人、とくにユダヤ人たちは、ニコラと同じ役割を演じているからである。それと反対の役割を担うのがニコラを逮捕すべく派遣された憲兵たちだ。ニコラ自身はもちろん個人的反抗の行為者である(「なぜなら、ニコラ・シュハイにとって他人との接触の意味するところは同じであった。つまり、ニコラは山猫のようなもので、山猫自身が獲物を追って飛び出してきたら、自分自身ほうが打ちのめされるだろうし、弾にあたって死ぬか、そうでなけりゃ、身じろぎもせずに繁みのなかに潜んでいるかだからである」)。しかしこの反抗は人類的反抗へと拡大される。民衆はシュハイを愛する。
人々はシュハイをずっと愛してきた。それは彼の力の奇跡のゆえもあったし、彼の 勇気のゆえ、彼の愛のゆえ、彼の悲しい笛の音のゆえもあった。それはまた、誰ひと り勇敢に立ち向かうことのできないことを自ら引き受けたから、また、旦那たちの間 に恐怖をまき散らしたから、虐げられてきた者たちを愛したから、富者から奪ったも のを貧者に与えたから、すべての貧困と悪に復讐したからだ。シュハイの名前は、愛 すべきもの、恐るべきものが住んでいる日曜日の教会の薄明りや、香りや、響きのよ うなものとなんとなく結びついている。
オルブラフトは短編小説の形式でザカルパツカー・ウクライナを三編の作品『峡谷への亡命』(Golet v udoli,1937)のなかで描いている。これは正統的ユダヤ人(つまり、古くから伝えられてきたその宗教のすべての掟を守っている純粋なユダヤ人)の生涯から題材を得たものである。この本はその題名からしてすでに興味ぶかい。なぜなら、われわれチェコ人にとってはエキゾチックな世界、それに異質なものの考え方を教えてくれるからだ。だがそれ以上に、その何とも言いがたい微妙な心理描写でわれわれを魅了する。『ハナ・カラジチョヴァーの悲しい目について』(O smutnych ocich Hany Karadzicove )という短編では、ふたたび自由を求めて反動的環境に反抗して生きる勇気を描いている。しかしこの作品集は、社会秩序の批判においても、さらに歩を進めている。それというのも、彼は社会階級が時代後れの思想を保持することをいかに助長しているかを示しているからである。
オルブラフトは『聖書物語』(Biblicke pribehy,1939 )また、古い伝説『古い年代記から』(Ze starych letopisu,1940)をとくに若者むけに書き直している。彼はわが国の古い時代にかんする意識を強化することによって、占領者たちにたいする反抗を象徴している。戦後にも若者むけに古代インドの寓話『賢者ビトポイとその獣たち』(O mudrci Bidpojovi a jeho zviratkach,1947 )を出版し、また『略奪者』(Dobbyvatel,1947 )という題名で、十九世紀前半のアメリカの歴史家ウィリアム・プレスコットの『メキシコ略奪の歴史』(William Prescott,Dejiny dobyti Mexika )を改訂している。実は、ここで侵略者のやりかたがいかに変わりないかを示しており、それによってこの物語に現実的な迫力を加えている。
マリエ・マエロヴァーはいつもオルブラフトとともにわが国の社会主義散文文学の創始者と称されてきた。彼女はプラハ近郊のウーヴァリの出身である(Uvaly,1882年、生れはヴァルトショヴァー Bartosova)。三歳の時に父を失い、母は退役下士官アロイス・マイエル(Alois Majer )と再婚した。後の女流作家はその筆名を継父の名から取っている。1894年に一家はクラドノ(Kladno)に移ったので、未来の作家はプロレタリアートや社会民主主義運動をこの町で間近に見聞することになった。1900年の労働者の大ストライキは彼女にとって深刻な体験となった。小学校を出てから一年間ブタペストで女中奉公をしたが、その後プラハでタイピストになる。ここで S.K. ノイマンを中心とする作家のサークルに接近し、社会民主党の出版物に詩を書きはじめ、後には小説を書くようになった。
M,マエロヴァーの長い発展の道程のなかで、政治生活との不断の接触とともに重要だったのは外国旅行だった。1904−1906年の間にすでにウィーンを知り(「労働者新聞」の編集員だった夫とともに)、その後1906−1907年には勉強のためパリですごした。帰国後社会民主党に入り、チェコ共産党結成後はその党員となり「赤い権利」(Rude pravo)の編集部で、とくに婦人と子供関係の仕事に携わった(若者向け紙面の編集をした)。チェコ共産党の危機のときに党と別れ、職業作家として自立した。解放後党に戻って、精力的に活動し、1967年に死亡した。
マエロヴァーの場合、芸術的創造の仕事はジャーナリスト活動と社会活動と常に相携えて進んだ。他の人の場合だとこのようなとき、作品が粗雑になったり皮相になったりしがちなものだが、彼女の場合、この種の活動は反対に人生にたいする認識を深めることに役立った。それというのも、そのことが民衆との接触の機会を絶えず彼女に与えたからである。
彼女の作品は広範である。だから最も重要な作品のみにかぎって詳細に考察することにする。
マリエ・マエロヴァーの主な特徴は、現世的生活にたいする情緒ゆたかな喜びにみちた関係である。そしてそこから自由への愛が生れる。しかし、それは安っぽい快楽主義でもなければ、あまりにも洗練された官能主義でも、皮相なヴァイタリズムでもない。それは健康なヴァイタリティーであり、そのヴァイタリティーのゆえに自由への願望は禁欲的(民衆からの逃避)でもなければ、アナーキーな放縦(他人のことはお構いなし)でもありえない。むしろ、それ自身のなかに活力源となるようなものをもっていた。M.マエロヴァーの文学作品の人物にかんするかぎり、その健康なヴァイタリティーをもっているのは女性の人物たちである。マエロヴァーは彼女たちの感情生活にたいして繊細な感受性をもっていた。だが同時に彼女の感受性はセンチメンタルではない。
マエロヴァーは初期の作品では総じて女性の心理に注意をそそいでいるが、これらの作品のなかには、すでにプロレタリアの環境から生れた女主人公たちが登場してくる。このことは、これまで「女性心理の暴露」に努める女流作家としての位置づけられていたルージェナ・スヴォボドヴァーと比較してみてもとくに特徴的な点である。この部類に属する作品としては短編集『地獄の物語』(Povidky z pekla,1907)『不毛な愛』(Plane milovani,1911 )『大地の娘』(Dcery zeme,1918 ; 改訂第二版では『不毛な愛』と同一の巻に収められた)と『受難花(トケイソウ)』(Mucenky,1921)である。これらの作品と系統のものとしては規模の大きい『少女期』(Panenstvi,1907)がある。これらの作品なかでマエロヴァーは印象主義の影響はもちろんのこと、同時代の自然主義の影響からも身を守っている。思想面でも、すでに成熟した作家としての面目を保っている。つまり彼女は女性主人公の側に立ちながらも「女性解放」を女性の経済的自立としてごく単純にしか見ない、かけ声だけは勇ましい皮相なフェミニズムに陥ってはいない。マエロヴァーは人間生活において感情がいかに重要な要素であるかを知っていた。だから彼女の諸短編の主なテーマは愛であった。しかし、だからといって人間が単なる動物的、本能的「生の享受」のなかに幸福を見出だす存在であるというふうにはとらえていない。
マエロヴァ一にはすぐれた現実感覚があり、しかもその現実感覚は外面性にのみ限定されていない。描く人物たちを心理的に深く把握し、批判的分析を加えることによって日常生活の真に隠されたものをもとらえることができた。そのために彼女の世界像は深まり、世界の社会的法則性についてのその後の理解の前提が形成されたのである。
マエロヴァーのこれらの最初の発展期の最高傑件はロマン『共和国広場』(Namesti republiky,1914)である。物語はパリで展開される。作者は彼女自身のパリ滞在の体験から、また当時の社会的かつ政治的不安についての知識を生かして、アナーキズムについて思索し、それを批判の対象としている。物語の軸を形作るものはパリの環境のなかに社会的理想の徹底的な解決のための模範を発見しようとしている一人の移住者の運命である。しかし彼が出会うのは破廉恥な利己主義の仮面をつけた皮相で空虚な個人主義である。マエロヴァーは理想と現実との間の矛盾を示すことによって社会的現実の土壌にしっかりと根づいたのである。そうすることで、やがて戦後の作品において解決される問題を提起したのだった。当時はもちろん、すでに十月社会主義大革命やチェコ共産党の設立などを経て、彼女は経験ゆたかになっていった。
M.マエロヴァーの社会主義小説への過程で最初の大成功ほロマン『最も美しい世界』(Nejkrasnejsi svet,1923)である。その作品ほ、事実、この作家のこれまでの作品の集大成であった。文学発展の視点から見ると、このロマンはわが国の文学が初めて自覚ある社会主義の闘士を、かつまた幅広い展望において見るとき――肯定的主人公のタイプを登場させたことからしても、すでに重要な意味をもっている。アルベスやスタシェクの作品において見られるように、人間解放を求めて戦う人物の古いイメージと比べると、ここでは目的は明確だし、かつての不条理性(ZiveInost)は影をひそめている。女主人公のレンカ・ピランスカー(Lenka Bilanska)は労働者環境の出身ではないし、労働者の活力が直接的にこの作品では表されていないが、未来は労働者階級に属するという発展の法則性の認識はそれだけにより強い説得性をもっている。
レンカは水車小屋の所有者の家庭に育つ。そして自身の努力によって徐々に社会の現状の認識に達する。とくに戦争中、大勢の民衆の戦争にたいする抵抗を目にしてからである。 マエロケァーは人間がいかにして新しい社会秩序のために積極的に戦うことの必要性を認識するにいたるかを、レンカを通して描き出している。同時に注目すべきことほ、ここでも女主人公は女性としての本質を失わないところの女性であるということだ。愛情関係のもつれはこの物語が無味乾燥なテーゼ小説に陥るのを防いでいる。
マエロヴァーの次のロマン『ダム』(Prehrada,1932)は同様に社会革命をテーマとしているが、しかしその革命を未来へ移行させたユートビア・ロマンである。叙述の手法が変わっている。『最も美しい世界』をも含めて、これまでの作品がその重心を個人の心理に置いていたのにたいして、今度は場面がダイナミックに変化し、プロレタリアばかりでなく大ブルジョアの環境までもが等しく描か九ている。
M.マエロヴァーのロマン作品は大作『サイレン』(Silena,1935)において頂点に達する。この物語はクラデンスコの鉱夫と製鉄労働者との間で展開される。作品は手法から見れば年代記である。
当時ヨーロッパにおいて新しい形式であった大河ロマン(roman-reka)が市民階級の主人公たちを取り上げているのにたいして、マエロヴァーのこの作品ではプロレタリアの生活の物語が数世代にわたってくり広げられる。作者は歴史を主導する力を労働者階級のなかに正当に認め、働く人間がいかにして意識に目覚めていくかを示している。それというのも、前世紀の中葉から第一次世界大戦にいたるまでの諸事件を描いており、わが国の社会の発展の重要な時代の情景を呈示していることになるからである。F.L. ヴィエクが再興期の描写において意味したことを、『サイレン』はわが民族の社会主義的成長の描写にたいして意味しているのである。
物語ほ労働者の家族フデッツ家の四世代に集中している。文学的に最もよく描かれているのは、古いフデッツ家の女性の人物である。この女流作家は素材にたいして個人的な関係をもっている――実際、彼女が自分の体験から知っている環境や問題を取り上げているのだから――しかし、だからといって、そのことが客観性を失わせることにはなっていない。彼女の物語の力は話の筋を語るだけでなく、同時に、抽象的人物でない、血の適った本当の人間として、その登場人物を描きえたことにある。もともと彼女の場合、作者と素材との間に隔たりはない。イラーセクが苦心しながら時代一確かにそれは遠く隔たった時代ではあったが−の資料を調べ、それに基づいて書いたのにたいし、マエロヴァーは大部分を自分の体験や生きた証拠をもとにして――もちろん、部分的にほ古文書的記録を調べることはあったにせよ――書いたのだ。それにつけても感じるのは、彼女が人物たちの上に立っているのではなく、人物たちのなかに入り混じって立っているということである。
『サイレン』に付属するものとして、ロマン(長編)というよりは短編というべき小品『鉱夫のバラード』(Havirska balada,1938)がある。ここで作者は『サイレン』のなかの一人物、仕事を求めてサスコ(Sasko)へやってきた鉱夫の運命をたどっている。記念碑的な『サイレン』とは反対に、ここでは室内楽的狙いでもって小さな空間にしぼられている。だが、そのことによって作者は逆に人間の仕事を記念碑的なものにしている。
M.マエロヴァーの語り手としての芸ほ傑出しており、幅広い表現力をもっている。個々の人物と同様に群衆の場面をも描き出し、また自然環境と同様に生産現場の状況をも描ききっている。とりわけ女性の人物を描くことに秀でている。例として『最も美しい世界』から一部を引用しよう。
レンカは台所で独りになり、暖炉のうえに寄りかかていた。
もう、あたりは雪におおわれ、ほの暗かった。水かさを増した汚水が講を流れる音がする。霧が壁にそってはい、湿った影を志にのぞかせる。みなが出ていった後の静けさのなかで、暖炉に寄りかかりながら、レンカはひどく気持ちよく字が読めた。しかし今は雪の薄闇が小さな文字を隠してしまった。彼女は本をパタンと閉じると思いにふけった。白い船に乗って海を渡っている。波の合間から青い魚が跳ねて出る。そして空中に巨大な真珠色の半円を描いて彼女の上を飛んでいく。暖かくて静かだ。船は進み、目的地が近付いてくる……しかし、甲坂下の船室で悲しんでいるのは誰だ? 白い船の船腹に黒い航跡を焼付けているのはいったい誰の涙だろう?
レンカは頭を上げた。
けいれんのようなおえつがこみ上げてくる。
暖炉から静かに離れた。
ここはもちろん海ではない。しかしベンチにはマリエが肘をついた手で頚を支えてすわっている。彼女の小さな体は押えつけられた悲しみで激しく震えるのだった。息を吸い込もうとして頚をあげたとき、大きく吸った息の終わりは子供っぼい泣声になっていた。そして、また激しくうつ伏した。それは色あせた花だった。
ネッカチーフの三角の端がマリエの背中に垂れていた。彼女は猫背で、ポロ布の塊だった。ただ痩せた首筋のあたりに筋肉が張っていて、髪を束ねた紐がみっともなく緩んでいる。髪の尻尾が走り去った。レンカはこの細い首筋にマリアのすべての苦痛が突き抜けるのを見た。マリエの父親が裸の体に鞭を加えた、まさにあのときのような、それと同じ痛みが。
マエロヴァーのその他の作品は上にあげた主要作品の陰にかくれている。この領域に属するのの第一は子供向けの作品である。最初の作品群のなかでは社会的問題性を盛り込むことに成功している(『ブルノ、またほ、チェコの田舎でのドイツ少年の冒険』Brno,cili Dobrodruzstevi nemeckeho hocha na ceske vesnici,1930;『ロビンソン娘』Robinsonka,1940;ほか数冊の作品集)。マエロヴァーは解放後も社会主義文学の創造に貢献した(建設についての小説『閃光の道筋』Cesta blesku,1949、『未開の西部』Divoky zapad,1954)、ルポルタージュ(『勝利の行進』Vitezny pochod.1953)そして作家同盟(Svaz spisovatelu)の組織の仕事にも携わった。また何冊かの紀行文(『アメリカの印象』Dojmy z Ameriky,1920:『革命後の一日』Den po revoluci,1925;『アフリカの瞬間』Africke vteriny,1933)を書いた。祖国の自然への愛の告白は『ふるさと探訪』(Hledani domova,1931、普及版 1939)である。
(12) 20年代文学における傍流/カレル・チャペックの初期
プロレタリア文学の努力とポエティズムによって、20年代の文学展望はすべてつくされるかというと必ずしもそうではない。ここにはまだ別の流れがあった。しかし、それらは発展という観点から見れば傍流と言わざるをえない。それというのも、それらの傾向は単なる短い挿入部(たとえば上述のヴァイタリズムのように)であったり、その代表者たちはいち早く他の道を進み始めるといった具合だったからである。以前、「−−イズム」という接尾辞はただの小さなグループ単位を意味したものだった。つまり成立するや否やすぐに分解するとか、あるいは事実上はっきりとした傾向を表明していないようなグループ単位だった(たとえば、シヴィリズム civilismus )。そこで、さらに二つの傾向、表現主義とプラグマティズムについて語る必要がある。なぜなら彼らの共通認識は、世界は人間のためのものであり神のためのものではないということ、そして人間性は世界の最高の価値であるということにあったから、それらは「戦後ヒューマニズム」と呼ばれていた。より正確には非マルクス主義的ヒューマニズムである(なぜなら、プロレタリア文学もポエティズムも人間を中心にすえていることに変わりはないからである)。
印象主義が外面世界がいかに内面に反映するかの表現を問題にするのにたいし、表現主義は内面の外部への投影を問題にするという意味において、正反対の立場に立つ。したがって表現主義は理想主義的傾向であり、精神的なものが第一義的現実(リアリティー)となる。表現主義は第一次世界大戦前にすでに現れ、戦後、ドイツに根をおろし、ドイツに発して数年間のうちに広まった。戦争体験を経て、表現主義はヒューマニズムを宣言し、プロレタリアートの独裁に反対して人間性の独裁を標榜した。――表現主義者たちは人民を教育し、変えることによって世界の再興を求めたのである。表現主義は集団主義にたいして個人主義である。だから、人間はすべての社会的拘束から切り離されて、小宇宙(ミクロコスモス)として描かれる。表現の面から見ると、表現主義は堅固な形式を破壊する。このことは主に造形芸術においても、小説や演劇の形での文学についても当てはまる。表現主義の詩は直接的にとらえられたイメージの流れとなり、表現主義的小説やドラマは簡潔表現を目指し、装飾的要素はそれらの作品のなかでは最少限に限定され、作者はとくに自分独自の世界像を提示しようと務めた。そのため、リアリスティックな要素は限定され、しばしば奇怪(グロテスク)なものとなる。
わが国の表現主義者たちはブルノの「文学集団」(Literalni skupina )に集合した。そしてその機関誌は雑誌「客」(Host)だった。その年鑑の第二冊は巻頭文として『われわれの希望、信念、および仕事』(Nase nadeje,vira a prace)が掲載され、そのなかで著者たちは社会主義への参加を表明した。彼らは市民階級を断罪したが、社会問題を理想主義的に解決しようとし、そのために政治的には改良主義を主張した。その代表者はレフ・ブラットニー(Lev Blatny,1894-1930)と初期におけるチェストミール・エジャーベク(Cestmir Jerabek,1893生れ)である。ブラットニーは短編にすぐれていた(『柵のなかの風』Vitr v ohrade 、『きわめて簡潔な短編集』Povidky v kostkach)。またエジャーベクには戯曲『大サーカス』(Cirkus Maximus)や短編『ガラス人間』(Zaskleny clovek )がある。理論家は Fr.ゲッツ(Gotz)である。この芸術傾向は短期間のうちにその生命を終えた。
プラグマティズム・グループは強い生命力を示した。また、この一派はその最大の作家に因んで「チャペック世代」(capkovska generace)と呼ばれている。政治的には体制に忠実なのが特徴であり、哲学的にはアメリカのプラグマティズムを基盤にしている。その根底には真理というものの特殊な概念規定にある。つまり、真実性はその結果によってのみ判定することができる。言いかえれば、人間にとっての利用価値によるというのである。あらゆる概念、理念、判断も行動の規範として理解されるから、実際の生活にたいする利用価値によって評価される。すべての価値の尺度は人間であるから、プラグマティズムもまたヒューマニスティックで個人主義的である。それには様々なニュアンスがあり、「最も民主主義的」な哲学と評価される一方で、「ドルの哲学」という評価も得ている。
実践生活と人生の現世的価値の強調のゆえにプラグマティズムは戦後のヨーロッパにも根をおろした。わが国ではプラグマティズム・グループはジャーナリズムの面では週刊誌「現代(Pritomnost)」と日刊紙「民衆新聞(Lidove noviny )」の周辺に集り、政治的中道派の擁護者となった。主な文学的発言者はカレル・チャペックである。彼の場合、共感的ヒューマニズム(soucitny humanismus )の形を取った。20年代にチャペックは世界は合理的には把握できないと信じていた。たしかに彼はブルジョア的エゴイズムに反対する立場を取ったが、それに対立させえたものは、仕事と人間の相互理解についての信念、それにまた、とりわけ生命の力にたいする信念だけであった。これによってチャペックは中道と「小さな人間」を擁護しマルクス主義作家とは反対の論壇に立っていたのである。しかし20年代の末からチャペックの姿勢は変化し、彼の創造的絶頂期が始まる。だから、ここでは彼の20年代の活動のみを扱い、その後の活動についてはこの後の章で述べることにする。
カレル・チャペックは田舎の医者の家庭に生れた。そして文化的環境のなかで育った。文学的には彼の三歳年長の兄も四歳年上の姉も活動的であった。1890年にマレー・スヴァトノヴィツェに生れ、幼時をウーピツェ・ウ・ポトクラコノシーですごし、ギムナジウムをフラデッツ・クラーロヴェー、ブルノ、プラハと移り、プラハで卒業した。両親は1907年にプラハへ引越してきた。その後プラハ大学の哲学科で学び、ドイツ、フランスへも留学した。1904年以後、雑誌に作品を発表する。学業を終え、博士号を得たあと、短期間図書館員となり、貴族の家庭教師となり、1917年以後ジャーナリストとして活動した。とくに1921年以後はずっと、死ぬまで「民衆新聞」で仕事をした。
20年代にチャペックは民主的中道派の代表として、新しく生れた共和国の御用作家と目され、またその政策をジャーナリスティックに宣伝した。彼の政治的プロフィルには、とくに彼の尊敬するマサリク大統領との親密な関係が影響している。30年代にチャペックがファシズムにたいする民主的自由の主導的擁護者となり、より一層顕著にこの方向づけを露呈してきたとき、ミュヘン条約で最高潮に達する反動勢力はチャペックにたいして攻撃を集中したのだった。文字通り反動勢力の攻撃にもみくちゃにされた彼は1938年12月25日、肺炎にかかって死んだ。彼の死はある意味で象徴的である――それというのも、その文化的プロフィルの形成に寄与した作家が、その国家が自立を失うのと時を一つにしてこの世を去ったからである。(チャペックの生涯を間近に描いたのはヘレナ・チャプコヴァーの回想記『私の愛しい弟たち』Moji mili bratri,1962 である)
K.チャペックは徹底してほとんど散文だけを書いた。ほんのわずかな例外として、彼の文学の初期の幾つかの詩(没後の1946年に『高揚せる舞踊』Vzrusene tance という表題のもとに出版された)と一握りの韻文の小記事(『カレル・チャペックの七編の小放送局』)それに戯曲『愛の盗賊』(Loupeznik )のなかの数行の詩である。しかし重要なのはアポリネールの『圏』(Pasma,1919)の翻訳と訳詩選集『新時代のフランス詩』(Francouzska poezie nove doby,1920 、V.ネズヴァルの序言を付す)である。
散文家としてのチャペックは数年間の模索がある。兄ヨゼフとの共同作業は彼にとって大きな助けとなった。なぜなら市民文化がその価値観とともに崩壊した時代に、彼はだれか支えてくれる人間を必要としたからである。チャペック兄弟による初期の短編は、10年代に装飾性を最少限にとどめた含蓄のある、しばしば格言的表現にたいして言われていたような新古典主義というふうに認知された。最も古い作品は雑誌に発表され、後に『クラコノシュの庭』(Krakonosova zahrada,1918)という本にまとめられた。題材は部分的に生れ故郷のポトクルコノシーから取られている。ここで、すでに、人間個人がどうあがいても理解しえない世界のなかでの人間の無力さについての思想が現れている。『クラコノシュの庭』は出版の時期は後になっているものの、書かれたのは作品集『輝ける深淵』(Zarive hlubiny a jina proza,1916)よりも前である。『輝ける深淵』はそれなりに実験的な手法による作品集である。
カレル・チャペックの散文作品集『路傍の聖者像』(Bozi muka,1917)がそれに続く。この作品は絶対的真理の認識の不可能性の思想から生じるところのペシミズムの浸透した作品である。人間は神の面前に立っているが、同時にこの世を無目的に、無意味に生きている。巻頭の短編『足跡』(Slepj)がしばしば引用される。雪のなかの原っぱに道路から数メートル入ったところに、とり残されたみたいに足跡がついている。どうやってそこへ行ったのか? 奇跡が起こったのか? チャペックは答を与えていない――真実は手のとどかないところにある。この思想から真実の複数性の考え方が一直線につながっている。ペシミズムの哲学は彼の作品集『悲しい話』(Trapne povidky,1921 )のなかにも浸透している。
20年代の始まりと同時にK.チャペックは舞台の上でも才能を発揮する。同時代のヴァイタリズムにも比肩すべき喜劇『愛の盗賊』(Loupeznik,1920)をもって登場しのだが、実は、この劇は幻滅で終わる。父は娘を恋愛から守っている。しかし、若い男がやってきて娘はその男に奪われる。しかし、彼女の姉が現れる。彼女は一度は愛を求めて家から逃れるのだが、今では焼かれた羽をかかえて家に戻っている。盗賊の若者は追いつめられて逃げ出す。次はユートピア劇『ロボット』(RUR:Rossum's Universal Robots)が続く。 チャペックはこの戯曲によって国際的名声を博す(初演1922年)。ここには近代科学や進歩についての作者の関心と同時に、また人間の創造物が人間にたいする支配を強め、文化が技術文明によって滅ぼされる、そのような世界での人間の運命についての危惧をも反映している。文明にたいするこのような姿勢には表現主義の影響が明らかである。劇の主題は人造人間ロボットの製造である(ロボットという語はチャペックのこの戯曲から国際的な術語となった)。ロッサム工場では次々に新しいロボットが製造されている。そして人類はそれらのロボットをあらゆる仕事につかせ、やがては戦争にまで使うようになる。最後にはロボットは反乱を起こし、人類を抹殺してしまう。しかし、彼らの製造の秘密は失われ、ロボットたちもまた死滅の危機にさらされる。だが、幸いなことに感情をそなわったロボットたちの二人が互いに愛を感じ、それによって地上における次の生命が守られるというわけである。
ユートピアはチャペックのその後の幾つかの作品の特徴にもなっている。それらの作品とはロマン『絶対子工場』(Tovarna na absolutno,1922 )戯曲『マクロプロス事件』(Vec Makropulos,1922 )およびロマン『クラカチット』(Krakatit,1924 )である。 『絶対子工場』の発端は特殊なキャブレター(気化器)の発明である。このキャブレターは炭素原子を破壊する。だが物質の破壊と同時に絶対子、つまり神をも放射する。こうしてキャブレターの周囲には宗教的熱情が蔓延して、生産過剰は世界を経済的混乱へおとしいれる。対立の発生から破滅的戦争が起こる。しかし、サヴォイ国の砲兵中尉がキャブレターを破壊して世界を救う。ロマンはユーモアたっぷりの雰囲気のなかで進められてはいるものの、あちこちに大企業や信仰、教会、大土地所有政策、植民地主義、帝国主義戦争にたいする強烈な風刺がばらまかれている。
戯曲『マクロプロス事件』の主役は有名な女流歌手エミリア・マルティである。彼女の父はルドルフ二世の典医だった。そして彼女に三百年の間若さを保つ利き目をもつ魔法の薬エリクシルを試験する。しかし、歌手にとってこんなに長い人生は何の意味ももたないし、価値もない。そんなわけで、三百年目にこの処方箋は使われない。これによって劇は「この世に死があるというのはよいことだ」という賢明な分別に帰結するのである。
『クラカチット』はその当時、最も有名なチャペックのロマンであり、その人気という点では戯曲『RUR』に匹敵するものだった。主題は、全世界を破壊しうる火薬の発明である。ここでも結末は穏当である。クラカチットの製造法はすでに製造された火薬と同様に消滅してしまう。発明家プロコプが最後にたどりつく知恵は、人類のために小さなことをすることであった。
これらの作品に共通する基盤は、人間は世界の歩みに干渉すべきではなく、もし重大な干渉が起こった場合、それは人間個人にとってばかりではなく、人類にとってもよい結果にはならないという確信であった。ここでは社会変化にたいする不信、それどころか世界を現在よりよくするという人間の能力にたいする不信さえ述べられている。公の批評家は社会の現状を称揚し、変化を否定する、まさにその哲学のゆえにこれらの作品に喝采を送ったのである。
上記の作品の延長線上に、さらにチャペック兄弟の合作による戯曲『創造者アダム』(Adam Stvoritel,1927 )が続く。「否定の原理」の発見者は全世界を自分自身にいたるまで滅ぼして、新しい世界を創造する――だが、この世界は古い世界よりももっと悪かったという発想がもとになっている。人間の弱さにたいする風刺は、この作品より以前の戯曲『虫の生活より』(Ze zivota hmyzu,1921)であるが、この作品も兄弟の合作である。これはある放浪者の死後の幻想であり、風刺的な情景のなかに愛のむなしさ(蝶)、所有欲(こがね虫)、権力欲(蟻)、また人生の短さ(かげろう)を放浪者に見せる。この戯曲は人生の空しさに気づかない人間のみが幸福でありうることを示している。
チャペックは非常に多作かつ多方面的作家であった。長編(ロマン)、短編、戯曲とともに旅行記にもひいでていた。20年代に『イタリア通信』(Italske listy,1923)と 『イギリス通信』(Anglicke listy,1924)を出版した。これまでの古い旅行記とは異なり教育的な意図が前面に出ていない。むしろ作者の印象や観察の描写に重点が置かれ、しばしば独創的でウィットに満ちている。新聞に掲載された軽妙な文体は素材にたいする独創的なアプローチによって読者の大きな反響を獲得した。
チャペックはこのような紀行文の場合と同様な現実にたいするセンスを『身辺雑記』(nejblizsich vecech,1925)という表題のもとに集められた新聞のコラムでも示した。ここで彼は最も日常的な事柄やその意味、さらにほその哲学的な意味までも考察した。彼はそのように新しい視点で世界を見ることができたし、日々の生活のなかに存在しながら、しばしば私たちが意識しない事柄(マッチ箱、炉、火、雪、その他)に目を向けることを敢えてくれた。チャペックの作家活動の認識のために同様に重要な本は『言葉の批評』(K「itika s暮OV,1920)で、ここで作者は言回しや決り文句について考察している。
カレル・チャペックはたちまち同時代の公認の作家となり、その名は外国にも浸透していった。そして彼の成功を中道を支持する哲学(このことにより中間に位置する人々の大半、とくに多くのインテリ・サラリーマンを満足させた)とともに分かちあったのは彼の話芸だった。知ってのとうり彼は形式的民主主義を最良の社会組織と考えていたが、そのことは彼の言葉のなかにもできるかぎり民主的な表現への努力として現れている。チャペックはできるだけ自然な文体を心がけ、そう努力した。だから非常に読みやすい。彼ほ難解を避け、読者にたいしてできるかぎり親しく語りかけるよう努め、常に読者のことを念頭においていた。だから彼は、比倫の網の目をくぐり抜けて著者の思想にたどりつくというような苦労を読者に課さなかった。反対に彼は様式的に十分コントロールされ、しかも同時にわかりやすい語りかけを読者にした。彼は親密で暖かみのある表現にも努めたから、読者は誰かが、まさに自分に、ただ自分にだけ話しかけているのだという印象をしばしばもつのである。
チャペックの作品のなかでは、また空想物語のなかでさえ、まるで人生の真只中から引っ張り出してきたような場面が多数発見できる。チャぺックは物質世界と具体的イメージにたいする類いまれな感覚をもっていた。その結果、彼は空疎な修辞(レトリック)を避けて自分の言葉を厳密に選んだ。彼の文体はジャーナリストとしての活動との密接な関係のもとに作り上げられた。ジャーナリストの仕事は故にわかりやすい表現を教え、他方、文学的仕事は後に、ジャーナリスト満動において安価な常套的表現に陥ることを許さなかった。チャペックは新聞の仕事が芸術活動を支えていた数少ない作家の一人である――またその逆でもある。彼の言葉は自然に流れる。そして滑らかな快いイントネーションの線をもっている。そのなかに無理な、唐突な切れ目はない。彼はいかにして退屈にならないか、疲れさせないかという技巧をよく心得ていた。だから、客観的語りと対話や半ば直接的な語りかけとを交替させる。彼は対話の名人である。別の見方をすれば、ドラマ作品における彼の成功の秘密がここにある。彼の人物たちは榛準語を話すが、それでも標準語の規範の限界内で語の選択や構文によって人物を区別することができる。もちろん彼は機知にたいしては手放しであり、ときには濫用のそしりをまぬがれないほどである。(この面ではイギリス流のユーモアが彼を魅了した)――さらに、彼の機知の小例を『イギリス通信』から少し引用しよう。
できることなら、イギリスでは牛か子供になりたいものだ。しかし私ほ成長し、毛も十分生えた大人であるから、この国の大人を観察した。なるほど、イギリス人がだれかれの区別なくチェックのコートを着てパイプをくわえ、あるいは頬ひげを生やしているというのは本当ではないようだ。この最後の点にかんして言うなら、プラハ在住のブロウチェク教授は正真正銘のイギリス人ということになる。
イギリス人は誰もがレインコートを着るか、または雨傘をもち、ひらぺったい帽子をかぶって、手には新聞をもっている。イギリス女性ならレインコートを着るかテニスのラケットをもっているかである。
この国では自然は異常な多毛性、深毛性、濃毛性、繁毛性、剛毛任その他あらゆる毛の豊かさへの傾向をもっている。そこで例をあげるなら、イギリスの馬は足にも長い毛の房を生やしている。そしてイギリスの犬はまさに毛皮の小包みだ。ただ、イギリスの芝生と紳士だけが毎日ひげを剃っている。
イギリスの紳士とはそもそも何者かを簡単に言うのはむずかしい。それを知ろうと思えば、最小限、クラブのウエイターか駅の切符売りか、あるいは事によったら警官をさえも知らなければならないだろう。紳士とは、無言と厚意と威厳とスポーツと新聞と鮮度との抑制された合成物である。汽車のなかであなたの向かいの人物は、見た目にはとても親切とは思えないような態度であなたを見つめている。だが、あなたが何かの理由で旅行カバンに手が届かないかとかでもすると、突然立上がってそのカバンを手渡してくれる。この国では人々は絶えず助け合っている。でも、天気のこと以外には決して口をきかない。
K.チャペックの文体のもう一つの例をあげよう。『絶対子工場』からの一部であるが、チャペックの風刺的ユーモアを示している。これはカトリック出版物の夜の編集室での会話の終わりの部分である。編集員のヨシュト神文は「秘密結社やユダヤ人やその他の進歩派どもが世界を欺く」道具であるアブソルットノ(絶対子)についての「下劣なるペテン」にかんする記事を書いていたが、助司教はそれにたいしてもっと違った戦術が必要となるだろうと不満である。それで、他の新聞がアブソルットノにたい.してどのように反応しているかこの編集員が読んだかどうか、ややきつい皮肉をこめて尋ねる。対話は次のように終わっている。
「ほれ、ごらん、可愛い息子や。あっちのほうじゃアブソルットノをよこせと至る所で大騒動をしとるぞ。あの連中はアブソルットノに名誉やらたいそうな捧げものやらをしとる。しかも、そのやつをじゃ、やれ名誉会員の、やれ救世主の、やれ守護神の、神様のと、そのほかにもようは知らんが、いろいろと呼んでおるそうじゃ。ところがその一方、わしらのところじゃ、どっかのあほうなヨシュト神父、ヨシュトめがじゃ、おっと失礼、こんな可愛らしいヨシュト坊やがじゃ、悪辣なるペテン、科学的に証明ずみのいかさまだ! といって叫びまわっておるしまつじゃ。ふん、ばかばかしい!」
「しかし、司祭さま、わたくしめは、この現桑にたいして……反対の意見をば……書くように、申しつけられておりましたはずでございますが……」
「そうとも」司教は厳しくヨシュトの言葉をさえぎった。「それにしても、ヨシュトよ、おまえにはどうして状況の変化が読めんのじゃ?」司教ほ立ちあがりながら大声で言った。「わしらの聖堂は空っぽじゃ。神の小芋どもがアブソルットノの後を追いかけ回っとるからじや。いいかなヨシュトのアンボンタン、神の小芋どもをわしらのほうへ呼びもどすにはアブソルットノが要るんじゃ。わしらは全教会に原子キャブレーターを備えつけようとしておる−ところが、ここの聖人坊やは、そこんところがわかっとらん。いいかね、ここんところをちゃんと心得ておいてくれ。アブソルットノはわしらのために働かんといかん。わしらのもの、わしらだけのものにならんといかんのじゃ。わが息子よ、おわかりかな(カビスキース・ミー・フィーリー)?」
「わかりました(カビスコー)」ヨシュト神父はささやくように言った。
「神に感謝を! ヨシュト坊や、さあ、シヤヴュルがキリスト教に改宗してパウロに変身したように心機一転して何か気の利いた見出しでも書いてみろ。で、その下に続けて、枢機卿団は信者の要望に鑑み、アブソルットノを教会の胎内に受け入れたと書くんじゃ。ノヴォトニーさん、ここにそのことにかんする福音書簡があります。こいつを第一行に肉太の40ポイント活字で組んでくだされ。コシュチャール君、君ほ地方版にこう書いてくれんかね。G.H.ボンデイ社長は日曜日、大牧師の手から洗礼の俵を受ける。これは喜びをもって歓迎される。わかるかな? それから、おまえだ、ヨシュト。そこに座れ、そして書くんだ……。えーつと、出だしに何かもっと強烈な文句はないかのう」
「司教さま、例えば、ある一一部の罪ふかき蒙昧とよこしまなる悪意は……」
「よかろう、では、書きたまえ。ある一部のグル∵プの罪ふかき蒙昧とよこしまなる悪意は、すでに数カ月にわたって、われらが大衆をあやまれる道に誘おうとやっきになっている。異端の妄想は公に宣言している。アブソルットノはわれらが幼時より手を合せし、かの神とは似ても似つかぬもの……おまえ手をもっているのか? ……幼時よりの信仰と……愛……おまえはもっているのか? じゃ、先に進もう……」
独立国家の建国後、わが国の演劇に新しい可能性が与えられた。なぜならプラハは演劇の専制支配権を奪われたからだ。このことはこれまでドイツ化されていた都市一例えばブルノーが究極的に権威ある舞台をもつにいたったこととも関連する。その上、国家や地方、また都市によって支援された公立の劇場と並んで非公立の舞台が生れた。なかでも最も重要なものはアヴァンギャルドの舞台として1925年に創立された『解放劇揚』Osvobozene divadlo である。だが、重要な意義をもつのは30年代になってからである。したがって、この劇場については後に触れることになるだろう。しかし新しい技術的な可能性にもかかわらず、劇作晶ほそのために作られた新しい好条件に応えることができなかった。
大戦後の初期には――文学の場合と同様――舞台の上にはヴァイタリズムが活躍した(フラーニヤ・シュラーメクの戯曲、たとえば『川の上の月』Mesic na rekou。この関連でチャペックの『愛の盗賊』もこれに加えられる)。社会運動ほ個人と集団との関係の問題を解決しようとする戯曲を導き出した(シヤルダ『後継者たち』Zastupove、0.フィッシャー『世界の天文時計』0lroj sveta、『奴隷』Otroci)。だが長期間の成功は――得られなかった。
最も大きな反響を得たのはチャペック兄弟の戯曲であり『RUR』や『マクロブロス事件』のように、哲学的問題を舞台にもち込んだ。このことはすでに詳細に分析した。同様にフランティシェク・ラングル(1888−1965)が戯曲『郊外』(Periferie,1925)で提示した郊外の人々のリアリスティックな描写も人気を博した。ラングルは矢継ぎ早にコメディーを書くことで20年代の観客を魅了した(『針穴を通るらくだ』Velbloud uchem jehly、『ネヴァダ・グランドホテル』Grandhotel nevada、『フェルデイシュ・ビシュトラの回転』Obraceni Ferdyse Pistory)。彼の活動は同じ凍上で30年代にも継続される(『われらの間の天使たち』Andele mezi nami、『七十二歳の女』Dvaasedmdesatka)。
当時、ラングルが最大の成功を収めた戯曲は『鉄道警備隊』(Jizdni hlidka,1935)で、この件晶は包囲された義勇寧部隊の英雄的行為を政府の政策的視点から描いたものである。
アヴァンギャルド演劇ほ古い世代の J.マアヘンの数編のファンタスティックな戯曲(『繋がれたがガチョウ』Husa na provazu、『ナスレヂン』Nasleddin)によって支えられ、他方では映画技術やサーカス(道化への愛好)が大きく影響した。
20年代の終わりに、われわれの生活に一つの転換が起きる。それはチェコ共産党のボルシェヴィキ化として記録されているもので、国家の社会主義的性格を求める戦いにおける新しい段階を意味する。この転換はもちろん文化生活の面でも、とくに文学において現れた。ここでは二つの基本的方向が発展する。それはプロレタリア文学とアヴァンギャルドである。前者は社会主義リアリズムの流れとなり、後者はシュールレアリズムの流れとなるが、この流れは詩においてはいわゆる絶対抒情詩と精神主義の二つが平行して力を強めていく。その上、経済恐慌と増大するファシズムの重圧のもとに、これまでは大なり小なり中道であった勢力が活発化して進歩的反ファシズム戦線を形成した。その結果、これらの勢力はコミュニスト作家の努力と協同歩調を保つようになった。もちろん右翼も積極化したが、こちらのほうは今後の発展に結びつくような文学作品を作り出さなかった。
これらの流れについて、幾人かの選ばれた作家をもとにして示すことにする。それらの作家とは、V.ネズヴァル(アヴァンギャルドの出身である)、Fr.ハラス(スピリチュアリズムの傾向の詩の代表者)、M.プイマノヴァー(社会主義リアリズムの先駆者の一人)それに K.チャペック(彼については反ファシズム闘争の力の結集させた事実を記録する必要がある)などである。これらのすべての作家の作品はわが国の文学文化の生きた一部として常に存在し続けている。当然のことながら、その他の作家たちも創作したしその数は少なくないが、紙幅の関係でほんの部分的にしか触れることしかできないであろう。
文化生活は、常に、社会状況によって決定されるのはもちろんである。20年代における資本主義の一時的安定は経済的好況とあいまって、結果的に資本家階級の地位を確固たるものとする社会民主党の政策綱領(ドクトリン)を蘇生させた。この傾向はチェコ共産党のなかにも浸透したが、1929年の第五回大会でこの傾向には終止符が打たれた。党内危機はちょうどよい時に解決されたことになる。なぜなら1929年には深刻な経済危機が起り、その危機はすべての資本主義国家を襲ったからである。わが国における工業生産は徹底的に低下した(ほとんど半分までに)、そしてそれは失業と賃金の減少となって現れた。労働者はストライキで解雇を防衛した(1932年のモスト Most 市でのストライキが歴史に残る。このストライキは労働者の勝利で終わった)。
世界の経済恐慌は帝国主義戦争によって解決に向かおうとする。日本は中国への侵攻によって戦争への進路を進みはじめ、ドイツでは1933年にドイツ帝国の首相としてアドルフ・ヒットラーが選ばれたことによって勢力を得たヒットラーのファシズムが戦争を準備していた。ブルジョアジーはわが国でもファシズムの一派の結成に努め、あらゆる手段を通してコミュニズムを追跡した。こうして30種類ものコミュニズム定期刊行物が発行停止となり、さらに80種類もの出版物についてもタバコ店や駅のキオスクでの販売が禁止された。このような環境のなかで非政治団体として「左翼前線」(Leva fronta )が結成された。この団体は「近代文化のために効果的に協力し、かつ保守反動にたいして近代的観点をまもる仕事上の相互援助組織」となるはずであった。メンバーの前面にはF.X.シャルダ、V.ネズヴァル、Vl.ヴァンチュラ、その他がいた。チェコ共産党が合法的出版物をほとんで失ったとき、シャルダは自分の雑誌「創造」(Tvorba)を自由に使うことをフチークに許した。しかしあらゆる迫害にもかかわらず、チェコ共産党は1935年の選挙でほぼ百万票に近い票を獲得した。
こうした状況のなかで、国際的な圧力、それに、とくに国内世論の圧力のもとにチェコ政府はソビエト連邦を承認する(1934)、そして1935年にはソビエトと同盟条約を結んだ。しかし、ファシズムの脅威は――外部的にも内部的にも――徐々に強まった。ブルジョアジーは対決を回避したが、チェコ共産党は反ファシズム闘争に立ち上がり、自分の周囲にあらゆる面での進歩的力を結集した。だが、それにもかかわらず1938年の秋にはミュンヘン協定(diktat)が結ばれ、協定に則ってわが国の領土は一部削り取られ、1939年3月15日(その日は、かつて、いわゆるスロバキア国が形成された日であった)には、その他のチェコ領土がドイツのファシストによって占領され、いわゆる保護領としてドイツに併合された。1938年の末にすでに解散させられていた共産党は非合法活動に移り、そこから占領軍にたいする抵抗闘争をおこなったのである。
まさに、諸々の事件の渦巻くこの騒然とした時代にあって、文学がかつてなかったほどに政治化したことは理解に苦しくない。精神の彫琢運動が起こった。その際、作家集団の主要メンバーが進歩的立場をがっちりと占めていることが明らかになった。こうして反ファシスト戦線が形成され、いわゆる民主中道派のかつての重要な代表者たちもこの戦線に加わった。しかしコミュニスト作家たちのなかでも区別される必要があった。その道は少なからず曲折にとみ、錯誤に満ちていた。そのことはヴィーチェスラフ・ネズヴァルでさえ証明している。一時、彼はチェコ・シュールレアリズムの中心人物だったのである。
(15)ヴィーチェスラフ・ネズヴァル Vitezslav Nezval
わが国のシュールレアリズムはポエティズムの直系の後継者である。指導的理論家はまたもや K.タイゲである。チェコ・シュールレアリズムはその支柱をフランスに求めた。シュールレアリズムはフランスで、わが国のポエティズムとほぼ時を同じくして現れ、その主な代表者はアンドレ・ブルトン(Andre Breton)であり、ポエティズムの連中はこの彼と接触したのである。もともと、ポエティズムは出現の数年後にはすでに危機に陥っていた。先に述べたように、1928年のタイゲの宣言(つまり、ポエティズム第二宣言)は実はプログラムというよりは、むしろ収支決算書のようなものだった。その上、1929−1930年にはいわゆる世代論争が起り、そこでは単にポエティズムの危機ばかりではなく、チェコ共産党のボルシェヴィキ化の結果までが現れたのである。だが「精神の彫琢」にとって原理的に重要だったのは1934−1935年にかけての社会主義リアリズムの概念をめぐっての論争であった。
シュールレアリズムの主な特徴とは何か? そして、いかなる点においてシュールレアリズムはポエティズムと結びついているか? 共通するものは主に相互に論理的関連性のないイメージの自由な配列という手法である。しかし新しいのは、その関連性の動機づけである。シュールレアリズム的概念では、イメージは偶然的に選択されるのではなく、逆に S.フロイトがその精神分析において詳説したような潜在意識の原則にもとづいている。したがって詩において偶然の美は問題とされず、詩の目的は「詩が生れたところの、そして生れようとするところの、そしてまた、これまでは神秘と混乱した理想主義の薄明のなかに隠されていたところの詩の源泉と成長の過程をできるだけ正確に明らかにすること」となった。その結果、詩的なるものの主な源泉は抑圧されたセックスと夢と幼児性ということになる。ここでいう幼児性とはまだ大人の論理をもたず、空想にも束縛されないところのものである。
この傾向の賛同者は1934年、ネズヴァルが創立した「シュールレアリズム・グループ」に集合し、一方では「チェコスロバキア共和国内のシュールレアリズム」というパンフレットでで名乗りをあげ、また一方では夕べの講演会などに登壇した。彼らはマルクス主義的世界観との同一性を宣言してチェコ共産党に入党した。彼らを共感をもって――たとえ無条件ではないにしても――受け入れたのは、左翼系の出版物だけだった。反対に公的批評家や、当然のことながら右翼は彼らを拒否した。5月末に「左翼前線」誌は討論会を企画した。その主要なテーマは「シュールレアリズムと弁証法的唯物論との関係」と「シュールレアリストたちの革命戦線への適合性」の問題であった。主な報告は同年に文集『討論におけるシュールレアリズム』(Surrealismus v diskusi)として出版された。なかでもとくに重要なのはラディスラフ・シュトルの評論『ロマンティシズムの社会学のために』(K sociologii romantismu )であり、そのなかで著者はシュールレアリズムの認識論的弱点を暴露している。すなわち、心理現象(psychicke deni)のシュールレアリズム的認識過程は「認識者の認識」(poznavani poznavatele )へと逆転しており、つまるところ、それは内在(主観)主義の復活である。この観点からシュトルはネズヴァルのロマン作品を批判している。つまり、シュトルは偶然と因果関係の理解を「精神の神秘なる運動」と偶然の一致に限定する誤りを指摘し、人間関係の代わりに個人が分析され、その結果、シュールレアリズムの個人主義的精神から観念論の危険と精神主義、神秘主義、反動への傾向が生じている。だからシュールレアリズムの感情は決して革命的芸術家の感情ではなく、むしろ小市民階級のものである、というのである。
第二次反ヴォルケル・マニフェストも、この同じ年代に起こる(『10年後のイジー・ヴォルケル』Jiri Wolker po deseti letech)。このことについてはすでに触れた。そして社会主義リアリズムについての議論はこの後に述べることになろう。精神の彫琢にとってノイマンの論文『反ジード論』(Anti-Gide )も大きな意義をもっている。1938年、ネズヴァルが以前、自分で創立したシュールレアリズムのグループを解散したことは、それ以後の政治的発展の論理的帰結であった。フチークはそのことについて当時「創造」誌に書いている。「彼(ネズヴァル)は用心深く、鍵をかけて閉ざしていたドアをぶち破り、かび臭い部屋のなかに健康な空気を通した。そのなかではすでに現代チェコ文化において、真に創造的かつ進歩的なものの多くが腐り始めていたのである」。このネズヴァルの歩みを B.ヴァーツラヴェクも歓迎した。
シュールレアリズムは人生の認識を歪めた。それというのも、シュールレアリズムは人間を社会から切り離して見る。しかも人間を潜在意識だけに限定してとらえ、その潜在意識を(人間の)発展の実質的担い手とするから、当然のこととして人生における合理性の否定を意味する。シュールレアリズムはたとえ唯物論哲学に帰依したとはいえ、別の見方をすれば、占星術(ホロスコープ)、神霊主義(スピリチュアリズム)、神秘学(オカルティズム)、その他のものにたいする彼ら自身の興味によって不合理性と気脈を通じることになったのである。シュールレアリズムの人間概念によれば、人間とはもともと無意識の、しかも、不可解な力によって支配される受動的な一単位であるとなる。したがって、今日、わが国のシュールレアリズムの収支バランスを見るならば、抒情詩においてその利益を見ることができるとしても、それは抒情詩にたいする新しい表現の可能性を作ったという面においてだけであり、社会主義的作品として見るならば、シュールレアリズムの貢献はきわめてあやふやなものであった。
幸いにも、ネズヴァルはシュールレアリズムの理論的要求を自分自身の作品によって克服した。たしかにここでは詩人の生き方の誠実さ、働く者たちへの熱情的な関係、社会主義への願望などが決定的要因となった。しかし、同様に非常な才能もまた決定的要因であった。ネズヴァルは自発的な、激情的な、どんなありふれた事柄でも詩への刺激としうるような、非常な想像力を備わった詩人だった。なぜならその平凡な事柄から、新しい視点によって詩的なものを作り出すことができたからである。彼はかつてのヴルフリツキーと同様に、容易に、間髪をいれず創作した。自然に湧きだすネズヴァルの創作は、いかなる先見的(アプリオリ)な原理、原則にもとらわれることがなかった反面、彼を濫作に導き、その結果同じ詩集のなかにこの上もなく美しい詩行と並んで、滓のような作品を見出すことがしばしばあるのである。またネズヴァルには言葉の詩が優勢で、そのため単に韻律のためにのみ作られた詩行を少なからず見出だす。ネズヴァルは言葉に酔っていた。だから時には「言葉が独りで詩を作って」いた。それゆえに、彼の詩はまた、しばしば形式主義的分析のための素材を提供した。
ヴィーチェスラフ・ネズヴァルはスコウプキ・ウ・トチェビーチェ(Biskoupky u Trebice )で1900年に生れた。父はその土地の教師だった。トチェビーチュでギムナジウムにはいり、その後、ブルノで法学部に登録するが一学期後には早くもプラハの哲学科に移った。そこでは他の誰よりもネエドリーとヴォルケルとの交友が影響を与えた。1924年以後チェコ共産党の党員となった。生涯の大部分を職業的作家としてプラハですごしたが、休暇には規則正しく故郷のモラヴァに通い、30年代の初めにはブルノに通った。これらの旅行のなかから彼の作品の大部分が生れた。デヴィエッツィル、シュールレアリズム・グループ、チェコ共産党の選挙運動、国営後の映画などにおけるネズヴァルの組織活動は注目に値する。1958年にプラハで死亡。
ネズヴァルは詩から文学研究(Moderni basnicke smery,1937 )にいたるまで、あらゆる種類の文学を手がけた。だが、彼本来の意義は抒情詩にある。
すでに各関連の場所で述べたように、ネズヴァルの初めはポエティズム詩であった。それへの刺激という点で重要なのは、チャペックによるフランス詩の翻訳である(なかでも、とくに重要なのはランボーとアポリネールの詩の訳である)。わが国の作家では J.マヘンの影響をあげる必要がある。マヘンはネズヴァルの初期からすでにその想像力を評価していた。ネズヴァルはその後、彼に詩集『驚くべき魔術師』(Podivuhodny kouzelnik )を捧げている。ネズヴァルは1919年以後、雑誌に詩を発表してきたが、本としてのデビューは詩集『橋』(Most,1922 )によってであり、それに続いて何冊かのポエティズムの詩集を出版した。それらの詩集のなかでは止まることを知らない想像力を解き放っている。1919−26年の間の詩的収穫を後に彼の作品集『作品』(Dilo,1950 )の第一巻に収め、新たに部分的に改訂している。
20年代の末にはネズヴァルはポエティズムの主張(ドクトリン)の陳腐さをすでに意識しており、『曲技』(Akrobat,1927)や『エヂソン』(Edison,1928 )などの詩がそのことを証明している。ポエティズムの遊戯性にたいして、ここでは生の苦しみの感情が現れ、止まることを知らぬ遊戯性にたいして労働賛美が、拡散的構成にたいしては規則的韻律と、大きな全体を構造的に支配する技法が現れた。
この基本的転換は『夜の詩集』(Basne noci,1930 )が最もよく体現している。この詩はネズヴァルの新しい発展段階の始まりを意味しており、この詩はこの若い詩人が読者の意識のなかにもっともよく生きている姿をわれわれに呈示している。この詩集は『驚くべき魔術師』によって始まる詩人のこれまでの発展をある種の収支決算を提供している。この詩集は『オタカル・ブジェジナのための弔鐘』(Smutecni hrana za Otakara Brezinu 、ネズヴァルは言葉の巨匠としてブジェジナに共感を示している)、『夜』、『驚くべき魔術師』、『曲技』、『エヂソン』、『大晦日』(Silvestrovska noc )および『セーヌ川の未知なる女』(Neznama ze Seiny)などの詩がふくまれており、大部分は1927−1929年のものである。後の版ではさらに『時間の信号』(Signal casu 、『エヂソン』へのエピローグであり、この有名な発明家の死後、1931年に書かれた)が加えられた。『夜の詩集』はネズヴァルの詩の最初の十年間の頂点を示している。
下に示す『エヂソン』の序詩の引用部分はこの時代のネズヴァルの詩法をよく現している。
おれたちの人生は、泣きたいような悲しさだ
ある日の夕方、遊戯場から若い遊び人が出てきた
外では、バーのウィンド・ケースの上に雪が降っていた
空気は湿っていた。なぜって、もう春が近いから
だが、夜は大草原のように震えていた
星の砲兵隊の攻撃の下で
濡れたテーブルのそばで、それを聞いていたのは
アルコールのグラスを前にした酔払いたち
孔雀の羽根飾りの衣装をまとった半裸の女たち
たそがれのなかにでもいるような厭世家たち
しかし、ここには胸を押し潰すような、何か重いものがあった
悲しみ、はかない希望、そして生と死の不安とが
連隊橋を渡って、私は家に戻った
心のなかで、小歌をうたいながら
ヴルタヴァ川に浮かぶ夜船の灯火の酔払い
フラッチァニのドームからちょうど十二時を打つのが聞こえてくる
死の真夜中、私の視野の星
二月の末のこのなま暖かい夜に
しかし、ここには胸を押し潰すような何か重いものがあった
悲しみ、はかない希望、そして生と死の不安とが
橋から身を乗り出して、影を見た
深みへ落ちる自殺者の影を
だがそれは、涙にも似た何か重いもの
それは賭博者の影、そして悲しみ
私はその影に言った、いったい君は何のためにと
悲しい声で私に答えた、誰が遊び人なものかと
だが、ここには、沈黙する何か悲しいものがあった
それは、絞首台のようにつっ立った影だった
橋から落ちていく影、私は、ああと叫んだ
いや、君は遊び人じゃない! いや、君は自殺者だ!
私たち二人は救われ、手に手をとって行く
私たちは手に手をとって、開かれた夢のなかを行く
コシージェに接する街の外れの
遠くから私たちに向かって、悲しみのキオスクの上方に
夜の扇を、アルコールの踊りが振りかざす
私たちは手に手をとって、無言のまま歩いて行く
しかし、ここには胸を押し潰すような何か重いものがあった
悲しみ、はかない希望、そして生と死の不安とが
私はドアを開けた。ガス灯を点す
私の路上の影を泊めるために、連れて
ねえ、君、ぼくたち二人にはこれで十分だ、と私は言った
だが、そこには、もう、私の遊び人をまねた影はいない
それとも、それは単なる幻影か、それとも自己暗示か?
たった一人、私は日々の自分のベットの前に立っていた。
(この詩で詩人は自分の著書をまえにしてすわり、新聞のなかにエディソンの新発明にかんする記事を捜す。続くこの詩の第二 ― 第五の歌はエディソンの仕事、そして人間精神の能力の発揮そのものを称えている)
秘密の儀式(救われた自殺者の消失)によって、すでにエディソンのなかでシュールレアリスト−ネズヴァルは宣言されている。しかし同時に、30年代の初めにすでにブルジョア階級にたいする闘争的反抗を強めている。全集の『詩集、警報と太鼓の連打』(Basne,alarmy a rany na buben)という表題の巻に収められた詩集『ガラスのインヴァネス』(Skleneny havelok,1932 )と『帰りの切符』(Spagecni listek,1933)のなかで、そのことを例えばチクルス『黒人ブルースの歌詞より』が証言している。そこに次のような詩行を読むことができる。
ベルトに差したナイフ
手にしたたいまつ
握りしめたこぶし
革命はもう
近い
街は燃えている
やがて
わたしの縦穴の上空を雲がただよっている
雲とともに大きな黒い鳥が飛立つ
死の鳥だ!
別のところでネズヴァルは「官僚時代は幸いにすでに滅亡を目前にしている」そして未来は労働者にきびしくはないだろうと喜びを表している。この政治的作品の線上に喜劇キオスクの恋人たち』(Milenci z kiosku,1932 )も属している。『
ネズヴァルのシュールレアリズムの時代はおよそ「シュールレアリズム・グループ」を創立した1934年と、それを解散した1938年によって区切られている。シュールレアリズムについての彼自身の概念を『近代詩の傾向』(Moderni basnicke smery,1937 )という本のなかで簡潔に表現している。そこでとくに次のように記している。
どんな人でも眠りのなかで夢を見る能力をもっている。これは自分のファンタジー によって物語や情景を、どんなものであれ詩に似た形で、創作できるということであ る。このことをシュールレアリストは、いわゆる詩的天分というものはある限られた 人のみに与えられた特典ではなく、どんな人でももっているファンタジーの一種であ ると考える。だからといって、すべての人が同じ程度にそれぞれのファンタジーに熱 中しているわけではない。それにはいろいろの理由があるのだが、その一部は近代心 理学がかなり突っ込んだ研究をしているのも事実である。意識をコントロールする力 がいろんな理由から人一倍強く発達している多くの人々は、ファンタジーが現れるの を許さない。それ以外の人々の場合には意識のコントロールがそれほど厳しくないか ら、明らかに理性的な人々よりも何倍も大胆に自分の想像力を駆使する勇気をもって いるのである。それが詩人である。しかし、詩人のなかでも自分のファンタジーの自 由な飛翔を求めず、論理的思考によってファンタジーにブレーキをかける詩人と、自 分の想像力にほとんど完全に身をゆだねようとする詩人とがある。前者はどちらかと いえばリアリストであり、後者は、いわゆるシュールレアリストである。
ネズヴァルのシュールレアリズム時代の代表的詩集は『複数形の女』(Zena v mnoznem cisle,1936 )、『雨の指をもつプラハ』(Praha s prsty deste,1936)と『絶対的墓堀人』(Absolutni hrobar,1937 )である。ネズヴァルの手法は詩『煙突』に一番よく出ている(『雨の指をもつプラハ』の初版より引用。1953年版、『作品集第七巻』には加えられていない)。
煙突の砲台が紺碧の天空を撃つ
機械の銃火がそれを補強する
家ごとに無数の弾
戦旗は朝には弔旗に変わり
鳩は黒く烏は灰色に変わる
恐ろしきはかの煙突の砲台
だが雲が
もしも町の爆撃をやめたらもっと恐ろしいことになるだろう
それはもはや暖めるものが何もないことを意味する
燕は戻ってこないだろう
遠くから山の空気が流れてくるのを感じる
人々は路上に倒れるだろう
その人の顔のように白いシャツを着て
そうなったら赤旗はもはや夜だというのに黒くはならないだろう
赤旗は沢山になるから
鳥たちがその回りに舞い下りてくるだろう
そして人々はまるで夕焼けのなかにでも行くように赤旗を掲げて進み始める
ふたたび煙突の砲台が轟き
機関銃がうなりをあげる
鐘は塔とともに倒れるだろう
しかし弔鐘の代わりに消灯ラッパが
煙も煙突もない愛の時代が始まると告げながら鳴りわたるだろう
詩集『雨の指をもつプラハ』はすでにネズヴァルがもっとも単純なものへの愛を発言したことによって、シュールレアリズムのドクトリンを超克したことを示している。ここでは故郷への愛であり、この愛は同様に彼の旅行からできた詩集『さようならとハンカチ』(Sbohem a satecek,1934 )と詩集『町から五分』(Pet minut za mestem,1940)にもみなぎっている。ネズヴァルの母への愛は第二の深い感情である(『希望の母』Matka nadeje,1938 )。しかし同時に市民階級にたいする反感を記録する線は続いていく。それは匿名で出版された詩集『永遠の学生ロベルト・ダヴィドの52編の風刺バラード』(52 horkych balad vecneho studenta Roberta Davida,1936 )『永遠の学生ロベルト・ダヴィドの守護女神のための100編のソネット』(100 sonetu zachrankyni vecneho studenta Roberta Davida,1937 )および『永遠の学生ロベルト・ダヴィドの影との別れのための冥府からの70編の詩』(70 basni z podsveti na rozloucenou se stinem vecneho studenta Roberta Dvida,1938)であり、ここでは詩行の韻律の大きな揺れを経て厳格な詩形式へ回帰している。
ネズヴァルはこの頃シュールレアリズムの散文(『そう甘くはない』Dolce far niente、『ギ・ル・クール通り』Ulice Git-le-coeur、『プラハの歩行者』Prazsky chodec)をも試みているものの、それはむしろ記録としての意味しかない(同様のことは彼の以前のロマンの試み、例えば、自叙伝的要素をもった『千年末の年代記』Kronika z konce tisici leti,1929 )。このことは沢山の劇場作品――十八世紀のアベ・プレヴォーの有名なロマンをもとにした戯曲『マノン・レスコー』を例外として――についても当てはまる。戯曲は占領時代、チェコ語の賛歌として大きな反響を呼んだ。そしてこのことにより、外国の占領者たちにたいする抵抗の出版を勇気づけた。
解放後の年月はネズヴァルにとって新しい創造期を意味する。彼は(幾つかの小品とともに)詩集『歴史画』(Historicky obraz、初出は1939年)の決定版を出版する。そして彼の以前の創作手法を詩集『大天文時計』(Veliky olroj,1949 、このなかには建設作業についての詩『ソビエト旅行の計画と詩』(Plan a basne z cesty do SSSR)もふくまれている。現実的主題への傾向の頂点を示しているのが『平和の歌』(Zpev mir,1950 )である。この詩は冷戦の時代に書かれ、進歩的人類の思索を表現している。ここではすでにリアリスティックな創作手法が勝利を納めている。ネズヴァルの内面的、市民抒情詩は『翼』(Kridla,1952 )『故郷より』(Z domoviny,1951 )および『矢車草と都会』(Chrpy a mesta,1955)という詩集に収められている。舞台の形式で彼は忠告的な戯曲『今でも日は大西洋に沈む』(Dnes jeste zapada slunce nad Atalantidou,1965 )において、平和の問題について思索している。ネズヴァルの最後の作品は均衡が保たれ、ここでは現実を想像力が歪めていない。そして、むしろ現実の多様化にたいして役立っている。詩的ファンタジーはすでに堅固な構造を破壊してはいず、むしろそれを支えている。なぜなら、それは潜在意識ではなく、内面的論理によって進められているからである。
(16)コンスタンチン・ビーブル Konstantin Biebl
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1934年のコンスtンチン・ビーブルもシュールレアリズムのメンバーになった。始めはリテラールニー・スクピナのメンバーだったが、後にデヴィエッツィルのメンバーになる。スラヴィエティーン・ウ・ロウンの出身である(1898年生れ)。父はその土地の医者だった。戦争中彼は前線にでて重い病気にかかる。その後プラハで医学を学んだが、その頃ヴォルケルと親交を結んだ。1951年に死亡。
彼のあまり多くはない作品は、ほんのわずかの例外を除いて抒情詩である。そしてそのなかに彼の生きた時代の主要な傾向がすべて反映している。最初の書『民衆への旅』(Cesta k lidem )は伯父の Ant.ラーシュ(Raz )と共同で1923年に出版した。ここでの彼の詩は多くの面で初期のヴォルケルの詩を彷彿とさせる。やがて矢継ぎ早に詩集『親密なる声』(Verny hlas,1924 )と『断片』(Zlom,1925 )が出版される。そのなかで貧しい人々や抑圧された人々を描くことにより、プロレタリア詩に接近している。さらに『バグダッドの盗賊』(Zlodej z Bagdadu,1925 )は恋人を失ったことに刺激されている。ビーブルの詩の特徴は内気なやさしさであり、ヴォルケルとの相違点は、革命的な剛直さ、決断力へと発展しなかったことである。
彼は同世代の仲間と比べると多くの人生経験をもっていた(戦争中は負傷し、捕虜となり、死刑の判決を受けるが、脱走する)、しかし激情に乏しかった。だから同世代の仲間と比べると彼の発展はやや後れをとった感をいなめない。彼は革命の波が退潮の時期にもプロレタリア詩に忠実だったし、また彼のポエティズムへの傾向も比較的遅かった。純粋なポエテイズムの詩集は『金の鎖』(Zlatymi retezy,1926 )と『茶とコーヒーをもたらした船』(S lodi,jez dovazi caj a kavu,1927 )であり、南方への旅行によって刺激されたものであった。彼はポエティズムに幾つかの特別の性格をもち込んだ。彼はサイフェルトに比べると快楽主義的遊戯性をもたず、ネズヴァルと比較すると健康な、ときには荒っぽいまでの活力、そして野放図なファンタジーに欠ける。彼は寡作であり、個々の言葉を注意ぶかく吟味した。彼の表現は簡潔で、個々の比喩の間の意味的結合は連想的配列の場合でさえも比較的密接である。
続いての詩集『新イカロス』(Novy Ikaros,1929)はある意味でネズヴァルの同時代の大きな詩を思い起こさせるが、ここでビーブルの表現も彼の世界像をも変えている。彼の表現は突如として長い詩のなかへ突入し、比喩を積み重ね、小さな空間のなかにより多くの人生の現実を包含しようと努めている。詩は主題的に、時間の異なる幾つかの次元への貫通に基づいている(詩人の戦争体験から現在にいたるまで)。イカロスは「時間や空間のなかを軽やかに飛翔」する。したがって自分の作品のなかに全世界を内包し、それゆえにまた人生の矛盾に押し潰された近代人の感情を表現できた詩人の象徴である。
天使はラッパを吹く
その警告にあわせて空から世界中にバラの花が降ってくる
わたしはどこでも屋根の下にいて安らぎを感じる
水の濁りのなかに身をひそめる魚のように
さようならさようなら愛とはなんと偉大なことか
わたしは岩の上からまっさかさまに飛び降りる
愛とはなんと偉大なものか
さようならさようなら
わたしは変化を愛する
あらゆる海をただよう
後に三冊の小作品が続く。それらはある種の創造の危機を記している(『天国 地獄 楽園』Nebe peklo raj,1930 、『プランキウス』Plancius,1931 =反植民地主義的散文、『夜の鏡』Zrcadlo noci,1939 )。やがてビーブルは長期間にわたって完全に沈黙する。
次の そして最後の 作品を1951年になって『不安なしに』(Bez obav)の題で
出版する。ここには1940年以後に作られた詩が選ばれている。そして「二月」後の建設の努力に賛同している。彼もまた「二月」の詩人と呼ばれるにふさわしい。
(17)フランティシェク・ハラス(Frantisek Halas )と神霊主義的傾向
ビーブルの『新イカロス』はネズヴァルの『エヂソン』と同様に人生の問題を深く掘り下げる努力によってポエティズムに新しい広がりをもち込んでシュールレアリズムを予告した。だがその一方で、ホラが20年代の変り目に始まる彼の詩集においてはっきりと指摘していたわが国の詩のある部分の新しい方向をも示しているのである。それは人間の生の実存の問題の問いかける方向であり、力を強めてきた神霊主義(スピリチュアリズム)と合流していく。ホラとともにこの傾向の主な代表者はフランティシェク・ハラスであり、彼は若い世代に大きな影響を与えた。彼の詩は二つの平面をもっている。その一つは詩人の人生の意義探求の表現である。それは懐疑的な陰影をもち、しばしばペシムズムに陥ることがある。第二に労働運動への積極的参加の表現である。
ハラスは彼の社会的出生によってすでに労働運動の近くにあった。1901年、ブルノに生れ、労働者の居住圏で青年時代をすごす。ハラスの思想形成にはとくに労働者の指導者だった父親の影響が働いている(ブルノの織物工場の名に因んで『ケムカ』Kemka,1950
と名付けられた回想記によって知られる)。この環境のなかで未来の詩人は少年のころすでに積極的政治活動に参加した。1921年からブルノの出版社で出版を始める。彼は書店で修行し、後に B.ヴァーツラヴェクとともに編集者として働く。1926年からはプラハで生活し、1949年に死ぬ。
上に述べた簡単なデータはもちろんハラスの精神の成長について多くを語っていない。だから詩人自身に語ってもらおう! 1941年2月の放送のコメントのなかで――したがって、そのとき彼は非常に尊敬され、若い詩人に影響を与えた――自分の人生について次のように語っている。
私は40歳になんなんとしています。私の故郷はモラヴァです。生れはブルノですが、私の心と気持ちはチェコモラヴァの高地、そのクンシュターツコ(Kunstatsko)が故郷です。私の一家がその地の出だからです。その辺りは今だに私の祖父たち祖母たちの足跡がいっぱいですし、ハラス姓の人々がうようよしています。いずれ私の生涯の終わりにはその地に身を寄せたいと思っています。子供のころ見た故郷の地平線は私の全生涯の輪郭になりました。これらの先祖たち、それは家内織物業者や靴屋、小作農でしたが、貧しさがひどくなったとき町に出ていったのです。父は織物職人です。母はもうずっと以前に亡くなりましたが、やはり工場で働いていました。私は尋常小学校(obecna)と高等小学校(mestanka)を卒業しましたが、卒業のとたんに世界大戦下の世のなかに投げだされたのです。父は逮捕されてしましました。そして、もしかして偶然、この放送をお聞きになっておられたら、私はこの場から尊敬する先生カレル・ムラーゼク博士に感謝の意を表したいと思います。先生は私をブルノのピーシャ書店の丁稚にお世話してくださったのです。そして私が今あるのはすべて、先生のお世話があったればこそと感謝しています。それは言うに言われぬ空腹と惨めさでした。でも本がありました。私はそれを愛し、それをのみ込んだのです。それは苦しみに耐える力を与えてくれました。読書欲もまた限りありませんでした。明りを照らすものがないときは街灯の下ででも読んだのです。それは素晴らしかった! 本は私の運命となりました。そして今でも私は本のなかに埋もれて座っています。私はオルビス出版社で本たちが世に出るための手伝いをしているのです。
ほぼ同じころ、詩について彼の見解を述べている。
あなたがおぼろ気に感じていることを言っている本を手に入れることがあるでしょう。すると不意に詩行は本のページから流れだし、広がりのなかへあふれだし、詩は無抵抗のあなたを調和の心へと連れ出します。すると、その鼓動はあなたの血のときめきと混ざりあっていくのです。その瞬間に詩はあなたが夢にまで見た、そして詩人があなたのほうへ駆り出してくれた獲物のいっぱい詰まった捕網の蓋となるのです。あるとき、詩は臆病な思想に髪飾りを与え、また別のときにはその臆病な思想を引き出すための手掛りを与えてくれます。その詩はあなたに引継がれ、あなたのなかで続けられていきます。詩人の口から出た詩が、あなたに受け取られたところで変わるのです――行為に、愛に、希望に、夢に。だから、詩とは詩人と読者がたとえ抱擁しあうにせよ冷淡にすれ違うにせよ、その二人が出会う橋なのです。詩はあなたに嘆きや喜びを訴えます。求心的にか遠心的にか働きます。詩の視線の大胆さは最も奥まで見通します。詩の息吹はあなたの胸につき刺さります。今日、詩であるものは、明日、人生そのものとなりうるのです。そしてその逆もありえます。
ハラスの最初の詩集『セピア』(Sepie,1927)は形式的にはポエティズムと認定されるが、内容的には新しい要素、人生の悲劇的感情をもたらしている(それゆえに、ハラスの「悲劇的ポエティズム」ということも言われている)。ハラスの第二の詩集『おんどりは死神を追いはらう』(Kohout plasi smrt,1930)もまた同様の性格のものである。これは彼が最も愛した作品だった。詩人自身が読者に自己紹介しているように、次の二つの短い例を示そう。
待つこと(Cekani)
わたしは誰も待ってはいない
だがそれでもずっとドアを見つめている
君がドアのほうへ近付いたとしても
どうかなかへは来ないでくれ
そっと息をひそめていてもだめだ
わたしは誰も待っちゃいないんだ
わたしはただ自分を待っているだけさ
詩
目が見える幸せがあるのに
こんなに盲目
聞こえるという賜物があるのに
こんなに聞こえない
表現の面から言えばハラスの特徴は新語製造(neologismus )と多様な文章構造(syntakticke aktualizace )のために、ときには理解が困難になる。それはできるだけ多くの感情的、思想的内容を、できるだけ小さなスペーズのなかで表現しようとする努力の結果であった。ハラスは詩の音響的側面にもできるだけ注意を注いだ。例えば、詩『わたしは春が嫌いだ』(Nechci jaro 、『セピア』第三版)の次の四行の詩は「f]の音を強調している。
<ブロック>
Nafintene jaro brcalovy case 着飾った春緑色の時よ
nafoukane jako fantidlo 扇風機のように吹きつける
pro fialky marne kde co namaha se スミレを求めて何をそんなにあくせくするの
nespolknu to vnadidlo おれは媚薬など飲みはしない
この例からもわかることは、ハラスにおける音韻の道具化は(例えば、マーハやトマンやハラスと同世代者のサイフェルト、ネズヴァルについて言えるように)メロディー性を目的としたのではなく、素朴さを強調することに意図があった。言葉はまるで詩人の口から無理に押し出されてくるようだ。それは言葉を求めての葛藤であり、不器用とは違う。言葉のきしみは人生の残忍さと詩人が苦悶する問題の重さを象徴化するために起こるのである。
続く二編の詩集は、一方で精神的要素を強調しながらも決して社会的関心をなおざりにしてはいない(『顔』Tvar,1931 、『静かに』Tise,1932 、『りんどう』Horec,1933)。頻繁に現れるテーマは死である。だがたとえハラスが世界の不条理性を暗示的に表現しようとも絶望的なニヒリズムには堕していない。この抒情詩の内省的意図に半して、詩『老女たち』(Stre zeny,1935)においては客観的要素が打ち出されている。詩人は死の悲劇的感情を表現している。そして、その死はヴォルケルの「苦しい人生の一片」について言えるのと同じではないが、虚無の門口である。ハラスがいかに暗示的でありうるかの説明のために短い断片を引用しよう。
年老いた女の目
泣きはらしておどおどした
悲しげで穏やかな
死を見つめるおまえたち目よ
実のないくるみ
供物のない皿
失神の前室
長い音楽の断片
ひからびた井戸
雲のたれた空
夜明けのない夜
外れたドア
乾いた洗礼鉢
影をうつさぬ水
おまえたち年老いた女の目よ
おまえたちにとって世界はなにものでもない
おまえたちにとって美はなにものでもない
おまえたちにとって醜さはなにものでもない
おまえたち年老いた女の目よ
時を追わず
過ぎ行く日々に関心をもたぬ
おまえたち年老いた女の目よ
文学史にとってこの詩の重要さは S.K.ノイマンの詩論争を呼び起こしたという点にもある。つまり、前の章ですでに述べられている彼の詩『年老いた労働者たち』(Starsi delnici)のことである。ハラスの無の感情にたいしてノイマンは実りある人生の頂上である老年のイメージを提示したのである。ペシミズムとともにハラスの『年老いた女』にたいしては、それらが階級に根差していな人物が描き出されていると言われている。しかし『年老いた女』と同時に短い詩『女労働者』も書かれている。ここでは詩人の母に即して労働者の女の一タイプが描かれているのである。
政治闘争は詩集『全開』(Dokoran,1936)に投影している。ここで何よりもハラスはスペインの人民の戦いについての共感を表現している。同時に貧しい人々にたいする彼の熱烈な関係が呼び覚まされている。
怒りの渇きでカラカラになり
君たち貧しいものたちの後を行く
歌の泉を失い
そしてもはや見出だすこともできぬ
・・・・・
夢の国から追放され
群衆のなかに身を置く場所を求める
そしておのれの歌をのろいに
変えたいと思う
詩人の客観化は詩集『希望の断片』(Torzo nadeje,1938 )で最高潮に達する。この詩集はわが国がファシズムの最大の脅威の時代の人民の感情と、また反抗の意思と勝利の確信を表現している(『不安の歌』Zpev uzkosti、『動員』Mobilizace)。占領の期間、ハラスはチクルス『われらがボジェナ・ニェムツォヴァー』(Nase pani Bozena Nemcova,1940 )やクンシュターツコ(Kunstacko )を賛美した詩的散文『わたしはあの地へ戻る』(Ja se tam vratim,1939 、出版は1947年)において民族文化へ回帰を示している。1937−1941年の間の抒情詩は詩集『調和』(Ladeni,1942 )のなかに収められている。ここには子供のための詩のチクルスもある。
客観化と人生にたいする内省的関係の克服の努力は解放後に完成される。詩集『行進の列のなかで』(V rade,1948 )がそのことを記録している。この詩集には占領時代の詩が収められ、さらに社会主義を建設する新しい国家のもとで作られた詩もふくまれている。死後、さらに詩集『そして、何が?』(A co?,1957)も出版され、ここには戦後世界の二分によって喚起された人生の不安の感情が再び現れている。
詩の翻訳はハラスの作品の重要な要素である。とくにポーランド語から(ミツキエヴィッツ Mickiewicz 、スウォワツキ Slowacki )とロシア語から(プーシキンの童話)であるが、彼はまた南スラヴの詩(『英雄行為と愛の歌』Zpevy hrdinstvi a lasky )及びハンガリーの詩(E.アディ Ady)も翻訳している。これらの翻訳はホラの翻訳と同質のものである。
神霊主義(スピリチュアリズム)的傾向はカトリックの詩人に最も有意義な表現を見る
ことができる。彼らの作品は 今日、すでに生命力を失っている もちろん多様なニュアンスをもっている。一面ではブジェジナに結びついており、もう一方の面では30年代に徹底的に研究されたバロックに結びついている。カトリック詩人のなかで最も才能に恵まれていたのは職業作家ヤン・ザフラドニーチェク(1905-60 )である。彼の最も好んだ主題は第一に死の神秘的儀式であった。後にはチェコの自然に変わる。万物の中心、そして詩人がその客観的原理を理解しえない世界における唯一の確かなものは神である。そしてこの視点からザフラドニーチェクは解放後の社会主義を激しく拒否したのである。
ザフラドニーチェクはカトリック教会にたいする関係のなかでは正統的であった。この面でのカトリック詩人のまったく別のタイプはヤクプ・デムル司教(1878-1961 )である。彼は教会のヒエラルキーと長年にわたる抗争を続けていた。そのことについては、とくに26巻からなる彼の日記の全集『足跡』(Slepeje,1917-1941 )が証言している。それはフランス系のジャーナリスト・レオン・ブロエの類比的出版物を思い起こさせる。デムルの詩は生と死、愛と憎しみという対称的感情の間を激しく揺れ動いている。彼の最もよい作品は散文『わが友たち』(Moji pratele,1913 )のなかに収められた花と木についての詩集である。
30年代の詩と現在の詩の結合点をなすのがヴィレーム・ザーヴァダの作品である。イメージの自由な配列という手法によって当時のポエティズムに接近している彼の『パニキダ』(Panychyda )はハラスの『セピア』(1927)と同じ年に出版された。しかし、その後の発展においてザーヴァダは独自の道を進み始め、永遠性と現実性の詩人へと発展した。
ヴィレーム・ザーヴァダは1905年にオストラヴァ=フラボヴァー(Ostrava-Hrabova )に製鉄工の息子として生れた。ギムナジウムとプラハ大学の文学部で学んだ後、出版社の編集者となり、その後国立および大学図書館で働き、最後にはチェコ作家同盟で働いた。彼の詩作品はそれほど多くはない――九つの詩集の全集版(1972)は大して厚く
もない四巻にまとめられている。しかしそれは内容的に非常に濃く、未醗酵の青年時代から、分別をわきまえた老年にいたるまでの全世代の人生経験を効果的な簡潔さのなかに包含している。
ザーヴァダは才気喚発型の詩人ではない。創作には時間をかけ、文字通り一語一語吟味する。しかし、それは「言葉との争い」ではなく、最も肝要な事柄を最も適切な方法で表現しようとする努力である。そのことは詩人の全発展の過程が示している。つまり青年期のペシミズムから高度の社会参加へ、そしてザーヴァダが青年時代に出会い、しばしば不利な戦いを強いられた社会的障害がその進路から排除されたときにかち得た人生の光明へと導く過程であった。
詩人の現実にたいする関係という観点からとくに重要なのは、膨大な詩『パニキダ』である。ザーヴァダの最初の本の表題はこの詩から取られている。この詩はネズヴァルに捧げられた。彼は句点を制限し、アポリネールの『パースモ』の手法にもとづくイメージの自由な配列をもった自由韻によってネズヴァルに同調している。一方、ザーヴァダはモットーによってアポリネールにも同調している。しかし同時に詩の第二のモットーも特徴的である。そのモットーとはダンテの言葉「真実を! 苦渋に満ちた真実を!」であり、これはザーヴァダの詩法を解く正真正銘の鍵である。
『パニキダ』がネズヴァルに賛同して書かれたものであるとはいえ、その詩法はネズヴァルのものとは異なっている。それを最もよく示しているのはザーヴァダの言葉にたいする関係である。それはネズヴァルよりは、むしろヴォルケルを彷彿とさせる。ここには何ものにも拘束されないファンタジーの花火はなく、具体性が支配的である。それは個々の言葉が現実といかに緊密に結合しているかを直に感じるることである。数年後ザーヴァダは、別にヴォルケルにも私淑しポエテエズムにたいする自分の関係を次のような言葉で表現している。「子供のころから私にはペットル・ベズルッチの詩が近かった。それゆえ、ホラ、ヴォルケル、またサイフェルトの初期の詩も、そして社会的かつプロレタリアートの芸術の波のすべてが私をとらえた。しかし間もなく私はランボー、アポリネールを知り、またネズヴァルは私を非常に魅惑したし、彼のポエティズムに共感を覚えた。しかし彼のプログラムを無条件で共有できたわけではない。彼の軽妙さ、遊戯性、それにポエティズム派の楽天性も私には欠けていた。彼らに比べると私ははるかに不器用だったのだ」と。その通り、ザーヴァダは決して楽天的ではなかった。彼は生れてからこのかた、搾取される人民の貧困を味わった。そして彼自身がその出身であり、また帝国主義戦争の記憶が彼を鞭打ったのである。
ザーヴァダの特質が空想の「魔法の光」ではないとしても、その反面決して平俗に堕してはいず、しっかりと現実に根差し、彼の読者には覚えのある人生経験の枠から外れてはいない。だからこそ個々の読者にも語りかけることができるのである。もちろん彼の作品のなかに私たちは象徴や寓意を発見する。しかし重要なことは、いつそれを使用したかを見極めることである。その時期は、詩人が錯綜した現実のなかでまだ方向を見定めえずにいたため諸々の事物それ自体を、またそれらの事物の客観的緊張を表現するというよりは、むしろ物事にたいする自分個人の感情的関係を暗示によって言い表していた初期の時代と、今ひとつは、直接的表現が不可能であった占領時代である。
ザーヴァダの『パニキダ』は文学史のなかでは「悲劇的ポエティズム」として性格づけられてきた。そしてハラスの処女作との内面的関係が指摘された。もともとザーヴァダ自身がその最初の詩集のなかの一編をハラスに捧げることにより、彼への親近感を示しているのである。上にあげた回想記のなかで彼はハラスについて書いている。「私もフランティシェク・ハラスもその点では同じでした。人生は私たちがもちこたえ、また言葉にしうる以上に大きな重圧を私たちの上に加えたのです」。まさにこの最後の言葉がザーヴァダの詩法への第二の鍵を与えてくれる。なぜならこの言葉にこそ、できるかぎり強い説得力を得ようとする詩人の努力が表明されているからである。
この関連で改めて詩『パニキダ』の形式の問題に帰るのは適切であろう。ザーヴァダはポエティズムのイメージの連想配列をマスターしたが、その手法を独創的で多くの点でポエティズムとは反対の世界描写のために利用した。ザーヴァダは現実の認識に努めてきたが、その認識は20年代の後半のこのころまでに消滅していた。この状況のなかでは伝統的リアリズム詩の表現手段に満足することができなかったのである。『パニキダ』のなかに見出だすようなイメージの錯綜は思考の星雲を適切に表現している。そしてこの星雲からザーヴァダがその後の発展のなかで到達する明晰な認識が徐々に放射してくるのである。しかしながら、その前提となるのは物事や関係の複雑さを意識することであり、またそれを解釈することだった その時にこそ、正しい認識への道を発見することが可能となるのだった。認識への努力によってザーヴァダの以後の全詩集が記されている。
ザーヴァダの表現は詩人の生の認識が変化し深まるにつれて変化する。この点ではたしかに故郷のオストラフスコの労働者階級との密接な関係が信頼にたる指標となる。彼の初期の詩においてその特徴となるのは表現の「土着性」(zemitost)であった。一例として『パニキダ』から短い断片を引用すれば十分であろう。
だが私は土地を熱望する
そこには太陽が静かな風景をやさしく支配し
そこには毒花と愛と毒蛇の黄色いミルクを甘くする
そしてモクセイとスズランの香りと聖なるものの黄色い光が
メロディックな紺碧のなかのモミ殻のように混ざりあう
それをまき散らすのは鱗のようなそよ風のひき臼だ
見ての通りザーヴァダは異国に憧れをもたない。ヤシの木や遠い海は彼を魅惑しない。むしろ彼はチェコの土地の美のなかに完全に没入することを欲する。チェコの土地への愛は全生涯をとうして彼の道づれとなる。そしてそれはザーヴァダの全詩作品を貫く第一の重要なモティーフである。これと密接に結びついているのが生れ故郷のオストラフスコとその土地の労働者への愛である。そのこともすでにザーヴァダの処女作品のなかに示されている。そこに次のような詩行を読むことができる。(チクルス『ロマンより』から)
石炭の島に
蒸気サイレンの歌が響く
庭もない労働者住宅街のほうへ
炭鉱夫の子供たち
馬鈴薯の花のように青い顔をした
まだ寝にいくには早すぎる
ザーヴァダの作品の特徴とも言える次のモティーフは戦争である。最初の詩集ではそれは過去の戦争だった。占領時代の詩での戦争は詩人が体験した戦争だったし、晩年の詩の本のなかでの戦争は、新たな脅威をもたらしている戦争である。
ザーヴァダの最初の詩集は、彼のダイナミックな世界ヴィジョンによっても、この詩人の次の発展を予告している。そのなかに例えば、次のような表現を読むことができる。すなわち「金髪の土地は膨脹し」や鎖に下げられて「上下に揺れ」「山頂は草を食み」「豊かなる羽根布団はベッドの縁からあふれ」平原は「いっぱい水に浸され」その他。これはおそらく単に形式的問題ではなく、全人生を運動のなかに見て、それを過程としてとらえる能力の現れである。そして、まさにこのような世界の把握が詩人をして社会の動向の理解へ到達し、その過程のなかに正しい、進歩的な立脚点をつかむであろうことを予告しているのである。
この視点からザーヴァダの全発展は世界における詩人の役割の探求によって進められている。ザーヴァダはその役割を発見した。そして同時に彼の基本的芸術的姿勢を変更しなかった。経済恐慌の時代に出版された彼の第二の詩集『サイレン』(Sirena,1932 )がその点を最もよく記録している。ここでは同時代の秩序への反感をつのらせ、悪の場面を積み重ねている。彼の表現は激情のままに言語過多となり、彼の生きている世界との関係は比喩によってばかりでなく、言葉の選択によっても強調されている。このことは彼の詩集『徒歩の旅』(Cesta pesky,1937)や『城の塔』(Hradni vez,1940 )の性格ともなっており、解放の歓迎を表明した作品『死者たちの蜂起』(Povstani z mrtvych,1946 )についても同様である。ザーヴァダの次の作品はファシズムの占領が資本主義的関係の遺産とともに人間心理のなかに残した痕跡の問題、人間的理解への願望の動機をとくに発展させている。したがってザーヴァダはわが国の文学に図式主義(schematismus)がはびこりはじめた時期に、人間的価値を軽視しない必要性を指し示し、過去の生きのこりとの戦いと同時に人間にたいする不公正な姿勢にたいしても戦うのである。彼は生涯の信念を『古い習慣』(Stare zvyky ;詩集『光の街』Mesto svetla,1950 より)という詩のなかで次のように表現している。
だからこんなにも甘くこんなにもやさしく生きること
石でさえもが微笑む土地で
そしてもっとほがらかになるためには
だだ人間を人間的に見ればよい
詩集『野の花』(Polni kviti,1955)はこの線上をさらに徹底させている。
詩集『一つの人生』(Jeden zivot,1962)と『戸口で』(Na prahu,1970 )でザーヴァダはふたたび自分自身に帰っている。大型の詩『一つの人生』(Jeden zivot 、同名の詩集のなかに収められている)では、彼の豊かな人生のある種の総決算というものを提出している。同じ詩集のなかには『大地の上で』(Na zemi)という詩もあるが、そこで彼自身について次のように書いている。
私は大地の上にある。その上にとどまりたい
そしてそれにより近くより近く結ばれていたい。
この特質は初期から最晩年の詩にいたるまで、ザーヴァダの全作品に当てはまる。ザーヴァダは抒情詩人である。そして「私と世界」という対立命題は彼を悩ませない。彼は集団的に思考して「われわれと世界」という矛盾を解決するが、その場合いかにして世界をよくするかという問題を提起する。したがって、またしばしば人間の人生について思索する。だから『大地の戸口で』(Na prahu zeme ;詩集『戸口で』所収)では人間の無関心を非難する。
そして人間たちのなかにじわじわと良心も広がっていく
おまえは人間たちを脅かすものを恐れない
だがおまえは人間たちが恐れぬものに恐怖をいだく
人間たちは国家まかせの無関心さでどんな運命も受けいれる
だれ一人なにごとにも苦しまず苦労をしない
だれ一人なにごとにも頭を悩まさず
だれ一人なにごとにも動じない
火の消えた瞳で悲劇を眺め
そしていともあっさりと死んでいく
ただ自分たちがその日その日を生きてゆけさえすれば
このような人間たちは資本主義世界を豊かにする。だがザーヴァダはよりよい人間を求めて努力する。人間を信じ、人類を信じる。だから死をも恐れない。
一つの流れのなかに生と死とが流れている
死につつあるものだけがまだ生きている
上掲のザーヴァダ晩年の詩集(さらに新たに『人生よ、ありがとう』Zivote,diky,1977もくわさった)では、ふたたび『パニキダ』の広大に展開する自由詩が蘇っている。環が閉じられたということができよう。