(19) 30年代のその他の詩人の作品から


 両大戦間期の詩人の作品はきわめて豊かである。私たちとしては主な流れの典型的代表者や指導的人物についてのみ詳細に検討しうるのみである。その他の詩人については30年代と現代の橋渡しを果たした数人の作者について注目しよう。
 プロレタリア詩からヤン・ノハ(Jan Noha,1908-1966)が出た。彼は初め印刷工として働いていたが、後に出版編集者となった。彼は進歩的出版物を出版した。そして彼の最初の詩集『走りゆく帯』(Bezici pas,1932 )と『人生の渇きのために』(Pro zizen zivota,1933 )では経済恐慌期の働く者たちの気持ちを表現した。彼は B.ヴァーツラヴェク(B.Vaclavek)を中心に集まった作家グループ「ブロク」(Blok)が出版する季刊雑誌「U」を編集した。しかし30年代の終わりに思想的危機に陥り、一時期、内省的詩に没頭した(『田園詩』Pastorale,1939)。「二月」以後、ふたたび政治参加の詩に戻った(岸と波』Brehy a vlny,1955;『幸せな川』Stastna reka,1956 )。彼はまた子供のための詩人としてもすぐれていた。

 スヴァトプルク・(スヴァタ)・カドレッツ(Svatopluk (Svata) Kadlec,1898-1971)もまた密接な関連のなかで、プロレタリア詩によってデビューした。彼の初期の20年代にすでに書かれていた詩は『聖家族』(Svata rodina,1927 )という本に追加されて出版された。この後に、反市民的パンフレットを集めた『スケッチ・ブック』(Sketch-Book,1930; A.Dur のペンネームで)が続く。30年代にはフランス語からの翻訳(ボードレール、M.ジャコブ、ヴェルレーヌ)で有名だった。50年代にはそれにモリエールの戯曲の翻訳(4巻、1953-56 )とランボーの選集が加わる。

 ドナート・シャイネル(Donat Sajner,1914 年生れ)はこれまで長い間、付随的意味しかもたぬ詩人と評価されていたが、彼は社会的な詩、そして生れ故郷を賛美する詩の作者である(『赤いメリーゴーラウンド』Cerveny kolotoc,1935; 『故郷の言葉』Reci zeme,1941)。晩年には瞑想的かつ自然を歌うオプティミスティックなムードにもとづく抒情詩の指導的詩人の地位をかちえた(『記憶』Upamatovani,1970; 『視野』Dohlednuti,1973;『太陽が言ったこと』Co reklo slunce,1975)。詩集『婚約』(Zaslibeni,1976)と『岸』(Brehy,1974)は彼の全生涯の作品のなかからの選集を構成している。

 フランティシェク・ネフヴァーティル(Frantisek Nechvatal,1905年生れ)の発展は興味がある。彼はまず神霊主義の影響を受けた(詩集『嵐』Vichrice,1932 で O.ブジェジナに共感を示した)。しかしプロレタリアの感情を発言する詩(『炎と剣』Ohen a mec,1934 )へ、そして官能的生活を賛美する詩へと展開していった。彼の発展には B.ヴァーツラヴェクが影響を与えている。そのヴァーツラヴェクは彼を「無産者の詩人、また、世界へ向けられた無産者の燃えるような激しい視線」をもった詩人として性格づけた。

 女流詩人のなかではヤルミラ・ウルバーンコヴァー(Jarmila Urbankova,1911年生れ)は一言触れるに値する。彼女はその最初の二冊の詩集『壊れた鏡』(Rozbite zrcadlo,1932)と『風の季節』(Vetrny cas,1937 )によって感動を呼んだ。これらの詩集のなかで彼女はとくに女性的なやさしさを表現した。彼女は子供のための詩においても成功した(『匂い草』Vonicka,1934; 『動物はどこに住むか』Kde zviratka bydli,1955 )。作品の選集『私は太陽のほうに顔を向ける』(Po slunci hlavu obracim,1961)は社会主義的発展への賛同に基盤を置く彼女のオプティミズムをよく特徴づけている。同様に選集『愛の月の下で』(Pod milostnou lunou,1976)も彼女の詩の特徴をよく示している。

 フランティシェク・ブラニスラフ(Frantisek Branislav,1900-1968 )は主題的に狭い基盤に立っているが、情熱と説得力で感動を与えた。20年代にはすでにデビューしていた(『白い輪』Bily kruh,1924)、しかし彼の天分を十分に開花させるのは50年代になってからである(詩集『銀の飾りをつけて』S uzlickem stribra,1947 は彼の初期の六冊の本からの選集となっている)。当時、彼のメロディックな内面的自然抒情詩は、詩のなかにも浸透していた野性的傾向にたいして、一つのやさしい贈物だった(『夕べの泉のそばで』Vecer u studny,1955 )。彼の詩の頂点は詩集『海』(More,1916 )である。

 その他の何人かの詩人(タウフェル、リバーク、プイマノヴァー)については、このあと各々の箇所で触れるだろう。

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 (20) ヴラヂスラフ・ヴァンチュラ Vladislav van ura


 両大戦間時代の詩にたいしてネズヴァルがもっていたのと同様な意味をもっているのがヴラヂスラフ・ヴァンチュラである。一般には「難解な」作家と評価されてきたが、それが完全に当てはまるのは彼の初期についてだけである。徐々に彼はより大きな説得性を追及し、後に出版された彼のロマン作品では文体にも「重さを取り除いて」いる。彼はネズヴァルとは異なり散文と戯曲だけを手がけたが、ネズヴァルと同じく映画に関心をもち、また文学的作業についての理論的関心をも示した。彼の理論的、評論的論文は『新しい創造の秩序』(Rad nove tvorby,1972)というタイトルで死後になってやっと全体として出版された。
 Vl.ヴァンチュラは1891年にハーイ・ウ・オパヴィ(Haj u Opavy )で生れた(彼の父は農園の支配人だった)。だが幼時をダヴレ・ウ・プラヒ(Davle u Prahy )とプラハですごした。二年間、工芸学校に通い画家を志したがその後医学を学び、ズブラスラフ(Zbraslav)で医者として生活した。しかし数年後、仕事を放棄して文学のみに打込んだ。彼は創立時からデヴィエッツィルのメンバーであり積極的にチェコ共産党で活動した。1929年の危機のときに党の指導部と対立したが、政治的に左翼の精神で活動するのをやめなかった。占領中非合法のチェコ共産党の中央委員会に直属する「知識人委員会」(Vybor inteligence )のリーダーとなった。彼は処刑場で死んだ。
 わが国を襲った生命にかかわる犠牲はもちろんこれだけではない。強制収容所でまた刑場でその他の作家たちも死んでいった(クラトフヴィール、ヴァーツラヴェク、K.コンラッド、フチーク)。しかしヴァンチュラの死はファシズム・テロのデモンストレーションだった。戒厳令下、赤い掲示板に張り出された処刑された愛国者の名前の列のなかに彼の名前を見出だしたとき、チェコ人の誰もがそれが占領を容認しない進歩的インテリゲンチャや民族全体にたいする残酷なテロルの行為として感じたのである(ヴァンチュラの人生遍歴については彼の妻ルドミラ・ヴァンチュロヴァーの『二十六年の美しい年月』Ludmila Vancurova,Dvacet sest krasnych let,1967 という回想記が詳細に描いている)。

 ヴァンチュラは生来の語り部だった。彼はルネサンスの作家、なかでもとくにラブレーを格別に愛した。だから彼はこれらの作家から「言葉をもって為す敬虔なる仕事」を学び、言葉の実験にたいする愛好癖が彼をルネサンスの作家たちに結びつけたのである。彼は古語(アルカイズム)や新造語(ネオロギスム)によって、また構文を現代化することによって言葉に生気をあたえるのを好んだ。とくに錯綜した人間主義(フマニズム)の時代を好んだ。
 彼はお人好しにも、やさしくも、しかも同時に粗野で男性的にもなりえた。しかしけっして俗っぽさや卑猥に堕することはなかった。彼の物語ることへの愛は同時に人生への愛であった。そしてもちろんその人生とは充実し、健康で、どん欲な人生のことである。そしてまた人生の充実を求める努力と世界観の楽天的立脚点も彼をルネサンスの語り部と結びつけている。多くのものが相対主義や懐疑主義に陥った時代に、ヴァンチュラは完璧な、内面的にも不可分なな、一体としての人間を描こうと努力した。
 ヴァンチュラをデヴィエッツィルに結びつけたのは、初期の諸作品における強い抒情的要素だったし、また同様にサーカスのなかの人物や狂人や水夫などについての興味、そしてまさに遠い国の旅行のモティーフへの関心だった。彼の最初の短い散文の本(『アマゾンの流れ』Amazonsky proud,1923; 『長くて、広くて、鋭い目』Dlouhy,Siroky a Bystrozraky,1924)は抒情的力が叙事詩を飲み込んでしまうほどの抒情性によってつずられていた。しかしながら叙事詩への到達はきわめて早く、ロマン『パン職人ヤン・マルホウル』(Jan Marhoul,1924)においてである。ここで彼は搾取階級と善良なる人物と相互に対立させ、この善良なる人物は、自分の正直さと善意のゆえにすり切れていくのである。ロマンは行為によってよりは、その情景の情緒性によって効果を上げている。主人公は消極的である。その主人公は革命的プロレタリア詩の時代にあっては、たしかに進歩的労働者のモデルの役割を果たすような主人公ではない。しかしこのロマンは効果的な場面のなかで、しかもきわめて暗示的なスタイルによって不公平な社会秩序を暴くことによって感動を与えた。
 『パン職人ヤン・マルホウル』はVl.ヴァンチュラの認識にとって多くの面で重要な作品である。それゆえに、この作品を多少なりと詳細に検討することにしよう。物語自体はそれほどおもしろいものではない(パン屋が自分の善良さのゆえに貧しくなる)。しかしながら、ヴァンチュラはかつて P.ベズルッチがスレスコの素朴な人々を象徴にまで高めたのと同じように、この人物を魔法の光のなかに浮かびあがらせることができたのである。したがって、物語の力は事件のなかにはなく(第一、話の筋は複雑な状況も事件の緊張もなしに進んでいく)むしろ、主人公の評価のなかにある。
 マルホウルは本当は気違いである。だが、それは陽気な気違いだ。彼は資本主義世界のなかでは異邦人である。なぜなら、彼は「善行に酔ってしまった」からであり、財産にたいして小市民的関係をもたなかったからである。彼はあまりにも自分が夢見る善行の世界に生きすぎた。「空想と現実がヤンのなかで魔法使いのこね鉢のなかのパン種と魔法のように混ざりあい、永久に醗酵し、永久に膨脹していた。だが、それはナンセンス以外のなにものでもない……。負債者から金を要求するかわりに、時には彼らのポケットに金を押し込んだ。金をもって安閑としている連中のことを思い浮べるかわりに、ヤンは空腹であることに感謝した。そして一グロッシュ一グロッシュと借金を重ねた」。彼は情にもろかった。だから負けたのだ。「労働者であること。ヤン・マルホウルは絶対にそうはなれないだろう。彼はそうあるためのしたたかさをもっていない」。町は彼に意地悪である
そしてヴァンチュラはその町を描くとき(物語はベネショフとその周辺に設定されている)暗い色彩を惜しまなかった。


 ベネショフは西端を河に接した、小さなはげちょろの古びた町である。ここの街角では元気な子供たちが大声でわめきあい、老婆たちは萎んだ顎をもぐもぐさせながら広場に通じる四つの通りをのろのろと歩いている。かつてこの通りのデコボコの石畳のうえをゴトゴトと肉屋の馬車が通ったものだ。そして昔をふり返れば民族の恨みが大きなため息をはいている。ある時はビール樽を積んだ馬車や農夫が通り、兵士の一隊が高速艇のように斜面の陰から浮かび出し、その先頭には士官の亡霊が見え隠れしている。ペイジャーネクの店の上のクラブのエースは、ここでカードを売っていると宣伝している。このくたばりそこないの商人はこの通りを遊び人の目つきで睥睨している。しかも、死んだみたいに真青だ。それというのも、この町の活気がそれほどでもないからだ。家畜市のころになると、あちこちで百姓の誰かが馬や馬車を巻き上げられているし、レイチェク爺はしこたま金をかき集める。そうかと思えば、いかさまをやったやつを、みんなが寄ってたかって打ちすえ、酔払いは酔払いで椅子の上から痰や唾を吐き散らした床の上にころがり落ちる。ナ・チャープクゥの店とシュヴァーロヴナの店ではいつもとっ組み合いの喧嘩だ。今にもタバコの煙の立ちこめる険悪な空気のなかで軍刀がぼんやりと光を放っている。その一方、他の連中は剣帯を腕に引っかけてもち、まるで藁でも打つように、だらしなくもみ合っている。
 町は養豚場に似ている。一方が驚いているかと思うと、他の連中は自分の豚小屋でやれ政府万歳の、やれ信仰は神聖のと言ってころげ回っている。これらの家畜はみんな鼻に輪環をつけられて、町の雇われ牧童が痛そうに鼻をすすりながら素気ない文字で「ベネショフ」と彫りつけた杭につながれているかのようにも見える。もしどこかの古い仲間が雷鳴のごとくに素早く振り下ろされるホンザのこん棒をもってでもいたものなら! もし乞食のカシュパルが嘲笑や殴打のお返しができるものなら! だが誰も何も言わなかった。それにカシュパルは町で養っている貧乏な白痴だった。その当時のあるとき、あるごくつぶしの、くたばりそこないの破廉恥漢(この男の名前は言葉がない。つまり人間の言葉の空洞である)がこのカシュパルと賭をして身分の乗った馬車の後ろに三十三キロも引離した。このまるで競争にもなにもならない相手の走者は要するに不具者だったのである。この町には、なにかしら恐ろしい宿命みたいなものがあって、それが愚か者どもの理性を奪い去ってしまうものだから、カシュパルはその後思う存分にみじめな運命に翻弄されたのである。


 この引用文から真先にわかることは、なんの発展もされていない幾つかの叙事的モティーフからある情景を喚起し、それに力動感(ダイナミズム)を与えているということである。――マルホウルは弱い。なぜならひとりぼっちだから。彼の妻はそのことをよく心得ている。つまり次のように言っている。「……もし広場中が私たちの空腹の回りに集まってきたら、すべての貧しい連中が私たちと一緒になって叫ばなければ私たちだけで叫んだって無駄でしょう」と。だから、たとえマルホウルが自分の主人に向かって反抗しても、ただ一人の弱い個人として力にたいして立ち向かうにすぎず、彼の反抗は無効である。
 ヴァンチュラはバイブル的巨大さを内に秘めた文体によって、だが無神論的視点から、素朴な現実を記念碑的偉大さへ高めている。そのような例として、彼はマルホウルの死の病を次のように比喩的に描いている。


 痛みの焦熱の窯、痛みの激怒を知らぬものがあるだろうか? それに耐えられるものはすでに人間ではなく、むしろ嘆きの岩、忍耐の幹、神経のからみあった筋肉の塊である。そして、それはこの上もない恐ろしい惨虐行為をおこなう。もしあらゆる文明の回線が撃たれた兵士のうめきや沈みゆくルシタニア号船上の叫び、また硫黄の溶液を飲み干した女中の悲鳴によって引きちぎられるとしたら、この苦痛の嵐もいずれは通りすぎるだるだろう。愚かなる神は荒涼たる天からとっくに逃げ去り、化学技師たちの煙を発する蒸溜器は空っぽだ。それに世界の指導者の叡智は過去のものとなりちっぽけなナンセンスが支配する。子供の風車をハリケーンで回すように、この苦痛の怒涛はむやみに襲いかかる。どんな発作もこれほど激しくはなく、どんなスピードもこれほど無鉄砲ではない。痛みの炎の剣はヤンの体を突きとおしてやがて消える。ヤン・マルホウルは痛みと痛みのちょうど合間に、ベッドのこと以外はみんな忘れて叫ぶ。それは恐ろしい拷問のベッドだった。「ああ、ここから出してくれ! この悪魔のみじめな最後を呪ってやれ!」


 この引用文からもわかるように、ヴァンチュラの表現の特徴として、彼は人物たちにたいして、たとえそれが民衆的な人物であったとしても、ほとんど聖書的ともいえる「高貴なる」文体で語らせているということである。この雄大さは次のロマン『耕地と戦場』(Pole orana a valecna,1925 )でさらに高められている。ここでは純粋な叙事詩への発展が見られる。ロマンは大勢の人物たちによって満たされている。そしてまた物語の筋も複雑である。このロマンは主に大戦前夜と大戦中(これによって時間的に戦争前の話であるマルホウルと接続する)のチェコ中部の農業労働者の環境のなかで展開する。しかし戦場にも触れられる。主人公は狂気の悪人で農業労働者フランティシェク・ジェカ(Frantisek Reka)である。彼は強盗をはたらき殺人を犯す。しかしこのことは明るみに出ない。ジェカは輜重兵として戦争に出る。彼は戦死し、無名戦士として葬られる。ヴァンチュラはこのロマンで自分なりの戦争にたいするプロテストを表明しているのだ。興味あるのはハシェクとの比較であるが、そのことが自ずと表れている。ヴァンチュラは自分の抵抗を雄大にし、物事を高い視点から見るというインテレクチュアルの位置に立ち、黙示録的性格の狂気のヴィジョンに移しかえている。例として次の断片を読んでみよう。


 境界線上に展開した兵士たちがよこたわっている。そしてカルパチアの岩や小山から野犬が見渡していた。ドナウ河には点々と兵隊の死体が浮き、ベルギー人は恨みごとを大声でならべ、マズルスキー湖では息を詰まらせた兵士たちのゼーゼーという呼吸の音が沼の真中からのぼっていた。カンシャカク玉がヒューッと風を切る音と恐ろしい龍巻、それは町を根こそぎひっくり返す。一角獣の手に負えぬ力と無鉄砲、鋼鉄張りのてこ棒、鉄条網のいっぱい詰まった谷間や塹壕、炎、殺戮の掃射を続けながら飛来する飛行機、毒ガス、一斉射撃、影たちの突撃、死ぬまで永遠にくり返される突撃だ! 言葉もなく恐怖に耐える兵士たちの愚かさ。家畜のような無分別な愚かさ。戦場のくそ溜め、くそ壷から混乱した脳みそに戻ってくる血!
   二十万回もこの恐怖の野原に倒れ伏し、そして百万回も戦場に駆けていく。ニコライ皇帝の連隊もオーストリア兵もドイツ兵も自分の位置を変えて、恐怖に目を血ばしらせながら、互いに迎え撃とうと急ぐのだ。


 物語に大勢の人物を登場させることによって、ヴァンチュラは彼らの充実した性格づけへの方向を自ら切り開いた。事実、彼はわずかのタッチで外観を的確に描写できた。例えば、ユダヤ人の旅篭屋の亭主の場合は「この旅館の亭主のつるつるの顔は握りこぶしに似ている。しかも、握りしめた親指が背をかがめながら三本目の指のところまでかぶさっているような、そんな握りこぶしだ。頭ははげで、何か困ったことがあると、鼻にかかった声でふにゃふにゃと言う。額と頭の境はなく、太いかぎ爪が彼の鼻だった」というふうに性格づけている。あるいは落ちぶれたバロンの場合は「バロンは長い足の上に乗っけられた歩くことのできる藁束に似ていた。顔は突き出した顎の結び目から始まっていた。顔の真中には後ろから前のほうへ、上から下のほうへ急激な運動をしながら、息のいっぱい詰まった貴族鼻が走っていた」となる。
 ヴァンチュラは客観的に語ることによって戦争の恐怖を描写している。彼には物や事件は運命的な必然として、つまり、戦争の機械によって引きずられている個人はなんの影響力ももちえないところの何ものかとして現れるのである。例えば、彼は簡潔に言う、「豚肉の塊をみなで分けあった。そしてダノミッツには一番小さな切れ端が残った」と。あるいは「取り外すことのできる皮製の装備や機械の部品を兵士たちは木箱に詰め、必ず、そう遠からぬところへ運び出した。そして、必ず、途中で粉々にぶち壊せるようにしてそれらの木箱を運び出した」。この「必ず」(zajiste )という副詞は、ここでは恐ろしいほどの客観性をもって、戦争ではどんな異常なことも当然のことのように起こるということを描き出している。
 抒情詩化ということについて述べたが、その表現には特殊な言語手段が使用されている。ヴァンチュラの直喩と暗喩についてのほんの幾つかの例をあげよう。「どこかの娘が酒場のカウンターから離れた。娘は道化がステッキをついて歩くように鼻の先に微笑を浮べていた」――「……夜は高地のように寒く、焼けるような日中は太陽の国境の内側にあるよう燃える」 「この汚らしい酒場は輸送船だ。そしてワインは慰安に満ちた海である」。ヴァンチュラは詩語を錯綜させることによって、事件から豊富な暗喩や直喩を引き出し、語りを常に遅めた。ここにヴァンチュラのスタイルのもう一つの特徴がある。この話のテンポの遅さは叙事詩の好む手段であるが、ヴァンチュラはそれを古い散文のように事件の複雑さにではなく、言葉にもとづいて組立てたのである。
 次の散文作品『気紛れな夏』(Rozmarne leto,1926)では、ヴァンチュラは言語的に極端な正確さを喜劇的効果に利用した。これもまた小さな町を題材としたユーモラスな物語である。ここでヴァンチュラは遊戯的ポエティズムに最も近付いている。彼は幾つかのモティーフや人物たち(綱渡り芸人)によっても、このポエティズムに参加している。この小さな町の人々の平穏な生活は綱渡り芸人の到来によって何日間かのあいだ興奮のるつぼに投げ込まれるのだが、この人々の口のなかで言語手段の超絶的正確さが異様に響き、彼らの小さな世界、小さな望み、小人物的情熱のつまらなさを暴くのである。

 30年代に作家としてのヴァンチュラは変貌する。事件の筋の要素が重要性を増し、それによって物語ることの愛好が虚構への愛好へと変化する。なぜなら物語りは古典的な意味においても叙事的となっているからである。同時に、ヴァンチュラの言語表現は単純化されてくる。たしかに「ヴァンチュラ風」であるのを止めていないし、彼について指摘されていたような個性は維持されている。しかしヴァンチュラはすでに暗喩(メタファー)や直喩(シミル)を濫用していないし、それに酔ってもいない。その結果 物語性の強化とあいまって 読者のほうに歩みよっている。この頃、彼は以前の作品の新しい版の出版に際しては文体的に手を入れて読みやすくしている。
 物語り性の強化はすでに20年代から30年代の変り目のころのロマンがすでに予告していた(『最後の審判』Posledni soud,1929; 『命がけの論争、または、格言』(Hrdelni pre anebo Prislovi,1930 )。前者の作品の主人公は頭の弱いルシーンであるが、カナ
ダへの移住を希望している。しかしプラハにとどまり、そこで死ぬ。後のほうのロマンの主題は昔おこった事件の犯人捜しであるが、その際、罪と罰という複雑な問題を解明している。
 ヴァンチュラの語り部的技巧は30年代の前半のロマン『マルケータ・ラザロヴァー』(Marketa Lazarova,1931 )、『ブダペストへの逃亡』(Utek do Budina,1932 )、『古い時代の終わり』(Konec starych casu,1934 )および短編集『ドロトカ女王の弓』(Luk kralovny Dorotky,1932 )のなかで成熟する。
 『マルケータ・ラザロヴァー』の物語は中世のムラダー・ボレスラフ地方の盗賊騎士団の二家族を中心に展開する(作者は、ジェフニツェのヴァンチュラ家の年代記から題材を取っている)。騎士コズリークの息子ミコラーシュは騎士ラザルの娘マルケータをさらう。彼女は修道院に入るよう約束されていた。誘惑者への愛がマルケータを盲目にしてその愛は生よりも強い。第二の愛のカップルとなるのはコズリークの娘アレクサンドラと囚われのドイツ人伯爵クリスティアーンである。アレクサンドラはクリスティアーンが自分を愛していないとの誤解から彼を刺し殺す。マルケータも恋人を失う ミコラーシュは処刑される。しかし二人の女はその腹に子供をみごもっている。このことによって愛は死よりも強いことが暗示される。注目すべきことはその構成(コンポジション)である。語り手は常に聞き手と接している(聞き手に話しかけるなど)。したがって、語り手自身が常に現場にあるわけだ。しかし語り手は、ただ、覆われた事件の幕を引き開ける案内役として登場だけである。それによって叙事的客観性を獲得している。小例をあげる。


 なんてことだ、盗賊魂の誇りがかくも蝕まれ、消え失せていようとは。コズリークは立ち止まる。コズリークは結婚式のケーキの前に座るときの農民のようにためらっ  ている。
 だが、御覧なされ、マルケータさまを。みごとな髪の洪水のしたで彼女の哀願する脳は身もだえしている。この脳。そのなかで恐怖が巨大なくちばしのようについばんでいのです。恐怖、恐怖、そして絶望。マルケータは死を欲する。
 さて、さて、読者の皆さま方。神さまは死の瞬間にもやはり神を信じますような人生の希望を人間に吹きこまれたのです。わたくしどもは神の似姿である肉体に身をやつし、素晴らしき心のささやきをば実行いたします。マルケータは衣服を引き裂き、己の悲嘆をばあらわにしている。ほれ、あの乳房を御覧あれ! そのなんと美しいことよ! 彼女の肩は川の湾曲のように反る。御覧なされ、王者のように毅然たるあの頭、その上に美が鎮座しております、まるで鷲のように!


 しかしヴァンチュラが叙事的客観性を有しているとしても、叙事詩的静けさをもってはいない。だから『マルケータ・ラザロヴァー』もまたバラード風の物語としての性格をもつことになった。
 愛と時代の社会的因習との矛盾は情熱の神聖化、人間の自然な感情の確信として『マルケータ・ラザロヴァー』のなかに響いている。『ブダペストへの逃亡』もまた同様の印象を与える。ただ、ここでは事件は現在に設定されており、そのほかにも、ここでヴァンチュラは恋人のカップルについて、貧しい娘と衝動的な郷士の息子との心理的な差異を示している。物語の筋は比較的内容に乏しい。うぶな女子大学生ヤナと法学部の同級生トマーシュ・バラーニィは急速な愛に燃え上がる。それは際限のなく理性的抑制もない恋だった。ヤナは「バラーニィを愛し、愛以外には何も興味がない」。そしてバラーニィは「度外れにヤナを愛していた。そして彼の燃え上がり方は理由もなく、常軌を逸し、粗暴で狂気の名にふさわしい」。恋人たちはプラハからブダペスト(つまり、ブディーン)へ逃れる。しかし両親や親類に反抗して結婚にいたる。やがて若い夫婦はスロバキアのマルチンの近くのトマシュの父親の領地に住む。しかしヤンはその後急速にヤナに飽き、彼の父も貧乏になる。ヤナはプラハに出て学業を終え、トマーシュも彼女の後を追い、職につくが結婚は破れる。トマーシュが経済的陰謀で破滅したとき、またブディーンに戻り、そこで自殺する。ロマンはよく構成されており、ブディーンへの二通りの逃亡の不可避的対立がこの物語をありふれた恋愛ものの通俗性を越えさせている。それに寄与しているのはもちろん何よりも思想的内容である。なぜなら、ロマンは一面ではプラハの裕福な市民階級の生活形式を、他の一面では、あまりにも過去に執着しすぎて技術的進歩や新しい人間関係に対応できないスロバキアの自作農階級(トマシュの父親)の消極性をも断罪している。
 ロマン『古い時代の終わり』はロシアの亡命貴族を歪んだ鏡のなかに描き出している。彼は近代的男爵プラーシルの役で、新時代の貴族の役を演じている戦後成金の環境のなかに登場する。この物語は変革の後に領主の財産とともに財産目録の一部として、にわか成金ストクラサの所有物となった領主館図書館司書の口を借りて語られる。語り手は、一方で、貴族を気取る新しい農民領主層を、そしてもう一方では、貴族の身分を失ったロシアの亡命者たちを嘲笑的に揶揄した。同時に言葉上の滑稽さも、例えば標準チェコ語と日常チェコ語の発音の混同というような形で、大いに利用されている。(“……meli vojaky divoky z hladu a vladl tam u nich zatrachtily neporadek,protoze Bolotov pil a vyhazoval spoustu penez za zensky ”)(……兵士たちは腹を空かして気が立っておりましてな。あの連中のところときたらまったく手のつけられない乱れようでして。と申しますのも、ボロトフが酒をくらって女のことでしこたま金をばらまいたんでございますよ)そして語り手の役割を明らかにしている。例として数行を引用しよう。そこで語り手は読者と言葉を交わしている。


 どうしたんです。ちょっと待てと合図をなさったような気がしましたが? 何か疑問でも浮かびましたか――? よろしい、お聞きしましょう。
 ――ストクラサはミハエラを好きだったのですかな?
 ええ、そう思います。途方もなく愛していたようです。
 ――でも、若いルホタの嫁にしようと思っていたのでしょう?
 もちろんです、何とかして、そうさせようとしていました。
 ――それじゃ、プスチンには何と答えたのです?
 はっきりしたことは何も。あえて言うなら、この男に彼女を断らなかったということです。


 短編集『ドロトカ女王の弓』はヴァンチュラ自身が短い話の語り手として、したがって読者がこれまで彼について知っていたのとは別の人物として登場するということからしてすでに興味ぶかい。この作品集の六編のノヴェル(中編)の最初の作品は、フランスの小説家モーパッサンが自然主義的手法の空しさに気づいたその瞬間を描いている。他の作品は同時代のチェコに設定されている。それらの作品を軽やかな気分がおおっている。あるときは、娘が愛人とぐるになって心配症の親父をだまくらかす話が語られ、別のところでは、またも女が年を取りすぎた野暮天の夫に一杯食わせる話とか、あるいは一人のルンペンがもう一人のルンペンを追いかける話、また今度は、小さな町の二人の医者が口論し、仲直りする話などである。ただ一度だけ、この上機嫌は悲劇に終わる。しかし、それにしたところが実は大したことではなく、ただ間の悪い偶然の一致で二人の悪党のうちの一人が死ぬというだけの話である。
 規模壮大な叙事詩にたいするヴァンチュラの努力の冠たるものが『三つの河』(Tri reky,1936 )である。物語の軸となるのはベネショフスコ(Benesovsko)の百姓の息子ヤン・コストカ(Jan Kostka)であり、ヴァンチュラは彼の生涯を誕生から一人前の男に成長するまでを描いている。母親を亡くし、父に愛されない子供として悲しい幼年時代、しかも馬丁とともに馬小屋で成長。それから学生時代、前線での生活、ロシアへの逃亡、ロシアでの革命の勃発に参加、そして最後に戦争の終結による帰郷などを作品のなかに見る。こうしてヴァンチュラは90年代から第一次世界大戦の終わりまでの時代を描き出した。その時代は大変革の事件に満たされ、階級的対立や革命にゆれ動いた時代だった。ヴァンチュラの関心は今や広範な全ヨーロッパ的関連に、そして王位継承者から役人や農民を越え労働者や放浪者にいたる社会の層のすべてに向けられた。ヤン・コストカの周辺にはギャラリーいっぱいの個性的人物が集められた。父エマヌエル、頑固で執念深い農夫、進歩的医師マン、シベリアからスエーデン、スイスまで放浪する疲れを知らぬメンシェヴィキのエベルディン、浮浪者チェルノフス、県知事、正直な労働者、労働運動の謀反者、その他である。彼の文体は客観化され、比喩から解放されている。構成も代わり、ロマンは短く区切られた「ショット」で構築され、急速に場面転換をする映画の技法を思わせる。もともとヴァンチュラは(わが国のアヴァンギャルド全体と同様)映画に興味をもち、映画の仕事に積極的に参加していたのである。
 三部作『馬と車』(Kone a vuz)はヴァンチュラの最大のロマンとなるはずだった。このなかで彼は第一次世界大戦ころの内面的に分裂したチェコ民族社会全体を描こうと思っていた。しかし『ホルヴァート家』(Rodina Horvatova,1938 )と題された第一部を書いただけだった。この物語は大戦の少し前に始まるが、フリッチュの以前の友人でパリ・コミューンにも参加したことのある老牧師の回想のなかで1848年の革命の年にまでさかのぼっている。ヴァンチュラはこの困難な課題を実現するために種々の環境に目を注ぐ。すなわち、使用人や召使いをかかえた大資本家から鉄道建設の労働者、小都市、大都市の娼婦の世界、また芸術家のボヘミアンな生活、さらにはオーストリアの政治家の環境にいたるまでを包み込んでいる。登場人物たちは年齢によって、また社会的地位によって、そして性格によって区別されている。これらの人物たちのなかに、私たちは、善良だがやや愚かな地主、回顧趣味的年金生活者の元官吏、ボヘミアン芸術家、青くさい学生、あるいは結婚前の娘たちなどを見る。このロマンにおいてヴァンチュラは歪んだ反射鏡を通さない直接光のなかに描いた世界像においてばかりでなく、言語的表現においてさえもリアリスティックな描写に成功している。
 三部作『馬と車』の仕事は、1938年のかの運命的な数カ月間、ヴァンチュラがその最後の作品の著述に専念したために中断された。この作品は占領の期間中に示されたように、政治的にも愛国的にも大きな内容をもつはずだった。それは『チェコ民族の歴史からの情景』(Obrazy z dejin naroda ceskeho )であり、わが民族の過去の出来事を年代的に配列し、暗示的な語り口で提示されたものである。ヴァンチュラには最初の二巻(1939年と1940年刊)しか完成することが許されなかった。第三巻の断片は死後に出版された。しかしヴァンチュラが書いたところ(彼の著述はプシェミスル家の終わりにまで達している)からさえも規模壮大な理念構想がうかがわれる。作者は歴史発展の担い手を被抑圧者である労働者大衆のなかに見ているが、しかし同時に、民族文化にも注意をむけている(ここで最も良い物語は年代記作者コスマスについてのものであり、それは短編小説になっている)。この作品は、とくに外国からの圧力に抵抗しえた先祖たちの高潔さを指摘することによって占領時代のわが国の民衆の勇気を鼓舞した。
 散文のほかにヴァンチュラはドラマをも手掛けた。最初の作品は『教師と生徒』(Ucitel a zak,1927 )で、次が『病気の娘』(Nemocna divka,1928)である。これらの抒情的ドラマはアヴァンギャルド作品に属する。『ウケレヴェ湖』(Jezero Ukereve,1935 )はがっちりした形式をもっている。この作品は学問的仕事を賛美し、植民地主義を批判している。そして『錬金術師』(Alchymista,1932 )はルネサンス期に設定した歴史劇である。遺作のなかからは喜劇『ヨセフィーナ』(Josefina,1950 )が出版された。
 子供たちのためにヴァンチュラは『クブラとクバ・クビクラ』(Kubula a Kuba Kubikula,1931 )を書いた。


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 (21) 社会主義レアリズムを求める戦い
      ベドジフ・ヴァーツラヴェク Bedrich Vclavek

 Vl. ヴァンチュラは両大戦間時代のチェコ最大の散文家とみなされていた。しかし30年代の文学が解決した最大の問題性は社会主義リアリズムの問題であった。定義自体は30年代半ばに出現した(それへの弾みを与えたのは1934年、モスクワにおけるソ連作家会議であった)。しかし社会関係のなかに見られた人間の本当の描写の努力は根づよい流れとなってすでに以前から存在していたのである。そのことにかんしては I.オルブラフトや M.マエロヴァーの作品を思い出すだけで十分であろう。リアリズム作品の発展、それは偏ったものであったとしても、もちろん理論的な追求が必要であった。そしてわが国の社会主義リアリズムへの道程は決して短くもなければ、真っすぐなものでもなかった。それには思想的敵対者と対決する必要があったばかりでなく、何よりも理論家の誤りを克服する必要があった。その上さらにつけ加えておくべきことは社会主義リアリズムの問題は単に純粋に文学理論的意義をもっていただけではないということである。それは古い意味でのある「傾向」というのではなく、文学作品の全体的方向づけを、つまり芸術の社会主義的性格を意味するものであった。したがって社会主義リアリズムを求める戦いは政治的戦いの一部だったのである。
 すでに見たように支配者的階級の否定ばかりでなく建設でもあるような芸術、つまり新しい社会秩序の建設に寄与するような芸術への要求は、わが国の文学においては20年代のまさに初頭から現れていた。その前面に立っていたのが S.K. ノイマン(論文『プロレタリア文化』Proletarska kultura,1921)であり、この概念の公的宣言がはじめ「ヴァル」グループの集会で発表され、後に活字化された(1922)イジー・ヴォルケルの『プロレタリア芸術』(Proletarske umeni )という講演であった(いずれも前述)。同じころ、この概念について A.M. ピーシャ(Pisa)とエドゥアルト・ウルクス(Eduard Urx)も熟考した。例えばウルクスの記事『芸術と「芸術」』(Umeni a “umeni ”,1924 )は重要である。彼はここでテーマ自体はそれだけで作品の芸術性を保証しない、そして文学的表現の形式的側面を過少評価してはならないと指摘している。
 20年代の半ばにはプロレタリア文学のヴォルケル的概念は退潮したかのように見えた。なぜなら主導権はいわゆるアヴァンギャルドににぎられたからである。アヴァンギャルドは自分の見解を、とくにカレル・タイゲの口を通じて表明した。わが国の文学作品の社会主義的性格をめぐる戦いはこの状況下にあって、ヴォルケルの遺産を守るための戦いとなった。次の段階の理論の完成にとって重要だったのは20年と30年代の境い目に起こったいわゆる世代論争である。このとき社会主義文学の諸問題の考察を押し進める道を準備したのは B.ヴァーツラヴェクの『混乱のなかの詩』(Poezie v rozpacich)にたいする E.ウルクスの書評であった。ここで彼はとくに著者の一面的な社会学主義(sociologismus )や「純粋詩」と「意図的創作」という二元論について厳しく批判した。『混乱のなかのベドジフ・ヴァーツラヴェク』(Bedrich Vaclavek v rozpacich)と題されたウルクスの書評記事は社会主義文学の概念を体系的に追究した評論家の見解と真剣に取り組み、彼の見解を一層完成されたものとするのを助けたという点で重要である。
 ベドジフ・ヴァーツラヴェクは社会主義の問題が関心の的になった30年代のわが国の文学批評にとって重要な意義をもっている。彼は1897年にチャースラヴィツェ・ウ・トチェビーチェ(Caslavice u Trebice )の森番の家庭に生れた。トチェビーチェでギムナジウムを終えた後、軍隊に入る。その後、プラハ大学の文学部(専攻はチェコ語−ドイツ語)を卒業した。1923年からブルノで中学校の教師として勤め、後に大学図書館の司書となる。熱心にチェコ共産党の活動に参加した。彼の発展にとってとくに重要なのは1930年のソビエト連邦への旅行であり、この時、ハルコフ(Charkov )での革命的作家の国際会議に参加したことである。ヴァーツラヴェクのソビエト文化および政治の宣伝活動は支配者政府にとって快いものではなかったから、1933年にヴァーツラヴェクはオロモウツに移住させられた。1940年、非合法活動に入ったが、1942年に逮捕され、1943年に強制収容所で死亡した。
 ヴァーツラヴェクの文学活動の重点は文学批評と美学にあった。しかし彼は書斎派の学者ではなく、豊富な啓蒙的、評論的活動をこなした。新聞や雑誌に散りばめられた論文の数はいうに二千を越えている。もちろん、最も重要な研究は本として出版されている。それらのうち初期のものは作家のポートレートをつずった『芸術から創造へ』(Od umeni k tvorbe,1928)と理論的性格の『混沌のなかの詩』(Poezie v rozpacich,1930 )に収められている。これらの著書においてヴァーツラヴェクは当時のアヴァンギャルドと結びついている(彼はデヴィエッツィルの機関誌『圏』Pasmo と『ReD』を編集した)。彼は小市民文化の否定が不可避的であることを信じ、その否定は新しい階級の芸術の誕生へ移行しなければならないとし、その誕生を実験的芸術のなかに見たのだった。彼は近代芸術の発展をマルクス主義的に解釈しようと努め、その意味において『混沌のなかの詩』は先駆的評論であった。もちろん誤りもまぬがれなかった。彼の概念の主要な欠陥(社会関係への視点のない芸術的発展と技術的発展の直接的関係と「純粋」芸術の可能性についての考え方)についてはすでに述べたようにウルクスが指摘した。次の発展段階においてヴァーツラヴェクは初めの文学理解の欠陥を克服している。それは容易ではなかった。ハルコフの会議のあと、その会議において鮮明に打ち出されたプロレタリア文学の概念を支持したが、その受入れが無比判であるとのそしりをまぬがれない。もともとこの概念はその一面性(文学のイデオロギー的機能の機械的優先)のゆえにわが国では実践において受け入れられなかった。それはまた、例えば、S.K.ノイマンによって批判された。しかし1934年の第一回ソ連作家全連邦会議の結果は大きな共感をもって迎え入れられた。芸術の新しい概念が参加者全員の賛成によって受入れられたのである。その名称は社会主義リアリズムだった。「左翼戦線」(Leva fronta )は会議の結果についての討論を企画し、その結果は『社会主義リアリズム』(Socialisticka realismus )というタイトルで出版された。
 ヴァーツラヴェクはこの概念を多くの講演や批評作品、そしてジャーナリスティックな執筆によって宣伝した。この時期に、同じく『二十世紀のチェコ文学』(Ceska literatura XX.stoleti,1935)という労作を出版した。ここで彼は――わが国において初めてマルクス主義的位置から新しいチェコ文学の発展への全体的視野を与えるよう努力したのである。彼はマルクス主義的分析にもとづいて、発展は新しいシンテーゼへと向かい、それにより文学活動における進歩的力の結集に寄与する。同様にここでも社会主義リアリズムの定義を示している。
 社会主義リアリズムの実践をめざすヴァーツラヴェクの組織活動はブルノにおいて発展する。ここでは主に彼の触発によって社会主義文学の伝統を発展させ、ファシズムから文化を守ろうと望む労働者たちを結びつける統一戦線としてグループ「ブロク」(Blok)を結成した。季刊雑誌「U−Blok」(1936-1938 )はグループの機関誌となった。さらに社会主義リアリズムの先駆者たちの機関誌となったのはヴァーツラヴェクによって編集された雑誌「インデックス」(Index,1929-1939 )とプラハの「創造」(Tvorba,1925-1938)であった。
 1934年11月、「左翼戦線」が開催した討論会は考え方を明確にするのに重要であった。そしてその資料は『社会主義リアリズム』(Socialisticky realismus,1935)という一冊の本にまとめられて出版された。クルト・コンラッド(Kurt Konrad )はこのなかに『社会主義リアリズムについて』という題で、この時の同名の講演を敷延した形で掲載した。彼は芸術の社会的機能について徹底的に思索し、とくに社会主義リアリズムはソビエト連邦における現実に対応しているとはいえ、それを機械的にわが国にもち込むことはできない。そして「資本主義社会における唯物論的弁証法の芸術への唯一の適用はシュールレアリズムである」という見解にたいして反論を呈している。コンラッドは古いリアリズムとの比較において、社会主義リアリズムは、現実の弁証法的把握にもとづく芸術的再創造よりも高い段階であると定義づけている。同時に真の現実表現の方法として芸術家が選ぶ手法にかんする限り何ものも芸術家を制限しないとして、とくに次のように書いている。


 だが社会主義リアリズムにとって重要なことが、はたして現実を「再現」(リプロデュース)することだろうか? そうではあるまい。問題は現実の「創造」である。社会主義リアリズムは単なる「認識」の技法(メトダ)ではなく唯物弁証法の認識手  法をもちいて創造するための技法である。「芸術作品の真実と、リアリスティックな絵や写真や複製や石膏模型の真実とのあいだに共通するものはない」とタイゲは言う
――なるほど社会主義的にリアリスティックな芸術作品の真実と写真や石膏の真実とは共通するところも合致するところのないのは確かである。より適切に言うなら、社会主義リアリズム芸術はまったく異なった機能をもっているということだ。それは情緒的単純化のなかに現実をとらえ、造形し、現実の方向や意図を、また意味や傾向、本質を形式のなかに、形式によってとらえることである。


 引用した K.コンラッドの論文からもわかるように、社会主義リアリズムの議論はその春にすでに始まっていたシュールレアリズムにかんする議論と合流している。同時に
「ヴォルケルをめぐる論争」の第二の波をも巻き込んでいる。シュールレアリストの連中は目覚ましい宣伝活動を展開した。1936年には評論誌「シュールレアリズム」を創刊したが、その後間もなくグループは分裂するのだが、そのことについてはすでに述べた。 社会主義リアリズムにかんする議論はその後も続けられたが、今日にいたっても本質的に問題は解決されていない。そのことは、この議論が無窮の発展に対応する能力をもち、いかなるドグマにも無縁である一つの体系にかんする問題であることを証明している。内容が社会主義的であり、形式がリアリスティックである芸術というのが最も適切な定義の方法とされてきた。「リアリスティックな形式」という定義はかつては好ましからぬ意味に理解されていた。つまり、社会主義リアリズムは単なる平板な記録というのではなく、現実を適切に把握しうる限りにおいては当然あらゆる表現方法にたいして開かれているの
である。しかし現実は単に理解され、記述されるということのみには満足しない。それは変化させられることをも望んでいるのである。

 マルクス主義評論に対抗して右翼はそれに比肩しうるだけの対抗馬を立てることができなかった。もともと右翼指向の作品自体あらゆる支持にもかかわらず背景に押しやられていたし、それがそれらの作品にあてがわれた地位だった。メデクは過去に「義勇軍」ロマンを書いていた(それらの価値はもともと大したものではなかった)、そして古い世代のなかではとくにヤロスラフ・ドゥリヒ(Jaroslav Durych,1886-1962 )によって代表される勇敢なるカトリシズムのみが一つの役割を演じていた。ドゥリヒはヴァルトシュタイン三部作『放浪』(Bloudeni,1929 )『鎮魂ミサ』(Rekviem,1930)、その後はすでに大なり小なり落ち穂ひろいをしたにすぎなかった(『謝肉祭――パソフスキー庸兵軍のプラハ侵攻について』Masopust o Pasovskych do Prahy,1938)。彼の最も読まれた作品は短編小説『ひな菊』(Sedmikraska,1925)であった。この作品は会うたびに異なった姿を見せるある少女の七種類の出会いについての物語である。ドゥリヒはこの物語によって愛のイデアの不変性をイデアリスティックな概念において象徴化した。

 農村と結びついた作家たちは顕著な活動を示した。保守的、それどころか反動的な作家たちは田園主義(ruralismus)と称する運動を起こした。その思想的基盤は「田園における在来の状態を賛美する」(glorifikace statu quo na vesnici)ものであり田園には
「村は一家族」の標語によっておおい隠された階級対立があった。その上、田園主義には土地にたいする関係の神秘的概念が余韻を響かせていた(それは多くの場合、ナチスの
「血と土」Blot und Bodenの概念に近い)。そして宗教および保守的生活様式そのものの弁護でさえあった。これらの運動の演壇となったのは新聞「農村」(Venkov、農本党の機関紙)とノヴィナ(Novina)出版社だった。


 このような状況のなかで現実の生活からまったく遊離した娯楽文学が成長した。この種の文学は広範な層にとってある種の麻薬となるべきものだったし、その文学的水準の低さで悪名を馳せたものでもあった。その一つのタイプを代表するのがいわゆる女性と少女向けの涙もろい感傷的な、多くの場合、金持ちが貧しい娘と結婚するとか、またその逆というような主題にもとづいて書かれた読物であった(それらは赤文庫シリーズとか青文庫シリーズ、あるいは「ランプの下の夜」叢書といった形で出版された)。その他の形は男性や少年向けの冒険読物で大型の仮綴じ本にたいして言われていたような「ロマン新聞」の形で出版された(「ポケット・ロマン」Roman do kapsy 略称「ロドカプス」Rodokapus 、「興奮の時のロマン」Roman vzrusene chvile 略称「ロズルフ」Rozruch ,この種の読物はおかしなことに「モルザコルヌ」morzakornu と呼ばれていた。つまり「一コルンで買える病気」mor za korunu である)。



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 (22)ヤロスラフ・クラトフヴィール Jaroslav Kratochvil


 社会主義リアリズムの理論はすでに具体的作品にもとづいて論じることが可能な段階に来ていた。例えばオルブラフトやマエロヴァーについての解説の場合にそれを見ることができる。しかし、B.ヴァーツラヴェクが『インデックス』(Index,1935年6 月)誌上で社会主義リアリズムにかんするアンケート整理したとき、もともと自主的な研究として始めたのであったが、結果はきわめて稀薄なものだった。五人の寄稿者のうちこの論文が最も多く取り上げているのは少し古い世代の作家ヤロスラフ・クラトフヴィールだった。彼はすでに二編の文学作品によって社会主義リアリズムのプログラムを実作品において実証していた。その作品とは短編集『農村』(Vesnice )とロマン『泉』(Prameny )であった。クラトフヴィールは社会主義のプログラムに賛同することを明言し、これまでの作品について「もし社会主義リアリズムの概念を十分把握する以前に書いた作品がある程度この概念の徴候をそなえていることが実際に認められるとしたら たとえそれが、その場合新しく形成された目標が単に部分的にとらえられたにすぎないにしても 結局それは社会主義リアリズムが実際に時代の発展の本筋であり、われわれの時代の最も正統的な子供であるということの主張のまさにきわめてよい証拠であるはずだ」と述べている。
 上にあげたクラトフヴィールの二作品は社会主義リアリズムの概念が結晶化される以前にすでに書かれていた。『農村』という本に収められた短編は1911ー1913年の間に書かれたものであり(本の形では1924年になって出版)ロマン『泉』は1924−33年の間に書かれた(出版は1934)。これらの著書のほかにクラトフヴィールはそれ以上の文学作品を出版していない。彼は主に出版者として活躍した。多くの雑誌論文のほかに歴史的記録の著書『革命の道』(Cesta revoluce,1922 )が彼のペンから生れた。このなかでブルジョア的義勇軍伝説を槍玉にあげている。またスペイン市民戦争のレポルタージュの著書『バルセロナ−バレンシア−マドリッド』(Barcelona-Valencia-Madrid,1937)も書かれた。だが彼の芸術作品はたとえ規模的に大きくなくても文学的発展の基本的重要性をもっている。短編集『農村』は農村にたいする田園的(ルーラリズムの)視点のカウンター・バランスとなっている(1936年に第二版が出版された)。『泉』は一面では第一次世界大戦中わが国の義勇軍を生み出したシチュエーションのこれまで描かれなかった場面を提出しており、他面では30年代の広い範囲で発生した社会小説を先取りした。
 クラトフヴィールの最大の武器は彼が書いた問題や状況についての完全な知識であった。彼はモラヴァの教師の家庭に生れ(1885年、トゥチャピ・ウ・ヴィシュコヴァ Tucapy u Vyskova )商業学校と高等農業学校で学んだ後、商務吏員として働いた。だから農村を十分知っていた。戦争中軍隊に入り、ロシア軍の捕虜となり、義勇軍に入った。しかしすぐにその真の性格を知り、不干渉主義的態度を取ったため指導部と対立した。帰国後、ふたたび商務吏員となった。政治活動にも積極的に首を突っ込み、正しいソビエト連邦認識を宣伝した。そして作家たちを反ファシスト共同戦線に結合することに協力した。占領中、非合法活動の罪で捕えられテレジーンの強制収容所で死んだ(1945年)。
『農村』を構成する五つの短編は階級対立にある農村に典型的な題材をもっている。一見、それらはまったく、ごくありふれた題材である。グスチナは農園を守るために結婚しなければならない。フランチナは結婚というくびきにつながれている。村八分者の「酔いどれハノシュ」は空しく反抗する。二人の隠居の農夫は役立たずの気持ちを感じながら余生を送る。農園主の娘ハニンカは村の雇い牧童の男の子と遊ぶことを禁じられている。クラトフヴィールは硬直化した生活環境から生れる不平等を暴くために、すべての年齢層や社会階級を取り入れている。しかしながら彼はかつてシュレイハルが取ったような一面的な見方はしていず、彼の姿勢は純粋に即物的でありリアリスティックである。感傷的なところはないが、決して感情がないわけではない。M.プイマノヴァーが美しく書いたように「彼は自分の傷ついたやさしさで世界を批判する」のである。ふと横切る印象にたいする詩的感覚はもっている。しかし表面にとどまってはいず、自分の人物たちの心理に深く切り込むことができる。
 これらの長所を彼は二部からなるロマン『泉』において一層高めている。それは『河』と名付けられるはずの膨大なチクルスの端緒となるはずだった。その部分はすでに1925年と1926年に雑誌に発表されたが、全体は1934年になるまで出版されなかった。彼の著述は――彼の芸術的活動がいつもそうであったように――遅々としていた。それだ
からこそ彼の作品のなかには未完成なもの、とりあえず大雑把に描いたというようなものは絶対になかった。彼のロマンの意図はソビエトの批評家 I.イッポリトフ(Ippolitov )へ宛てた手紙のなかで触れられている。そのなかで「ロシア革命の滝が小市民的運動のよどんだ水溜まりに落ちたとき、その水溜まりが活動的な流れに変わる。チェコスロバキアの革命の道、その模索部分の結びは、とりあえずはこの暗中模索の認識のみである。つまり確実な民族の自由と独立へ通じる道はわが国の民族的『革命』が進みはじめた道とは正反対であるという認識である」ことを描写したかったと述べている。クラトフヴィールはすでにこのチクルスを完成することはできなかった。遺作のなかからすでに断片として残されていた第三冊目の一部が出版された(1956年)。
『泉』は本来は構想されていたチクルスの呈示部だった。そしてウクライナにおけるチェコ人の捕虜たちを描き、また革命の胚胎期における彼らの意見や姿勢が結晶化する過程での変化の段階を描いている。それと同時に作者は帝政ロシアの村や地方都市での生活の状況をもとらえている。物語の前面には大きくゆれ動きながらも徐々に成熟していく知識人トマンが置かれている。クラトフヴィールはなんら目を引くような気配も見せず(なぜなら事実そのものを描いているから)あらゆる種類の人間のタイプを彼らのさまざまな生きざまとともに描いている。例えば虐げられた御者から優柔不断の啓蒙家や急進派、さらには無節操な士官や官吏にいたるまでの人物たちである。ロシアの小市民や成金の描写には説得力がある。例えば、金持ちの粉屋が革命にたいして反応する短い一節を読んでみよう。


 ――ペットル・ミヘイッチさん! 何をそんなに慌てているのです? いったい何が起こったのです? 私は心を落着けて考えていますよ、商売のことを。まあ、たしかに私らは自分のまわりの世界をよく見ないといけません。さあ、どうです? 何が起きたんです? 何もありゃしませんよ! 馬鹿ものどもは赤い色がお気に入りだ。われらが古き、美しき赤、青、白(の国旗)はうんざりだと。それじゃ、善良な商人はどうしたらいいんです? ……え? すみませんがね、そやつは赤いのを売り出しますよ! でなけりゃ、競争相手に飲み込まれますからね。うちの粉はね、同じなんです……赤い袋に入っていようが、赤、青、白のに入っていようがね……


 このロマンは捕虜を相手におこなわれる政治的闇取引を暴き、また捕虜が生活している隔離施設に入れられていれば当然ありうる状況にたいする無知がいかに悪用されているかを示すことによって「義勇軍伝説」を打ち壊すのを助けた。しかし純粋に芸術的価値によっても影響を与えた。芸術的評価に値するものとしては、とくに構成の確かさ、ある具体的な人間にかかわる複雑な状況を提示する技巧、そして簡潔な表現である。それを理解するにはクラトフヴィールが各章の書き出しの二三の文章を読めば十分である。「日々は龍巻に巻きあげられた枯葉のようなものだった。巻きあがり、きりきりと舞い、混ぜこぜになり、そして名を失う。矢継ぎ早に起こる事件の嵐の陰に若者たちのどん欲な好奇心が密集する時間に執拗に迫っていた」。あるいは人物の内面的状態を見事にとらえた次の描写はどうだろう。「わたし、目まで震えたわ。あの方にお茶をお出ししたとき。手もよ」
 クラトフヴィールの『泉』はシャルダにも暖かく迎えられた(……驚くほど成熟し、密度が高く、均整のとれた作品である。現在までの最高の義勇軍ロマンであり、そして端的に最高のチェコ・ロマンの一つである)。そして真に不思議なことだが、このロマンの第二版はすでに1936年に出たものの、第三版は1956年になるまで待たねばならなかったのである。




 (23)マリエ・プイマノヴァー  Marie Pujmanova

 大河ロマンを完成するという願いはクラトフヴィールにはかなえられなかった。しかしチェコの社会を描き、社会主義リアリズムの要求を満たす大社会ロマンを作り出したのはマリエ・プイマノヴァーであり、彼女は30年代の中葉に芸術的にも人間的にも成熟の域に達した。オルブラフトもマエロヴァーも子供のころからすでに社会問題に近い関係をもっていたが、この両者と違ってプイマノヴァーはそれらの問題に向かって自分自身でかなり長い間、苦しい努力をしなければならなかった。しかし彼女の作品を見れば、作者がたとえ社会主義的生活とはかけ離れた環境で成長したのだったにもせよ、現実の真の姿を描くように真面目に努力することによって、いずれは社会主義文学へ到達すべきものであったことを証明している。
 マリエ・プイマノヴァー(旧姓ヘンネロヴァー Hennerova)は裕福な市民の家庭の出であった(父は大学教授)。1893年に生れ、家庭教師によって教育を受けた。最初の数年間は「ひっそりと」生活していたが、20年代になってから公的生活に参加する。彼女の発展において30年代は新しい段階を意味する。彼女はこの時代に左翼の批評家たち(ヴァーツラヴェク、フチーク)と接触し、ソビエト連邦訪問(1932)そしてチェコ共産党の新聞に寄稿した。死亡したのは1958年だった。
 プイマノヴァーの出版デビュー(まだ旧姓ヘンネロヴァーの名で出版されている)は幼いころの思い出話である(『翼の下で』Pod kridly,1917 )。ここには明らかに彼女が本を献呈したルージェナ・スヴォボドヴァーの影響があるが、すでに作者は独自の才能を示している。続く短い散文の作品集『公園物語』(Povidky z mestskeho sadu,1920 )はこの作者の処女作に見られたオプティミズムを失っている。プイマノヴァーの市民社会にたいする姿勢はすでに批判的である(例えば、女中を誘惑する卑劣な女たらしや、愚鈍で執念深い芸術スノッブを描いている)。しかし単に受動的なだけではない(女中の反乱)。同時に、ここにはある種のオプティミズムの要素もある(年老いた女が息子の前線からの帰還を待っている。彼は戦死したと公報されているのだが、まるで奇跡でも怒って息子に会えるといつまでも待ち望んでいるのだ。あるいは指揮者だ。彼は芸術家がいかなる手段を弄し、いかなる賄賂によって名誉をかちえているかを知ったとき、芸術家のキャリアを放棄して、現実的活動のなかに幸福を見出だす)。作者の表現は単純化されている。同時代の表現主義との関連は明らかである。しかし同時に揶揄嘲笑は豊富になっている(女たらしや退廃的なえせ作家の言葉)。
 プイマノヴァーの処女作はちゃんとした市民の家庭という狭い空間に限定されていた。彼女の第二作はすでに広い社会的な視野をもっていた。しかし、階級的に分断された世界の不協和音をすでに響かせている終わりの二編のデッサン風の作品を除けば、その他の作品では人物たちはまだ広い社会的状況とは無関係にいつも見られていた。この二つの例外的作品とはごく短い批判的短編『自動車』(Automobil ;富豪の車がパンを求めて前線から逃亡してきた貧しい男をひく)と『再会』(Setkani ;ある外交官の妻が何年かののちに、今は手間賃仕事をして働いているかつての女友達に偶然再会する)である。
 その後、プイマノヴァーは作家としては10年間沈黙する。そして文学および演劇批評に没頭して成功する(彼女の批評作品の選集は『信仰と思索』Vyznani a uvahy,1959 というタイトルで出版された)。
 次の作品を出版するのは11年後である。それはロマン『ヘーゲル博士の患者』(Pacientka doktora Hegla,1931)である。ここではすでに個人の運命にたいする関心と社会全体にたいする関心とが相克している。主人公の女性は市民階級の家庭の娘であるが、自分の階級と訣別し、自由な母性の権利を守る勇気を自らのなかに発見する。主人公を全社会的コンテクストのなかで見ようとする努力は、この作者を後に続く最上のロマンへときわめて論理的に導く。社会の問題性認識の道を彼女にかなえてくれるのは国内状況の矛盾の認識(彼女はモスト市のストライキやマルゲツァニの鉄道建設工事におけるストライキのレポルタージュを書いている)やソビエト連邦での見聞であった。ソビエトにかんしては『新しい国への視線』(Pohled do nove zeme,1932)というレポルタージュを本にしたものがある。このころ彼女は『十字路の人々』(Lide na krizovatce)にとりかかっている。そして1937年に出版した。
 このロマンのなかに作者は作品のなかの工業都市ウーリのモデルとなったモステツコやブルノの織物工場、さらにはバチョヴァ・ズリーナの労働者の生活についての自分の知識を活用した。このロマンは大戦後の初期から経済恐慌にいたるまでの期間のチェコの生活をとらえている。同時に注目すべきことは全社会層の断面、すなわち資本主義的資本家から自由業(弁護士)、芸術家、サラリーマン、さらに肉体労働者にいたるまでを網羅して見せていることである。そしてまた環境(サロン、市民の住宅、バー、工場、その他)、舞台(プラハ、農村、工業都市)、人物たちの年齢分布(すべての世代)もこれに対応している。このようにして、その異なった形の社会を描き出すことができたのであり、そして社会が歴史の十字路に立った時代に、未来は進歩的労働者階級の手に握られていることを示すことができたのである。
 物語はプラハに出てきた鍵屋(ウルバン)の未亡人の家族、進歩的弁護士ガムザの家族、資本家カズマルの周辺に集中される。しかし、光と影は機械的にばらまかれているのではない。ウルバン家のルージェナは財産を求めて努力し、金持ちのブルジョアの仲間入りをする。カズマルの娘エヴァは逆に資本家の家族から脱落し、中学校の教師をして自活していく。工場長の息子はコミュニスト詩人として出発するが、「赤のはしか」が冷めると自分の階級に舞いもどる。それに反してオンドジェイ・ウルバンは人生における自分の地位の認識に徐々にしか到達しない。彼はカズマルを崇拝する一時期を通過しなければならない。しかし工場の環境での生活は彼の目を開かせる。作者が人物の図式的分類に陥らなかったのと同様に、極端になったり、これ見よがしになるのも防いでいる。彼女の人物たちは完全な生命を与えられている。なぜなら作者は人物たちの弱点を偽装しないし、したがって生活の本当の造形としてわれわれの目の前で成長していくからである。プイマノヴァーは知識人の心の揺れや確信のなさをとくにうまく描き出している。彼女は内面の領域をも回避しなかったから、個人の成長がいかに複雑であるか、またその成長を個人的な問題がいかに複雑にしているかを提示しえたのである。
 プイマノヴァーはコミュニスティックな弁護士とどん欲な資本家との対照を彼らの生活スタイルの上にみごとに描き出している。コミュニストは人生にたいして本質的に喜びに満ちた関係を有している。それに反し、資本家は莫大な財産の奴隷になっているのだ。そのことを次に掲げる部分が如実に示している。前者は自己の信念のゆえにまた貧乏人たちを援助する自分の行為のゆえに窮乏の淵に立たされている。

 汚らしい四部屋の安住居に住み、自分で運転する相当にくたびれたフォード車をもったガムザ夫妻とはいえ、アメリカのその当時の専門職の労働者のいわゆる生活水準にくらべれば、その生活はかなりのへだたりがあった。おそらくガムザが、妻の働く電気会社が彼女に強いるように、自分の依頼人の労働者たちに厳しく弁護料を請求したら、また安い雑誌などを発行せず、二人が目を閉じ、耳に栓をして世界について何も知ろうとせず、笑おうともせず、日々をつくろい、夜、都会が快楽の幻影として蒸溜する元気づけの透明なアルコールを拒否したら、たぶん、精神の安定をそこそこに保ち、生きるために働くのではなく、溜め込むために生きる人間の仲間いりだってできたことだろうに!


 資本主義的企業家は次のように描かれている。


 彼はまわりくどいことをしなかった。容赦なく真直ぐに進んだ。彼は農夫が土地を愛するように、かたくなにウーリの町を愛し、まるでこの町の主ででもあるかのように町のことに頭を悩ました。他の人々を悩ませもしたが、一番悩ませたのは身分自身だった……。次々に思い浮かぶ新アイディアが彼を駆り立てた。新しい商売の領域を求める彼の忙しい旅は、遊び、戯れ、金を使い、恋をする場所である温泉旅行などという気楽な旅ではなかった。汚い服を着て、ジャガイモ料理を食べ、ビールも飲まず、友人と歓談することもない。そして、それは出し惜しみからでも利己的だからでもなく、ただ必要がないからだ。それどころか彼は一人で生きているのではない。彼はウーリを自分以上にみなしていたのである。


 娘のエヴァはカズマルをこう見ている カズマルの仕事はもちろん、工場の所有者と
しての仕事である。それは喜びの追求である。労働者はこき使われる獣の群れであり、職
長は狩り子だった。そして一人一人の頭上にはダモクレルの剣がぶら下がっている 一
時間後には床にぶちのめされるかもしれない危険が絶えず迫っている。それは等しく要求された仕事をやり遂げることのできない労働者にも、働くものの権利を守ろうとする労働者(フランタ・アンテーナ)をも、解雇された同僚の女性のために温情を求める労働者
(オンドジェイ)をも、そして同様にカズマルに忠実に仕えていた宣伝部の部長コルーシェクをも、彼が労働者の利益の代弁者の登場の前にメーデーの祭りを阻止できなかったとき、その危険は襲いかかるのである。しかし最も悪いのは、カズマルの工場で働く労働者がそれまで労働者の連帯を理解していなかったということである。「一万人の労働者がウーリにいる。そしてその誰もが一人一人なのだ。どこかで不正がおこなわれたとき、工場
は反抗し、ストライキをする。そして打ち負かされ、敗れた 」そして(私がつけ加え
よう)最後には勝たねばならない。
 占領中、プイマノヴァーは『十字路の人々』を続けることができなかった。彼女は今度は詩に没頭した(『歌の本』Zpevnik,1939、『育児の詩』Verse materske,1940 )。そして散文ではただ短編『予感』(Predtucha,1942)を発表しただけであった。ここではファシズムの洪水にたいしては堅固な堤防となることのできる人間の団結をもって対抗しうると記している。
 『十字路の人々』の続編は十年余の蟹居(ちっきょ)の後に日の目を見ることができた。それはロマン『火遊び』(Hra s ohnem,1948)である。ここでプイマノヴァーは自分の作中人物たちのその後の運命を占領の時点まだたどっている。物語は、今度は、チェコの領土からヒットラーのドイツ(ガムザのライプツィヒ裁判へのかかわり)とソビエト連邦(オンドジェイが仕事を求めて、ガムザの娘女医のヘレナハ技師の夫とともに行く)へと広がる。作者はナチス・ドイツに広がる恐怖の雰囲気をもよくとらえている(ベルリンで告発されたコミュニストの妻が外国人弁護士を断る)し、またチェコスロバキアにも深く浸透してくるムードも同様である。ここでは一部の進歩的インテリゲンチャの変節を明確に描いている。新しい点は詩的虚構と現実との結合であろう(ライプツィヒ裁判描写の迫真性、とくディミトロフの登場)。そしてこの結合はロマンを進行する歴史のクロニクルに変えている。
 『生と死』(Zivot proti smrti,1952)と題された三部作最後の作品において、作者は主人公たちを占領時代をへて解放後まで導いてくる。この作品は国内の抵抗と国民全体のあらゆる層の政治的熟成を描いたわが国最初のロマンである。この非常にむずかしい素材はもちろん作者を新しい課題、とりわけロマンのフィクションと現実をいかに調和させるかという難問に直面させた。彼女はこの問題を重要な事件(リディツェの抹殺)を本当に描くこと。そして物語のなかに歴史的人物(ゴットワルト、ザーポトツキー、ズヂェンカ・ネエドラー、その他)を登場させることによって解決した。しかし小さな空間に複雑な出来事を描き出そうとする努力の結果、作者はところどころで無意識のうちに単純化をしている。それはもちろん、社会主義の建設に際しての文学の総体的状況や文学の新しい教育的任務によってももたらされた。事件を包含する領域は豊かであり、占領中の民族の運命を典型化している。ガムザは強制収容所で死に、彼の娘は抵抗運動のために処刑され、ルージェナはナチになり、ガムザの息子スタニスラフは苦難の時代に成長し、オンドジェイは赤軍とともに帰ってくる(そして、幸運な運命のめぐりあわせで、ロシア人の妻と再開する)……さまざまな人物たちの人生の物語は終わる。生と死に勝利し、そしてさらに生き続けるであろう。
 解放後、プイマノヴァーは詩の分野でも創作を続ける。そしてとくに市民抒情詩(obcanska lyrika )ですぐれていた(『愛の告白』Vyznani lasky,1949; 『何百万の雌鳩』Miliony holubicek,1950)。『キューリ夫人』(Pani Curieova,1957)は科学の悪用を警告している。『プイマノヴァー作品集』にはレポルタージュ作品(『鉛筆の記録』Zapsano
tuzkou,1967 このなかに『新しい国への視線』を含む と『青いクリスマス』Modre vanoce,1951 )を加えている。


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 (24)30年代のその他の散文作家の作品

 30年代に複雑な社会状況に取り組んだ作品は上に紹介した作品のほかにも、まだ社会主義リアリズムへの努力と結びついた多くの作品がある。とくに「チェコのフォードとそのロボットたち」にかんするロマン『ボトストロイ』(Botostroj )は大きなセンセーションをまき起こした。この作品は1933年、ズリーナのバチャ商会の広告看板の絵かきで、後に」プロスチェヨフのネハラ商会に移った T.スヴァトプルク(本名スヴァトプルク・トゥレク Svatopluk Turek,1900-1972)が出版したものである。作品はバチャ商会の干渉によって没収され、著者は職を失い、名誉毀損で法廷に立たされた。それは文学上のセンセーションだったのだが、バチャも自分の目的をはたした。『ボトストロイ』ハ1946年まで自由に出版できなかった。『ボトストロイ』にはロマン『指導者なしに』(Bez sefa,1953 )が結びついている。これは国有化された後の企業の運命を描いている。作者はそのなかで道は平坦ではないことを示し、外的困難(経済的苦境)ばかりでなく、人民に起因する内面的困難をも暴いている。この面では労働者監督ランガという人物を最もよくとらえている。彼は新しい職務のなかで市民的生活様式とその典型的欠陥から逃れることができなかった。
『ボトストロイ』は没収されたから、この作品の著者が読者大衆の前に初めて自己紹介をするのはヴァラシュスコ農村の貧困を描いた『死せる土地』(Mrtva zeme,1936 )というロマンによってである。その残酷な真実さでこの作品は同時代のルーラリズムと対称をなした。生産過程における搾取のシステムを T.スヴァトプルクはその後さらに『成功の天使たち』(Andele uspechu,1937 )と『ゴードン・トラストは嘆く』(Gordon trust zaluje,1940)で描いた。後者は場面をアメリカ合衆国に移している。
 T.スヴァトプルクはその簡潔で短い、しばしば切れぎれな、あえて粗野に陥ることも辞せぬ文体によって、物語のスタイルに新しい要素を導入した。

 ゲーザ・フチェリチュカ(本名アントニーン・エドゥアルト・フチェリチュカ Antonin Eduard Vcelicka,1901-1966)はウエイターとしての自分の経験をもとにしたウエイター生活のロマン『表通りの喫茶店』(Kavarna na hlavni tride,1932, 後に改作)によって、社会主義文学を主題的に豊かにした。その後歴史物に没頭し、前世紀80年代、90年代の労働運動の勃興期を描いた。今世紀初頭のプラハの貧困層の生活を知るのにはフチェリチュカの回想記『プラハの秘密』(Prazske tajemstvi,1944)が多くの啓示をふくんでいる。作者はここで聖アネシュカ修道院付近の消滅しかかっているナ・フランティシュク地区での生活を再現している。
 カレル・ノヴィーのロマン『私たちは生きたい』(Chceme zit,1933 )の物語は失業時代から取られている。作者(本名カレル・ノヴァーク Karel Novak,1890 年生れ)はベネショフの出身で、父はパン屋だった。ベネショフのギムナジウムに学んだが卒業はせず、生涯にわたって新聞記者になった。彼の作家としての初期に、友人ヴァンチュラの影響を受けた(もともと K.ノヴィーの父親がヴァンチュラのロマン『ヤン・マルホウル』の題材を提供したのである)。
 ロマン『私たちは生きたい』はバラード風の物語として性格づけられてきた。ここではお針子のマグダと製鉄工、後に建設現場の日雇い労働者ヨゼフという恋人たちのことが語られる。二人は職を失い、社会は二人を徐々に物乞いの放浪者の境遇へと追い込んでいく。簡潔な即物的文体によってノヴィーは、人間は罪もないまま貧窮のどん底まで落ちていくとしても、それでも自分の名誉を保つことができることを示している。この本は大きな反響を呼び、「D35」劇場のために劇化された。
 しかし、カレル・ノヴィーは『私たちは生きたい』を出版したころ、彼の最高傑作をすでに書き上げていた。それは三部作『緑の輪』(Zeleny kruh:『陸の孤島クシェシーン』Samota Kresin,1927; 『嵐のなかの魂』Srdce ve vichru,1930; 『顔と顔』Tvari v tvar,1932 )である。物語は場面を農村に置いている。この三部作は第一次世界大戦前後の時代における農村の貧困層の生活や社会的不公平をリアリスティックに描写することによって構成されている。作品はもともと世代ロマンであり、T.スヴァトプルクの『死せる土地』と同様にルーラリズムの対極に立つものである。
 農村のルーラリズム(風牧歌的描写)に対立するものとして、同様にクラトフヴィールの『農村』の第二版もあげることができる。しかしクラトフヴィールは戦争の真実を描くという点でも孤立無援ではなかった。戦争の悲惨と恐怖を描くという努力によってクラトフヴィールにくみする作家は他にもある。彼らもまた戦争を公的な見方とは別の角度で描いているのである。
 そのなかで時間的に最初の作家はヤロミール・ヨーン(Jaromir John,本名ボフミル・マルカロウス Bohumil Markalous、彼は中学校の教師だったが、後に職業作家となり、晩年にはオモロウツ大学の美学の教授になった。1882年にクラトヴィ Klatovy に生れ、1952年に死亡)。1920年にはすでに作品集『藁ベッドのうえの夜々』(Vecery na slamniku)で戦争を語っている。そして1930年には新しく改作、補足して出版した。その後に続くのが反戦小説『迷子の息子』(Zbloudily syn,1934)である。その後の作品で触れる必要のある作品はロマン『賢いエンゲルベルト』(Moudry Engelbert,1940 )、短編集『ドジニ・ミレンツィとその他の読物』(Dorini milenci a jine kratochvile,1942)、そして膨大な反教会ロマン『パンポヴァーネク』(Pampovanek,1948,改作1949)である。青少年向けにヨーンは魅力的な本『極楽の島』(Rajsky ostrov,1938; 国民劇場の建設と再建について)そして『トピッチュのオーストラリア冒険』(Topicovo australske dobrodruzstvi,1939;1946 年の新版では『アロイス・トピッチュのオーストラリア冒険』Australske dobrodruzstvi Aloise Topice)である。後者は十九世紀の終わりの25年頃のあるチェコ人のメモにもとづいている。ヨーンの幾つかの作品は遺作のなかからやっと本の形で出版されている。というのも、生前は雑誌に発表されただけだったからだ(例えばロマン『怒りっぽい悪党』(Vybusny zlotvor,1959)。
 学校から真直ぐ戦場へひっぱり出されていった世代はカレル・コンラート(Karel Konrad,1899-1971)のロマン『訣別!』(Rozchod!,1934 )のなかに描かれている。作者は以前は詩的散文によって知られていた(『ロビンソン物語』Robinsonada,1926; その他)。
カレル・ポラーチェク(Karel Polacek,1892年、リフノフ・ナド・クニェジュノウ Rychnov nad Kneznou の生れ、1944年にオスヴィエチマニで死亡 Osvetimany で死亡)はジャーナリストであった。そして国内および前線での世界大戦をロマン・チクルスのなかにとらえている。それらのロマンは『地方都市』(Okresni mesto,1936)『英雄たちは戦場へ向かう』(Hrdinove tahnou do boje,1936)『地下の町』(Podzemni mesto,1937 )および『売り切れ』(Vyprodano,1939)である。ポラーチェクはさらに第五作を書いたが、その存在は知られていない。彼の生前には出版できなかった。ポラーチェクはこのロマン・チクルスの前から、すでに皮肉な、しかし同時に寛大な態度で小市民たちを描くユーモリストとして知られていたし(『オフサイドの男たち』Muzi v offsidu,1931 )、またしばしばチェコのユダヤ人を槍玉にあげた。しかし小市民にたいするユーモラスな態度と同時に、その厚顔さをも指摘した(『町はずれの家』Dum na predmesti,1928;『最終弁論』Hlavni preliceni,1932 )。ポラーチェクの戦争チェクルスは小さな山間の町(リフノフ・ナト・クニェジュノウ)で始まり、ある「チェコの小人物」をまず前線の背後で描き、次の舞台は略奪されて空になった家々の立つ前線となる。そしてやさしいユーモアはだんだんと風刺に変わっていく。注目すべきはポラーチェクの言葉の技巧である。彼は(コラムニストまたは法廷報告記者として有名だった)「日常茶飯事」的決り文句を茶化し、またそうすることで彼の登場人物たちの貧しい思想を暴くことによって言葉の戯画(コミク)を作り出している(Michelup a motocykl,1935)。占領中もなおポラーチェクは『「石の卓のもとで」という名の酒場』(Hostinec U kamenneho stolu)という、小さな温泉町の様子をもとにしたロマンを出版した。ここでポラーチェクはふたたび小さな町を描いている。しかし今度は少年の目で見た町である。

 「義勇軍文学」の作家のなかで、客観的視点を保つよう努めたのはヨゼフ・コプタ(Josef Kopta,1894-1962 )。彼は義勇軍の模造された栄光を語らず、むしろ一般の義勇兵と指導部との間の内部差別や不満を語る。コプタは典型的な民主的でヒューマニズム文学の代表者であった。そして30年代には反ファシズム戦線に参加する。
 義勇軍伝説の欺瞞性をロマン『ゴルノスタイ(貂)』(Gornostaj,1936)で暴いたのはヴァーツラフ・カプリツキー(Vaclav Kaplicky,1895年生れ)である。彼の語り手としての芸は50年代に歴史ロマンのなかで成熟を見せる。ここで彼は創造的方法でイラーセクお伝統を発展させている。彼はフス運動と、白山後時代に題材を集中している(『悪党たち』Ctveraci,1952;『年代記のページ』Listy a kronik; 『ターボル共和国』Taborska republika,1969;『魔女たちへの鉄槌』Kladivo na carodejnice,1963 ;その他)。カプリツキーは思想の面でも形式の面でも最高の意味での「人民」の作家である。

 ヨゼフ・トマン(Josef Toman,1899-1977 )もまた歴史文学の領域に自己最高の表現の場を見出だした。彼はすでに数冊の詩集を出版していた。30年代の初頭に散文文学の領域でデビューした。彼のロマンのデビュー作『ダビット・フロン』(David Hron,1929、若い男とバーの娘との関係をあつかった)はかなり感傷的なものだった。しかしその後トマンは歴史ロマン『来歴の知れぬ人』(Clovek odnikud,1933 )を手がけ、そして歴史散文のなかに完全に浸った。ロマン『ドン・フアン』(Don Juan,1944 )、『今日さえあれば』(Po nas potopa,1963、古代ローマから)、そして特にトマンの人生訓の書『ソクラテス』(Sokrates,1975 )は大きな反響を獲得した。トマンは現在から題材をとったロマンも書いた(『スズメ蜂の巣』Vosi hnizdo,1938, 1956年に『トランプの家』Dum z karet の題名で改作。『山麓の人々』Lide pod horami,1940)。そのほか社会批判の浸透した放送や舞台用の劇を書いた。幾つかの彼の作品には妻のミロスラヴァ(Miroslava )が協力した(例えば、ロマン『キツネはどこでおやすみを言うか』Kde lisky davaji dobrou noc,1957)。

 歴史小説へ到達するまでのトマンの道程も比較的長かったが、この点はヴラヂミール・ネフ(Vladimir Neff,1909年生れ)も同じことが言える。彼の初期の作品はパロディー風でグロテスクな性格のものだった(『イブラヒムの苦境』Nesnaze Ibrahima,1933 )。そして当時からすでに彼の特徴であるアイロニックなものの見方を自家薬籠中のものとしていた。ネフは彼の後期の作品で市民家庭の崩壊を描いている(『テーブルについた二人』Dva u stolu,1938; 『余計ものの神』Buh zbytecnosti,1939)。読者の大きな人気を博したのは『マリエと庭師』(Marie a zahradnik,1945)という中編小説(ノヴェラ)で、プラハのカンパ(Kampa )の美しい環境のなかで起こる物語である。50年代にネフはプシェミスル朝末期およびヤン・ルツェンブルスキーの時代の年代記ロマン形式の歴史小説
『スルプノフスキー家の人々』(Srpnovsti pani,1953 )と前世紀の中葉から現代にいたるまでのプラハ・ブルジョアジーの興亡についてのロマン五部作を完成した(『理性結婚』Snatky z rozumu 、『皇帝スミレ』Cisarske fialky 、『悪血』Zla krev、『陽気な未亡人』Vesela vdova、『皇帝の御者』Kralovsky vozataj,1957-1963 )。その次にはルネサンスに興味をよせた(『ボルジア家の指輪』Prsten Borgiu )。
 巧みな語り手として、また市民社会の因習の厳しい批評家として活躍したのはヤロスラフ・ハヴリーチェク(Jaroslav Havlicek,1896-1943 )である。彼の好むテーマは小都市における家族の崩壊である(『ひからびた願望』Vyprahle touhy,1935;1944年に『石油ランプ』Petrolejove lampy として改作)。ハヴリーチェクは一見なんの変てつもない、ありふれた、それでいて人間の悲劇のしみついた人生からくりの裏側を見抜く洞察力の鋭い心理学者だった(『目にみえない男』Neviditelny,1937; 『第三の女』Ta treti,1939;バラード風の響きをたたえた中編(ノヴェラ)『幼い息子』Synacek,1942)。
 少し古い作家世代のなかではヘレナ・マリージョヴァー(Helena Malirova,1877-1940 )が30年代に才能を開花させた。彼女はすでに世紀初頭に女性解放の視点から女性の運命に関心を寄せていた(短編集『人間的心』Lidske srdce,1903;『初めてのキス』Prvni polibky,1912; ロマン『幸福の権利』Pravo na stesti,1908)。30年代にロマン『血の色』(Barva Krve,1932 )においては十九世紀後半のプラハの家族にたいする批判を公にし、またロマン『遺産』(Dedictvi,1933 )では旧弊な環境からアナーキズムを経て、コミュニズムへと成長していく娘の運命を描いている。年代記(クロニクル)『十色の人生』(Deset zivotu,1937 )は自伝的性格のものである。
 30年代のわが国の文学のなかで最も多くの読者を獲得した作品の一つはヤルミラ・グラザロヴァー(Jarmila Glazarova,1901-1977 )の『輪のなかの年月』(Roky v kruhu)であった。この作品は成熟期にいたって書かれ、長い経験から取られており、本来は公にするために書かれたものではなかった(出版は1936年)。作者は亡夫とともにスレスコで過ごした幸福な20年間を思い起こしている。続く二編のロマン『狼の巣穴』(Vlci jama,1938)と『降臨節』(Advent,1939 )も舞台はスレルコ、正確にはヴァラッシュスコに取られている。『輪のなかの年月』との違いは作者が夫婦関係を批判的な照明のもとに示しているということなのだが、その際、ここでも女性の人物が彼女の関心の中心に置かれている。『狼の巣穴』ではそれが利己的なクラーラとなる。彼女は十六歳年下のお人好しの夫と養女のヤナにつらく当り、ヤナの若さにたいして嫉妬する。『降臨節』では主人公は貧しいフランティシュカである。彼女は私生児をつれて、山林業の狂信的エゴイストと結婚する。解放後にグラザロヴァーはソビエト連邦にたいする熱烈な心情を詩的レポルタージュの著作『レニングラード』(Leningrad,1950)のなかに表現している。

 両大戦間期にあってもスロバキアにたいする関係は決して軽視されていたわけではない。チェコにおいてスロバキア語の本が読まれるよりもずっと多く、スロバキアでチェコ語の本が読まれているのは確かであるが、同時に特徴的なことは、まさにチェコ側の左翼陣営には公的な「チェコスロバキア主義」や一つの民族言語の「二様の(チェコ語とスロバキア語の)響き」理論は浸入して来なかった。ここではとくにスロバキアに一定期間過ごしたことのある作家たちが重要である。そのなかでペットル・イレムニツキー(Petr Jilemnicky )はスロバキア文学のなかに組み入れられる。スロバキアの農村での体験を造形したのは、とくにヨゼフ・セケラ(Josef Sekera,1897-1972)である。彼はスロバキアで1920−39年までの間、ロマン『ワイン業者』(Vinar,1930, 1954年に改作)のなかにあるように、役人として働いた。ロマン『泥の村の子供たち』(Deti z hlinene vesnice,1952 )でセケラはブルジョア共和体制下のジプシーの生活を描いた。ロマン『チェコ・ラプソディー』(Ceska rapsodie,1961 )はチェコスロバキア赤軍の形成と戦いを扱っている。
 ヨゼフ・リバーク(Josef Rybak,1904年ピーセク生れ)もまた丸十年間スロバキアで働いた。リバークは両大戦間期の散文と現代とを結合している。30年代にはすでに短編集『野と森』(Pole a lesy,1928)をもち、またロマン『世紀の始まり』(Zacina stoleti,1932 )を出版していた。しかし彼の活動の重点はジャーナリスティックな論評や批評論文であり、それらは一部スロバキアの雑誌にも転載された(これらの評論の選集は1961年『時代と芸術』Doba a umeni の題名で出版された)。リバークは多方面の才能にめぐまれていた。彼はデッサン画家として風刺家として、また詩人として散文家としての腕前を証明した。そして最も好んで自分の思い出を形に現した(ロマン『太陽とパン』Slunce a chleb,1956 のなかの世紀初頭の小都市の風景画)。彼の最良の作品は晩年に出た。短編集『はだしの足のための時計』(Hodiny pro bose nohy,1973 )と詩集『赤信号の歩行』(Chozeni na cervenou,1976)。全生涯にわたる詩作品の選集は『鳩よ、飛びなさい』(Let ’te,holubi,1976)に収められている。

 両大戦間時代には青少年向けの芸術作品にも注意が向けられた。マルクス主義世界観の教育の観点からここでは主に観念論ないしは無思想的な作品に対抗する社会主義作品の創造が問題となった。この面では J.ヴォルケルと M.マリージョヴァーが具体化したような童話の新しい概念が重要な意味をもった(その例は『魔法のマント』Kouzelny plast,1925 、『金のヴェール』Zlaty zavoj,1929、『栗の木の下で』Pod kastanem,1934 )。だが、しかし同時代の生活をリアリスティックに描き出し、反動的読物にたいする堤防を築く必要があった。その反動的読物とは、とくに当時非常に読まれていたマリエ・ワグネロヴァーのカーイ・マジークを主人公とするチクルスのようなものである(彼女はフェリックス・ハーイというペンネームで書いた)。この点では J.V.プレヴァも成功した。
 ジョゼフ・ヴェロミール・プレヴァ(Josef Veromir Pleva,1899年にモラフスカー・スヴラトカ Moravska Svratka で生れた)は本来は印刷工だった。その後、師範学校を卒業していろいろなところで働いた。つまり子供の心理と子供の好みがよくわかるところである。思想的には進歩的出版社の協力者として B.ヴァーツラヴェクの友人として成長した。彼を青少年の作品へと導いたのは実はヴァーツラヴェクだったのである。――プレヴァはプロレタリア詩に密着した詩を書いたし、彼自身の敵前逃亡の体験をロマン『警護隊』(Eskorta,1929年、改訂版1955年)のなかで書いた。しかし、わが国の文学にとってもっとも重要なプレヴァの作品は、若者向けの『小さなボベシュ』Maly Bobes である(3巻、1931-1934 、第三版改作版、1950)。これは町のなかに階級的矛盾を認識する田舎の少年の物語である。青少年向けにはその後さらに幾つかの本を書いている。とくにポピュラーで教育的なものは『水滴』(Kapka vody,1935 )。またデフォーのロビンソンの改作も手がけた(1956)。


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 (25)ユリウス・フチーク Julius Fucik


 反ファシズム戦線の形成に際しては、ソビエト連邦にかんする新しい情報がとくに重要であった。M.プイマノヴァーのレポルタージュ『新しい国への視線』(1932)についてはすでに触れた。しかしソビエトの生活を長期滞在と広い地理学的知識、つまり単に「見る」だけ(プイマノヴァー自身が自分の本についていみじくも述べたことだが)に限定せずに、きわめて複雑な現実のなかに深く浸透して得た知識にもとづいて描く必要があった。この要求から新しいタイプのレポルタージュが生れた。それを書いたのがユリウス・フチークであった。
 フチークはプラハで生れた(1903年)。彼の父は旋盤工で、後に劇場歌手となった。フチークは中学校をプルゼニュで卒業し、その後プラハ大学の文学部で文芸学を学んだとくに彼に影響を与えたのは F.X.シャルダだった)。そして彼は熱心に公的生活に参加した。十八歳のときにはすでにチェコ共産党の党員だった。1928年の秋には「創造」(Tvorba)の編集員となり、1938年の発行停止まで編集に携わった。1929年からはおなじく「赤い権利」(Rude pravo)の編集部でも働いた。彼は豊かな宣伝活動を展開した。とくに危機の時期に。それだから何度も逮捕された。1930年、彼は初めてソビエト連邦を訪問した。そして四カ月の滞在の間に、単にソ連のヨーロッパ部だけでなく、中央アジアも知った。そしてそこに社会主義国家の一大建設事業を確信したのである。
 1934−1936年の間に彼は「ルデー・プラーヴォ」の通信員としてソ連に行った。チェコ共産党の禁止の後、進歩的雑誌に協力した。そして1940年から非合法活動に入った。ナチスがチェコ共産党の第一次非合法中央委員会のメンバーを徐々に逮捕していったとき、フチークは第二次中央委員会のメンバーになった。しかし1942年4月に逮捕され、翌年処刑された(人間としてのフチークをわれわれに身近に感じさせてくれるのは G.フチーコヴァーの『ユリウス・フチークとの生活』Zivot z Juliem Fucikem,1971 と Jos.リバークの『ユリウス・フチーク物語』(Jos.Rybak,Vypraveni o Juliu Fucikovi,1973 である)
 フチークは自分の文学的教養を有能なジャーナリストとして、とくに演劇および文学批評の領域で活用した。彼はシャルダの薫陶を受けていたから、大きな視野をもっていたし、政治的な教育も受けていたから、誹謗中傷にも臆することはなかった。この面ではとくにヴォルケルの遺産論争、アヴァンギャルド論争にかなり挑戦的に介入した。
 研ぎすまされたフチークの現実感覚は彼のレポルタージュのなかに最もよく現れている。彼は労働者の闘争の重要事件にかんするレポルタージュを書いた。例えばストライキについて。しかし新しいタイプのレポルタージュを創造したのは『明日になればすでに昨日を意味する国で』(V zemi,kde zitra jiz znamena vcera,1932 )においてである。この書は彼の最初のソビエト旅行の文学的成果だった。とくに怒涛のような建設作業へ向けた透徹した視線、その上レポルタージュは――文学発展の観点から最も重要なことだが――さまざまな語り口を使い分けることによって、その表現はほとんど芸術の領域に達している。二度目のソビエト滞在から生れたレポルタージュは没後の全集『愛する国で』(V zemi milovane,1949)のなかで本の形で出版された。その後、国内問題にかんするレポルタージュは『ブルジョア共和国からのレポルタージュ』(Reportaze z buruzoazni republiky,1953 )という題で出版された。
 30年代の終わり、そして占領の初期にフチークは文学遺産の問題に集中的に取組んだ。そしてわが国の過去の文学における進歩的要因を強調し、それによって、占領の初期に民族の背骨をピンと伸ばすのを助けた諸々の文章とともに大きな文芸学的労作にも打ち込んだ。彼の研究論文のなかで生前に発表されたのはエッセイ『闘うボゼナ・ニェムツォヴァー』(Bozena Nemcova bojujici,1940)のみだった。これは死後、サビナ、ゼイエルの乳母についての研究と一緒に『三研究』(Tri studie)という題名で出版された。フチークの小論文は『われらが民族を愛そう』(Milujeme svuj narod,1948)の題名でまとめて出版された。
 フチークは監獄からの通信によって全文化人の良心に刻み込まれた。これは死後、『絞首台上で書かれたレポート』(Reportaz psana na opratce )として出版された。占領者の監獄の処刑台の陰でうまれたこの最高の作品は、今後もなんどとなくわれわれのまえに戻ってくるだろう。


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 (26)30年代のカレル・チャペック


 フチークのソビエト・レポートは30年代の初めに出版され、人々の目を開かせるのに大いに役立った。なぜならソビエト連邦が平和の守護者として紹介されたからである。すでに述べたように、30年代の初めには広範な戦線が組織され、そこには非革命的ヒューマニズムの立場に立つ人々も参加したのだった。そのなかで最も重要なのがカレル・チャペックである。20年代における彼の発展過程は先に見た。経済恐慌の時代にチャペックは大きく変わる。彼の社会的ペシミズムが兆しはじめ、彼の世界像のなかのユートピアが影をひそめてくる。そして現実を直視する姿勢が強まるのである。
 そのことは、すでに『一つのポケットから出てきた話』(Povidky z jedne kapssy)と『もう一つのポケットから出てきた話』(Povidky z druhe kapsy,1929)が予告を発していた。これらの作品は二種類の犯罪物シリーズである。そのモデルはイギリスの小説家チェスタートン(Chesterton)の短編だった。もちろん安っぽい探偵小説のことではなく、また真の意味での「文学的」探偵小説というのでもない。犯罪の暴露よりも重要なのは犯罪者たち、善良な法の番人たちの心のなかへの視線である。基本的なモティーフは確かに秘密である。しかしここでは(例えば、短編『足跡』Slepej のときのように)もはや未解決のまま放置されたりはしない。今度は合理的に解明される。このようにチャペックは形而上的秘密から日常生活の秘密へと関心を移している。巧みな主題の構成に、やさしいユーモアの味付けを施された軽妙な語り口が結合されている。だから古いチャペックの作品の技巧の長所は失われていないものの、他の目的に適用されているのである。
 30年代の初めに、チャペックはロマン三部作『ホルドバル』『流れ星』『平凡な人生』(1933-1934 )を出版した。これらは三部作とはいえそれほど緊密な関係あるわけではない。個々の作品の間には伝統的な意味での主題的な絆はないし、同一の人物が登場するわけでもなく、また物語が同一のシチュエーションのなかに置かれているわけでもない。それらを結びつける絆となっているのは哲学的な考え方(ナーゾル/nazor )である。チャペックは改めて真実とは何かという問題を提起しているが、彼のこれまでの作品とは異なった形で答を出している。
 彼は人格の多面性を発見する。つまり、人間を一つの型にはめ込むことはできない。人間のなかには行動にかんしても、またその人間の理解にかんしても多くの可能性が隠されているというのである。まさに、この多元性のゆえに他人を理解することが可能なのである。チャペックはこのナーゾルにより、かつての彼の懐疑論を克服している。
 『ホルドバル』(Hordubal)はカルバチアの山人である。八年間のアメリカの出稼ぎから戻ってくる。その間に、妻はホルドバルが外国から送ってきた金で農場を作り上げていたが、使用人の男と関係も出来ていた。ホルドバルは淡い悲しみを味あう。そして最後に妻は愛人の男と結託して彼を殺す。その後でチャペックは、この彼の無理強いの死が、いかなるものであったかという問題を開示する。そして尋問や法廷審理の過程で、人間の行為の真の動機を認識することの難しさを示し、ホルドバルという人物は何となくうやむやになってしまう。
 『流れ星』(Povetron)は元来は、いろいろな角度から、いろいろな目によって見られた謎の同一人物にかんする三つの物語である。物語の対象となるのは飛行機とともに墜落し、病院で身元不明のまま死んでいく未知の男である。数人の人物 修道女、千里眼、それに詩人 が各自、自分の想像力で彼の物語を再構成していく。このロマンは三部作のなかで最高傑作である。
 『平凡な人生』(Obycejny zivot)はある平凡な鉄道職員の生涯が簡単に回想される。ここには主人公自身が登場する。彼は老年にいたって自伝を書いている。そして一見、平凡に思える自分の生涯の複雑さに気づき、自分自身のなかに幾種類かの性格、エリート主義者、詩人、世俗的学者気取り、ロマンチストなどを発見する。
 このようにチャペックは真理の多元性を発見するが、一義的な解決を発見するだけでは満足しない。登場人物にかんして言えることは、そのすべてがエロティックなペシミズムに結びついているということである。これはチャペックの全体に言える特徴である。この特徴は事実、彼の広範な仕事の全領域について言えることであり、そのなかに作者の社会関係についての確信のなさの反映を見ることが可能である。
 チャペックが三部作を完了した時代に、わが国では反ファシスト戦線が結成され、チャペックも民主的自由を守るという名目で反ファシスト闘争に参加した。これまで長い間抽象的だった彼のヒューマニズムが今や具体的内容を獲得したのである。このことは彼のこの後の作品に現れてくる。口火を切ったのはロマン『山椒魚戦争』(Valka s mloky,1936)である。この作品はまたもユートピアであるが、今度はのは霞のようなヒューマニズムに堕してはいない。むしろ具体的目的と意図をもっている。つまりドイツ・ファシズムにたいする批判である。この世界支配の野望は、一見、無害で有益な外見をしているが、徐々に人類を抹殺していく山椒魚の繁殖に象徴されている。批判は資本主義世界の倫理観、その利己主義、煽動性の暴露に向けられている。また同様にファシズムの群衆性とファシズムから人間の文化にたいしてもたらされる危険性の暴露にも向けられた。事件描写の姿勢は風刺的で、表現様式の面からはパロディーに属する。
 拡大するナチズムの緊張した状況のなかで、チャペックはすでに――20年代の彼のユートピアのなかでと同様に――「生命」の勝利のなかに問題の回答を見出せなかった。そして逆に、人間自身が現在の世界の矛盾を解決すべき現実的力の必要を意識しはじめたのである。そのことが彼の目を労働者階級へと向けさせ、また反ファシズム闘争へと向かわせたのであった。ロマン『第一救助隊』(Prvni parta,1937)では、物語は鉱山という環境に置かれる。そして彼はそこで鉱山事故に遭遇した労働者の救済に際しての人々の連帯と勇気を賛美すると同時に、勇気の喪失に立ち向かうことの可能なことを示している。彼の社会を見る目は常に階級に区分された全体としての見方に陥りがちではあるが、それにもかかわらず具体的形象を獲得している。連帯の強調は第二次世界大戦が近付き、わが国が直接的な脅威を受けているまさにその時にあって、とりわけ重要な問題であった。この時期にチャペックは『白い病気』(Bila nemoc,1937 )と『母』(Matka,1938)という二つのドラマにおいて彼の政治参加の作品への道程のピークに達したのである。
 戯曲『白い病気』は世界支配を目論むファシスト独裁者と働くヒューマニズム(delna humanita)を象徴する平凡な医者ガレーン(Galen )との対立の上に築かれている。独裁者はある種の新時代病ともいえる「白い病気」にかかって回復の望みはない。そこで独裁者は治療薬を発見したガレーンの、もし戦争計画を断念するならば治療をすることもやぶさかでないいう申し出に、遂に死の恐怖に駆られて同意する。しかし、ガレーンは独裁者を救おうと急ぐ、まさにその時に、デモの群衆に踏み殺される なぜなら熱狂的な群衆とともに戦争万歳を叫ぼうとしなかったから 。戯曲は独裁制と群衆の熱狂の危険を指摘している。しかし、たとえチャペックが人類にとっての煽動(デマゴギー)の危険性を迫真的に描いたとしても、依然として迫りくる危険にたいして積極的に反抗して立ち上がることの必要性を示してはいなかった。
 その地点へチャペックは、最後の戯曲『母』になって到達する。ここで彼のヒューマニズムのこれまでの消極性は影をひそめている。チャペックは人間への愛は八方に笑顔を向けることではなく、積極的であらねばならない。そして悪にたいしては抵抗し、非人道的なものにたいして戦う勇気を人間はもたなければならないということを認識した。そのことは四人の子供を失い、最後に残された息子をまさに嫉妬でもするように見張る母親に象徴させている。しかし、敵の飛行機が幼い子供にまで銃撃をあびせたと知ったとき、母は自ら最後の息子の手に銃を押しつけるのである。
 チャペックの最後のロマン『作曲家フォルティーンの生涯と作品』(Zivot a dilo skladatele Foltyna )は芸術の使命の問題を解こうとしているが未完成に終わった。主人公については他の人間が語り、作者自身は証言の記録者の機能を果たしながら背景に控えているという点で、技法的には『流れ星』に近い。主人公は独りよがりの芸術ディレッタントであり、有名になろうとしてあくせくとする。しかし芸術的には無能で、自分ばかりか自分の周囲をも欺く。しかし、いろいろな側面からの視線はここでは『流れ星』の場合にもっていたのとは正反対の機能をはたしている。つまり、いろいろな証言は人物の性格の
一義性を証明するのだ。したがって、ここで問題となるのは人間の内面における幾つかの「私」を暴露することではなく、そん正体の暴露にあるのである。
 30年代にチャペックは旅行記的小文をも続けて書いた(『スペイン旅行』Vylet do Spaniel、『オランダ風景』Obrazy z Holandska、『北国への旅』Cesta na Sever)さらには、また「もっとも身近なことども」にも目を向けた(『園芸家12カ月』Zahradnikuv roku、『わたしは犬と猫を飼っていた』Mel jsem psa a kocku)。しかしまた文学についても思索した(『マルシアス、または、文学の周辺』Marsyas cili Na okraj literatury,1931 、『何がどう出来るか』Jak se co dela,1938 )。ジャーナリストとしては何百ものコラムや評論を書いた。そのなかの幾つかのものは彼のプランに従ってミロスラフ・ハリークがまとめた。子供のためにチャペックは『九編の童話とヨゼフ・チャペックのおまけの一編』(Devatero pohadek a jeste jedna od J.Capka jako privazek,1932)を書いた。


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 (27)30年代の演劇


 演劇生活のなかで――もちろん一時的意味しかない商業的娯楽作品を除くなら――もっとも大きな成功を収めたのはカレル・チャペックと Fr.ランゲルの戯曲である。この二人の作家はどちらも以前は共通のプラグマティズムを基盤にしていたのだが、別の道に進んだ。ランゲルは本質的に、常に政府政策のスポークスマンであり続けたが、それは『騎馬巡邏隊』(Jizdni hlidka,1935)が示した通りであり、しかも他の作品においても20年代に告白したのと(『七十二』Dvaasedmdesatka 、『私たちのなかの天使』Andele mezi nami)事実上、同じ線上にとどまった。それに反してチャペックは以前のプラグマティズム的ヒューマニズムを戯曲『母』において克服した。
 以上の関連のなかでは、一見、小規模な前衛的舞台の仕事が見失われているように思われるだろう。それは俳優そして戯曲の作者としてのイジー・ヴォスコヴェッツ(Jiri Voskovec 、本名ヴァックスマン Wachsman )とヤン・ヴェリッヒ(Jan Werich。いずれも1905年の生れ)や作曲家ヤロスラフ・エジェク(Jaroslav Jezek)、それにまた、E.F.ブリアン(Burian)の劇場 D34などがその性格を特徴づけている「解放劇場」(Osvobozene divadlo;1925 年から)のことである。しかし社会発展の視点から見るならば、まさにこのアヴァンギャルドこそ、最も大きな意義をもっているのである。20年代のアヴァンギャルドの芝居は現実的な目的意識もそこにはいり込んで来はしたが(ネズヴァルの『キオスクの恋人たち』)概ね抒情的であった。そして30年代の戯曲になると非妥協的な姿勢や政治参加の意思によって特徴づけられる。例えば、有名な作家の作品のなかではヴァンチュラの戯曲『錬金術師』(Alchymista,1932 )や『ウケレヴェ湖』(Jezero Ukereve,1935 )が――後者はその反植民地主義によって――感銘を与えた。 「解放劇場」(30年代のこの劇場の性格を決定づけたのは演出家インドジフ・ホンズル Jindrich Honzl である)の反響はエジェクが曲をつけた劇中歌がいちはやく大衆的人気を博したことによって倍加された。これらの歌が広い大衆の口の端にのぼったというのは、その歌が大衆の気分や考えを的確につかんでいたからである。その上、解放劇場と結びついていた芸術家たちが映画でも活躍したからでもある。

 イジー・ヴォスコヴェッツとヤン・ヴェリッヒの20年代の幾本かの初期作品は当時流行のレビューの性格のものだった。それらは知的な言葉のコミックにもとづいていたが、同時に安逸な思想や旧弊な生活様式を茶化していた(『ヴェスト・ポケット・レビュー』Vest Pocket revue,1927;『タキシード・レビュー』Smoking revue,1928)。30年代の初めから、もともと遊戯的ポエティズムは政治参加の演劇に転換していく。この発展段階の口火を切ったのは戯曲『シーザ−』(Caesar,1932 )である。解放劇場はいまや大きな政治事件に反応した(イタリアのアビシニア攻撃、汚職事件)そして当時の政府の権力をあまりにも挑発したので、国内の反動勢力は戯曲『気違いと首きり役人』(Kat a blazen,1934 )のあと、一時的に劇場の閉鎖を強制するほどだった。解放劇場の防衛のために(その劇団は一時「つながれた劇場」Spoutane divadlo として代わりのホールで公演していた)進歩的文化戦線が結成された。解放劇場の政治参加の小例として『シーザー』のなかの二人の囚人の対話の部分を転載しよう。ここには反ファシズム的辛辣さだけでなく、劇中歌と言葉遊びの楽しさが見られる。


 バブルス 失礼ですが、何の罪でおぶちこまれで?
 ブルヴァ おお、市民よ、イデアのせいです。私はローマの自由市民です。だから、ここにぶちこまれた――!
 パブルス おお、私とて市民です。しかも自由なる。しかして、かつ、ぶちこまれたる
 ブルヴァ 友よ、共に、オイッチ、ニッ、サン。
 二  人 ププイ、プイ!
 パブルス こうなったのも、実は、壁に書いちまったからなんです!
 ブルヴァ なんてこと! 私も書いたのですよ。で、あなたは何を?
 パプルス ブルータス! と書いたのです、壁に。
 ブルヴァ そりゃあ、ひどい。元老院長の名前を書いただけで監獄行きとは!
 パブルス じゃあ、あなた、ププイ、プイ! あなたも無実の罪で?
 ブルヴァ その点では、あなたのほうが気の毒だ! 私は少なくとも悪口を書いたのです、泥棒って。これを私は大声で叫んで罪を着せたのです! それにひきかえ、あなたは、単にブルータスという名前を書いたばっかりに!
 パプルス ただ、そこにちょっとばかり問題があるのです! 私はそのブルータスをあなたの書かれた泥棒の前に書いたのです!
 ブルヴァ それじゃ、私らは協力者というわけで……
 パプルス かくして、われらは共牢者!
 ブルヴァ あなたも、ご自分でおっしゃいよ、共著者と。それがローマの公平というやつじゃありませんか?
 パプルス それが出版の自由ですか。壁に泥棒と書いてはいけないというのに?
 ブルヴァとパプルス 「市民の行進」を歌う。

 (1)

名誉よりも沢山
野の草よりも沢山
市民の自由はある!
それを監獄に閉じこめるなんて
誰にもできない
自由はくじけない

(くり返し)

くびきも鎖も捕り縄も
われらには利かぬ
鎖はさびる
それに自由は鎖につなげない!
それをしばろうなんて無理なこと
いつでも、引きちぎることができるさ
この頭で!
鎖はさびる
古鉄なんて、われらには役に立たない!

 (2)

われらはこの隅に座っている
手足をつながれて
しかし自由に考える
この頭があるかぎり
頭のなかから歌をうたおう
座って、横になって、立ちあがって

(くり返し)

 パプルス 気にいりましたよ。あなたがそんな風に意識的に自分の運命を操っておられるとはね!
 ブルヴァ 私もあんたに刺激されましたよ! この堂々と構えた姿、奴隷のごとく誇りに満ちた顔。まさにダリボルだ!
 パプルス いやあ、とんでもない! 私はパプルスです。よく、御覧なさい。どう見たって、私は囚人のローマ人でしょうが!
 ブルヴァ これはどうも。あっしはブルヴァと称するケチな野郎で。じゃあ、これが古代文明か!
 パプルス これを御覧なさい。私は激しい怒りを覚えます!(死んだネズミをつまみ上げる)ペッ、とぶネズミだ! 
 ブルヴァ しかも死んでいる。ねえ、君、ここじゃネズミさえ生きちゃいられないんだ!
 パプルス (ネズミを投げ捨てる)どっちみち、ここにいちゃあ長くはありませんな。
   ブルヴァ そりゃ、わたしだって同じでしょう。私もここから出られやしません。私はここで自分の思想のために頑張りますよ。
 パプルス 私は思想のために頑張るのがいやだから言うんじゃありませんぞ! だがね、私は他人の思想で苦しむのは御免ですな!
 ブルヴァ 私だって、自分が楽しみたいときは自分流に楽しみますね!
 パプルス 自分流という点じゃ、まったく同感ですなあ!
 ブルヴァ 私だってそのためになら、飢え死にしたってかまいませんや。どっかり
座りこんで――ここから逃げ出すなんて無理ですからね――ここで腐敗してやりますよ。
 パプルス やつらに向かって、化学反応の過程を見せてやるわけですな。そいつはいい。飢え死にしましょうや。ところで、ここの食いものは上等ですかね?
 ブルヴァ いいですか、やつらが私をここへしょっぴいて来たときに張り出されていたメニューを見ましたがね、何と書いてあったとおもいます……? ヘッ、一目で了解、パンと水だと!


 おもに戯曲『ロバと影』Osel a stin 『狂人と首切り役人』Kat a blazen『地上の天国』Nebe na zemi『裏と表』Rub a lic 『重たいバルボラ』Tezka Barbora および『目の上のたんこぶ、または、シーザーの終曲』Pest na oko aneb Caesarovo finale などの作品は『シーザー』と同一線上に連なっている。1938年、反動派の圧力で劇場は閉鎖された。ヴォスコヴェッツとヴェリッヒの歌の選集は独立した版『繁みのなかの帽子』(Klobouk ve krovi,1964 )のなかに追加して出版された。

 30年代にエミル・フランティシェク・ブリアン(Emil Frantisek Burian )の劇場D34(数字は変わり、シーズンの終わりの年数を示した)は「解放劇場」に参画した。E.F.ブリアン(1904-1959)はバリトン歌手エミル・ブリアンの息子として芸術的雰囲気のなかで育った。彼の活動は多方面にわたり、俳優、歌手、作曲家、詩人、散文家、劇作家として活躍した。彼はレシタチーヴォ合唱団『ボイスバンド』によって国際的な成功を納め、その成功はD34 との巡業の際、一層大きくなった。彼はプラハ以外での活動(ブルノ、オロモウツ)によっても経験を積んだ。ドイツの占領者たちによって劇場は1941年に閉鎖され、ブリアンは強制収容所に入れられた。解放後、劇場はD46 として再生した。
 ブリアンはとくに劇化に秀でていた。だから30年代には K.ノヴィーのロマン『私たちは生きたい』、ハシェクの『善良なる兵士シュヴェイク』、プーシキンの『エフゲニ・オニェーギン』やゲーテの『若きヴェルテルの悩み』などを劇化した。またマーハのマーイ』やヴィヨンの詩なども上演して成功した。彼は『民衆組曲』(Lidove svity,第一集、1938、第二集、1938)と名付けられた民衆歌謡やドラマからモンタージュ作品において、美学的かつ思想的価値の創造者としての民衆歌謡に注目をうながした。とくに占領の初期にこれらの組曲を通してわが国の民衆が「白山後」期に正義にたいする願望と権力の保持者にたいする抵抗を表現しえたかを示した。
 解放後、ブリアンは30年代の彼の活動を続けたが、もはや、かつての彼自身の意義に達することはできなかった。

*訳注・ ダリボル(Dalibor,1498年3 月没)チェコの騎士、地上の平和を乱したかどでプラハ城の牢獄に投獄される(ダリボルカの由来)。死刑を宣告され、処刑される。彼の人格、牢獄での生活にかんしては多くの伝説が生れ、文学、音楽作品の題材となった(例えば、B.スメタナの『ダリボル』)


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 (28) 占領から勝利の二月への政治的進展

 チェコの領土を割譲するというミュヘン会談(これにスロバキアまで分割するウィーン調停が追加された)直後に、その結果として、国内に激烈なファシズム化をもたらした。1938年10月21日にはすでにチェコ共産党の活動が停止させられ、今やヒットラー到来の土壌すら形成された。非合法の枠のなかに押し込まれたチェコ共産党はあらゆる手段を講じて民主的自由の余地が多少なりとも残されるようにと努力したが無理だった。国家的自立はドイツ軍によるチェコ領土の残りの部分の占領と、いわゆるチェコおよびモラヴァの保護領宣言、さらに、それと同時的なスロバキア国の建国によって終わった。
 こうして諸々の事件が立て続けに起った。1939年9月にファシスト・ドイツ国はポーランドに襲いかかり、イギリスとフランスのドイツにたいする宣戦布告がなされた。ヒットラー軍はムッソリーニのファシスト・イタリーの協力と、合衆国をも戦争に引きずりこんだ日本にも支持されながら次々と領土を占領していった。1941年のソ連の反撃はファシズムの進展の終わりの始まりを意味した。ドイツは「電撃作戦」の腹づもりであったが、戦争は1945年5月まで引き延ばされ、赤軍によるベルリン占領で終結した。
 チェコ領土内におけるヒットラーの計画はチェコ住民の一部をゲルマン化して「人種的に不適当」な大部分のチェコ人を追放することであったが、ファシズムにたいする反抗に団結したチェコ民衆の頑強な抵抗にぶっつかった。だが、国内の抵抗にも二つの概念が相互に対立していた。その一つはクレメント・ゴットワルトの率いるチェコ共産党によって推進されるコミュニズムの概念(コンセプト)であり、他の一つはイギリスに亡命政権を設立した E.ベネシュによって指導されるブルジョア的概念だった。両概念の主な違いは、コミュニスト派がブルジョア政治体制への逆もどりを拒否した点であり、発展の経過はゴットワルトの概念を正当とした。
 ソ連軍の反撃の後に、ファシズムの侵略に対抗すべく西側民主勢力の同盟が結ばれ、それとの関連してロンドン政府の対外政策にも変化が起こった。1941年7月18日、ソビエト政府はチェコスロバキア亡命政府と1935年の協定を更新する条約を結び、ソビエト連邦内に新しいチェコスロバキア軍が結成された。そして1943年12月12日、E.ベネシュはモスクワにおいて相互援助と戦後の協力にかんする条約に署名した。一方、国内での抵抗も激化し、パルチザン部隊が組織された。そして1944年にはスロバキ
アの民族蜂起が起こった。ファシストたちは蜂起者たちを10月の終わりには山のなかに押しこんでしまったものの、1945年1月にはコシツェが解放され、4月4日には(ブラチスラヴァ解放の日)コシツェで新政府の綱領が布告され、これまでのわが国の社会秩序の転換への出発点となった。
 東からも西からも圧迫されたファシストの最後の防衛線はプラハということになったが、それを阻止したのは5月5日に起こった民衆の蜂起だった。ソ連軍は猛進撃によってプ
ラハを解放し、5月10日に大統領 E.ベネシュに率いられる新政府が到着した。
 解放された国家のなかで、共産党はブルジョアの経済力を破壊すべき一連の法令の制定にこぎつけた。1946年3月8日、第8回チェコ共産党大会が招集され、5月の選挙で38%の票を獲得し、社会民主党とともに議会で絶対多数を得た。しかしブルジョア階級は1920年代の再現を企てる恐れがあった。国内の反動は実際、積極的となり、1948年2月には政府の危機を呼び起こした。しかし中小の自作農民に支援された労働者層はこの攻撃を打破し、2月25日、E.ベネシュはクレメント・ゴットワルトを主班とする新政府の組閣を命じた。その後、5月にはゴットワルトが大統領に選ばれ、社会民主党と共産党との合併が成立した。これによって、わが国における社会主義の建設への道が整えられた。かくて一つの歴史の時代が幕を閉じ、新しい時代の幕開けとなった。


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  (29)占領時代の文化活動                          


 占領時代の文化活動は真綿で首を締められている生け贄のような苦しい生活と性格づけることができよう。それにもかかわらず占領者たちが「ヨーロッパの新秩序」を正当化するような積極的協力文学を生み出すことができなかったことがせめてもの明るい材料だった。二三の憂うべき試みがあったが、大概は本の形で出版されず、例外にすぎなかった。その代わり弾圧は厳しくなった。第一段階ではユダヤ系の作家の作品が図書館や本屋から閉め出された。当然のことながらユダヤ人の作家はまったく出版が許されなかった。
 ポラーチェクは最後のロマン『「石の卓のそば」という名の酒場』を出版したが、それは Vl.ラダが著者として署名したおかげだった。同じように計画に従ってファシズムの敵として、またはコミュニストとして指名された進歩的な作家も文化生活から閉め出された。
 カレル・チャペックは国内の反動勢力に迫害されて1938年に死んでいた。その後、彼の著作は内緒で出版されていたが、1941年にはマエロヴァー、オルブラフト、ノイマン、ネズヴァルの著書とともに禁書となった。ヴァンチュラ、フチーク、ヴァーツラヴェク、コンラッド、ウルクス、Jar.クラトフヴィール、ポラーチェク、その他は刑場や牢獄、あるいは強制収容所で死に、その他の何十人もが投獄され、そのなかの何人かは国外逃亡に成功した。こうして、私たちは民族の知性の最良の部分を切り取られてしまった。とくに――50年代において示されたように――理論的前衛が痛手を受けたのである。
 攻撃は当然のことながら、その他の組織にも向けられた。とくに学校に。大学は1939年11月17日にすでに閉鎖され、中学校でもその数は徐々に減少していったが、数科目だけ、しかもドイツ語で教えられていた。その上、何パーセントの学生が卒業の際、ふるい落とされなければならないか、前もって決められており、しかも中学校には「人種的にふさわしい」子供だけが入学できたのである。
 情報手段にたいする干渉は驚くと同時に異常であり、その影響は今日にも及んでいる。放送は二カ国語であり、厳しく検閲され、制限された日刊紙では、例えば、ヴィーデンViden )というチェコ語の名称は使用してはならず、ウィーン(Wien)という表記だけがもちいれれ、同様にズノイモ(Znojmo)はズナイム(Znaim)、ブジェスラフ(Breslav )はルンデンブルク(Lundenburg)、リベレッツ(Liberec )はライヘンベルク(Reichenberg )と書かれた。劇場におけるチェコ語上演は制限され、幾つかの劇場の建物は完全にチェコ人から取りあげられた。最後には劇場の公演は完全に禁止された。
 このような状況下にあって、文化生活のなかの三つの方向について注目してみよう。
第一の方向は過去への回帰と祖国の賛美に代表される。この二つの確信から勇気を鼓舞されたが、その場合、方向としてはアレゴリカルなものを目指した。
第二の方向は人間の内面に向けられた。
第三の方向は「引き出しのなか」の著作であり、戦争が終わってから出版社に渡すという計算だった。こうして異常な状況が始まった。民族が実際に生きているその状況は出版されなかった。出版された文学は現実の生活の情景ではありえず、真の情景はアレゴリーの網の目のなかに探さねばならなかった。
 ユリウス・フチークのジャーナリスト活動は民族の過去への回帰の一例である。彼はまさにこの運命的日々に、文化遺産の意義について深く思考し、とりわけエッセイ『戦うボジェナ・ニェムツォヴァー』(Bozena Nemcova bojujici )を書いたのである。この同一線上にヴアンチエラの『情景』(Obrazy)やオルブラフトの書『古い年代記から』(Ze stary letopisu)がある。そして古典的作家たちも改めて出版されたが、その選択には制約があり、編集段階で削除され、「改善」された。その例としてマーハの詩『指導者は死んだ』(Vudce zhynul)は『わが主人は死んだ』(Pan nas zhynuI)に訂正された。もしかしたらヒットラーヘのあてこすりと誰かが見かねないからだった。古典とならんで民衆詩も出版された(この関連に属するものとしては16−18世紀の民衆読物からのヴアーツラヴェクによるアンソロジー『慰めと気晴らしの物語』(Historie utesene a kratochviIne)と彼の研究論文『チェコ文学発展のなかでの民衆文学』(Lidove sIovesnost v cheskem vyvoji literaturnimがある)。
古い文学にたいする関心が強まり、文庫『チェコの過去の遺産』(Odkaz minulosti ceske)と『民族の宝石箱』(Narodni klenotnice)が創刊された。しかしここでも検閲が災いした。そしてチェコの民族性を強め、民族の力にたいする自身を保たせるはずのわれわれの過去への関心の喚起のこの努力の背後には反動的発展の線の復活の目論見もあったのである。とくにこのことはバロックの超自然的要素にたいするカトリック的賛美に当てはまる。
 アレゴリーの意味は、とくに民族文化の創造者たちや象徴などに捧げられた詩がもった。このような意味をもったのは、たとえばハラスの書『われらがポジェナ・ニェムツオヴァー夫人』(Nase pani Bozena Nemcova)や、あるいはサイフェルトの『ポジェナ・ニュムツオヴァーの扇』(Vejir Bozeny Nemcove)である。わが国の芸術の偉大な人物にかんする独自の詩をどんな詩人も書いていることがわかっる。プラハ賛美も同様のアレゴリカルな意義を得ている。例えば、サイフェルトの作品『光に装う(プラハ)』(Svetlem odena)や祖国への帰還にかんする詩(ホラの講『ヴァイオリニスト・ヤン』)などである。この関連のなかに加えられるのは、偉大なチェコ人たちについての伝記ロマンである。とくに大きな人気を博したのは、パリに住みついたチェコ人のパントマイムの名人にかんするFr.コジーク(Kozik,1909生れ)のロマン『もっとも偉大なピエロ』(Nejvetsi z pierotu,1939)であった。この散文作品は外国の例にならってわが国でも30年代から育ってきた伝記ロマンの流れによってもたらされた。これらの伝記ロマンに対抗するのが歴史散文作品であった。その先頭に立つのがロマン『孤独な闘将』(Osamely rvac,1941;ルドルフIIの将軍ルスウオルムにかんするもの)の作者M.V.クラトフゲィール(Kratochvil,1904年生れ)と少し年長の作家、短編小説の名匠 Fr.クプカ(Kubka,1849年生れ。『カルルシュティン前夜祭』Karlstejnske vigilie,1944)である。
 相対的に最も多くの自由を保存していたのは人間の内面生活にかかわる文学だった。これは抒情詩に一番よく出ている。内面的主題への人気は部分的には自由に自己を発展させえない人間の問題を解いていること、したがって、小市民的生活環境にある多くの読者の生活感情に応えているということと関連している。このことから見れば、この種の作品は個人の孤立化へ導くから支配者側のファシズムには最も危険の少ないものだった。

 カミル・ベドナーシュ(Kami1 Bednar,1912−1972)は若い世代の詩人を組織しようとつとめた。彼は1937年に詩集『舗装道路の石』(Kamen v dlzbe)でデビューして、その後1939−1944年の間に数冊の詩集を矢継ぎ早に発表した(『青の恋人』Milenka nodr、『年』Rok、『石の涙』Kamenny plac、『大きな死者』 Velky mrtvy、『世界のすぺての婚礼のあとで』Po vsech svatbach sveta、『裸足の空』Bose ob1ohy、『池の水面』HIadiny tuni、『愛の歌』Pisen fasky)。彼は小冊子『青年への言葉』(Slovo k mladym, 1940)のなかで彼の努力を秩序立てて述べている。そしてエッセイ『青年への言葉の反響』(Ohlasy slova k mladym,1941)がこれに続く。彼はここで観念性(ideo1ogicnost)に反発を表明し、孤立した個人の感情のなかで実体化された「永遠の」価値に注意を集中する必要のあると宣言した。彼は人間をその「永遠の」本質へ還元しようとつとめ、「裸の」人間を描こうとしたのである。主要なテーマは不安と孤独の感情となった。それはドイツやまたは占領地へ強制労働に狩り出され、その地でしばしば彼らを待ち受けているのは空爆による死であるというような、未来の展望などといったもののなくなった若者に理解しうる感情だった。
 ぺドナーシュの世代で最も才能に恵まれ、その重要性においてベドナーシュをはるかに凌ぎ、解放後は新しい方向へ発展したのはフランティシュク・フルビーン(Frantisek Hrubin,1910−1971、プラハ出身、役人、後に職業作家で出版編集者)である。30年代の初めから出版された初期の詩集の主力は内面抒情詩にあった(『遠くからの歌声』Zpivano z dalky,1933;『貧しくとも美しき娘』Krasna po chudobe,1935――両詩集は1947年に改訂版が出た――および『真昼どきの国』Zeme po polednach,1937)。占領時代に書かれた抒情詩は一連の詩集をふくみ、その重要なものは解放後出版された全集『墓と太陽の歌』(Zpev hrob a slunce,1947)に収められた。そして、この抒情詩のなかで生れ故郷への愛情の確信を探求している。しかし、人間は自ら自分の運命を創造しなければならないということも自覚している。たとえば、そのことをチクルス『妻のための小歌』(Pisne pro zenu)のなかの次の詩が表現している。


わたしがくり返し歌ったこと
熱い思いの歌のすべては
こまかくもみ砕かれた籾穀の埃のように
額のしわのなかに隠れてしまった

だが、おまえが子供を寝かしつけているあいだに
今日、わたしがうたっている歌が
おまえをうっとりさせないならば
そんな歌をうたい続けることには耐えられない

花のほうへ身をかがめるように、おまえのほうに身を寄せて
これからの日々のことを、改めて自問している
ぼくらの運命を泥をこねて作ろうか、それとも
鉄をとかして鋳物で作ろうか?


 フルビーンの詩はその旋律性によって、最も人を魅了した。フルビーンは明確な意識をもって言葉をもちい、またそれゆえにチェコ語がその自らの美しさを彼の作品のなかに示しているという、そういう詩人の一人だった。そのことは、ドイツ化とすべての非ドイツ的なものを軽視する人種的な発想が強まった占領時代の、言語的圧迫がだんだんと強化されていた時だけに一層重要であった。チェコ語の美しさの強調ほ民族の誇りを鼓舞し、それはまたゲルマン化にたいする抵抗の表明の一つだった。完全な韻律形式、メロディックな脚韻(ライム)そして言葉の正しさにたいする感覚は、適確な表現技巧とあいまって、子供のための詩人としての成功をも条件づけている。フルビーンはここでは民話的作品に依拠した作家として現れた(『わたしと話し合いましょう』Rikejte sise mnou,1943)彼はスラーデク以後の児童文学の最大の詩人となったのである。彼の詩にほ解放にいたるまでの強い精神主義的要素と、かつ宗教的性格があった。彼は解放後に完全な円熟の境地に達する。その時期の作品には、この後で、もう一度戻ることにしよう。
 ロマン主義世代がマーハをもち、デカダントがフラヴアーチェクを、そしてプロレタリア詩がヴォルケルをもったように、占領初期に成人に達した若者の気持ちを最も純粋な方法で表現したのはイジー・オルテン(Jiri Orten、本名オーレンシュタインOhrenstein)である。
 彼は1919年にクトナー・ホラで生れた。プラハ音楽院に学んだがユダヤ人という人種的理由で排除された。彼ほ強制収容所に入れられ、早世した。1941年だった。彼は生前に詩集『抜粋詩集・春』(Citanka jaro,1939、K. イーレクの筆名で)、『白霜への道』(Cesta k mrazu,1940、同じ筆名で)、『エレミヤの涙』(Jeremasuv plac,1941)およぴ『なずな』(Ohnice,1941――最後の二作品の筆名はJ.Jakub)この他にも多くの手稿を残している。1947年に、彼の『作品』(Dilo)が全集として出版された。次にあげる詩はオルテンの特徴を示している。


死ぬことって、お父さん、誰にだって似合わないよね
足音も聞こえなければ、思いも、感じもしない
死ぬことって、何も言わず、ただ、じっと横になっているだけ
永久に奪われ、おしまいになること、そして、もつこと

もつこと、少なくとも、そういうもの、少なくとも最も信頼できるものを
自分の自由な無為を、腐敗することを、夢見る
美しい骨になる。独りになる、もっと無口になる
正確に中心になる、時間になる、庭になる。

女性たちのために死ぬ、友だちのために死ぬ
心配のために死ぬ、死者たちのために死ぬ
そうなること、そうとも、そういう風になること、そのように完全に、まったっく
そうして、なにも見ることができない、木の葉と呼ばれているものをも


 人生にたいするオルテンの姿勢は彼の世代層の大部分に典型的であった。しかし、オステンの詩法に近かった詩人たちのうち、独自の時代表現によってただ一人、ヤン・ピラーシュのみが抜きんでている。ヤン・ピラーシュ(Jan Pilar,1917年生)は1939年に詩集『りんご園』(Jablonovy sd)でデビューし、その後1940−1944年までのあいだに5編の詩集を次々に出版した。内面的詩にすぐれ、またポーランド、ロシア、ブルガリア、スペイン語の翻訳者としてもすぐれていた。彼は解放の後までも完全に成長した。

 散文においてはミロスラフ・ハヌシュ(Miloslav Hanus,1907 年プラハ生れ)が占領時代の生活感情の代表的表現者だった。占領中、五編の大規模な心理ロマン(例えば、『線路上の霧』Na trati je mlha、『パヴェルとゲルトルーダ』Pavel a Gertruda など、そのなかでも最高の作品は『劣等感』Menecennost.1942 である)それに数編の短編を出版した。彼のロマンはある人物にかんする集中的研究であり、果てしなく広がっていく。 作者の関心をとくに引いたのは個人がそのなかで個人の自由を得たいと望む近代社会と、その個人との関係であった。そして後の作品では市民的社会秩序のなかでは個人の自由はありえないということに気づき、社会主義へ接近しようと努力する(『トマーシュにかんするレゲンド』Legenda o Tomasovi,1947 )。彼の最もよい作品は J.A. コメンスキーにつてのものである。それらのロマンは『民族の運命』(Osud naroda,1957)と『アムステルダムの放浪者』(Poutnik v Amsterodamu,1960)である。心理ロマンはまたヴァーツラフ・ジェザーチュ(Vaclav Rezac,1901-1956)にとっても解決の糸口であった。しかし彼はその後の発展段階において社会主義リアリズムに到達し、初期作品の一つで解放後の最初の年月における建設の努力を描いている。彼はプラハの労働者の家庭の出であり、実業学校を出たあと役人となり、後には編集者となった。30年代にデビューした。最初に出したのは若者向けの二冊の本で、その後ロマン『風の種蒔き』(Vetrna setba,1935 )のなかで第一次世界大戦中に成長した世代の体験を描いた。また『袋小路』(Slepa ulicka,1938 )という作品では工場経営者と労働者の家庭との相互に対立する社会ロマンを試みた。ここでは心理主義からすでに典型化へと進んでいる。占領中、三つの作品『ブラック・ライト』(Cerne svetlo)『証人』(Svedek)『境界』(Rozhrani)においてチェコの心理ロマンを頂点にまで導いた。解放後、彼は現代および近過去の問題に社会主義レアリズムの手法を適用するロマンの主導者の一人となった。彼の作品『登場』(Nastup,1951 )と『戦闘』(Bitva,1954)は開拓移住についてのものであり、近代の政治参加文学の基盤となっている。そしてこれらの作品はわが国の50年代の作品に多くの刺激を与えた。
 心理主義ロマンと対称的地位を占めるのは、働く人々に注目し、リアリスティックな手法でチェコ人の生活を描いた作品である。文学現象としては、例えば、カレル・ドヴォジャーク(Karel Dvorak,1911-1945)のロマン『山へ続く畑』(Pole kraci do hor,1941)で激しい労働によって山の自然を征服する話である。ヤン・ドルダ(Jan Drda,1915-1970)のロマン『手のひらの上の小さな町』(Mestecko na dlani,1940)は小さな町の微細な人々の生活を描いている(舞台は小さな町ルカパーニュで、ドルダが生れたプシーブラム Pribram がモデルになっている)。ドルダのロマンでは現実と童話が混ざり合っているが、決して不自然にではなく、したがって物語は性格描写が弱められることもなく、独特の魅力を獲得している。エドワルト・バス(本名 E.Schmidt,1888-1946)の年代記『フンベルト・サーカス』(Cirkus Hunberto,1941)も反響を得た。この年代記はそのシチュエーションによっても魅了したが、世界各地のチェコ人の人間的連帯としたたかさを称揚したことも、その理由だった。その続編は短編『幌馬車隊の人々』(Lide z maringotek,1942)である。
 バスは古い世代に属する。おもしろいのは、何人かの古い世代の作家が自分の最もすぐれた作品を占領中に出版しているということである。例えば、J.ヨーンはロマン『賢いエンゲルベルト』(1940)を出版した。このなかで彼は「生きることの非芸術」(neumeni zit )を指摘し、アイロニカルな微笑をもって市民階級と貴族の世界を描いている。その他、晩年になって成功をかち得た作品にヨゼフ・シュテファン・クビーン(Josef Stefan Kubin,1864-1965)の短編がある。クビーンは長年、民俗学と方言学に携わってきた。そして文学の世界で活躍するのは70歳になってからである。彼の小説の特徴は語り口の楽しさである。クビーンの言葉は民衆の言葉、慣用句、口ぐせや格言の豊富さにもとづいている。彼の小説は楽天的ユーモアに満ちており、民衆の環境や民衆の心理の完全な知識によって魅了する。これらの「イヴィーン・ラプソディー」は(舞台がイヴィーン Jivin、つまり生れ故郷のイチンーン Jicin である)何巻かに分けて出版された。その初めのほうのものは『恐ろしい時』(Hrozna chvile )『頭上の閃光』(Blesky nad hlavou )および『嵐のなかの魂』(Srdce v bouri )である。しかし新しい何人かの名前も現れた。例えば、ヤロミール・トメチェク(1906年生れ)はカルパチアの自然を賛美する散文『銀色のひめます』(Stribrny lipan,1944 )を出版している。彼は今日になっても自然の主題にたいして忠実である。1941年にはヤン・コザーク(1921年生れ)やボフミル・ジーハ(1907年生れ)もデビューした。ジーハは後にチェコ農村の変化を描き(『二度の春』(Dve jara,1952 )、そしてコザークはスロバキア東部の農村の変化を描いた(『マリアナ・ラドヴァコヴァー』Mariana Radvakova,1962; 『こうのとりの巣』Capi hnizdo,1976)。
 占領時代の文学はチェコの民族性を表明しうる唯一の場であった。文学のなかではヴィーデニュをウィーンと言い直す必要はなく、文学のなかではアレゴリーの形で何でも暗示することができた。本はまた食糧のように配給ではなかった。本を読むときは読者は二種類の言語のタイトルを映画のときのように見る必要もなく、また不適当な場所で笑ってゲシュタポに連れ出されるのを恐れる必要もなかった。このチェコ文化の圧殺の時代に、それらがいかに文学的に作られたか、まさに驚嘆に値する――しかも、あらゆる制限、検閲の干渉、そしてある種のテーマ(フス運動、そしてドイツと戦争をおこなっている国々に共鳴するテーマ、あるいはユダヤ人にたいする同情など、反ファシズム的とみなされるものはすべて)は禁止されたにもかかわらずである。異常さはまさにこのテーマや思想の制限ということにあった。もちろん、書かれて引出しのなかにしまわれた作品もあったし、複写されて広まった反ファシズム詩もあった。禁止された本は密かに貸し出された。こうして無数の文学作品がチェコ人の民族意識と究極的勝利の信念を維持することに力を貸したのである。


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 (30)解放から二月へ

 解放後、文学生活は政治的闘争との緊密な結合のなかで形成されていった。まず最初に「引出し」の文学の波が現れ占領中は日の目を見なかった作品が出版された。その代表例が豊かな語り手ヴラヂミール・パゾウレク(Vladimir Pazoureku,1907 年生れ)の『国境からの後退』(Ustup z hranice,1946; ミュンヘン会談時代の話)である。その種の作品のなかで最も重要なのがフチークの『絞首台の上で書かれたレポート』である。第二の波はいわゆる強制収容所文学(koncentracnicka literatura)でショッキングな体験を綴ったものである。しかし惜しむらくは文学的価値よりはむしろ記録としての意義のほうが大きい。だが同時に、後の社会主義リアリズム文学の建設の基礎となるべき最初の作品がすでに現れている。赤軍による解放の事実に直接的に反応した作品がその先頭を切った。
 1946年のチェコ作家大会は解放後の数カ月の雰囲気を性格づけるものだった。大会の議題はもっぱら文学と人生との関係に集中した。たしかにここでも政治参加の作品と
「純粋な」詩との要求の間に対立があったのは事実である。しかし全体としてはこの大会は進歩的力の統一への努力として終わったのである。反動勢力が政治の領域で頭をもたげてくるのと同時に、文学の分野でも改めて差異が深まりはしたが、次の発展への決定づけとなったのは文学の領域でも「二月」であった。真先に個人の出版社が閉鎖され、それによって文学の領域での新しい文化政策の基礎が築かれた。最初の課題は進歩的文化遺産への接触を容易にすることだった。ニェムツォヴァー、ティル、イラーセク、ノイマン、ヴォルケル、その他の作品が体系的に大量に出版されはじめた。同時に、両大戦間時代にその姿勢のゆえに沈黙させられた作家へ接するための前提もつくられ、リアリズム作品は計画的に支援された。ここに新しい民衆英雄の創造と新しい問題性への道がひらかれた。文学は読者の思想教育と新しい社会秩序の建設を目指す努力の援助手段へと方向づけがなされ始めたのである。
 もちろん、多くの問題が解明される必要があったし、また新しい文化政策のためには広範な労働者の協力を必要とした。この場合、その役割を果たしたのが1948年春の民族文化会議である。この会議で社会主義を建設しつつある社会における文化の創造の今後の針路が提案された。その基本理念(ナーゾル)を完成するに当たっては批評が大きな役割を演ずるのだが、その批評は J. フチーク、B.ヴァーツラヴェク、K.コンラッド、あるいは E. ウルクスの占領時代における死によって極めて弱体化されていた。この過程において、非マルクス主義的理念の代表者たちの一部は文化生活から姿を消し、他はマルクス主義へと傾いていったなかにあって、主要な役割を演じたのは Zd.ネエドリーと L. シュトルであった。
 Zd. ネエドリーは雑誌「ヴァル」(Var,1948-1953 )を復刊させ、とくに文化伝統の正しい理解にかんしての基本を示した。彼は改めてニェムツォヴァーやイラーセクの意義を教え、ハーレクやスヴィェットラーにも多面的な視線を加えたが、そのすべてはわが国の文化の民衆性の視点からであった。文化問題の解明を目指したいろいろな著者の小論文はヴァル文庫によって紹介された。ラディスラフ・シュトル(Ladislav Stoll,1902 年生れ)はすでに30年代にわが国の文化問題に没頭していた(この時代の作品の補巻全集は『左翼戦線での戦いから』Z boju na leve fronte というタイトルで1964年に出版された)。解放後に重要な論文『チェコ思想にかんする戦い』(Zapas o ceske mysleni,1947)と『現実に顔つきあわせて』(Sktecnosti tvari v tvar,1948)を出版した。これらのなかでは主にリアリズムの問題が取り扱われている。彼の後期の作品のなかでは、さらに『チェコ社会主義詩のための30年の戦い』(Tricet let boju za ceskou socialistickou poezii,1950;1975 年に『詩人と希望』Basnik a nadeje として出版された)が思い出される。ここでは両大戦間のわが国の詩のリアリスティックな流れについて述べられており、論争的著作『言語芸術における形式と構成』(O tvar a strukturu v slovesnem umeni,1966 )と専攻論文『市民 F.X. シャルダ』(Obcan F.X.Salda,1977)もある。
 具体的な新しい芸術作品ということになると、占領抒情詩があげられる。この種の詩は文学生活の支配的要素として初めて名乗り出たものである。解放後の初期には、短命な幾つかのグループが現れたが(例えば、詩集『なずな』Ohnice を出版していた K. ベドナーシュを中心とするグループ、あるいは「グループ RA」はシュールレアリズムを復活させた。シュールレアリズムは戦争中「倒錯」芸術 zvrhle umeni として禁じられていたものである)。だが、やがて間もなく、今後の発展はリアリズムの流れだけが可能であることが証明されてくる。
 戦後の最初の数年間に詩の形で創作されたもののなかで最も価値の高いものは解放と結びついている。このジャンルに属するものでは、とくにヴラヂミール・ホラン(1905年プラハ生れ)の詩『ソビエト連邦にたいする感謝』(Dik Sovetskemu svazu)と『パニキダ』(Panychida )および詩集『赤軍の兵士たち』(Rudoarmejci )がある。もともとホランの表現には言語的デフォルマがあふれていて、周囲の世界から孤立しているとして、読者の目には「難解」な詩人、彼の言うことを理解するのは容易ではない詩人として映っていた。しかし、ここにあげた詩のなかでは説得力のある言葉によって語りかけ、全民族の感情を簡潔に表現している。実を言えば、彼の孤立性はスペイン戦争やミュンヘン会談などの事件を経ることによって、とっくに放棄されていたのである。この時期の詩『烏の羽』(Havranim brkem)という表題のもとにまとめられている。
 解放から湧きでる感情を表現する詩の同一線上に属する詩的発言は、他の詩人の作品にも見られる。ハラスの『バリケード』(Barikada)、ザーヴァダの『死人たちの蜂起』(Povstani z mrtvych)、プイマノヴァーの『喜びと悲しみ』(Radost i zal)などである。幾つかの詩集のなかには新しい詩と並んで、もうずっと以前に、とくに占領時代に書かれた詩も見出だされる。例えば、サイフェルトは『泥の鉄兜』(Prilba hliny)のなかで5月蜂起を賛美しているが、ここには詩集『八日間』(Osm dni,1937)、『灯火管制』(Zhasnete svetla,1938)から転載された詩の部分もある。フルビーンは三部からなる『パンと鋼鉄』(Chleb s oceli )を出版している。この詩の序詩はスターリングラードの戦いに端を発し『プラハのメーデー』(Prazsky maj )の部分で最高潮に達する。ノイマンは1939−1944年の間の詩を『汚染された年月』(Zamorena leta )のタイトルで出版した。
 活発な表現意欲の爆発にもかかわらず、社会主義詩は低迷していた。それは1947年には早くもノイマンが死亡しており、ネズヴァル、ビーブル、ザーヴァダも数年間沈黙する。ネズヴァルは1945年に古い風刺詩『ゴキブリたち』(Svabi,1939年6月作)を出版し、また1939年の『歴史の情景』(Historicky obraz)をふたたび、今回は拡充して出版したものの、彼の次の詩集『大天文時計』(Velky orloj )が出るのは1949年になってからである。
 フルビーンは1940−1950年までの詩をやっと1951年になって『不安なし』(Bez obav)というタイトルで出版したし、ザーヴァダは『光の町』(Mesto svetla)を1950年に出した。このようなわけで、まさにこの多難な時期に発展の持続がある程度損なわれ、その結果としてある種のブルガリズム(非洗練化)が広まり、ネズヴァルの詩集にたいする形式主義といういわれのない非難などがその一つの現れである。それはネエドリーがすでに警告していたヴルガリズム化であり、それにたいしてわが国の文化遺産の大切な部分をも守らなければならなかったのである。
 ホランについては解放が彼にいかに大きな衝撃を与え、また「二月」がいかに大きな影響を詩人たちに与えたかを見てきた。カイナル、フルビーンについても見てみよう。カイナルは解放後の最初の日々にその人物像が作り上げられた詩人の一人である。フルビーンは解放後、そしてとくに「二月」以後にその作風を根本的に変えた古い年長作家の一人である。

 ヨゼフ・カイナルは1917年にプシェロフ(Prerov)に生れた。プラハで哲学を学んでいたが、大学の閉鎖によって勉学の道を閉ざされた。その後いろいろな職業を転々として、最後に編集者(とくにブルノの「平等」Rovnost 誌)となり、職業作家となった。1971年に死亡。文学の世界には1940年に作品集『短編と小詩集』(Pribehy a mensi basne )で登場し、その後『新しい神話』(Nove myty,1946)『運命』(Osudy,1947)が続く。これらの三冊の本に共通する特徴は非詩化(depoetizace )と不条理化(absurdizace )である。この詩人は社会にたいして批判的な態度を保ち、社会を慣習にとらわれない目で見ようとする、まさにその努力によって、その社会の問題の核心に迫ろうとしたのだった。彼の表現はシュールレアリズムの要素をもっている。
 カイナルがもし「二月」まではリアリズム詩の外に立って実存的問題に集中的にとり組んでいたのだとしたら、「二月」以後は彼の現実にたいする姿勢は変化し、多分にマヤコフスキー(Majakovsky)の影響のもとに政治参加の詩を書いた(『大きな愛』Velika laska,1950 )。ここからは詩集『チェコ的な夢』(Cesky sen,1953)に代表されるような壮大化する詩への道は一直線である。カイナルの姿勢の変化の例として『新しい神話』のなかに収められた一編の詩からの一部と、次に『大きな愛』のなかの詩の一編を引用しよう。『新しい神話』からは『小さな男の子が髪を刈られた』(Strihali maleho chlapecka
)という詩の一部を選んだ。

小さな男の子が丸坊主に刈られ
髪の房は地面に落ちて死んでいる
髪の房はバラの花のように墓のなかへ落ち
鉄の椅子が回転した

壁にはまった鏡のなかの灰色の男たちは
じっと見つめている 見つめている
子供がもうつかまり なだめすかされて
首のまわりに白いエプロンを結わえつけられるのを

そのなかのひとり びっこの先生がチェロに向かう
声をあげて先生が笑う すると全員が身じろぎをする
声をあげて先生が笑う するとチェロがボンと鳴った
肉の塊のようにチェロが地面をドンと突いたとき

 ・・・・・

小さな子供が坊主にされた
自分を見ること 動いてはだめ
鉄の椅子の上で 動いてはだめ

もう、始まった。

 題材はまったくありふれた現実である。しかし、それをもとにしてカイナルが何かを語ろうとしているのがわかる。子供が動いてはいけない、そして「鉄の椅子につかまえられている散髪は、人生の悲しさとの最初の出会いである。これに反して詩『大きな汽車の罐焚き夫』(Topici velkych lokomotiv;1950年版を引用)まったく違った響きをもっている。

大きな汽車の罐焚き夫たちが
玉の汗を光らせて
こちらのほうにやってきては
この私に訴えた
――おれたちは慣れっこにはなれないね
野っぱらを
どんどん、どんどん、突っ走ることは
石炭をいっぱい積んで、猛スピードで
口もきかずに、突っ走ることは
それに胸には絶えずこの焼きつく熱さ
そして背には絶えずこの凍てつく寒さ
こんなものに慣れるなんて、絶対できはしない

同志たちよ――
   慣れる必要があるのかね?
みなさん、彼らはたしかにわれらが技師たちです
この火とも霜とも
ときには仲直りをするのです
でも、慣れるということは?
反発と、警戒と、勇気が
満ちているときは?
もし、全速力でも
十分な速さではないのだとしたら?

だから、君たちは大きな汽車の罐焚きなのだ
君たちが、慣れっこにならないために。

 50年代の終わりにカイナルは彼の古い詩の幾つかの要素にふたたび戻っていく。そしてふたたび悪と苦渋のモティーフが現れる(『私は苦渋に満ちて人間を愛する』Clovek horce mam rad,1959;『ラザロと小歌』Lazar a pisen,1960)。
 重要なのはカイナルのジャーナリストとしての活動である(韻文の文芸記事は同時代の出来事の既知に富んだ概括である)、また文章の詩への構成(これによってポピュラーな詩の水準を高める役割を果たした)と翻訳も重要である。彼はエルベンの童話にしたがって韻文劇『金髪姫』(Zlatovlaska )を子供のために書いた。叙事詩のような素材も子供のために書き直した。
 フランティシェク・フルビーンの作品における分岐点は詩『ヨブの夜』(Jobova noc,1945 )である。そのなかでフルビーンは「呪われた詩人たち」(彼にとってはヴェルレーヌがその典型である)が提示したような人間タイプから、社会の進歩的勢力への積極的かかわりへの変容を描いている。しかし核戦争の恐怖はこの詩人を人類の運命にかんする心配へと駆り立てた。この不安は詩集『この上もなく美しい人生』(Nesmirny krasny zivot,1947)のなかに浸透しており、しかも警告詩『ヒロシマ』(Hirosima,1948 )の中心テーマとなっている。例として、原子爆弾の投下にインスピレーションを受けて作られた詩『天空』(Oblohy)の一部を引用しよう。

そして、不安のハリネズミが心のなかで駆けまわる

この世界、心棒と紡錘と
化学式と破裂する地図だけでできた、この世界のなかで
痛々しい天空とともに
剣をもって立上がったこの世界のなかで
おのれの日々を若い雄鶏のように
初めて時を告げたあとで
ど肝を抜かれた人間は息を詰まらせる

世界がなくなってはと恐れ
かくも遠くへ、己の手を伸ばして
泥のなかから、一つの巨大な
死の惑星を掻き出す
生物の死絶えた、人気のない
新しい、恐ろしい月を

 文学創造者としてのフルビーンは50年代の後半に絶頂期に達する。抒情詩作品のなかでは『わたしの歌』(Muj zpev)と『変化』(Promena )の二作品が代表的である。このなかでフルビーンは人生の多面性を指摘している。彼は晩年の諸作で客観化を追求している。その結果、抒情的・叙事的詩『角笛のためのロマンス』(Romance pro kridlovka,1962)が作られた。この詩は若者の過去と未来の対決にもとづいている。ある意味でこれと対称的な散文作品は『金のリンゴ』(Zlata reneta,1964 )である。
 フルビーンは50年代に戯曲『八月の日曜日』(Srpnova nedele,1958 )によって演劇の発展にも関与する。ここで彼は小市民性や個人主義や不毛なインテリ的性格の尾を引きずっている同時代人たちを描いている。戯曲はリリシズムによって強い色づけがされている。フルビーンの戯曲、第二作『結晶の夜』(Kristalova noc,1961 )も同じ性格に息づいている。この戯曲も『八月の日曜日』と同様に農村の環境のなかで演じられる。
 子供のための詩人としてフルビーンは童謡にもとづいて散文の童話を作っている。ここでは新しい、非伝統的な寓話をも試みている(『クヴィエトゥシュカと彼女の庭についての童話』Pohadka o Kvetusce a jeji zahradce,1955 )。彼のオリジナルな詩作に、詩の翻訳も加えられる。ロシア語からはプーシキン、コルツォフ(Kolcov)、ウクライナ語からはティチナ(Tycyna)、フランス語からはヴェルレーヌ、ランボー、ドイツ語からはハイネなどがある。
 解放後の緊急の課題は広い大衆にソビエト文学を紹介することであった。ここで重要な意義をもつのがイジー・タウフェル(Jiri Taufer,1911年、ボスコヴィツェ Voskovice の生れ)である。ブルノでの法律の勉強の時代から積極的に政治活動に参加し、進歩的出版に奉仕した。1935年「ブロク」の創設に参加した。1939年6月にポーランドへ移住し、後にソ連に移った。解放後、外交政治、また文化的活動において重要な役割を果たした。
 タウフェルは20年代の終わりから詩の本を出版し、そのなかで社会的、政治的問題に反応した(例えば、『さようなら、CCCP』Na shledanou,CCCP;1935)。1938−1957年の間の詩の選集を『年代記』(Letopis,1958)のタイトルで出版した。新しい社会の形成に協力していた時代の認識のためには彼の回想記『政党、民衆、世代』(Strana,lide,pokoleni,1962 )は重要である。タウフェルのマヤコフスキー、ゴーリキー、ゴーゴリ、ノイマン、ネズヴァル、およびヴァーツラヴェクについての研究は大いに示唆に富んだものである。これらは概ね50年代に出版された。同様のことは『生涯と作品』(Udely a dila,1973 )にも言える。このなかで11人の詩人や芸術家の横顔、人となりをを紹介している(チェコ人のなかでは Jar. クラトフヴィール、B.ヴァーツラヴェク、K.ビーブルである)。
 最大の意義をもつのはわが国の読者にソビエトの詩を紹介するためにおこなわれたタウフェルの仕事である。1948年にはすでに『ソビエト詩人十二人の横顔』(Dvanact profilu sovetskych basniku)の選集を出版しており、1950年には大きな選集『V.マヤコフスキー:作品より』(V.Majakovskij,Z dila)を出版した。これは実に見事な作品で、ここだマヤコフスキーの複雑な詩法を適切なチェコ語の手段へ置換えることに翻訳者タウフェルは成功している。彼の翻訳のおかげで(1956年からマヤコフスキーを体系的に翻訳している)マヤコフスキーはわが国に定着したのである。


 解放後の最初の数年間の散文文学においては、社会的に根付きえない作家の途方に暮れる状態を反映した文学の流れが依然として続いていた。主観的状況や、非日常性や、異常さを描くことに耽溺し、しばしば柔弱な芸術至上主義に逃避する作品がさらに出版され続けていたのである。その上、占領の期間を通して文化生活から閉め出されていたかに見えた西側の文学が大量に翻訳されたのである。反動的批評家は社会の外に生きる非日常的人間たちにたいする関心を支持していた。なぜなら、この種の文学は社会問題からの逃避を強調し、今や頂点に達しようとしている階級闘争にたいして麻酔薬の役割を果たすからであった。だが、それにもかかわらず社会的文学作品の政治参加は増大し、すべての進歩的作家はこの問題と取り組んだのである。例として、V.ジェザーチュ(Rezac )や J. ドルダ(Drda)の名をあげるだけで十分であろう。
 芸術の社会的機能にたいして批評がいかなる態度で臨むか、そのあり方によって批評の進歩派と反動派は明確に区別されていた。反動派はしばしば基準をあいまいにすることによって議論を進めた。社会的な参加姿勢について例外なく論じたが、実際にはそれは進歩的な意味での参加ではなかった。だから、いわゆる大量の強制収容所文学にたいしては反動批評は比較的寛容であり、最悪のものにたいしては沈黙した。しかし真に社会参加の文学が現れるや否や、「月刊批評」(Kriticky mesicnik ;Vacl. チェルニーの編集になる)の誌上にそういった作品についての批評記事を読むのである。「それは時代の要求を満たしている……陳腐な道徳主義の氾濫するこの書はいつも同じであり、現実には信じがたい……」
 この言葉はヤン・ドルダの短編集『無言のバリケード』(Nema barikada,1946)について書かれたものである。ドルダのこの作品は作者がその発展の境目にあった時の作品である。だがドルダばかりでなく、当時、わが国の文学全体が一つの分岐点に立っていた。ドルダは反動が見たいと望むのとは異なった目で見た人生を提示した。つまり文学の政治的機能にはっきり目覚めた作品と、占領中「裸の人間」に興味をもち社会的に無関心だった作品の流れとが袂を分かちはじめたのである。『無言のバリケード』のなかでドルダは占
領を無抵抗な生け贄の屠殺としては描かなかった もちろん、生け贄の彼らとて恐怖の
年月を別の形で描きたかったのかもしれないが だが、ドルダはむしろ民衆の抵抗の力
を示し、それによって次の闘争へ向けて民衆を励ましたのである。
 この短編集のなかにドルダの話の結末をつける技巧を見るのは興味ぶかい。彼の短編の結末はその話そのものにあるのではなく、むしろ思想的余韻のなかにある。物語のクライマックスの後に、さらに思想的クライマックスが続くのである。例として短編『憎しみ』(Nenavist)の結末部を見てみよう。

 彼は汚い手で石のバリケードのなかにすえられた横倒しの電車の黒い天井を指差した。そこには略した名前と線が何段かにわたってチョークで記されていた。それは飲み屋の親父がつけ売りを板に書付けたような具合だった。その中央には次のように書いてあった。
 BAB.///////////////
 見ている者の一人がうらやまし気に叫んだ。――十五だ!――

 会計係りのババーネク氏は、かなり辛そうに前屈みになって銃を取りあげ、地面から立ちあがった。手で銃の木の部分や鉄の部分をなでながら、そして冷たい、虚ろな目でもう一度その記号のほうを見やりながら低くつぶやいた。
 ――十五か……十五がどうしたっていうんだ! ハイドリッヒのせいで息子が銃殺されたっていうのに……十五の四倍だって少なすぎらあ!――
 そして彼の両眼に憔悴の色をあらわにした老いの顔のなかの二つの氷の点、癒しえぬ憎しみに恐ろしく光る目が十五本の汚い白い線の上に突き刺さったかのように止まっていた。

 ここで思想的締めくくりをしているのは、かつては小心で目立たない老会計係りの憎悪である。もちろん他の短編では別の終わりかたをする。例えば『高邁なる信念』(Vyssi princip)という作品は抵抗への大きな連帯と意志の賛美で終わっている。物語のクライマックスは目立たない、一見世間から遊離しているように見える教師が、クラス全員を前にして(子供たちのなかに密告者がいるという確かな疑惑があるにもかかわらず)、ハイドリッヒの暗殺に同意すると告白するときである。だが思想的なクライマックスは次の段落になってからである。七年級の生徒たちはこの先生の言明の後、監察下に置かれることになる。これまで先生をせいぜい笑いものにしていた全クラス(そしてこのクラスのなかにあきらかに密告者がいるのだ。ここを忘れないでもらいたい)は彼を賞賛し、彼に同意するのである。クラス全員が当時は死をもって罰せられる行為をするのである。

 思想的締めくくりはもちろん人物描写の特殊な手法を必要とする。主人公を決定的瞬間において描く必要がある。だからドルダは主人公を一つの角度から見続けるのである。それは一見単純化として、また図式化への過程としても見える。しかし実際は人物を決定的瞬間においてとらえるためなのである。もしドルダが『無言のバリケード』のなかに『手のひらの上の小さな町』ですでにおなじみの人物を連れて来たということが指摘されるとしたら、それはまさにその通りなのである。つまりドルダは文学作品のなかですでに知られている人物たち、そしてそれゆえに不変の性格をもっている人物たちを登場させる。田舎の老教師、やぼな教授、おじけづいた見張り、平凡な役人、その他である。しかしこのような人物たちは複雑に描く必要はない。それは無駄なことで、明らかに退屈ですらある。まさに既知の人間タイプであればこそ、最大限の簡潔さを保つことが可能となったのである。人物を長々と読者に紹介する必要はない。しかし状況の圧迫下でこれらの人物たちのなかにどのようにして英雄的勇気が生れてくるかを示す必要はある。
『無言のバリケード』が国内での戦争を描いていたとしたら、イジー・マレク(Jiri Marek,1914 年、プラハ生れ)のロマン『男たちは暗黒を行く』(Muzi jdou v tme,1946)は五人のパラシュート隊員の一隊の運命を描いている。その一部は飛行機から遅れて飛び出したため未知の戦場に降り立つことになる。マレクは彼らの出口のない彷徨とナチスの包囲のなかで死にいたるまでの友情を描いているのだが、ここでも省略によって物語られる。ソビエトのパラシュート隊員とチェコの人民委員とともに、占領地域におけるチェコの住民、そして彼らの臆病さ、裏切りから誇りにいたるまでのさまざまな生き様も描かれている。マレクの表現は決して情熱的ではない。即物的である。そしてそれによって、一層、説得性を増している。このロマンの結末部分を読んでみよう。ここでは最後に残った二人のパラシュート隊員の最後が描かれている。

「よし、やってみよう。そっと、行けるところまで行ってみよう。それから一気に走るんだ。あの林の端までなんとかたどりつけたら……」
 二人はどこで合流するかさえ、互いに示し合せることもしなかった。確かに、そんなことはもはや無駄なことだった。
 バルトシュは敵の射撃が短い休止をとったとき、どうやら隠れ場を出たらしい。第一、外のほうがずっと安全だ。だって、ドイツの機関銃はすでに彼らの隠れ場所にぴったり狙いを付けているのだから。いま、銃撃が彼の頭上をかすめていく。あのいまいましい地獄の底からはい出した後では、まるで休憩でもしているようなものだ。草は濡れて冷たかった。そろりそろりとはいながら、厚い闇に守られて前進した。
  その瞬間、もう一方の側からやや強烈な爆発音が数発轟いた。あれはフェドルだ! もう少し待っていればいいのに! 
 一斉射撃が、まさにフェドルが望んだとうりに、急に後方に移った。死を引き延ばすなんて、たしかに無駄なことだ。それこそ素手で闇をつかむようなものだ。馬鹿げている。
 だからフェドルは銃弾の雨のなかを敵に向かって飛び出していったのだ。
 それからやがて静寂。たぶんフェドルはこの混乱のなかでバルトシュが敵の包囲を突破していくことを願ったのだろう。ところが、その男は微動だにせずに地上に横たわったままだ。どうしたのだ? 射撃だってもうこんなにまばらだ。その代わり星がやけに沢山輝いている。
 鋭い笛と号令が響いた。森のなかから兵隊の列が最後の攻撃に進んでくる。もうみんな森のなかの伐採地のなかでくたばっているだろう、これは単なる最後の締めくくりをちょっとばかり大袈裟ににやっているだけなんだと、みんな信じていたに違いない。臆病者のパレードだ。
 射撃がないときは、これはまた何たる静かさだ! ただ地層の下にだけかすかな響きがある。それは遠くのほうから近付いてくる戦車のキャタピラの音だ。だんだんと近付いてくるのがわかるだろう? 疑り深いやつらめ!
 いや、これは死ではない……

 隊列が彼のそばまで来た。彼は身を起こし、彼らに面と向かって、初めてだ、こん  なにすごい近くで、立ち上がる。
 引金を引いた。すると最後の射撃が血の雨となって炸裂した。
 その後は、もはやまったくの闇だ。
 額にうがたれた三個の星だけが光っている
 そこから、朝まで、血の涙があふれ出していた。

 上にあげた例からもわかるように、マレクは単純な手段で大きな効果を得ることに成功している。情念(パトス)は語られた内容のなかにあり、言語的手段によって、また効果をねらった装飾によって支える必要もない。
 その後、政治参加の散文においてもマレクは続けている。実例としてロマン『地下の村』(Vesnice pod zemi,1949 )のみをあげておこう。この作品は戦争の終わりのころのスロバキアで住民たちが古い炭鉱に隠れていたときの話である。そこでは階級的に差別された村、そして農夫と坑夫との間の心情的な行き違いなどが示される。モステツコの鉱山の環境からは短編集『われらが頭上の輝き』(Nad nami svita,1950 )の題材を汲みあげている。さらに後には犯罪短編小説集『古い犯罪事件の資料館』(Panoptikum starych kriminalnich pribehu,1968)と『犯罪人の蝋人形館』(Panoptikum hrisnych lidi,1971 )で大きな大衆的人気を博したし、また歴史ロマンをも試みた(『海に立ち向かった男』Muz proti mori,1976;これはロシア市民戦争におけるチェコ出身の革命家についての話である)。
 1945年以後の文字どうり世界的反響を得た最大の作品は、本来の正当な意味での文学には属さないものであったが、散文の中から生れた。それはユリウス・フチークの『絞首台の上で書かれたレポート』(Reportaz psana na opratce )である。もちろんそれは伝統的な意味でのレポルタージュではないが、1943年春、パンクラーツのゲシュタポの監獄のなかで書かれた記録である。この紙片はチェコ人の勇気のおかげで監獄から密かに持ち出されて、いろいろな場所に隠されていたものである。その記録は『絞首台の上で書かれたレポート』という題名で1945年にグスタ・フチーコヴァー(Gusta Fucikova)によって出版された。
 この書はナチスの体制下にある最も困難な時代に人間的威厳を保ちえた人間の英雄的行為についての証言である。しかし、それは人間のレポートや彼らの行為の描写においてとくにすぐれた芸術作品である。人間の個人的悲劇性は超個人的価値のための犠牲の意識によって超克されている。フチークはただ自分のことのみを思わず、全人類のことに思いを馳せた。この最後のレポルタージュを彼は文字どうり処刑台の陰で書いたのである。彼は生命を失うことを知っていた。しかし、また、彼はたとえ自分が死のうとも民族は死なないことを確信していたし、彼は他の人々が生きうるために死ぬのだということも知っていた。だから彼は死を恐れなかった。彼の書いたもののなかから絶望の声は聞こえてこない。響いてくるのは生命にたいする愛である。

 私は人生を愛しました。そして、人生の美を求めて野にも出ました。私は、みなさん、あなたがたを愛しました。そしてあなたがたが私の愛に答えてくださったとき、私は幸せでした。そしてあなたがたが私を理解してくださらなかったとき、私は苦しみました。私が傷付けた人、ごめんなさい。私が楽しませた人、忘れてください! 私の名前が決して悲しみの種にならないように。これがあなたがたのための私の遺言です。父さん、母さん、そして私の妹、そして君、ぼくのグスタ、君たち同志諸君、そして私と仲がよかったすべての人たちに贈る――。涙が私を思う悲しみの澱を洗い流してくれるのなら、少しだけ泣いてください。でも、悲しみに沈むのはやめてください。私は喜びのために生き、喜びのために死のうとしています。もし、あなたがたが私の墓に嘆きの天使を立てようというのなら、それは罪なことでしょう。

 手記は人間の誇りの確信と呼びかけで終わっている。

 私たちはいつも死を念頭に置いて行動してきました。ゲシュタポの手につかまったら、終わりだということも知っていました。ここでも私たちはこの認識に従って行動してきました。
   ・・・・・
 私の芝居は終わりに近付いています。その終わりを私はもう書きませんでした。私にももうわからないのです。それはもはや芝居ではない。それは人生なのです。
 そして人生のなかに見物人はいません。
 幕が上がります。みなさん、私はあなたがたが好きでした。よく気をつけるんですよ!

 結びの言葉は警告となっていた。1945−1948年の間にこの警告はとくに現実的な意味をもっていた。このとき、わが国の社会主義的性格をめぐる決定的な闘争が準備されていたのである。しかし、それからずっと後になっても、この現実性はいささかも減じていない。それどころか未来にたいする警告にもなっているのである。


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1986.9.12.=ノートに訳了

1994.7. 6.=ワープロに転記終了

2003.7.17.=ホームページに全文掲載完了