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'01/ 8/ 3 実久にて。唄者、ヒロおじさん。 撮影者:quickone |
退屈である。
ホントーに、退屈である。
まず、風が強いのである。実久の浜の、ほとんど池かと思うほどに(友人・知人に写真を見せると、必ず「どこの湖?」と聞かれる)静かな海面に、ちょぼちょぼと波が立っているのだ。
オレのカヌーは空気で膨らませる方式であるから、この風の中を漕ぎ出すのは論外であるし、魚釣りもどうせろくな結果にはなるまい。
泳いで泳げないことはないが、べつにここまで苦行をするために来たのではないし、オレの信条は「苦労を買うほどの金はない」だからして、とりあえず、この風が止むまでは地上の問題にのみ関わる事とする。
で、その地上の問題だが、朝のコーヒーを飲み終え、三味線ケースを一瞥するが、どーもやる気になれない。「ま、慌てる必要もあるまい」大きく頷いて、空を見る。静かだ。静かすぎる。原因は一つ。今日、薩川中学は登校日で、マナブがいないのだ。あの騒々しい奴が居らんのでは、静かなのも当然か。
「致し方あるまい」重々しく頷いて、オレはメットを手に取った。二日続けて未明に降った雨が、大気中の汚れをきれいに洗い流してくれている。オレの安物ピン惚けカメラでもきれいな写真が撮れそうだ。
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'01/ 7/29 マナブの父ちゃんは、 これから魚(ぃゆ)釣りに行きます。 撮影者:quickone
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峠道を駆け上がり、もう何年も工事中の林道実久・芝線に入る。山の上から実久の集落を眺める。箱庭みたいな、サンダーバード(国際救助隊)の秘密基地みたいな眺めだ。誰も知らぬ島の、端っこの集落。座敷牢に押し込められたみたいな、悪く言えばそんな光景である。
これで昔は300人近い人が住み、幼稚園、小学校があったと聞くが、今ではマナブが最年少で、外部からの流入以外に人口が増えそうな様子はまったくない。いちど、ヒロヒトが彼女を連れてきたが、恐れをなして帰ってしまったそうだ。
「いちど来てくれただけでも偉いと思わなくちゃ」無責任なことを言うオレだったのだが、じっさい、ここで暮らせるのはどんな人なのだろう。
およそ一年前にも、オレはこの実久で五日間ほどキャンプ暮らしを送ったのだが、ほぼ同時期に堀晃(ほり・ひかる)という画家が現われ、一ヶ月ほど滞在して絵を描きたい、と言って民宿の離れを借りる交渉をしていた。なにやら有名な展覧会に何度も入選していて、コンスタントに個展を開いているそうで、どうやら絵いっぽんで暮らしているらしい。カバーを描いた「清貧のススメ」とかいう本がよく売れたらしく、夏いっぱいをここらで過ごし、秋になったら東北に行くと言う。
民宿おりたの離れをひと月五万円で借りるという交渉が纏まったという話を聞いたのが、オレの出発の日。その後、どうしたのか気になっていたのだが、マナブに聞くと「すぐにいなくなっちゃった」そうだ。むべなるかな。
ここで昨日のバスの運ちゃんの話を思い出してみる。曰く、実久の唄は、隣の芝や薩川とは明らかに違うという。また、大島海峡を隔てた対岸の西古見とは同じ唄なのだという。
これは要するに、陸上の通行よりも船での行き来の方がはるかに多かったということだろう。
地図を眺めただけでも、それは明らかである。
オレの場合、カヌーというのは漕ぐためのものというよりは、その上で寝るためにあるようなもので、よほどの事がない限り、遠出をすることはない。幅が狭いわりには直進性能が低く、ダム湖のような静水以外ではノロマもいいとこである。おそらく、その昔、琉球文化圏で広く使われていたという刳り舟(サバニ)の方が高性能ではあるまいか。そんなことを考えつつ、再びバイクに跨る。
県道安脚場・実久線に戻り、薩川へと下っていく。加計呂麻フェリーの発着所である瀬相から薩川までは、度重なる道路工事でずいぶん道幅が広がっているが、この薩川・実久間はまだ人が踏み固めた道であった頃の記憶があちこちに残っている。
人が歩く道は、川があれば必ず川に沿って進んでいく。川岸は、洪水の水流に均され、いばらのような植物も少ない。オレも、田舎の山を歩く時は、好んで川岸の廃道を探して歩く。ただし、奄美ではごめんだ。
無知と罵られ、臆病者と謗られようが、オレは断言する。
ハブが恐いから、奄美では廃道散策をレパートリーから外します。
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'01/ 7/30 実久の夕暮れ 撮影者:quickone
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'94年夏、二度目の奄美ツーリングは林道探検の旅だった。
いちおうオフロード・バイクに乗っている者としては、そのテの愛好家にとって「宝庫」と呼ばれる島に行くのだから、ひととおり走って来なくては行く意味がないというものである。
当時のキャンプ地であったヤドリ浜を早めの時刻に出発し、まずはウォーミング・アップに嘉徳から青久を経由して市に至る林道を走る。青久以外にはたいした記憶がないから、今よりも未舗装部分が多かったとはいえ、けっこうフラットなダートだったのだろう。いちど、養豚場に迷い込んだこともあったので、そこでの仕事のために整備されていたのかもしれない。
午後は、西古見から曽根崎灯台を眺めて、屋鈍に抜けるまでをパート・ワン、ハイビスカス・ロードを名乗る県道から中央林道に入り、金作原の森から住用村方面に抜けるのをパート・ツーとした。
なにしろ季節は夏である。文字どおりの夏草の生い茂る中、主として技術的な理由からちんたらちんたらと走っていくのだが、当然、汗はかくし、喉も渇く。乾いた喉に水分補給とか言って、水筒に詰めたウーロン茶をのむ。飲んだ分がすべて汗になればいいのだが、それ以外の経路から出て行く水分もある。
中央林道を三分の二ほども走っただろうか。行く手に橋が現れた。橋があれば川があるというのは世界的な常識である。深い、山の中の川だ。水は冷たいだろう。手を洗い、顔を洗い、ついでに足も浸してみようか。
橋の上にバイクを停めて、まずは林道の脇の茂みに別経路の水分排出をする。またの名を軽犯罪法違反ともいうが、もうとっくに時効だろう。水分バランスの是正を終えて、橋の脇の斜面を川へと降りていく。思ったよりも平らな川床の…、その瞬間、オレの足元の草の上を、なにかがしゃらしゃらっと音を立てて横切っていく。蛇だ!
慌てて橋の上に戻ったオレは、自分のうかつさ、不注意を呪った。水場の近くには蛇がいる。当たり前の話ではないか。
これ以来、山間ツーリングではバイクを停めた時の楽しみのひとつである廃道散策を、オレは奄美では諦める事にした。
もちろん、土地の人々はオレほど不注意ではないだろう。だが、常時、神経を張り詰めさせている訳にもいかないはずだ。
「ナンパに行こうじぇ〜」
「最近、行ってねぇなぁ」
「ギャルが待ってるじぇ〜」
「舟か、歩くか」
「決まってんでしょ、一日の労働を終えて、誰がちんたら歩きますかって」
「だよなぁ」
「お、向こう岸で焚き火の用意をしてるじぇ〜」
「おー、ギャルが待ってるな〜」
「イケメン二人、これから行くじぇ〜」
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'01/ 7/30 実久の夕暮れ 撮影者:quickone
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これは実久だけに限ったことではあるまい。モータリゼーションが発達した現代に生きているオレには、ある限定された地域を見る時、地続きの地面と道路でしか考えられない。しかし、車も、道路もなかった時代には、オレとは違う思考様式の人々が生きていたのだ。
実久は、瀬戸内町に広域合併される前は、実久村としての村役場があったという。実久村の村域が加計呂麻全島なのか、それとも一部分なのかはわからないが(知ってる人、教えて)、国道をちんたら走れば遠い彼方の名瀬も、海を進めば古仁屋よりもずっと近いのだ。
さらに言えば、奄美がはじめて「体制」だの「制度」だのに組み入れられたのは、琉球経由であったといわれる。
いつだったか、三味線の師匠である森田照史に「なんで南の方を指してヒギャ(東)っていうんですか?」と聞いたら、「昔はね、南の方は加計呂麻が中心だったのよ。加計呂麻から見て、古仁屋やなんかは東の方にあったから、それでヒギャ(東)節というのよ」という答えであった。
いつもほど断定的な口調ではなかったから、消去法的に辿り着いた結論かもしれない。しかし、まぁ、妥当といえば妥当な論理ではある。
琉球からえっちらおっちらと北上してきた船は、まずは諸鈍に入るのだろう。天気が良ければ素通りしてしまうかもしれないが、やはり加計呂麻の主港は諸鈍だ。湾の入り口は珊瑚礁に守られ、流れ込む小川は飲み水を提供してくれる。徳之島から北上してくる船が、どんな船なのか知らないが、おそらくジャンクみたいな船なのだろう。時速4〜5kmという黒潮の流れに乗ったとしても、まずは二日、風の具合によっては三日はかかっただろう。途中で海が荒れ、風が強くなり、大粒の雨に叩かれながら暗緑色の加計呂麻島が近づいてくる。その中にあって、もっとも美しく見えるものはなんだろう。
諸鈍の浜にデイゴ並木を植えたのは、少なくともオレ程度のロマンチストだったことは間違いねぇだろうよ。
よし、諸鈍にデイゴの写真を撮りに行こう。スリ浜で昼飯を食おう。
ところがここで都合よく、行く手に雨が降り出した。
しゃかしゃかっとシャッターを切るつもりだけで出てきたので、ほとんど手ぶらのオレは、カッパも持ってない。実久でオレの帰りを待つテントは、フライシートが半分以上開いている。迷う必要はない。急いでUターンしたオレは、全速力で実久へと戻った。なんだ昼飯も自炊か、と思いながら。
幸い、雨が降りだす前に実久に辿り着いたな、とほっとしていたら晴れてきた。昼飯の支度をしていると、マナブが帰ってくる。
「雨に降られたか?」
「雨?どこの話?」
「瀬相に行こうとしたら、三浦のあたりで雨が降ってきた」
「よくあるよ。瀬相が雨で、実久が晴れてるの」
「ふーん、トマト食うか?」
「トマトは食ったらいかんのよ。わんがコイズミさんとそう決めた」
こいつは、生徒会長になっていらい政治意識が強くなったらしく、「コイズミさんに相談して、トマトを食べない法律を作る」だの「名瀬のダイエーに国会を移転させる」だの言っている。
トマトと玉葱のサラダと五目寿司を二人で食べ終え、今度は二人で退屈しはじめる。
「早く高校に入りたいなぁ」
「なんで」
「フェリーで行くから、台風が来ると学校が休みになる。霧の日も休みよ」
「薩川中の生徒は何人いるんだ」
「六人。だから、修学旅行は三年に一度、全校生徒で行くのよ。先生は二人来る」
「先生は、何人いるんだ」
「五人」
「みんな奄美の人か」
「昨日のは鹿児島の人よ」
実は、前日、同じように退屈していたら、薩川中の先生と事務の女性が「夏休み中の生徒の生活指導」に現われ、マナブをからかって帰っていったのだ。人間、退屈すると誰も同じようなことをするものだな。
「あと、徳之島の五つ子ちゃんもおる」
「なんじゃそりゃ。おまえ以外は五つ子ちゃんなのか?」
「ちがうちがう、先生よ」
「うえ。もうそんなになるのか!」
「そうそう、昨日の先生が、名刺に書いてあったホーム・ページが見れんち言っとった」
「ははぁ、チルダが判んなかったな」
「そうだ、学校行こう。ホーム・ページ見して」
「よし、メット、借りて来い」
そうして薩川中のパソコン教室に(もちろん、鍵は職員室で借りて)潜入したオレとマナブは、離島振興特別基金とかいうシールが貼ってあるパソコンでいくつかのホーム・ページを閲覧した上、パソコンの壁紙をマナブの写真に書き換えて薩川中学を後にした。瀬戸内町教育委員会からいまだに苦情が来ないのは、おそらく感謝しているのだろう。
その後、マナブを実久まで送った後、今度は池間からフェリーに乗って古仁屋にわたり、買出しを済ませる。ゆうべヒロヒトから「刺身を食うならXX鮮魚店(忘れちまったい)、あそこがいちばん」と聞かされたが、明日になれば風もやむだろう。
加計呂麻行きのフェリーに乗ると、ヒロヒト、マナブの父ちゃん(以後、父ちゃんと略)、マナブの一番上の兄貴がいる。
「兄さん、こっち来なよ」無口な父ちゃんは、それだけ言うと、缶ビールを片手に週刊新潮に集中してしまった。
千葉の大学の園芸学科を出たという兄貴はヒロヒトの同級生で、瀬戸内町の給食センターで働いているとの事。ヒロヒトと父ちゃんは、瀬戸内町森林組合と雇用契約を結んで、西古見で下草の伐採作業をしてきたところだ。以下は、オレとヒロヒトの会話。
「現場が朝九時からで、古仁屋から西古見は、一時間くらいかかるのよ」
「うんうん」
「瀬相を七時半に出るフェリーに乗れば、間に合うんじゃけど、そうすると家を出るのは六時半になるのよ」
「うんうん」
「実久からマナブの父ちゃんの船で行けば、30分で着くんじゃがねー」
「なるほどぉ」
「明日、監督さんに話してみようかぁ。組合も、交通費が安くなっていいと思うんじゃがねー」