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'01/ 8/ 3 実久にて。唄者、ヒロおじさん。 撮影者:quickone |
今日も、静かな朝である。
マナブは「ホノホシ太鼓」の稽古で、朝から古仁屋に行っている。一夜明けたら収まるだろうとたかを括っていた風も、むしろ強くなっている。もっとも、その風のおかげで、夜明け前に激しく雨を降らせた雲も吹き飛ばされ、さすがに日差しは強いものの、日陰では快適な温度になっている。
朝飯を軽く済ませ、今度はカッパを用意して、写真を撮りに出かける。
予定通り、徳浜、諸鈍と廻って写真を撮ってくる。途中、スリ浜の「マリンブルーかけろま」で休憩し、パッション・ジュースを飲む。
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'01/ 8/ 2 徳浜の山羊 撮影者:quickone
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徳浜では、珊瑚塩の製造場所(「工場」とは、表現できんわな)に迷い込み、昼飯中のオヤジさんとすこし話をした。海岸は、風のわりに波は小さく、「珊瑚礁は偉大だな」と納得もした。ヤギがたくさんいたので、近寄って写真を撮ろうとしたが、逃げられてしまった。
諸鈍では、この旅で出会ったいちばん可愛らしい女性と少しだけ話をした。「あおい」ちゃんといい、「一年生」と言っていたから二十年後が楽しみである。問題は、二十年後には、オレは結構なジジイになっている筈だということで、とかく歳月というのは残酷なモノなんである。
実久に戻って昼飯を食い、帰ってきたマナブの相手をし、ヒロヒトと夕方のビールを飲んだら、この日は終わってしまった。船着き場に夜釣りにも行ったのだが、ナニも釣れなかったので写真を撮っただけの一日だったわけだ。
なんと勿体無い時間の過ごし方をする奴だと馬鹿にされそうだが、南国ではこの程度のペースで生きるのがいいのだ。
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'01/ 8/ 2 諸鈍の浜辺。見頃は五月かな? 撮影者:quickone
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翌日も、やはり怠惰に目覚め、物憂く朝飯を食い、一日遊べるという意味では最後の日だという事実に気付いて愕然とする。風はだいぶ納まってはいるのだが、ここまで来たら「泳がない」というのも一つの選択肢かもしれない。「今日は暇」というマナブにヒロおじいさんのところに案内させる。家の場所については先刻承知だが、一昨昨日が初対面のオレがいきなり押しかけるのもどうかと思ってな。都会人は、対人関係において距離を取りたがるんだよ、うん。
なん枚か写真を撮り、いろいろと聴かせてもらう。といっても、オレは曲名を知らんから「あれを弾きましょうか?」「お願いします」「これを弾きましょうか?」「お願いします」という遣り取りで、まったく勿体無いったらありゃしない。ブタに真珠、猫に小判といった言葉が三味線の音色に乗ってぐるぐると駆け回る。
しかし凄い音だ。さすがにオレもビギナーだけあって「音がいい」三味線というのは森田師匠のとコオル兄さん三世ことタナカさんの本皮のしか聴いたことがない。だが、このヒロおじいさんの三味線は、どちらとも違う。
製材所に勤めていた友人が造ってくれたというそれは、竿だけで十数本の木材を複雑に組み合わせてあり、木釘(でいいのかな)とおそらくは膠状の接着剤(それも最小限!)で完全に継ぎ合わされている。
そして硬く張られた皮は、弦を弾くたびに信じられないほど高く、澄んで、しかもラウドなと言いたくなるほどに大きな音を響かせる。しかし決して耳障りな音にならない。これは、音響的には「筐体の剛性が非常に高い」場合にのみ出せる音だ。
剛性が低い、すなわち木材の密度が低かったり、組み立て時に隙間があったりすると、ある特定の周波数の音を「吸って」しまい、高音の伸びに直接的な影響を与える。それだけではない。本来、弦の発振する音に近い中音域に不要な音を与えて、耳触りの悪い不快な音が出るのだ。
オレは木材についても威張れるほど多くは知らないが、これはかなり厳選された木材を使って作られた物だろう。
「持ってみますか?」畏れ多いが、断りたくもない。
「へい、喜んで」持ってみると、とんでもない重さだ。胴は、もちろん本皮。
「ああ、これはいい三味線ですな。じつに軽くていい」見ると、オレのを持って調弦しはじめている。
「それはねぇ、私のような年寄りには重くて。これは実にいい。三島請与路(さんとうけよろ)というのをやりましょう」「はい、お願いします」
うーん、やはり音が違う。オレの扱いが雑なせいもあって、買って三ヶ月のオレの三味線は、早くもガタがきはじめているのだが、それだけではない。やはり素性が違う。とはいえ、三味線が替わったことで、それまで気がつかなかったことも見えてきた。
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'01/ 8/ 3 ヒロおじさんの三味線。つなぎ目がわかりますか? 撮影者:quickone
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ローコストなマスプロ品であるオレの三味線の竿は、もちろん漆風の塗料が塗られた所謂「塗り竿」であるため、程よい湿度があれば指の跡が付き、数秒間なら肉眼でも見分けられる。オレは、ヒロおじいさんの指先の痕跡を追うことに集中した。
いや、しかしよく動く。しかも、単純に押さえるということをしない。なおかつ、結構アバウトである。三味線がフレットレス(ギターのようなフレットがない)であることを、巧妙に利用している弾き方だ。悪く言えば「音がズレている」のだが、どうも「意図的にズラすことの効果を狙っている」ように思える。それが何を意味するのかは、オレには判らないのだが。
「では、六調をしましょう。六調はですな、三下がりといいまして、この三弦を下げるわけです」がじゃんがじゃんがじゃんが…。うわー、すげぇすげぇ。
長年、肉体を酷使する生活を続けて来られたのだろう、語られる年齢よりも老けて見える(身体の筋肉は落ちきってはいない)風貌で、何かを探るように弾き続けてこられたヒロおじいさんの頬がほころび、顔が上気してくる。
今回の旅は、これでいい。これ以上のものは、なにもない。
なにもない、と結びの言葉にすればいいのに、終わらないところがオレの愛くるしさの主要素であるのは周知の事実だが、もう少し続けるのでそれでも良いという人だけお付合い願いたい。
ヒロおじいさんに、「幾つくらいの頃から弾いていらっしゃるのですか」とたずねたところ、
「12歳から、友達と一緒に習いはじめました」という。「もう、六十年になります」
以前、オレの師匠である森田照史に同じ質問をしたところ、6歳からという応えであった。これは、はっきり言って、家庭環境などもあって特殊なほうだろう。
十代の前半から半ばにかけて、人は、「何かを始めなくてはならない」という強迫観念にも似た感情に取り憑かれる。それは周囲の模倣であったり(例えば、先輩の真似をして学生服をヨーランにするなんてのも、それに当たる。アンタとアンタ、身に覚えがあるだろ!)、あるいは明確な対象もなく周囲に反抗したり(髪を伸ばし、穴の開いた3ヶ月も洗っていないジーンズと、同じく穴アキの肩が出そうなほどにヨレヨレのTシャツを愛用して…って、オレのことか!)しはじめるのが、この年代である。
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'02/ 8/ 3 瀬戸内町役場 撮影者:quickone
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'02/ 8/ 3 同上 撮影者:quickone
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六十年前、少年であったヒロおじいさんは、いったいどんな気持ちで三味線を習おうと思ったのだろう。十年戦争の真っ只中において、少年であったヒロおじいさんは、島唄とともに軍歌も憶えたのだ。
六十年前のヒロおじいさんに三味線を教えた人は、かれ自身、いったいどんな理由で三味線を弾こうと思ったのだろう。
二十五年前(うわー、もうそんなになるんだ)、労働党が政権与党であったイギリスでは、高税率・高福祉政策が行われていた。
日本のような年功序列昇給制度がないので、同じ仕事であれば、新入社員も定年直前社員も同じだけの給料が支払われる。経験があるベテランを優遇するのは当然だ。
一方、高税率政策は製造業の海外移転を促進し、世界的な石炭不況が近世の産業革命を生んだウェールズの炭鉱を縮小にあるいは閉山に追い込んだ。
街には、仕事にあぶれた、しかし失業手当という小額だが定収入のある若者が溢れた。
「退屈だよな」
「なぁ、バンドやんねぇか。オンナを引っかけ放題だってハナシだぜ」
「オレ、コード三つしか知らねぇぞ」
「三つも知ってれば、たくさんだよ。オレよか二つ多い」
「オンナ引っかけ放題かぁ…(遠い目)。よし、やろう。オマエ、ベースやれ」
「オレ、ベース持ってねぇよ」
「明日は失業手当の支給日じゃねぇか、買って来い、中古でいいから。な、な、な!」
後に「パンク・ロック」と呼ばれることになる、大衆音楽の歴史に短く重い楔が打ち込まれた瞬間である。
2001年、東シナ海と太平洋を隔てる島嶼の一部だけで愛されていた音楽、近年はその地元の人にすら見捨てられかけていた音楽に、さまざまな視線が集中しつつある。
貨幣経済が高度に成長し、首都のもっとも目立つ土地の価格が、その土地そのものが生み出しうる価値以上の価格に達してしまったこの国で、忘れかけられていた島の、誰にも気に留められなかった音楽が、本来の「機能性」とは異なる意味で動き始めている。
ビールを飲みながら、オレは海をぼんやりと眺めている。
2001年 奄美ぐうたら紀(奇?)行 終わり