2001年
奄美ぐうたら紀(奇?)行 pt.5

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'01/ 8/ 3 実久にて。唄者、ヒロおじさん。
撮影者:quickone

 実久郵便局(と名乗りながら瀬武にあるのは、コレイカニ)に局留めで送っておいた荷物を受け取ってきたころには、太陽は西の山に隠れかけている。そーかー、今日いちんち泳いでなかったなぁ。オレはナニしにこんなところに来てるんだか、とアホらしくなる。なぁにが三味線だばーろー、とたまたま目の前にいたヤドカリをいぢめる。
 そのうち飽きたので晩飯の支度をはじめると、マナブがイラブチ(ブダイ)を持ってきて「余ったけど、食うか?」と言う。無論だ。勿論だ。イラブチを食うために、わざわざ東京から「チューブ入り酢味噌」を持ってきたのだ。
 さて、すっかり腹がくちくなって、おじいさんに貰った缶ビールの一本目を飲み干す頃には、多少は事態を分析する余裕も出てきた。
 間違えられた原因は、「よいすら」を楽譜を見ずに弾く事に集中していたため、むかし芝居をやっていた頃の台詞の暗記法をそのまま使っていたせいだろう。
 まず、最初から弾く。間違えたら、最初に戻って、もう一度。直前に間違えたところに達する前に間違えたら、また振り出しに。通して弾けたら別な曲(この場合は、「行きゅんにゃ加那」)を一度弾いた上で、もう一度弾く。同じ個所を続けて間違えた場合は、その部分のみを繰り返し弾いてから、もう一度はじめから。
 こういうやり方をしていると、はたで聴いていたら、レコードが針飛びをしているか子供が遊んでいるようにしか聞こえない。合間に弾く「行きゅんにゃ加那」が印象に残るのも当然だろう。こちらも、お世辞にも上手とは言えないが、少なくともスムーズだし、必ず最後まで弾き通している。聞き間違いは仕方がないのだ。なンか文句あっか?

  向こうから来るのは、たぶん、マナブの父ちゃん  
'01/ 5/ 4
実久のメイン・ストリート
撮影者:quickone

 とはいえ、防波堤に向かって弾いているとかなり広い範囲に音が響いているようなので、防波堤の切れ目に椅子と蚊取り線香を置いて、海に向かって弾く事にする。三味線のカン高い音が防波堤に響くとたいへん気分がいいのだが、これ以上、間違えられたらいくらオレでも耐えられない。
 それに、海に向かって弾けば、オニヒトデが大量発生して問題になっているとの事だから、オレの三味線がオニヒトデ退治に役に立つかもしれない。なんか弱気だな、オレ。
 湿度がおそろしく高くて、掌がじっとりと湿気を帯びる。ひっきりなしにタオルを掴んで手を拭くが、すぐに湿って手が滑らなくなる。
 オレの三味線は、ご承知の通りの値段だから、もちろん棹は漆状の塗料が塗られたスタンダードタイプである。やはり棹は、素の紫檀や黒檀がよろしゅうございます、ということなのか。

 奄美に通いはじめてすぐに気づいた事は、古い家はどれも小さい、ということだ。
 それと、日本のほかの地方では、ぽつぽつと残されている「江戸期に建てられた民家」がまったく見られない。もちろん、そうした古い民家は、何らかの保存努力なくしては残されうるものではないし、昭和40年代以降は「古い家は恥ずかしい」という意識からどんどん立て替えられている。だが、奄美の「古い家」は、建築に関してはシロートのオレの目には、「昭和に入ってから建てられた家」に見える。建造方法には地方色が色濃く出ているから、戦後の建築には見えないのだが、どうも古び方に「年季」が入っていないのだ。あえて悪い言い方をすれば、お金と手間を掛けずにぱぱっと造ったから、たいして使っていないのに古くなっちゃった、という印象が強い。
 家が小さい、という点に関しては、大きな原因は木材にあるのだろう。長くて太い柱や板の素材になる杉や桧と無縁な土地柄が、建築に影響を与えないはずがない。日本で最初と言われる木造の巨大建築、法隆寺を持つ奈良は、東を鈴鹿山地、南を吉野山地に囲まれている。どちらも杉や桧の産地として有名だ。
 また、極端な比較対象を持ち出すが、飛騨の白川郷の合掌造りを考えてみたい。
 世界的に見てもトップクラスの豪雪地帯である飛騨地方では、冬の雪下ろしや暖房の集約化のために大家族が大きな家に集まって住む事を選んだと思われる。
 一方、明治期に名瀬測候所が置かれて以来、三太郎峠の頂上付近で一度だけ雪を観測した事があるという奄美では、長らく自然界の脅威となっていたのは台風である。
 日本の他の地方では、台風の被害というのは、雨とそれによる洪水を指す。米を主食としてきた日本人は、水はけの悪い平野に集まって住み、細かな水路を網の目のように張り巡らし、勾配の緩やかな山の斜面を削っては、小さな田を無数に造ってきた。その結果、台風=水害の等式が成立し、とくに平野部への人口の集中が顕著になった昭和以降は、本州上陸後に速度が落ちた台風は、甚大な被害をもたらすようになった。中学の社会科の教科書に載ってたべ、伊勢湾台風とか、狩野川台風とか。
 徳島県の、吉野川の河口付近なんかおもしろいぞ。
 吉野川ってのは、昔から「四国三郎」と呼ばれた氾濫の多い川で、河口付近では、そうした氾濫原によく育つ藍を栽培している。ここら辺の藍問屋は、江戸時代の中頃から徐々に資本を蓄積して大きな屋敷を平野の中にぼてんと建てているんだが、この屋敷の屋根がおもしろくてさ…、あ、いかん、脱線が過ぎた。この話は打ち切り。<いぢわる。
 一方、奄美では、オレが見たところ、氾濫して被害が出るほど大きな川はない。被害は、風と崩落によるものが多いだろう。崩落に関しては、後で触れるかもしれない。いま、考えているのは、小さな家についてだ。奄美の民家が、総じて平屋建ての小さな家が多いのは、台風への対策ではないか、ということだ。そして、小さな家では一戸の家に大家族が集まって住むことができないので核家族化が進み、その一方で、集落ごとに氏族が集中して居住する、「シマ化」が進んだのではないだろうか。
 さらに、「シマ化」傾向が進行すると、近親婚が誘発されるために、近隣の「シマ」との交流が年長者によって奨励されたものと思われる。

  ナニゴトも、体験が大切ですね  
'03/ 5/ 3
宇検村芦検にて
撮影者:quickone
  さて、どれくらいのお米が取れるのでしょう?  
'03/ 5/ 3
同上
撮影者:quickone

 ちょっと話しが早すぎたかな?
 奄美を、うろうろぐるぐると走り回っていると、必ず見落とすものがある。水田だ。見落とすんじゃなくて、極端に数が少ないだけだというのが判ったのは、二度目に行った時か、三度目の時か。田んぼが見つからないのは、お前があっぱらぱーだからさ、という方がいらっしゃったら、オレがコースを指定するから、ぜひ自分の目で確かめていただきたい。その上で「やっぱし見つからん」という結果になったら、我々は立派なあっぱらぱー仲間ということになるので、一緒に唇ぶるぶるぶるをしようではないか。
 ナニ、唇ぶるぶるぶるのやり方が分からない?致し方あるまい、説明しよう。
 まず、下唇をぐっと突き出す。次に、人差し指と中指で下唇を出来るだけ素早く、連続して交互に叩く。このとき、上唇は前歯を覆うようにするといい。そして無理をしない程度の低い声で「ぶーーーーー」と長く発声する。叩かれた唇の上下動によって、ぶるぶるぶると聞こえるはずだ。それではやってみよう。
 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶる…。

 さて、田んぼが見つからないのがどういう意味を持つかというと、大規模な集落が形成されたことがなかった、ということになる。
 水田農業というのは、狭い面積で多くの人口を養うのに適している。一粒万倍というのは、稲の実りの多さを形容した言葉だが、一万倍は無茶としても小麦と比べれば数倍、数十倍の収穫が得られるという。
 また、気候さえ良ければ、稲はひじょうに成長の早い植物であり、一年間に何度でも実を結ぶ。奄美と比べてすこし北に位置する種子島では、一年に二度収穫する二期作が行われている。
 これまで、日本に稲作が伝播してきたルートはさまざまな研究が行われ、朝鮮半島経由で、鉄器とともに渡ってきたのだというのと、中国の江南地方(揚子江の南側)から沖縄経由で北上したというのが有力な説だという。

 田んぼで米を作る、というとき、まず見落としがちになるのは、田んぼは自然に在るものではない、ということだ。ない時は、自分で作らなくちゃいけない。
 まず、水が必要だ。しかも、多すぎても少なすぎてもいけない。そのうえ、ある程度、稲の成育が進んだら、排水する必要がある。
 つまり、大量の水を意のままにコントロールして、はじめて水田農業は成立するのだ。
 麦や野菜のための畑は、適度に耕して種を蒔けばいいという、わりと小規模な労働で事が済む。
 ちなみに、ヨーロッパでは、ルネッサンスの時代まで畝を造らずに小麦を栽培していたという。十字軍の遠征の際にイスラム圏から「畝を造る」という技術が導入されて、いきなり小麦の生産量が二倍かそこらに跳ね上がったという話だ。
 ところが、ゼロから稲作農業をはじめる時、まずは水田という人工の環境を用意しなくてはならない。他の作物と比べて、大規模な土木工事が必要になるのだ。
 その大規模な土木工事において必要なものは何か?
 権力と道具だ。

 大工事ってのは人数が必要、そりゃ当然の話だが、権力があれば集められる。中学や高校で習ったべ、国王やら皇帝やら貴族やらは、権力の象徴としてでかい建物をぶっ建てたって話。そんじゃ、権力はどうしたら出来上がるのか?
 所有の不均衡ってやつだよ。貧富の格差っつってもいいかな。持ってる奴が偉い。持ってない奴は負ける。とはいえ、持ってる持ってないは、かなり大きく差がつかないと意味がない。
 例えばさ、一万円やるから殴らせてくれ、と言われて、どう応えるか。オレは嫌だね。十万円と言われれば多少はぐらつくが(給料日前は特に)、やっぱし百万円以下じゃ、うんとは言えんわな。払う側だって、たかだか二、三発なぐるだけで百万円を払うには、懐に億単位の余裕がなきゃならんだろう。
 で、その余裕というのは、現代だったら経済活動ってやつで得られるんだが、それがない時代においては、農業だけが可能にするんだな。でなきゃ、手近にいる持ってそうなやつからふんだくるか。

 そういう観点から見れば、離島という地理条件は、そもそも権力とは無縁だということが分かってくる。殊に奄美のように、耕作に適した土地が狭く、かつ狩猟採集でも何とかやっていけるところでは、その傾向が著しい。
 島の人たちにとっては常識かもしれないが、奄美は琉球王朝に「侵略」されるまでは、「統一」されたことがなかったのだ。オレは、そこまでのほほんと生きてたなんて知らなくてさ、びっくらこいたよ。

 もう一つ、ポイントがある。道具、つーか、道具がないことだ。
 つるはし、スコップ、鍬。男の子なら、一度は手にしたことがあるはずだ。いや、性的差別はいけないな。女の子だって一度や二度、使ったことがあるだろう。
 これらの共通点は何だろう。
 土を掘ることが出来る?まぁ、それもあるけどさ、ほれ、よく見てみそ。たいてい鉄でできてねえか。
 琉球列島を理解するキー・ワードのひとつが「鉄」であるってぇことが判ったのは、オレにとってはつい最近のことである。
 鉄、というのは、地球上でもっともありふれた金属で、人類が使いはじめたのは、紀元前五千年の西アジアのヒッタイト文明が最初だそうだ。日本に鉄が伝わったのは朝鮮半島からで、たしか稲作農業と一緒に入ってきたと思ったけど、詳しいことは忘れた。まぁ、とにかく、最初は100%輸入品だったのが、奈良時代か平安時代に中国地方で鉄鉱石の鉱脈が発見されて、そこから国産化が始まったんだな。この国産化の後に、大和朝廷の関東・東北遠征がはじまっている。
 一方、琉球地方では、鉄鉱石がまったく採れなかったこともあって、鉄器の普及は遅れに遅れた。モノの本によれば、八重山地方に鉄製の農具が入ったのは室町時代も半ばを過ぎてからだという。これは、沖縄本島に琉球王朝が成立して、周囲の島々を「侵略」した結果、税を納めさせるための農産物増産計画の一環として、鍛冶屋が送り込まれたのだという。その琉球王朝だって、沖縄本島を統一したのは、それほど古い話ではない。
 奄美に鉄が入ったのがいつかは知らないが、おそらく琉球王朝の八重山「侵略」と同じ頃だろうし、それまでは完全な狩猟採集で暮らしていたはずだ。
 つまり、奄美では、北条早雲が生まれる頃までは、みんな縄文時代をやっていたのだ。

 話がずるずると長くなって、なんのこっちゃか判らなくなっているだろう。オレはまだ、奄美の集落が氏族社会であること、台風、木材、核家族化が原因で小さな家が多いことについて考えている。それは、農業の発達が遅れて大規模な集落が出来なかったこと、貧富の格差が小さくて他を圧倒する権力が生まれなかったこと、も背景になっていただろう。
 そうしたオレの思考の、今、この場での根っこは、異様に高い湿度のせいで三味線の棹を持つ手がべとつくことだ。
 昔、人は、この島で、いつ、どんな場所で、どんなふうに三味線を弾いたのだろう。

 たしかに、家の中で、ひとり、ふたりで弾くこともあっただろう。
「よいすらってさぁ、やっぱフレーズの繰り返しのヴァリエーションで聴かせるわけじゃん、キミのスタイルでは、そこんところが、ちょっち甘いとオレ的には思うわけよ」
「う〜ん、ボサ・ノヴァ風に音を省いてみたけど、ダメかね、やっぱ」
 しかし、何人も集まって、掛け合い唄を楽しむこともあっただろう。
「来週のよぉ、月曜日が海の日で連休だろぉ。ちょこっと集まって唄わねぇかぁ」
「え〜、その日は、Windows XPにバージョンアップするつもりだったんスけど…」
「あ、いいんだよ、今回は、女の子の方が少ないんだから」
「ちょ、ちょっと待って下さいよぉ、どこに行きゃいいんすか?」
 ホント、どこに行きゃあいいんだろう。やはりこんな風に浜だろうか。しかし、べとつくんだよな、寝る前にもう一回シャワーを浴びよう。
 そんなことを考えていると、ガサガサっと音がする。ライトを向けてみると、胴体がオレの握り拳くらいある(ちなみにオレは、身長<175cm>に比べて、手と足がちょっと大き目だ)カニが吹きだまりの枯れ葉の上を歩き回っている。食えるのだろうか?

  とにかく、そこらじゅうにあるんです  
'02/ 5/ 1
奄美名物、ハブの用心棒
撮影者:quickone

 捕獲方法と保管手段を考えていると、ポケットの携帯が鳴る。
「なにぃ、どこに居るのぉ、名瀬?」例によって目いっぱいデカい声で喋るのは、川崎のチャーハン長井くんだ。 「加計呂麻、実久」手短に応えると、「加計呂麻だってぇ!」と誰かに伝えている。どこにいるんだろう。今日は、練習がない日の筈なのに、三味線の音が聞こえる。
「練習してる?」いきなり相手がラニカイに替わる。「してますとも、猛練習」どうせバレやしないって。
「ビールばっかり飲んでんじゃないだろうな」今度は、Tさんに替わった。賑やかな奴らだ。
「まだ一本半しか飲んでない」と応えると、「なんだ、飲みながら弾いてんのか」なんでバレちゃうんだ?
「実久のどこに居るの?」森田先生まで出てきた。「浜です。風がないんで、暑くて」
「ハブに気をつけなさいよ、ハブはね、時々海の水を飲みに、浜に来るから」マジですかい?
再びラニカイが出て「今日はね、郁ちゃんの誕生日で、郁ちゃんちに集まってんの」なるほどそうですかい。
「太田さーん、早く来ないとご飯がなくなっちゃうよ」郁ちゃんの声だ。応えようとしたら、電波が切れた。残ったのは、ちゃぷちゃぷと波の音だけ。あー、びっくりした。
 そこにまたもやガサガサっと落ち葉の擦れる音。今度は長い。「ハブに気をつけなさいよ」という声が、脳裏に響く。冗談じゃない。今日の練習は、中止。そういや、今日は仏滅だ。中止、中止。片づけて、シャワー浴びて、寝よ寝よ。





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