2003年奄美二日酔い紀行:1

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フェリー加計呂麻を彩る絵

 4/29(火・みどりの日)


 目覚まし時計替わりの携帯電話が唸りを上げる。午前三時五十分。昨日の午後六時に鹿児島を出航した大島運輸鰍フフェリー「なみのうえ」は、あと一時間ほどで奄美大島の名瀬港に入港する。
 重いまぶたをこじ開けて、のろくさと着替えをはじめる。
 昨夜は、通路を隔てた向かいのベッドに寝たおっさんの鼾が気になり、十一時頃まで眠れなかったのだ。おっさんは、昨夜よりははるかに静かに、しかしそれでも決して止まることなく鼾をかき続けている。
「首、絞めたろか」しかし、そういうオレだって他人に言わせれば、三役入りは確実な未完の大器だそうである。
「今回は、貸しにしといてやる。次は必ずオレが勝つ」重々しく宣言すると、オレは東シナ海の波に微かに揺れながら進む船内を、朝のコーヒーを求めて歩き出した。

 オレが、生まれてはじめて奄美大島に行ったのは1994年。今年はちょうど十年目ということになる。極めて平凡なサラリーマンであるオレにとって、旅行といえば春の連休と夏休みの二つしかない。正月休みは田舎に帰るし、だいいち寒いしな。
 その二回の休みを、どういうワケか律儀にこの海流の中の島に費やし続けてきたのだ。十年の間には、どうしても抜けられない仕事で、休みを断念せざるを得ないこともあったので、奄美大島を訪れた回数は、15〜17回といったところか。
 一回当たりの滞在期間は、短くて二泊三日、長くても五泊が限度であったから、数をこなしたからといってナニかを語れるほど詳しくなったわけではない。そのうえ、十年目でナニかを総括するなんて芸当とは無縁の頭脳の持ち主だからして、これよりしばらくは、その点を覚悟の上でお付合いいただきたい。
 それでは、2003年奄美二日酔い紀行、最初だけはカッコ良く(?)はじまりであります。

 「奄美大島名瀬港で下船の、お車ならびにオートバイのお客様、車両デッキを開放いたしました。下船のお支度をお願いいたします」
 一時間かけて目を覚まそうとはしたものの、まだしょぼしょぼとした目つきで車両デッキに向かう。
 車両デッキのオレのバイクを停めた近くには、昨日、鹿児島新港での乗船時に慌しく言葉を交わしたライダーたちのグループがいるが、こちらもまだ目が覚めてはいないようだ。
 聞こえてくる話し声からすると、あやまる岬に日の出を見に行こう、という計画のようだ。実は、このグループのなん人かは、オレのHPを読んで奄美ツーリングの参考にしたらしいので、ちょっとばかり気にはなっているのだ。愛用の魚釣り用多機能腕時計で確認すると、日の出まであと五十分弱。街はまだ眠っていて交通量も少ないから、飛ばせば間に合うだろう。
 ところでオレの方は、古仁屋から加計呂麻行きフェリーの始発に間に合いたい。国道58号線は、度重なるトンネル工事でひじょうに走りやすくなっているから、真っ直ぐ行けば余裕で間に合うのだが、今回は、ちと寄り道がある。冷たいようだが、一足先に船を降りることにした。
 夜明け前の名瀬市街はまだ真っ暗だが、ぽつぽつと走る車もある。暖かさを含んだ大気は、南の島であることを主張しつつもオレの両目をしっかりと開かせてくれる。
 夜が明けたのはいつ頃だったろうか。和瀬トンネルを抜けたあたりで周りが明るくなり、三太郎トンネルを抜けた頃にはもうヘッドライトの光芒に頼る必要はなくなっていたのではないだろうか。
 住用川の河口のマングローブ原生林を横目に見ながら通りすぎ、そういえばここまで道路工事が見当たらないな、と考える。旧和瀬トンネルへの旧道が工事で通行止めになっていたが、国道58号の本線は、珍しくどこも舗装を剥がされていない。
 峠道を登りながら、
「ここにトンネルを掘ったら、10kmくらいの長さになるよなぁ」と薄ぼんやり考えていたら、危うく嘉徳への入り口を見逃すところだった。

季節が来れば、蛍が飛び交うんだろうなぁ
'01/ 8/ 5
嘉徳を流れる川。
撮影者:quickone


 名瀬港からの下船を急いだのは、今回のイベントの一つに、この嘉徳から古仁屋までのタイムを計るというお馬鹿企画があったのだ。
 昨年、「ワダツミの木」のヒットで一躍時の人になった元ちとせが、この嘉徳という集落で生まれ育ったのはよく知られた話だが、最近、雑誌のインタビューで、彼女が高校時代に嘉徳の家から古仁屋高校まで20km近い道のりを「バイクで40分かけて通学していた」と語っていたという。
 オレがこの嘉徳という集落に来たのは、'94年の夏に一度、'02年の連休に一度、という程度で、なおかつ最初に来た時の記憶は既に風化しきっているのだが、
「あの道のりを、高校生の女の子が、(おそらくは)原チャリでそんなスピードで走りきれるのだろうか?」という疑問が芽生え、
「よかろう、オレが実際に走って、確かめてやろうではないか」と考えたのだ。
 その「バイクで40分」のネタ元であるけんぞうファクトリーの掲示板で挑戦を宣言したところ、大阪在住の奄美好きライダーのダイモン氏にも「エントリーしてみてもいいかな?」と表明していただき、ここにおよそばかばかしいキャノンボール・レース企画が誕生したのである。

 一年ぶりにたどる嘉徳への道は、あらためて「原付で走ったら」という目で見ると、けっこう厳しいものがある。もちろん、奄美大島全土を覆う「道路改良熱」はここでも例外ではなく、オレがはじめてきた'94年と比べればまったく別な道である。
 嘉徳に向かっての左コーナーは、ほぼ洩れなく崖を削ってショートカットされ、ガードレールの向こう側には雑草に覆われた旧道が、風雨に朽ちるままに放置されている。問題は、これが元ちとせが高校生だった頃に終わっていた工事か否かだが、雑草の茂り方と嘉徳という集落が行政から目を掛けられるようになった時期を考えれば、それほど古い工事ではないと思われる。
「ちとせが40分なら、私は30分で走ってやろう」と豪語して東京を出てきたオレだが、
「これだけハンディを貰うなら、25分は切らないと恥ずかしいな」と考えをあらためる。
 いちおう、こちらもツーリングに出た直後といってもいい状態で、バイクのリア・キャリアに積んだ荷物の総重量は30kg前後に達しているはずだが、バイクの性能を比べれば(と言っても、元ちとせがどんなバイクで通学していたかは未だに判っていない)、そんなことはハンディにはなるまい。

歴戦の強兵(つわもの)って感じですが、単に汚れているだけです。
'03/ 5/ 1
オレのバイク  撮影者:quickone

 そんなことを考えながら、嘉徳へ向かう坂道を下りきる。下りきったところには小川が流れていて、実は、オレはこの小川が大好きだったりする。良い季節に来れば、夜の岸辺は蛍で埋め尽くされるのではないだろうか。'02年の春は、そんなことを考えながら、この小川を一時間ほども眺めていたことがある。
 今日は、そんな悠長なことをしている暇はないので、小川に沿った道を進んで嘉徳の旧バス停に至る。
 午前6時20分、通学時間よりも二時間ほど早いが、今日が祝日だという事を考えれば、条件違いを数えあげるのはもうじゅうぶんだ。ストップウォッチ・モードにした腕時計をスタートさせる。
 しかしまだスタートしない。目を閉じてイメージを思い浮かべる。
「はげぇ、遅刻してしまう!」(注1)と叫んだ元ちとせは、家を飛び出してバイク(しつこいようだが車種不明)のエンジンを掛けながら「行ってきますぅ!」と叫んで、集落の道路(これは変わっていない)に飛び出る。
 オレも目をあけてバイクのギアを一速に入れ、クラッチをつなぐ。元ちとせとちがってこっちはヨソジマ(注2)の者だから、集落内は時速20km厳守だ。集落を抜けたら、小川に沿った道は40km/hを守ろう。しかし、小川と別れたところから、じょじょにマジになっていく。
「相手は高校生だぞ、原チャリだぞ」と自制しようとするが、そうそう悟り切れるものではない。坂を登りながらコーナーを曲がりながら、こっちが遅刻しそうな気分になっていく。
 実際、古仁屋港を午前七時に出る加計呂麻行きフェリーに乗る、というのが今日のスケジュールの最優先事項なのだ。いや、まさか間に合わないとは思わないが。

フェリーかけろま
'01/春
加計呂麻島にて。
撮影者:quickone


 再び国道58号線に戻って古仁屋を目指す。急な坂を下りきって役勝の集落を抜ける。
 なるべくスピードは控えめにとは思うが、気持ちのいい海沿いの道を潮気を含んだ朝の空気をすいこんで走れば、自制ってナンですかってなモンである。いちおうメーターは65km/h付近でとどめてはいるが。
 赤木名の橋をわたり、伊須への道を横目に見て、道はふたたび山の中に入っていく。ここも最近、道路工事が行われて曲がりくねった道が直線に替えられている。そして何より、古仁屋(元ちとせが通っていた古仁屋高校がある、瀬戸内町の中心)に至るトンネルが、三年ほど前に開通しているのだ。このトンネルを通れば三分ほどで古仁屋に至るのだが、オレは当初の予定通り、元ちとせが通っていた峠の旧道に向かう。
 オレが10年前、奄美にはじめてきた頃、名瀬市と住用村の間の和瀬峠、住用村と瀬戸内町の間の峠、そしてこの古仁屋の手前の峠道が、国道58号線の三大難所であった。その中でももっとも短く小さなこの峠が、じつはもっとも交通のボトルネックになっていた。ぎりぎり二車線分の幅しかないこの峠道は、大型トラックや路線バスの通り道でもあり、路肩も、追い越し可能な直線もない、時間帯によってはそこを通ることを考えるだけでも憂鬱になる峠道であった。
 それがトンネルの完成により、オレのようなモノ好き以外は見向きもしない道になっただろうと思ったのだが、幸いにも峠の稜線に造られた公園や、この旧道を通らないと行けないゴルフ場やらのおかげで廃道になるのは免れているようだ。
 「昔はのう…」とひとりじじいモードに入りつつ、意外と荒れていない様子に軽い驚きをおぼえながらも、峠を越えてふたたび国道58号線に合流する。合流してすぐに下り坂を下りきると、古仁屋小学校前の交差点だ。ここを右に曲がると古仁屋高校に至るはずなのだが、街中をうろうろして迷子になってフェリーに乗り遅れたのでは元も子もない。港まで行けば、高校に行ったのと同じくらいの距離になるだろう、と判断する。
 一年ぶりの古仁屋市街なのだが、こちらも三、四年前に区画整理をしてメインストリートの歩道をきれいにした後は、とくに変化はないようだ。
 古仁屋港に着き、ストップ・ウォッチを止める。
 21分59秒15。始発の加計呂麻フェリーにも間に合った。


注1.
方言指導は、東京都新宿区で奄美の島唄を習う森田三味線教室にて、奄美出身の皆様にお願いした。




注2.
奄美群島においては、それぞれの集落を「シマ」と呼び、同じ集落の人を指して「同じシマの者」と言う。集落が違えば、余所のシマの人という意味で「ヨソジマの者(人)」という。広義の奄美群島出身者としては「シマッチュ(島の衆)」と呼び、それ以外の人を「ヤマトンチュ(大和の衆)」と呼ぶ。沖縄県民がどちらに分類されるのかは、不明にしてオレは知らない。
オレの場合、ここでは「ヤマトンチュ」とすべきだろうが、嘉徳の人ではない、という意味でヨソジマという表現を用いることにした。



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