" Kanon" side story "DEPART FROM THIS WORLD"



         

      第I章 夏の初めに





 −・・・人は実現しうることを夢見るという。
   だがその実現がどのような形になるかは誰にも判らない−

                −上遠野浩平/ブギーポップ・ウィキッド−”エンブリオ炎上” より



         1


「ああ、飛行機雲だ、祐一君っ!」

 空を見上げながら、予期せぬ空の来訪者に瞳を輝かせながら、小柄な少女が側で作業をしていた少年に飛びついた。

「・・・って、飛びつくな!あゆ!」

 祐一と呼ばれた18歳くらいの少年があゆと呼ばれた少女の体を引き剥がしながら言った。

「しかし・・・もうすっかり夏だな」

 祐一は雲一つない晴天から降り注ぐ陽光のまぶしさに瞳を細めながら、空へと視線を映した。

どこまでも続く広がる空。

蒼穹の地平の遥か遠くに広がる海からの風が2人の頬を撫で、遠くでは雲雀の鳴く声が聞こえてくる。

「おらそこ!さぼってんじゃねーぞ!」

 祐一と同じくらいの歳格好の少年がそんな2人に「またおまえらは・・・」といった親愛と呆れの意味を込めた野次を飛ばす。

「仲がいいんですね、あゆさんと祐一さん」
 そんな2人を見つめながら、ショートカットの栗色の髪の少女がくすくすと笑いながら言った。

「笑ってないでこいつに何か言ってやってくれ、栞」

 あゆの体をひっつかみ、栞の前に置く。

「・・・そんなこと頼む人、嫌いです」
 そう言ってそっぽを向く栞。

「おまえら、漫才か?」
 そんな2人を見ていたもう1人の少年が言った。


「ま、ともかくわりいな北川。せっかくの休みに手伝わせちまってよ」
 祐一が北川と呼ばれた少年に言った。とその横から、

「でも香里も栞ちゃんも北川君も手伝ってくれてありがとう」

 と、どことなく浮き世離れした感のある青いロングヘアの少女が顔を見せた。

「べつにいいけど。でも名雪、この借りは必ず返してもらうからね」
 その横では香里と呼ばれたウェーブのかかった黒髪の少女が釘を刺すように言った。

「わかってるよ香里。ね、あゆちゃん?」
「え、ぼ、ボク?」
 いきなり振られたあゆが狼狽える。

「そりゃそうだ。お前の引っ越しだからな、お前が礼をするのが当然ってやつだ」
 祐一が言う。

「うぐっ」
「わたし〜イチゴサンデー4つ」
 名雪が続く。

「うぐぅ」
「俺は焼き肉かな。特上ロース食べ放題」
 北川が続く。

「うぐぅぅ」
「私は・・・そうね、お昼ご飯でも驕ってもらおうかしら?
最近駅前に出来たイタリア料理店、コースメニューがおいしいんだってね」
 香里の言葉。

「私、ハーゲンダッツのギフトセットがいいです」
 とどめとばかりに栞が言う。

「うぐぅぅぅ・・・みんな、ボクのお財布の中身判って言ってる?」
 目を潤ませてあゆが言う。

「ま、世の中持ちつ持たれつって事だ。礼はちゃんとしろよ、あゆ」
 祐一がぽんぽんとあゆの頭に手を置きながら言った。

「うぐぅ・・・そうする」
 深くため息をつきながら、あゆが言った。

「よっし、じゃあみんな後少しだから。ふぁいとっ、だよ」
 と名雪の気が抜けそうになるかけ声と共に、再び6人は作業を始めていた。



         2



「お疲れさま」

 あゆの引っ越しが終わり、居間でソファーに寝ころんでいた祐一、名雪、あゆに この家の主にして名雪の母親、水瀬秋子がグラスに入ったアイスコーヒーを3人の前に置いた。
グラスに浮かぶ滴と氷の音が、涼しげな雰囲気を醸し出す。

「あ、ありがとう秋子さん」

 にっこりと笑ってあゆがグラスを両手で掴みガムシロップとクリームを注いでコーヒーを口にした。
”こくこく”と喉を流れるコーヒーが火照った体を冷やし、疲れ切った体に甘みが心地よかった。

「でも、これであゆちゃんも私達の”家族”になるのね。嬉しいわ」

 あゆの向かいに座った秋子が微笑みながら言った。

「そうだね、あゆちゃんも一緒だと楽しいよ。絶対」
 名雪がそれに続いた。

「でも・・・ほんとにいいの?秋子さん・・・?」

 微かに視線を落としながらあゆが訊ねた。彼女はとある事件で7年の間眠り続け、 その意識だけが生き霊として遊離して、この街の中を彷徨っていた。

 それが去年の春に祐一や名雪との出会いを経て、再び肉体へと舞い戻り、覚醒していた。

 だが彼女の身内は無く、とりあえず両親の遺産が生活費に充てられて、しばらくはかつての自分の家で暮らしていた。

 が、そんなあゆを放ってはおけないと祐一と名雪があゆを水瀬家に迎え入れることを提案し、
秋子があっさりと了承してこの家への引っ越しが決まっていたのだった。

「いいのよ。家族が増えるのは嬉しいし。それとも嫌?私達じゃ?」
「い、いやぜんぜんそんなことないよ。絶対」
 ぶんぶんと首を振るあゆ。

「ふふ、いいんだよ遠慮なんかしなくても。居候はあゆちゃんだけじゃないんだから。ね、祐一?」
「俺に振るな・・・名雪」
 いきなり振られて祐一が言葉に詰まる。

「っと。んなことより提出しなきゃならないレポートがあったんだよな」
 祐一と名雪は隣町にある同じ大学の1年生だった。あゆは幽霊時代(?)の記憶のせいか とりあえず基礎学力はそこそこあり、義務教育は一応終了していたことになっていたことから、 来年祐一達の母校を受験することになっていた。

「あ、私も行くよ」
 続いて名雪が立ち上がった。

「あ、じゃあボクも勉強しないと・・・ああっ!」
 あゆが立ち上がろうとした瞬間、自分の鞄に足を引っかけてしたたかに顔面を打ち付ける。

 そして弾みで鞄の中身が床にぶちまけられた。

「うぐぅ〜〜〜〜痛いよう」
 涙目のあゆ。

「・・・進歩のない奴だな。ん、なんだこりゃ?」
 祐一が呆れながらも荷物を拾おうとした瞬間、一冊の皮で装丁された古びた本を見つけた。

「あ、とらないでよう」
 慌ててあゆが鞄にしまい込む。

「とらないって・・・秋子さん?」
 不意に祐一はその本に視線を落としている秋子に気がついた。

「え・・・ああ、ごめんなさい。何かしら」
 微かに驚きの表情を見せた秋子だったが、すぐにそれは立ち消え、いつもの微笑を浮かべていた。



         3



「・・・疲れたな」
 言いながらあゆはシャープペンを手元に置き、鞄の中身をがさごそと漁り初めた。

 やがて目的のものを見つけたあゆが”それ”を引っぱり出し机の上に置いた。
−宮沢賢治全集−
 と刻印された皮の装丁の本だった。

 最もタイトルを彩っていた箔はほとんどがはげ落ち、幾度も読み返されたのかページは手垢で黒く変色していた。

 暫しそれを見つめていたが、やがて感慨と悲哀が入り交じったような複雑な表情を浮かべて、
紐状の栞が挟まった一つのページを開いていた。

「・・・・・・・・・」
 その物語自体は決して長いものでもなかった。ただあゆはその古ぼけた本に印刷された一文字一文字をしっかりと見つめ、
物語そのものを瞼の奥で再現するかのようにひたすら読み続けていた。

「・・・あら、それ何のお話?」
「うぐ!?」
 唐突に後ろからかけられた声にあゆが飛び上がるように驚いた。

「ごめんなさい。別に驚かすつもりは無かったのだけれど」
 秋子がにこにこと笑いながら後ろに立っていた。

「あ、秋子さん・・・・びっくりしたよう」
 へなへなと安堵の息を浮かべて机に突っ伏すあゆ。

「何度ノックをしても返事がなかったから。ごめんなさいね」
「いや、別にいいんだけど、どうしたの?」

「これよ。洗濯物が乾いたから届けに来たの」
「あ、ありがとう秋子さん」
 秋子から洗濯物を受け取るあゆ。そして秋子の視線が不意に机の上の本に注がれた。

「・・・あら、『銀河鉄道の夜』ね」
 そのページには主人公と思しき少年が眼前に輝く巨大な光の柱に驚いている挿し絵が描かれていた。
 そして秋子は何かを思い出したように呟いた。

「・・・そしてジョパンニはすぐ後ろの天気輪の柱がいつしかぼんやりした三角形の形になって、
しばらく螢のやうにぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。
それはだんだんはっきりして、たうとうりんとうごかないやうになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。
今新しく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです・・・」

「ほえ〜・・・秋子さん暗記してるんだ。すごいよぉ」
 あゆが感嘆の眼差しを秋子に向けた。

「え、ああ・・・そうかしら」
「?」
 秋子にしては珍しく釈然としない答えを紡いだことに、あゆが首を傾げた。

 だがすぐに本に視線を落とし、淡々と言う。

「これね、ボクのお母さんからの最後のプレゼントだったんだ」
「・・・・・・」
 あゆの言葉に多少驚く秋子。あゆは続ける。

「この話を読んだ時ね、ボク初めて『生きる』ってことと『死ぬ』ってことを考えたんだ。
楽しいと思っていることや当たり前と思っていることは、実はいつ壊れてもおかしくはないんだって事
・・・そのことにすぐに気がつかされたんだ・・・・・・・・」
 あゆの体が微かに震えていた。遠い日に心に刻まれた傷跡は今だ癒えてはいなかった。

「そうね・・・でも、こう考えたことはないかしら?」
「え?」
 あゆの小さな体を後ろから抱きしめながら、秋子は言う。

「誰しもが逃れられないこと。それは確かにあるわ。でもね、今あゆちゃんは今こうしてここにいる。それもまた確かな事よ」
 一言一句、諭すように秋子は言う。

「そして、あゆちゃんは幸せは儚い、そう思うのね」
「うん」

「確かにそう。けれども、そういって幸せから逃げていたらそれこそ永遠に何も手に掴めることはないのよ」
「・・・・・・・・・・・」

「苦しい思い出は決して消えることはないわ。ましてやその思い出が愛しい人に関わることであるならなおのこと。
でもね、それを『補う』事は出来るの・・・以前いったかしら?私はあゆちゃんのお母さんになることは出来ない。
でも家族にはなれるって・・・」
 その言葉にあゆがはっと顔を上げた。

「失うことは辛いこと。でも、それを気にしていちゃ何も掴むことは出来ないわ・・・それを忘れないで」
 そして秋子はあゆに背を向け、歩き出した。

「秋子さん・・・」
 扉のノブに手を掛けた秋子に向かって、あゆが声をかける。

「秋子さんにも・・・そんなことがあったの?」
 愚問だ。とあゆは思った。自分の倍は生きているであろう人なのだ。それでも聞かずにはいられなかった。

 それを知れば自分の苦しみを癒してくれるから?

 それを知ればもっと分かり合えると思うから?

 幾つもの問いがあゆの中で繰り返され、そして秋子の答えを待った。


「それは秘密。けど・・・そうね、その時が来たら話してあげるわ。
きっとこれはあゆちゃんも、いいえ、名雪や祐一さんも知らなくてはならないことだから」

 微かに微笑み、秋子は言った。


         4 



 鬱蒼と茂った深緑の世界。枝を覆う無数の青々とした木の葉が空を覆い隠し、届く光は微かに足下に届く木漏れ日だけだった。

 足下は最近の雨のせいか半分泥と化しており、それを踏みつけると「ぬちゃり」とした泥の感触が足に伝わった。

 鬱陶しいほど耳に触る蝉の声、

枝から枝へと乱舞する小鳥達の群、

無数の命を育むこの森は、何事もないかのように「ここ」に存在していた。

「・・・・・・」
 だが祐一と名雪はただ無言でその道なき道を進んでいた。

 天へと精一杯枝を伸ばす木々も、

枝の上で囀る鳥達も、

存在を誇示するかのように鳴き続ける虫達も、
世界を育む太陽の輝きも、今の2人には無意味だった。

 葬列に並ぶ人々のように、或いは裁定を待つ罪人のように2人はただ歩いていた。

「ここは?」
 名雪が祐一に訊ねた。森を抜けた先は一面に広がる野原だった。

 草が風に吹かれて小波のようになびき、オレンジ色の斜光が草と2人の影を長く地に落としていた。

 祐一は無言でその真ん中にある一本の棒を指し示す。

「あれは・・・真琴・・・なんだね」
 名雪の言葉に祐一は懐から今の季節には珍しい肉まんを取り出して棒の元に添えた。それは、無言の肯定だった。


 棒の上には鈴のついたゴムの髪飾りがかけられており、吹き荒ぶ風雨にさらされ続けたのか、所々に錆が見えた。
 名雪に背を向けたまま、祐一は言葉を紡ぎ始めた。

「・・・かつて1人の少女がいた。
少女は何もかも忘れていた・・・いや、何も持っていない存在だった。そんな中に残されていたのは一つの願いだった・・・」

 空を見上げ、夕暮れの黄色い太陽を見つめながら祐一は続ける。

「・・・俺はそんな気持ちに気がついてやることも出来ず、 気がついたときはもう全てが終わりかけていた・・・・・・あいつの最後の願いを叶えるために、 俺は最後にあいつとここに来たんだ」
 微かに風が吹き、吊された鈴がかすかに”ちりん”と音をたてた。

「名雪は俺のことを好きだと言ってくれた。それは嬉しいと思う・・・
だがな、俺は自分を好きと言ってくれる人の前で何も出来なかった・・・そういう奴なんだよ」
 祐一の手は微かに握られていた。
やがて握りしめる手に力がこもり、爪が深々と肉に食い込んでゆく。

「・・・知ってるよ。お母さんから聞いた」
「・・・・・・?」
 意外な名雪の声に、祐一が名雪を見る。

「真琴がお母さんに話してた事があるんだって。

 −真琴はもうすぐいなくなるの。
   それが約束だから。
    でも、できるなら祐一といつまでもいっしょににいたい
     ・・・けっこんしたい−

 ってね。真琴はね、知ってたんだよ。自分の運命も何もかも、なにもかも」
 名雪は穏やかに言う。

否、いつもの調子を崩さずに言う。

怒ることなく、哀しむことなく、いつも穏やかに笑っている。彼女の母と同じように。

「祐一は、こう思っているの?『俺はとてつもなく酷い奴だ、だから俺とは関わらない方がいい』って」
「・・・・・・・」
 祐一は黙して答えない。いや、むしろそれが答えだった。

「・・・辛かったとは思うよ。でも、それをずっと傷にして自分を苦しめ続けるのは何か違うと思う。それに、祐一また忘れてる」
「忘れてる?俺が?」

「そう。お母さんが事故にあって、私がどうすることも出来なかったとき、そこから助けてくれたのは祐一だったじゃない」
 微笑を満面の笑みに変え、名雪は言う。

「名雪・・・」
「辛いことはあるけど、それに負けたら駄目。ふぁいとっ、だよ」
 名雪はそう言って祐一の手を取った。

「今度はお母さんやあゆちゃんも一緒に連れて来ようね」
「ああ・・・そうだな」

 従姉妹にして恋人の少女の手に満ちる、小さくも暖かい、人の温もり。

 不意に祐一は微笑んでいた。

 何故かは解らなかった。ただそうしたいからそうしただけだったのかも知れない。

 それでも、心が温まる。そうだと思えた。



       *



 ・・・2人が去った後に、立ちつくす人影があった。

 黒いコートに黒い帽子を身に纏い、さながら夜の闇を切り取ったかのような容貌を持つ男だった。

 去りゆく2人は男の存在に気がついていない。

 否、男の存在はあまりにも希薄で、周囲の自然と同化しているかのようであり、2人に何一つとして感じさせていなかった。

 男の目は少女に向けられていた。

 そしてその視線は慈愛と羨望に満ちあふれていた。

 自分が決して手の届かないところにいる、孤高の存在を見つめるようなものであった。

「・・・・・・・」
 男は何かを呟き、そして消えた。



 後にはただ、夕焼けの斜光と微かな風が残るのみだった・・・・



                  TO BE CONTINUED.......

  次回予告

 幸福とは何か?
 ふっと空を見上げて、俺は時々思いを馳せるときがある。
 だが世界はそんな感傷など許さず、現実は無情に襲ってくる。

 俺、相沢祐一の知り合いの少女達。
 1人は「奇跡使い」の少女であり、もう1人は裕福な世界に生まれた少女。

 だがその気になれば世界を掴めるかもしれない強大な力も、何不自由ない生活を得られるはずの富も、 彼女たちには不幸の引き金でしかなかった。

 気まぐれな運命は俺達を巻き込み、常世の門扉を開く。

 次回 " Kanon" side story "DEPART FROM THIS WORLD"
    第II章 部屋の中の銀河

 そして・・・俺達の長い夜が始まった。


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