序
天からは白く雪が舞い落ち、地平の果てから果てへと吹き抜ける風が枯れかけた草をそよがせていた。
街の灯りはさながら海の深淵にあるという竜宮の景色のように灯り、
街の人々の喧噪や笑い声すらもが微かに聞こえるような気がしていた。
そこに至る道から小さく汽笛が聞こえてきた。その列車の窓が一列小さく紅く見え、
その中にはたくさんの旅人がそれぞれの思いを抱きながらどこかへ向かおうとしていることが漠然と理解できた。
女は深い蒼の髪を三つ編みにまとめ、その腕には同じ色の髪を持つ1人の赤子を抱いていた。
男を暫し見つめた後に、胸の中の赤子に髪と同じ色の瞳を向けた。
「・・・どうしてなのかしらね?その役割が『あなた』である必然が何処にあったというのかしら・・・」
女は泣いていた。
それは己に最も近しいものとの永久の別れを意味していた。
誰一人望まぬその現実に女は耐え、震える肩で赤子を抱いていた。
「・・・だが、私はそれをやらねばならない・・・
男は夜の闇と見まごうほどの黒髪に合わせたマントのようなロングコートを纏い、
「・・・・・・」
男が女に歩み寄り、空いていた左手でそっと女の目元を拭った。
「・・・・・・」
ほんの些細なきっかけで崩れそうな表情を女は向けた。
「・・・・・・秋子、名雪」
「赦してくれ、などと言うつもりはない。だがこれだけは忘れないでいてほしい。
「・・・いつか再び、貴方との奇跡が起こるというの?それに、今のこの時は・・・・・・・私の望んだものではないわ」
秋子はその眼に男の姿のみを映し、懇願するように問いかける。
「それは判らない。ただ、全ての生命はいずれ還るべき所に還り、そして新たな生命となり再び世界に生まれ落ちる。
それをお前が望むなら、今の形ではなくとも、きっと奇跡は起こせる。
それに、今の私の運命が不幸だなどとどうして言える?幸福も不幸も形などない。
自分が正しいと思うことを為して進むというのなら、それは幸福と言うんじゃないだろうか?」
再び秋子の目元を拭い、男が2人から離れた。
「この子が・・・名雪が・・・せめて名雪が貴方の顔を覚えてくれるまで、ここにいてほしかった」
「・・・・・・」
「・・・来たか」
緊迫の面持ちでそれを見つめる2人を横目に、目を覚ましたらしい名雪がまるで愛しいものに出会ったかのように幼い手を伸ばす。
男はそんな名雪に微笑みかけ、秋子は聖母の微笑みで名雪の頭を撫でた。
「全ての始まりであり終わりであるところ。時に積屍気と呼ばれ、ある者は天気輪の柱と、銀河ステーションと呼んだ・・・か」
男は右手のナイフを両手に持ち、柱と対峙するかのように構えた。
−ぽぉぉぉぉぉぉっっ−
機関車の汽笛にも似た音が、その空間に響きわたった。
ぐっ、と秋子が目を閉じる。
男はナイフを天高く掲げ、そして・・・・・・
−とすっ−
その代わりに男の体が微かに青白く輝き、そして風に晒される砂細工のように、さらさらと崩れてゆく。
「そろそろ行くよ」
振り返らず、男は言う。
「・・・貴方はいつまで、縛られるというの!?」
嗚咽の混じった声で、秋子が問う。
「・・・永遠も刹那ももう意味をなさない世界に私は行く・・・全ての命のために・・・それだけだよ」
蒼い粒子と光が重なり合い、柱がより太く、まばゆく輝いてゆく。
男を吸収した柱は一際明るく輝き、そして消えた。初めから何もなかったかのように。
この世の全ての絶望を一身に受けたかのように、秋子は泣いた。
幼い我が子を強く抱きしめ、秋子は泣いた。
いつまでも・・・いつまでも・・・
降り注いでいた雪は止んでいた。
東の空は群青色に染まり初め、夜明けの到来を告げていた。
ふらりとしたおぼつかない足取りで名雪を抱きしめ、秋子は立ち上がった。
遠くに広がる街を見つめ、秋子は歩き出した。
奇跡を見たあの冬の日が遠い思い出に還る頃、水瀬家にあの子がやってきた。
私、水瀬名雪を初めとして、あゆちゃんを歓迎するお母さんと祐一。
・・・癒されない傷跡を抱えたまま、人は生きていくのかもしれない。
次回 " Kanon" side story "DEPART FROM THIS WORLD"
ご期待ください。
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18年前の事である・・・・・・
遠くに街の灯火を映す小高い丘の上に、一組の男女が立っていた。
全てが決められているのか、或いは私が生きてきた中で生まれた何かの因果なのか・・・それすらも判らない」
そして右手には黒く輝く黒曜石を削りだしたナイフを握っていた。
「!?」
そして男は秋子と呼ばれた女と、その胸に抱かれた名雪という赤子をその広い両腕に包み込んだ。
人が生き、そして他者との邂逅を果たすことはそれ自体が一つの奇跡なんだ。私とお前は一つの奇跡を起こした。満足している」
その言葉は別れを前にするものでありながらあまりにも淡々として、そして言いしれぬ深い悲しみを内包していた。
秋子はただ名雪を強く抱きしめ、この事態をただ受け止めるしかない己の無力さに打ちひしがれていた。
−ゴウッ−
一際強い風が吹く。
刹那、彼等の背後に日の光にも匹敵するまばゆさをたたえた天まで届かんばかりの巨大な光の柱が生まれた。
「・・・・・・」
「あうぅぅぅ?」
そして男は柱の前に立ち、呟いた。
黒い刃が突き立てられた男の胸からは、不思議と一滴の血も流れだしてはいなかった。
男の体が粒子となり、光の柱へと消えてゆく。
*
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
悲痛な叫びだった。
*
やがて世が白み始めた。
愛娘に慈愛の笑みを浮かべながら・・・・・・
・・・・・・18年前のことだった。
次回予告
7年の時を越え、この世に降り立った天使の子・・・あゆちゃん。
新しい生活が始まろうとするとき、それでも傷跡は誰の心にも残っていた。
あゆちゃんにとってはお母さん。
祐一にとっては真琴。
第I章 夏の初めに