越後瞽女(えちご ごぜ)


1、瞽女について

信州と境を接する越後の南西部を頸城(くびき)といいます。現在は上越地方と呼ばれその中心の上越市は昔、高田藩の城下町でした。頸城は西頚城・中頚城・東頸城の三郡に分かれ、西は糸魚川から大町(長野県)に通じ、南は妙高から北国街道を、または新井から飯山街道を善光寺に通じ、東は十日町から飯山(長野県)へと通じていました。これらの道を大きな風呂敷包みを背負い、つま折れの笠をかぶって、蹴出しに草鞋(わらじ)ばき、そして三味線を弾き、唄を歌い、村々を回って暮らしを立てていた盲目の女性集団を 「越後瞽女」 といいます。
瞽女とは 「御前」 がなまったものともいわれて、静御前のように歌や踊りを職業として各地を漂白した女性集団の流れをくむものとも考えられています。
室町時代の 「七十一番職人歌合」 に鼓を打ちながら歌う盲目の女性の姿が描かれていますがこれが文献に現れた最初の瞽女であろうと言われています。瞽女は座頭(盲目の男性)のように全国的な組織を作らず、それぞれの地方で 「瞽女仲間」 と呼ばれる組織を作っていました。中でも越後の瞽女は勢力が盛んで、信州から関東にかけて進出したため瞽女といえば「越後瞽女」 と言われるようになったのです。


2、高田瞽女の成り立ち



越後瞽女の主流をなしたのは「高田瞽女」 と「長岡瞽女」 でした。この二つの 「瞽女仲間」 は組織のあり方などに大きな違いがあります。高田瞽女は、親方(師匠)が家を構え、弟子を養女にして自分の家で養いました。親方はヤモチ(屋持)と呼ばれ、明治の末に17軒、昭和の初期に15軒でした。これらの親方が座を作り、いちばん修業年数の多い親方が 「座元」 となり高田瞽女の仲間を統率しました。こうした 「座元制」 の高田瞽女対して、長岡瞽女は 「家元制」 でした。
長岡の町に 「瞽女屋」 があって代々 「山本ゴイ」 を名のる大親方が住み、総取締りに任じていました。長岡の瞽女屋で修業して免許をもらった師匠は、各地で弟子を養いその地方で 「組」 を作りました。組頭は長岡の大親方と結ばれ、地方の瞽女を統率しました。親方が弟子を養女にして、一生同じ家で生活した高田瞽女に対し、年季が明ければ独立して弟子を取れる長岡瞽女の方が、近代的な組織であったと言われます。






3、唄に生き旅に生きる



瞽女の弟子になった幼子も唄と三味線の厳しい修業をしてきました。
瞽女唄の伝承は総て口移しで行われ、親方は七五調の文句が延々と続く瞽女唄のひとこと(一節)ずつ区切って教えました。道を歩く時も風呂に入る時も、ありとあらゆる機会ににお経を唱えるがごとく暗唱させました。三味線の稽古は、教える方も習う方も目が見えません。親方が弟子の背後に回り、棹を持つ弟子の左手の指に自分の指を添えて糸の押さえ方を示し、右手は撥を持って弾き、鳴らし方を教えました。冬は火の気のない窓を開け放って寒稽古でのどを鍛えたり、一人前になるまでの修業は大変なものでした。17件の親方達は、それぞれ2,3件ずつ組を作って旅をしました。ハンノキの並ぶ田んぼ道を、手引きを先頭に連なって歩く瞽女の旅姿は頸城三群の風物詩でありました。高田瞽女は1年のうち300日は旅をしたといわれます。頸城三郡の他に魚沼や十日町、また上州番と信州番というものがあって、高崎、前橋、長野、上田、佐久などにまで巡業しました。村々には無償で瞽女たちをとめて世話をしてくれる家があり
「瞽女宿」 と呼ばれていました。地主などの旧家が瞽女宿を引き受け、瞽女の泊まった晩は村人を集めて瞽女唄の興行を行いました。村の人たちは、毎年きまった時期に渡り鳥のようにやってくる瞽女の来訪を楽しみに待っていて、家族総出で唄を聴きに来たものでした。





4、最後の親方杉本キクエ




農村を基盤にして村人に芸を披露した報酬として米などをもらい生活してきた瞽女たちは自分の芸を生きがいに誇り高く生きてきました。娯楽の少なかった農村で温かく迎えられ、鍛えた芸に惜しみない賛辞が与えられました.。
しかし戦争が始まると、農民にも瞽女唄を楽しんで聞くゆとりがなくなって、戦前に15軒あった親方で廃業する者も出てくるようになりました。さらに戦後の農地改革で地主が没落すると、それを頼りに旅をしてきた瞽女宿も消滅してしまい、瞽女の暮らしは成り立たなくなりました。世の中が変わってだれも瞽女唄などに耳を傾ける者がいなくなり、高田瞽女仲間に廃業の嵐が吹き荒れる中で、ただ1軒踏みとどまったのは 「最後の親方」 といわれる杉本キクエでした。キクエは、杉本シズ、難波コトミの2人の弟子を抱えて、それでも昔の唄を聞いてやろうという村々を頼りに細々と旅を続けました。キクエは、若い頃から下の者の面倒をよくみて慕われ、組の親方達にも信頼される聡明なしっかりした人柄で、たくさんの瞽女唄を記憶している立派な瞽女でありました。このような人が瞽女を続けてくれたことは高田瞽女のためにも、貴重な文化遺産である瞽女唄の保存のためにもまことに幸運なことだといえます。
「おらは、これしか生きる術を知らんから」 といい、生涯を瞽女として生き抜いた杉本キクエは、1898(明治31年)年諏訪村(現在の上越市)に生まれました。麻疹のために6歳で失明して高田東本町5丁目の杉本マセ親方の養女になりました。マセは幼いキクエを慈しんで育ててくれましたが、芸の修業は厳しかったようです。雪解けの3月に雁木の町の瞽女の家にもらわれてきて、赤い鼻緒の下駄を買ってもらったキクエは、4月にはもう西頚城へ初旅に出ています。入門して7年経つと 「名替え」 の式があって一人前の瞽女となります。10年経つと 「本瞽女さ」 となって瞽女仲間から 「あねさ」 と呼ばれます。キクエはつらい修業に耐えて高田瞽女仲間でも1、2を争う売れっ子の立派な瞽女になっていきました。 「芸は一生、死ぬまで稽古忘れんな」 が遺言でした。それ以来キクエは、親方として二人の弟子と瞽女の道を歩き続けて来たのです。






5、重要無形文化財に



戦後の世の中が落ち着いてきて、広い視野から民衆の伝えてきた文化を掘り起こそうと言う機運が高まってくると、細々と旅を続けていたキクエ達三人の高田瞽女にも関心が寄せられるようになりました。1954(昭和29年)年に瞽女唄が初めてラジオ放送され、同年新潟大学高田分校音楽教室で、日本で初めての瞽女唄の録音が行われました。 1955(昭和30年)年には、ウィーン国立音楽大学教授でハープシコードの世界的演奏者であるエイタ・ハインリッヒ・シュナイダー女史が高田瞽女を訪ねられキクエ達の瞽女唄を聞き「雅楽は演奏者が現代人だから古典音楽の精神が伝わってこないが、高田の瞽女たちは、瞽女唄と同じように古い生活を守っている」と感激して世界に高田瞽女を紹介されました。
キクエが、もう旅をやめようと決心したのは、東京オリンピックのあった1964(昭和39年)年の秋のことでした。日本が高度成長に向かってひた走り、農村から芸者や出稼ぎの男達が都会へと出て行きました。泊めてもらうつもりで立ち寄った昔の瞽女宿の大きな旧家におばあさんがぽつんと一人で住んでいました。おばあさんは、近所の人に頼んでご馳走を作り歓迎してくれました。昔話に夜の更けるのも忘れた翌朝でした。「昨晩は、村中の人が集まって、それは賑やかで楽しかった頃を思い出さしてもらった。ありがとう。これは私の形見ですよ。」と珊瑚のかんざしをキクエさんの髪にさしてくれました。キクエは、そのかんざしを、長かった旅から旅の人生にもらった褒美だと、いつも髪にさしていました。その翌年芸術祭参加の民俗芸能部門に呼ばれ東京の舞台に出演した高田瞽女は、二千人の聴衆に深い感銘を与えました。1970(昭和45年)年、杉本キクエは、国の重要無形文化財に指定されました。盲目の女性であるがためにいわれなき差別を受けながらじっと耐えて何百年も語り伝えてきた高田瞽女の芸がようやく国に認められたのです。
キクエは85歳で亡くなるまで唄の修業を怠りませんでした。「唄の文句を忘れてしまった。もう生きているかいがない」というのが最後の言葉でした。



 

杉本家 旧町名・本誓寺町、現在・東本町4丁目


名前 生年 出身地 芸名 名替え 別名 備考
ませ 半盲 弘化4年 高田本誓寺町 とき つねよし
はな 嘉永2年頃 谷濱村長濱
ゆき 安政6年頃 高田
つね 慶応6年頃 桑取谷皆口
かつ 明治9年 名香山村赤倉 うたはる 赤倉瞽女
さつ 半盲 明治11年頃 新井
かとう 明治12年頃 有田村三田
りん 明治14、5年 斐太村猪野山
しま 少し明 明治15年頃 津有村戸野目 17、8歳で死ぬ
きよ 明治19年頃 大和川村梶屋敷
ふさ子 明治24年頃 潟町村小船津濱 さわ うめのえ おふさ 2ヵ月後、草間へうつる
きくの 明治24年頃 新井 きくの 本名、そめ
つや 明治29年頃 原通村四ツ屋 本名、ちの
キクエ 明治31年 諏訪村東中島 はる はつうめ
そよ 明治31年 上杉村今保 ますえ ふじのえ
きのえ 明治38年 能生谷横道 きのえ つやはな 本名、土川シモ
たけの 明治43年 沖見村打場 たまはな
コトミ 少し明 大正4年 牧村上牧 きよ 本名、難波コトミ
シズ 大正5年 矢代村岡澤 しずえ 本名、五十嵐シズ























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