長岡瞽女(ながおかごぜ)




長岡瞽女頭山本ゴイの由来



山本ゴイ

長岡瞽女は、越後のほぼ中央に位置する城下町の長岡に本部の支配所を置き、中越一帯に配下の瞽女を擁した集団です。長岡組、あるいは長岡派とも言われています。明治中頃には組下の瞽女は400人に達したといい、日本最大の集団を形成しました。固い支配体制を敷いて、芸業の進歩、発展に努め、地元は言うまでもなく遠隔地にも足を運び、積極的に活動しました。
長岡の本部支配所は通称「瞽女屋」と言います。そこに瞽女頭の山本ゴイが住み、組下の瞽女を統率しました。ゴイの名は、瞽女屋山本家の戸主で瞽女頭になった人が世襲しました。そのゴイの初代の人は長岡城主牧野氏に縁故があり、生来盲目のため宰臣の山本家へ養女に遣わされ、元禄の末に柳原町へ分家に出て、享保10年(1725)より古志、三島、刈羽、魚沼、頸城五郡内の牧野家本領や預かり所の村々の瞽女頭にして、通称を山本ゴイと定めました。
享保13年3月、長岡城下に大火があり、それは三蔵という者の放火でしたが、ゴイの家が火元であったことから町払いを命じられ、大工町裏(現、長岡市日赤町1丁目)に移り、邸宅を再建して、今まで通り瞽女頭を務めたといわれています。
山本ゴイの後継者は、大勢の組内瞽女の中から、目が少しも見えず、品行端正で仲間の亀鑑となるような老齢者を選び、寺社奉行の許可を得て、呼称をカサマと名づけ、ゴイの家事を支配させて、仲間の規約に違反するものを罰し、勝れる者を褒め、ゴイが死去すれば家督を相続して、通称の山本ゴイに位するものと定めたと言われています。




長岡瞽女の居住形態と管理体制



長岡瞽女の多くは在方の集落に住んでいました。生家に居ながら師匠から芸を習い、そこを本拠として家業活動を展開しました。師匠は自分の生家に居て近在から弟子を受け入れて瞽女を要請しました。そういったことから、長岡瞽女は里方集団であるといえます。皆高田に住むいわゆる町方集団の高田瞽女とは大きく違っていました。
師匠は複数の弟子を抱えるのが普通でした。その師匠と弟子の集団が「組」を作り、組単位で巡業をしました。その組は、親方師匠の居住地名を冠して呼称されました。弟子もまた、年期修行を終われば出世し、師匠となり弟子をとることが許されました。このように、はじめに先祖師匠が結成した組から、時代の経過に伴い多くの子組み、孫組みなどが生まれゆく可能性を持っていったのです。長岡瞽女には、こうした組が全盛期に幾つも存在したと言われています。






弟子入り修行と厳しい掟



弟子入り修行は年規制で、はじめに弟子入りの年期契約をし、師匠から瞽女名をもらって瞽女の修行に勤しみます。師弟関係は徒弟制そのもので、覚えるべき語りや唄い物は数多く厳しい芸の道でした。長岡瞽女の年期は21年と長く、これほど長期の修業ををも泊める芸能集団は他にあったでしょうか。それはまた年功序列を重んずる仲間社会なのです。
長岡瞽女にも数々の規則や掟がありその違反者に対しては厳しい処罰がありました。殊に大組で藩主の娘を初祖とするという伝承を持つ瞽女頭を持ついただいている長岡組には格別強固なものがあった。もっとも重い罪は男と密通したり、客の相方となって宿泊などをすることでした。そうしたことでとられた懲罰の方法は「年落とし」でした。修業年限を削り取ることで、入門年限の延期ということになります。その判断は山本ゴイと何人かの年寄りの親方とで相談し、毎年一回開かれる妙音講の席で申し渡しました。5年、10年と年を削られるのでありますが、重い時は入門初年に戻し、名前を替えることもありました。
弟子瞽女は、こうして地方の生まれ故郷に居て近くの師匠について芸を習いましたが、長岡大工町の瞽女屋でも地方に居る親方師匠を詰めさせて地方から上がってくる若い瞽女に稽古をつけました。また山本ゴイが直々に教えることもありました。常時指導の体制はできていました。瞽女屋は芸能学校、音楽学校の役割も果たしていました。





明治の新しい組織作り



長岡瞽女は、明治時代に新しい組織作りを行いました。年月不明ながらまず「大工町瞽女組合」を作り、ついで明治31年2月にこれを「中越瞽女矯風会」と改称し、規約を改正して新しい体制にしました。その目指すところは、社会人智の開化につれ、将来の社会に備えて、同業者の生活業の安全を保たしめんがためというのでありましたが、文字通り、組下瞽女の風紀を正すことに主眼がありました。矯風会では長岡大工町の瞽女やに本会事務所をおき山本ゴイを会頭に選任し、また、その下に福会頭、助役、事務員各1名を任命、また、支会事務所を三島郡など八郡に置き、そこでも福会頭、事務員各1名を配置しました。福会頭は、いずれも各郡内の有力な親方衆が選任されました。この体制は、郡ごとに取り締まりの責任を持たせたもので、きめ細やかな目配りであったといえるが、これが実際にどのように効果を発揮したか、いつまでその体制が維持されたかなどは、明らかではありません。しかし、この新しい組織作りは、激動の近代社会に盲人芸能集団が取り計らった意気込みを示すものであり、注目に値することです。





長岡瞽女の衰退と終焉




長岡瞽女は、盛時(明治中頃)に400人を越えたというが、時代の下降とともに次第にその数を減じ、第二次大戦前から戦時中に掛けて70〜80人になりました。昭和20年8月1日夜の米軍機による長岡空襲で、瞽女屋は、焼失し、瞽女も四散して、支配所としての機能を失ってしまいました。最後のゴイを務めた山本マスは昭和39年10月に没しましたが、生前男の養子を迎えていたので、山本家は今も存続しています。多くの瞽女が、廃業した中で、最後まで門付け巡業を続けたのは、山本マスが若いとき所属した長岡瞽女の一派岩田組(三島郡越路町岩田に先祖師匠が出た組)の瞽女金子セキ、中静ミサオ、手引き関谷ハナさんの3人でした。この3人組は昭和51年秋まで中越地方を門付けしていましたが、その後、金子さんが北蒲原郡黒川村の盲老人ホーム“胎内やすらぎの家”に入所し、中静さんも翌52年の春旅を最後にやすらぎの家に入所しました。これが長岡瞽女の門付け家業の最後の旅でした。
平成17年4月25日、最後まで活動されてき小林ハルさんが、105歳で亡くなられました。








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