瞽女宿(ごぜやど)





瞽女宿と旅の暮らし



高田瞽女たちが年300日あまりの門付けの旅の泊まり宿であった家を瞽女宿といいます。高田瞽女の旅稼ぎを支えてきたのは村々の瞽女宿のネットワークでした。藩から指定されたわけでもなく、誰に頼まれたわけでもありませんが、盲目の女性集団の宿を百年二百年と代々引き受けてきた瞽女宿が、頸城三郡(東頸城、中頚城、西頚城)から信州にかけて1000軒以上もあったということは驚くべきことでした。
瞽女は2〜3人の親方がそれぞれ弟子を連れて合同して旅をします。これを組みと言い高田瞽女は、5組か6組でぶつからないようにコースを代え日程をずらして稼働していました。
瞽女宿は10人ほどにもなる瞽女たちを無償で泊め、手厚くもてなし村人を集めて演奏会の会場を提供します。財力のある大きな屋敷を構えて何人も使用人を置くような地主、庄屋などが瞽女宿になっていました。
瞽女宿を朝出発して次の瞽女宿に着くのは午後になります。途中弁当を使わせてもらう家も決まっていました。宿に荷物をおいて門付けに回ります。戸口に立って「かわいがらんせ」などの門付け唄をうたいます。家の人が米をくれます。これが瞽女の稼ぎになります。
門付けが終わると風呂に入って旅の垢を流し、髪を結い、舞台衣装に着替えて準備します。ひと通りの演奏(段物、口説、民謡など)が終わるとお開きになり、村の男たちが残って宴会になります。瞽女は芸者代わりに求めに応じて夜遅くまで宴席を勤めました。
門付けで集まった米は、瞽女宿に引き取ってもらいます。目が見えないのに三味線を弾いたり自立した生活のできる瞽女は、特別の霊力があると信じられ、「瞽女の百人米」といって子どもに食べさせる風習がありました。養蚕地信州の旅には、三味線の弦の切れ端を持って行きました。蚕棚につるしておくとよく桑を食うといわれました。
旅の最後の晩に(勘定)をします。組でしっかりした姉さんが会計係となり全員の稼ぎを預かっていて、それを参加した頭数でわって配分しました。











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