(七)

 芝居じみた里子のふりをしての台詞を話して聞かせる由里子を見た時、その“推理”よりももっと驚かされることに気が付いて愕然とした。
 由里子はテーブルの上に『悪魔の手毬唄』を開いて私に自分の引用しているページを見せていたのだが、驚いたことに由里子自身はそれを見ることもなく、暗唱しながら話しをしていたのだ。一体、暗記しているということにも驚かされたが、それよりも何が『悪魔の手毬唄』の部分まで暗記させるほどまで由里子を駆り立てているというのだろうか?という疑問がまたしても沸き上がってきた。…いや、果たして由里子が暗記しているのは一部だけなのか…。それとも…。そう考えると背筋を冷たいものが流れるような思いがした。
「じ、じゃ、何、お幹は泰子も老婆も見ていないのに、里子にそう言われただけで見たかのように思い込んでいたってこと?」
「最初のお幹の証言のところ、道で磯川警部に泰子と老婆のことを尋ねられたところで『泰子と出会ってすれちがったというのである。そのとき、泰子は弓のように腰のまがった老婆といっしょで、老婆は手拭いを姉様かぶりにして、もんぺをつけ、尻切れ草履をはいていた。…』って書いてあるわ。暗くなった道で、木の陰にかくれてやりすごそうとしている時に、こんなにハッキリと老婆の様子を憶えていてそれを説明できるなんてちょっと不自然じゃない?…。お幹さんって人は金田一耕助に里子のことを尋ねられた時『おそらく他人の読む本などに、なんの興味ももたないのだろう』ってすらいわれてるような人なのに。…だから、事情聴取されたくらいで混乱して、さも自分に今度の事件の全責任があるようなことまで言っちゃうような人になら、上手く囁いてあげたらすっかり自分が見て無いものだって見たように思えちゃうんじゃないかな…。ましてや、相手が里子だったら尚更のことね。…それから、泰子と老婆を見たという証言にはもう一つおかしなところがあるの」
 どうやら、やはり由里子の頭のなかからは好きなだけ『悪魔の手毬唄』の文章が出て来るらしい。
「もう一つおかしなところって?」
「あの手紙よ。『あなたのお父さんのお亡くなりになったときの秘密について知りたいと思ったら、今夜九時、桜のお大師さんの裏側へおいで下さい。重大な秘密を教えてあげます。放庵。泰子さんへ』っていうあの呼び出しに使われたのではないかというやつね。…この手紙、変だと思わない?」
「変?…変も何も、最初の一枚が抜き取られていたからだろ?」
 由里子はそれまでの真剣な表情をほんの少し緩ませてニコリと目を細めた。
「だから木村さんって好き。あたしがして欲しいと思うように切り返してくれるんだもの」
 …と、いうことは、所詮私は由里子の手の中で踊らされているだけなのだろうか?と思いながらも由里子が言葉を続けるのを黙ったまま待った。
「手紙が抜き取られていたっていうのは、『父の死の秘密』という部分に関してだけ重要な意味を持っていて、それが、昭和七年の事件について関わってくるから重要な証拠として扱われているけど、時間のことや呼び出し先として指定してある場所に関して、金田一耕助は何も触れてないのよ。…あたしが変に思うのは、なんで『今夜九時に桜のお大師さんの裏側へおいで下さい』って時間と場所まで指定してあるのに、それより早く泰子を呼び出して連れ出さなければならなかったのかってことなの。もし金田一耕助がいうようにリカが犯人で、泰子へのこの手紙もリカが放庵の名前で書いたものであるならば、九時に泰子が桜のお大師さんの裏側に来るであろうとわかっているのに、わざわざ金田一耕助と磯川警部を追い越して老婆に扮して誘い出していることになるけど、それってやっぱり変でしょ。逆に言うなら、九時に泰子が桜のお大師さんの裏側へ来ることは予想できても、その前に泰子がどこでどうしているかなんて、亀の湯にいたリカにはわからないのだから、呼び出しの手紙のとおりに犯行を予定していた方が自然でしょ。だからリカが老婆になって泰子を誘い出したというのは、ここでも眉唾になっちゃう訳。リカが犯人じゃないとしたら、別の犯人以外に老婆になる必然なんてないんだけど、里子が犯人ではないかという前提に考えると、里子の泰子と老婆目撃証言そのものが疑えるわけだから、それを偽証だと考えると、この老婆問題はぜんぶチャラにできちゃうのよね。だって最初から存在していない老婆の影を探していたんだから…」
 由里子の言葉が少し途切れたところで、私は思わずふーっと深い息を洩らしてしまった。もちろん、由里子の“推理”に溜め息をついたわけではなく、単に由里子の言わんとしていることを少しでも理解しようと集中していた為に身体が思っていた以上に強張ってしまってたのを解きほぐしたいからだった。
 そんな私を見て、由里子はハッと我にかえったように、
「あ、ごめん。一人でいい気になってしゃべっちゃって。…聞いてるの疲れちゃった?」
 と心配そうに訊ねて来た。
「いや。疲れてなんかいないけど…。なかなか一度に全部理解しようとしても、こっちは付け焼き刃程度の記憶だから、付いて行くのがやっとって感じかな…」
「そう…だよね。…ね。お腹すかない?」
「えっ?」
「なんだか久し振りに沢山しゃべったからお腹すいちゃった。コーヒーも冷めてきちゃったし、木村さんの車も置いたままにしておけないでしょ。…だから、木村さんの車を取りに行って、その足で朝ご飯でも食べに行かない?」
 そう由里子に言われてみると少し腹も減っているのかも知れないという気もしてきた。
 由里子が立ち上がるのに合わせて椅子から立ち上がろうとした時、『悪魔の手毬唄』を持って行くかどうか少しの間考えた。そんな私を見て由里子は
「そんなの持って行くことないよ…」
 と言ったが、私としては乗りかかった船だから、最後まで由里子の話しを聞いてみたい気持ちもあり、その為にはやはりテキストがないと振り回されっぱなしになってしまうような気もしていたのだ。
「…これって門外不出なの?」
「そんなことないけど…」
「じゃ、持って外にでても構わないかな…」
「いいの?」
「だって、これがないとどれだけお前の話しについていけるか自信ないから…」
 そう言って由里子に笑いかけると、由里子は何も言わずに私の横にすり寄ってくると私の手をぎゅっと握りながら少しの間私の肩の上に頭をもたれかけていた。
 二人で由里子の部屋を出ると四月の春らしいおだやかな空気が心地よかった。由里子は私の手を握ったまま離そうとしなかったので、二人とも黙ったままお互いの存在を確かめ合いながら並んで大通りまで歩いた。
 タクシーを拾って私が車を停めてある場所まで行き、私の車に移って由里子に教えられるままに由里子の知っているカフェテリアとも軽食レストランとも言えるような店へと向かった。


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