第二楽章
(8) イタリアのニスと彫刻師アルプスアルプスのキリスト――1667年
ニコロ・アマーティのバイオリン、ビオラ、ビオロンチェロの夢幻的な甘美な声音を知っているものにとっては、この老人がいかに頭に血がのぼりやすく、喧嘩っぱやく、騒々しいかとても信じられないだろう。彼は一日中走りまわり鼻をぴくぴくさせ、がみがみと小言をいい、起こり、家のなかや、庭や、仕事場、家畜小屋、畑や、使用人の住居のん化をこちょこちょと行ったり来たりする。すべてを自分の視野におき、すべてを自分の考えにしたがって指図した。彼のなかにはいらだちがめらめらと火の手をあげていた。自分の仕事ばかりか他人の仕事についての永遠の不満が彼を責めさいなんでいた。しかし時には、おそらく、それでもすべてのむだを許容することができたときだけ、微笑を浮かべ、この世のどんなものよりも最も甘い、しかも心休まる声を響かせる楽器を製作するのだ。
「響かせる」という言葉はここでは必ずしも正しいとはいえない。響くと言う意味なら、たぶんブレッシアのバイオリンのほうがひびくし、うたうというならチロルのバイオリンのほうがうたうかもしれない――しかし、ニコロ親方の作品は泣き、そして笑う。だがそれは、ニコロ親方の作品とて、ニコロ親方と同様に、この世のすべての虚(むな)しさと、空しさの美と、そしてまた、その虚しい美の使命をも突きつめることができたとき、はじめて老人と同じようにほほ笑むことができるのだ。
ニコロ親方には一つの大きな秘密の悩みがあった。そしてこの悩みのなかに、これらのすべてのことの原因があるのだった。彼の大きな悩みの種は息子のジロラモだった。アマーティ家の長い家系をふりかえるかぎり、おのずと喜びがわいてくる。なぜなら彼の家族は弦楽器の誕生とともに大きく枝を張り、成長し、成熟し、大小の梢と葉でおおわれているからだ。しかし目を未来に向けると、その木はとたんに貧弱になってしまうのをいかんともしがたいのだ。ジロラモは従順で、きちょうめんで、いい少年だ――しかし、彼を駆り立てるいかなる情熱もないのだ。疑問に悩まされることもなければ、彼の手のなかにあるカエデの木にたいしてさえ、新しい使命にたいする歓喜の予感で息を弾ませることもない。
彼は非常に仕事熱心だった。ほかの誰よりも早く起き、見習い職人が自分の部屋から降りてきたときには、いつも仕事場で、すでに何かの仕事にとりかかっていた。ネックをけずったり、渦巻きを彫ることもできた。木や地塗り、形やニス、その他にかんする仕事のどんな技術も熟知している。だが、父親のニコロは息子の正確な、秩序だった、すごくきちょうめんな仕事ぶりを悲しげに見やっていた。ジロラモの手つきは実に巧みではあったが、どうした運命の気まぐれか、それらの技巧は芸術家の手によるものではなく、どうひいき目に見てもそれは単なる職人の器用さにすぎなかった。ニコロは自分のこの王国を息子に譲ることができないことがわかっていたし、そのことが非常に大きな悩みの種だった。
彼の不安はぶどうの房が頭上をおおうぶどう棚の下で、年老いた兄とワインを前にしてすわっているときだけ、いくらかやわらいだ。彼らは自分の畑でとれたロゼ・ワインを口いっぱいにふくんで飲んでいた。そしてニコロは自分の意図を注意深く隠していた。
「どうです、アントニオ兄さん、ジロラモの血管にはうすい血が流れていると思いませんか――あいつの血はこのロゼみたいに色がうすい」
けちんぼうで、黄疸のように黄色っぽく、干からびた老独身者はただ口のなかでなにやらつぶやいただけだった。
「あれは母親の血だ、ねえ、アントニオ兄さん、わたしのじゃない」
「たぶん。そういうことかもしれんな」
「わたしは内心、ジロラモはわたしらの仕事を受け継いで、私らよりももっとすぐれた仕事をするだろうと思っておったんです。いまはもう、そんなこと期待していません」
「まあ、人生経験をつんでいけば、そのうちにはきっと何とか……」
「何とかもくそもあるもんですか! 気休めは言わないでください。あののっぽをごらんなさい、あのアントニオ・ストラディヴァリを――ジロラモと年はそう違わないのにぐんぐん腕を上げてきている。すばらしい目、それにすばらしい手だ! やつはすでに木のことも、ニスのことも十分自分のものにしている。それもわたしらのニスをです。それとあのチロルの熊だ。やつは自分で山に入り、何日間も木の幹をたたいてまわり、鼻でかぎ、木たちと話をしあっている。しかし、家にもち帰ったものといえば……」
「ヤコポは年が上だということを忘れるなよ。あれはもう何でもわかっている」
「それもそうです。しかしあの二人の血管のなかには血が躍動しているというのに……。アップル・ワインみたいな血じゃない。あの二人がどんなに競い合っていることか、どんなに戦っていることか! 黙々と頑固に、まるで腕白小僧のようです。わたしはこの二人のなかから、あの能無しどもをぶちのめすバイオリン作りを育てることができると思うんです。
アントニオは低い声で笑った。ニコロが「能無しども」というとき、彼はグァルネリ一家のことを思っていた。この一族は多くの分家をもち、工夫をこらした質の高い仕事によってバイオリン市場における地位を徐々に不動のものとしつつあった。
アントニオのびしょうもまた野生の梨のように苦味をおびていた。しかし彼の微笑は弟の苛立ちをそそるようなものではなかった。彼はもはや産みださず、人生はおわっていた。そして、いつこの世を去っても不思議ではない人生の究極の年齢にたっし、すでにすべてを向こう岸から見ていた。
「ただ、その二人の若者にしてもあんまりせかせんことだな。あんまり早くいろんな秘密を明かしてやる必要はない」
「早すぎるのはよくない。しかし、ここにはベアトリーチェがからんでいるのですよ。もし……、その二人のどちらかに……、またはそのどちらにも気がないとしても・……、わたしにはわかる。たとえわたしの息子ではないにしても、わたしの娘婿がその二人を破滅させる。そして彼らの張り合わせ細工もろともこの世から抹殺してしまうでしょう」
「ふん、そうかな。ただし彼らの仕事は単なる張り合わせ細工とはいえんぞ。わたしにはわかるが……、彼らの作品には、たしかに、まだ十分魂がこもっているとは言えんが、だが二人とも職人技術というものを理解しておるし、熱心に働いている。それは確かだ。少なくとも、私はそう思うよ、ニコロ」
二人は飲んだ。そして太陽はブドウの房の覆いを光と喜びで飾っていた。アマーティ家の老独身男は「うっふん」を連発しながら、咳払いをし、ワインを飲んで、痰をはいた。そしてときどき嗅ぎタバコ入れに手をのばして、大きな鼻の穴にタバコを詰めていた。彼は、いかにも、何か説明のむずかしい事柄が、むず痒くさせてでもいるかのように耳の裏をかいたり、口の端をかいたりしていた。しかし、やがてニ三度咳払いをしてから、やっと言う決心をしたように口を切った。
「うっふん、そうとも、そうとも、わしだってもう長いあいだおまえに……、そう、えーっと、何か言いたかったんだが……、しかし、おまえは最近、何か落ち着きがなくなって、そわそわしている。だろう、ニコロ?」
「最近ですか? わたしは生まれたときからそわそわしちるんですよ。それに兄さんときたら、いつもそのことです。ただ、わたしのことは何でも目につきやすいだけの話ですよ――そして兄さんは何でも内側にためこんでしまう。何か言うことがあるんだったら、はっきり言ってください、アントニオ兄さん。わたしがいらいらする理由がほかにもあるんだったら教えでくださいよ。さあ、言ってください。わたしのいらいらの本当の理由を言ってください」
「振り子が振れるのに理由が必要かね? おまえだって理由なんて必要としまい。それに、また、それほどたいした問題でもない。その問題のために、ほかのときよりも余計に走りまわる必要もあるまい。ただし、わしに誓ってくれ、それを大問題にしないとな」
「なにをです? そういつまでももったいぶらないでくださいよ!」
「それは大して重要なことではない。だが、それでも、わたしはそれをおまえに言っておかなきゃならん。ベアトリーチェとピエトロ・グァルネリ……が逢引しておる……森の中の礼拝堂で。わしはちゃんと知っておる」
 「この恥知らず者め! 出来そこないの職人風情が! ようし、あいつらをぶっ殺してやる! あいつらを……」
「誰も殺しちゃいかん。ワシらの手のなかで楽器が生まれる。わしらが手にするのはノミであってドスではない。しかし、ベアトリーチェのほっぺたにニ三発食らわせることくらいはかまわんじゃろう……そして、あの娘に禁じるんじゃな……よりによってワシらの商売敵と……ようするに、あの娘にニ三発食らわせてお仕置きをする……そして母さんに、よく見晴らせておくんだ……まあ、そのことだけ言っておこう。いまのところは、飲んで、落ち着け……さあ、飲め!」
ニコロは椅子から飛び上がってぶどう棚のまわりを歩きまわり、それからテーブルのまわりをまわった。歩きまわる輪はだんだんとちさくなり、最後には椅子にすわって、また飲んだ。
アントニオは彼に嗅ぎタバコ入れを渡した。弟はふたたび立ち上がり、テーブルのまわりを歩きまわった、やがて立ち止まり、嗅ぎタバコをつまんで、大きな息で吸い込んだ。蓋をぱちんと閉めたとき、容器の表面の釉薬(うわぐすり)のエナメルに描かれた絵を見つめた。そこにはテーセウスが眠れるアリアドネーをナクソス島に置き去りにして出帆しようとしている場面だった。たぶん、クロード・ロラン(1600-1682)の絵にあるような出帆風景なのだろう。ヒーローはオストリッチの羽飾りの兜をかぶっているが、それはどちらかというとギリシャ神話の主人公のものというよりは、ルイ十四世治世
初期の反宮廷派(フロンド)の名誉ある貴族たちがかぶるにふさわしいものだ。風景も陽光のふりそそぐナクソス島の古代的美しさというよりは、むしろヴェルサイユを思わせる。クロード・ロランがプーッサン(1594-1665)の田園風景の装飾は最も非情な神話を甘美なものに変えていた。
バイオリン製造の親方もそれをもとに想像をたくましくして楽しんでいた。そしてオルゴール時計の鈴の音にクープランの何かのメロディーを思い浮かべ、夜明けのときに山羊の足をした牧神(フォーン)たちがナクソス島の岸辺の岩をつたって、わが娘ベアトリーチェを追っていくさまを連想していた。そのなかの一人に彼はピエトロ・グァルネリを見たような気がした。しかし、もはやピエトロにたいして腹を立てることはできなかった。そしてやがて、されに何杯かのグラスを重ねるうちにすべての怒りはきれいさっぱり消えてしまい、あのふとどきな連中のことも何もかも許す気になっていた。
結局のところジロラモにバイオリンが作れないということが、そもそも彼らのせいだとでもいうのだろうか? そしてベアトリーチェとピエトロはたぶん……。でもそのことはもはや最後まで考える気にはならなかった。そしてまたもや怒りが彼を襲ってきた。
「わたしはあの連中に目にもの言わせてやる! 大丈夫ですよ、兄さん! 母さんが眠っているときには、わたしが起きています。聖ドミニコに誓って!」
ニコロがちょうど言いおわったとき、あずまやの入口に、ベアトリーチェが若さというドラマチックな美しさを見せながら現われた。彼女の亜麻色の髪を太陽の光と、それに加えて、ワインをいささかきこしめした二人のバイオリン製作の親方の視線までがなでまわした。このロンバルディアの美を賛美する詩を、また絵を、ダンテが『神曲』において、ボッティチェリが『春』においてまだ描いていなかったとしたら、この二人の牧神はベアトリーチェをもとに、きっとその詩か絵を産みだしていただろう。
だから著者の私がいまさらそれを試みるのは、われながら多少滑稽と考える。彼女は陽光を受けて輝くぶどうの葉っぱのレースの額縁のなかにすらりとした細身の体をつんと伸ばして立っていた。そして、やや低い、柔らかな響きのアルトの声で話しかけた。
「お父さま、夕飯には何が出るかわかりますか? キジ料理と豚の赤ワイン蒸しですよ! お父さんが気に入るようにあたしが料理したんですよ。胡椒で調味した玉ねぎをはさんであるんです」
料理女が女神の口を通して言った――そしてそのなかにはベアトリーチェの有無を言わさぬ女性自身があった。彼女は山羊皮(サフィアン)装丁のペトラルカの詩集を手にしてはいなかったが、キッチン・スプーンを手にして世界を支配していた。
「胡椒で調味した玉ねぎをはさんであるのか」
父親は「われ神を信ず」を機械的にそらんじるように、深刻な声でつぶやいた。
「……ほう、そうか、玉ねぎをはさんだやつだな、じゃ、行こうか」
 「まだ、出来ていませんのよ。もうすぐしたら、また呼びにきますわ。トニオ伯父さまのためには玉ねぎと胡椒を除いたものをあつらえました。だって伯父さまの胃にはもう刺激物は禁物ですからね」
トニオ伯父さんはがっかりしたように黙っていた。ピエトロのことは言うべきではあるまい。もし……だが、いまとなってはもう手遅れだ。
ニコロは森の礼拝堂の陰の夕闇のなかで、あの憎むべきグァルネリの腕が、父親の許しも得ずに娘の細い腰を抱きしめているのを見たような気がした。おそろしい嫉妬が彼の目の前を真っ暗にした。そしてひたすら勇気をうるために、ワインを二杯、立て続けに喉に流し込んだ。まるで恋人と別れる心の準備をしているかのようだった。
「聞きなさい、ベアトリーチェ、おまえは最近、森のなかの礼拝堂へ行っているようだが、どうしてかね?」
沈黙亜麻色の髪の娘のスミレ色の目から、トニオ伯父さんの困惑した視線のなかに閃光が飛び込んできた。
「そうなの! それじゃ、あたしが伯父さまのために特別の、胡椒抜きの料理を作ってあげた、そのお礼がこれなのね。それがトニオ伯父さまの感謝のお印ですか!」
しかし、やがてアントニオの思いもかけぬ厳しい声が飛んだ。
「おまえは、まさにそのグァルネリと……、そうだ、わしがそれを言ったんだ、わしが」
「たしかに彼と一緒に、もう一人の男がいましたわ。ジロラモも一緒だったのです! あのグァルネリはジロラモの友達なんです。あたしは彼とほんの二言三言話をしただけです。それはジロラモのせいですわ、アントニオ伯父さま」
「ジロラモもいたのか! じゃあ、あいつはそんなやつとつきあっているのか。あいつは皇帝軍の連中と一緒に広場を歩きまわって恥じんやつなんだぞ。そのあとすぐに、あの悪党どもだ! 盗賊どもとほっつき歩いてくれたほうがまだしもというもんだ。なあ、トニオ兄さん」
「『三人の女神』酒場にもよく行っているわ――バイオリン職人の部屋にではなくて、いろんなコメディアンと楽しんでいるのよ。それに……」
「あたしかにあいつはワインさえ飲まん!」
「そうだ、あいつは飲まん。ただ、ほかの連中と楽しんでやがる! 噂話をしているんだ、ばあさんたちみないに!」
ベアトリーチェは静かに言った。
「彼はすごく不幸なのよ。いつも何かを探している。不意に、遠くへ出かけることがあるのよ、あの人を見かけないことがしょっちゅうある。あの人には何も言わないでくださいね」
「なるほど、じゃあ、おまえはあいつと自分からつきあいはじめたんだな」
「お父さんたちが、あたしのことそう思いたいんなら、思うがいいのよ! あの人のせいじゃないわ。ピエトロはすてきな人よ。あたしがもっていない有名な書物から、あたしに詩を朗読してくれるわ。でも、お父さんたちがお望みでないのなら、もうこれ以上あの人とは会いません……、お父さんたちがそれほどまでにあの人が憎いのなら。でも、これだけは知っておいてちょうだい、あの人はお父さんたちを憎んだりしていないということをね。あの人はお父さんのことを世界中で最高のバイオリン作りの名人だといっているわ。そして、あの人たちのバイオリンはトニオ伯父さんのも、とてもお父さんの作品にはかなわないって」
二人のアマーティが目を合わせたとき、トニオの視線のなかには遠い昔の嫉妬の火が燃え上がった。
「トニオ伯父さんのバイオリンはお父さんの同じにいいバイオリンだと言ってやれ」
「どうしてあたしにそんなことがいえるの、もうあの人とは合わないというのに?」
その言葉に三人は顔を見合わせて笑った。秋はまだ遠いというのに、ぶどうの葉のレースの覆いの中で、ブドウの房が一度に熟したように思われた。
「おお、ずいぶん長いあいだ神の時を無駄にしてしまったな、ニコロ。わしはちょっと仕事場をのぞいてこよう。しかし、例の胡椒抜きの豚料理のためにはまたもどってくるからな、ベアトリーチェ」
「兄さんの言うとおりだ。わたしも行くとしよう。おまえはいったい、何でここに突っ立っとくんだ。来なさい、ベアトリーチェ」
三人はそろって野生の花でいっぱいの坂道をおりはじめた。アントニオが急いで真っ先に進んだ――彼はアマーティ家の左翼に自分の独立した仕事場をもっており、独自の看板を出していた。ニコロと娘はゆっくりと広大な屋敷の庭の右手のほうにあるいていきながら、しばしば足を止めた。
「わしにはわかっとるんだよ、ベアトリーチェ。わしら、おまえをそろそろ結婚させなきゃならんときがきていることをうっかりしとたんだ。たぶん、おまえだって、わしがおまえを尼さんにするつもりだとは思っとらんじゃろう。わしもそんなことはのぞんどらんし、おまえも……おまえのためには、きっと、あのいまいましい連中以外にも適当な男が見つかるじゃろう」
「ここじゃ、まったく近くにいる。探す必要なんてない。灯台下暗しじゃ……」
「お父さま、まさか、あの山から出てきた熊男のことじゃないでしょうね?」
「どうして、あの男じゃいかんのかね? あいつはすごい芸術家じゃ。あいつは、あのグァルネリ家の連中とはまったくものが違う! あいつのことはよくわかる。あれはわしのところで修業して、わしのところで職人の資格まで取った。もう、見習のころから、彫物にかけては親方(マイスター)の腕をもっとった! アルプスのどこかから来たんじゃ。あそこの羊飼いどもは冬の天気の悪いときは聖人の像を彫っている。ある日、一人の相当年を取った彫刻師と羊飼いが彼をアプサムから連れてきた。彼らはその野育ちの子供が彫ったという、その壁よりも大きな『キリスト磔刑(たくけい)像』ももってきておったが、そりゃ、もう、名人の作といってもいいくらいのもんだった――司教座聖堂参事のニッシがその場で買い取ったがな。
山で羊飼いたちが作ったというバイオリンも二丁もってきておった。わしはそれが何とかなるかどうか見てみたが、見所がなくもなかった。やつが職人になった以上、旅修業に出なきゃならん。聞くところによると、やつのバイオリンをどこかの修道院が買っていたそうだ。ところが何年もたってから、また買いにやってきた。しかし、その熊男が言うには、自分のバイオリンはまだ不満だらけなのだと、それというのもニスがだめだからだと、つまりまだ、わしのイタリア式のニスの秘密をまだ知らんからだというんだな。だから、あいつはましのところにいるんだよ。もし……、要するに、もしここに永久にとどまるというのなら、わしはわしのニスをやつに伝授してやってもいい。やつにはわしの秘密のすべてをあかしてやってもいい」
「一番大事な秘密も? でも、あまり急がないほうがいいわよ。あの人も急いではいないし。あの人は家に奥さんも子供もいるのよ。それなのに、あたしを見る目つきったらありゃしない。あの人はそういう人よ」
ニコロ・アマーティは足が地面から生え出したかのように立ちすくんだ。
「なんだと……誰から聞いた?」
「山から来た人よ。スイス・カモシカの猟師だわ。何日間も内の周りをうろついていた。あたし、とうとう聞いてやったわ、いったい、ここで誰のことをがぎまわっているんだって。その人は言ったわ。その人はヤコプ・スタイネルの奥さんが好きなんですって。それでヤコプがいつも家をあけて、家に奥さんと子供を残して、どこか遠いところを放浪している。だから、家を空けているあいだ何をしているのか見るために来たんだって。だから、これから奥さんのところへ行って、このことを話してやるんだって言ってたわ。あんな山のなかのことなど誰にもわかりはしない! わたしたちとはまったく別の人たちがいるのよ。あたし、あの人たちがこわいわ」
「こわがらなくてもいい。これ以上、おまえをこわがらせるようにはさせない。ようし、あいつが秘密を嗅ぎ出すまえに、あいつを追っ払ってやる……もし、その猟師の言ったことが本当ならな。ヤコプはまだわしのニスの秘密を嗅ぎつけてはいない。聖バルトロミュウに誓ってじゃ!」
屋敷の庭に入ると、むこうからアントニオ・ストラディヴァリがやってきた。門のほうに向かっていたが、驚いて挨拶して立ち止まった。
「おや、若旦那!! お母上のところへ食事にでも行くのかな? だがな、わしのところでも飢え死にはさせませんぞ。昼飯はキジと豚だ――おまえはなんと言ったかな、ベアトリーチェ? 赤ワインと胡椒だったかな?」
アントニオは娘が自分を見たとき、青くなり、やがて体中にふるえがきた。そしてジロラモが妹の服を脱ぐ姿を鍵穴からのぞいたという、ポー川の岸辺での言葉がまたもや聞こえてきた。それを聞いたのはもう一年以上もまえのことだったが、いまでもその言葉はこの娘を裸にした。アントニオは真っ先に青い波におおわれたが、やがて、今度は赤くなった。彼は二人が自分の顔色の変化を見逃さなかったような気がした。それと同時に、ピエトロとベアトリーチェの森の散歩のことを話す使用人たちの言葉を思い出して胸が痛んだ。
そのすべてに最後の仕上げをしたのがチロルの熊男だった。彼はちょうど仕事場のドアを開けてゆっくり食堂のほうへ行くところだった。アントニオは苦しそうに脂汗を額ににじませていた。そしてやっとの思いで二言三言、言葉を発した。
「ご親切、ありがとうございます、親方。でも、母が……わたくしが家に昼食に帰りませんと……さびしがりますので……。でも、お気遣いには感謝いたします」
「いいか、大事なことは一刻もはやく見習い期間をおわることだ。そうしたら技術の習得もできる。いったい、どうしてモンナ・アンナが二年間の間毎日不幸になるのかね? まあ、いいから来なさい! 母さんにも少しは慣れてもらわんとな。豚とキジだ……」
チロル人は庭に大きく足を開いて立ち、話の内容を聞いて、広い庭が反響してふるえるほど大笑いをしながら、大きな手を開いてもじゃもじゃの茶色の顎ひげと、ぼうぼうの後ろ髪をかきなでた。左手の親指はエーデウワイスを刺繍したズボンつりのベルトにかけている。みどり色の靴下とシカ皮の半ズボンのすそとのあいだの、むき出しになった膝の大きな骨は、いかにも強靭そうな浮き彫りを見せていた。
「おまえは何でそんなところでげらげら笑っているんだ? え、熊公?」
ニコロはヤコポに向かって叫んだ。アントニオはこのチャンスをりようして、いちはやく逃げにかかった。逡巡していた細長いコウノトリの足は彼を廊下に通じるドアのほうへ運んでいった。もしベアトリーチェをチロル男が見つめていなかったら、彼女もまたアントニオの後姿に笑いを投げかけたことだろう。でも、彼女は「あの人ももう一人の変人ね」と言っただけだった。
キッチンからはあらゆる種類の香りがただよってきた。そしてベアトリーチェはその香りのなかへもぐりこんでいった。ニコロは足を広げて立ったまま、その場から動こうともしないチロル人の顔を穴があくほどにらみつけてから言った。
「仕事の具合はどうだ? 少し話をせんか――どうせ料理が出来上がるまでにはもう少しかかるだろう」
二人は仕事場のほうへもどった。彼らにはワニスやセラックニスやテレピン油やエーテルの鼻を刺すにおいには何も感じなくなっていた――こんな空気なら彼らはごく幼いころから嗅いでいたのだ。だから新鮮な空気にたいしては逆にもの足りなさを覚える。そして彼らの肺は媒染剤やワニスの入り混じった空気や、カエデやトウヒのかんな屑やおがくずの臭いを求めるのだ。大きな仕事台とろくろのそばでは、二人の見習工と職人が三人、まだ仕事をしていた。彼らは木を切ったり、形を作ったり、木の部品をみがいたり、年輪の大きさを測ったりしていた。そして彼らの木工作業の過程での、それぞれの仕事に携わっていた。なかの一人はネックの丸みをつけるためにガラスの破片を使って削っていたし、ほかの一人は胴の横板をたわめていた。そして三人目は緊張し、精神を集中して、胴の上面の表板が裏面の共鳴板かの調整をしていた。
チロル人は自分の机の引出しのなかから、自作のバイオリンを取り出した。形は出来上がっていた。あとは地塗りと緒止めと指板だけがまだなかった。表板には f 孔のほかに五角星(ペンタグラム)が彫り抜いてあり、ネックの末端の渦巻きのところには獅子の頭が彫って合った。ニコロは笑った。
「またぞろ彫刻師のくせか! その小刀で木を切り刻む羊飼いのくせを自分のなかに押し込めておくことはできんのか?それにその星じゃ! 何になるんじゃ? そんなものを彫るくせに、その f じ孔はばかに痩せほそっとるじゃないか。それにその星もばかにちいさい。おまけにこのバイオリンの全体の形にしてもがどうも荒っぽい、おまえのようだ。
上板のふくらみも少し高すぎるようだ。端も高くなりすぎている。もっとも、おまえがそれを正しいと思うのなら、もうこれまでだな、あとはおまえ流に作ればいい。作ればいい。たしかなのは、わしはそういうふうには教えとらんということだ。わしのバイオリンはうたうが、おまえのはフルートを吹くような音がする。その二つを結び合わせることだ……。しかし、その星だけは絶対にむだだぞ……。で、いま、おまえはわしのニスを塗ってもらいたいんじゃないのか? いますぐ、おまえの目の前で? うん、そのことだったら、わしにももう少し考えさせてくれ……、まあ、そのうちにだ……」
見習い職人たちはそっと聞き耳を立てていた。彼らも最重要なバイオリン作りの勘どころが下塗りとニスの仕上げにあることを知っていた。その秘密はブレッシアのバイオリン製作者も、グァルネリもアマーティも、チロル人たちにはけっして明かしたことはない。この絶対に明かされないイタリアのニス技術は、下手をすると国家的問題にもなりかねないものなのだ。彼らはヤコポ・スタイネルがいぜんとして、ときどきクレモナやベネチアへもどってくるのは、ニスの技法を調べ、何からニスを作っているのかを探るためだと憶測していた。ついこのまえのこと、そのことについてニコロ親方が彼らにしゃべったことを彼らはまだはっきり覚えていた。
「わしのニスをかぎまわってもむだだ。もし、連中がわしらがここで作っているのとまったく同じ成分で作ったとしても、向こうのあの山の湿った空気ではぜったいにわしらのと同じ艶(つや)を出すことはできん。そのためにはわしらの空気が必要なんじゃ。この空気があるからこそ、わが国では声は泉のように自然にわき出し、血管や早瀬や大きな川のようにぶくぶく、さわさわ、ざあざあと音を立てて流れる。
それは自然の幸せいっぱいの気まぐれが泡を吹いているかのようなものなのだ。堰(せき)や堤(つつみ)で推しとどめる必要もない。そんなことをしようとしてもできはすまい。それは美しくもあり、陽気でもある。まるでわしらの娘や女房のようじゃないか。ひとたび女どもが誰かを好きになりでもしようものなら……やつらには堰も堤もあったもんじゃない。北国の女の愛は秘密にみちていて計り知れぬところがある。その愛には陽気さと太陽がかけている……。わしはそいつをわしの職に修業の旅の時代に感じたもんだ。
わしらの国は楽器と声と愛の本家本元だ。わが国の紺碧の空は詩の絹の天蓋、その丸い天空と白雲は、神秘的な北国の雲の熱に浮かされた夢にくらべると、ゆっくりとした歩みの羊の群れ、天使ケルビムの白い羽、純潔な魂の安らかな夢でもある。そのすべては探り出すことも、もち去ることもできない。どっちにしろ、ここに引き継がれ、ここに保たれる」
見習工にも職人にも、これらの言葉の真意は完全には理解されないまま残った。しかし彼らの感情は理解の道を探そうとしていた。職人修業のたびは目前にひかえていた――そしてこのような問題を人間は世界遍歴をおえたあとになって理解するものなのだ。しかし、いまは親方の筋肉の一本一本がよく動く、やわらいだ表情を、もじゃもじゃの顎ひげと濃い眉毛の日焼けした山男の顔とつき合わせて見ているいまになって、やっと彼らにもわかったのだ。彼らにとってまったく未知のこの異端の男は、彼らの仕事場で自分の歳月を無駄に過ごしているだけだ。しかも再三にわたってもどってくる。彼のバイオリンは最初からちがっていた。たとえすべての楽器に「アマーティ」のレッテルがはってあったとしても、彼が手がけた楽器は直ぐにわかる。
二人のバイオリン製作者の表情から察すると彼らの目には雪をかぶったアルプスの山々の輪郭との草の花野作原野、人間の霊たち、そして国家の運命が映っていたに違いない。そしてアルプスの十字架像、羊飼いの手によって彫られたくるしみにたえ、激しくて抵抗する、そして孤独なキリストたちには、ポー川の岸辺の森の礼拝堂のなかにやさしい聖母の姿を見るkとはできなかった。
だが、そのことについては誰も話さなかった。無言のまま手を洗い、ぞろぞろと大きな食堂のほうへ歩いていき、黙ってそれぞれの席についた。それにしても、そのすべてがベアトリーチェの表情にどのように映っているかは誰も知らなかったから、いずれ作者自身がそのことを話さざるをえまい。
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