(9) バイオリン教師の午前中――1910年



  「二〇ドルさまがお見えでございます――ゴッビの下男バプチストはハロルド・アイゼンベルクをそう呼んでいた。そのなかにすべてのことが言い表されている。三〇分で二〇ドルはらうこと。彼の父親サム ・P P ・ アイゼンベルクは脂ぎった顔のフランクフルトのユダヤ人であり、二十年来ニューヨークに住み、タマニー教会の会員であり長老だということである。
  ハロルドは肩パッとの入った上着を着ていたが、それは当時、ベルリンではまだ見られないものだった。野暮なドイツ人の仕立屋の円筒みたいなズボンとはことなり、彼のズボンはすそのところが極端に細くなっており、太腿のところが極端に太くなっていた。ズボン吊りのかわりに銀のバックルのついたベルトをし、一年のうち六ヶ月はヴェストをつけず、ジャケットのボタン穴には花のかわりにスポーツ・クラブのバッチをつけ、胸のポケットには日本の万年筆が挿してある。ズボンの尻のポケットにはイーストマン・コダック社のカメラが突っ込んであり、たまたま知り合った「アドミラスパラスト」のローラースケート・バレーで踊っている踊子のガール・フレンドも持っていた。
  それに加えて、マホガニー製のパイプももっていて、香りのいいネイヴィー・カット、ヴェルヴェット、またはタクシードーなどの葉を詰めていた。手首には細い金鎖のベルトのついた腕時計をして、痩身、炭のように黒い縮れっ毛の頭髪、鷲の鼻、歯は異常なし。
  今回、二〇ドル氏はエルンスト作曲の『オセロ』による幻想曲を披露した。
  ゴッビは葉巻をくゆらし、ほほ笑んではいたが、その演奏は彼を不快にさせた。その第一の理由はその技術的完璧さにあった。このドイツ系アメリカ人のクエーカー・ユダヤ人は鉄の意志をもってこの面白みのない、むずかしい幻想曲を練習していた。彼の演奏にはクララの演奏とかなり類似性を感じさせたが、やがて摩天楼もしょせん同じような方法で建てられているのだということに思いいたった。何とかしてこの難問を解決しなければならない。角のフルーツ・ショップをバナナ・トラストの支配から抜け出させなければならないのだ――それも、父親のドルの助けを借りずに。
  この場合、確かに父親は莫大なドルをため込んでいる。その上、一度、テオドール・ルーズベルトのところで昼食をしたこともあるほどの名士なのだ。だからハロルドはビジネスの領域で何かを最初からはじめるということは無意味なのかもしれない。そんなら、それをバイオリンではじめようじゃないか。それならこの一族の者といでども、まだ誰も試みていない。そこで、ハロルドはそれをはじめたのだ。なぜなら、この領域でなら第一歩からはじめることができる。それなら永久に自立的人間(セルフ・メイド・マン)だ。
 「ヘイ、それはどこで学ぶことができるのかね?」
 「イエス、ハンガリアン・アカデミー・オブ・ミュージックです。そこには最高に有名な弦楽器科があります」
 「ブダペストか――おい、地図だ、旅行案内書、入学願書」
 「それは首都です。ミスター・ヘーベ、つまりフバイ先生がいらっしゃいます。最も偉大な音楽教育者です」
 「オール・ライト」
  ニューヨーク・イーストサイドの音楽学校のあとにはブダペストが続く。そこからブラッセルへ。そこからベルリンへ。そこからは、もう、演奏旅行だ。
  彼のドルを利子の利子をもふくめて父親から引き出すこと。ハロルドが本当にいい商人であること、そしてジェントルマンであることを見てみよう。このような空想はすでに、おおよそ、オール・ライトだ。しかし彼はまだ超一流(ティプトップ)じゃない。じゃあ、次はパガニーニだ。それに『G線上のバリエーション』『無窮動』
  一丁のストラディヴァリ、四本の弦、フランス式の弓、毎日十二時間練習できるというすごい肉体的資本が与えられている。それじゃ、うまくいかないわけがない。そうとも、うまくいく!
  テキサスのカウボーイは最高の騎手だ。
  シカゴの屠殺場は氷の最大量を消費し、家畜の屠殺処理のための最も完成された設備を備えている。
  ウールワースは最大の建物だ。
  バーナムは最大のサーカスだ。
  パシフィックは最も速い特急列車だ。
  コルゲイトは最良のひげ剃り石鹸だ。
  しかしこのバイオリンはヨーロッパからアメリカへ移ってきたものだ。ただ、肝心なのはそいつを鳴らすことだ。
  アメリカへ渡ってきたものは、ほかにもある。彫刻刀もパレットも。
  アメリカはその点ではいつまでも一流にはなれない。
  だが記録保持者のバイオリニストをもつことはできるだろう。そして草分けはハロルド・アイゼンベルクだ。
  さあ、続けろ!
  このすべてのことを私が言ったのではない。それはゴッビがエルンストの幻想曲(ファンタジー)のなかに葉巻の煙を吹き込んでふくらませ、それに微笑を刻印したものだ。もともと彼は世界中に存在するあらゆる「ファンタジー」に退屈していた。ただハロルドにだけ例外的にそのような曲を許していたのだ。それは二〇ドルのゆえにではなく、アメリカのためだった。
 「わたしはまだ君に、そのストラディヴァリをどう思うか聞いていなかったな?」
 ゴッビは言って、葉巻の灰を灰皿に落とした。ハロルドは少なくとも自分の演奏にたいする何らかの講評を期待していたので、多少、不機嫌に答えた。
 「二万五千ドルです。父がヒルの店で買ってくれたのです」
 「そう、二万五千ドルか。君の国では数字で考える習慣があるのかい?」
 「はい、ぼくたちはそういう習慣なんです。それにズボンはズボン吊りではなくてベルトで締める習慣もあります。ヨーロッパ人はきっと老ウイリアム・エブスワース-ヒルが以前――自作の新しいバイオリンが古いバイオリンにいささかも劣っていないことを証明したいために――暗くした部屋のなかで、新旧のバイオリンの比較コンテストをしたことを持ち出すでしょうね。
  部分的には成功したようです。彼らが示した記録によって判断しますと、ウイリアム卿の作品はいくつかの古いバイオリンのなかに混じって第二位を獲得したのですからね。それでも巨匠の黄金期のストラディヴァリが優勝しました。その時期というのは巨匠がmジチ家のために仕事をしていた時期にあたります。別の言葉でいえば彼の第二期の末ということです。しかしわたくしは、これらのことはすべて、何よりも、この二万五千ドルが物語っているという気がします。そうは思われませんか?」
 「イエス。で、昨日、あのアッシンガーの店での女性はどうなった?」
 「エリー・ドハーティーですよ。有名なテニスのラケット製造工場の持主の姪です」
 「きれいな女性だ。ああいう女性と近づきになるのはむずかしいものなのか、どうかね?」
  ハロルドは演奏にたいする講評がないことにだんだん不機嫌になっていった。第一、こんな無駄話をするために二〇ドル払っているのではない。
 「近づきになれる? なれますよ。でも、おわりました。もう、つき合っていません」
 「まあまあ、そう、警戒せんでもいい」
 「いえ、警戒なんかしていません。彼女は誰だかデンマークの俳優に夢中になって……。プシランデルとか何とかいう名です。いつも彼について賛辞を求めるんです。何でもその男にぴったりの役で、童話の騎士になってノルディスク映画会社を成功させるとか何とか。ぼくは不愉快になり、もう少しで爆発するところでしたよ。一緒にいるあいだじゅう、彼の話でもちきりなんです。ケンピンスキーの店ででもですよ――五十七マルクの料理――夜もアドミラスパラストです。
  なんだかデンマーク風の芸名をつけたんだそうです。エレン・アンゲルホルムっていうんですが。こっちの名前のほうをしょっちゅう使うんだと言っていました。そっちのほうが気に入っているんだそうです。そしてそのプシランデルとか何とか言うやつのために映画女優になるとも。でも、ぼくにはそんなこと関係ありませんよ……。ぼくの幻想曲、今日はどうでした? どうか、率直なところをお聞かせください。もし……」
 「君は阿呆だな! まったく手のつけられんトンマだ。わたしが何の興味もないのに、その女性のことをあれこれ言うとおもっとるのかね、え? 二〇ドル分相当の何かを言えというのか? じゃあ、いいだろう――だがな、わたしはほめることはできん。わたしがこき下ろさなかったら、それは賞賛のしるしだ。君はそれで満足しなきゃならん。馬鹿者!」
  ハロルドはうれしそうにニヤッとした。そして怒り狂ったゴッビをなだめにかかった。
 『わかりましたよ、先生。今日、エリーをバルトリーニの店に連れていきますよ。とりあえず、ぼくにがみがみ言うのだけは勘弁してください」
  ゴッビはおさまった。金髪のイギリス娘が彼をいたく魅惑したのだ。そして、いまは、彼女の声を聞き、もしかしたら彼女の小指のつめに触るだろう、そしてあの悪党を追っ払い、たぶんそのとき、その映画俳優についても自分の見解を思いっきり披瀝してやれるだろう、ひょっとしたら朝まで……ということで満足していた。
 「君の、そのファンタジーはだんだんよくなっている。技術的には完璧だ。そして今度のレッスンのときにそのことについて、もう二三点指摘してあげよう。じゃ、今晩はバルトリーニの店だ。グッド・バイ。そのクレモナの若者たちももうちょっと上達させてやろう」
  ハロルドは別れを告げ、パッとの入ったごつい肩をゆすり、ズボンをだぶつかせながら出ていった。イタリア人の老僕はお気に入りの二人の名を告げた。
 「セバスチアーノ・レナルドヴィッチ氏とチェザーレ・レナルドヴィッチ氏でございます」
 「よし、よし、おまえはさがっていい、サーカス団の団長。おまえはあのロンバルディア訛に頭が痛くならないのか?」
 「マエストロ、太陽の下にあれ以上に美しい音楽はありませんよ」
  ベルリンまで流れてきたバプチストは言った。やがて道化の踊りの足取りで退き、同郷人のためにドアを開けた。
  ゴッビも弟子たちのなかで、この二人の高貴な横顔のスマートなロンバルディア人を一番気に入っていた。ゴッビにはこの二人をコンサート・ヴィルトゥオーゾに育てることはできないことはわかっていたが、それでも無口なチェザーレがカルテットかクインテットのなかで弾くとしたら最良の第一バイオリン奏者になるだろうこともわかっていた。そしてセバスチアーノはロンドンかニューヨークかどこかの大オーケストラのコンサート・マスターにはなれる。ゴッビは彼らについてそのような意見をもっていたが、彼らの性格のすべてがそのなかにふくまれていた。
  それというのも、チェザーレは思索的な音楽家であり、知的デカダンだったし、セバスチアーノは軽妙で、派手で、機知に富んでいた。だから、その両方をいっしょにしたら、これまでこれまでコンサート・ホールに登場したバイオリニストのなかでも、まれに見る天賦の才に恵まれたヴィルトゥオーゾになることができただろう。しかしこの二人はそれぞれ、理想とされる性格の一部しか備わっていなかった。ゴッビは彼らにイタリア語で話した。
「おはよう! どうだい、変わったことは? お父上はどうかな?」
  はなしが父親のことになったときは、無口なチェザーレも口を開いた。父レナルデイッチはかつての布地商人の子孫であり、ロンバルディア地方で最大の織物工場主だ。それに、最も気前のいい芸術のパトロンだった。若者の話から、メジチ家の役割を引き継いだ市民の姿が描き出された。彼もまた先祖をもっていた。そしてその先祖があの時代に「金の輪」酒場のテーブルの一つに、アントニオ・ストラディヴァリと一緒にすわっていたことを誇りにしていた。代々伝えられたバイオリンと、この長いあいだの友情についての重いではどんな貴族の紋章や称号よりも神聖な記念碑である――この二人の若者は三百年来のバイオリン文化の継承者だったのだ。
  彼らはもはや新しい織物工場を興してはいなかった。それどころか、それらの古いことにそれほど熱心に取り組まなくてもよかった。彼らは美術館、図書館、コンサート、オペラ公演のために生きることができた。市民階級が貴族の館の高みにたっしたのだ。そして市民階級にはなんにでも通じる道が開けていた。
  それらの先祖たちの後を受けて、チェザーレはベートーヴェン最後の弦楽四重奏曲に、セバスチアーノはチャイコフスキーのバイオリン協奏曲に到達した。ゴッビは彼らを愛情をもって指導した。バッチスタはレッスン料の入った袋を受け取った。そして次にはカジミエシュ・ウイニョウスキが続いた。
  彼はゴッビの弟子のなかでただ一人、ヴィルトゥオーゾになることを期待させる弟子だった。彼は不思議な乞食だった。彼はレッスン料を払わない弟子でありプリマドンナ(気むずかしがり屋)でもあった。彼は入浴もしていなかったが、それでも女性たちに愛された。彼は古いイタリアは理解したが、それを演奏することはできなかった。バイオリンがニーニを理解していなかったが、それを演奏することはできた。ベートーヴェンのことを語るとき目に涙をうるませた。そしてあらゆる大コンチェルト以上に、彼にはベートーヴェンの初期のソナタがすばらしいものに思えた。
  腹がへったときはまる一週間、毎日二十時間、休みなしにいっぺんに練習した。あるときはあらゆるバイオリン芸術を軽蔑し、そんなものは、くだらない再現芸術だ、自分は作曲がしたいと宣言した。ただしそれはいつも失敗した。それから、やがてふたたび、指と弓の無限の練習をはじめるのだった。彼はしばしば一人のずっと以前に死んだ父の伯父のことをゴッビに語った。なんでもすごく謎めいた人物で、本当のバイオリニストだったそうだ。ティーッセン大尉のストラディヴァリの歴代の持主のリストのなかに彼の名前を見てびっくりした。
  家族のなかでは彼はロシアのスパイだとみなし、彼を見放したそうだ――その後、まったく放埓の限りをつくしたが、最後には誰かが彼の葬式をワルシャワで盛大に行った。帝政ロシアの政治警察にちがいないという。ゴッビは同様のはなしをバルトリーニの店でも聞きたがったものだが、しかしレッスンの時間にカジミエシュが口を開こうとしたとき、彼はその熊のこぶしで背中を大きな音でたたいた。
 「そうだ、いまは勉強だ。この時間はわたしには八〇マルクの値打ちがあるんだ。ここではのんびりしているわけにはいかん。さあ、道化者、やれ!」
  このレッスンでカジミエシュはウイニャウスキーのコンチェルトを演奏した。完全に出来上がり、隅々まで、繊細な陰影まで徹底的にさらってあった。ゴッビは最後まで聞いた。彼は薄紫色のジャケットの胸ポケットをごそごそして、はげかかった葉巻をさらに一本引っ張り出して、唾をつけて貼りつけてから火をつけ、ひげのなかで何か一人つぶやき、それからはげた葉がうまくついたと得意げに宣言した。葉巻は煙突のように煙を噴いた。それから言った。
 「ほうら、見ろ、悪党。おまえが食うものがないときに、どんなにうまくできるかわかったろう。それだけできれば、まあ、演奏旅行にいける」
 「ぼくにバイオリンがあれば、できるんですがね」
 「まあ、その日も遠くはあるまい。わたしの手を離れるまでには適当なバイオリンも見つかるだろう」
 「そうですね、ぼくは昨日から一つ作りはじめたんです。それに、そんなにむずかしくはありませんよ。それはあんまりよい出来ではないかもしれませんがね。ぼく、思うんですけど、人は自分の手で作ったバイオリンが一番よく弾けるんじゃありませんかね。だって、その楽器の魂がわかっていますからね。いえ、そのなかに立っている棒っきれ(魂柱)のことを言っているのではありません。バイオリン全体のことを言っているんです。ばらばらになったら各々の部分は死んでしまいます――全体になってはじめて生きるんです」
 「おまえにそれがむずかしくないなら、うまく作れるかもしれんな。バイオリンが作られた時代はもうずっと昔のことだ。われわれにはそれがどう作られたのかもわからん。もし古いバイオリンと同じ者を作れるというんなら、新しいバイオリンだからといってだめだと言うつもりはまったくない。時間がバイオリンを磨き上げる、古ければ古いほど音も高貴になると言われているが、わたしはそんなことは信じない。バイオリンはワインじゃない。しかし事実は事実だ――古いバイオリンは完全な音を保有している。もちろん確かなことはわからない。わしらは二百年前にその音を聞いたわけではないんだからな。しかし、たとえそれがどんなものであったとしても、この新しいバイオリンは音の点にかんしては、たとえば、そのスタイネルのバイオリンとさえ比べものにならん。どっちみちおまえはろくな仕事はないんだから、まあ、自分でバイオリン作りでもやってみろ。もちろんもっと利口なのはどっかの金持ちのガチョウか年寄りのメンドリでもだまくらかして、上等の古いバイオリンを貢(みつ)がせることだろうがな」
  カジミエシュはほほ笑もうとしたが、彼の平素からのしかめっ面はある種の苦痛に耐える渋面にかわった。ゴッビはポケットのなかを引っかきまわした。この若者は空腹なのだということがわかった。彼はケンピンスキーの店の昼飯代に小銭を渡そうとしたのだが、ポケットは空だった。そこへちょうどバプチストが次の弟子がピシュタ氏であることを知らせるために入ってきた。彼のファースト・ネームはおろか、この大都市のほかの誰にも、その名前を発音することはできなかった。
 「ピシュタ氏でございます」
 「よしよし、そのまえに三マルクおれによこせ」
  バプチストは不快感をあらわにして、自分のまわりのすべての女性のきをくるわせることのできる、しかも、ここから金をもち出そうとするレッスン料免除の弟子を見た。それからお仕着せの内ポケットから三マルクをつかみ出した。ゴッビはカシミエシュの手にその三マルクを押しつけ、すぐにここから出ていくようにとささやいた。
「ピシュタを通してくれ!」
  カジミエシュは出ていき、バボチャーニュィが入ってきた。二人がすれちがうとき、お互いに敵意のこもった目が光った。バボチャーニュィは軍隊式に踵(かかと)を打ち合わせて、背をかがめた。ゴッビはしっかりと彼の手をにぎって握手をした。
 「どうだね、ご機嫌はいかがかね、ピシュタ君? 今日は何にしようか?」
  そのあいだにピシュタはバイオリンの」ケースを開けて、まだら模様の絹のスカーフにくるんだ楽器をほどいて取り出し、調弦をした。弓に松やにを塗り、楽器の束を引っかきまわしていた。二人は雑談をかわした。ゴッビはピシュタのなかなかうまいハンガリー・ドイツ語や、当意即妙のユーモア、ペシュト-ブディーナの有名な名匠ネメッシャーニュィが1861年に製作した古いハンガリーの楽器の音を聞くのも好きだった。ピシュタはゴッビにとってタンガニーカの黒人と同様に異国人だった。そして実際、ハンガリー山間部の小村の名前オチュコーなど、地図の上で見る距離の近さの割にはベルリンとはなんら親近性はなかった。
  ピシュタの伯母たちは自分の屋敷に古いターロガトー(ハンガリーの二枚リードの民族楽器)をもっていて、ジュルカ・ハムザは当時、悲しみをその笛にこめて付記、またハンガリーの攻撃部隊を勇気づけた。家族の語り継がれた話によると、この楽器はオストジホム城で領主公がもっとも信頼していた軍の指揮官が裏切ったため、斬首の刑に処したときにもその高い音を鳴り響かせたそうである。
  ピシュタの母方のおばたち、オチュカイの娘たちは、今日までも自分たちの先祖の裏切りにかんして、まるで、それが今、現在の重要問題ででもあるかのように議論をしているそうである。彼女らの精神世界においては、これらの過ぎ去った二百年はそれほど長い年月ではないのである。彼女たちは、ラースローの宮廷の廷臣たちがいかに彼を軽視し、盲目的な反感や不当な犯罪行為によってラースローを皇帝の支配下に追いやったかを論証していた。伯母たちは議論をし、説明し、古い抗争が改めて再現されるべきであると言い張った。そして彼女たちは常にいつもハンガリーの反乱軍将軍の軍法会議の席に立ち会っているのだ。
  近隣の地主たちはすべて反乱の支持者であり、三人の老嬢たちの熱中ぶりを微笑しながら見守るだけだった――彼らはもうとっくにラースローを許し、また彼を理解していた。しかし、もしゴッビがピシュタの招待を一度でも受け入れ、不意にこのあまりにも美しい愛すべき地方に避暑に来た場合、そのことにどう反応すればいいのだろう? 伯母たちがワン・レッスン、四〇マルクを送金するのは、ピシュタを通してもう一度彼らの古くからの家名を輝かしいものにしたいという、ただそれだけのためなのだということがわかったところで、それがどうしたというのだ? どのみちゴッビにとってはタンガニーカと同じ異国の話なのだ。もし送金される金を浪費すべき対象を何かピシュタがもっていたとしたら、ピシュタはその金を浪費するだろう。そうなると彼の親戚はその金をゴッビのもとに直接送ってくるに違いないということもゴッビにはわかっていた。
  本当を言うと、この山出しのハンガリー人には、かなり見所はあるのだった。彼が独奏者になるか室内楽のバイオリン奏者になるか、また、彼がひと皮むけて本物の音楽家に成長するかどうかいまのところゴッビにもわからなかったが、それでもバイオリンのもち方にしろ弓の扱いにしろ、このハンガリー人ほどそれを見事にやってのけるものはほかにいないということだけは見抜いていた。ゴッビは自分のメソードをピシュタが自分からしようとしないかぎり、押しつける気はなかった。その点でもピシュタは頑固だった――もともとこの青年は何にかんしても頑固であった。ほかの生徒なら課題が大協奏曲にまで進むと、たいがいは有頂天になるものだが、彼の場合は常にゴッビの教則本を引っ張り出して熱心に練習し、勉強し、こねくりまわし、完璧に仕上げてきた。
  結局、レウヴィーラ伯母さんは几帳面に四〇マルクを無骨な大男のドイツ人に直接送ってくるようになっていた。それはまさにほかでもないピシュタが学生時代に一度、レッスン料を飲んでしまったことがあるからだ。それはたいした額じゃない。だからエルヴィーラ伯母さんはピシュタがそのせいで遠くへ行き、五年ものあいだ地獄の外人部隊ですごすことになるということを知っていたら、むしろ喜んでその三倍の金額をさえ送ってきていただろう。
  その当時、ピシュタはシディ・ベル・アベスからオチュコー村に帰ってきた。そして丁重にレッスン料を返済した。バラトン滝の養母は義勇軍の給料からそんなにしばしばレッスン料を払っていたことを知らなかったが、ピシュタはそれを至極当然のことと考えていた。そしてここにも、ゴッビにとってのもう一つのタンガニーカの謎があった。
  ピシュタはバイオリンを弾いていた。ゴッビの教則本をすべて弾きおわった。彼は完璧に、また正確にあらゆる法則に照らして非の打ちどころのない演奏をした。それはまさに聞いているゴッビをしてまったく手の施しようがないと思わせるほどの完璧さと正確さだった。そのときゴッビはこんなねばり強いエチュード・マシーンからは何も生まれてこないだろうという気がした。いったい、どうしてそんなことができるのだろう? 一つの奏法(メソード)をこれほど徹底的に、これほど究極的陰影にいたるまでマスターし、自分の個性までもそのなかに沈潜させてしまうことができるというのは、いったい、どういうことなのだ? 実際、それは単なる技術的練習曲にすぎないのだ。
  だから、彼は自分の生徒がそのメソードと彼の教育法のすべてにこれほどまでに真剣に取り組んでいることを本来ならば喜んでしかるべきなのだ。しかし彼は喜ぶどころか無関心に練習を見ていた。そして何もかもが彼を退屈させた。あまりの退屈さに彼は変奏曲と構想をめぐらせはじめた。が、その瞬間、練習曲から二本の尾っぽの毛をもった小鳥が飛び出したのだ。それは『飛べ、うた鳥よ』の鳥だった。そして小鳥は飛んでいた。弓と四本の弦が小鳥を支え、羽ばたき、羽をぴんと張りつめて輪を作っていた――それは甘くも悲しいものだった。
  鳥はペスタロッチ・ストラッセの擬似ルネサンスとセセッション様式の入り混じった醜悪な建物のうらぶれた四角の部屋から飛び出していった。鳥は雪をかぶった大きな山を越え、谷を越え、また楽しげな村を越えて飛び、東へ東へと飛びつづけた。
  するとピシュタはバイオリンで小歌の歌詞を語っていた。わたしはおまえをはじめて見たのは墓場でだった……うちの屋根には瓦がない……雨が降り、静かに音を立てる……墓場のなかを通り過ぎ……そしてコンドロシュ酒場で太った亭主に起こったこと……そして、長い旅路にたくさんの雪がつもり……その悲しげな柳の上で、手紙を渡しながら、この広い荒地のなかにバラの繁みはなく、彼女をこのチェポヴニー通りの長い路地をとおって……そして村の二人の娘について、野原の二つの花について、別の……そして、わたしが知っていること――このきちがいじみた弓で語ることはもっとある。
  そしてとうとうゴッビの黒い目から不覚にも涙があふれてきた。ピシュタはただそれを待っていた。そしてすぐに『シノム・バルコー』を弾きはじめた。アダム・ベーリ・バログの赤いビロードのシャコー帽の上には……、それからハンガリー草原のチャルダーシュがはじまった。
  彼は弾きながら手のひらで彫刻をした天井の梁をたたき、床はゆれ、弦は弾け、弓の毛は切れた。彼はハンガリーの野性的な生命力を解放した。その下でゴッビはタンガニーカを、チンカ・パンナを、ビハリを、ラヴォッタを、要するにその国境の向こうで息をし、死んでいくもの、そこで荒れ狂い、滅び、くしゃみをし、鼻を鳴らすものすべてを理解した――あの国境の向こうで、かつてその国境には前線の防衛隊長としてボルディジャール・トルコディ・ナジがウイーンを目指すハンガリー傭兵軍の先頭に立っていたのだ。
 「君が国民にかわって言いたかったのは、それか?」
  長い沈黙の後にゴッビはたずねた。
 「君がそのバイオリンで語ってくれたことは歴史の本とか、小説や旅行記、詩といったものからは絶対に理解できないものだ」
 「もしぼくの胸のなかに何かハンガリー的なもの、ないしは、ぼく本来の何かが染み込んできたのだとしたら、それはこの弓が注ぎ込んでくれたのです!」
 「その弓か。そういえば君の伯母さんたちがワインを送ってくれたぞ。まて、いまもってこさせよう。わたしはまだその細いビン入りのワインの包みを開けておらんのだ。わたしもそいつを味わってみよう。バプチスト、おい、バプチスト!」
 「次はゲルトルード・フォン・ゼーヴィッツ嬢の番でございます。旦那さまはもう一時間も遅れております」
 「別の日に来させろ。クリスマスにとどいたハンガリーのワインをすぐにもってきてくれ」
  下男は近くにより、何かささやいた。ゴッビはそれを聞いた。
 「よし、わかった。じゃ、ピシュタ、今晩、バルトリーニの店に来たまえ。バイオリンをもってだぞ……。そいつは奇妙なバイオリンだ。形や響きや音からだと、みんなガルネリだと言うだろう。それにもかかわらず、君たちのワインみたいに一種独特の風味がある――君たちハンガリー人に特有のものだ。それじゃ――今晩! そのあと、ここに、わたしのところに来ることにしよう」
  バボチャーニュィ・ピシュタはまるで拍車をガチャつかせようとでもするように大きな音を立てて踵を打ち合わせた。ドアのところにゲルトルートの硬い表情の赤っぽい小さな顔がのぞいて、それからまた消えた。ゲルトルートは小柄な十歳の天才少女だった。ゴッビは天才的な子供は好きではなかった。天才児の教育にはまったく気が乗らなかった。彼は常に彼ら天才児のなかに、なんとも言えぬ吐き気をもよおすような不自然さを感じ、情け容赦なく芸をたたき込まれる小さな動物という気がした。
  しかしこの小さなゲルトルートはちょっと違っていた。大コンチェルトでも丸ごと飲み込んでしまいそうな煮えたぎる生命力と異常なまでのヴァイタリティ―をもっていた。そして彼女の表現からは子供っぽい清潔さという素朴な英知がひらめいていた。ゴッビは小さなゲルトルートから多くのことを教えられた。そして彼女の成長の過程を見つめ、観察した。それどころか彼女に、次の世界の堅固で素朴な純粋性を期待さえした。当時は、おそらくゴッビだけが子供からも学ぶことが可能であることを知っていた。そして子供の世界、子供をとり巻く環境は特殊な世界であり、特殊な共存世界である。だからその芸術は特殊な種類の芸術なのである――しかし彼はこのようなことを誰にも語らなかった。
  ゴッビは子供と話をするような仕方でしばしば大人とも話をした。ところがゲルトルートにかんしては、同世代の人間にたいするように振舞った。レッスンのあと二人で雑談をするときゴッビの言葉のなかには年長者の優越性をにおわせるニュアンスはけっして入ってこなかった。いまでも、ゲルトルートにたいしてまったくまじめに質問をした。
 「ねえ、君はこのメンデルスゾーンのコンチェルトの何が好きなのか言ってごらん?」
  ゲルトルートは澄んだ鈴の音のような声で笑った。その笑い声はがらんとした音楽室のなかに飛び散り、真珠の玉のように光って山の小さな水の流れがその背に太陽の光を浴び、川瀬の上でゆれる青紫色のツリガネ草の湿っぽいキスを受けて、コケの生えた岩のあいだを押し合いながら駆けぬける飛沫(しぶき)のような小さな泡の音になって響いた。
 「この曲の何が好きかですって? ゴッビ小父さまったら、どうしてそんな質問ができるのよ! 何もかも好きよ! ほんとにみーんな!」
 「よしよし、でも、一番好きなフレーズとかなんかあるだろう?」
 「ほんとに、みんなよ! みんなだって言ったでしょう。どこもかしこも、みんな、すごくきれい」
 「それじゃ、演奏しているときに何を考えている?」
 「何をですって? そりゃ、いろんなことよ。すごくばかばかしいこと、言うの恥ずかしいくらい」
 「そんなことで恥ずかしがることないさ。それに全然、馬鹿なことじゃない。いいかい、このコンチェルトはね、たくさんの人が弾いている。ところが弾きながら何にも考えちゃいない。ところが、君は、そのとききっとすてきなことを考えているんだ。いいから言ってごらん」
 「じゃあ、言うけど……そのたんびに違うことよ。蝶々が飛んでいる様子を思い浮かべたこともあったし、大きな山のこともある。イルゼ叔母さまとタウヌス地方に行ったとき、そこで見た山よ。高い山にはいろんなものがあるけど、あたし、そんなもの、一つ一つ説明できないわ。ゴッビ小父さまもそこへいらっしゃると、きっとご覧になれるわ。ほかのときには、たとえば、雲のことを考えることもある。それにあたしのお人形のことやポントのこと、これ、グレーネン叔父さまの犬よ。グレーネン叔父さまのところの人形たちのことも……」
  ごっびもこれらの人形のことはよく知っていた。そのなかには小人のミメ、魔法使いの老婆ガデ、とんがり帽子に雄鶏の羽、それにもちろん浮浪者の革製のずだぶくろをかかえたティル・オイレンシュピーゲル。そこにはまた大鎌をもち、オストリッチの羽根飾りのついたシルクハットをかぶった死神将軍、メフィストの頭をつけたアルルカン、赤ヅキンちゃん、シンデレラ姫、眠れる森の美女、妖精のラウテンデライン、それに水男のニッケルマンもいた。
  ゴッビはすごいスピードでこれらの人形劇の人物を思い出し、なんとなくメンデルスゾーンのコンチェルトに結びつけようとした。ゴッビがそれにどの程度まで再興したか、私にもわからない。しかし、この哲学者やその人形たちについては、このあと、さらに触れる機会がある――だから、彼らとはまた会うことになるだろう。
  いま、ゴッビとゲルトルートは別れ、彼の大きな熊の手が彼女のすべすべした小さいながらがっしりとした手を取った。イルゼ叔母さんは控えの間で待っていて、バプチストにややこすれて古くなった袋に入れた謝礼を渡した。
  ゴッビはその後も、しばらく誰もいないレッスン室にすわっていた。彼は隣の部屋のソファーの上に寝そべっているマルゴット・ス・トロカデラのことを思い出した。そして小さなゲルトルートと彼女の人形とすごした時間のあとでマルゴットのところへ行くのはまったく気が進まなかった。
  しかし、やがて、彼女の心のなかに一つの思いが浮かんだ――隣の部屋の雌ライオンのかつては小さな純真なゲルトルートであった時代もあったのであり、彼女も人形を抱いていた。ただ、彼女は早い時期に人形を手放してしまっただけの話なのだ。だからゲルトルートも、たとえそれが彼女のメンデルスゾーンのコンチェルトと一緒にであったとしても、いずれは、マルゴットにならないとはかぎらないのだ――と。そして、この思いもかけない二つの人物の融合が彼のなかに欲望を目覚めさせた。
  ゴッビはバプチストからレッスン料をひったくると、ポケットにつっこみ、マルゴットのほうへ行った。彼はやさしかった。そして無邪気な子供のように彼女を愛した。それからやがて、何の予告もなく、いきなり激しく抱き、彼女の絹の肌の肩を噛み、そのとがった乳房を手のひらでもみしだき、苦悩の激情と荒い息で――それはやがて涙のなかに砕けていったのだが――マルゴットの上におおいかぶさった。マルゴットは驚きの目を大きく見開いてゴッビを見つめていた。
 「あんた、どうして泣いてんの?」
  彼女は嵐をやりすごしたときたずねた。
 「どうして泣くのよ、大きな坊やちゃん? もう、あんた、あたしとじゃ楽しくないっていうの?」
  彼は答えなかった。そして驚いたようにマルゴットの口から出てくるゲルトルートの声を聞いていた。濃く塗った口紅の唇からほほ笑みと、子供のような純真さが言葉になって泉のように絶え間なくあふれ出し、小さな娘たちや老人の哲学者たちがこよなく愛している部屋の片隅をふさぐあらゆる種類のばかげた人形たちのことを語っていた。そこにはマルゴットの現在の生活を知るよすがとなるものは何一つなかった。
  無限の空間を通して、刈り入れ後の麦わらの切り株を残した畑の上をただよう秋草の穂毛のような無音の音楽が聞こえてきた。ハロルド・アイゼンベルク、チェザーレとセバスチャン、カジミエシュ・ウィシュニョウスキ、ピシュタ・バボチャニュィ、それに小さなゲルトルートの生命が、ペスタロッチ・ストラッセの擬似ルネサンスとセセッション派の混合様式の石造賃貸住宅のきれいに整えられた四角な空間のなかで、マルゴットの熱い膝のあいだで、麻痺したゴッビの左手のバイオリンの上で鼓動していた。
  ビロードのジャケットのなかの金と袋、鍵穴のバプチストの目、プラタナスの木の葉のなかで赤くなった葉緑素の細胞がすばらしい陰影をかもし出している――そして、混沌とした血の色の午前中がゴッビ・エルハルトの広大な、刈り入れのすんだ荒涼とした麦畑の上で演じられていた。





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