(14) ウィリアム・エブスワースヒル   一八七〇年


    要するに、二十年前にせむしのメンデルが予言したように、ちょうど、いま、ストラディヴァリがワーダー・ストリートに到着したところである。有名なバイオリン・サロンで十四丁の兄弟が再会した。これらのバイオリンはクレモナの広場ピアッツァ・ディ・サン・ドミニコの二番地の家から世界へ旅立っていったことは疑うまでもない。そのなかの四丁には「S・D」(スブ・ディスキプリーナ)と記入があったが、それらも兄弟と認めていた――なるほど、それらのバイオリンの内部にもジャコモ小父さんのレッテルが光っていたし、ウイリアム卿も同様の愛情を持って気を配っていた。これらの愛情については少し筆を費やするだけの価値があるだろう。なぜならこの種の感情はまったく特殊なものだからだ。
    それは収集家ないしは楽器商人の愛情ではなく、自分自身が最高に天才的バイオリン製作者である人間の、むしろ芸術家の情熱だからである。それはもともと競争心から来る愛であり、嫉妬のなかでも最も苦渋をふくんだヒヨスの毒液に浸された愛なのである。だから、もし古いバイオリンがむやみに過大評価されるという気まぐれな機運の高まりが、新しいバイオリン製作者としてのウイリアム卿の全盛期にちょうど重なっていなかったら、彼はこの地上で最も調和の取れた創造者であっただろう。だから彼のおだやかならぬ精神状態は、収集家や芸術家や楽器商たちがつける常識はずれな高値にたいしてみせるウイリアム卿の軽蔑的な微笑によってうかがい知れた。
    ウイリアム卿自身は自分の製作になるバイオリンが、古いイタリアや、フランスや、イギリス、さらにはチロルの名匠たちの作品にたいして、なんら遜色はないと確信していた。しかしそれでも彼はその確信に無理に拘泥(こうでい)しようとはしなかった。彼は最高の名声を博しているバイオリンを丁重にあつかった。できるときは自分で手入れをし、試し、寸法を測定し、匂いをかぎ、それらの名器と格闘し、四人の息子に解明された秘密のすべてを伝授し、古いバイオリンに決定的打撃を与えるべく準備をしていた。準備は長い期間続いた。ストラディヴァリ、アマーティ、グァルネリ、グァダニーニ、モンタニャン、サロー、スタイネル、ティーフェンブリュッケルなどのバイオリンたちは、自分たちにたいして何かがたくまれていることを感じた。そしてウイリアム卿が自分たちを見つめたり、試したり、指差したりするときは、警戒心を働かせていた。
    その間に何丁かのバイオリンは新しい持主に引き取られ、重たい金貨の袋と引き換えに、いろんな国々へ、海の向こうまでたび立っていった。しかし最高の価値のあるものは残った。仕事の拠点はワーダー・ストリートのこれまでの古い店にかわって、もっと優雅なニュー・ボンド・ストリートの新しい店に移った――ウイリアム卿はこれを息子たちのために開いたのだ。ウイリアム卿自身はやがて赤レンガの壁と高い煙突のある小さな家に引きこもり、木に穴をあけたり、きったりしていた。そしてとうとう大きな力の充実のときを向かえた。その当時、すでにウイリアム卿は頬ひげは真っ白になっていたが、それでも若々しい情熱をもって戦いのバイオリンへと出かけていったのである。
    彼はベルギーの大男とすでに成熟したスペインのジプシー男を招待させた。つまりイザイとサラサーテである。彼はコヴェント・ガーデンの大きなコンサートホールを借り、暗い客席と薄明りの舞台でバイオリンのコンテストをはじめたのだ。芸術形の楽屋では、委員たちが、どのバイオリンがコンテストに出場するかを監視していた。そしてホールいっぱいの聴衆が投票した。
    第一位は結局ストラディヴァリだったが、それは世界的に知られている八丁のストラディヴァリのバイオリンのうち、パガニーニがオール・ブルに遺贈したストラディヴァリだった。第二位にはウイリアム卿がこの年に製作したヒル製のバイオリンが入った。そのあとにはその他の二丁のストラディヴァリ、次にグァルネリ、アマーティ、グァダニーニ、もう一丁のグァルネリ、そのあとには作者不明のチロル産のバイオリン。次に新しいハンガリー製のバイオリンが来た。
    新しいバイオリンは全面的に勝利を得るというところまでは行かなかったが、ウイリアム卿のバイオリンは勝利者たちのなかに入っていたのだから、彼が生涯をかけて戦ったこと、つまり、もし、真の芸術家の手になるものであるならば、新しいバイオリンといえども、いかなる点においても古いバイオリンに劣らないということを証明したわけである。
    その後、ウイリアム卿はもはや一丁のバイオリンも作らなかった。漁をし、魚を釣り、朝食にはウースター・ソースをかけた大きな地も滴るビフテキに卵の目玉焼きにハムとトマトを添えて食べる。一月にはエプソム・ダービーに賭け、二倍三倍の成果を得ることも一度や二度ではなかった。ときにはバイオリンのコンサートに出かけることもあった。そして、やがて、表情にも心にも明るい、悟りの境地にいたったおだやかさのなかに静かに生をおわるkとによって、長い八十年の仕事の仕上げをした。
    ウイリアム卿はまだ死ぬまえに例のコンサートのことを思い出し、その記念日の夜、すべての古いバイオリンを売り払った。彼は自分の芸術サロンで苦渋の微笑を浮かべながら法外に高い値段で次々に売り払っていった。そして心のなかで自分が作ったバイオリンに、もし買い手がつかなかったら、そのバイオリンを壊してしまおうとおもっていた。しかしそうはならなかった。そのバイオリンを求めに茶色に日焼けした、しっかりした足取りの男がやってきたのだ。たとえその男が勇ましくひねり上げた鼻ひげを生やしていなかったとしても十歩あるくうちに彼が私服を着た軍人であることを誰もが見抜いたことだろう。
   「ダンジーフィールド伯爵(アール)。アーチボルド・ダンジー。第二ベンガル連隊所属、陸軍大尉です」
    彼は起こってでもいるかのような鋭い声で自己紹介した。そして続けた。
   「ウイリアム卿、私は軍人です。そして軍人であることは私の祖先がこの十世紀のあいだ家訓として守り通してきたものであります。そのことから、間違いなく、私は馬と虎狩りについてなら、誰よりもよく理解していると判断しうるとおもいます」
   「それはうたがいありませんな。それにしても……わが女王陛下の軍隊のなかに、わたしのところでバイオリンを買うような通人がいくらかでもいらっしゃるのでしょうか、大尉殿?」
   「連中のなかにはそのようなものに理解をもっているものはおりません、わたし以外には。わたしはヒル製作のバイオリンがほしいのです。たとえ、わたしの前に、すでに誰かが買っていたとしてもです」
   「誰も買ってはおりません。あなたのご意向次第です」
   「ありがとう。では、値段はいくらです。わたしはその楽器のためならいくらでも……あらゆる古い楽器にたいして――たとえばクレモナノ楽器にたいして――支払われるもの同じでも喜んで払います……要するに、わたしはいろんなところへ行きます。だからわたしはその土地の古い楽器の収集家の誰であれ、新しい楽器、イギリス製のバイオリンはいかなる点においても、かの古い楽器に劣ってひないことを証明してやりたいのです。なんとしても」
    彼の言葉は旧式の大砲のようにずしんと響いたが、ウイリアム卿は一生のうちで、かつてこれほど甘美な音楽は聴いたことがないような気gした。彼の生涯に渡る闘争はこの大尉の言葉のなかに余韻を響かせていた。そしてダンジー大尉はその音楽を音符に記録するためにすでにフロックコートから小切手帳を取り出していた。





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