[カレル・チャペックのエッセイから]


カレル・チャペック著/田才益夫訳編『コラムの闘争』(1996/社会思想社刊)より



(2) 発展はどこへ向かうか



この問題にかんする異常なほど断定的な主張を、異常なほどしばしば耳にする。発展は右へ向かう。または発展は左へ向かう。発展は最短距離をへて世界的社会革命に向かう。発展は総力をあげて合理主義へ向かう。発展は大きな帝国主義的独裁体制へ向かう。そして自己の確信にあまりとりつかれていない人でさえもが、多少困惑気味に世界を見渡して、いま、まさに何らかの体制の変更を求めているある国に視線を向けると、深刻な面持ちで頭を振り振り、「じゃ、やっぱり世界の発展は右のほうにしか回らないのか!」とささやくだろう。

ただし、発展について私たちが語るとき、まず、はっきりとさせておかなければならないのは、要は何の発展かという点である。子犬の発展は一年間続く。人間の発展は数十年、そして人類の発展ということになれば、ゆうに何千年ということになる。ヨーロッパの発展にしても十年や二十年の何倍かといった年数ではとても判定しきれるものではない。その上、ヨーロッパはあまりにも古く、あまりにも大きい。もしヨーロッパの発展について何らかのイメージを描こうとするなら、この数千年の間にそこで何が起こったかを見なければならない。もし誰かがヨーロッパの発展は右に向かっていると主張しようと思うなら、カルタゴ戦争から、またはアッティラの遠征から、その方向に進んでいるという証拠を示すよう努めるべきだろう。自然体系のなかで個体の変異や突然変異がまだまだ種や類の発展でもなんでもないのと同じく、個々の歴史的事件や時代は、まだ発展などと言えたものではない。ヨーロッパや世界の現状を歴史的発展の視点にもとづかない見方に決して異議をさしはさむつもりはない。しかし私としては発展がどこへ向かうかについて自説を述べたいと思うなら、せめて、この世界についてのもっとも基本的な、学校教育的な知識だけでもわきまえてからにしていただきたいものだと思うのである。

その例として、わが大陸の地図がこの何千年かのあいだにどのように、そしてどういう方向に変化しているかを見ていただきたい。古代ローマ帝国からはじめて、メロウィング王国の国境、神聖ローマ帝国の版図、ハプスブルク権力支配の歴史上の国境を見てほしい。そして最後に私たちの目は現代のヨーロッパの地図の上に向けられる。その地図のもっとも顕著な特徴は、その政治的国境がすでに、ほとんど正確に民族の居住地域と一致しているということである。古い帝国は民族や人種や文化の境界を越えてあふれていた。時代の経過とともに国家の地図はだんだんと、より明確に民族の地図になっていった。これは必然的歴史的発展の結果とみなさざるをえないほど特徴的な、合法則的な現象である。人類の発展はこの数千年のあいだにまったく明瞭に、一つの民族がもう一つの民族を支配しないような方向を目指して進んでいる。この経過はさらに地球の他の部分においても現われるだろうというあまりにも多くの徴候がある。

今日、ふたたびあちらこちらで侵略的帝国主義、権力的発展、どん欲な植民地主義などなどが鳴り物入りで騒々しく叫ばれているというのは、じゃあ、どういう意味なのだろう? 一つないし三つの帝国の三年あるいは三十年の成功がこの何千年来の世界の発展をくつがえすことができるとでも思っているのだろうか? 現実の発展の観点からいえば、これらのすべての試みはもともと単なる時代遅れ、アナクロニズム、歴史的秩序からの逸脱にすぎず、自らの時代によって、いずれにせよ手ひどく、残酷に清算されなければならないものなのだ。せいぜい、うまくいったとしても、それによって何十年かの歴史的エピソードを挿入するだけの話である。歴史によって評価されるなんて、本当はそれにも値しないのだ。

あるいは、ほかの、このようなゆったりとして、しかも持続的な経過。国際関係の絶え間ない成長と、いっそう明確化してきた国際関係の法制化。世界の歴史を見ると、たしかに民族間にはジンギスカン的な自分勝手と暴力だけは、さすがに少なくなってきた。一つの戦争あるいは五度の戦争といえども、この長い間にわたる文化的かつ政治的発展に異議をさしはさむようなことは何一つなしえなかった。現代の戦争のまさに驚くべき非人間性は、戦争の指導者自身が戦争が野蛮で、自分勝手で、世界秩序の破壊であることを意識していることの無意識の証言である。だから彼らは斧を手にして殺人に向かう人間のように振舞うのだ。世界の発展は妻や子供たちが虐殺され、都市が破壊され、飛行機の爆弾が学校や病院に落とされるような方向へすすんでいるとは、たぶん、誰一人として主張しないだろう。少なくともここでは誰も、人類の進歩といわれているものすべてからの、恐ろしい逸脱が問題になっていることを疑わないだろう。それはもはや今では最大の歴史的異常性の一つとして指摘しうるところ逸脱である。

したがって、私たちは現代の現実のなかの一つ一つをもう一度つぶさに観察してヨーロッパ人類の数千年にわたる発展のなかにそれがどう組み入れられるかを問うことができるだろう。たとえば、この数世紀のあいだに人間の正義は、最高の残酷さと、その世界権力者への盲目的従属の方向へ発展したか――それとも、その正反対の方向へか?! 社会的秩序は歴史の夜明けから今日まで、階級、身分、そして人類のあいだの大きな不平等の方向へ発展したか――それとも、まさにその反対に、人類の歴史の全体の傾向はゆっくりと絶え間なく、いっそう不可避的に人間間の法律的、市民的差別をすべて段階的に平等化する方向への伸展を示しているか? 数千年の発展は個人にたいする人間的、市民的自由を増大させる方向へすすんでいるか、それとも逆に、人間存在の弾圧と奴隷的統制へ向かっているか? シーザーの帝政と封建制から、より広い人間階級の解放へ移行していった私たちの世界があっちの方向へ発展しようとしている、何らかの証拠があるのか? こんなにも途方もなくヨーロッパの歴史を改悪しようと目論んでいる人がいるなどということを、私は疑う。それともさらに、この二、三千年のヨーロッパ文化のなかで人間精神は常により大きな思想の自由へ発展しており、世俗的また教会的権力に基盤を置いていた時代にも、それを求めて戦ったが、それは人間精神の永遠の、ひたむきな努力ではなかったのか、それともちがうのか? この古来の精神の自由を抑圧するどんな原理が現実の発展にかかわりがあるというのだ?

新しいもの、世界において真に新しいものとは、この古い、とどまることを知らぬ発展をさらに続けることのできるものだけである。それを押しとどめようとするものは新しいものではない。それは単なるアナクロニズムであり、逸脱であり、一時的な転換である。そんなことがいったい何の役に立つのか、いまのところさっぱりわからない。しかし、発展がどの方向を目指すかを真剣に問いつめていくと、今日、自分の刻印を世界に、また、歴史に刻み込もうと最大の努力を傾けて、何がなんでも実現させようとやっきになっているもののなかに、実は、遅かれ早かれ悪魔にとって食われてしまうべく裁きを受けた悪あがきであり、歴史のなかの単なるエピソードにすぎないことが、とっくに見えてくるのである。
この歴史的即興劇がヨーロッパにとってあまりにも高価なものにつかないようにするのは、もちろん、きわめて重大な問題である。ただ一つ、世界の発展は、その数千年の歴史が指し示す方向へ今後も進むだろうということ、この確信だけは、私たちの誰もが放棄する必要はない。それ以外の主張はあまりにも説得性がない。




(1) 認識の精神と支配の精神

(2) 発展はどこへ向かうか

(3) 身震いする世界

(4) なぜ私はコミュニストではないか