[カレル・チャペックの傑作コラム選集]


(1) 認識の精神と支配の精神

(2) 発展はどこへ向かうか

(3) 身震いする世界

(4) なぜ私はコミュニストではないか



カレル・チャペック著/田才益夫訳編 『コラムの闘争―ジャーナリスト・カレル・チャペックの闘争』(1996/社会思想社刊)より



(1) 認識の精神と支配の精神




人間の創造活動には二つの種類があります。その第一の活動は認識の探求。あるいは広い意味での、私たちの住む世界の生活体験を探求すること。そして第二の活動は、この地球上の自然的かつ物質的力を支配しようとする努力です。

この第一の活動は通常精神文化と呼ばれています。その構成要素であり本質的現象は今回の会議のテーマである人文科学であります。第二の活動は要するに技術です。

人文科学とは通常ギリシャ;ローマの教養の研究、および、この文化伝統との意識的結合という意味で理解されているものでありますが、その概念を私が不当に拡大解釈していると反論される向きもあろうかと思います。しかしながら、ローマの、そしてさらに大きな尺度におけるギリシャの教養とは、それは単に言語でもなく、また単に詩や哲学だけでもありません。それはまた数学、物理学、自然研究、天文学および医学でもあったわけで、現代の精密科学は言語学(リングィスティックス)や修史学(ヒストリオグラフィー)と同じ理由でやはり古典的人文主義に属するものです。

近代初頭の古代精神のルネサンスはまた精密科学のルネサンスでもありました。それに反してギリシャ的教養は私たちにほとんど何らの技術的伝統も、物質や自然力をいかに開発し、支配するかの何らの知識も示してはくれませんでした。その意味で私たちはこの話題の枠を踏み越えることなしに世界認識と世界の体験とを理想とする、言葉の真の意味での人文科学と、物質と力の支配を目的とする技術の学問とを相互に対置させることができるのです。

問題はこの二つの大きな活動の間に人為的境界を築こうとすることでもなければ、そのうちどちらが人間の世界にとってより重要かを問うことでもありません。その両者なしには人間生活を動物の水準以上に向上させることができないのは当然であり、また両者の機能が絶えず相互に補完しあって、一方が他方から発生し、あるいは新しい目的や手段を補足していることも確かなのであります。しかし、それにもかかわらず――そして今日、他のいかなる時代よりも強く――これらの二つの最大の人間活動がその基本的傾向において大きく分裂化しているということを意識せざるをえません。人間世界の未来と発展は、まさにこれらの両傾向のうち、どちらがその発展を左右するに足る十分な力を備えているかにかかっています。すなわち、認識の精神か支配の精神科です。

まず、最初に技術を取り上げてみましょう。技術とは物質と自然力とを支配しようとするあらゆる種類の意図であります。疑うまでもなく、技術のあらゆる進歩は一般的に有用であるばかりでなく、人間生活を豊かにさえしますし、またすることができるものです。しかし第二に、あらゆる技術的活動は一定の物質的財を生産はするものの、その財は決してすべての人の所有物とはならず、誰かだけの、つまりある個人の、ある生産者団体の、ある国家の、あるいは、ある民族の所有物となるものです。技術は本来その意図がなくとも、今日の世界情勢ではほとんど不可避的に生産と商売の競争に、天然資源をめぐる争いに、そしてついには経済的国家主義に、勢力拡張に、そして民族や国家間の絶え間ない国境緊張に導きます。生活のための原始的な闘争から生れでた技術は、この野蛮な戦いの道具であることを止めないばかりか、その規模をいっそう拡大していくことでしょう。

技術にたいして以上のような批判があります――技術が生活をめぐる戦いの、つまり近代戦争のより恐ろしい形式の道具にだんだんなっているというのは間違いではありません。しかし、それが本当だとしても、技術が暴力の武器ばかりでなく、暴力に対抗する武器も与えてくれることを忘れないようにしましょう。技術はその恐ろしい手段によって文明世界を滅亡させることもできます。が、自由と権利と人間性に対するあらゆる攻撃から世界を守ることもできるのです。技術の誤りとはいえないまでも、むしろ技術の無力さは別のところにあります。どんなものでも作れるとしても、純粋にポジティブに平和の道具となるものは何も作りえないということです。逆に技術はだんだんと大きな物質的力を支配し、その力を増殖させ、蓄積し、いつでも破壊的な抗争のなかに投入しうるエネルギーの潜在力を恐ろしいまでに高めることになります。技術は要するに人類にたいして途方もない物質的手段を供給するが、それを用いて善をなすか悪をなすかについては、すでに最小限の影響力すらもっていないということです。

技術とは自然の物質と、力との支配だといいました。問題はこの支配する意欲が、いつ、どこで停止するかです。人間も社会階級も民族もまた、見方によっては下僕となり、命令され、かき集められ、効率の極限まで搾取される単なる力学的素材と考えることもできるのです。力を支配する技術の理想は、人間社会にも転用することが可能です。これほど多くの政治的専制主義が突如として巨大な技術の効率にうつつを抜かしはじめたのも、きっと偶然ではないでしょう。自然の力の領域において技術と称されている支配の精神は、人間の力の領域では独裁という名称をもっています。

これと人文科学とを比較してみましょう。人文科学はその性格において普遍的です。その普遍性は実際の範囲にもその本質や使命にも基づいてはいません。私たちに世界を支配することを教えるのではなくて、世界を理解することを教える。さらにもう一つのこと、つまり相互に理解し合うことをおしえます。その益するところはすべての民族に共通であり、すべての国境を越えています。人間社会のなかで作用する力の協調のなかでもっとも分別をもつ力があるとしたら、それは私たち人類を、私たち民族を分け隔てるあらゆるものの上にあって、精神的共通社会を形成する力です。人文科学はそれ自体が力です。それは人類の間の平和の道徳的、精神的道具です。これとて、いつか、己の使命を裏切ることがあるかもしれません。物理的また道徳的支配の精神に仕えることによってです。
しかし、それが可能なのは人文科学をもっとも深く定義しているもの、つまり精神の自由を代償としてのみです。思想の自由を守ることができるかぎり、人文科学はあらゆる時代にとって、人間の自由の手段となるでしょう。普遍性、平和、自由。これは三つの大きな本源的理想であり、人文科学が自らに忠実であリ続けるかぎり、この三つの理想にたいして仕えることになるでしょう。


私たちは人文科学と技術学を、一方を弁護し他方を断罪するという意図なしに対立させてきました。しかし、思うに、すべての人が今日の世界状況のなかで、世界の連帯と平和と人間的自由の手段となりうるものすべてを結集させる切実な必要のあることを痛感しているはずです。
支配の精神はいつでも暴力と破壊の道具になりうる莫大な力と手段を製造しました。今日は他のいかなる時代よりも多くの、もう一方の力を動員する必要があります。世界の民族が相互に理解しうるための手段、すべての国境を越えた真理、人間存在や民族が支配の単なる対象となることを許さない思想の自由といった精神的価値です。今日、文化生活の均衡が破られています。支配の精神が認識の精神を危険なほど凌駕しています。私たちの努力と知的勇気を一層強めることは、精神文化に仕え、また仕えんと欲する私たちすべての双肩にかかっています。平和と自由もまた、自分の道具を必要としています。それを補給すること、それを手遅れにならないうちに補給すること、それこそが私たちの時代のもっとも緊急な課題なのです。(1936年10月21日)



<訳注> この文章は国際連盟付属、文学・芸術部門常任委員会の企画によるシンポジューム『世界における人文科学の役割』(ブダペスト)における基調講演の草稿である。




(1) 認識の精神と支配の精神

(2) 発展はどこへ向かうか

(3) 身震いする世界

(4) なぜ私はコミュニストではないか