\.70年代における経済危機と社会主義運動の始まり
(1)80年代末までの経済 − 社会的発展
(2)社会主義運動の発生と1890年までのその発展
ハンガリーとスロヴァキアの社会主義運動の始まり
(3)19世紀70、80年代におけるブルジョア政策
(4)70年、80年代における文化活動
1.80年代末までの経済−社会的発展
<1868−1872年における経済的繁栄> 1867年のオーストリア・ハンガリーの同権化とブルジョア憲法改正の実施の後、経済繁栄がピークに達した。オーストリア・ドイツのブルジョアジーは自己の階級的権力の持続的確立と専制帝国の安定化の印象をうけて、企業熱に取りつかれた。利潤の追及は工業、農業製品の急激な増産に導き、また極端な商品、金融投機をうながしたが、その投機には外国資本も参入した。この競争において、たとえ主導的地位はオーストリア・ドイツのブルジョアジーが占めていたとはいえ、チェコのブルジョアジーも黙ってはいなかった。
チェコ地域における産業革命はピークに達していた。機械化した工場の大量生産は主要な生産部門で克服された手工業生産や職人的小規模生産の形式にたいして決定的優位の立場にに立った。中小企業は近代化され、拡大されたが、それら以外にも新しい企業が成長した。数年のうちに鉄道の路線も異常なほどの発展を見せた。蒸気機関の全面的な導入は石炭生産の急激な増産を招いた。農業、食品産業、とくにビールと砂糖の生産は好景気にわいた。1862−72年の間にチェコ地方にはほぼ百の新しい製糖工場が生まれた。
生産の好況は商品流通の急上昇にも反映した。国内経済、外国貿易の発展はオーストリア・ハンガリー帝国の全領域に1876年の統一的度量衡体系の導入を強いた。資本の集積とと融資の需要から新しい銀行や貯蓄銀行の設立熱を呼んだ。1869年に商業銀行
(ジヴノステンスキー・バンカ)が生まれ、小規模な市民的預金機関を配下に置き、たちまちチェコの代表的商業的また融資機関となった。1871年にはプラハ株式取引所が開設された。
<1873年から1879年までの経済危機> しかし資本主義的好景気は持続的現象でではなかった。はけ口のない製品の滞貨は、必然的に生産過剰からくる経済危機に帰結せざるをえなかった。そして危機は1873年に全領域において起こった。それは単にオーストリアだけの危機ではなく、世界の資本主義体系にふくまれたほとんどの国を襲った巨大な経済的ショックであった。その当時多くの企業が破産し、その他は長期間にわたって深刻な生産制限せざるをえなかった。
危機は新しい経済上昇が始まる1879年末まで続いた。60年代末から70年代の初めにかけての経済好況の絶頂期にブルジョアジーの階級的力は異常なまでに増大した。しかし同時に産業および農業のプロレタリアートの数は急上昇した。多数の貧困化した職人、家内工業従事者、また零細農民がこの時期に工場や炭鉱、建築現場、大地主の農園に引きこまれていった。工場の誕生にさいして労働者の急速な集中が産業町の住民の数の急増を生み出し、慢性的な生活危機を結果することになったが、その被害をもっとも多くこうむることになったのは多数のプロレタリア家庭であった。
<資本の集中と中央集権化> 経済不況のショックと自由競争の重圧は、通常資金力にゆとりのある大企業よりも小さな企業経営者や商人をより深刻に襲った。同様に大企業は容易に高価な近代的機械を設備することができたから、小規模な生産者よりも労働の高い生産性を達成できた。 生産性を達成できた。この発展は大規模な、よい設備をそなえた企業に生産を集中し、もっとも豊かな資本主義的企業家と銀行の手に資本を集中させる方向へと向かった。
大資本主義的企業は危機にもショックを受けずに生き残り、そのほとんどはさらに巨大化した。なぜなら商品流通の停滞時に大企業との競争に耐ええなかった中小企業を併呑していったからである。そして同様のことは農業においても起こった。大農園は危機の時代に貧困化した中小農民の土地をのみ込んだのである。
経済的ショックは労働者階級をも冷酷に襲った。工場や鉱山、建築現場における操業停止や短縮によって労働者の一万家族が生活の糧を得る可能性を失い、貧困と飢えのなすがままに置かれた。失業率はかつてないほどの規模に達した。何らかの仕事を求める絶望的な努力のなかで失業者たちはちは家族とともに自分の家を捨て、町から町へと渡りあるいた。
労働力供給の増大と生産の機械化の促進をいいことに、資本主義的企業家は解雇されずにすんだ労働者についても有無を言わせず賃金の切り下げを断行した。危機の時代にある生産部門で、企業家たちは労働者の賃金の40%の切下げに成功した。賃金水準は全体的に見ても、労働者の家族に最低の生活必需品を保証することもできないほど低かったのである。
<労働者の労働環境> 国家による労働の保護、労災保険、健康保険、老年保険などは存在しなかった。工場では日に12−14時間働き、若い労働者も10ないし12時間労働が要求された。機械のそばで働くときは不完全な危険防止設備のために頻繁に傷害事故が起こった。80年代の法律の制定により工場検査官や傷害および健康保険制度が導入されたときには、とくに中小企業において、雇用主側の反対にでくわした。
プロレタリアートの住宅、食糧、衣服の事情は途方もなく貧しかった。大家族の労働者家庭は一部屋だけの湿った、暖房もない薄ぐらい部屋で生活していた。大農園や裕福農民の農場の農業労働者は家畜小屋での寝泊りを強いられた。プロレタリア家庭の食事はほとんどがうすいスープとジャガイモと代用コーヒーだけだった。結核や骨軟化症、貧血症、疫病といったものはプロレタリアの家庭では日常茶飯事だった。プロレタリアの子供たちは幼いころから賃仕事に行かされて、きちんと学校に通わなかったので、教育の機会からも見離されていた。この面で最もひどかったのは農村のとくに農業労働者たちの事情だった。
<ドイツ化> 多数のチェコ労働者家族が仕事を求めて集まってきた国境周辺で、ドイツ人の運営する町役場はチェコの小学校を開くのを懸命に防止して、チェコ人の子供たちがドイツの学校に通うように強制した。とくに北チェコとオストラヴァの炭鉱地帯でひどかった。
<スロバキア人民の状況> スロバキアでは国家の役所そのものが、全体的にチェコ地方よりも発達のおくれた学校教育のハンガリー化を継続させることによって、スロバキア民衆の文化的向上を押えつけてきた。1867年以後、ハンガリー化は目立って強化されたが、それはオーストリア対ハンガリーの対等関係成立の状況のなかでのハンガリー・ブルジョアジーの地位確立の結果であった。
ハンガリーにおける工業生産は同権化後の最初の10年間にとくに大きく発展するにはいたらなかった。80年代の初めになって、やっとハンガリー・ブルジョアジーはとくに帝国の西側の企業との競争に遭遇しない産業部門は発展した。弱体なスロバキア・ブルジョアジーは産業分野では小さな役割しかになっていなかった。その後金融企業にのり出しはじめ、投資グループを組織した。
<チェコおよびスロバキアの海外移民> 国にいては食べていけないという状況はわが国の大勢の人民を絶えず海外へ出ていくように強いた。チェコ人のアメリカへの大規模な移民は1950年代に始まった。スラバキアの移民は60年代である。短期間で大金持ちになるという夢に誘われた人たちのほかに祖国を捨てたのは主に大資本企業の繁栄に締め出された専門職の見習職人や親方、それに百姓たちだった。彼らは旅費を得るために、あらゆる自分の財産を売り払わなければならなかった。しかし大洋航路の船の三等船室には、旅費は海の向こうに着いてから働いて返すと運輸会社の代理人に約束する以外にすべのないチェコやスロバキアのプロレタリアがたえず増え続けた。彼らはやがて最悪の資本主義の搾取の犠牲となったのである。多くの場合、彼らは長いあいだ鉱山や農園や、あるいは港のドックで最も苛酷な労働を引き受けなければならなかった。
<周辺国への生活の糧探し> しかし海の向こうへの移住は仕事をもとめての民衆の大移動の単なる一要素にすぎない。すでに十九世紀の前半から大勢のチェコ人やスロバキア人が仕事を求めてオーストリアへ、主にウィーンへ出かけていた。1900年にウィーンで10万人がチェコ国籍を名乗り出た。それ以外の大勢のものがチェコ出身であることをもはや申し出てもこなかった。
スロバキアの山岳の住民たちは、小さな畑くらいでは家族を養うことができなかったので、春に材木を川に流してハンガリーの低地にくだり、そこに夏のあいだハンガリーの大地主の農園で農業労働者としてすごした。スロバキアからも大勢の貧しい者たちが、家々を訪ねてあるく行商人として、また、もっともわずかな手間賃の職人として遠い世界へ出ていった。十九世紀の後半にはチェコ人やスロバキア人の建築労働者の手がウィーン、ブダペスト、ハンブルク、その他のヨーロッパの大都市の建築にすくなからぬ関与をしたのである。
しかしチェコ領地の内部でも何十万人もの人々が移動したのである。彼らのほどんど大部分が労働者か、または労働者になった農民たちだった。ブルノ、リベレッツ、プラハ、プルゼンスコ、オストラフスコといった産業の中心地では多数の労働者からなる労働者階級が形成された。彼らは自分たちの階級的利害を意識し、連帯の力を感じ始めていた。
2.社会主義運動の発生と1890年までのその発展
60年代の初めに、教育的かつ専門職業分野の個別的労働者の組合が生まれた。プラハの印刷工と機械技術者の組合が、そのもっとも古いものに属する。政治活動において当時労働者階級はまだ独自の運動方針(プログラム)をもってはいず、チェコ・ブルジョアジー指導者たちの影響に強く支配されていた。そのほかに、いろんな種類のプロレタリアのなかには、つい先頃までは独立した零細な職人や農民であったものも大勢おり、彼らはふ
たたび財産を手に入れ、独立した企業家になるのだという希望をよりどころに長いあいだ生きていた。
老人チェコ党の支援によって、自助的団体「オウリ(Ouly)が設立されたが、その目的とするところは、仲間の工場や労働者の信用組合、消費者組合を設立しようということにあった。わが国におけるこれらの自己援助理論の提唱者は老人チェコ党の政治家で国家経済学者Fr.フレボラートであり、この方法によって労働者階級を老人チェコ党の国家政策に服従させようとしたのである。政治問題にかんするあらゆる心配は、より高い階級出身の「民族の指導者」にまかせておけばよいのだと、労働者階級にたいして宣言がなされたのである。
<最初の社会主義的団体> しかし60年代の末にわが国の労働者たちのあいだにも、徐々にではあるがカレル・マルクスとベドジフ・エンゲルスという科学的社会主義設立者の幾つかの考え方、それと同時に、1864年に設立され、第一インターナショナルとして歴史に登場する国際的労働者団体についての情報も行きわたり始めた。
この第一インターナショナルと真先に接触をもったのはチェコ領地の国境ぞいに住むドイツの労働者、そしてウィーンとアメリカのチェコ人、スロバキア人だった。彼らを仲介にして本土内のチェコやスロバキアの労働者のグループにもひろがっていったのである。1867年の集会、結社、出版の権利の解禁はまさに労働者たちに労働者組織を設立し、社会主義の理念に共鳴する雑誌の創刊を可能にしたのである。最初の労働者団体がブルノ、リベレッツ、そしてプラハ、スロバキアではブルチスラヴァに生まれた。
第一インターナショナルの支持者の影響のもとに最初にウィーンに労働者教育協会が設立された。そこでは大勢のチェコ労働者も働いた。同じ原則にもとづいて1868年ブルノに労働者の教育と支援協会が設立され、したがってわが国における最初の組織的労働運動の拠点となった。第二の重要な拠点はリベレッツに出来た。
プラハでは労働者自助理論に反対する反体制組織がマラー・ストラナ、スミーホフ、カルリーンの労働者会議を中心として、また、雑誌「労働者」を中心に起り、1869年には「労働者」誌上で、労働者階級はブルジョアジーの政策に連帯すべきかどうかについて討論された。
第一インターナショナルに共鳴する労働者グループがすでに形成されはじめた。その先頭に立ったのは労働者ヨゼフ・ボレスラフ・ペツカであった。
<1867−1871年における大衆運動> 1868 71年という年代はチェコ
の働く大衆に大きな政治的体験をもたらした。オーストリア=ハンガリーの同権成立ののち、怒りの波がもり上がった。すべてのチェコの政治活動は不公平な帝国の二重支配体制に、とくにチェコ民族にたいするオーストリア・ドイツの支配に抗議する意思表示の運動に変わった。またもやスラヴ相互主義の思想やチェコとスロバキア民族にたいするロシアの援助にたいする期待も大きな反響を呼んだ。その表明はチェコの政治・文化界の代表者たちのモスクワ民族博覧会(1867年)への大々的な訪問であった。この訪問旅行は反動的なツァー政権のどっちつかずの立場のゆえに期待されたほどの政治的効果はなかったものの、大衆層のなかではロシア兄弟民族への熱烈な共感を強めた。
オーストリア・ドイツ支配にたいする反感はただちに全民族的運動に盛りあがった。この運動にはブルジョアジーや知識人層のほかに農民、労働者の幅広い層の力づよい参加があった。広大な大空のもとでの集団デモンストレーションが組織された。そしてこのデモンストレーションはフス主義運動の民衆の集団にならって「ターボル」(陣営)と呼ばれた。その多くはわが国の歴史の記念すべき場所に召集された(ジープ、ベズジェシュ、ブラニーク、ヴィクトフ、オレプ、フシネッツ、リパニ、ビーラー・ホラ、プシビスラフ、その他である)。とはいえフス時代の革命伝統の精神のなかで1848年にもこの運動はいちはやく、オーストリア国家とその代表者たちにたいする急進民主的な戦いに成長したのである。農村の民衆は税金の支払いを拒否していたし、あらゆる納税の義務の廃止を要求していたのである。さらに強力に普通選挙権の導入も要求されていた。この要求はおもに多くのターボルで優位を占める労働者層がとりあげ、それらのターボルの幾つかはお互いに団結した。
<大衆運動にたいするチェコ・ブルジョアジーの姿勢> しかし運動の過激化はブルジョアジーの利害にたいして危険になってきた。それゆえチェコのブルジョア政治家たちは運動から手を引き、オーストリア・ドイツ・ブルジョアジーとの妥協的交渉の道を閉ざさないように、運動の革命的尖鋭化を鈍らせようと努めた。
ウィーン政権はチェコの民主的運動を容赦なく弾圧しはじめた。スミーホフの労働者たちの呼びかけで召集されたプラハ・パンクラーツでのターボルは2000人以上の参加者を集め、1868年の戒厳令の宣言にいたる事態となった。各地のターボルの組織者たちは追跡の対象となった。
<労働者運動の追跡> もっとも厳しい警察の取締りは労働者の運動に向けられた。政府権力はプロレタリアの賃金闘争を軍隊の力とストライキ参加者にたいする発砲で弾圧した。1869−1870年のブルノ、リベレッツ、スヴァーロフ・ウ・タンヴァルトでのストライキやデモンストレーションで9人の労働者が射殺され、さらに数十人もの負傷者を出した。
この時期のストライキのなかでもっとも重要なのはブルノの織物労働者のストライキ、プラハの印刷工のストライキ、jtoりわけチェコおよびドイツ籍の数千人の労働者を巻き込むことになった1870年3月のスヴァーロフのストライキであるが、これらのストライキ闘争は労働者の連帯を強化することに寄与した。オーストリア政府は妥協すること、ストライキと労働組合設立の権利を形式的に承認する1870年の法律の発令を強いられた。
同時に新たな追跡の波が始まった。しかし労働者たちは官憲のテロにも恐れず、民族の他の階層ではターボル・デモの波が沈静化している時代にも抗議デモを行なっていた。
<社会主義者たちの政治活動> この時代の闘争体験と、それにまた経済繁栄時代のチェコ・ブルジョアジーの巨大化チェコ ・ブルジョアジーの巨大化と彼らの 「全民族の福利」 を求める宣言の影響からプロレタリアートを徐々に解き放つために多くの意味をもった。働く民衆の意識のなかに二つの基本的認識が浸透しはじめた。民族の区別なく資本家にたいする階級闘争の不可避性と、その戦いにおける国際的連帯の必要性である。
プロレタリア国際主義の精神のなかで、いろんな民族の労働者の第一回合同大会が1870年8月にブラチスラヴァ、ブルノ、そしてとくに大きな労働者の合同ターボルがエシュチェットで開催された。3万人のチェコとドイツの労働者たち、それにプラハ、ウィーン、およびドレスデンの労働者の代表者たちが参加した。これらの大会に際して、細分化している社会主義団体を統一的政治機構に統合しようという思想が熟してきた。当時、パリ民衆の蜂起やパリ・コミューン政府の設立がチェコやハンガリーの労働運動に強い影響を及ぼしていた。
<オーストリア社会民主党の設立(1874)> 専制帝国の西側の社会主義労働者たちは1874年4月に政治的に統一した。このときウィーンの新街区の近くのノイドョルフルでのオーストリア統一社会民主党の設立大会にオーストリアとチェコの代表がひそかに集まった。ハンガリーの労働者たちはこの大会に三人の代表を送ったが、そのうちの一人はヴラチスラヴァからだった。
ノルドョルフ大会は全オーストリアおよびチェコ労働運動の歴史のなかで重要なランドマークとなった。統一社会民主党の設立によってオーストリアにおける社会主義運動は組織的な、目的意識をもった労働者階級の指導的政治的勢力に変化しはじめえたのだった。大会の参加者たちははっきりと第一インターナショナルの政治綱領に賛成した。オーストリアの労働運動は革命的マルクス主義の精神のなかで資本主義の打倒と社会主義体制の確立を目指した。大会はプロレタリア国際主義と民族自決権の大きな重点を置いた。
<社会民主党の建設> しかし最初の労働者の党を建設することは限りなく複雑で困難な課題であった。ほとんどの労働者たちはこのときまで一度も組織されたことがなかったから、反発しあう教育団体や専門職団体の分裂のなかで、組織網を組みあげていくもっとも進歩的な労働者たちを探しださねばならなかった。わずかな費用で自分たちの印刷物を創刊する必要があった。社会主義定期刊行物の編集には最初、党組織の中枢部が当たった。最初のチェコの社会主義的定期刊行物になったのは「労働者新聞」(Delnicke listy)と「未来」(Budoucnost)であった。「未来」は1874年から刊行されはじめ、チェコ社会主義運動のもっとも献身的な先駆者たちのなかでも、金属労働者ジョゼフ・ボレスラフ・ペツカ(1849−1897)と縫製工ラヂスラフ・ザーポトツキー(1917)の二人が編集に携わった。「未来」の紙面ではマルクス・エンゲルスの説の主な思想がチェコの労働者に初めて総合的に説明され、プロレタリアートの革命的展望が示された。民族性の問題にも注意が向けられ、文学的寄稿や回想なども転載された。
最初から社会民主党は幾つかの前線での攻撃に応戦しなければならなかった。ウィーン政権によって執拗な弾圧が加えられた。同時に科学的社会主義の先駆者たちはチェコのブルジョア政治家や彼らの出版物の攻撃とも対決しなければならなかった。党の内部も常に党の革命のプログラムや目的の基本的問題に明確であったわけではなかった。多くの不明さが、愛国心とプロレタリア国際主義の関係の問題にもつきまとった。
<チェコスラヴ民族社会民主党の設立(1878)> チェコ社会主義運動の確立と発展のための好ましい条件を形成する必要はチェコの労働者のもっとも進歩的な指導者たちにオーストリア社会民主党の内部に、そしてその構成要素として「オーストリア・チェコスラヴ民族社会民主党」という名の特殊な組織の結成にふみ切らせた。それは1878年、ブジェヴノフ・ウ・プラヒの「ウ・カシュタヌ」での設立大会でのことであった。その際、オーストリア社会民主党の綱領と本質的に同じ政策綱領が採択された。これによって運動の全オーストリアの組織的統一性を損なうことなくチェコの労働者たちのなかに科学的社会主義の思想を浸透させることが容易になったのである。ブジェヴノフ大会以後チェコとオーストリアの労働者の闘争的連帯が著しく固められた。
<社会主義者の追跡> 70年代の終わりに国際労働運動はきわめて憂慮すべき時代に入った。ほとんどヨーロッパ中で社会主義運動弾圧の波が起こりはじめたのである。その先頭に立ったのがビスマルクの率いるドイツであり、ロシアのツァー政権であった。それに追従したのが1879年に新たに首相に指名されたターフェ公の率いるウィーン政権だった。その政権の保護によって同時にチェコ・ブルジョアジーも立ちあがった。
ターフェ政権のねらいは労働運動の弾圧であったが、その際、もっとも強力であったチェコ領土内の運動がねらい打ちにあった。労働団体や組織は解散させられ、機関誌は禁じられ、反社会主義裁判が開かれ、その指導者たちは投獄された。同時に政府は、たとえば鉱山における労働時間の短縮、傷害や病気にたいする保険制度といったような最悪の搾取の異常性を除去するべき幾つかの社会改革的法律を発布した。このような「飴と鞭」的政策によって反動政府は労働運動を分解させようとしたのである。
労働運動の内部では、の新しい状況のなかで激しさを増す弾圧にどう対決するかという問題がもちあがった。党自体のなかでも危機が起こった。二つの傾向、穏健派と急進派が生まれたのだ。80年代の半ばにきびしい追及が頂点にたっし、多くの労働者を政治活動からしめ出した。彼らのなかにはJ.B.ペツカもふくまれていた。かれは党機関の決定によりアメリカへ渡った。多くの社会民主党員が大都市から追放された。
<1885年、ブルノの織物工のストライキ> 追及のもっとも強い圧力が去ったあと、党の最統一とその活動の再開にたいする刺激が運動から起こった。統一の思想は経済闘争、とくに1885年のブルノの織物工のストライキのあいだに強化された。当時、ブルノには「平等」という雑誌が創刊されていた。その雑誌の編集部には織物工出身のヨゼフ・ヒベシュが政治的意識に目覚めた点で傑出していた。彼は実際に職長に地位にまで達していたのである。
<社会民主党の再建> そこからチェコ社会民主党の結成大会の召集の刺激がおこったのである。大会はブルノ市近郊のルジャーンキで1887年のクリスマスのころに行われた。大会はチェコ労働運動の両翼のポジティーヴな側面から出てきた。そのことは党の綱領そのもののなかに現われていた。とくに民族問題にかんしてヒベシュによって作成された大会決議はチェコの政治において初めて、民族問題の解決にさいしての労働者階級の意義を強調した。ブルノ大会はチェコの労働運動を現実化し、全オーストリアの運動の統一促進に寄与した。
この大会の結果はその後、1888年末から1889年初にかけてハイフェルト(ウィーンの南西にある町)でおこなわれた全オーストリア社会民主党の結成大会に結付いた。党はそこでマルキシズムにもとづく新しい綱領を採択した。社会民主党の綱領的、組織的統一は二十世紀におけるわが国の労働者の政治活動の新しい活発化の前提を形づくった。
ハンガリーとスロバキアの社会主義運動の始まり
スロバキアの労働運動は全ハンガリー的運動とともに発展を始めた。労働者が最高に集中した場所はブダペストとブラチスラヴァであり、この二つの市が組織的労働者運動のもっとも重要な中心地になったのはとうぜんである。
1868年にブダペストで民族差別のない「全労働者組合」が設立されたが、数カ月ののちに消滅した。1869年の初頭にブラチスラヴァで労働者教育団体「前進」(Vpred )が設立された。この団体は最初の公的社会主義者団体を組織し、その綱領のなかにはすでに重要な政治的要求をもり込んでいた。経済好況の時期に労働組合運動が発展した。
1869年11月にブラチスラヴァで秘密の労働者大会が実現したが、その参加者たちは第一インターナショナルの主要原則を受け入れ、オーストリア・ハンガリーにおける労働運動の組織的、政治的問題を検討した。この大会には43名のスロバキア、チェコ、モラヴァ、スレスコ、オーストリア、ハンガリー、それに第一インターナショナルの代表が出席した。
1873年に労働者たちは「ハンガリー労働者党」(Robotnicka strana Uhorska )の設立の努力をした。しかしその活動は間もなく政府によって禁止された。革命家レオ・フランケルの功績によりハンガリーにいわゆる「選挙を公認されない者の党」(Strana neopravnenych volit)が設立された(1878)。
<ハンガリー普遍的労働者党(1880)> 1889年、ブダペストの全ハンガリー労働者大会で革命的性格の政党が設立され、「ハンガリー普遍的労働者党」という名称がつけられた。なぜならその党に社会主義的民主主義運動への参加をあからさまに宣言することは許されていなかったからである。
ハンガリーにおける労働運動の発展に大きな影響を与えたのは第二インターナショナルの設立である。その刺激をうけて1889年9月にブラチスラヴァでオーストリアとハンガリーの労働運動の代表者の連合大会が行われ、その大会で新しい普遍的労働者党の指導部か選ばれた。
五月一日の最初の祭りが1890年にブダペストで行われたが、ブラチスラヴァ、コシーツェ、リプトフスキー・ミクラーシュでも労働運動は非常にもりあがった。
<ハンガリー社会民主党(1890)> 1890年12月にブダペストでハンガリー社会民主党の設立大会が行われた。この党はハンガリー、ドイツ、ルーマニア、セルビア、スロバキアの労働者の統一的プロレタリアの党の性格をもっていた。やがてスロバキア労働運動の発展が90年代に始まり、この時代にスロバキア産業労働者の数が上昇するのにあいまってスロバキアにおける社会民主主義運動も強まったのである。
3.十九世紀70、80年代におけるブルジョア政策
<1870年のウィーンの譲歩> 70年代の初めに、チェコ国家権プログラムにもとづくハプスブルク専制王国と協調しようとするチェコ・ブルジョアジーの努力が最高点に達した。1870年のフランスにたいするプロシャの勝利のあと、国際的にもオーストリアの内部的にもこの努力にたいして状況は好ましいかのように見えた。チェコの政治家たちは、ウィーン宮廷においてチェコ国家権主張者にたいする同情に傾く意見が多数を占めていた。その主張者とはすべてのチェコ政治家はもちろん、「歴史的」貴族の一派に組込まれた地主貴族たちを代表する地方議員たちもいた。皇帝と宮廷はこの動きを通して、増大するホーエンツォルレン王朝の権力にたいするハプスブルク帝国の内部がために役立てようと目論んでいた。ウィーン政権内の変化ののちチェコ領地内で政治恩赦が宣言され、チェコの地方議会の新しい選挙が宣言された。この選挙でチェコの議員は大地主選挙権者の代表とともに大多数を獲得したが、大地主選挙権者のなかでは「歴史的」貴族党が中央集権主義自由党に勝った。皇帝はふたたび、チェコ王国とハプスブルク帝国との関係はしかるべく改正されるだろうと華々しく約束をした。
<1871年の基本憲章> チェコ代表団とウィーン政府との交渉の結果は1871年、予備的な同意にいたった。それは「基本的条項」(fandamentalni clanky)にかんする法律の提案のなかに表現された。それによるとチェコは地域は総督を長とする地方政府が設置され、チェコ地方議会にたいして責任をもつ。地方防衛と治安組織(cetnictvo )、郵便と鉄道、および産業と商業領域における国家的行政はリタフ川以西合同管轄省の管理下にとどまる。それにたいして裁判、政治行政、学校制度、税務署はチェコ地方政府の管轄下に属する。チェコ領域内ではチェコ行政区(okres )とドイツ行政区とに分割される。地方議会への彼らの代議士は民族グループにまとめられ、それらのグループは重要問題については拒否権をもつ。リタフ川以西政府内ではチェコ宮廷大臣がチェコ領地を代表する。この地位はチェコ王国内の全地方を代表し、チェコ、モラヴァ、スレスコの代議士の出席をもとめて時に応じて召集されるチェコ地方総議会はこれらの諸地区の友好関係の表明であるべきである というのであった。
これは以前に決定された国家権プログラムからの大きな後退であった。基本憲章によってチェコ領地に与えられたのはハンガリーが二重国家的同権と比べるとかなりわずかの権利でしかなかった。この基本憲章はチェコ民族運動の要求に応えたとというよりは、むしろ一握りのいわゆるチェコの歴史的貴族と保守ブルジョアジーの政治的利害に応えたものであった。しかし、随分と削り落とされた提案でさえオーストリア・ドイツ・ブルジョアジーばかりかハンガリー政府の強力な反対に出会った。オーストリア・ドイツ・ブルジョア国家主義者たちはプロシャの戦勝のあとパンゲルマニズムの波に煽られて、チェコ人にたいするいかなる譲歩もオーストリアの「スラヴ化」の徴候として警戒したのである。その後、プロシャの宰相ビスマルクがハプスブルク王朝にたいして、プロシャはオーストリア・ハンガリー帝国にたいして敵対することはないと保証したとき、ウィーン政府は基本憲章提案を容赦なく反古にする決定をしたのである。
チェコの同権の解消はチェコの政界に大きな反響を呼んだ。ウィーン政権や王朝にたいする抗議行動はオーストリアの官憲が、自由思想の表明や集会の自由の制限、自治的集団の解散や出版物の没収によって圧殺した。
<「スロバキアの新学校」> オーストリア・ハンガリーの同権化はスロバキアの政治活動内にも対立を生んだという点でも好ましからざる結果をもたらした。これまでの指導的グループの、ウィーン指向の、ハプスブルク王朝からの支援期待を目指していた政策がオーストリア・ハンガリーの同権によって大きな打撃を受けたのである。「スロバキア新学校」として知られている反体制団体が形成されたのである。この団体はハンガリー政府と理解し合おうととする努力を目指した。1873年以後、このグループは分解した。以前の「古い学校」は1870以後「スロバキア民族党」と呼ばれるようになったが、徐々に保守的要素が強まってきた。
<スロバキアにおけるハンガリー化の圧力> おなじ頃、スロバキア民族運動にたいする圧力も強くなった。ハンガリー語以外の言葉を話すハンガリー内の住民たちに、その言語の保護を保証する1868年のハンガリー民族法は実際上まったく無視されていた。1874年に3校のスロバキア語のギムナジウムはすべて「反国家」行為の罪により閉鎖させられた。
<スロバキア基金の解散> 1875年、ハンガリー政府はスロバキア民族活動にたいして特別手痛い打撃を加えた。この年、唯一の全民族的教育機関である「スロバキア基金」が解散させられたのである。「基金」の博物館収集品、図書館やその他の財産は「スロバキア民族などそもそも存在しない」という理由で没収された。強化されたハンガリー化の努力はスロバキア語の出版物の徹底弾圧や、純粋にスロバキアの領地である地方にもハンガリー語の学校を開設することによって示された。
<老人チェコ党と青年チェコ党との対立ピークに> オーストリア・チェコ同権化の試みが失敗したあと、チェコ・ブルジョアジーの陣営内でも対立が頂点に達した。なぜなら、統一的国家権プログラムにひびが入ったからである。青年チェコ党はもうずっと以前から老人チェコ党の指導部を、1872年の選挙の敗北のあと彼らがとった消極的抵抗政策のゆえに、またインジフ・クラム−マルチニッツ率いるところの保守的大土地所有者階級に従属しているという理由によって厳しく批判していた。 青年チェコ党は民主的かつ国家主義的スローガンを宣言しながら、同時にチェコの工業経営者の経済的利害の効果的保護を約束して、共通の政策を捨てたのである。 1874年に 独自の党 「自由思想民族党」(Narodni strana svobodomyslna)を設立した。そして消極的抵抗と訣別し、議会活動に参加する決意をしたのである。
<チェコの積極的政策の始まり> 1874年の選挙で青年チェコ党は7選挙区で勝つことができた。彼らの議員たちはプラハ議会に帰り咲いた。理念的志向が老人チェコ党に近かったモラヴァ選出のチェコ議員たちはブルノ議会に帰り、ウエーンの帝国委員会に席を獲得した。1878年に老人チェコ党の政治家の指導者たちも消極的抵抗では自分たちの希望を満たすことができないと判断した。彼らは地方議会にもどり、次ぎの年に帝国委員会に入った。
<右翼の鉄の輪> こうして消極的抵抗の時代はおわり、積極政策の時代がはじまった。この時代にはそれぞれのチェコの代表者たちがウィーン政府のメンバーになったのである。ターフェ公内閣ではモラヴァの「チェコ人たち」の代表アロイス・プラジャークが法務大臣(ministr sprvedlnosti)になったが、彼はとくにチェコ労働者の弾圧に協力した。この時代にはチェコの代議士たち 老人チェコ党、そして初めのころは同じく青年チェコ党も はチェコやオーストリア地域の大土地所有者の保守党やハリッチュ選出のポーランド人議員などと共通の陣営にいた。そして彼らのなかで最大の発言力をもっていたのは大領地(latifundium )を所有する貴族たちであった。反動的ターフェ内閣を支持するこの連盟のことを、ドイツの自由主義者たちのグループの反対者たちは「右翼の鉄の輪」と呼んでいた。
<80年代における老人チェコ党と青年チェコ党> チェコの議員たちは彼らが政府を支持する代償にとくに経済の領域で小さな特典と妥協をかちとろうと努めた。政府の評判の悪い施策の責任を引きうけてまで進めてきた老人チェコ党の「パン屑」の政策はいつまでも選挙権者を満足させることはできなかった。とくに穀物と製糖業界の危機のせいで経済的苦境に巻きこまれた者たちである。それにたいして、いちはやく老人チェコ党の政府政策とわかれを告げた先取の気鋭にあふれた青年チェコ党はチェコ・ジャーナリズムにおける自分たちの強い立場を利用して、地方農民の利益組織の大部分の支持を取りつけた。そして都市部ではまた彼らの国家主義的煽動と普通選挙権導入をふくむ民主主義的権利の拡大要求が効果をあげた。彼らの反聖職主義的指向も諸都市で強い反響を得た。
起こりつつある社会主義運動との関係では、青年チェコ党は最初のうちこそ好意的であったが、80年代に労働運動のもりあがりからブルジョア階級の恐怖が増大すると、老人チェコ党よりも強い敵意をしめして反社会民主党の立場をしめしはじめた。
4.70年、80年代における文化活動
<学校制度における進歩> 60年代のおわりにウィーン政府――そのなかで大きな発言力をもっていたのはドイツ・ブルジョア民主党であったが は学校における若者の教育、養成を検閲する権利を教会組織からとりあげた。そして結局、1855年から有効であった法王庁との協定を破棄した。とはいえ宗教教師によって教えられる宗教はその後も必修科目としてのこったから、それによって教会反動の影響が学校から完全に除去されたわけではなかったが、それでも国家機関による教育にたいする検閲権を奪ったことは学校制度の非宗教化への重要な一歩であった。
60年代のおわりに発布された学校法はマリア・テレジア時代に形成された学校制度の多くの古くなった側面を削除し、義務教育年限を十四歳までとする制度を導入した。農村地方ではいぜんとして支配的であった8年制の尋常小学校(obecna skola)のほかに都市部では尋常小学校の5年生につながる3年制の高等小学校(mestanska skola )網もひろがった。これらの学校はすでにかなり充実した教育プログラムをもち、授業は専門教師によって分担されていた。小学校、高等小学校の教師の養成は4年制の師範学校が保証していた。農業、工業、商業といった新しい専門学校もうまれた。高等学校での学問のためには8年制のギムナジウムと7年制の実用学校(realka)が準備教育にあたったが、れらの学校の数は、とりわけ個々の市が促進したおかげで、十九世紀の後半にはいちじるしく増大した。
<教育活動の発展> 1867年憲法の発布によって結社、集会、言論の権利の拡大したことも教育・文化活動の発展のための好ましい条件をつくりだした。たとえその直後に政府の弾圧の新しい波がチェコの民族運動に襲いかかったとはいえ、その後の多くのチェコ文化団体の設立が可能となり、教育講演会、演劇の夕べ、コンサート、展覧会、それに新しい本や雑誌の出版が出しやすくなったのも事実である。70年、80年代には会員制教養文庫が急速にひろがり、小さな町にも開設された。
<文 学> 大部分のブルジョア知識人の文化的努力はチェコの民族的同権の承認と、民主主義的な基本的権利のための戦いにむけられた。この精神のなかで民衆の陣営時代にアルマナフ「ルフ」(Ruch)を中心とする若い詩人世代が登場した。そのもっとも典型的な代表者はヨゼフ・ヴァーツラフ・スラーデク(1845−1912)、スヴァトプルク・チェフ(1846−1908)である。彼らの作品は、とくに80年代において、民族の権利のための戦いと、社会的解放の戦いとの統一を表現し、ひろい範囲の民衆層のあいだで大きな反響を受けた。
70年代にはアロイス・イラーセク(1851−1930)が彼の叙事文学を発展させはじめた。彼の歴史小説はフス時代の偉大さと、民族的屈辱のもっともひどい時代の民衆の抵抗の力、民族再興期の先覚者たちの不屈の精神を書きあらわしている。グスタフ・プフレグル・モラフスキー(1833−1875)、ヤクプ・アルベス、アンタル・スタシェクなどはすでに労働者階級の生活とその苦しい闘争に注意をむけている。
オーストリア・チェコ同権化運動の失敗ののちにチェコ文化生活のなかで、国粋主義的憎悪へまで突っ走る空虚な愛国主義言動がきびしく批判され、チェコ小市民社会の偏見、狭量、反動性の克服が叫ばれた。チェコの芸術的作品また学問的研究は、国家主義者の宣伝にもかかわらず、一方的にドイツの手本に追従しているということ、世界的文化活動の他の領域との持続的接触が欠けていることが証明された。芸術と学問の世界性をもとめる闘争は70年代、80年代のわが国の文化生活の独特の性格であった。文学におけるこの傾向の先頭に立つ代表者はヤロスラフ・ヴルフリツキー(1853−1912)とユリス・ゼイエル(1841−1901)であり、彼らの論壇となったのは文学雑誌「ルミール」(Lumir )だった。
<ジャーナリズム> この時代にチェコのジャーナリズムも著しく発展した。カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーのジャーナリズムの伝統をヤン・ネルダ(1834−1891)が継承した。彼は新聞論説家(フェエトニスタ)として、また、文学と演劇の鋭い批評家としてチェコ・ジャーナリズムの水準を高く引きあげた。反聖職主義闘争においては、青年チェコ党のジャーナリストたち、ヨゼフ・バラークとアルフォンス・シュチャストニーがハヴリーチェクに結びついている。生れつつある社会主義ジャーナリズムは最良の代表者としてヨゼフ・ボレスラフ・ペツカ、ラヂスラフ・ザーポトツキー、ヨゼフ・ヒベシュをもっている。
<国民劇場の建設(1883)> 70年代のチェコ最大の文化事業はプラハ国民劇場の建設である。やがて1881年、ほとんど完成した建物が火災で焼け落ちたとき、巨大な全民族的運動がひろがった。そしてこの運動は民族のひろい層からの募金で、新しい建物を建てることに成功した。その劇場は1883年に華々しく開場した。
<音楽と歌> 国民劇場の建設はチェコの音楽と造形芸術家のすべての世代に霊感を与えた。70年代に『リブシェ』『くちづけ』『秘密』といったベッジフ・スメタナの有名なオペラや連作交響詩『わが祖国』などが生まれた。そのすぐ後にアントニーン・ドヴォジャーク(1841−1904)の創作的全盛時代がくる。とくに『スラヴ舞曲』で有名になった。
この時代に大きな人気を博したのはアマチュアの劇団や歌手の団体である。芸術的歌にしろ、大衆化した歌にしろ民族的な闘争や社会的な闘争において非常に効果的な表現手段になった。
<労働歌> このころわが国最初の労働革命歌が生まれた。1880年代の社会主義者の弾圧がもっともきびしかった時代に『新しい闘士が立ちあがる』と『労働の歌』のチェコ風のかえ歌が作られた。
<造形芸術> 造形芸術においてはいわゆる国民劇場世代が前の時代のリアリスティックな伝統を引き継いだ。国民劇場建設のプロジェクトは建築家ヨゼフ・ジーテク(1832−1909)の作品である。彼は歴史的様式の手本、とくにルネサンス様式から創造的に吸収した。チェコ彫刻の古典的作者となったのはヨゼフ・ヴァーツラフ・ミスリベク(1848−1922)であった。彼のポートレートやアレゴリー的人物像は新時代チェコ造型芸術の頂点をしめす作品である。画家のなかで高く群を抜いているのはマーネス作品の後継者ミコラーシュ・アレシュ(1852−1913)である。彼は素描や絵画作品の題材をおもにチェコやスロバキアの革命的伝統から、また民衆の歌やことわざ、格言のゆたかな泉から吸収した。国民劇場の装飾のために人物画家ヴォイチェフ・ヒナイス(1854−1925)とフランテエシェク・ジェニーシェク(1849−1916)も仕事をした。80年代に歴史的場面を描く画家ヴァーツラフ・ブロジーク(1851−1901)も彼のもっとも有名な作品を創造した。 チェコの風景画家のなかではユリウス・マジャーク (1832−1899)とアントニーン・ヒトゥッシ(1847−1891)がもっとも注目すべき作品を描いた。
<複製技術(ポリグラフ)の進歩> ひろい範囲の大衆に造形芸術作品や絵画的記録一般を知らせることはポリグラフ産業の分野での複製技術の完成によって可能になった。国際的な意義をもつのはとくにチェコ人ヤクプ・フスニークの1869年の発明の凸版印刷術(svetlotisk=phototype)という発明と、1878年のカレル・クリーチュの仕事から生まれた凹版印刷術(hlubotisk=photogravure)である。
<カレル大学の分離> 新しい思想の流れがこの時代のチェコの学術界にあらわれた。1882年、チェコの学問に堅固な中心が出来たのである。つまりこの年、ドイツの勢力に支配されていたプラハ大学がチェコ語大学とドイツ語大学に分離したのである。短期間のあいだ、大学の基本的講座がチェコの専門家によって占められることになった。
もちろん当時はまだあらゆる学術思想はまったく観念論的世界観の虜になっており、その思想はブルジョアジーの階級的利害に完全に一致していた。しかし、学問研究がロマン主義的国家主義や伝統主義の強い影響下にあった古い時代とはことなり、ブルジョア思想に冷静な現実主義と批判性によって特徴づけられる実証主義的傾向が徐々に優位を占めてきた。芸術の世界と同様に、学問の世界にもチェコの学問をドイツの学問への一方的な従属から解放し、チェコの学問の地平をひろげようようという努力が増大した。この傾向は社会科学の分野でとくに強かった。その代表的先駆者が言語学ではヤン・ゲバウエル(1838−1907)、歴史学ではヤロスラフ・ゴル(1846−1929)、ブルジョア社会学ではT.G.マサリク(1850−1947)であった。
<手稿論争> 彼らの刺激から80年代にいわゆる手稿論争が頂点に達した。この論争のなかで古代チェコ文学のもっとも貴重な遺産と考えられていた『王宮写本』(Rukopis kraovedvorsky )と『緑山写本』(Rukopis zelenohorsky)は十九世紀前半に起源を有する偽本であるということが、疑う余地もないほどの学問的分析によって証明されたのである。手稿論争は当時の一般市民の生活の水面を強く波立たした。なぜなら両手稿の信憑性を拒否する者たちは、愛国心を標榜する小市民たちが手放したくない欺瞞的ロマンチックな空想を打ち壊したからである。
<チェコ・スロバキアの文化交流> チェコ文化とは比較にならないほどのひどい条件のなかでスロバキアの文化活動は発展した。ハプスブルク専制王国内の二重支配体制はチェコ・スロバキアの相互交流の確立をも困難にした。チェコの国家権プログラムはスロバキア民族の今後の運命の問題を脇に置いていた。そして第二にスロバキア・ブルジョアジーの一部はスロバキアのハンガリー編入に妥協していた。しかし両兄弟民族の文化は引き裂かれていなかった。このスロバキアにたいする熱い関係はアドルフ・ヘイドゥク、スヴァトプルク・チェフ、アロイス・イラーセク、ヨゼフ・マーネス、ミコラーシュ・アレシュ、その他の作品のなかで証明されている。スロバキア民族的知識人たちの側からのこの親密な関係の証拠は、たとえば1873年、ヨゼフ・ユングマンの生誕100年記念のときにプラハを訪れたスロバキア基金の代表団の数がその証拠である。作家でジャーナリストで詩人のスヴァトザール・フルバン・ヴァヤンスキー(1847−1916)は彼の最初の詩集をアドルフ・ヘイドゥクに捧げている。
<スロバキアの文学、学問> 70、80年代にスロバキアの作家ヨナーシュ・ザーボルスキーは彼の創作の全盛期を迎える。彼は自分の作品をとうしてスロバキア民衆の社会的状況の改善のために戦った。この時代は同じくスロバキアの詩人パヴェル・オルサーガ・フヴィエズドスラヴァ(1849−1921)とリアリズム散文文学の名匠マルチン・ククチン(1860−1928)の古典的大作創作の初期にあたる。両者はスロバキア民衆の民主主義的伝統に注意をむけ、民族的、社会的抑圧者たちにたいする民衆の勝利にたいする信念を表現している。スロバキアの学術研究者のなかで世界的名声を博したのは地理学者のディオニーシュ・シュトゥール(1827−1893)と植物学者ヨゼフ・リュドヴィート・ホルビ(1836−1923)である。
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