(3) 第一次世界大戦――わが国民衆の民族解放の戦いのための十月革命の意義



 <第一次世界大戦の経済的、政治的原因> 帝国主義の擡頭とともに各資本主義国の経済発展の不均衡が急速に深まった。帝国主義的列強国のあいだの経済的、政治的、軍事的力関係に激しい変化が起こった。それらのなかでもっとも重要なものの一つがドイツ帝国の力の急速な進展であった。ドイツの商船や軍艦建造熱とドイツ資本の世界市場への進出は他の列強国、とくにイギリスとの関係をこの上もなくきびしいものにした。
 新しい流通市場と原材料獲得の激しい抗争のなかで資本主義的独占は帝国主義的列強国のあいだの緊張をついには第一次世界大戦勃発にまで高めた。すでに二十世紀の最初の10年間に、二組の権力グループが相互に対立し一方の側にはドイツ、オールトリア・ハンガリー、それにイタリー(おくれて登場)の三国、そしてもう一方の側には「同盟国」(イギリス、フランス、それにロシアが登場)があり、にらみ合いながら対立していた。
 オーストリア・ハンガリー専制王国の支配者階級は1879年以来、軍事条約によってドイツと結びつき、戦争犯罪準備のための少なからぬ役割をになっていた。
 1908年、オーストリア・ハンガリー帝国は1878年から軍事的に占領していたボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した。この併合はとくにセルビアにたいする重大な干渉であった。つまりセルビアの権力計画では南スラヴの全領土をロシアの援助のもとに一つの国家形態に統合することであった。1912年、トルコの占領者にたいして南スラヴ諸国の解放戦争勝利のあと、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアにたいする軍事介入の方針を立てたのである。戦争突入直前の事態は最終段階に達していた。
 オーストリア−セルビア国境で挑発的におこなわれた大規模な軍事演習の視察旅行の際に、サラエボでのオーストリア帝国の王位継承者が暗殺された。そのあと、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアにたいして展開した緊急措置は、大戦勃発に直接つながる深刻な事態だった。オーストリア・ハンガリー帝国はドイツとの同意成立後1914年7月28日、セルビアにたいして宣戦布告し、作戦行動を開始した。列強国間の集団的対立のけっか、この戦争は一週間のうちにかつてなかったほどの規模に拡大した世界的抗争となったのである。
 ドイツ帝国主義は世界の新分割、ヨーロッパと近東の大部分の獲得、イギリス、フランス、ベルギーが獲得している植民地の獲得のための戦争を遂行した。帝国主義的オーストリア・ハンガリーはスラヴ民族と東南ヨーロッパ諸国の隷属化、バルカン半島とアドリア海の覇権獲得を目指して努力した。主要な対立は、自己の帝国維持とドイツの勢力拡大の抑止、イラクの石油獲得、さらに大きなアラブ諸国の隷属化をもとめるイギリスとドイツのあいだで形成された。フランスも、たしかにアルザス・ロレーヌ地方の返還をもとめて戦争を遂行したが、同時に自国の植民地や帝国主義的地位を防衛し、ザール地方の分割に力を尽くした。
 ツァーのロシアはバルカンとトルコでドイツ、オーストリアの拡張に対決しようとした。そしてロシア自身の拡張努力によって地中海への自由な進出をもとめて努力した。日本はこの戦争を中国への帝国主義的侵略に利用した。ベルギーは自己の自立性だけでなく、同時にアフリカにおける植民地支配をも守った。ただセルビアだけが防衛戦争を遂行した。ドイツとオーストリア・ハンガリーは戦争をはじめるにあたって圧倒的優勢を確信しており、短期間に作戦の勝利の終結を予想していた。

 <第一次世界大戦の性格> この世界大戦はその最初から帝国主義戦争であった。両帝国主義陣営はこの戦争を侵略的、略奪的、不正義な戦争として準備していた。戦争はこの上もない大きな生命の犠牲を要求し、ほとんどの世界の平凡な民衆を大きな苦難と貧困のなかに投げこんだ。

 <わが国の戦争中の状況> 戦争は最初の瞬間からわが領地内のすべての生活を変化させた。18歳から50歳までの男性は軍隊に徴集され、軍備は経済活動を重い破綻に導いた。ほとんどの生産企業は徐々に武器や装備の生産に切り替えられたし、農業生産物の大部分は軍の食糧のためにかき集められた。鉄道輸送は武器や前線に出発する兵員の輸送、前線の背後の野戦病院へ移送される傷病兵によって過密化されていた。輸送の混乱は食糧の備蓄に危機や暖房燃料の不足を高めたが、それもことに大都市においてひどかった。
 間もなくすべての基本的食糧にたいして切符制が導入されたが、しかしその後も住民たちは、しかも労働者の妻たちは工場でのつらい仕事のあとで、そして子供たちも最少限の割当てのために長い列を作って並ばなければならなかった。高利貸しや食糧、衣類、履物などの闇商売が繁盛し、聞いたこともないような高い値段で取り引きされた。働く民衆の状況はいっそう苦しくなり、給料はほんのわずかしか上がらない一方で、資本家たちの利益は異常なまでに増大した。搾取によって労働者たちを窮乏に陥れている軍需産業の富豪にたいする民衆の怒りは集積されていった。
 物資の欠乏とともにチェコ民衆の政治的かつ民族的抑圧が強化された。警察テロの体制が始まり警察の検閲は強化され、集会・結社のあらゆる活動が弾圧された。ウィーン政権や皇帝のチェコ民衆の民族感情にたいする姿勢は明らかに敵対的であり、反スラヴ的方向性に影響されていた。役所ではゲルマン化が強まった。大部分の学校は野戦病院に転用され、教育は麻痺した。わが国の民族文学の最良の部分は学校の図書館から排除され、愛国的表現はすべて反逆罪として追跡された。反軍国主義やロシア友好の表明はとくにきびしく追及された。戦争にたいする民衆集団の憎悪は、チェコおよびスロバキア民衆が、有好的伝統を保ってきたスラブ民族にたいする戦争に駆り出されたことによってさらに倍加された。兵士たちは戦争の当初から前線を走り越えて、ロシア軍に受け入れられるチェンスをうかがっていた。1915年の春、第28プラハ連隊とムラダー・ボレスラフ連隊の一部がロシア側に移った。
 ロシア戦線におけるオーストリア軍の一時的戦勝の時期にドイツ・オーストリア反動政府はチェコ・ブルジョアジーにたいしてまで、その大部分は親オーストリア派であったにもかかわらず、圧力を強めた。支配階級の軍国主義者貴族グループは1915年春の戦勝をチェコ・ブルジョアジーの経済・政治的地位にたいする圧迫に利用しようと望んだ。そしてとれは数人の経済・政治的重要人物の逮捕という形であらわれた。

 <労働者たちへの弾圧> 反戦、反オーストリア暴動の主勢力は戦争勃発の当初から労働者たちだったが、彼らの活動は政府権力によってきつく押えつけられていた。軍需品の生産工場は軍隊の監視のもとに置かれたいた。軍需工場では16時間労働制が導入されていた。戦争反対や王家にたいする侮辱、その他の「反逆」行為による告発や逮捕は日常茶飯事だった。抵抗運動やプロレタリアの生活状況の改善をもとめるどんな試みも探索され、労働者の前線送りによって処罰されることもあった。1916年秋から、残酷な弾圧にもかかわらず、過激な性格をいっそう強めた労働者の行動が多くなり、戦争反対のデモも規模を大きくしていった。

 <社会民主党の姿勢> しかし労働者やひろい民衆層の反戦気分からの個々の行動は自然発生的で組織されてはいなかった。社会民主党は民衆の反抗の先頭に立つという思想を完全に放棄しており、抗争の終わりを消極的に待ち、他のチェコ・ブルジョア政党と協力の道を選択した。社会民主党はこの敗北主義的姿勢を、動員によって組織的労働運動が破壊されたこと、そして党組織が機能を停止したことによると客観的に理由づけをしていた。しかし党は彼らの手法や方向性によって現実には、チェコ・ブルジョアジーの協力主義者的政策の一半を担ったのである。
 第二インターナショナルはその成立の初期には労働運動の発展にかなりの意義をもっていたが、戦争という抗争が始まったとたんに機能を停止した。それはなによりも彼らのそれに先立つ日和見主義的かつ修正主義的発展の結果であった。1912年にはまだバーゼル大会で帝国主義戦争の防止を誓っていた重要な党の大部分は「祖国防衛」の立場に移り、自国の帝国主義ブルジョアジーの支持にまわったのである。ただ一つレーニンに率いられるボルシェヴィキ(多数派)のロシア社会民主党だけが革命プログラムから登場し、それを発展させ、ロシア労働運動を1917年11月のプロレタリア革命の勝利にまで導いたのである。

 <チェコ・ブルジョアジーの政策> チェコ・ブルジョアジーは親オーストリア政策を取り続けることによって自分たちの経済的かつ政治的立場をいっそう固められるとの希望をもって、戦争中もこれまでの政策をずっと取り続けていた。その政治的視点は同時にチェコ・ブルジョアジーを踏み台にして、自分たちの影響力を強めようとするドイツ・ブルジョアジーの手法にも影響された。その根源を自由競争に有するこの複雑な対立関係をチェコ・ブルジョアジーは親オーストリア姿勢によって解決したのである。
 大戦勃発当初に形成されたグループや傾向は、大同小異で些細な点においてのみ違っていた。保守的なカトリック教徒たちのグループはカトリック教を保護するオーストリアに忠誠を示し、独立チェコ国へのいかなる方向性もチェコ民族にとって「不幸」であるという意見を隠そうとしなかった。このグループのスポークスマンは専制帝国内部での連邦的国家権改革をいぜんとして信じているかのように見えた。大部分のチェコ・ブルジョアジーは戦争がオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊によって終わろうなどとは予想もしていなかった。
 その反対に戦後の専制王国の未来を待望すらしていた。チェコ産業の発展はオーストリア・ハンガリー専制王国のような大流通市場の枠内においてのみ可能なのであるという信仰は、本質的には社会民主党のグループもブルジョアジーと共通していた。
 オーストリア・ハンガリーのこれまでの発展では不満な一部のチェコ・ブルジョアジーの政治家たちは、戦争中にマサリクの呼びかけで「マフィア」と呼ばれる秘密集団を設立した。その活動は主に西側列強国にたいする情報活動に向けられていた。マサリクは国外に出ていき、反ハプスブルク抵抗運動を組織しはじめた。
 1916年、パリで連盟諸国のなかでプロパガンダを展開する「チェコスロバキア民族委員会」の代表となった。彼はスロバキア人M.R.シュテファーニクをふくむ協力者たちとともに、チェコ・ブルジョアジーの利害を発展させうるような、そのような戦後状況の秩序づくりにたいする西側列強国の同意を取りつけるべく努力した。マサリク自身は1917年にいたるまで、未来の国家は、その誕生と体制を同盟列強国に従属すべきであり、西ヨーロッパの王家の誰かを王位にいただいた専制王国であるべきだと考えていた。

 <国会議員のチェコ連合> 1916年11月、チェコ・ブルジョア諸政党の代表者たちと、チェコ社会民主党員たちは、帝国委員会のチェコ議員によって構成される「チェコ連盟」の設立に同意した。同時に、17名によって構成される「民族委員会」設立された。両方の組織において指導的影響力をもっていたのは農業党であった。
 その設立に際して、これらの組織は例外なく専制王国にたいする忠誠を公言していた。さらに1917年1月に、オーストリアの外務大臣に手わたされた宣言のなかで連盟の指導部は「チェコ民族は過去において常にそうであったように、現在においても、そして今後の時代においてもハプスブルク王権のもとにのみ自らの未来と、自らの発展の条件を見ると、全世界をまえにして決定的に宣言した」。
 チェコ同盟の親オーストリア路線と社会民主党の代表者たちの忠誠表明は働く民衆の現実感覚と努力とはだんだんと離反していったのである。

 <1914−1917年におけるスロバキアにおける政治状況> 同様にスロバキア・ブルジョアジーの大部分は戦争の初めからハンガリー政府やウィーンにたいする関係では忠誠政策を維持していた。大戦勃発の直後、スロバキア民族党はその綱領を公表した。そのなかで「重要なことはわが祖国とわが専制王国はその一体性において保たれるようにすること、いま始まった戦争によっていかなる損害もこうむらないようにすること、そしてその戦争から勝利をもって抜け出すようにすることである」と強調した。そしてその後、スロバキアの運動が起こるかもしれない誤解を避けるために、そして戦争終結後に仕事が続けられるようにという理由づけによって自発的に活動を停止した。聖職民衆党の代表者たちはかれらの意思表明のなかではっきりとハンガリー帝国主義支持を表明した。
 ブルジョア陣営のなかではただ「声」派の数人の発言者だけが(たとえばヴァーヴロ・シュロバール)ハンガリー帝国主義を支持で悪評をこうむる過ちをおかさなかった。しかし社会民主党ですら政治を動かす要因とはなりえず、ただ大衆闘争の陣頭に立つのがせいいっぱいだった。ハンガリー社会民主党の指導部も、第二インターナショナルの大部分の党と同じように、「祖国」防衛の立場に移った。
 ハンガリーの日和見主義者たちは労働者の最大の目標は「祖国の防衛」であると宣言し、中心となる権力の崩壊と起こりうる専制支配体制の分解にたいして警告し、民族問題にたいして支配階級の国粋主義的姿勢と一体化した。

 <スロバキアの働く民衆> 戦争によってこの上もない苦難に陥れられたスロバキアの民衆は、それでも、戦争にたいする抵抗の決意をだんだんと明確に示しはじめた。チェコの兵士たちと同様にスロバキアの兵士たちは捕虜収容所へ駆け込んだ。戦争勃発直後、スロバキアの幾つかの部隊は出撃を拒否した。そしてきびしく罰せられたにもかかわらず、さらに他の部隊もその先例にならった。アメリカのスロバキア社会主義者たちは反帝国主義政策を発展させ、スロバキア人とチェコ人の専制王国からの離脱をもふくめた民族自決の要求を高く掲げた。

 <ロシア二月革命の影響> しかしロシアにおける事件の進展はチェコとスロバキア民衆の解放運動に決定的方法で影響を与えた。1917年のロシア・プロレタリアートの革命的行動は真の解放への道筋を抑圧された大衆や搾取されている民族に示した。
 ツァーリズムを打ち倒した二月革命は、すでにハプスブルク専制体制を震憾させていたし、同時に民衆の自意識を大いに目覚めさせた。チェコ地域やスロバキアでは飢えや戦争に反対する民衆のデモンストレーションが強まった。
 革命についての第一報が伝わったあと、プラハの鉄鋼生産工場で自然発生的なデモが起こり、4月12−16日のあいだに集団ストライキに移行した。その先頭に革命党が立っていない労働者階級は自己表現の形式を自分で、しかもしばしば場当り的に捜さなければならなかった。
 工場の労働者たちはロシアの先例にならって、ストライキ運動展開の指導者となる代表と労働者委員会を選んだ。運動はプラハからその他の市にひろがり、プルゼニュ、ムラダー・ボレスラフ、クラッドノ、オストラヴァ鉱山地帯でも起こった。

 <デモンストレーションとストライキ> 4月25日、プロスチェヨフの衣料品製造工場の労働者のストライキとハンガー・デモンストレーションはすでに8千人が参加していたが、その弾圧の際に23人がオーストリア軍の犠牲になり、その他の40人が重傷を負った。革命的集団闘争は1917年春にはチェコ領地でもスロバキアでも戦争期間中の最大の盛りあがりを見せ、政治的性格を強めていた。この年のうちにとくに重要なストライキがまたもやプルゼニュ、プラハ、その他の市で起こり、それらは軍需品生産の重要拠点にまで迫った。

 <政治行動> 1917年春になるとオーストリア・ハンガリー専制王国の地位は国際的にも国内的にも徹底的に悪化した。オーストリア政府は、自らの地位を堅固なものとし、労働者階級や人民集団の闘争を鈍化させる方策を探し求めた。5月末に政府は3年ぶりにウエーン帝国委員会を再開した。労働者たちはこの機会に、議員たちが独立チェコ国の体制をその他一連の民主的な要求とともに獲得するように断固たる決意をもってチェコ連盟に迫った。チェコの作家たちはチェコ連盟にたいし、これまでの協力主義者政策の継続にたいして警告する声明を発表した。
 一部のチェコ・ブルジョアジーはためらいがちの政治的転向をした。なぜなら、戦争はたぶんオーストリア帝国の敗北によって終わるだろうということがわかってきたからである。このような圧力のもとにチェコの代表者たちは1917年5月30日の帝国委員会の開会に「ハプスブルク帝国の改造」のプログラムと「帝国と王朝のため」を強調する妥協的な宣言をもって臨んだ。
 これらの日々に労働者たちはプラハの街々で膨大な政治的デモンストレーションを組織した。同様にプルゼニュの労働者たちも立ちあがった。国家の治安当局はデモや行進を弾圧したが、労働者たちが民族独立の要求さえも掲げた広範な運動をもはや阻止することはできなかった。

 <十月社会主義大革命の効果> 支配的国家の帝国主義的政策にたいする決定的な打撃はロシアの十月革命が与えた。1917年11月、ロシアの労働者と農民がブルジョアジーの支配を倒し、プロレタリア政府を樹立したという第一報が届いたとき、オーストリア・ハンガリー専制王国でも革命の危機が起こった。
 十月社会主義大革命によってわが国の民衆の闘争も新しい歴史的段階に入った。
「平和にかんする声明」と「ロシア民族の権利宣言」というソビエト政府の歴史的議決はただちにわが国にも伝わり、熱烈な同意を呼びおこした。十月社会主義大革命の際、レーニンの口から宣言された民族自決権の提示はチェコとスロバキア民族の解放運動にも大きな影響を与えた。
 チェコ・ブルジョアジーのあらゆる構成要素は、マサリクによって指導される国外の政治亡命者たちもふくめて、十月革命にたいして敵対的な態度をとった。同様にずっと以前からブルジョアジーとの協力によて結ばれていた社会民主党の右派は十月革命支持にはまわらなかった。その歴史的意義の基本的評価を避け、ブルジョアジーとともに革命にたいする不信感を煽った。
 しかしブルジョア政党の代表者たちまでが、もし民衆集団の解放運動において影響力をもとうとすれば、自分の意見のなかに民族自決をうたわなければならなくなった。
 1918年1月6日、チェコ領地の議員の通常議会がプラハに召集されたが、この議会でいわゆる「三王宣言」が発布され、そのなかで民族の自決権が強調された。しかしチェコのブルジョアジーは基本的にはその後も妥協政策にすがりつき、ハプスブルク王朝と分離する勇気をもたず、この状況のなかでもハプスブルク帝国の連邦化の可能性を見逃していた。

 <一月ストライキ> それは中心的権力国ドイツとオーストリア・ハンガリーがビエロルスのブレスト・リテフスクでの交渉の際、ソビエト政府の平和提案の受け入れをしぶり、若いソビエト国の西の部分を永久占拠を画策しているときだった。ハプスブルク専制王国内のすべてのプロレタリアートは、当時、形成されつつある国際的革命勢力と連帯し、併合なしの正当な平和を求めて、また戦争と飢えに反対する大きなストライキ運動を展開させていた。1月の後半、ブルノとオストラフスコをはじめ、その他のチェコおよびスロバキアの市や町で、またプラハでストライキが起こった。オーストリア・ハンガリー中で起こった労働者の1月ストライキは1918年10月に帝国の滅亡へと導く革命的闘争の波の発端であった。

 <ボカ・コトルスカー(ユーゴ)の蜂起> オーストリア・ハンガリー軍内でも反乱や蜂起が起こった。そこではチェコやスロバキアの兵士たちも重要な関与をした。1918年2月の初めにダルマツィエのボカ・コトルスカーに投錨中の40隻の軍艦の水兵たちが反乱を起こした。それはまさに最大の反ハプスブルク武力蜂起だった。6千人の水兵が参加したが、そのなかにはユーゴスラヴィア、イタリア、ハンガリー、ポーランドの水兵のほかに、チェコとスロバキアの水兵も重要な役割を果たした。反乱の指導委員会にはチェコの革命家フランティシェク ・ラシュもいたが、反乱鎮圧のあと死刑に処された。

 <1918年5月1日> 1918年春に食糧暴動とストライキの新しい波が起こった。大規模な労働者のメーデー・デモンストレーションが十月革命の理念をうけ行われた。チェコ領地内ではとりわけプラハでの示威運動だった。これには10万人が参加した。スロバキアでも労働者たちは革命行動のなかにあった。そしてリプトフスキー・ミクラーシュではストライキによってメーデーを公然と祝う許可をもぎとったのである。この示威運動は、ここでスロバキア労働者が初めて明確にチェコ民族と相携えてスロバキア人の自決権要求を提示したのである。

 <軍隊の反乱> 軍の各部隊では戦争捕虜によってロシアからもち込まれた革命思想がひろがっていた。5月12日には、主としてウクライナやポーランド国籍をもった移住地からの帰還者たちによって編成されていたリマフスカー・ソボタの駐屯部隊が反乱を起こした。同様に5月にはトレンチアーンでも、6月にはブラチスラヴァでも軍隊の反乱が起きた。
 5月21日にはルムブルクの第7狙撃連隊の補充大隊が大胆な反乱に決起した。しかし包囲され、鎮圧された。10人の指導者は銃殺され、他の560人はテレジーン要塞に監禁された。セルビアの町クラゲヴァチュで6月2日に起こったスロバキアとチェコの兵士たちによる反戦暴動は、その鎮圧ののちに44人が銃殺されるというきわめて残酷な処罰を受けた。戦争にたいする抵抗は「緑の精鋭部隊」(zeleny kadr )という形でも表明された。彼らは脱走した武装部隊で、森にこもって戦争の終結を待ち、憲兵や軍隊にたいして防戦した。

 <チェコスロバキア共産党、ロシアで誕生> 二月、とくに十月革命の影響のもとにロシアのチェコ人やスロバキア人のあいだにも分類化が起こった。1916年末に20万人にもおよんだロシア地域の捕虜たちについてとくにそのことが言えた。わが国の兵士たちは戦争の初期から、ハプスブルク王朝のために戦わなくてもすむように、集団的な脱走が続いた。彼らのうちのわずかなものが、後にチェコ軍団(legie )と呼ばれる特殊な義勇軍部隊に統合された。そしてロシア軍と肩を並べてオーストリア・ハンガリーおよびドイツ軍との戦闘に参加した。
 十一月革命勃発のあと、ロシアのもっとも進歩的なチェコ人やスロバキア人は、彼らの場所は革命的プロレタリアートの側にあることを理解した。1918年5月25−28日までのあいだ、チェコおよびスロバキアの革命的社会民主主義のすべてのグループの代表がモスクワに集り、ロシアにおけるチェコ−スロバキア共産党を設立した。祖国のプロレタリアートむけて発せられた決議のなかで、大会は準備中の国際共産党の原則に情熱的に賛同し、チェコスロバキア社会主義共和国建設の闘争を呼びかけた。 歴史が示すように、これは第一次世界大戦中のチェコスロバキアの国外闘争のなかでもっとも進歩的な行動だった。
 モスクワにおける統一大会はまた、実際に起こったチェコスロバキア軍団(レギエ)の反ソビエト蜂起を非難し、赤軍への加入を呼びかけた。ソビエトの労働者や農民とともに外国の干渉や反革命にたいしてソビエトの国土を守ったチェコスロバキアの赤軍兵士の数は後には1万人に達した。

 <チェコスロバキア軍団の反ソビエト蜂起> チェコとスロバキアの捕虜の大半は、主に、「協定」にもとづいて捕虜たちからなる部隊を編成するために1917年5月にロシアに来たマサリクの直接の影響のもとに、1917年中にチェコスロバキア軍団(レギエ)に参加した。軍団は5万人の勢力をもつよく組織され、軍備を整えた軍隊となり、イギリスやフランスノ帝国主義者のプランのなかで重要な役割をになっていた。1918年5月、その指導部に反動的士官が優勢であった軍団は、シベリア鉄道幹線の一部を占領し、ソビエト権力にたいして武力蜂起を開始した。そして、たとえ一般の軍団兵士の意図ではなかったにしても、客観的には帝国主義的干渉の一要素となったのである。たとえこの闘争が3カ月後に、赤軍の抵抗の成功裏に終わったとはいえ、軍団は1920年までシベリアにとどまった。

 <国民議会> ハプスブルク複合国の経済的また政治的崩壊は1918年の全体を通じて進行し、秋には頂点に達する。わが領地内における自発的戦争反対、反オーストリア運動はチェコ・ブルジョアジーの代表者たちが重大な局面において民衆運動のリーダーシップを取るために、運動にくみせざるをえないところに追い込まれた。チェコ・ブルジョアジーの政策の変化は1918年7月に大急ぎで制定された新しい「全民族的」チェコスロバキア国民議会の設立によって表明された。その全面にはチェコ大ブルジョアジーの代表者であり青年チェコ党の指導者でもあるK.クラマーシュ、農業党のAnt.シュヴェフラ、それに民族社会主義者のV.J.クロファーチュ、幹事役には社会民主党のF.ソウクプがなった。社会民主党の右派の指導部は38名のメンバーのうち社会民主党は10名にすぎなかったこの機関ではあまり重要でない役割で納得し、ブルジョアジーの代表者にこころよく従った。ブルジョア政治家たちは労働者階級の自立的な登場を許さず、革命的民主主義運動がプロレタリアの、社会主義的革命に成長するのを許さない決意をかためた。
 その後9月初めになって、階級の統一を呼びかける労働者の圧力によって社会民主党とチェコ社会党の代表者からなる社会主義委員会が形成された。しかしここでも当時、主としてB.シュメラルによって代表されていた革命的波に反対する右翼勢力が優勢を保っていた。

 <スロバキア民族委員会> スロバキア社会民主党の代表者たちも、準備中のスロバキア民族委員会への参加を受け入れ、ブルジョアジーの手に民族運動の政治的主導権をゆだね、そこでの従属的な地位に甘んじた。スロバキア民族委員会の12人のメンバーのうち社会民主党の代表はたった二人にすぎなかった。

 <十月十四日のゼネラル・ストライキ> 1918年10月14日、チェコとモラヴィアの多くの町で、そしてプラハでも、チェコ民衆の革命的民族解放闘争の頂点の表現として位置づけられるゼネラル・ストライキが起こった。十にものぼる集団で、そのときすでに、労働者たちが社会主義的共和国として理解した自由チェコスロバキア共和国が宣言された。
 10月14日のゼネラル・ストライキは息絶えようとするハプスブルク専制王国にたいする強烈な一撃となった。チェコの民衆はそこでチェコスロバキア国家の今後の統治形式にかんする基本的決定にたいする基礎をすえたのである。そして西側列強ばかりでなく、国内国外のいわゆる抵抗運動のブルジョア代表者たちにも既定の事実として認めさせたのである。
 ウィーン政府は民衆革命にたいする恐怖から民族委員会と、ブルジョアの手に権力を委譲する手続きにかんして交渉し、チェコ・ブルジョア政治家とジュネーヴの亡命政府の代表者たちをふくむ会議に同意を与えた。
 その一方で前線の状況はハプスブルク帝国の挽回不能な結末へと急速に進展していた。オーストリア・ハンガリーの最終的な崩壊を望まない西側列強は新しい事態に気づかないわけにはいかなかった。そしてハプスブルク複合国の領土内で労働者階級が権力を握るのを防止するための応急措置をとりあえず取った。フランス、イギリス、それにアメリカ合衆国はマサリクとその協力者たちをパリのチェコスロバキア政府の代表として承認し、オーストリア・アハンガリーの降伏のための条件を確定した。

 <1918年10月28日> 1918年10月28日にウィーン政府が降伏に同意したことが知れたとき、プラハや幾つかの都市の働く民衆はこのニュースをオーストリア・アハンガリーの終焉と理解した。通りは人でいっぱいとなり、独立チェコスロバキア共和国の誕生を祝った。民衆の行動は、後に「10月28日の男たち」として祝福されるブルジョア政治家たちがオーストリア政府機関の手から政権をおだやかに受け取ることを可能とした。

 <10月30日のマルチン市宣言> スロバキア民族委員会は10月30日にトゥルチアンスキー・マルチンで会議のために集まった。そして「スロバキア民族の宣言」を作成し、発表した。そのなかで、スロバキア民衆の意思にそって、新しいチェコスロバキア国の枠内でスロバキア人のための自決権が要求された。

 <チェコスロバキア共和国誕生の歴史的意義> オーストリア・ハンガリーの崩壊はロシアの十月社会主義大革命の勃発以後国際プロレタリアートの巨大な革命エネルギー解放の合法則的結果の一つであった。1917年11月のロシア・プロレタリアートの歴史的勝利は、ハプスブルク専制王国のその他の隷属民族の解放にたいしても相当の影響をもっていたのとまったく同じように、チェコスロバキア国家独立の成立のための決定的前提を作りあげていた。この歴史的事実にたいして、チェコスロバキア共和国の誕生は「10月28日の男たち」や「解放者たち」、そして西側帝国主義的列強の功績によるものというブルジョアジーが作り出した伝説が大きな矛盾を示していた。
 反動的ハプスブルク専制王国は、ロシア・プロレタリアートの先例にならい戦争終結と飢えの回避、民衆の社会的平等の制度の確立を目指していた民衆集団の強力な革命運動の圧力のもとに滅亡したのである。そして民衆集団の強い願望が、新しい国家は民主的なチェコスロバキア共和国であるべきであることについての決定をしたのである。やがてその後の年月のなかで独立国はどんな道を進むべきであるかということが問題になる。それは働く民衆が思い描き願望するような社会主義的な道であるかどうかということであった。
 国家的独立の獲得はチェコとスロバキア民族にとって重要な歴史的前進であった。ドイツやハンガリーの搾取階級の側からの、とくにスロバキア人が自己の存在の根底そのものにおいて脅かされていた数百年におよぶ民族的抑圧は砕けたのである。長年にわたる分離と隷属ののちにチェコ人とスロバキア人は自分たちのこんごの発展の自然で持続的な基盤としての独立した国家の連帯を築きはじめたのである。


 4.1890−1918年におけるチェコおよびスロバキアの文化

 <文化の影響の最盛期> 大戦まえの最後の十年間は住民のすべての階層への文化の影響の大きなひろがが特徴と言える。労働運動の盛りあがりは90年代の初めからはっきりと文化活動の全領域を特徴づけている。とくにそれは啓蒙的な大衆化運動のなかに明瞭にあらわれた。そしてその活動はこの時代に教育的かつ啓蒙的団体、会議、また図書館という手段をとうして民衆のひろい層に浸透していった。おおくの定期刊行物が出版され、図書の数も出版部数も増大したし、演劇の舞台の数も多くなり、大戦勃発の直前の時期には最初の映画さえすでに出現していた。同じくスポーツも何百人かのスポーツマンだけでなく何千人の観衆の興味の対象にもなった。

 <チェコ=スロバキア文化相互間系の深化> この時代の目立った特徴は文化活動の多くの領域でのチェコ=スロバキアの有好的協力関係の深まりである。チェコ=スロバキアの文化的相互関係の発展にとって、チェコとスロバキアの労働運動の闘争的連帯の成長も大きな意味をもっていた。第一次世界大戦前の民主主義の原則にもとづいたチェコ=スロバキアの文化的相互関係の緊密化はチェコとスロバキアの民衆の民族の自由と国家的独立のための共闘の前提形成に助けとなった。

 <文 学> チェコとスロバキアの文学においては創造的刺激をとくにロシア・リアリズムの巨匠の作品から吸収しながら依然として批判的リアリズムが進展を見せていた。1888年からロシアの古典的長短編小説の最良の作品を翻訳して出版していた「ロシア文庫」はチェコとスロバキアのすべての文学世代に大きな影響を与えていた。
 しかし同時に、90年代から新しい文学傾向も名乗りをあげてきた。それらの傾向はブルジョア社会の思想的危機からの脱出口を新しい、多くは反対の方向に探し求めていた。 90年代に文学界に登場し、チェスカー・モデルナの綱領的宣言を中心に集まっていた若い世代は、国際主義や社会主義、極端な主観主義を名乗る古い世代の偏狭な国家主義や芸術的折衷主義を批判していた。先輩たちの否定によって結合した世代もまたたく間に芸術的な、また政治的な考え方に即していろいろな傾向やグループに分裂していった。
 チェコ詩のモダーン派の流れはアントニーン・ソヴァ、ヨゼフ・スヴァトプルク・マハル、オタカル・ブジェジナ、ヴィクトル・ディクなどの作品によって代表される。この時代のチェコ詩の頂点にあるのはペットル・ベズルッチ(1867−1959)の『スレスコ地方の歌』(Slezske pisen )である。作者はこの詩のなかで社会的かつ民族的抑圧にたいするスレスコ地方の民衆の抵抗を表現している。19世紀末にチェコの大詩人スタニスラフ・コストカ・ノイマン(1875−1948)が文学の世界に登場する。彼の若い時代の作品のなかにはアナーキズムの思想が影響をおよぼしている。S.K.ノイマンの世代---アントニーン・マツェク、フラーニャ・シュラーメク、カレル・トマン、若いほうではフランティシェク・ゲルネル、イヴァン・オルブラフト、マリエ・マエロヴァー、劇作家イジー・マヘン は1905−1907年のロシアの革命の年に強く影響された。
 彼らの作品は資本主義、反動的小市民性、聖職主義的反動、軍国主義にたいする抵抗を描いており、ありきたりのものを否定し、自由と解放への願望を表現している。
 この時代のスロバキア文学活動の先頭に立つのは愛国的詩人で批評家、ジャーナリストのスヴァトザール・フルバン・ヴァヤーンスキーと偉大な民主主義詩人パヴォル・オルサーグ・フヴィエズドスラフ(1849−1921)である。若い世代のスロバキアの詩人のなかではイヴァン・クラスコがひいでている。
 この時代のチェコの散文文学では、イラーセクの記念碑的作品が突出している。農村地方における同時代の矛盾を描いているのは、チェコ地方ではテレザ・ノヴァーコヴァー、ヨゼフ・ホレチェク、カレル・ヴァーツラフ・ライスの作品であり、スロバキアではヨゼフ・グレゴル・タヨフスキー、ボジェナ・スランチーコヴァ−=ティムラヴァ、その他の作家の作品である。
 文学学と批評の発展もチェコおよびスロバキア文学の水準の上昇に寄与した。フランティシェク・クサヴェル・シャルダ(1867−1937)はその文学学や批評的著作のなかで文学作品にたいして高い評価基準を設定した。

 <音楽と歌> スメタナの死後、音楽芸術の先端に立っていたのはアントニーン・ドヴォルジャークであった。彼の交響曲や室内楽作品は国外でも大きな反響を呼んだ。十九世紀の末からチェコの音楽界ではスメタナ音楽の進歩的伝統をめぐって抗争があった。つまりブルジョア反動はスメタナの音楽を軽視し、不当にもドヴォルジャーク作品にたいするアンチテーゼとしたのである。スメタナの伝統はズデニェク・フィビフ(1850−1900)が直接の継承者となった。スメタナとドヴォルジャークの作品から二十世紀のはじめにチェコの若い音楽世代が育った。しかしその主な代表者ヨゼフ・ボフスラフ・フェルステル、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク、ヨゼフ・スク、オタカル・オストルチルなどは第一次世界大戦ののちにその全盛期に達するのである。十九世紀の末から独自の発展の過程を進んだのはチェコ近代音楽の先駆者レオシュ・ヤナーチェクであった(1854−1928)。
 スロバキアのすぐれた作曲家ヤン・レヴォスラフ・ベラ(1843−1936)はルーマニアのトランシルヴァニア(セドミフラーツコ)で活動していたが、第一次世界大戦後祖国に戻った。近代チェコ音楽学と批評の発展にとって基礎的意義をもつのはズデニェク・ネエドリー(1878−1962)の著作である。
 社会主義運動の発展とともに労働者の合唱音楽もひろがった。この合唱歌は革命的プロレタリアートにとって、集会や行進、デモンストレーションでの動員の意義ももっていた。90年代の初めから『赤旗』の歌はひろい層の人たちの愛唱歌となった。このメロディーはポーランドの社会主義者の青年たちがわが国にもたらしたものである。1903年にわが国で初めて国際革命プロレタリアートのチェコ語の歌詞による『インターナショナル』が歌われた。

 <絵 画> 造形芸術では十九世紀末から二十世紀初頭にかけての時期に、新しい理念的傾向と表現手法の探求がなされた。若い造形芸術の潮流の中心になったのは集団「マーネス」と雑誌「自由傾向」(Volne smery )だった。以後、チェコ絵画の先頭に立ち続けたのは偉大で、真実、民族的な芸術家ミコラーシュ・アレシュだった。90年代以後の彼の作品には社会的な抑圧と搾取にたいする公然たる抵抗が鳴り響いていた。マーネスとアレシュの絵画の伝統に結びついているのがマックス・シュヴァビンスキー(1873−1962)であり、チェコ文化の代表者たちの有名なポートレートの作者である。同時代のフランス絵画の大きな発展はチェコの造形芸術に圧倒的な影響を与えた。チェコの造形芸術は若い文学的傾向と理念的密接に結合して、新しい感性と自然や雰囲気の新しい視角的な把握に努めた。チェコ風景画における印象主義的視点の個性的創立者はアントニーン・スラヴィーチェク(1870−1910)である。ヤン・プライスレル(1872−1818)は彼の絵画作品で抒情性とがっちりとした形象的構成とを結合した。自然と民衆の衣装の豊かな色彩性をとらえたのがルドヴィーク・クバ(1863−1958)であり、彼はスロバキア地方の旅行でスラヴ民族の民衆歌の膨大な収集をもおこなった。
 労働と労働者階級の苦難にみちた運命という社会的主題はカレル・ミスリベク(1874−1915)の作品のなかに、またスロバキアではドミニク・スクテツキー(1848−1921)のキャンバス画にあらわれる。印象主義の代表者たちの世代はすでに第一次世界大戦のまえにすでに登場している。彼らが探求したのは大胆な単純化のなかで、また現実描写の伝統的形式の立体的(クビスティック)な発展のなかに新しい造形表現であった。彼らのなかでもっとも豊かな才能は画家のボフミル・クビシュタ(1884−1918)であった。その他、エミル・フィラ、ヴァーツラフ・シュパーラ、ルドルフ・クレムリチュカ、ヤン・ズルザヴィー、はそれぞれの再重要作品を第一次世界大戦後になって創作した。

 <彫 刻> 彫刻ではヨゼフ・ヴァーツラフ・ミスリベクとともにすでに多くの彼の弟子たちが活躍していた。それらのなかでとくにヤン・シュトゥルサ(1880−1925)が秀でていた。彼の最高傑作は『負傷者』(Raneny)は世界大戦の衝撃的体験から霊感を受けている。若い造形芸術家の印象主義派グループに彫刻家オット・グットフロイトも属していた。

 <建 築> 建築では十九世紀末から豊かな装飾性を好むいわゆる分離派(セセッション)様式がひろがっていた。表現の記念碑的単純性を求めて努力していた近代チェコ建築の先駆者はヤン・コチェラ(1871−1923)である。代表的スロバキアの建築家ドゥシャン・ユルコヴィッチュ(1868−1947)は民衆の建築術から刺激を得た。
 十九世紀末にチェコ・ブルジョアジーは教養の分野で、なにか代表的な事業によって大民族のブルジョアジーに肩を並べようと努力した。80年代の終わりから多数の巻からなる「オットの教養事典」を出版されはじめた。1890年、資本家メセナの建築家ヨゼフ・フラーフカの基金により支援機関「チェコ科学・芸術アカデミー」が設立された。
 1893年にはプラハ・ヴァーツラフスケー・ナームニェスティーの「民族博物館」の建物が完成した。1891年にはプラハ記念産業博覧会と、1895年の大規模に組織された「民俗博覧会」はわが民族のいろんな面での創造性と芸術的かつ歴史的記念碑の豊かさを初めて総合的に示した。

 <学 問> 十九世紀末から二十世紀十年代にかけての学問研究は依然として完全な実証主義哲学の影響下にあった。大部分の学問分野は、民族再興運動の時代にとくに特徴的であった総合的大著への努力から、単一主題の分析的研究へと移行していた。この時代のもっとも重要な総合的作品はフス主義運動の歌の歴史にかんするズデニェク・ネエドリーの膨大な著作、ルボル・ニェデレルの『スロバキアの古代遺跡』、それにチェコとスロバキア文学の歴史にかんするヤロスラフ・ヴルチェクの作品である。
 技術的進歩もわが国では注目に値する。発明はいちはやく実用化され、いかなる有意義な改良もまさにチェコ技術によって実施された。それらのなかでフランティシェク・クジージェクはアーク灯による効果的な照明の問題を解決した。
 スロバキアの学者や発明家はこの時代に活躍の場を国外に求めざるをえなかった。すぐれた技師アウレル・ストドラはスイスで活躍した。彼の蒸気タービンや燃焼タービンにかんする書物は世界の数カ国の言葉で出版された。アメリカ在住のスロバキア人ヨゼフ・ムルガシュの無線電信にかんする発明はアメリカ資本主義社会の搾取的利害のせいで完全には実現されなかった。

 <体育文化> 十九世紀末から第一次世界大戦までのあいだに体育文化が著しくひろまった。体育組織「ソコル」はとくに中産ブルジョアと小ブルジョア層に人気を得ていた。1882年から何年かおきに全ソコル大会を開催した。十九世紀の終わりからすでにチェコ・スポーツ・クラブが出現したが、その最初はボート競技のクラブだった。90年代にはサッカーが道を開きはじめ、おくれてテニス、それにウィンター・スポーツ---スキーやホッケー が続いた。1911年にチェコのホッケー・チームは初めてヨーロッパ選手権を獲得した。
 1897年とそれに続く時代の高揚した国家主義との戦いで忠実に自らの党派にとどまった社会主義思想の労働者は「非愛国者」ということでソコルから除名された。革命的労働運動はすでに十九世紀の終わりから自分たちの体育組織を作っていた。その最初のものはウィーンでチェコの労働者が自分たちのために設立した。1894年にはブルノでプロレタリア体育団体「ラサレ」(Lassalle)が誕生した。1897年には最初のプラハ「労働者体育団体」(DTJ)が設立された。
 ブルジョアジーの意地悪にもかかわらず、労働者体育運動は成長した。世界大戦は1915年にプラハで開催されるはずであった最初の労働者オリンピアードの実現をつぶしてしまった。


     

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