X.帝国主義の擡頭とチェコおよびスロバキア民衆の民族解放をもとめる戦い


 (1)帝国主義への移行、階級的かつ民族的対立の激化         
 (2)民主主義的、基本的権利を求める民衆の戦いの時代における
    労働運動の盛り上がりと、ブルジョア階級の政策        
    最初のロシア革命がチェコの労働者階級の闘争に与えた影響    
 (3)第一次世界大戦−わが国民衆の民族解放の戦いのための
    10月革命の意義 − チェコスロヴァキア国家独立の始まり  
 (4)1890−1918年におけるチェコおよびスロヴァキアの文化 
 


 1.帝国主義への移行――階級的かつ民族的対立の激化

 <いわゆる第二次産業革命> 十九世紀末と二十世紀の最初の10年間は新しい重要な科学的発見と技術的発明の時代だった。それらの発明、発見は商品の生産と流通の強化にはるかに大きな影響を与えた。工業化が急速にすすんだ新しい時代は「第二次産業革命」と呼ばれてきた。
 それは石油、ナフタ、ベンジン、石油ガスといった液体や気体の新しい燃料を使用しはじめた時代だった。内燃機関、重油使用のディーゼル・エンジン、蒸気タービンや自動車、オートバイ、初期の飛行機の使用開始の時代、最初の大規模な鉄鋼構造、鉄筋コンクリートの時代だった。化学工業大きな進歩を記録した。とくに製鉄産業においては、鋼鉄製造のさいのトーマス法の導入がもっとも重要な技術革新であった。大農園でも蒸気すき、耕作機、蒸気脱穀機などの使用がひろがった。この時代には高速回転の旋盤やフライス盤といった自動製造機械が実用に供された。電報のほかに、長距離電話回線も導入されはじめ、写真機やタイプライター、蓄音機なども普及した。映画や放送が始まったのもこの時期である。
 1900年ころには新しい発明はすでに経済活動の分野で大規模に利用されはじめていたが、そのなかでももっとも重要なのが内燃機関とディーゼル・エンジンである。この時代のはるかに広範な技術の進歩は電気の使用である。遠隔地への電気エネルギーの輸送と、照明のために、また生産や輸送の機械設備の動力のための電気使用の可能性は文明化の可能性のひろがりに思いもかけない展望を開いた。それにもかかわらず電気エネルギーの使用の普及は最初のころは遅々としたものであり、第一次世界大戦ののちにやっと著しい普及を見せ、電気こそがこの時期全体の性格を特徴づけたのである。十九世紀の初めに産業革命の主要な武器の一つであった蒸気機関は二十世紀の初めには電気モーターによって補完された。電気は新しい生産方法に革命をもたらした。
 自動車の生産と化学工業の新しい分野の始まりは、重機械工業の内容を増大させたが、そのなかでもっとも重要な役割を演じたのは軍需産業分野だった。石炭はたしかに主要な燃料ではあったが、すでにかなりの割合いで新しい燃料にとって代わられていた。列強が争奪をめぐって戦争まで起こしたこれまでの原料に、新しい原料、とくに石油、錫、ゴムなどが加わった。
 世界技術の進歩にたいするチェコとスロバキアの貢献> ほとんどの新技術の成果は工業先進国から中部ヨーロッパに浸透してきた。それでも、1791年の第一回展覧会からの百年目を記念して1891年に開催されたプラハの産業博覧会は、当時ヨーロッパの工業先進国とくらべて取っていた後れをチェコ地域も猛烈な勢いで取り戻そうとしていることを証明した。このような時代でもチェコ人やスロバキア人は幾つかの重要な発明や新しいタイプの機械製品の改良によって世界技術の発展に貢献したのである。
 70年代の終わりに技師のフランティシェク・クジジャークはアーク灯をすでに発明していた。彼のプラハの電気技術の仕事場は工場に成長し、後にチェコ地域の電化に大きな役割をはたした。エミル・コルベン技師は90年代にプラハに工場を起こしたが、間もなくヨーロッパや海外の発電所の多くの設備をつけ加えていた。モラヴィアのコプジヴニツェの工場では1897年にオーストリア・ハンガリー専制帝国内で最初の自動車が組立てられた。十九世紀の終わりにヴァーツラフ ・ラウリンとヴァーツラフ ・クレメントはオートバイの生産と、後にはムラディー・ボレスラフで自動車の生産を始めた。そのすぐ後に、ウァルテル・オートバイ工場がプラハに設立された。
 映画の部門でもオーストリア・ハンガリー帝国内での最初はチェコに属している。J.クジージェネツキーは1898年に、すでに彼が記録した現実のフィルムをプラハで上映し、後には演技された場面をも紹介した。チェコ飛行機技術の先駆者はヤン・カシュパルである。彼は1911年にわが国で初めてのパルドビツェからプラハまでの二都市間飛行を実行した。
 この時代にスロバキアの発明家技師アウレル・ストドラ博士が蒸気タービンやガス・タービンの建設のために外国で働いていた。彼の専門的著作は幾つかの世界の言葉で出版された。水力タービンを完成したのはブルノ高等技術学校の教授ヴィクトル・カプランだった。

 <チェコ地域の地位> 新しい発明や発見は労働の生産性を非常に高め、産業の大量生産化に拍車をかけた。ことに重工業分野では著しいスピード化が起こる。十九世紀80年代末から1914年までの間にチェコ地域での石炭の出炭量は約三倍に、褐炭の採掘量と生産量は五倍にも跳ねあがった。軍需、機械、化学産業も急速に発展した。十九世紀末にはチェコ地域での工業生産はハプスブルク専制王国において主導的地位に立った。
 <中断された工業生産の発展> しかし1900−1903年の間に生産の上昇は再三にわたる経済危機に阻止された。それに続く年月の繁栄のあとで、1911−1913年には次の国際的経済危機の徴候が現われた。しかし当時大資本は次なる危機の蔓延をヨーロッパ列強の軍備競争との関連した猛烈な兵器生産によってもちこたえた。
 十九世紀と二十世紀との代わり目に、帝国主義という新しい段階へ移行する国際資本主義の発展における変化がピークに達した。一方、80年、90年の時代はいわゆる自由競争による資本主義が独占的資本主義へ成長する時代であったから、それに続くおよそ1900年からの時代はまさしく帝国主義の時代と名づけることができるのである。
 オーストリアにおいてもこの時代に、産業の発展と、独占の進展と結びついた、絶えず成長を続ける大企業への生産集中の急速な過程があった。これは資本主義発展のもっとも重要な特徴である。

 <独 占> 生産集中の強化と資本の中央集権化はわが国においても起こった。個々の生産部門の大企業は独占形態を形成しはじめる。それらは個々の生産部門において実際上原料購入の価格も製品供給価格も排他的に決定するものである。独占のもっとも拡大された形がカルテルとなった。オーストリア・ハンガリー専制帝国内では大規模なカルテルが90年代いごには発生しており、二十世紀の初めにはすでに主要な生産部門において大きな影響力をもっていた。1903年にはオーストリア内にはカルテルの数は120にも達した。チェコ地域内でとりわけ強力な地位を占めたのは製糖産業、製鉄産業、機械製造産業であった。
 多くのカルテルは国際的な性格をもち、その幾つかのものは外国の、とくにドイツ帝国のカルテルと結びつき、それにたいして従属的な地位にあった。

 <金融資本> この時代に銀行の役割もきわめて重要性を増した。銀行資本と産業資本が結合していわゆる金融資本が発生した。その代表者、つまり金融首脳部(oligarchy )の決定的影響力は経済界内部においてばかりでなく、政府内部においても、国家行政においても、またブルジョア政党の活動においても増大した。この金融独裁王国出現の前提は長期間にわたって継続した銀行資本の集中と中央集権化であり、それは工業生産の集中と中央集権化と不可分に結合しながら経過してきたものである。
 金融資本は新しい搾取源として未開発の国のなかにも分けいって探しまわった。ドイツやオーストリア・ハンガリーにとってそのような領域はバルカン半島の国々だった。この領域にはチェコ・ブルジョアジーにとってもまた工業製品や資本そのものの輸出によって大きな利益をあげる可能性が開かれていた。
 
<資本主義の帝国主義時代> 独占体系の形成によって、中部ヨーロッパでも自由競争の資本主義時代はおわり、ここで資本主義は帝国主義の時代に入ったのである。国際的な尺度で見れば、それは世界市場の支配と植民地占領、原料基盤と製品販売市場の獲得をかけた列強国の戦争の時代となる。
 オーストリア帝国主義はその特殊な性格をもっていた。それはとくにドイツ帝国主義にたいする従属性であった。資本主義経済の急速な発展にもかかわらず、専制王国はツァー・ロシアを例外とする他の帝国主義国に自国製品の内容において後れをとっていた。それゆえに世界の強国の地位をめぐる競り合いにおいてもハプスブルク専制王国は二流の役どころ、つまりドイツの同盟国の役割をえんじていたのである。オーストリア帝国主義の第二の特徴はその半封建的性格である 封建主義の古い仕来たりが強くのこっており、工業生産の相対的な後進性の原因の一つであった。
 オーストリア帝国主義のとくに目立つ特徴はそのごきびしさを増してくる専制王国内の民族的対立であった。資本主義発達の不均衡が独占支配的オーストリア・ドイツ・ブルジョアジーと、チェコ領域の経済的繁栄から収益をあげるチェコ・ブルジョアジーと弱体なハンガリー・ブルジョアジーとのあいだの抗争を強化させ、ひいては彼ら相互の戦いがハプスブルク専制王国の地位を弱めたのであった。民族的抑圧は搾取とからみ合って、被抑圧民族の場合に、労働者階級や働く集団の普遍的貧困化をいっそう強めた。

 <社会的矛盾の激化> 帝国主義の登場とともに、資本主義社会における社会的矛盾が異常なまでに激化した。巨大な権力や不労所得は小数の人々、金融独裁者の手に集中した。労働者、農民、小企業経営者たちの大きな集団は独占的経済のメカニズムに多くの場合打ち砕かれた。失業者は不況時の慢性的な社会現象になっていたし、それは人口の急増によっても助長された。搾取の増大は労働の強化によっても表明された。1905年、高い農業税が導入されたあと、生活必需品の価格も上昇した。
 十九世紀の半ばからチェコ領地の住民の数は350万人ほど増加した。こうして1910年にはチェコおよびモラヴァ・スレルコの領域内で1千万人を越えた。1910年の人口調査で、すでに有収入住民のほとんどが賃金労働者および被雇用者だった。労働者の人口は1890年とくらべると、1910年にはチェコ領域で30%以上も増加している。
 オーストリア・ハンガリーの企業で働く総数約240万人のうちほぼ140万人がチェコ地域で働いていた。異常に高いのは農業労働者の数で、この時代にチェコ地域内では80万人であった。農村で階級差別が激しくなった。
 帝国主義の時代に1万人の労働者が集中する産業の中心地が急速に成長した。この時代になってチェコの主要な都市的中心地---プラハ、ブルノ、ブラチスラヴァ、オストラヴァ---が近代的大都市の性格を加えた。全ハプスブルク専制王国のなかですでにもっとも著しく産業の進んだ地方になっていたチェコでは、プルゼン、リベレッツ、ウースティー・ナド・ラベム、クラッドノといった、それ以外にも人口の密集した産業の中心地が膨大化していった。

 <移住者の増加> 苦しい生活条件はこの時代にもチェコ領地やスロバキアの多くの住民を祖国から永久移住へ駆りたてた。当時、海外への移民は頂点に達し、とくにスロバキア人にとっては民族的悲劇となった。

 <スロバキアにおける経済社会的発展> ハンガリーとスロバキアの工業生産はこれまでになく早いテンポで発展していた。1900−1903年と1913−1914年の経済危機によって主に建設産業と鉄鋼業、軽工業、製粉業が打撃を受けた。工業ではその後も小中規模の生産が支配的であったが、集中化も進んだ。社会的搾取によって力をつけてきたハンガリー・ブルジョアジーは非ハンガリー民族の民族的抑圧も強めた。
 戦争前スロバキアには、たとえばブラチスラヴァやルジョムベルクに綿糸工場、トレンチーンやジリナに織物工場、さらにケーブル工場、ゴム工場その他がブルチスラヴァに出来た。スロバキアの原料の豊かさにかんする限り、ハンガリー地域の大きな領域からあふれ出ていた。
 農業においても同様に、ハンガリーの大地主の手のなかへ土地の集中化が進んでいた。経済危機の打撃を強く受けたスロバキアの小百姓は大量にプロレタリアート化し、生活の糧をうるかすかな可能性を工場の労働によってしかもちえなかった。

 <スロバキア海外移住の頂点> 1890−1914年の間に北アメリカ合衆国へだけでも約50万人が移住した。そのうちのほぼ三分の一が東スロバキアからだった。
 わが国の移民の大きな流れの行き先は当時カナダ、南アメリカの諸地域、それにロシア、なかでも農民のグループが集団移住したヴォリニュなどであった。


 2.民主主義的、基本的権利を求める民衆の戦いの時代における労働運動の盛りあがりと、ブルジョア階級の政策

 <政治的緊張の激化> 帝国主義の擡頭とともに社会的対立も激化し、そのことはチェコ領地とスロバキアにおける政治的緊張の進展にも跳ね返った。民主的権利を求める闘争は新しい段階に入った。この段階でオーストリアやわが国の労働運動は他の大部分のヨー
ロッパ諸国と同様に弾圧の手を緩めるよう強いた。
 90年代の初めから国際労働運動においても力強い盛りあがりが起こった。新しい発展段階の予告は1889年7月のパリ大会における国際労働者組織の再建であった。このとき第二インターナショナルの基盤が据えられたのである。そのもっとも強い党の一つがオーストリア社会民主党であり、その重要な要素となったのがチェコのプロレタリア運動である。

 <1890年5月1日> チェコ領地におけるプロレタリアートの新しい政治的登場の示威表現となったのは1890年5月1日に初めて組織された国際的労働祭典の際の集団デモンストレーションだった。その祭典の準備自体がすでに労働運動の大きな盛りあがりを意味しており、ブルジョアジーや国家機関がつぶそうとやっきとなっていたものだった。警察や軍隊の暴力的脅迫によってデモンストレーションを解散させようとしていたとき鉱山地区では数人の犠牲者を生んだ。チェコやスロバキアの主要都市や産業の中心地では労働者たちは仕事をやめ、働く民衆の基本的要求 普通選挙権と八時間労働性 をかかげて示威行動に出た。
 1890年メーデーの示威運動は社会民主党の陣営に大勢の新しいメンバーを導き入れ、チェコの民主主義的インテリゲンチャの代表者たちにも深い感動を与えた。ヤン・ネルダは「おそらく人類の歴史全体のなかでももっとも記念すべき日」であると熱烈に挨拶を送った。メーデー行進と宣言は国際的プロレタリアートの連帯の伝統的な闘争の示威運動となった。しかしプロレタリアートはその後、年々、そのための権利をしばしば武装した国家権力との血なまぐさい衝突をとうして戦い取らなければならなかった。メーデー行進への参加にたいして資本家たちはしばしば仕事からの解雇によって干渉した。

 <労働組合運動の発展> 社会民主党の政治運動と同時に90年代の初めから労働組合運動も数的には増大し、労働者階級のもっとも広範な組織となった。同じころ、オーストリアの労働組合は、プロレタリア国際主義を基盤にして組織しはじめた。

 <選挙法改正の運動> 普遍的平等の選挙権のための闘争は十九世紀全体をとうして、そして二十世紀初頭にかけて社会民主党の政治活動の全面に押し出されていた。
 しかし普通選挙権はハプスブルク専制王国に住むすべての民族のブルジョアの民主主義陣営の政治的要求の一つであった。それはブルジョアジーが政治活動に自分たちの階級的要求を表明している働く集団の政治活動もすでに計算に入れなければならなくなったブルジョア民主主義革命の始まりの時期の目的の一つであった。

 <老人チェコ党にたいする青年チェコ党の勝利(1891)> チェコ・ブルジョア政治陣営のなかでこの要求に賛同したのは青年チェコ党であった。民主的要求の提示と、老人チェコ党の妥協的態度にたいする激しい抵抗のゆえに、民族の権利を求める戦いにおける1891年の帝国委員会への選挙で、青年チェコ党はチェコ選挙民のあいだに決定的勝利をつかんだ。その一方、老人チェコ党の保守派は壊滅的な敗北を喫し、そこからふたたび立ち上がることはできなかった。

 <1893年のデモンストレーション> 普通選挙権をもとめる大衆運動の波は初めに1893年に盛りあがり、街頭デモの際にプラハでは警察や軍隊との衝突が起こった。
 この運動には労働者たちのほかに急進的な学生や職人の若者たちも積極的に参加した。「若者の進歩主義的運動」への参加者は明確なプログラムをもたず、幾つかの社会主義的思想がアナーキズムの傾向や、小市民的急進国家主義と結びついていた。反専制主義デモンストレーションは若者の大規模な拘束とプラハの異常事態宣言の口実を警察に与えた。警察のでっちあげによる秘密結社「青年党」(Omladina)にかかわる裁判で、1984年起訴された大部分のものが有罪判決を受け、大勢の者が数年の禁固刑に処せられた。

 <労働者の闘争> 政治闘争とともに、八時間労働制、労働者階級の生活環境の改善をもとめる経済闘争も激しさを加えた。ストライキやデモンストレーションの間に、とくに鉱山や織物、ガラス工業の地域では1894年から1896年までの間だけでも20人の労働者が殺され、さらに何十人もの負傷者をだした。1894年5月、オストラヴァでの警官との衝突の際には14人の鉱夫が死に、20人が重傷を負った。

 <最初の社会主義者代議士(1897)> 1896年、政府と議会はおさまらぬ大衆行動の圧力に譲歩し、選挙権を拡大することを余儀なくされた。しかしこれにしても選挙の手段は広い層にたいしてきわめて不利なものであった。特権的選挙権者のこれまでの四つの群(kurie 、425議席をもつ)に加えて、たった72議員を選ぶ、いわゆる普通選挙群が設置された。
 1897年3月の選挙ではブルジョアジーの圧力や国家主義者の妨害にもかかわらず、社会民主党はそのうち全部で14名の代議士を獲得した。11人の社会民主党議員がチェコ地域から選ばれた(チェコ人5名、ブルノ選出のヨゼフ・ヒベシュをふくむ、それにドイツ人議員が6名)。これはこれまで貴族と聖職者とブルジョアの代表だけが参加していたオーストリア議会への労働者階級の最初の代表であった。

 <民族対立の激化> このころオーストリア議会は、90年代の初めから著しく強まった激しい民族対立でゆれていた。チェコとオーストリア・ドイツのブルジョアジーの間の経済競争がきびしさを増せば増すほど、それかけいっそう両派のあいだでブルジョア国家主義論争が激化した。対立の問題点は官庁や学校における言語権のもんだいであった。これらの場所でドイツ・ブルジョア国粋主義は彼らの古い既得権の放棄を望まなかった。国家主義的煽動が、とくに政治活動においてだんだんと重要な役割をはたすようになった大都市住民のうえに注がれた。他の国におけるのと同じように、資本主義的ブルジョアジーはハプスブルク専制王国においてさえも民族問題を解決することができなかった。そしてその問題はオーストリア・ハンガリー複合国のあらゆる政治活動の軸となっていたものであり、専制王国のまさに崩壊の時点まで引きずっていた慢性的政治危機の主要原因の一つだったのであった。

 <チェコ・ブルジョアジーのオーストリア人根性(rakusanstvi )> チェコ・ブルジョアジーの、また、おなじく1897年の選挙のあと反動的バデニ首相の率いる政権多数派に参加した青年チェコ党の政治的関心は、オーストリア・ハンガリーの打倒にはまったく向けられなかった。逆に、その広大な国内市場はブルジョアジーに経済発展の可能性を与えていた。だが、産業の急速な発展の成果のなかで力をつけてきたチェコ・ブルジョアジーは帝国ドイツのブルジョアジーと結びついたオーストリア・ドイツのブルジョアジーの向こうを張って自分の領分をひろげようと努めていた。
 民族対立の激化は労働運動にも影響を与えた。運動の最良の代表者たちはプロレタリア国際主義を擁護し、ブルジョア政治家たちの不毛な愛国主義化を断罪していた。要するにブルジョア政治家たちは一方でチェコの国家権を要求しながら、もう一方ではオーストリア・ドイツの政府やブルジョアジーと手をにぎり、チェコの働く大衆を目の敵にしていたのである。しかしそれにもかかわらず、労働組合運動のなかで、そしてやがてはチェコ社会民主党のなかでも、彼らの組織的独立を目指す努力が強まった。これらの傾向は何人かのオーストリア・ドイツの社会民主的指導者たちの卑劣な手法によって養われていた。彼らは大ドイツ国家主義の影響に追従するか、プロレタリーアトがいかなる民族的な証をも剥奪されるかすることを要求する連中だった。

 <オーストリア社会民主党の分裂> 1897年、統一的な全オーストリア社会民主党は民族的組織に決定的に分裂した。同時にプラハにはチェコスラヴ労働組合連合(Odborove sdruzeni cekoslovanske )がチェコの労働組合の特別センターとして形成された。

 <1899年のブルノ大会> 民族問題に取り組んだのは1899年の秋にブルノで開催された社会民主党の合同大会であった。大会が開かれたのは、あるオーストリア政府がチェコ−ドイツ対立解決のむずかしさのために二度目の辞職をしたときだった。社会民主党はこの問題にたいして、労働者階級の視点から基本的発言をした。まさにハインフェルト(hainfeld)大会以後党の統一を決定的に脅かしてきた、そして党の組織的連邦化によって現われてきた民族問題における疑わしい対応は民族問題の正しい把握をブルノ大会においても不可能にした。共通の民族問題推進プログラムが採択されたが、それは本質的に労働者階級の現実の必要と関心から出てきたものではなく、民族問題にたいする革命的視点も提示してはいなかった。

 <新しい党の出現とチェコ・ブルジョアジーの政策> ブルジョアジーは90年代の労働運動の高まりを、プロレタリアートの組織を解散させ、その闘争心をくじく行動によってとどめようと努めた。ブルジョア出版物は常に新たに労働運動の指導者にたいして非難攻撃の手をゆるめず、「民族の」福利の裏切りの罪を着せた。それとともに、チェコやスロバキアのブルジョアジーもオーストリア・ドイツ、ハンガリーのブルジョアジーも十九世紀の末には新しい政党の設立によって社会民主党の強化に対決しようとしはじめた。これれらの党は大衆の党、それどころかまさに労働者と社会主義の党と自称していた。このような目的をもって国家主義の波が高まりを見せた1897年にチェコ民族社会党が設立された。そして最初から階級闘争と国際的連帯を拒否することによって労働者運動の背後を襲ったのである。この党はしばしばそのスローガンと戦術を変えたが、その主要な内容、つまり国家主義、労働者階級の団結の粉砕、そしてブルジョア階級への忠勤、は変わらないままであった。カトリックの理念の影響をいぜんとして振り切れない一部の労働者のあいだではキリスト社会党が活動するはずであった。農村における階級闘争を沈静化させるのは新しく設立された農業党綱領の一部をなしていた。
 チェコ・ブルジョアジーの政策はこの時代に政治傾向や人脈や党派などのいっそうの分化を示していた。このプロセスは経済発展と関連しながら深まっていく社会的差別を反映し、90年代と新世紀の初頭においてとくに目立った。
 90年代から、そしてとくに新世紀初頭から、青年チェコ党が産業や銀行資本の代弁者になった。そして国内および全オーストリアの市場をめぐるチェコ・ブルジョアジーの闘争のために論陣を張った。そのオーストリア追従性や専制王国内のもっとも反動的な勢力と協力しようとする努力はこの党をこの時代に老人チェコ党に接近した。この両党のほかに農村ブルジョアジーの新しい党が、チェコ地方には1899年に、その直後にモラヴァに設立された。農業党(agralni strana)はその綱領のなかに、社会的地位や財産の大小にかかわりなく、身分代表制的(stavovsky )概念における、すべての農民の組織であることを標榜した。農民党は間もなく青年チェコ党とともに主要なブルジョア政党となったが、政治的には設立当初から親オーストリア主義であり、ハプスブルク専制王国を尊重していたが、「歴史的に根拠を有するグループの連合体」に改造された。同じく1900年にT.G.マサリクに率いられる「リアリストたち」はあまり大きくないチェコ人民党に組織された。この党は一部の知識人のあいだに影響力をもった。民衆党の綱領も一面的に親オーストリア的であったが、しかし帝国の内部的な改革を要求していた。
 チェコ・ブルジョアジーの利害とそのオーストリア圏内における権力的地位獲得の戦いへの荒々しい登場は、1901年の選挙におけるブルジョア諸党の煽動の中身であった。すべてのブルジョア政党に共通する第二の特徴は、社会民主主義と労働者階級の政治的努力を抑えつける容赦ない戦いだった。

 <スロバキア・ブルジョアジーの政策> スロバキア・ブルジョアジーの政策はいろいろな要因に影響されていた。第一にブルジョアジーは増大する民族的抑圧にたいする戦いの効果的形式を探していた。その実質的な実行者はハンガリーの資本家たちだった。jハンガリー・ブルジョアジーの経済的な地位は同時にスロバキア企業の発展における主要な競争相手だった。ハンガリーの「リベラル」なブルジョアジーにたいする反発との関連において、スロバキア政治はハンガリー領内の他の非ハンガリー民族にたいする、だからそれは同時にハンガリー化によって経済的にも、文化的にも損なわれた民族にたいする自分の態度を明確にする必要があった。
 第二にスロバキア・ブルジョアジーはスロバキア労働者たちの影響力の新しい形式を探す必要があった。その自立的階級運動はすでにブルジョア政策の対立者になっており、自己の綱領を提示するばかりでなく、自己の組織的結合を堅固にしようと努めた。
 しかしスロバキアの政治はすでに資本主義の第一段階、前独占主義の時代のように統一的でも、単純でもなかった。90年代にはすでにブルジョア政治の枠内で三つの主要な政治的傾向に分化、発展しはじめていた。この時期まで主要な発言力は農村ブルジョアジーの利害をまもるスロバキア民族党がもっていた。より強いハンガリー・ブルジョアジーにたいする闘争において、またハンガリー大地主や民族的抑圧の国家政策にたいする闘争においけるこの党の失敗は何よりも、スロバキア民族党が民族闘争にたいする民衆集団に関心ももたず、またそれを援助することができなかったいし、また時には援助しようともしなかったことに起因する。
 スロバキア・ブルジョア政治の第二の流れを代表するのは聖職者のグループであり、このグループは当初はハンガリー民衆党との緊密な協力に賛成していた。この流れのスロバキアの代表者、A.フリンカ、Ferd. ユリガ、J.スキチャーク、その他は間もなくハンガリー民衆党から離れ、スロバキアにおける自立的聖職的民衆党の流れの位置を固めた。民衆党員たちは当時すでに社会的進歩の敵であり、社会主義の頑強な敵になっていた。
 資本主義の発展とスロバキア産業ブルジョアジーの新しい努力とあいまって、農村ブルジョアジーの時代おくれのイデオロギーにもはや妥協できない新しい思想もスロバキアに浸透していた。この新しい思想はとくに1898年から雑誌「声」(Hlas)のまわりに集まったブルジョア知識人のリベラル派グループから出てきた。「声」派のメンバーたちはスロバキアの政治を、ハンガリーの保守主義者との絆からも、ツァー崇拝の不毛な方向性からも解放して、スロバキア・ブルジョアジーにたいしてお手本により成熟したチェコ・ブルジョアジーを紹介するよう努めた。他のブルジョアジー的傾向がチェコ−スロバキアの相互関係を無視し、離れていったのにたいして、「声」派たちはこの関係を文化と経済の領域でも深めることに貢献した。スロバキアの労働運動にたいする関係で「声」派はより寛容ではあったが、他のブルジョア傾向と同じく、労働運動を革命的社会主義のコースから引きはなそうと努めた。

 <スロバキア労働運動の発展> 産業の発展とともに労働運動に結びついていったスロバキアのプロレタリアートは統一的なプロレタリアの党に政治的に組織されていた。この党はハンガリー、ドイツ、ルーマニア、セルビア、スロバキアの労働者を組織し、1890年に「ハンガリー社会民主党」の名称をとった。スロバキア労働運動の主要拠点はその当時、4万人に達するスロバキア人労働者が働いていたブダペストだった。ここでチェコ人労働者の援助により1897年5月1日、最初のスロバキア社会主義雑誌「新時代」が出版されはじめた。この雑誌はスロバキア労働運動の形成に重要な意味をもっている。スロバキア地方でもっとも強力な社会民主主義的組織はブラチスラヴァ、コシーツェ、バンスカー・ビストリツァ、それにヴルートキにあった。スロバキア社会主義運動の先駆的指導者は錠前職人シュテファン・マルティンチェク、チェコ人の製缶工フランティシェク・トゥピー、スロバキア人の彫り物師グスタフ・シュヴェーニである。世紀の終わりにグループ「前進」(Vpred )を中心に集まったブラチスラヴァのスロバキア労働運動のセンターが重要性を増した。

 <労働運動の力> 90年代の社会生活が民衆の集団(masa)の全面的な登場によって特徴づけられるとしても、労働運動の登場が最重要な要因であったことは疑うべくもない。社会民主党は政治的にも組織的にも成長した。強力な労働組合がうまれ、教育的団体の組織網もひろがった。多くの地域的、社会主義的専門雑誌もあらわれた。1897年には最初の社会民主主義的日刊紙「民衆の権利」(Pravo lidu)が発行されはじめた。プロレタリアの階級闘争が強まった。

 <1900年の炭鉱ストライキ> 1900年の最初の25年間に炭鉱のゼネラル・ストライキがチェコ地方のすべての鉱山地帯をとらえた。6万人の炭鉱夫がストライキに突入し、ストライキを10週間続けた。ストライキにいたる主要なきっかけは賃金の増額と八時間労働の導入にたいする要求だった。これは第一次世界大戦以前におけるチェコ領地内の最大の労働者の経済闘争であり、同時にヨーロッパ大陸全体でもこれまで最大の炭鉱ストライキだった。ストライキにはオーストリア領内の幾つかの鉱山地帯も参加し、その結果全体で9万人の鉱夫が仕事を放棄したことになる。ひろい範囲の民衆社会が炭鉱夫の勇敢な闘争に支援を送った。彼らは結局9時間労働とささやかな賃上げに成功した。

 <修正主義と日和見主義の浸透> しかし社会民主党の指導部はプロレタリアの革命的活動を次の政治闘争に変化させることができなかった。この現実はそれに続く何年かの間、労働者階級のその後の闘争にも認められることになるが、その原因は社会民主党のなかに非革命的な改良主義的傾向が浸透してきたことにある。
 社会民主主義組織の集団的成長はまた影の側面ももっていた。党のなかには労働者階級の利害にふさわしくない思想やイメージをもっている多くの小市民がいたが、それに対決するには労働運動の理論水準はまだ低かった。同時にこの時代に国際労働者運動のなかに修正主義(マルキシズム理論のもっとも基本的な思想の「修正」を要求する)の考え方が受け入れられた。つまり労働者階級はプロレタリア革命なしに搾取や抑圧から解放されうるし、また、個々の部門の改革によって資本主義社会を社会主義社会に変化させうる、というのである。このような考えは階級闘争のプログラムの放棄と、実践的政治では社会民主党の指導部のブルジョアジーとの日和見的協力へと導いた。修正主義と日和見主義の社会的、政治的ルーツは第一次世界大戦前にすでにV.I.レーニンが本質的に解明していたものだが、西ヨーロッパと中部ヨーロッパの労働運動における深刻な危険となった。オーストリアとハンガリー社会民主党のなかでもこの傾向は二十世紀の初めから徐々にその優勢さを増し、労働運動を弱めた。
 こうして働く民衆の集団が過激となり、その経済的要求と基本的民主的権利のための戦いが決定的な段階に入ったというときになって、オーストリア・ハンガリー専制王国の社会民主党は労働者階級にたいして明確な、目的意識のある革命的展望を提示する能力を失ってしまた。
 マサリクは普通選挙権や八時間労働制をもとめる戦いのときにはブルジョア民主主義者として幾つかの労働者の要求の支援に立ちあがったが、彼もまたチェコの労働運動にたいしては改良主義によってこのましからざる影響を与えた。しかしマサリクはマルクスとエンゲルスの科学的社会主義を否定し、それを歪曲した。

 <経済危機> 1900−1903年の経済危機は労働者階級と働く集団全体の地位を著しく悪化させた。1903年からストライキ、高物価反対デモ、反軍国主義集会の数が急上昇しはじめた。1904年4月にはハンガリーで最初の大規模な集団ストライキ、鉄道のゼネラル・ストライキが起こり、それはスロバキアにもひろがった。

 <普通選挙権闘争> チェコ地方でもモラヴァ地方でも活発なデモが規模を大きくしていたが、そのなかで経済的性格の要求が集団ストライキの呼びかけと結びついていたため、それがオーストリア政府による民衆の基本的民主主義的権利の承認を宣言させることになった。

 最初のロシア革命がチェコの労働者階級の闘争に与えた影響

 わが国の労働者階級の政治的権利を要求する戦いへの強力な刺激がロシアからやってきた。ロシアでは1905年1月にブルジョア民主主義革命の火が燃えあがったのである。この革命のなかで労働者階級はツァーリズムに抵抗する大衆運動の指導勢力として登場した。わが国の労働者たちはロシア民衆の闘争への共感の表明から出発して、普通選挙権運動の組織へと進んだ。

 <革命の沸騰> 全オーストリア・ハンガリー帝国内の働く民衆は1905年の5月1日を、ロシア革命発展にたいする深い感動をもって祝い、自らの普通選挙権にたいする要求を強めた。1905年10月の全ロシア・ゼネラル・ストライキ成功にかんする報道の後、わが国の労働者層のひろい範囲における革命熱は決定的段階に達した。ウィーンのほかにも運動が最大の盛りあがりに達したのは、チェコの各地、とくにプラハだった。11月の初旬にはこれらの革命の力は、警察や軍隊と全面的衝突を生むまでに強まった。幾つかの地方では労働者たちがバリケードを築きはじめた。クラッドノ、ブルノ、リベレッツ、モスト、その他の市でも同様にデモが行われた。
 民衆の集団の登場は政府内でもブルジョアジーのあいだでも恐怖を呼び起こした。政府としてはとりあえず選挙法の改正を約束せざるをえなかった。この状況のなかで社会民主党の指導者たちは逆に革命闘争の盛り上がりを抑制しようと努め、ブルジョア政治家たちとともに「秩序」とストライキの宣言までもふくむ今後のデモンストレーションの停止を呼びかけた。

 <1905年11月28日のゼネラル・ストライキ> 11月28日、帝国委員会の開催の日、ゼネラル・ストライキが宣言された。ストライキは労働者階級の力と闘う決意を示しながら押し進められた。そしてその規模の大きさによってわが国のこれまでのあらゆる政治的示威運動を凌駕した。労働者たちはチェコおよびモラヴァのすべての産業拠点で労働を停止した。運動は労働者階級の枠をはるかに越えて成長した。幾つかの地方では農業労働者や零細農民も参加し、軍隊との連帯の試みも起こった。プラハのスタロムニェスツキー・ナームニェスティーの民衆の陣営には10万人が参加し、ウィーンではこの日、30万人がデモンストレーションをおこなった。
 政府はオーストリア国内における関係を変更する広範な選挙法改正を準備すると宣言することを否応なしに強いられた。この宣言に社会民主党の指導部は満足し、闘争のそれ以上の拡大を断念した。

 <1907年の選挙法改正> しかし約束の改正の審議はながびいた。1907年の1月になって、人民の集団の強力な圧力のもとに普通選挙権がオーストリアで法律化された。しかし女性にも軍人にも認められていなかったし、住居の所在地に最少限一年間は住んでいなければならず、これにより多くの季節労働者が選挙への参加から排除された。同様にその他の幾つかの選挙法改正の規則は労働者階級とチェコ民族の権利の縮小を目指していた。

 <1907年の選挙> それにもかかわらず社会民主党はこの年におこなわれた最初の普通選挙からもっとも強いチェコの党として登場した。同党はチェコの全有権者数の38%を、また重要な選挙地域、つまりプラハ、クラデンスコ、プルゼニュ、それにブルニェンスコやオストラヴァといった労働者の選挙地域でも絶対的多数を獲得した。重要なのは、農業労働者や家屋所有者や小さな土地もち百姓の一部も支持したということである。
 農業党(agrarnici )はチェコ票の19%を獲得したにすぎなかったが、それでも選挙システムのおかげで28議席、つまり社会民主党より4議席多い代議士を当選させた。同時にブルジョア政治陣営での第一党の地位をも得た。勢力を弱めたのは青年チェコ党と民族社会党だった。青年チェコ党の存在意義は以後も、主として、都市ブルジョアと知識人の大部分が支持したということにあった。しかし彼らの17議席はチェコ有権者のたった9%の投票によるものだった。それにたいしてチェコ有権者の17%が、とくにモラヴァ地方で投票した聖職者党はチェコの政治に大きな影響力はもちえなかった。民族社会党に投票したのは有権者の8%だった。

 <ハンガリーおよびスロバキアにたいするロシア革命の反響> しかし普通選挙権が適用されたのはハプスブルク専制王国の西の半分にすぎなかった。スロバキアや全ハアンガリー領地では選挙改革を勝ちとることはできなかった。第一ロシア民主主義革命はこちらでも強い反響を得たが、それはどちらかというと、この地域における全体的な状況がいろんな点から見て、ツァー・ロシア内の状況に著しく似ていたということによる。ブダペストのスロバキアの労働者たちは1905年2月12日の大集会において、ロシア革命にたいする彼らの共感をすでに表明し、普通選挙権要求の意思表示をしていた。1905年全体をとうして、ハンガリーとスロバキアではストライキやデモの波がひろまり、それらのなかで政治的要求とともに経済的要求も組み込まれていた。1905年12月17日のリプトフスキー・ミクラーシュでの示威行動で、労働者たちは自分たちの権利を求めて「ロシア式」に闘うと宣言した。
 しかしハンガリー社会民主党は大衆の闘争を指導する能力を欠いていた。ハンガリーとスロバキアにおけるゼネラル・ストライキの試みは1907年10月10日におこなわれたが、成果をあげえずに終わった。その結果、スロバキアのップロレタリアートはチェコスロバキア共和国の誕生まで選挙権もなく、ハンガリー議会に議員を送ることもなしにとどまった。

 <スロバキア社会民主党の独立> この当時のハンガリー社会民主党のもっとも重大な誤りは、ハンガリーにおける民族問題の解決に一貫した国際的視点をもつことができなかったことである。社会民主党のハンガリーの指導者たちの多くは民族問題を回避するか、ハンガリーの非ハンガリー民族の抑圧問題ついてはハンガリー・ブルジョア国家主義の影響に屈するかしていた。その結果、スロバキア労働運動の内部ではチェコの手本にならって、スロバキア社会民主党の組織的独立をもとめる分離主義的努力が増大してきた。1905年6月ブラチスラヴァでスロバキア社会民主党の第一回独立大会がおこなっわれ、ここでスロバキア社会民主党の独立が宣言された。しかし1906年には党はふたたび組織的にハンガリー社会民主党と結合した。スロバキア・プロレタリアートの民族的利害を党のなかでスロバキア執行委員会が守るはずであった。

 <スロバキア労働新聞> スロバキア・プロレタリアート層の社会主義的キャンペーンの発展のために大きな意義をもっていたのは労働者のための新しい新聞、とくに「スロバキア労働新聞だった。エマヌエル・レホツキー編集長のもとに1904年から発行され、1909年から週刊紙になった。

 <1912年、ハンガリーにおける普通選挙権要求のゼネラル・ストライキ> 全ハンガリーの労働者の普通選挙権をもとめる闘争の新しい高まりが1911年に起こった。1912年5月23日、ブダペストで3万人の労働者のゼネラル・ストライキが頂点となり、バリケードによる闘争が二日間続いた。ストライキの準備や経過はスロバキアに大きな反響を呼び、ブラチスラヴァやコシツェで抗議ストライキを呼び起こした。しかしストライキは最後には敗北した。
 ハンガリーの社会民主主義運動は民族問題にたいする全体的なあいまいさによって特徴づけられ、ハンガリーだけにとどまらず、スロバキアでも党の政治指導部にたいする多くの党員の不満を増大させた。スロバキアの労働運動に新しい革命の方向性を探し求める力が生まれてきた。

 <1905年から1907年にいたる革命運動の意義> 1905 1907年はわが国における労働運動の歴史のなかできわめて重要な発展段階である。当時、すでに労働者階級は基本的民主主義的人間の権利獲得の戦いにおける指導的社会的勢力としてはじめて登場した。政治的また労働組合的社会主義運動はこの時期にいじょうなまでに巨大化し、実際に集団運動的性格を加えていた。専制王国の西半分における普遍的平等の選挙権の獲得は有意義な部分的成功であり、労働者階級の自意識を強めた。
 しかし、チェコ社会民主党の指導部は、オーストリアの党の指導部と同様に、普通選挙権の獲得が階級的、民族的抑圧になんらほんしつてき変更をもたらさなかったにもかかわらず、過大に評価していた。1907年における選挙制度の改正と、選挙におけるチェコ社会民主党の大勝利は社会民主党の指導者たちの方針を、集団闘争を軽視ないしは無視し、単なる議会手続きに向かわせることになった。社会民主党における改良主義が全盛となった。

 <労働者の階級闘争の激化> 1907−1914年の期間は階級闘争の次の激化と専制王国内の内的矛盾の尖鋭化、現実性をもった戦争の危機の増大の時代であった。労働者階級は物価上昇反対、軍備反対の大行動を発展させた。1911年から1912年に織物工と炭鉱夫のストライキ運動はチェコ領域において大きな規模にふくらんだ。1912年にはオーストリア帝国主義者たちのバルカン半島における軍事的挑発に抗議する断固たるデモンストレーションによって労働運動が起こった。
 幅ひろい働く人民層は実践活動のなかで、選挙権そのものは彼らの生活権の問題を解決しないことを証明していた。それゆえに彼らは社会民主党の代表者たちの戦術が労働者の集団行動を土台にすえるようにとする要求をだんだんと強め、革命闘争の継続の必要を本能的に意識しはじめたのである。
 チェコとスロバキアの働く民衆のなかには1905−1907年のあいだに、ロシアの労働者階級にたいする熱烈な共感ががっちりと根づいた。しかしチェコとスロバキアの労働運動は、新しいタイプの労働者の党、真に革命的な党を建設しようとするロシアの革命家たちの努力を知っていなかった。ヴラジミール・イリイッチ・レーニンの活動、彼は帝国主義のその時代に、マルキシズムを創造的に発展させ、日和見主義にたいする彼の戦い、農民問題、民族性の問題についての彼の仕事は、当時わが国のひろい労働運動のあいだにはまだ浸透していなかった。
 続く年月の経験、帝国主義的世界大戦と独立国家のなかでの闘争の最初の年月がわが国の労働者階級やひろい民衆層にもたらしたきびしい試練をへて初めて、チェコスロバキア・プロレタリアートはただ一つロシア・ボルシェヴィキ党の手本が世界中の働く民衆の真の解放への道を示しているという決定的な認識へ到達するのである。



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