第十二章


     演奏会の当日、村井は舞台での総稽古(ゲネ・プロ)からつきあった。第一部と第二部はレコーディングのとことほぼ同じ曲目(ナンバー)だったが、いまあらためて舞台で聞くとまたちがったおもむきがある。一ヶ月ほどのツアーで自分のアレンジの音に聞きなれていた耳には、岩淵のアレンジが新鮮に聞こえた。そしてまたいろんなことを学んだ。

     このジャンルの音楽の聴衆はかなずしも新しい音楽スタイルを求めない。彼らは聞きなれた、耳になじんだ音を聞きたがる。そして現在そこに提示された音と、かつて耳になじんだ記憶のなかの音とが合致したとき、はじめて自分の聞きたいと思った音楽を聴いたという満足感を覚える。
     それでは古い曲をもとのままのふるい編曲(スタイル)で聴いたほうが満足なのかといえば必ずしもそうではない。実は彼(聴衆)自身のなかにある「懐かしのメロディー」そのものの記憶が時代の経過とともに――時代の刺激を受けながら――すこしずつ変質していることに意外と本人も気づいていない。だから「ナツ・メロ」を古いまま聴いたとしても、彼はむしろ色あせたアルバムの写真を見るように、なつかしさを覚える反面、なにか白々としたもの足りなさを感じるだろう。
     ポピュラー曲の編曲の意義は、過去の演奏の機械的復元ではなく、むしろ時代の経過をへながら無意識のうちに変質する聴衆の『趣向の変化』を的確にとらえ、その変化に対応した「ナツ・メロ」を再現させることにある。その点を編曲者が取り違えると、いたずらに新しすぎたり、古すぎたりして「懐かしのメロディー」を聴きたいという「現代の聴衆」の期待を裏切ることになる。
     耳になじんだ音楽を聴きたいという願望は、もちろんクラシック音楽の聴衆にもある。
     明けても暮れてもバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ブラームス、さらにはチャイコフスキー、マーラーが来る。しかし、それらの演奏は演奏家の現代感覚によって、絶えず現代的に解釈・表現(インタープリット)されたものを聴いているのである。ここにはなにやら「ナツ・メロ」の編曲者の役割との機能的類似性があるようだ。
     その一方で「現代的」音楽、たとえばバルトーク、プロコフエフ、ストラビンスキーとなると、聴衆もかたよりを見せる。だから、さらに新しい音楽、耳慣れない(ないしは耳障りな)音楽、つまり「現代音楽」となると一般のコンサートで演奏されることはきわめてまれになる。
     現代音楽は特別の枠の中に入れ、「現代音楽コンサート」とか「現代音楽祭」というような名称でくくられて、一般の聴衆の耳には必ずしも快くない音楽ばかりがまとめて、そういう音楽を好む聴衆や、自らもそのような音楽を作りたいと思っている作曲家の卵たちを聴衆として演奏される。それらの音楽が「現代音楽」という狭いジャンルから解放されて、ごく一般のクラシック・コンサートの曲目にふくまれて、どこか別の演奏会で演奏されるというのはきわめてまれである。
     それにしても、日本の現代音楽の作曲家の作品は、なんとかいいながら同世代の演奏家の手によって、一度だけは演奏される機会があるようだが、日本の「近代」の音楽となると、ほとんど演奏されることがない。
     わが国の洋楽の歴史のなかで近代と現代をどこで区切るかということにはいろいろの見方があるかもしれないが、大きく分ければ第二次世界大戦(大東亞戦争)の終結の時点、一九四五年八月十五日を分岐点とするのが妥当な見方だろう。この時点を境にして日本の西洋音楽は大きく発展する。その当時音にたいする日本人の飢えを満たしてくれたのが、米駐留軍のラジオ放送であったことは、ジャズミュージシャンにかぎらず、クラシック畑の音楽家たちもがこぞって証言するところである。そしてこの進駐軍放送に大きく影響されながら音楽のほとんどあらゆるジャンルの音楽家たちが育っていった。
     ところで、日本の音楽のいびつな発展には西洋音楽優先の政治的な差別、分離政策があった。せっかく出来た東京音楽学校には邦楽科はなかった。明治維新以後西欧化を急ぐあまり、内面よりも外面を重視した。なんとか早くピアノが弾ける音楽家、バイオリンの弾ける音楽家がほしかった。少しでも才能の片鱗を見せた音楽家の卵たちは過大な期待とともにヨーロッパに送り出された。バイエルをおわり、チェルニーの30番終えたばかり程度の実力しかないピアニストはパリやベルリンで本物の大家の演奏に接して、はげまされるどころか、あまりの差に絶望のどん底に突き落とされたにちがいない。なぜそんなに慌てたのだろう、なぜ、そんなにいそいだのだろう。
     そのことは音楽にかぎらず、技術の分野でも、科学でも学問でもいえる。西欧のレベルに一日でも早く追いつこうとした。自分のオリジナリティーよりも、学ぶこと、模倣すること、それを応用し、利用することそれが優先課題となった。現在でもしばしば指摘される基礎分野の研究の弱さも、このときに植えつけられた精神のもたらした結果ではあるまいか。
     日本古来のものが欧米人にとっていかに衝撃的なものであったかには気づきもしなかった。パリ世界万博のとき日本の浮世絵はヨーロッパの芸術家たちに大きな影響を与えた。たしかにその時点ではエキゾチシズムと同義語だったにせよ、ジャポニズムという言葉さえ生まれた。
     日本人が日本的なるものの価値に自ら気づくのは日本人自身が欧米の合理主義的思考を十分マスターし、欧米化をはたしたあとのことだった――だから、それはなんと、第二次大戦後何十年もへたあとのことだったのだ(もちろん、日本文化、東洋文化についての先覚者がすでにあったことは、ここでは措くとして……)。
     戦前にも日本的な響きを追求した作曲家がいないわけではなかったが、意欲を技術が追いつけなかった。むしろその方向での努力は、まず最初、宮城道雄のような西洋音楽の手法を取り入れた邦楽の分野で一定の成果をおさめた。だがそれは、わが国の文部省の西洋音楽奨励と、日本古来の伝統音楽にたいする差別的政策のおかげで、日本の音楽芸術という共通ジャンルとしては結実しなかった < 著者注・邦楽が日本の義務教育課程で正課に取り入れられるようになったのは、つい最近のことである >。
     だから日本には、ろしあ、中欧、北欧のような当時十九世紀末の音楽後進国に見られる国民楽派のようなものはついに誕生しなかった。さらに言えば、バルトークやコダーイがハンガリーにおいて試みたような、自国の民謡と真剣に取り組むという努力も、わが国ではまだ十分な成果をおさめていない。
     千九百六十年代にNHK交響楽団がおこなったはじめてのヨーロッパ公演にさいして、アンコール・ナンバーとして外山雄三に委嘱した『ラプソディー』などは最後のクライマックスに八木節をもってきてヨーロッパの聴衆を熱狂させたが、それは一種のジャポニズムの再現にすぎまい。
     山田耕筰の童謡的歌曲は日本人にも非常に愛好されている。『赤とんぼ』や『この道』『からたちの花』など、知らない人がないくらいだ。その反面、彼の器楽曲、オーケストラ曲となると、いま聴いても十分に鑑賞にたえる作品があるにもかかわらず、現在ではほとんど、いや、まったくかえりみられていない。
     山田耕筰がカーネギー・ホールで自作をふくむコンサートを開いたのは一九一八年のことだった。まさに第一次世界大戦が終わった年、アンドレ・ジードが『田園交響楽』を書いた年。また、マーラー没して十年もたっていないときだった。だから山田耕筰の初期の管弦楽作品に、やや薄味ながら、マーラーやリヒアルト・シュトラウス(一九四九年没)を思わせる響きがしたとしても不思議ではない。なぜなら、この同じ時代に、シベリウス(一九五七年没)もラフマニノフ(千九百四十三年没)も、必ずしも現代的とはいえない大管弦楽作品やコンチェルトを作曲しつづけていたのだから。
     いまや世界のピアニストのレパートリーには欠かすことのできない、また映画のテーマ・ミュージックとしても有名になったラフマニノフ『パガニーニの主題による狂詩曲』が作曲されたのは一九百三十四年(昭和九年)のことである。
     わが国における近代ないし現代音楽史の連続的発展を断ち切ったのは、やはり第二次世界大戦(一九四〇―一九四五年)だった。
     戦前の作曲家のなかにも山田耕筰以外に、西洋音楽を学び、管弦楽曲といわず器楽曲の作品を作曲し、日本的な「音」を追及した作曲家も大勢いた。尾高尚忠、清瀬保二、諸井三郎などなど……。もし戦争による中断がなかったら、これらの作曲家の努力は連続し、持続し、ある一定の成果にまで到達していたはずである。
     その人たちの作品(歌曲ばかりでなく器楽曲も)をまれにではあるが、NHK・FM 放送などで聴くことがある。それらの曲のなかには、たしかに退屈なものもあるが、まだ、聴衆とのあいだの感性的な隔絶感はそれほどなかった。
     第二次世界大戦後の日本の音楽家たち、とくに作曲家は戦争中の鎖国が解けたとき、彼らが真っ先に試みたことは、戦前の日本の作曲家の手になる音楽伝統を自分たちの音楽伝統として認識し、継承・発展させようということではなく、その当時世界の作曲レベルの最先端に並ぶべく、もっとも新しいと信じた音楽技法をまたもや輸入し、接木することだった。その一つが十二音音楽(ドデカフォニー)である。
     もともとこの音楽技法は十九世紀末の音楽の爛熟と退廃の一方の極限、つまり無調性から感性的なものを捨象して、絶対的音構造、純粋な音建築のメソードとして人間の頭で抽象された理論であった。したがって、人間の通常の生(なま)の感性とはほど遠いところで体系化された作曲技法だったから、その技法によって提示される音楽は単なる無機的な音の塊、ないしは無機的な音の連続としてしか一般の聴衆の耳には聞こえなかった(あえていえば、戦後、このような技法が日本に輸入され、日本の若い作曲家が夢中になって模倣する必然性も、必要性も実はまったくなかったのである)。
     加えて、その技法そのものは創案者アーノルト・シェーンベルク(一八七四―一九五一)と二人の弟子、アントン・フォン・ウエーベルン(一八八三―一九四五)とアルバン・ベルク(一八八五―一九三五)によってその可能性のほとんどは極め尽くされていたのである。前者は純粋技法的に、後者は折衷主義的に……。
     だからこの技法を他のエピゴーネンたちが受け継いだとして、あのウエーベルンのピューリタン的厳正な作法の限界をどれだけ前におしすすめられたかどうかははなはだ疑問である。
     そして、この技法の理念がさらに極端化されたとき、具体的な音、現実の音、ハンマーの音、都会の騒音といったものをつなぎあわせたものさえ音楽だという主張が現われた。ミュージック・コンクレート(具体音楽)がこれである。もちろんこれには磁気テープによる録音再生技術の簡便化というテクノロジーの発達を前提としたものではあった。
     ウエーベルンが第二次世界大戦の終結直後、米軍の兵士に誤って射殺されたという悲劇には、あまりにも痛ましいアイロニーがふくまれている。なぜなら、反ナチ解放闘争の闘士であり、同時に、数百年間にわたる「音階」ないしは「調性」の絶対支配から音楽を解放し、音楽に絶対的自由を与えるはずの十二音技法、その発展の可能性の最大の担い手と目されていたウエーベルンを――たとえ誤解にもとづくとはいえ――射殺してしまったのが、ほかならぬ自由解放のシンボル、アメリカ兵だったからである。
     これによって十二音技法は「メソード」のうえからも、実作上も、その進歩ないし発展は実質的におわったといっても過言ではないだろう。
     結局、戦後いち早く入野義郎や柴田南男などの諸井三郎門下の東大派によって輸入され、紹介された十二音技法は、わが国の戦前の多くの作曲家の音楽を世界的レベルから見て、すでに過去の遺産、かえりみる価値もない時代遅れなものと思わせてしまうほどのショックを若い作曲家たちに与えたようだ。
     当時の日本の若い作曲家はこぞってこの技法にとびつき、この技法による作曲を試みた。しかも驚くべきことに、この技法で書かれた日本人の作品が、数年後にはたちまち海外の音楽祭で入賞さえするようになったのである。
     しかし、それから五十年をへたいま、あらためて思い返してみると、それらの作品が真の意味で日本の音楽遺産として、わが国の文化に何らかの実りをもたらしたか? という点になるとはなはだ疑問である。
     芥川龍之介の三男で作曲家の芥川也寸志(故人)は自分が主宰するアマチュア・オーケストラ「新交響楽団」定期演奏会で、戦前の忘れられた日本人の作曲家たちの作品の掘り起こしをシリーズで試みたことがあった。その意図、意欲は評価されたが、日本の楽団のレパートリーに影響を及ぼすまでには至らなかった。
     それにもかかわらず、絶えず新しい音楽理念、音楽技法がいまもなお模索されている。残念ながら、聴衆とは遠くはなれた、無関係なところで……。だが、その宿命ともいえる未知なるもの、新しい創造へのあくなき探求がとまったとき、作曲は創造ではなくなり、パターンとなり、マンネリズムとなる……。
     これもまた創造という行為につきまとう苦汁にみちたジレンマだ――岩淵はこのような模索の中で自分の方向を見失い、自らの創造に希望をなくしたのだった。だからジャズのなかに逃れた。しかし、それは逃れたのではなく、新しい課題を背負うことだった。ここでも安逸は許されなかったのだ。
     ごくポピュラーなスタンダード・ナンバーのアレンジにも新しい試行や錯誤が強いられた。一つの決り文句のくり返しのようなアレンジではプロデューサーにもプレイヤーにもばかにされ、置いてきぼりを食うほどこの世界もきびしかった。
     だから、岩淵はどんな曲の編曲を依頼されても手を抜かなかった。全力を注いだ。仮に、それが花園さつきの『ジョンカラ竜飛・恋寂れ』であったとしても……。




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