第十三章


     『ラプソディア・コンツェルタンテ』はオーケストラ部分の練習だけでおわった。光彩のカデンツァや岩淵のピアノとの掛け合いの部分は本番までおあずけになった。それはぶっつけ本番の一騎打ちともいえた。
     もちろんオーケストラとからむ部分の稽古には光彩の太棹も音を出した。何十人というオーケストラの音量にたいして も光彩の太棹はいささかの引けもとらなかった。ビーンと客席の一番奥まで音が突き抜ける。
     村井は本番が待ち遠しい思いだった。
     楽屋に行っても今日の岩淵には言葉がかけにくかった。おだやかな表情、おだやかな物腰のなかにも何かぴーんと張りつめたものを感じる。
     伊木光彩はいつものように、言葉すくなに自分の控室に入っていった。
     いままで気楽に言葉をかけていたバンドの連中にもなんとなく言葉がかけづらい。村井は自分が、もうすっかりよその人になってしまったような気がしてさびしかった。
     開演時間がせまった。村井は岩淵に挨拶をしてから、客席ロビーに出た。
     ロビーでは大勢の客が談笑している。中高年層のペアが目につく。昔、社交ダンスを踊った人たちだろう。見るからに音楽関係者と見て取れる人もある。あそこで数人の若者に囲まれて話している初老の男性は音楽評論家にちがいない。
    さりげない服装のなかに個性をあらわにした、女優ではないかと思えるような若い女性もいる。何人かのグループで来たのだろうか、制服の女子高生らしき女の子たちもひと塊になって笑いあっている。そのとき開園前のロビーのざわめきという調和を乱すかのように、一人の制服の女子高生が自分たちの群れから離れて、直線的な動きで、ロビーの反対側でつれの男性と話をしていた一人の長身の女性のほうに近づいていった。
     村井もロビーに出て真っ先に目についた女性だった。モデルか? とも思ってみたが、彼女の知性的な面持ちと、落ち着きのある物腰が村井の想像をまっさきに否定した。幅広のつばの黒い帽子、それに合わせた黒っぽいドレス。どこかで見たことがあるような気がした。その女子高生が一冊の本を取り出して彼女にサインをたのんでいる様子を見てはじめて思い出した。
     彼女は最近大胆な恋愛論を発表して話題を呼んでいる女性問題の評論家だ。村井は自分で読んだわけではないが、電車のなかのつり広告などを見ているうちに頭のなかに自然に入ってきた情報だった。彼女は未婚の母は肯定していたが、堕胎にはきわめて厳しい姿勢を示していた。
     「やっと、来たな」
     人ごみの向こうにさつきの和服姿が見えた。柄を抑えた渋い色。反対に帯は明色でその対照があざやかだ。その姿は人ごみの中にあっても、やはりきわ立って見える。村井はなんとなく面映い感じを覚えた。それでも、コンプレックスにうち克って彼女のほうに歩いていった。
     「さつきさん」 「あら村井さん、楽屋のほうじゃなかったの?」
     「たったいま、楽屋のほうから出てきたところですよ。今日はちょっと岩淵さんにも言葉がかけにくくて……」
     「たぶん、そうだろうと思って、あたし、開演前にはご遠慮したの」
     「お店のほうは?」
     「今日は、勉にまかせてきたわ。よかったら二次会か三次会のあと、うちにいらっしゃれば?」
     「ええ、できたらそうします」
     「あたしが、ただの観客で岩淵さんの演奏会を聴きにくるなんて夢みたい。歌手をしていたころって、ほんとに、ほかの方のコンサートなんて行ったこともなかったわよ」
     「同業者同士って、意外とそうなんですよね。ぼくなんか、東京に出てきてはじめてじゃないかな、客席で音楽を聴くなんて」
     「戸田さんは、今日は?」
     仕事がおわりしだい、駆けつけると言っていました」
     「あたし、光彩さんの太棹の音聞いたら、また金縛りに合うんじゃないかと心配だわ」
     さつきは笑った。村井も笑った。
     やがて、開演五分前を知らせるゴングが鳴った。この劇場独特のものだ。岩淵の手配で、さつきと村井は前から十列目のほぼ中央のいい席についた。隣の席が空いているのは戸田の席なのだろう。
     やがて本ベルが鳴って、客席の明かりと舞台の明かりとが交代した。ジャズ・オーケストラのメンバーが位置についたとき、岩淵が登場して客席に向かって挨拶した。ピアノの前に立ち手をふった。第一部のムード・ミュージックはグレン・ミラーの『ムーンライト・セレナーデ』ではじまった。
     聴衆はよく知っている音楽、映画のテーマ・ミュージックの演奏にうっとりと聞きほれていた。休憩のあとの第二部はアルゼンチン・タンゴの名曲『ラ・クンパルシータ』が皮切りだった。弦を加えたフル・バンドをバックに二丁のバイオリン、バンドネオン、コントラバス、ピアノで編成されたタンゴ・バンドが加わっている。フル・バンドのピアノもタンゴ・バンドのピアニストが受け持ち、岩淵は指揮にまわっていた。
     やがて『ジェラシー』や『碧空』などコンチネンタル・タンゴの名曲も場内になり響いた。観客はこれら懐かしのポピュラー名曲にすっかり陶酔して、一曲ごとにさかんな拍手を送っていた。
     村井の隣の席はまだ空いたままだった。第二部がおわって休憩になった。村井は休憩のあいだ席で待つと言うさつきを置いてロビーに出た。そのとき入り口を大急ぎで入ってくる戸田の姿が見えた。
     「やあ、戸田さん、ここです」
     村井は手をふった。
     「どうしました、会議、長引いたんですか?」
     「うん、ちょっと困った問題が起きてね」
     「このあとのツアーの件ですか?」
     「間接的にはそっちにも関係しなくもないが……。君も内輪のようなものだから言っておこう。どうせぼくがいわなくたってわかることだ。那智原営業部長が姿を消した……。使い込みが発覚したんだ。鼎知子との関係がとり沙汰されているが、原プロとしては、これがスキャンダルとして外部にもれるのはまずい。断固として鼎知子とは切り離して処理するということになった。実は那智原は『おまえを原プロで売り出すべく引き抜いてきたのは、おれだ』とかなんとか言って、セクハラまがいのことまで迫ったらしい。それでたまりかねた鼎がとうとう社長に訴えたというんだ。それですべてが発覚した。使い込みのことまで。それでぼくが急遽、那智原部長のあとをついで営業部長に指名されたんだ」
     「そうだったんですか。かなり強引なやり手というかんじはしましたが、少しやばいなという感じがしないでもありませんでしたからね、やっぱり……」
     「そういうわけで、今日のこの演奏会は、とくに第三部はぜひ聴きたかったので、とりあえず、返事は明日まで保留するということで駆けつけてきたんだ」
     「引き受けるんでしょう、もちろん?」
     「そうなると、毒くわば皿までということになりかねんがね。これを断ると、後任の部長次第ではぼくの立場がもっと不安定なものになるだろうからね……」
     「良心なんてものが通用しない世界に、戸田さんのような良心的な仕事がどこまで評価されるかですね。そうなると部下の仕事を評価する立場になったほうが……」
     「そうなんだ、そのことも考えた。だから、結局は受けるつもりだ」
     「そうですよ、ぜひ、そうしてくださいよ」
     そのとき第三部の開始を告げるゴングが鳴った。
     自分たちの席まできたとき、さつきも気づいて立ち上がり、戸田に挨拶した。
     「戸田ちゃん、おそかったじゃない。何かあったみたいね……」
     芸能界のことはさつきとしても知らないわけではない。それ以上は詮索しなかった。
     舞台の上ではピアノが中央近くに引き出され、ピアノ奏者がオーケストラと舞台中央の光彩の太棹とを半々に見える位置に置かれていた。もちろんピアノの前にすわるのは岩淵であり、同時にオーケストラの指揮もする。
     岩淵卓郎作曲『ラプソディア・コンツェルタンテ』
     下手の袖から伊木光彩が太棹の棹を左手に、撥を手にした右手で三味線の胴を支えるようにしながら現われ、岩淵がそれに続いた。中央まで来て二人は客席にむかってあいさつをする。光彩は楽員のほうに目礼してから、一段高くなった演奏席についた。
     岩淵はピアノに片手をかけて立ち、ピアノのキーを叩いて調音のための基準音A(ラ)の音を出した。まず、ソリストの光彩が調弦する。続いて弦楽器、さらに管楽器群も音の微調整をおこなった。
     やがて、光彩が岩淵のほうを見てうなずく。岩淵はそれを受けて、オーケストラにむかって手をあげ、ふりおろした。
     不協和音の斉奏。
     それが切れるとテーマが、低音のサクソフォンから中音のサクソフォンへ、それからトランペットへと受け継がれ、テーマが明確に奏されると、弦楽器がやわらかくそのテーマをくり返す。やがて弦楽器と管楽器とが交互にかけあいながら、徐々に岩淵がイメージする音空間を造形していく。
     突然、その音空間を打ち砕くかのように太棹が強打音で入ってくる。そこではじめて、岩淵はピアノの椅子にすわる。
     さつきも戸田も引き込まれたように聴き入っていた。
     村井は悪寒でもするかのように体がふるえた。村井はこの音楽のスコアに書かれたほとんどすべての音を知っている。しかし、それは村井の想像力のなかで響いていたにすぎなかった。いまそれらの音を生で、しかも光彩のような名人によって、岩淵の表現によって聴くとき、村井にとってそれはまさに想像を絶するものとして、生きた音として村井の想像力にむかって襲いかかってきた。
     他の楽器の沈黙のなかで奏される太棹のカデンツァ。光彩は自己の持ちうる技巧の極限まで表現した。もちろんそれは奏者の深い思索に裏づけられたものであり、現実の時間の観念を超越し、時間の彼岸をさまようがごとき音のきらめきだった。
    そのとき忽然(こつぜん)としてピアノが介入してきた。太棹はそれを無視するかのよう自己の主題を展開していく。それをとらえようとしてピアノがからむ。太棹はピアノにやさしくこたえるように、また、厳しくはねつけるように奔放に音空間を飛翔する。やがてピアノと太棹は合一点を見いだしたようだ。ピアノのアルペジオの水しぶきのなかを漂うがごとく、胡蝶が舞うがごとくに、太棹はおだやかに戯れながら主題へもどっていった。
     ピアノを弾く岩淵の首がつよくうなずく。同時にオーケストラがフォルティシモで演奏に加わる。岩淵はピアノの前に立ち上がりオーケストラを指揮した。オーケストラの大音響に取り囲まれながらも、光彩の太棹の音は冴えた。
     やがてコーダに入り、太棹の短いカデンツァのあと、オーケストラのトゥッティで曲はおわった。
     曲がおわっても岩淵はしばらく頭をたれたままの姿勢で立ちつくしていた。一斉に客席から拍手の嵐が巻きおこった。岩淵はわれに返り、光彩のほうに手を差しのべて握手をした。楽員たちからも拍手がおこった。
     そのとき村井の胸になんともたとえようのない不安がよぎった。村井はさつきと戸田に一足先に楽屋へ行くといって席を立った。舞台の袖まで来たとき、岩淵の姿は見えず、光彩だけが鳴り止まぬ拍手に応えていた。
     舞台袖のスタッフに聞いた。
     「楽屋のほうじゃありませんか」
     スタッフは無関心に答えて、舞台上に注意を向けていた。村井は岩淵の楽屋へ行ってノックした。ドアが少し開いたままになっている。村井はそっと開けて楽屋のなかに入った。
     岩淵は青い顔に汗をいっぱいに浮かべてソファーの上に横になっていた。
     「どうしたんです、岩淵さん。すごい演奏でしたよ……」
     岩淵はそのままの姿勢でかすかに笑みを浮かべた。
     「どうしたんです、気分でもわるいんですか?」
     「いま、ニトロを飲んだところだ。だいぶおさまった」
     そうは言ったものの、岩淵は起き上がろうともしなかった。そしてまた顔をしかめた。
     「救急車を呼んだほうが……」
     「いいよ、このところときどきあるんだ。ニトロを飲んでしばらくするとおさまる」
     「だいじょうぶかなあ……」
     村井は心配したが、やがて岩淵の助手やマネジャーたちががやがやと楽屋のほうにもどってきた。
     「岩淵さん、おめでとうございます。すごい成功でした。さっき音楽批評家の青山さんに会ったのですが、すごく感動されていましたよ。日本の『ラプソディー・イン・ブルー』だって……」
     そのときになってレコード会社のマネジャーは、はじめて岩淵の様子が尋常でないのにきがついた。しかし岩淵は「なんでもない」といって体をおこした。楽屋の前は大勢の友人や知人、ファンなどでいっぱいになっていた。
     岩淵はよろよろと立ち上がって楽屋の前に姿を見せると、それらの人たちと声をかけあったり、差し出されるプログラムにサインをしたりしてファン・サービスをしていた。
     さつきと戸田は少し離れたところからその様子を見ていた。
     「岩ちゃん、少しお疲れのようね」
     それは遠目にもわかった。
     ファン・サービスも一通りおわったところで、岩淵はさつきと戸田に気がついた。
     「やあ、いらしてたんですか、どうぞ、楽屋へ」
     岩淵はさつきと戸田に声をかけて楽屋のなかに入った。そのとたん、またもや心臓に激痛が走った。そしてその場にかがみこんだ。村井とマネジャーはいそいで岩淵を支えてソファーに寝かせた。
     「こりゃ、救急車を呼んだほうがいいな」
     マネジャーはそういうと楽屋の電話を取り、一一九番を呼んだ。
     「こちら S ホールの楽屋です。急病人です、心臓発作らしい、至急……」
     岩淵は青い顔をして、またもソファーに横たわり、苦しそうな息をしていた。さつきはソファーの上の岩淵の顔をのぞきこむようにして見ている。
     少し苦痛がやわらいだのか、岩淵はかすかに目を開けた。しばらく見ていて、やっとそれがさつきであることに気がついたようだった。にっこりした。
     「岩ちゃん、よかったわよ今日の演奏会。光彩さんはさすがね、あなたとの掛け合いのところ、手に汗をにぎったわ。迫力満点だった……」
     岩淵はなにか言いたそうに口を動かしたが、声にはならなかった。
     「いいのよ、何も言わなくても」
     さつきは岩淵の手をとり、じっと見つめていた。岩淵は苦痛が断続的に襲ってくるのか何度かのけぞるような、苦しそうな様子を見せた。しばらくして苦痛がおさまったとき、また目を開けてさつきのかおをじっと見つめていた。
    岩淵はかすかにほほえんだ。さつきも笑みを返した。岩淵の手をにぎるさつきの手を通して、なにか暖かいものが伝わってくるような気がした。気持ちが通い合う、心が通じ合うというのはこんなことだろうか。
     大勢の男に手をにぎられ、また大勢の男の手をにぎってきたさつきにも、こんな気持ちを感じるのははじめてだった。そして、さつきにはやっとわかった。
     岩淵さんはあたしが好きだったんだ――そうだったの、どうしてもっとはやく言ってくれなかったの?
     さつきは、そのときなんとも言えぬ切なさを覚えた。それは自分でも自分の気持ちが、今になるまでわからなかったというくやしさでもあった。
     岩淵を知ってから、岩淵のバンドの伴奏でうたうようになってから、自分でも解明できなかった自分の心の動きやいらだちが、いま「わたしは岩淵さんが好きだった」というキーワードをもって解き明かせばすべてが明らかになる。きれいに解けてしまう。
     岩淵が目をあけた。じっと見つめるさつきの目にほほえみかける。まるで、「そうなんだよ」と言っているみたいだ。岩淵の口がかすかに動いた。声は聞こえない。しかし、さつきにははっきりと聞こえたような気がした。岩淵はさつきに「好きだよ」と言ったのだ。さつきは信じた。
     やがて救急隊員が担架を担いで入ってきた。なれた手つきで岩淵を担架にうつすと、救急車の待つ裏口のほうへ運んでいった。村井がそれに続いた。
     さつきが楽屋を出ると心配そうなバンドの連中の顔が見えた。光彩も心配そうに担架を見送っていた。
     岩淵は救急病院に担ぎ込まれて間もなく死んだ。心筋梗塞だった。
    
岩淵の葬儀がおわって一週間ほどして、さつき宛に一通の分厚い大きな茶封筒が届いた。差出人は「岩淵オフィス」の今野となっていた。
     なかには簡単な手紙が添えられていた。
     「これは岩淵先生の『ラプソディア・コンツェルタンテ』の総譜(スコア)です。楽譜のとびらに花園さつきさん宛ての献辞が先生の字で書いてありました。コピーは取らせていただきましたので、伊木光彩先生とも相談して、先生の肉筆の楽譜をあなたにお贈りすることにいたしました」
     さつきは『太棹とシンフォニック・ジャズ・オーケストラのためのラプソディア・コンツェルタンテ』とかかれた五線紙の分厚な綴じ込みを膝の上に置いて、しばらくのあいだぼんやり見つめていた。
     それからゆっくりと表紙を開いた。
     そこには音符の書かれていない五線紙の上に

           『花園さつきさんへ捧ぐ』

という肉太の文字が写譜ペンで書かれていた。
おわり






(参考資料)
大篠和雄『津軽三味線の誕生』新曜社(1995)
田才益夫『舞台監督の視点――ある舞台事故の場合』
舞台監督協会機関誌「舞台監督」第十一号(1986)所収
B.S.Frey and W.W.Pommerehne; Muses & Markets: Blackwell. 出版地、出版年不明



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