第十一章
鼎知子の全国キャンペーン・ツアーは九月三日、シングル盤発売と同時に首都圏五ヶ所のコンサートをおえたあと、中部・東海地区を皮切りにはじまった。九月末から十月末にかけてこの地方をまわって、一旦、東京にもどってくる。それから一週間の猶予があって、ふたたび今度は東北・北海道へむけて出発する。
ツアー用に集められたバンドの楽員たちは、最初、うわさには聞いていたがあまりにも若いバンド・マスターの村井に冷たい目を向けていたが、やがて、その編曲の見事さ、プレーヤーの腕を知った上での楽器の用い方など、いつしか若いに似合わず腕がたつことを認め、だんだん村井に一目置くようになっていた。
十月末から一週間の空白は、戸田の無言の配慮によるものだった。岩淵のコンサートは十一月のはじめに決まっていたからだ。東京にもどってきてから、訪ねてきた村井に岩淵は言った。
「うわさは耳にはさんでいるよ。君の評判はなかなかいいようだぞ」
岩淵はナイト・クラブの仕事からもどって、しばらく急ぎの編曲の仕事を片づける。それからシャワーをあびてベッドに入るのだが、それでも、これまではいつも十二時前には起きていた。それが最近は年のせいか、昼過ぎまで寝ていないと調子がわるい。
村井が訪ねてきたときも、おそい朝食とも昼食ともつかない食事をして、自分で入れたコーヒーを飲んでいるときだった。タバコを吸うと具合が悪くなるのでやめていた。
「コンサートのほうはどうです、いよいよですね」
「このまえ光彩と会って、音の合わせをしたところだ。やっぱり光彩はすごいぞ」
「そうですか、ぼくは客席のほうで拝聴させていただきますが、楽しみです」
「君がいなくなったんで、最初はずいぶんとまどうこともあttけど、君のあとがまの今野君が結構気がきく子でね、助かっている。彼は何がなんでもドラムをやりたいんだっていってね、ほら、君も知っているドラムのトムちゃんのでしになっているよ」
村井はそんな話をききながら、あれからほんの数ヶ月しかたっていないのに、岩淵の助手をしていたのがずいぶん遠い昔のような気がした。時は着々と進んでいる。
「村井、君は今日このあと仕事、何かあるのか?」
「ええ、ちょっと事務所によって、このあとのツアーの打ち合わせがあるんです。二三曲、差し替えがあるようなんです、作曲家のほうの希望で……。でも、それは差し替えになった曲を確認するだけですから、そんなに時間はかかりません。何か、ぼくに……?」
「いや、たいしたことじゃないんだ。今日からコンサートまで、おれ、ナイト・クラブのほうは休みにしたんだ。ピアノはペットの曽根君が変わってくれるんでね。だから今は『ブルーバード・フォー』というわけだ。うん、それでね、ちょっと気分転換にさつきさんの店に飯でも食いにいこうかとおもってね。よかったら一緒にいかないか?」
「それだったら、ぜひ、お供したいですね。じゃあ、打ち合わせがおわったら電話します。戸田さんも誘っていいですか、彼の時間が空いていたら……」
「そうだな、戸田君ともひさしぶりだ、誘ってみてくれよ」
村井はそれからしばらく話をしてから、岩淵のもとを去った。
村井と戸田が「花園」の格子戸をあけると、さつきがすばやく目に止め、声をかけた。
「村井さんと戸田ちゃん、岩ちゃんと光彩さんはもう奥でお待ちですよ。ほら、勉、村井さんと戸田さんよ、ご挨拶なさい、村井さん、よく来てくれたわね、あなたこの店はじめてよね?」
さつきは奥の調理場のほうに声をかけた。村井と戸田は「あれっ?」というような顔を見合わせた。
そうなのよ、勉を『かしこ』から呼びもどしましてね、いまうちの源さんに仕込んでもらっているところなんですよ」
勉はダボ・シャツに白い前掛けという板前の制服で出てきた。そして日本手ぬぐいの鉢巻を取りながら挨拶した。あのころにくらべるとすっかり大人びた感じがした。
「いらっしゃいませ、わたくし、当『花園』で板前見習としてつとめております河原勉でございます。今後ともお引き立て、よろしくお願いいたします」
そういって頭をさげる勉に、二人は逆に面食らったようだった。
「いやあ、勉くん、見違えるように立派になったなあ」
戸田はかつて走り使いにつかっていたマネジャー助手をまぶしそうに見た。
実は、勉のほうも照れていたのだ。なんと呼べばいいのかとっさに判断がつかなかった。だからつい紋切り型になった。
それを見ていたさつきは、ひさしぶりに顔を合わせた当人たちのとまどいを取りつくろうようにはずんだ声で言った。
「さあ、勉、奥に案内しておあげなさい」
奥座敷の障子をあけると、岩淵と光彩がどっしりと腰をすえて、ビールを前に語り合っていた。
「やあ、戸田さん、ひさしぶりだね」
光彩は新来の二人のほうに顔を向けながら言った。
「あれ以来、すっかりご無沙汰して……」
「なあに、おたがいさまだ。今日は君も村井君も来るって岩淵から電話があってね、それで重い腰をあげてきたってわけだ。村井君もすっかり名をあげたようだな、岩淵から聞いたよ。この話には戸田さんもからんでるんだって?」
「ええ、ぼく、いま原プロに籍を置いていまして、宮仕えのつらさ、部長命令で村井君を岩淵さんのところからさらっていったんです。本当に申し訳ありません」
戸田はそう言って岩淵のほうに頭をさげた。
「もう、その話はなしにしようよ。村井だって、いつまでもそんなことにこだわっていては先へは進めはしない」
岩淵は屈託なく言って、ビールの瓶を戸田のほうに差し出した。
「じゃあ、いただきます」
「ほれ、村井」
岩淵は村井のコップにも注ぎ、伊木光彩のコップにもみたした。戸田が注ぐのを受けてから、岩淵が店のほうに呼びかけた。
さつきさーん、勉君も一緒に乾杯しよう、かつての顔なじみがそろったんだから」
さつきが顔を出した。
「ほんとね、ほんとにひさしぶり。勉はどうかしら……、勉」
さつきは後ろ向きに声をかけた。 勉が調理場から出てきて、座敷に顔を出した。
「勉、せっかく古なじみがみんなそろったんだからかんぱいしましょうって……」
そうですか、では、乾杯だけ」勉はさつきからビールを注いでもらった。
岩淵がグラスを高くかかげた。
「じゃあ、再会を祝して、そしてみなさんの健康を祝して……」
そこへ戸田が割って入った。
「そして、岩淵さんと光彩さんのコンサートの成功を祈って……」
「乾杯!」
全員が声をそろえて言う。戸田が陽気に言った。
「ここでお手をはいしゃくといきたいところですが、中締めにはまだ早すぎますよね……」
「勉くん、そんなにいそがしくないんだったら、ひさしぶりだからここへきて一緒にやったらどうだい」
岩淵が言った。それにたいして勉はいずまいをただして、あらたまっていった。
「いえ、わたくしは目下板前見習修業の身の上、まだまだ、お客様の席に同席させていただくわけにはまいりません」
と言って、ぺろっと舌を出した。そしてにこっと笑顔を見せてからさっていった。その後姿をどっと笑い声が追った。戸田は勉の後姿を見送るさつきの幸せそうな視線を見た。
まだ、正式に親子の名乗りはしていないらしいが、いまのままで幸せなのならそれでもいいのさ、戸田は独り心のなかで思った。
「勉君もすっかり大人っぽくなりましたね。もう、立派な板前さんだ」
「なによ、まだまだですよ」
戸田の言葉に口では謙遜したが、さつきはこの上もない幸せを笑顔に見せた。
「そういえば村井さんも、バンマスの大任を立派につとめておられるんですってね」
「いえ、ぼくもまだまだ修業中の身の上です。とてもとても……」
「さつきさん、裁判はどうなりました?」
「戸田は責任の一半を感じながらたずねた。
「まだ、かかりそうなのよ……、研太さんのほうだって、あの若さで一生を車椅子という重度の障害を負われたんですあら、お気の毒とはおもっております。ですから、どういう判決が出ようと、償いはしたいと思っているんですよ」
「でも、セリを使うのはさつきさんばかりではないはずですし、それを使うことが危険なら、どうしてそんな危険なものを会館のなかに造ったかが問題になるんじゃありませんか。その使用にたいする安全を管理するのは劇場側の責任であって、セリの使用者であるさつきさんではありませんよ。ぼくはそう思うんですがね……」
村井は正義感に駆られて言った。
「あたしにも悪いところがあったのかもしれないし……」
「村井君、この話はこの場ではよそうよ。岩淵さんの明後日のコンサートの前祝なんだから……」
戸田は自分で言い出した不用意な発言を食いながら、村井をおしとどめた。
「そうだそうだ、今日はぼくの師匠の晴れの舞台の前祝いだった」
村井も聞き分けよく、この場の雰囲気にとけこんだ。
「そうだわよ、もっと陽気にやりましょうよ」
「テーブルの上に、源治が腕をふるった料理が大皿に盛りつけられて運ばれてきた。同じ刺身の盛り合わせでも、ちょっとした気配りと工夫で見違えるものになる。その色彩感の見事さに、一座は思わず目を見張った。
宝船に見立てた盛りつけはまさに芸術作品であった。それはまたコンサートを目前にひかえた前祝いの席への板前源治の無言の心づくしだったのかもしれない。
みなは「おおっ!」といって感嘆はしたものの、どこから箸をつけていいものかと戸惑っていた。さつきの顔が得意そうに輝く。
「さあ、どうぞどうぞ、どこからなりとご遠慮なく」
さつきは、そういい置いて席をはずしたが、やがてみなの賞賛を直接うけさせようと、しぶる板前源治をつれてもどってきた。
「みなさんは源治さんをご存じですよね、村井さんだけがはじめてなのね。あちらのお若い方が村井さんとおっしゃって岩淵さんの優秀なお弟子さん。いま、鼎知子さんのツアーのバンド・マスターをしていらっしゃるんですよ。明後日が岩淵さんのコンサートなので、みなさん、前祝いに、みなさんおいそがしいなかをいらしていただいたんです。光彩さんも共演なさるんですよ」
そういう方々に召し上がっていただけて、わたしもうれしゅうございます。では、ごゆっくりなさってください。
源治はひたすら朴訥にそういうと、すぐに板場にもどりそうにした。
そのとき、光彩が盃を差し出した。
「源治さん、そうかしこまらなくてもいいですよ。さあ、どうぞ一杯」
源治は神妙に両手で盃を受ける。ぐいと飲んで盃を杯洗につけ、首にかけた手拭の端でそっと拭いて盃を返した。光彩は盃を受け取り、源治の注ぐ酒を受ける。源治は背をかがめたまま引きさがった。そして、気のおけない者どうしの語らいは、さらになごやかに続いた。
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