第十章

     岩淵の机の上には編曲をおわった楽譜や、書きかけの五線紙が雑然と積み上げられていた。今度のレコーディングは最近の中高年層に起こってきた社交ダンス熱復活の兆しをいちはやくとらえて、それを当てこんだダンス・ミュージック・アルバムを出そうという話だった。
     プロデューサーの注文はグレン・ミラーからマント。バーニー、パーシー・フェースのスタイルまでもふくむ、ダンス・ミュージックのナツメロ盤を作ってほしいということだった。そのなかには当然、コンチネンタル・タンゴのなつかしの名曲もふくまれる。ついでに秋の岩淵のコンサートでもそれと同じレパートリーを演奏してくれればレコードの宣伝にもなるし、レコード会社のほうでも応援がしやすくなるというのがアップルリンク・レコードの目算でもあった。
     それにかんしては岩淵にも異存はなかった。どっちにしろ秋のコンサートの第一部と第二部のステージはこういったスタンドナンバーで組むつもりだったからだ。
     岩淵の力点はむしろ第三部の彼自身のオリジナル曲のほうにあった。彼はこれまでクラシック音楽から学んだこと、ジャズの世界で蓄積してきた自分の全財産をこの曲にぶっつけるつもりだった。
     岩淵は親友の伊木光彩との共演を何よりも楽しみにしていた。彼が自分に何をぶっつけてくるか、そして自分の挑戦をどう受け止めるかに期待していた。
     岩淵は最初の第一部と第二部はピアノを村井に弾かせようと思っていた。自分は指揮だけにしておく。第三部の『ファンタジア・コンツエルタンテ』ではじめてピアノを弾く。そして曲の後半部でのピアノと太棹との掛け合いをクライマックスにしようという構想がほぼ最終的に固まっていた。
     この部分は譜面には書いてない。ただ音符の記されていない五線紙があるだけだ。いや、もしかしたら図形を描くか、象形文字か楔形文字でも言い、もし、光彩のファンタジーを掻き立てるものであればなんでも……。岩淵は伊木光彩から何がでてくるか、それが楽しみだった。いつか、さつきが金縛りにあったと言った、あの太棹の音。実際、岩淵もあの音には身震いがしたのを思い出す。あの音だ。岩淵が『ファンタジア・コンツェルタンテ』の作曲を思い立ったとき、真っ先にイメージとして浮かんだの光彩の太棹の音だった。
     そのとき呼び鈴の音がして村井が入ってきた。
     「アップルリングとの打ち合わせはどうだった?」
     『藤崎プロデューサーのはなしでは、一日、六時間を三日で二十曲取りたいという希望です。ダメが出た場合に備えて一日予備日を取ってあるそうです」
     「そりゃ、きついスケジュールだな」
     「いま、大きいスタジオは予定がいっぱいなんだそうです。それでこれだけ抑えるのが精一杯だったと……」
     「まあ、プレーヤーは一流どこを集めてあるから、取り直しの心配は、それほどないと思うけどな」
     「パート譜のほうはもう一度チェックしておきますから、現場で直しがないように……」
     「ああ、それは頼む。ところで、昨日、戸田君がきたよ、覚えているだろう?」
     「戸田さんて、花園さつきさんのマネジャーだったあの戸田さんのことですか?」
     「いま原プロダクションに移っている――それで、君にいい話をもってきてくれたよ」
     村井は「え?」という顔で岩淵を見た。
     「あそこでは今度、鼎知子を売り出すことにしたらしい。九月にシングルを出して、そのあとキャンペーンのツアーに出るんだ。そのツアーのバンマスを君に頼みたいというんだよ。悪い話じゃないだろう」
    「でも、それだと十一月のコンサートとぶつかるんじゃありませんか? ぼくとしては岩淵さんの……」
     「この世界でこんなチャンスはそうあるもんじゃないんだぞ。君もそろそろ独立してもいいと思ってたとこなんだ。君がここまでやってきてくれたおかげで、おれはずいぶん助かった。その点は感謝している。しかし、それとこれとは別問題だ。
     「だって、ぼくは……」
    「なに言うんだ。いい話じゃないか、チャンスだよ」
     「ぼくはまだ岩淵さんのコンサートの準備をしなくてはならないし……」
     いや、おれのことだったら心配しなくていい。第一部と第二部は今度のレコーディングのものをそのまま使えるし、問題はおれの新曲だけだ。君だっていつまでもおれの助手というわけにもいかないし、それに、もう、君は一本立ちできる腕をもっているよ」
     「でも、ぼくはこんどの岩淵さんのコンサートだけはなんとしてもと思っていたんですけど……」
     村井は上京して岩淵のバンド・ボーイをしていたころは、岩淵を先生と呼んでいたが、岩淵はほかのバンドの連中をはばかってか、それをきらって「さん」で呼ばせていた。
     「それはもう言うなよ。で、これが戸田君の新しい事務所だ。すぐに連絡してやれよ、喜ぶぞ、ずいぶん急いでいるようだったから」
     岩淵は村井に自分の机の脇のサイドテーブルの上の電話を指した。村井はまだ踏ん切りがつかないような様子で、手にした名刺を見つめていた。
     そのとき岩淵は机に左のひじをつき、右手のこぶしで左の胸を押すような格好で体をかたくした。その様子をみて村井は声をかけた。
     「どうしたんです、どこか具合でもわるいんですか?」
     岩淵はしばらくして台風一過というようなホッとした様子で村井を見て微笑んだ。
     「たいしたことじゃない、このごろときどき胸が苦しくなるような気がするんだが、しばらくすると、おさまる。もう、大丈夫だ」
     「心配だな」
     「なあに、大丈夫」
     村井は電話を取るかわりに、岩淵の机の上の編曲のおわった楽譜を手に取った。こういったムード・ミュージックのアレンジのなかにも岩淵らしい手堅さと、創意工夫があちこちに見られて、村井はまだまだ「おれにはかなわないな」という思いを強くした。
     村井は電話を取った。そしてある電話番号をプッシュして、待った。
     「ああ、もしもし、『岩淵オフィス』の村井です。次の写譜、スコア出来ていますので取りにきていただけますか? 午前中はわたし、オフィスにいますから。はい、じゃあ、よろしく」
     「なんだ、戸田君のところじゃなかったのか?」
     「ええ、この件、少し考えさせてください。どうも、あまり……」
     「だけど、戸田君にとっては、引くに引かれぬ話らしいぞ。まあ、彼の顔を立ててやれよ……。それでおれとの縁が切れるわけじゃない。切れやしないさ。そうだろう?」
     岩淵は愛弟子のほうにじっと目を注ぎながら、そんな言葉で弟子をはげました。




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