第八章


   そのころ村井もいそがしい日々をおくっていた。岩淵の率いるシンフォニック・ジャズ・オーケストラは音楽マネジャー服部事務所の肝いりで、七月から八月にかけての暑い盛りに全国ツアーに出ることになっていた。岩淵はそのためにすべての曲に新しい編曲を用いることにして、いまそのアレンジにかかっている。
   A・B と二種類のプログラムを組むには最低でも三十曲は用意しておかなければならない。もう村井は写譜はしていなかったが、岩淵がラフに書いたスコアを写譜屋に渡すために完全な形に仕上げる仕事があった。
   それがおわると、秋の東京でのコンサートがある。岩淵はこのコンサートに自作の大曲を発表する計画を立てていた。『太棹とシンフォニック・ジャズ・オーケストラのためのファンタジア・コンツェルタンテ』だ。
   構想はすでに出来上がっていた。だが、一部まだ自分でも決めかねているところがあった。二楽章構成にするか、単一楽章にするかだ。そのへんがきまれば一気に書きあがるはずだ。いずれにしても二十分をこえる長さになる。
   そのほかにもレコーディングの仕事があり、小編成のバンドでのテレビやナイトクラブへの出演もあった。その合間にも村井と選曲や編曲の打ち合わせをする。岩淵はそろそろ村井にも編曲をさせようかと言う気になっていた。
   岩淵はあれ以来――村井が高校生のとき楽屋にもってきたピアノ・ソナタ以来――村井の曲を聞いていなかった。ただ、その後も村井がひそかに作曲の勉強をしていることはそれとなくわかっていた。それらしい曲の断片をなんとなくひいているようだった。
   しかし、いまの岩淵にはそれらのものに落ち着いて耳を貸すゆとりはなかった。いまの岩淵の頭のなかには、秋に発表する『ファンタジア・コンツェルタンテ』のことでいっぱいだったからだ。
   このようにして、岩淵も村井もいそがしい日々がつづいていた。

   かつてのさつきのマネジャーだった戸田は、その後、河原を譲り受けた大手の芸能プロダクションに自分がマネジャーとして身をおくことになった。ここには若いアイドル・タレントが多い。花園さつきといっても名前も知らない世代になっている。だが、うぬぼれだけは強く、さつきとは別の意味で世話がやけた。これらのアイドルたちはテレビへの出演回数が多ければ多いほど、人気ばかりか実力もあると勘違いしていた。それが自分の格付けの唯一の尺度だった。テレビのスタッフたちもそれと同一尺度でタレントたちを待遇した。戸田はいまさらながら花園さつきの歌と芸を評価せざるをえなかった。
   このプロダクションがテレビ業界にもつ影響力は大きかった。だから小さなプロダクションがどんなに優秀なタレントをもち込んでも、この大手プロダクションのジャリタレに出演のチャンスを奪われることがしばしばあった。それだけにどこのプロダクションも実力よりも見てくれのいい「即売れタレント」の発掘に躍起となっていた。十年以上も安定した人気と実力のあるタレントを育てるということは一種の賭けのようなものだったから、外れたときには元さえもとりもどせない。それよりは次々に新しいアイドルをつぎ込んで、飽きられれば捨てればいい。そんな使い捨てタレントを探したほうが地道に本物のタレントを育てるより安上がりなのだ。この世界も消費社会になっていた。
   戸田はこのプロダクションも、このままではいまの権勢をそれほど長くもち続けることはできないだろうという予感がしていた。それというのも、いま安定的な人気を誇っている実力派タレント層と、それに続くべきタレントとのあいだに実力的にも世代的にも大きなギャップがあることがわかっていたからだ。だから、いっそう、すぐにでも売れる、即売れのジャリタレ探しに狂奔する。
   その一方でプロダクションの上層部もそのことはうすうす感じはじめたようだった。そのギャップをうめる世代のタレントをよその中小プロダクションのなかに物色しはじめていた。いまなら原プロからの誘いとあれば、心のゆらぐタレントはすくなくないにちがいない。中小のプロダクション側もそうやすやすと引き抜かれてはかなわないから、そのへんのガードも堅くなって、既成のタレントを引き抜くと言うことも容易ではなくなっていた。あとは独立を支援するという餌だった。
   戸田はこういう策謀の世界にだんだんと不快感を覚えるようになっていた。戸田のような外様のマネジャーは陰に陽にタレントの発掘ないしは引き抜きをそそのかすような言辞を上層部から聞かされる。
   ある晩、憂鬱なきぶんで「花園」の暖簾をくぐった。
     入口をはいってまっすぐ通路があり、その左手にカウンター、右手には四人がけのテーブルセットが三組ほど置いてある。突き当りには障子が見える。その奥は座敷なのだろう。こじんまりとしたくつろぎを覚えさせる雰囲気だ。
   カウンターのなかで立ち働く地味な和服姿のさつきを見たとき、その身のこなしがすっかり小料理屋のおかみになりきっている変わりように、ああ、もうあれからずいぶんたつのだなあという感慨がわいてきた。
   新来の客のほうに顔を向けたさつきは、それが戸田であることをみとめると、これも懐かしそうに満面の笑みをうかべて呼びかけた。
   「まあ、戸田ちゃん、なつかしいわねえ」
「さつきさんも、すっかりおかみさんが身につきましたね。いい感じですよ」
「そうかしらね。あたしはすぐに順応するほうだから、自分がないのよ」
   これが昔のさつきだったら、戸田はこの言葉をいやみととっただろう。しかし、いまのさつきの口ぶりにはそんなニュアンスはまったく感じられなかった。
   戸田はカウンターの空いた椅子に腰をすえた。
「戸田ちゃん、ビール? お酒?」
「お酒をもらいましょうか」
「なによ、戸田ちゃん、あなたはもう、あたしのマネジャーじゃないのよ。あたしは水商売のおかみさん。もっと、気楽にして」
「勉くん、どうしてます、たしか、さつきさんが引き取ったんでしたね」
「そうなの。それでね、あたしもこんな水商売をはじめたし、勉は学校もろくに出ていないでしょう。あなたみたいに曲がりなりにも六大学ってわけじゃないもんですからね」
「なに言うんです、さつきさん。ぼくなんか大学でなに勉強してきたのかって、自分でもはじていますよ」
「そんなわけでね、ある人の口利きで、いま赤坂の『かしこ』に板前見習に出したところなんだけど、源治さんて、すごくうでのいい板さんに来てもらったんで、いっそ呼び戻して源治さんに仕込んでもらおうかと思っているところなのよ。源さんはね、ながいこと浜町の『よしとみ』の板長さんをしてた人なの」
「ああ、あの有名な……、名前だけは聞いたことあります。どうりで、この突き出しの煮っ転がしの味からして、おやっと思っていたとこですよ」
「あたしが、こんなに料理がうまかったのかな……でしょう。言わなくったってわかってるわよ」
   二人して笑ったが、いま話しているのが、かつてのさつきかと思うと、戸田はなんとも言いようのない切なさを感じた。まだ「戸田ちゃーん!」とわがままを言っていたころのさつきが懐かしく思いかえされる。
「でも、勉くんには気の毒なことをしましたね。会館側の口裏合わせのおかげで……」
「もう、いいのよ、それはそれで。あのきっかけがあったおかげで、あたしもこんな店をもつことができたんだし、自分の子供の面倒も見ることが……」
   さつきは戸田の不審そうな表情を見て口をつぐんだが、また言葉をつづけた。
「戸田ちゃんには、詳しい事情も言わずに戸籍を調べてもらったり、ご迷惑をかけたわね。もう、こうなったら言っちゃうけど、勉はあたしの子供だったことがわかったのよ。あの子がもっていた子供のころの写真がもとで……」
   戸田は黙ってさつきの顔を見つめ、さつきの話の続きを待っていた。さつきは勉が自分の子であることを知るにおよんだ経緯を語った。
「そうだったんですか、世間は狭いと言いますけど、やっぱりあるんですね、そんな不思議なことが……」
   「あたしが芸能界を引く決心ができたのも、そのせいといえば言えるわね」
「そうですか、そうだったんですか」
「だから、いまは芸能界にはきっぱり未練はない」
「ぼくも芸能界にはすっかりうんざりしていますよ。次元が低いんです」
「そういえば、ついこのまえも伊木光彩さんがみえたわ。あの若さでもうすっかり古武士の風格があるわよ」
「光彩さんはときどきみえるんですか?」
「ええ、よくみえるわよ。おうちが駒形のほうだから……。このまえも、どこかのステージの帰りだとかって」
「そうですか、光彩さんといえば、岩淵さんは?」
「岩ちゃんもたまに来てくれる。今年の秋に一大コンサートを開くらしいわよ。なんでも、岩ちゃんのオリジナル曲もまじえたプログラムだって」
「へえ、たのしみですね。ぼくもぜひ聞きたいな。それにしてもあの人はいまや引っ張り凧って感じですね。あっちでもこっちでも名前を耳にします」
「ああ、あなたもまだ芸能界だからね。その道の情報も早いんでしょう」
「でも、そのコンサートの話はさつきさんのほうが早かったようですよ、ぼくは初耳です」
「岩ちゃんのところの、ほら、バンド・ボーイをしてた……」
「村井君ですか?」
「そう、その村井君。もうすっかり岩ちゃんの右腕になっちゃって、なくてはならない存在になったみたいよ。ピアノも岩ちゃんのかわりがつとまるくらいうまくなったんですって」
「そういえば、村井君、うちのプロダクションでもちょっと注目しているみたいですよ。いつかうちの営業部長に聞かれたことがあります。岩ちゃんのところのバンド・ボーイで優秀なのがいるそうじゃないかって。岩ちゃんといえば、さつきさんとは切っても切れない何か深い縁があったんだって、この世界では有名ですから……。それにぼくは、もと、そのさつきさんのマネジャーだったわけですからね、何か知っているんじゃないかって……」
「なんにもなかったわよ。たかが演歌歌手とあんな才能のあるアーチストと……」
   そのとき、さつきの脳裏に、岩淵がバンドの指揮をする姿をかいまみたとき、そして、TV のディレクターに、あいつはおまえの手のとどくような玉じゃないと釘をさされたときのことが浮かんでいた。あのときの言葉が、さつきの行動のくびきとなっていたのだ。あの言葉さえ聞かなかったら……。
「でも、世間ではそうは見ていませんでしたよ。どっちかが、どっちかだって……」
「なあに、そのどっちかがどっちかだって……」
   そう言ってさつきはなんの屈託もなく笑った。戸田もこんなさつきの笑い声をきくのははじめtだった。戸田もひさしぶりに心から笑った。そして、いっそうさつきのマネジャー時代が懐かしく思い返された。
   そんな戸田にさつきはふと気にかかっていることを打ち明けたくなった。
「それはそうとね、二三日前に、もり研太さんのところから民事訴訟をおこされたのよ。損害賠償の……。いずれは来るとは思ってたけど」
「そうですか、ぼくも責任を痛感しています」
   そのとき、源治がさつきに言われてみつくろっていた料理の皿をもってきた。
「ああ、戸田ちゃん、紹介するわ、源治さん、こちらは以前わたしのマネジャーをしてくれてた戸田さん」
   源治は朴訥さまるだしにして、だまって頭をさげた。
   戸田はひさしぶりに気持ちよく酔った。ちょうど新しい客が入ってきたのを潮に戸田は腰をあげた。
「それじゃ、さつきさん、今日は来てよかった。楽しかった」
   そう言って、財布を出そうとする戸田の手をおさえて、さつきは言った。
「いいのよ、戸田ちゃん、今日はあたしのおごり」
   戸田は店の外に出た。いつの間にかこまかな雨が降りはじめていた。酔った頬に雨のこまかな粒が心地よかった。




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